天皇賞(春)編
第4章:淀の第三コーナー、見えざる手と臨界負荷《デブ猫競馬》
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金曜日の夕暮れ時。
西日が差し込む神宮寺研究室は、まるで儀式を待つ神殿のような静寂に包まれていた。
ブラインドが下ろされ、薄暗い部屋の中でメインモニターだけが煌々と光を放っている。画面に映し出されているのは、京都競馬場の精緻な3Dコース図と、無数の計算式が走るシミュレーション画面だった。

「これより、最終シミュレーションを開始する」

神宮寺教授の声が、冷たいオペレーションルームの空気を震わせた。
若葉はタブレットを握りしめ、ごくりと息を呑む。佐倉もまた、緊張した面持ちで手元のコンソールに向かっていた。

「舞台は淀、3200メートル。生き残った『騎士』クロワデュノールと、『経験者』ヘデントール。この二頭の軌道を、\( CEL_{phys} \)(コーナー負荷指数)の積分項に代入していく。佐倉くん、ゲートを開けたまえ」

「はい。シミュレーション、スタート」

佐倉がエンターキーを叩いた瞬間、モニター上の無数の光点が動き出した。仮想の天皇賞(春)が、研究室の電子の海で幕を開けたのだ。

「向正面からのスタート。最初の第3コーナーから第4コーナーへ。各馬、ポジション取りのために初速 \( v(t) \) を上げます」
佐倉が実況のようにデータを読み上げる。

「ここが最初の『白鯨の霧』だ。クロワデュノールは中距離で培った圧倒的なスピードがある。彼にとって、序盤のポジション取りは造作もないことだ。しかし、その余りあるスピードゆえに、無意識のうちに想定以上の遠心力を受けてしまう。霧は痛みを与えず、ただ静かに彼の筋肉から酸素を奪っていくんだ」

「でも、クロワデュノールのステータスなら、その程度のデバフは弾き返せるんじゃ……?」若葉が祈るように言う。

「ああ、弾き返せるだろう。……第一周目ならばね」
教授の言葉には、不吉な予感が込められていた。

光点たちはスタンド前を通過し、いよいよ二周目へと突入する。長距離特有の息の詰まるような道中。ここで少しでも折り合いを欠けば、積分項は容赦なく加算されていく。

「1コーナーから2コーナー。ペースは平均よりやや遅め。ヘデントールは後方待機、クロワデュノールは好位をキープしています。両者とも、\( CEL_{phys} \) の数値は臨界負荷(クリティカル・ロード)の下で安定しています」

「嵐の前の静けさですね……。リゼロで言えば、村人たちと和やかに会話してる日常パートみたいな。でも、絶対にこの後とんでもない絶望が来るんでしょ……?」
若葉の言葉通り、光点たちは淀のコースの最深部、向正面の後半へと差し掛かった。

「来るぞ。淀の第三コーナー……通称『淀の坂』だ。高低差3.2メートル。ここを登り、そして下る。この過程で、馬の肉体にかかる負荷はこれまでの比ではない。若葉くん、君の好きなアニメの言葉を借りるなら、ここはまさに『見えざる手』が襲い掛かる場所だ」

「ペテルギウスの……!」

「そうだ。坂の頂上に向かって速度 \( v(t) \) が落ちようとするのを、騎手は必死になだめる。そして下り坂で一気に加速の波が押し寄める。この激しい加減速の波状攻撃が、馬の精神と肉体を不可視の力でねじ切ろうとするんだ」

モニター上のグラフが、突如として赤く点滅を始めた。

「クロワデュノールの \( CEL_{phys} \) が急上昇! 臨界負荷に到達しそうです!」
佐倉が叫ぶ。

「血が騒いでいるんだ。父キタサンブラックから受け継いだ闘争心、あるいは大阪杯を圧勝した王者のプライド。それが、この過酷な下り坂で彼に『行け』と命じている。だが、それは罠だ。ここで初期衝動(+α)を制御できなければ、最後の直線で脚が完全に止まる」

「死に戻り(ループ)の経験が足りないってことですか……! クロワデュノール、耐えて……!」
若葉が画面に向かって叫ぶ。

「一方、ヘデントールはどうだ、佐倉くん」

「ヘデントール……驚異的です! 淀の坂を前にしても、\( CEL_{phys} \) のグラフがほとんど波打っていません。極めてスムーズに、最小限のエネルギー消費で坂を下っています!」

「当然だ。彼は知っているのだからな。昨年の覇者である彼は、この『見えざる手』の躱し方を身体で記憶している。どこで息を入れ、どこで重力に身を任せるべきか。骨折という絶望を乗り越え、彼は再びこのルートに帰還した。その経験値の積分こそが、彼を守る最大の加護なのだ」

第四コーナーを回り、いよいよレースは最後の直線へと向かう。モニター上では、好位から抜け出そうとする強大な光点(クロワデュノール)と、後方から不気味なほどの静けさを保って進出を開始する光点(ヘデントール)が、ついに重なろうとしていた。

「絶対的な身体能力か、それとも死線を越えた経験か……。さあ、いよいよ最後の直線だ」

教授が右手を高く上げ、そして、エンターキーの上でピタリと止めた。

「……えっ?」
若葉が間の抜けた声を出す。

「今日の講義はここまでだ」
教授はそのままモニターの電源を切り、研究室はふたたび静寂と薄暗さに包まれた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ教授!! そこは『さあ、運命の結末だ!』ってポチッとするところじゃないですか!? アニメの最終回直前のAパートでCM行くみたいな焦らし方、やめてください!」

「慌てるな、若葉くん。システムの均衡を最後に決定づけるのは、あの計算式の末尾に置かれた定数『+α』だと言っただろう? どれほど精緻なシミュレーションを行っても、最後の数秒間、馬と騎手が何を思い、どれほどの熱量を爆発させるかは、神のみぞ知る領域だ。私の論理(ロジック)が導き出した『答え』はすでに出ている。だが、それを語るのは……全てが終わった後、答え合わせの最終講義で十分だろう」

そう言い残し、神宮寺教授は軽やかな足取りで研究室を後にした。残された若葉は、真っ暗になったモニターと手元のタブレットを交互に見つめ、大きなため息をついた。

「もう……! 教授のあの余裕、絶対『真ルート』の攻略法を見つけてる顔ですよ! 佐倉さん、どうします!?」
「僕は……教授のデータに従って、ある馬の単勝を買おうと思います。若葉さんは?」

「私は、運命を切り開く主人公を信じます! 日曜日、淀の直線で奇跡を見届けましょう!」