天皇賞(春)編
第3章:王選の血脈、黒い北の星とループの覇者《デブ猫競馬》
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研究室の空気は、いよいよ核心へと近づく熱を帯びていた。
黒板に記された数式——$CEL_{phys}$の末尾にある『$+\alpha$』の文字が、まるで意思を持つ生き物のように、生き残った馬たちの運命を監視している。

「……結局、最後は『王様』を決める戦いになるんですね、教授」

若葉が、リゼロの最新ポスターを指差しながら言った。そこには、ルグニカ王国の王位を争う「王選」の候補者たちが、それぞれの信念を胸に立ち並んでいる。

「王選、か。確かに言い得て妙だ。天皇賞(春)という舞台は、単なる速さを競う場ではない。3200メートルという絶望の果てに、誰が真に『盾』を戴く資格があるのかを問う、もっとも厳格な王選の場だ」

佐倉がタブレットを操作し、一頭の血統図をモニターに大きく映し出した。
「まずは、クロワデュノール。父キタサンブラック。2000メートルの大阪杯を完勝し、中距離の王者としてここへ乗り込んできましたが……世間では『距離の壁』を危惧する声が絶えません」

「壁、か。だが私にはそうは見えない。血統とは、先祖たちが数えきれないほどの敗北と死を繰り返し、その果てに掴み取った成功の記録を積分した、壮大な『死に戻り』の記憶なんだ」

「死に戻りの、記憶……」若葉が呟く。

「そうだ。クロワデュノールの父、キタサンブラック自身が、かつてこのローテーションで春の盾を連覇した。その時、彼が淀の坂で見せたのは、中距離馬のスピードを極限まで持続させるという、従来の概念を破壊するような『初期衝動』だった。クロワデュノールの血管を流れるのは、単なる情報の羅列ではない。淀を制圧するための、最適化された『解』そのものなのだよ」

「それって……」若葉が目を輝かせる。
「リゼロで言えば、ラインハルトみたいな感じですか!? 生まれた時から『最強』の加護をいくつも持っていて、その存在自体が世界のルールを塗り替えちゃうような……」

「ラインハルトか。確かに、クロワデュノールが持つレーティング122という数値は、他の馬からすれば『物理法則の無視』に近い絶望だろうな。だが若葉くん。最強の騎士にすら、予測不能な『 $+\alpha$ 』は訪れる」

教授は再び眼鏡をかけ、視線をもう一頭の方へ向けた。昨年の覇者、ヘデントール

「もう一人の候補者だ。ヘデントールは、昨年のこの舞台ですでに『正解』に辿り着いている。いわば、3200メートルのループを一度完走し、春の盾という報酬を手にした経験者だ」

「スバル君だ……」
若葉が小さく声を漏らした。
「何度も傷ついて、絶望的な状況を乗り越えて、ようやくハッピーエンドを掴み取ったスバル君。ヘデントールも、骨折っていう大きな絶望(デス)を乗り越えて戻ってきたんですよね」

「その通りだ。だが、死に戻りには必ず代償が伴う」
佐倉が重苦しい表情でデータを補足する。
「ヘデントールは骨折明けの前走、京都記念で8着と大敗しました。昨年の覇者としての輝きは、まだ戻っていません。ファンの多くは、彼が『以前の彼』のままでいるのかどうかを疑っています」

「質量 $m$ は変わらずとも、経験という名の積分項が、時に重荷(ダメージ)として肉体に沈殿することがある」
教授は黒板の前に戻り、積分記号の横に小さく『 $T$ 』と書き加えた。

「ヘデントールにとっての『 $+\alpha$ 』は、昨年の勝利という成功体験がもたらす『プライド』か、それとも怪我への『恐怖』か。もし彼が、淀の第3コーナーで昨年の自分を追い越すことができなければ、その歩みは熱量を失い、冷たい統計の中に消えていくだろう」

研究室に、カチカチと時計の音だけが響く。

「スピードの権化として降臨した『騎士』クロワデュノールか。それとも、死の淵から這い上がり、再び頂点を狙う『経験者』ヘデントールか……」
佐倉が独り言のように呟いた。

「教授、結局……運命はどちらに微笑むんでしょうか?」
若葉の問いに、教授は答えなかった。代わりに、彼はモニターの電源を落とし、窓の外、西の空へと視線を投げた。

「若葉くん。明日の最終講義では、いよいよ結論を出そう。この二頭の激突によって生じる『運命の不純物』が、どちらを浄化し、どちらを飲み込むのか……。私たちの計算が、最後の『一秒』に追いつけるかどうか、試してみるとしよう」

「最終講義……。いよいよ本命が決まるんですね」
若葉は、手に持ったリゼロの文庫本をぎゅっと抱きしめた。その表紙には、どんな過酷な運命の中でも諦めない少年の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。