「佐倉くん、競馬を『ギャンブル』だと思っているうちは、君の収支は永久にマイナス、あるいは私のコーヒー代に消える運命よ」
研究室の窓から差し込む冬の日差しを浴びながら、神宮寺教授は脚を組み替えた。白衣の裾がひらりと舞い、彼女の手元にあるタブレットには無数のグラフが躍っている。
「いや、教授。僕はただ、今週末の重賞で少しばかりの『夢』を見たいだけでして……。ほら、アメリカジョッキークラブカップ(AJCC)とプロキオンステークス、どっちが『当たる』か教えてくださいよ」
学生の佐倉は、必死に食い下がる。彼の手には、書き込みだらけの競馬新聞が握られていた。
神宮寺は、ふっと鼻で笑った。 「夢? 統計学の世界に夢なんてノイズは不要よ。あるのは『再現性』と『不確実性の排除』だけ。いい? 佐倉くん。分析家として断言するわ。今週末、データで勝負するなら圧倒的に『プロキオンステークス』一択ね」
「ええっ! でもAJCCの方が歴史もあるし、芝のレースの方が華やかじゃないですか」
(ああ、これだから素人は困るわ。華やかさで馬券が当たるなら、競馬場は今頃シャンデリアで埋め尽くされているはずよ。私が頭脳をフル回転させて導き出した『最適解』を、この思考停止した学生に噛み砕いて教えなきゃいけないなんて……。これも教育という名のボランティアね。さて、どう説明すれば彼の乏しい想像力に響くかしら)
神宮寺は、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「いい? 佐倉くん。まずAJCCが行われる中山競馬場の芝を見てごらんなさい。1月の開催最終盤。馬場はボコボコ、まるで戦場跡よ。そんな不安定な場所で、過去のタイムが何の役に立つと思う? 当日の風向きや、馬がたまたま踏んだ芝の穴ひとつで結果が変わる。それはもう『分析』ではなく『神頼み』なのよ。中山2200メートルなんていうトリッキーなコースは、騎手の駆け引きという名の『心理戦』が強すぎて、データの純度が落ちるの」
「なるほど……。じゃあ、ダートのプロキオンステークスは違うんですか?」
「ダート、つまり砂のコースはね、芝に比べて裏切らないわ。特に京都のダート1800メートルは、実力がタイムに正直に反映される、いわば『実験室』のような場所よ。今回、そこにはクラウンプライドやセラフィックコールといった、数値化しやすい一線級の馬が集まっている。実力馬が自分の力を出し切りやすいフェアな舞台……これこそが、データ分析という名のメスを入れるのに相応しい獲物なのよ」
神宮寺は立ち上がり、ホワイトボードに大きく『プロキオンS』と書き殴った。
「中山の泥沼で運試しをする暇があったら、京都の砂上で精密な計算式を組み立てるべきよ。いい、佐倉くん。私たちは『馬』を買うのではない。『期待値』という名の真理を買うの。というわけで、今週のターゲットはプロキオンステークスに決定。異論は認めないわ」
「わ、わかりました! 教授がそこまで言うなら、僕もプロキオンステークスに全力を注ぎます!」
(ふふ、素直なのは良いことだわ。でも、これからが本当の地獄……いえ、知的な探求の始まりよ。強豪馬が揃っているからこそ、そこに生まれる『歪み』を見つけ出す。それこそが、天才である私の仕事なんだから)
神宮寺は不敵な笑みを浮かべ、次のデータのページをめくった。
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