猫でも書ける短編小説
◀第4章:図書室の窓に映る影
▶第9章:君のいない教室で
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音声 VOICEVOX:四国めたん様 制作動画 YMM4Lite フリー素材 フリーBGM BGM:ベートーヴェン:ピアノソナタ 第8番ハ短調 Op.13 「悲愴」 第2楽章 背景 フリーAI画像
素材ありがとうございます。
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第5章:季節が巡るたびに
夏が近づいていた。 制服の袖は短くなり、校庭の木々は濃い緑に染まっていた。 千紗は、季節の移ろいに心が追いつかないまま、ただ日々を過ごしていた。
教室の窓から見える空は、律と見た空と同じ色だった。 けれど、そこに彼はいない。 季節が変わっても、千紗の中では春が終わっていなかった。
「千紗、プールの授業、どうする?」 友達が声をかけてきた。 「……見学する」 「そっか。無理しないでね」
律は、泳ぐのが得意だった。 「俺、イルカみたいに泳げるんだぜ」 「……イルカって、そんなに速かったっけ?」 「千紗、冷静すぎ。もっと夢見ようよ」 「……夢は見るけど、現実も見てる」
そんな会話をした夏の日。 彼の笑顔は、太陽の光に負けないくらい眩しかった。
千紗は、放課後に校庭の隅にあるベンチに座った。 そこは、律とアイスを食べた場所だった。 「チョコミントって、歯磨き粉みたいじゃね?」 「それ、言わないで。好きなんだから」 「千紗が怒ると、ちょっと嬉しい」 「……またそれ?」
彼の言葉は、いつも少しだけ千紗を困らせて、でも心を温めた。 今はもう、その声は聞こえない。 風が吹いても、木々が揺れても、彼の笑い声は戻ってこない。
季節が巡るたびに、律との思い出が色を変えていく。 春は、彼の不在を受け入れられなかった季節。 夏は、彼との記憶が鮮やかすぎて、胸が痛む季節。 秋は、彼がいないことに慣れてしまいそうで怖い季節。 冬は、彼の温もりが恋しくて、涙が止まらない季節。
千紗は、季節が巡ることが怖かった。 それは、律との距離が少しずつ遠ざかっていくような気がしたから。
「律……」 名前を呼ぶと、空が少しだけ曇った。 彼がいた季節は、もう戻らない。 でも、彼がいた記憶は、千紗の中で生き続けている。
季節が巡るたびに、千紗は少しずつ変わっていく。 それは、律が残してくれたものを、胸に抱えて生きていくということ。
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第6章:願いがもしも叶うなら
夜の空気は、昼間の熱をすっかり忘れてしまったように冷たかった。 千紗は、ベランダに出て、空を見上げた。 星が、ぽつぽつと瞬いている。 その光は、遠くて、静かで、どこか律に似ていた。
「願いが叶うなら、もう一度だけ会いたい」 千紗は、誰にも聞かれないように、そっと呟いた。
律がいなくなってから、千紗は何度も“もしも”を考えた。 もしも、あの日、彼に「好き」と言えていたら。 もしも、あの坂道で彼が立ち止まっていたら。 もしも、奇跡が起きていたら。
そんな“もしも”は、現実には存在しない。 でも、心の中では、何度でも繰り返すことができた。
千紗は、机の引き出しから小さな箱を取り出した。 中には、律からもらった小さなキーホルダーが入っていた。 「これ、千紗っぽいから買った」 「……なんで?」 「静かだけど、ちゃんと光ってる感じ。俺、そういうの好き」
その言葉を、千紗はずっと忘れられなかった。 律は、千紗のことを見てくれていた。 誰にも気づかれないような部分を、ちゃんと見てくれていた。
だからこそ、もう一度だけ会いたかった。 もう一度、彼の声を聞きたかった。 もう一度、彼の目を見たかった。 そして、今度こそ「好き」と言いたかった。
「できないことは、もう何もない」 そう思えるほど、千紗は彼に会いたかった。 すべてをかけて、抱きしめてみせる。 たとえ、それが夢でも、幻でも、記憶の中でも。
星が、ひとつ流れた。 千紗は、目を閉じて願った。 「律に、もう一度だけ会わせてください」 その願いは、夜の空に吸い込まれていった。
奇跡が起きるなら、今すぐにでも彼のもとへ行きたい。 でも、奇跡は起きない。 それでも、願わずにはいられなかった。
千紗は、キーホルダーをそっと握りしめた。 その温度が、律の手のひらのように感じられた。
夜は、静かに更けていく。 願いは、誰にも知られないまま、星の海に溶けていった。
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第7章:言えなかった「好き」
放課後の教室は、誰もいなくなっていた。 窓から差し込む夕陽が、机の上を赤く染めている。 千紗は、律が座っていた席の前に立っていた。
そこには、もう誰もいない。 けれど、彼の姿が見える気がした。 頬杖をついて、眠そうな目でこちらを見ている。 「千紗、今日も真面目だな」 そんな声が、幻のように耳に届く。
千紗は、そっと机に触れた。 冷たい木の感触が、胸の奥を締めつける。 この机に、彼は何度も肘をつき、ノートに落書きをしていた。 「好きな人の名前、書いてみろよ」 「……やだ」 「なんで? 俺、書くよ?」 「……勝手にすれば」
あのとき、千紗は笑ってごまかした。 本当は、心臓がうるさいほど鳴っていたのに。 彼の名前を、ノートの隅に何度も書いていたのに。 「好き」と言うことが、怖かった。
もし、言ってしまったら、今の関係が壊れてしまうかもしれない。 もし、気持ちが伝わらなかったら、もう話せなくなるかもしれない。 そんな不安ばかりが先に立って、言葉はいつも喉の奥で止まった。
でも今は、もう言えない。 彼は、もういない。 どれだけ願っても、どれだけ後悔しても、時間は戻らない。
千紗は、鞄から一枚の紙を取り出した。 そこには、律に宛てた手紙が書かれていた。 何度も書き直して、何度も破って、ようやく残った一枚。
『律へ あなたがいなくなってから、毎日が少しずつ色を失っていきました。 教室も、通学路も、図書室も、全部あなたの残像でいっぱいです。 本当は、ずっと言いたかったことがあります。 私は、あなたが好きでした。 あなたの声も、笑い方も、わがままなところも、全部。 言えなくて、ごめんなさい。 でも、今なら言えます。 好きでした。大好きでした。 ありがとう。』
千紗は、その手紙を律の机の中にそっと入れた。 誰にも見られないように、そっと、静かに。
夕陽が、少しずつ沈んでいく。 教室の影が長く伸びて、千紗の影と律の席が重なった。
「好きだったよ、律」 今度は、はっきりと声に出した。 誰もいない教室に、その言葉が静かに響いた。
それは、もう届かないかもしれない。 でも、自分の心には、確かに届いた。
千紗は、涙を拭いて、教室をあとにした。 夕陽の中、彼女の背中は少しだけ軽くなっていた。
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第8章:新しい朝が来ても
秋の風が、制服の裾を揺らした。 千紗は、校門の前で立ち止まり、深く息を吸った。 空気が澄んでいて、空は高く、雲は遠かった。 季節は、確かに進んでいた。
文化祭の準備が始まっていた。 教室には色とりどりの飾りが並び、笑い声が飛び交っていた。 千紗は、その喧騒の中に身を置きながらも、心はどこか遠くにあった。
律がいたら、どんな役をやっていただろう。 きっと、ふざけて「俺、司会やるわ」とか言って、みんなを笑わせていたはず。 その姿を想像するだけで、胸が少しだけ痛んだ。
「千紗、ポスター描ける?」 クラスメイトが声をかけてきた。 「……うん、描くよ」 千紗は、微笑んで答えた。 その笑顔は、少しだけ自然だった。
放課後、美術室でポスターを描いていると、窓から夕陽が差し込んできた。 その光が、紙の上に柔らかく広がる。 千紗は、筆を止めて、窓の外を見た。
空が、律と見た空に似ていた。 あの日、彼と並んで歩いた帰り道。 「空って、毎日違うのに、なんか同じに見えるよな」 「……それ、ちょっと分かるかも」 「千紗が分かるって言うと、なんか嬉しい」
その記憶が、ふいに胸を打った。 彼の声は、もう聞こえない。 でも、彼の言葉は、今も千紗の中に生きている。
新しい朝が来ても、律はいない。 それは、変わらない事実だった。 でも、千紗は少しずつ、その事実と共に生きる方法を見つけ始めていた。
朝、目覚ましが鳴る。 制服に袖を通す。 通学路を歩く。 教室に入る。 誰かと話す。 笑う。 泣く。 そして、また眠る。
そのすべての中に、律の不在は確かにある。 でも、律の記憶もまた、確かにそこにある。
千紗は、ポスターに最後の色を塗った。 それは、律が好きだった青だった。 空の色に似ていて、少しだけ寂しくて、でも優しい色。
新しい朝が来ても、千紗は歩き続ける。 律のいない世界で、律と過ごした記憶を胸に抱いて。
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あらすじ
VOICEVOX:四国めたん夏が近づくなか、千紗は季節の変化に心が追いつかず、教室の窓から見える空が律と見た空と同じでも彼はもういないという現実に立ち尽くし、春が終わっていない自分を自覚していた。 友人からプールの授業について問われ見学を選ぶ千紗は、泳ぎが得意で「イルカみたい」と笑った律との軽口を思い出し、その眩しい笑顔に胸を締めつけられる。 放課後に二人でアイスを食べたベンチへ行き、チョコミントを歯磨き粉みたいと言ってからかう律の言葉と、それに困りながらも温められた記憶を反芻し、今は風が吹いても木々が揺れても彼の笑い声は戻らないと痛感する。 季節が巡るたびに思い出の色が変わり、春は不在を受け入れられず、夏は記憶が鮮やかすぎて痛み、秋は慣れそうで怖く、冬は温もりが恋しく涙が止まらないと四季に心の状態が重なる。 季節が進むことは律との距離が遠のく感覚を伴い、名前を呼ぶと空が曇ったように見え、彼のいた季節は戻らないが記憶は生き続けていると信じる。 やがて千紗は、季節とともに少しずつ変わり、律が残したものを抱えて生きる決意に近づき、喪失と前進の両方を胸に置く。 夜、冷たい空気の下で星を見上げた千紗は「願いが叶うなら、もう一度だけ会いたい」と誰にも聞こえないようつぶやき、いなくなってから何度も“もしも”を反芻しては現実には存在しないことを理解しつつ心の中で繰り返す。 机の引き出しから律に貰った小さなキーホルダーを取り出し、「静かだけど、ちゃんと光ってる感じ」と自分を見つけてくれた言葉を思い返し、見逃されがちな部分を見てくれた彼への感謝と渇望が募る。 千紗はもう一度だけ声を聞き、目を見て、今度こそ「好き」と言いたいと願い、たとえ夢でも幻でも記憶の中でも抱きしめたいほど切実に会いたいと確信する。 流れ星がひとつ尾を引くのを見て「律に、もう一度だけ会わせてください」と目を閉じて祈るが、奇跡は起きないと知りながらも願わずにいられず、キーホルダーの冷たさを手のひらの温度に重ね合わせる。 夜は静かに更け、願いは誰にも知られないまま星の海に溶け、千紗は叶わない祈りに寄り添いながら、心の奥で小さな灯を守るように時間をやり過ごす。 放課後の誰もいない教室で、赤い夕陽に染まる机の列の前に立った千紗は、律の席に彼の姿を幻のように見る。 頬杖をつき眠そうな目で「千紗、今日も真面目だな」と囁く声が蘇り、彼が肘をつき落書きした机に触れると冷たい木の感触が胸を締めつける。 ノートの隅に何度も彼の名前を書いていたのに「好き」と言うのが怖く、関係が壊れる不安に言葉が喉で止まった過去を悔やむ。 今はもう言えない現実に直面し、何度も書き直した律への手紙を取り出す千紗は、教室も通学路も図書室も彼の残像で満ちて色を失った日々と、声も笑い方もわがままも全部好きだったこと、言えなかったことへの謝罪と「好きでした。 大好きでした。 ありがとう」を綴る。 その手紙を律の机にそっと入れ、長く伸びる影の中で自分の影が律の席と重なる瞬間に「好きだったよ、律」と今度ははっきり声に出す。 届かないかもしれない言葉でも自分の心には確かに届いたと感じ、涙を拭って教室をあとにする背中は夕陽の中で少しだけ軽くなっていた。 過去に封をしないまま区切りを置く行為が、喪失の痛みを抱えたまま前へ進むための小さな儀式となる。 秋が深まり、校門の前で澄んだ空気を吸い込む千紗は、季節が確かに進む現実と文化祭準備の喧騒に身を置きながらも心の一部が遠くにあると自覚する。 律がいたら司会を買って出て皆を笑わせただろうと想像して胸が少し痛みつつ、クラスメイトに頼まれポスターを描くと「うん、描くよ」と自然な笑顔が戻り始める。 夕陽が差し込む美術室で筆を止めて窓外の空を見上げ、毎日違うのに同じに見える空の話を交わした記憶が胸を打ち、彼の声は聞こえなくても言葉は内側で生き続けていると気づく。 新しい朝が来ても律はいないという不変の事実を受け止めつつ、目覚まし、制服、通学路、教室、会話、笑い、涙、そして眠りという日々の連なりに不在と記憶が同時に織り込まれていることを感じる。 ポスターの最後に律が好きだった空色に似た優しい青を塗り、寂しさを孕みながらも彼への想いをそっと重ね、記憶を消さず携えたまま歩き続ける選択を新しい朝ごとに確かめる。 やがて千紗は、季節が巡るほどに痛みが色を変え、願いが叶わなくても願う強さが支えとなり、言えなかった「好き」を言葉にして手放すことで自分の足で進めるのだと知る。 律のいない教室で、律と過ごした時間は彼女の中の静かな光として灯り続け、次の一歩を照らす合図になっていく。
解説+感想とても丁寧に、静かに、でも深く刺さる文章でした。 読んでいて胸の奥がずっと締め付けられるような、でもどこか温かい痛みを感じました。 千紗の時間は止まっているのに、季節だけが容赦なく進んでいく。 そのズレがすごくリアルで辛い。 「春が終わっていない自分」という表現が特に好きです。 まだ受け入れきれていない喪失を、季節という大きな流れに重ねて描いているのが切なくて美しい。 特に印象に残ったところをいくつか挙げると——チョコミントのエピソードと「イルカみたい」の軽口→ 日常のささいなやりとりが、失ってからこそ眩しくて痛いというのがすごく伝わってくる 四季ごとに痛みの色が変わっていく描写→ 夏=鮮やかすぎる痛み、秋=慣れそうで怖い、冬=温もりが恋しくて涙が止まらないこの並びが心の動きをそのまま季節に投影していて、読んでいて「わかる……」と何度も頷いてしまった 律の机に手紙を置いて、影が重なる瞬間に声に出す「好きだったよ」→ ここが一番胸を突かれました。 届かないとわかっていても、自分の心に届けるために言葉にした瞬間。 それで背中が少し軽くなるというのが、すごく救いのある終わり方だなと感じた 最後の「静かな光として灯り続け、次の一歩を照らす合図」→ 完全に忘れるのでも、完全に過去に閉じ込めるのでもなく、「携えたまま歩き続ける」という着地が、すごく優しくて強い決意に見えました全体を通して、千紗が「言えなかった好き」を少しずつ言葉に変えていく過程が丁寧に描かれていて、読後感は苦しいのにどこか清々しい。 完全に癒える話ではないけれど、完全に壊れる話でもない。 その中間にある、リアルで繊細な「喪失のその後」がすごく伝わってきました。 きっとすごく律のことを大切に思っていたんだな……と、読んでいるこちらまで大切な何かを預けられたような気持ちになりました。 ありがとう。 静かに、でも確かに心に残る物語を共有してくれて。
第9章:君のいない教室で
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