「さて、佐倉くん。美味しいカレーを作る第一歩は何だと思う?」
神宮寺教授は、研究室のホワイトボードに無造作に馬名を書き殴りながら問いかけた。
「ええと……隠し味にチョコレートを入れる、とかですか?」
「不採用。正解は『傷んだ食材をゴミ箱に捨てること』よ」
彼女は赤いマーカーを手に取り、いくつかの名前に冷酷な×印をつけた。
「京都記念という極上の鍋を作るために、まずは明らかに鮮度の落ちた、あるいは最初から味が足りない馬たちを排除する。これが第一次選考――通称『断捨離の儀式』よ」
「教授、いきなり3頭も消しちゃうんですか? この『バビット』って馬、さっき『走る時報』って褒めてたじゃないですか」
佐倉が戸惑いながら画面を指差す。そこにはバビット、メイショウブレゲ、ファウストラーゼンの名があった。
「褒めたのは『役割』であって『馬券的価値』じゃないわ。佐倉くん、君は90歳の時計職人が作った時計を信頼しても、その職人と100メートル走で賭けをしたりはしないでしょ?」
「まあ……勝てる気がしませんね」
「バビットは現在9歳。逃げ馬にとって、9歳という年齢は残酷な賞味期限なの。去年の京都記念では4着に粘ったけれど、それは一年前の話。直近の成績を見て。二桁着順のオンパレード。京都の3コーナーの下り坂は、心臓破りの坂ならぬ『心肺機能の試験場』よ。今の彼に、G1級の若駒たちの追撃を凌ぐガソリンは残っていないわ」
神宮寺は次にメイショウブレゲの名前を叩いた。
「メイショウブレゲ、7歳。彼は長距離専門の職人だけど、最近の成績はまるで閉店間際のスーパーの棚。スカスカよ。オープンクラスのレースですら掲示板に載れない馬が、別定G2という『エリートの集い』で何ができるというの? 2200メートルという距離も、今の彼には中途短に速すぎて、置いてけぼりを食うのがオチね」
「なるほど……じゃあ、このファウストラーゼンは? 4歳だし、まだ若いじゃないですか。最新のアニメの主人公みたいに、ここから覚醒する展開とかは……」
「残念ながら、彼は『1話でピークを迎えた打ち切り漫画』の典型ね」
神宮寺は溜息をつき、肩をすくめた。
「3歳春の弥生賞を勝ったのが彼の全盛期。そこからの成績はダービー最下位、復帰戦のAJCCでも見せ場なし。これは『晩成型』じゃなくて、完全に『早熟の天才が古馬の壁にぶつかって粉砕された』パターンよ。しかも前走から中2週。疲れを癒やす暇もなく、自分より遥かに強い同世代のエリキングやエコロディノスと戦わされる……。これ、ブラック企業の新人研修より過酷だと思わない?」
「うっ、それは同情しちゃいますね……」
「競馬に同情は禁物。彼ら3頭を消すことで、私たちの視界はようやくクリアになった。ノイズが消えて、ようやく『本物』たちの顔が見えてきたわ」
神宮寺はマーカーを置くと、佐倉が淹れ直した二杯目のコーヒーを一口啜った。
「いい? 佐倉くん。分析とは『可能性を探すこと』ではなく、『不可能を証明すること』から始まるの。この3頭を消したことで、的中率は理論上、数パーセント跳ね上がったわ。次は、さらに狡猾な『中堅どころ』を仕留めにいくわよ」
「……教授、さっきの『魔法少女税理士』、第2話で主人公が確定申告に失敗して闇落ちしてましたよ」
「あら、それはチェック漏れね。データ修正しなきゃ」
神宮寺教授は不敵に笑い、次の分析シートを広げた。