天皇賞(春)編
第2章:白鯨の霧と遠心力、$CEL_{phys}$が暴く第一コーナーの罠《デブ猫競馬》
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「……ということで、見事に生き残った四人の勇者たちです!」

神宮寺研究室のホワイトボードには、先ほどの「死に戻りシミュレーション(消去法)」をくぐり抜けた四頭の名前だけが、誇らしげに書き残されていた。

若葉は満足げに腕を組み、タブレットの画面とホワイトボードを交互に見比べた。
「エミリアたん級の絶対的ヒロイン……じゃなくて、G1級の怪物ばかりですね。でも教授、ここからどうやって本命を絞るんですか? スバル君みたいに『死に戻り』の回数制限ギリギリまで粘るんですか?」

神宮寺教授は、ホワイトボードの横に置かれた黒板の前に立ち、チョークを手に取った。カツン、と乾いた音が研究室に響く。

「若葉くん、君は先ほど『淀の3200メートルはルートを間違えたら即アウト』と言ったな。それは半分正解で、半分間違っている。淀における真の絶望は、ルートを間違えたこと自体に気づかせないまま、じわじわと『呪い』を蓄積させていくことにある」

「呪い、ですか?」

「そうだ。目には見えないが、確実に馬の肉体を蝕み、最終コーナーで一気に牙を剥く物理的な呪い。それを数値化したのが、私の提唱する仮説……コーナー負荷指数『CEL_phys』だ」

$CEL_{phys} = \int_{0}^{t} \left( \frac{m \cdot v(t)^2}{r(t)} \right) dt + \alpha$

「うわっ、出た! 教授の変態数式!」若葉が顔をしかめる。

「変態とは心外だな。極めて美しい、運命の計算式だよ。質量 $m$ を持ち、時々刻々と変化する速度 $v(t)$ と、淀のコース半径 $r(t)$ に支配された運動体。その軌道が描く向心力の総和こそが、この物理学的指数『CEL』の正体だ。馬という生き物は、第一コーナーの白鯨の霧の中で、自らの肉体を削りながらこの積分項を積み上げていく」

佐倉がモニターを見つめながら、静かに、どこか祈るような声で補足した。
「……僕らの歩みは、加速度を増す円運動の熱量として刻まれていく。その速度が、半径が、積み重なった時間の果てに一つの解を導き出すんですね」

「そうだ、佐倉くん。だが――」
カツン、と。教授はチョークの先で、数式の末尾にある『 $+\alpha$ 』を強く叩いた。

「どれほど計算を尽くし、過去のデータを積分しても、システムの均衡を最後に決定づけるのは、この末尾に置かれた定数『 $+\alpha$ 』だ。これは設計者である私ですら制御し得ない、初期衝動という名の定数。あるいは……最後には必ずこびりついて離れない、運命の不純物だ」

「運命の、不純物……」
若葉がゴクリと唾を飲んだ。「それって……スバル君が完璧な計画を立ててループに挑んでも、毎回どうしようもない『誰かの感情』とか『イレギュラー』が混ざってルートが分岐しちゃう、あの感じですか?」

「まさにその通りだ、若葉くん。アドマイヤテラが前走でレコードを出した『過剰な闘争心』。スティンガーグラスが淀のタイトなコーナーで感じる『未知への戸惑い』。そうした心の揺らぎや見えない疲労が、この『 $+\alpha$ 』に集約され、最終コーナーで一気に牙を剥く」

教授は薄く笑い、ホワイトボードの四頭のうち、一頭の名前に丸をつけた。
『アドマイヤテラ』

「では、この『消滅の霧』の概念を用いて、阪神大賞典をレコード勝ちしたアドマイヤテラを検証してみよう。佐倉くん、彼がレコードを出した時のデータを」

「はい。前走の阪神大賞典、アドマイヤテラはレーティング115を記録し、従来のタイムを大幅に更新する驚異的なレコードで勝利しました。後半の持続ラップは見事の一言です」

「だが、それが罠だ」
教授の冷徹な声が響く。

「レコードで走破したということは、道中全体の平均速度 $v$ が極めて高かったことを意味する。当然、コーナーリング時にも通常以上の速度で突入し、高い負荷に耐え続けていたはずだ。アドマイヤテラの肉体は、前走ですでに私の設定する『臨界負荷(Critical Load)』の閾値ギリギリまで酷使されている可能性が高い」

「えっ……でも、勝ったんだからスタミナは無限大なんじゃ?」と若葉。

「機械ならな。だが馬は生き物だ。レコード決着という名の『死闘』を演じた直後のレースで、再び淀の第一コーナーという負荷をかけられた時、目に見えないダメージが牙を剥く。スバルが死に戻りのストレスを抱え込みすぎて、ふとした瞬間に精神が崩壊しかけたのと同じだ。アドマイヤテラは、非常に危険な人気馬と言わざるを得ない」

「うわぁ……あの強かった前走が、逆にマイナスフラグになるなんて……」
若葉が震える声で呟く。

「では、もう一頭見てみよう。長距離の深淵から這い上がってきた伏兵、スティンガーグラスだ」
教授は二つ目の名前にチョークを向けた。

「佐倉くん、彼が勝ったダイヤモンドステークスの舞台、東京競馬場3400メートルのコース形態はどうなっている?」

「東京競馬場は、コーナーの半径 $r$ が非常に大きく、ゆったりとしたカーブを描いているのが特徴です。一方、京都競馬場はそれに比べるとコーナーがタイトです」

「まさにそこだ」
教授は黒板の数式の分母、半径を表す『$r(t)$』をトントンと叩いた。

「数式を見れば一目瞭然だろう。コーナー半径 $r$ が大きい東京では、分母が大きくなるため、結果として負荷 $CEL_{phys}$ は小さくなる。スティンガーグラスは東京の緩やかなカーブでスタミナを温存できたからこそ、あのパフォーマンスを発揮できた。しかし、京都のタイトなコーナーでは分母の $r$ が小さくなり、負荷は跳ね上がる。東京での実績をそのまま淀に当てはめるのは、あまりにも早計だ」

「なるほど……!」
佐倉が感心したようにノートにペンを走らせる。「長距離の実績があるからといって、コース形態による物理的な負荷の違いを無視してはいけない、ということですね」

「コース設定の罠……! まるで、同じ魔女教徒でも『怠惰』のペテルギウスと『強欲』のレグルスで、全く攻略法が違うみたいな話ですね!」
若葉のオタク特有の例えが、妙な説得力を持って研究室に響き渡った。

教授は黒板消しを手に取り、軽くチョークの粉を払った。
「前走のダメージという時限爆弾を抱えるアドマイヤテラ。そして、物理的差異という壁に直面するスティンガーグラス。この二頭は、$CEL_{phys}$ の観点から極めて厳しい戦いを強いられるだろう」

ホワイトボードに残されたのは、いよいよ二頭のみとなった。

クロワデュノール

ヘデントール

「残るは、絶対的強者のクロワデュノールと、昨年の覇者にしてループの経験者であるヘデントール……。次回は、この二頭の血統と臨界負荷の限界値について、さらに深くメスを入れていくぞ」

教授の底冷えのするような笑顔に、若葉と佐倉は静かに息を呑んだ。