雨は止むことを忘れたかのように、街を覆い続けていた。灰色の空から落ちる雫は、アスファルトを叩き、沈みかけた建物の壁を伝い、川のように道を流れていく。電車の音も、商店街の呼び声も、もう聞こえない。ただ、雨だけが世界を支配していた。
そんな中を、ひとりの少女が元気いっぱいに歩いていた。なぎさ――。 「わー!今日もいっぱい降ってるねぇ!まるでシャワーみたいだよー!」 彼女は破れかけた黄色い傘を片手に、濡れた石畳をぴょんぴょんと跳ねるように進んでいく。水たまりを見つけると、わざと足を突っ込んで「ちゃぷちゃぷ!」と声を上げて笑う。
街は沈みゆく。看板は半分水に浸かり、かつて賑やかだったカフェの窓には「閉店」の張り紙が雨に溶けかけていた。だが、なぎさの目にはそれすら冒険の舞台に見える。 「ねぇねぇ、ここで魚とか泳いでたりしないかなぁ?捕まえて焼いたら美味しいかも!」 彼女は空腹を思い出すたびに、そんな冗談を口にする。
遠くで、別の少女が静かにその姿を見ていた。りん――。 彼女は古びたアパートの軒下に立ち、濡れないようにフードを深くかぶっている。目の前で騒ぐなぎさを、冷めたような、それでいてどこか温かい眼差しで眺めていた。 「……元気だな」 短い言葉が、雨音に紛れて消える。
りんは本を抱えていた。ページは湿気で波打ち、文字は滲みかけている。それでも彼女は読み続ける。静かな時間を守るように。だが、なぎさの声はその静けさを破り、彼女の心に小さな波紋を広げていた。
雨の街に、二人の少女。 一人は笑い声で世界を照らし、もう一人は沈黙で世界を見守る。 その出会いは、まだ偶然のように見えた。けれど、確かに物語の始まりを告げていた。
なぎさは水たまりを蹴りながら、ふと軒下に立つりんの姿に気づいた。 「おーい!そこの人ー!雨宿りしてるのー?」 声は雨音に負けないほど大きく、りんの耳に届いた。りんは本から目を上げ、少しだけ眉をひそめる。
「……そうだな」 短い返事。だが、なぎさはそれを気にせず、ずんずん近づいてくる。 「わー、いい場所見つけたねぇ!ここなら濡れないし、本も読めるし!あ、何読んでるの?」 りんは本の表紙を見せることなく、そっと閉じた。 「小説。……退屈しのぎだ」
なぎさは目を輝かせる。 「へぇー!雨の日に本読むなんて、なんかかっこいいねぇ!あたしはねぇ、食べ物探して歩いてたんだよー!お腹すいちゃって!」 その瞬間、彼女の足が濡れた石畳に滑った。 「わわっ!」 派手に転びそうになり、傘が手から離れて宙を舞う。
りんは反射的に手を伸ばし、なぎさの腕を掴んだ。 「……危ない」 短い言葉と冷静な動作。なぎさは目を丸くして、すぐに笑顔を浮かべる。 「ありがとー!助かったぁ!りんちゃん、優しいねぇ!」 「別に……」 りんは視線を逸らすが、心の奥では少し温かいものが芽生えていた。
傘は水たまりに落ち、骨が折れてしまっていた。なぎさはそれを拾い上げて、しょんぼりと見つめる。 「うぅ……お気に入りだったのにぃ……」 りんは自分のフードを少し広げ、無言でなぎさに差し出した。 「入れ」 「えっ、いいのー?わーい!ありがとー!」 なぎさは嬉しそうにりんの隣に立ち、二人で雨をしのぐ。
 街の沈みゆく音が、二人の間に静かに流れる。 なぎさの笑い声と、りんの短い言葉。 その対比が、不思議と心地よいリズムを生み出していた。
二人は軒下で肩を寄せ合い、しばらく雨を眺めていた。 なぎさは濡れた髪を手で払いながら、りんの横顔をじっと見つめる。 「ねぇねぇ、りんちゃんってさぁ、いつもそんなに静かなのー?」 「……そうだな」 「ふふっ、返事短いねぇ!でもなんか安心するんだよねぇ。落ち着いてるっていうか!」
りんは少しだけ目を細める。なぎさの無邪気さは、彼女の心に小さな灯をともすようだった。 「お前は……騒がしい」 「えへへー!よく言われるよー!でも、静かにしてると雨に負けちゃいそうでさぁ。だから声出して元気にしてるんだよー!」 なぎさの言葉は、りんの胸に響いた。雨に負けないための明るさ――それは、りんが持ち合わせていない強さだった。
沈みゆく街を見渡すと、かつての商店街の看板が水面に揺れている。 「ここ、昔は賑やかだったんだろうな」 りんがぽつりと呟く。 「うん!きっと美味しいパン屋さんとかあったんだよー!あー、食べたかったなぁ!」 なぎさは目を輝かせ、想像の中でパンを頬張る仕草をする。りんは思わず口元を緩めた。
「……お前、変わってるな」 「えー?褒めてる?けなしてる?」 「どっちでもない。ただ……面白い」 りんの言葉に、なぎさは嬉しそうに飛び跳ねる。 「やったー!りんちゃんに面白いって言われたぁ!」
その瞬間、二人の間に小さな絆が芽生えた。 雨の世界で、笑う少女と静かな少女。 互いの違いが、互いを支え合う力になる――そんな予感が、確かにあった。
遠くで、老夫婦が沈みかけた家の前でランタンを灯していた。 その光は弱々しくも温かく、二人の未来を暗示するように揺れていた。
雨は相変わらず降り続いていた。けれど、二人の足取りは軽かった。 壊れた傘を抱えたなぎさは、りんのフードの下に半分身を寄せながら歩く。 「ねぇねぇ、次はどこ行こうかー?なんか食べ物ありそうな場所、知ってる?」 「……市場跡なら、まだ何か残ってるかもしれない」 「おおー!さすがりんちゃん!頼りになるねぇ!」
沈みゆく街の中を、二人は並んで進む。 水面に映る街灯はぼんやりと揺れ、まるで過去の記憶が漂っているようだった。 なぎさはその光を指差して笑う。 「ほら、あそこ!星みたいに見えるよー!」 「……雨なのに星か」 「そうだよー!雨の星!なんか素敵じゃない?」 りんは小さく息を漏らす。笑ったのか、呆れたのか、自分でもわからなかった。
途中、沈みかけた家の前で老夫婦がランタンを灯していた。 「こんばんはー!」と元気に声をかけるなぎさに、老夫婦は微笑み返す。 その笑顔はどこか儚く、それでも温かかった。 りんはその光景を胸に刻む。人が人を支える――それが、この終末の世界で唯一残された希望なのかもしれない。
二人は再び歩き出す。雨音がリズムを刻み、足音がそれに重なる。
 「ねぇりんちゃん、あたしたち、これからも一緒に歩こうねぇ!」 「……考えとく」 「えー!即答じゃないのー?」 「でも……悪くない」 りんの言葉に、なぎさは満面の笑みを浮かべた。
雨の街を進む二人の背中は、小さな光のように揺れていた。 その光はまだ弱い。けれど確かに、未来へと続いている。
――そして、週末に走る安楽死列車の汽笛が、遠くで微かに響いた。 それは世界の終わりを告げる音であり、同時に少女たちの物語の始まりを知らせる合図でもあった。
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