晴天に恵まれた京都競馬場。芝二千四百メートル。 これから始まるのは、単なる馬たちの競走ではない。 己の美学と、エゴと、勘違いが限界突破した者たちによる、「芝の上の異世界転生」である。
スタート地点。ゲートの中では、各馬が静かに、いや、うるさすぎるほどに自意識を爆発させていた。
(ああ、今日も京都の太陽が、僕の毛艶をスポットライトのように照らしている。 観客たちがため息をついているのが聞こえるよ。あまりの美しさに、心臓が止まってしまったのかな?) 6番ゲルチュタール牡4「はぁ~俺の走り方、美しすぎて自分で見惚れるわ~」
(うるせえな隣。俺は逃げる。逃げるんだ。 逃げた先にある、誰もいない、誰にも邪魔されないあの孤独で官能的な楽園へ!) 7番ファミリータイム牡5「逃げてる俺、最高にカッコええわ~ずっとこのままでいたい」
(何だかみんなピリピリしてんな。俺は今、ここに立っているだけで、脳内に幸福物質がドバドバ流れている。生きてるって、最高だ!) 9番リビアングラス牡6「俺が走っているだけでレースがハッピーになるわ」
ガシャン! ゲートが開いた。 一斉に飛び出す美少女……ではなく、ゴツい筋肉の塊たち。だが、その中身は完全に「なろう系」の主人公か、重度のナルシストである。
最初の二百メートル。ファミリータイムが宣言通り、爆走を開始した。 「あいつ、マジで逃げたぞ」という観客のツッコミを背中で受け流しながら、彼は悦びに震えていた。
(これだ! この視界! 目の前に誰もいない! 俺のプリケツを全員に拝ませてやる。この二ハロン目の十一秒二という加速を見ろ。これが俺の、逃げの序曲だ!) ファミリータイム「先頭以外興味ないねん、俺の逃げが全てや」
その直後を、鏡があればずっと見ていたいゲルチュタールが、優雅に追走する。
(ふん、泥臭く逃げるのはいいけど、俺の二番手というポジションが一番カメラ映えするんだ。 僕の魂よ、もっと僕の顔を左斜め四十五度から見せるように走れ。一番人気? 当然だろう、この美貌だぞ?) ゲルチュタール「このレース、俺の美貌が主役やんか、当然一着やろ」
さて、読者の皆さんはお気づきだろうか。この後の展開が、日本競馬史に残るレベルの「超絶スローペース」になることを。
一コーナーから二コーナーを抜け、向こう正面に入ったところで、時が止まった。 いや、馬たちが走るのをやめて、ジョギングを開始したのだ。
(………………暇だな。あれ? これ、レースだよね? 俺、今中団にいるんだけど、前の奴ら全然進まないじゃん。これなら、俺の診察も捗るってもんだわ。おい、周りの連中、ちょっと体調見せてみろ) 3番ドクタードリトル牡6「中団で診察中だわ、ここが俺のベスト診察室ね」
(おいおい、医者気取りの眼鏡……じゃなくて、ドクターさんよ。そんなのんびりしてていいのか? 俺は後ろでじっと耐えてるんだ。この『最後に一気にまくる』という美学。これこそが、不良馬、マイネルケレリウス様の生き様なんだよ!) 1番マイネルケレリウス牡6「後ろからいくぜ、これが俺の美学だよ、最高にシビれる」
レースは異常な事態に陥っていた。ラップタイムは十二秒七、十二秒八、十二秒五。 二千四百メートルの重賞レースで、馬たちが「あ、今日の夕飯なんだろうな」とか「最近毛の生え変わりが気になるわ」とか考えられるレベルの緩さである。
(最高だ……。このまったりとした時間。前を見れば逃げマニアとナルシスト。 後ろを見ればヤンキーと医者。その真ん中で、俺は世界で一番幸せな特等席に座っている。もはや優勝とかどうでもいい。この空気が美味しい!) リビアングラス「中団最高や! 俺の人生で一番ええ場所ここやで~」
(……ちょっと待て。俺、二番人気なんだよね? 一番人気のゲルチュタールはあんな前にいる。でもペースが遅すぎて、後ろの俺は前の馬のケツを眺めることしかできない。これ詰んでないか?) 11番シャイニングソード牡5「……(絶句)」
(ふふん、シャイニングソード君、君の焦る心音、診察完了だよ。 このペースで外を回したら、君のスタミナは無駄死にだ。僕のように、冷静に五着……じゃなくて完治を目指したまえ) ドクタードリトル「五着? いや、俺の治療は完璧に成功したわ」
(うるせえ! 治療とか完治とか、お前は何のフラグを立ててるんだ! 俺は、このスローペースの中でも、一番内側を走ってやる。距離ロスを最小限に抑える。それが、不良の節約術だ!) マイネルケレリウス「他の馬邪魔すぎる、俺の美学の道開けろよ」
三コーナー。ついに、平和な「ジョギング大会」は終わりを告げた。 逃げ狂いのファミリータイムが、ついに禁断のスイッチを押したのである。
残り八百メートル。ラップが十一秒九へと跳ね上がる。「ロングスパート」の開始だ。
(あああっ! きた! 追いかけてくる! 俺の孤独な楽園に、ナルシストの足音が聞こえる! だが、それがいい! 追いつかれる寸前のこのスリル! これこそ逃げのロマン!) ファミリータイム「追いつかれるとか、俺の逃げの世界が崩れるわ……」
(はっ、相変わらず騒がしい逃げ馬だ。だが、その騒音すら俺の引き立て役だ。 見てろ、これから俺が究極の加速を見せる。俺の美しさを爆発させろ!) ゲルチュタール「みんな俺の後ろでええねん、俺の輝きに浴びてな」
四コーナー。馬群は大きく横に広がった。 いや、正確には「外を回した奴らが絶望した」瞬間だ。スローペースで体力が余りまくっている前方の三頭に対し、後方から追い抜くには時速百キロくらいのスピードが必要だった。
(なっ……! 前が止まらない! 俺の上がりの脚は三十三秒四だぞ!? なのに、なんで前の連中との距離が一ミリも縮まらないんだ!? これはバグだ! 運営、修正しろ!) シャイニングソード(絶望の爆走中)
(俺、サブマリーナも、ここで外に出すしかない。 だが、前が……前がキラキラしすぎて眩しい!) 10番サブマリーナ牡5(追い上げるも九着の予感)
そして運命の直線。京都の長い直線が、劇場の舞台へと変わる。
(ラスト四百メートル! タイムは十一秒二! 短距離戦かよ! ってツッコミが聞こえるね! でも、逃げてる俺が一番速いんだよ! もっと追え! 俺の逃げを、伝説の絵画にしてくれ!) ファミリータイム「逃げてる俺、最高にカッコええわ~!」
(くどい! そのセリフはもう聞いた! 俺のターンだ! 見ろ、このプロポーション! 五百三十キロの巨体が、沈み込むように加速する! 鏡だ! ゴール板に鏡を置け! 俺の勝利の瞬間を、俺自身に見せろ!) ゲルチュタール「勝った瞬間、鏡欲しいわ…俺の優勝顔見たいねん」
内側からはマイネルケレリウスが、最短距離という名のド根性で突っ込んでくる。
(美学! 美学! 美学! 内を突く俺、渋すぎる! 誰も俺を見ちゃいねえが、この三十三秒七の末脚、後でビデオで見返して震えろ!) マイネルケレリウス「四着? 美学的に大勝利だよ、完璧すぎる」
その横では、リビアングラスが満面の笑みで走っている。
(あははは! 三着だ! 優勝争いからはちょっと遅れたけど、俺、今めちゃくちゃテレビに映ってるよね!? この一馬身半の差が、俺の心の余裕なんだ!) リビアングラス「三着? いや優勝よりええわ、俺の勝ちやんか」
さらにその横。ドクタードリトルが冷静に分析を続けていた。
(ふむ、前方二頭の心拍数は安定している。私の五着という診断も、ほぼ確定だ。 患者たちは皆、全力を出し切って満足そうだね。私の診察代、後で本賞金から引いておくよ) ドクタードリトル「上り三十四秒三ね、俺の診断が完璧すぎる証拠」
だが、本当の戦いは、先頭の二頭に絞られていた。
ファミリータイムが内側で粘る。「逃げマニア」の意地が、その脚を動かしている。 一度はゲルチュタールに並ばれ、かわされたかに見えた。だが、彼はそこから差し返そうとした。
(終わらせない! 俺の逃げの余韻を! クビ差……クビ差で負けるのが、一番ドラマチックなんだよ!) ファミリータイム「クビ差負けとか、俺の逃げ芸術をわかってへん」
(甘いな。ドラマを作るのは俺だ。俺の美しさが、君の狂気を上回ったんだ。 ラスト百メートル。俺の首が、君の鼻面を捉えた。さあ、観客よ、僕を称えろ。 僕という完璧な存在を、歴史に刻め!) ゲルチュタール「はぁ~俺の走り方、美しすぎて自分で見惚れるわ~」
ゴール!!
一着、ゲルチュタール。 二着、ファミリータイム。 その差、クビ。
結果を見れば、四コーナーの通過順位「二番手」と「一番手」が入れ替わっただけ。 まさに、先行馬による「完全なる接待レース」である。
掲示板には、レース後の各馬の「脳内反省会」が書き込まれていた。
(ああ……終わってしまった。でも、表彰式がある。俺の輝きを、もっと大勢の奴らに見せつけるチャンスだ。 俺に一番高いワックスを塗ってくれ。俺の肌は、常に反射率百パーセントでなければならないんだ) ゲルチュタール(優勝・美貌ランクSS)
(クビ差か……。でも、十一番人気の俺が、ここまで世界を熱狂させた。 俺の逃げは、もう一つの『なろう系』伝説になったんだ。次は、もっと誰もいない異世界の果てまで逃げてやるぜ) ファミリータイム(二着・逃げ芸術点満点)
(いやー、楽しかった! みんながハァハァ言ってる横で、俺はまだスキップできそうだよ。 三着の賞金で、美味しいニンジン山ほど買ってやるんだ!) リビアングラス(三着・幸福度世界一)
(美学的には俺の勝ちだな。内を突いて、上がり二位の脚。 誰も褒めてくれねえから、自分で自分のケツを叩いてやるぜ。『よくやった、俺。お前が一番硬派だ』ってな) マイネルケレリウス(四着・アウトロー美学厨)
(診察完了。五着。私の予言通り、いや、診断通りだ。 レース後のケアが必要な奴は私の診療所に来るがいい。初診料は、一着賞金の半分でいいよ) ドクタードリトル(五着・自称名医)
(…………。俺、もう一回走っていい? 次はちゃんと、俺が動き出してからゲート開けてくんない?) シャイニングソード(八着・二番人気の悲劇)
京都の風は、優しく吹き抜けていく。美しすぎる勝者と、逃げ切ることに命をかけた敗者。 そして、自分が一番幸せだと信じる楽天家。
この日経新春杯は、「馬が人間に合わせて走っている」のではなく、「馬のエゴに人間が振り回されている」ことを証明した、稀有な一戦であった。
レース後のインタビューで、ゲルチュタールの目は、記者ではなく、テレビカメラに映る自分の顔をじっと見つめていたという。
(俺、やっぱりどの角度から見ても、完璧やわ……)
その独り言が、風に乗ってスタンドの隅々まで届いたとか、届かなかったとか。
「完」
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