春の陽光が中京競馬場の緑の芝を眩しく照らし出している。
風に乗って運ばれてくるのは、青々と茂った草の匂いと、
これから始まる戦いを前にした極度の緊張感が混ざり合った、
むせ返るような熱気だった。
スタンドから響く歓声は地鳴りのように腹の底を震わせる。
いよいよ、一分十九秒八の旋律が奏でられようとしていた。
ゲートの鉄扉が冷たい金属音を立てて開いた瞬間、
十四場の蹄が弾けるように芝を蹴り上げた。
乾いた土塊が宙を舞い、火薬が爆発したかのような衝撃が走る。
(最初の1ハロンは12.2。まずまずの立ち上がりだな)
と、冷静に周りを見渡そうとした馬たちの視界を、
一頭の暴れん坊が猛烈な勢いで横切っていった。
「猪突猛進!猪突猛進!!俺様が一番に決まってんだろが!」
2番、牡3。メイクワンズデイが鼻息を荒くして先頭に躍り出る。
蹄の音が不規則で、まるで山の中を駆け回る野生獣のようだ。
「チッ……。前を走るバカの尻が見えてるだけで反吐が出るぜ。どけよ」
10番、牡3。エイシンディードが血走った目で前の尻を睨みつける。
首筋に青筋を立て、噛みしめた歯からはギリギリと音が鳴っている。
「なんだとコラァ!俺様を抜けるもんなら抜いてみやがれ!」
メイクワンズデイが振り返りざまに、泥混じりの芝を蹴り飛ばす。
「上等だァ!その減らず口ごと、中京の坂でぶっ潰してやるよ!」
エイシンディードの額に怒りのマークが浮かび上がり、前傾姿勢が深まる。
「へっ!山の王の脚力、とくと味わえぇぇ!」
メイクワンズデイはさらにピッチを上げ、馬場をえぐるように加速した。
常軌を逸した加速。向正面に入った途端、息もつかせぬ激流が生み出される。
風が刃のように頬を切り裂き、後続の馬たちは思わず目を細めた。
「うむ!素晴らしい脚色だ!ダイヤモンドの名に恥じぬ輝きを見せよう!」
9番、牡3。ダイヤモンドノットが、爛々と輝く瞳で前を見据える。
彼の体からは、まるで炎のような圧倒的な熱気が立ち上っていた。
筋肉の隅々にまで酸素が行き渡るのを感じながら、
彼は前を行く二頭から少し離れた5番手の位置で、ピタリと折り合っている。
(一番人気という重圧、よもやよもやだ!もっと楽しむべきだったな!)
ダイヤモンドノットは口角を上げ、飛んでくる泥を胸で受け止めた。
「砂が目に入ったか!だが、それもまた修行!全集中で乗り越える!」
彼は瞬き一つせず、燃えるような眼差しで中京のカーブを見据えている。
その少し後ろ、中団の8番手付近では、全く別の意味で震える影があった。
「ひいぃ!怖い!馬群が迫ってくる!助けてじいちゃぁぁん!!」
7番、牡3。フクチャンショウが、白目を剥きながら悲鳴を上げている。
周囲の馬たちの熱気と蹄の音が、彼にとっては地獄の底からの怨嗟に聞こえるのだ。
「なんでみんな僕を蹴ろうとするのぉ!?痛いのは嫌なんだってば!」
隣を走る馬が少し近づいただけで、彼はビクッと肩をすくませて涙目になる。
「おい、そこの金髪。うるせェよ、少しは静かに走りやがれ!」
隣の馬が呆れたように鼻を鳴らすと、フクチャンショウはさらに縮み上がった。
「ごめんなさぁぁい!わざとじゃないんですぅ!僕なんかもうダメだぁ!」
レースは3コーナーへ差し掛かる。
ペースは11.2から11.5へと少し落ち着きを取り戻すが、
それは嵐の前の静けさに過ぎなかった。
先頭のメイクワンズデイは、相変わらず獣のような低い姿勢で突っ走る。
その後ろ2馬身の距離を、エイシンディードが殺気を放ちながら追走している。
(このまま逃げ切れると思うなよ……俺の風で切り裂いてやる)
エイシンディードは、自らの呼吸を深く、誠に鋭く整え始めた。
一方、後方15番手付近では、静かすぎる馬がただ一頭。
3番、牝3。トライアンフパスが、無表情のまま空間を見つめている。
風が彼女のたてがみを揺らすが、その瞳には何の感情も浮かんでいない。
(……全部、どうでもいい。ただ、追い抜くときだけは……温かい)
彼女は心の中で呟くと、見えない銅貨を空中に弾くような仕草をした。
(表が出た。……外へ行くね)
彼女の足運びが、音もなく外側の芝生へとスライドしていく。
4コーナーが迫る。中京特有の長く厳しい直線の入り口だ。
ここで、中団で泣き叫んでいたフクチャンショウの様子に異変が起きた。
恐怖が極限に達したのか、彼の目が白黒と反転し、首がカクンと落ちる。
「……シィィ(吸気)。」
突然、彼の口から極めて細く、鋭い呼気が漏れ出した。
足元の筋肉が異常なほどに収縮し、まるで雷を宿したかのように膨れ上がる。
(雷の呼吸、壱ノ型。……)
意識を失ったまま、フクチャンショウの馬体が外側のコースへと膨らみ、
先行集団を一気に飲み込もうと猛然とスパートを開始した。
「うむ!後方から凄まじい気迫が迫ってくるな!」
ダイヤモンドノットは、背後からのプレッシャーを肌で感じ取りながらも、
決してペースを乱すことなく、熱い吐息を一つ吐き出した。
「心を燃やせ!この中京の坂は、己を鍛え上げるための試練だ!」
彼は内ラチ沿いの絶好のポジションをキープしたまま、
全身の血を沸騰させるかのように、最終コーナーのカーブへと飛び込んでいく。
前には野生の王と傷だらけの闘志。
横には眠りながら雷を纏う臆病者。
そして己の心には、燃え盛る正義の炎。
熱狂と砂埃が渦巻く中京競馬場の4コーナー。
運命の長い直線勝負が、今まさに幕を開けようとしていた。