その朝、エルフェリア公爵家の厨房は、かつて前世で世界を滅ぼしかけた「原初の悪魔」の呻き声で満たされていた。
 「……算術的な死まで、あと三秒。御意(ぎょい)」
銀髪を完璧にオールバックに整えた執事、アグレアスは、目の前のオーブンを見つめて戦慄していた。 彼が焼こうとしていたのは、単なるパンではない。それは、主であるルイ・アーデルが「時の継承者」として覚醒するたびに失っていく、人間としての「塩味(記憶)」を繋ぎ止めるための、世界の理を捏ね上げた聖遺物だった。
だが、オーブンの隙間から漏れ出してきたのは、芳醇な小麦の香りではなかった。 それは、鼻腔を刺すような、あまりにも強烈で、吐き気を催すほどに甘すぎるバニラの香気。
――ドォォォォン!!
漆黒の爆炎が厨房を飲み込んだ。 しかし、それは物理的な破壊ではなかった。空間が「畳まれた」かのようにぐにゃりと歪み、世界の境界線に、目に見えない巨大な「ヒビ」が入った音だった。
「くっ……! 次元定数の書き換えに失敗したか……!」
煤まみれになった燕尾服を、アグレアスは一瞬の魔力行使で「最適化(洗浄)」する。顔は優雅な微笑を貼り付けているが、その内側では胃壁がコンマ一ミリ単位で消失していた。 今の爆発で、世界を保護するファイアウォールが破損した。そこから漏れ出した「未精製の魔力」は、いずれバグ(魔物)となって現れるだろう。
(お嬢様に知られれば、私の首が飛ぶだけでは済まない。……いや、お嬢様はルイ様の安眠を妨げるこの世界そのものを『削除(デリート)』しかねない!)
アグレアスは震える手で懐中時計を確認した。 今日は、ルイ様の魔法学園入学試験の日。 「宿屋の息子」として平穏に皿を洗いたいと願う主人のために、このバグを隠し通し、彼を「無能」のまま入学させなければならない。
王都の中央、白亜の塔。 アグレアスは、セリナの影として試験会場の隅に佇んでいた。 視線の先には、サイズの合っていない制服を着て、今にも逃げ出しそうな顔をしている少年――ルイ・アーデルがいる。
(……ルイ様。なんと、なんと高潔な隠蔽(コスプレ)をなさっておられるのだ)
ルイは「帰りてぇ……」と呟きながら、死んだ魚のような目(デッドパン)で地面を見つめている。 周囲の受験生は彼を「最弱の無能」と笑っているが、アグレアスには分かっていた。 あの瞳は、ただ眠いのではない。 「お前の失敗は、すべて算術的に特定済みだ」と、無言でアグレアスを裁いている神の眼光なのだ。
その時、ルイがふと、アグレアスの方を向いた。 隈の浮いた、どんよりとした瞳が、アグレアスの深紅の瞳と交差する。
「ひっ……!」
アグレアスは、心臓の鼓動が「生存不可能な周波数」まで跳ね上がるのを感じた。 ルイは鼻をくんくんとさせ、微かに眉をひそめた。
「……なんか、焦げた砂糖の匂いがするな。宿屋のパン、焼きすぎたかな」
ルイの何気ない独り言。 だが、アグレアスにとっては、それは死刑宣告にも等しい指摘だった。 「お前、さっきパンの爆発(世界の破損)を起こしただろう」という、究極のデバッグ(詰問)!
「……御意(ぎょい)。ルイ様。……誠に、申し訳ございません」
アグレアスは、誰にも聞こえない声で、深々と首を垂れた。 冷や汗が床に落ちる前に、魔力で蒸発させる。
ルイが測定器の前に立つ。 針が狂ったように振れ、そしてアグレアスが裏で必死に当てた修正パッチの通りに「0.2」という数字を吐き出した。
会場に爆笑が沸き起こる。 だが、アグレアスの視線の端には、琥珀色の瞳をした侍女――ロゼッタが、冷徹に手帳(リスト)をめくる姿があった。
(……やばい。ロゼッタ殿が、ルイ様を笑った者たちだけでなく、パッチを当てた私の魔力残滓まで記録しようとしている。……算術的な生存確率は、現在……0.003%!)
アグレアスは優雅に会釈しながら、心の中で絶叫した。 こうして、最強の怪物による、胃の焼けるような「嘘の日常」のデバッグ作業が始まったのである。
> 【アグレアスの執事日誌】 > 本日の収支報告。 > 破壊した世界の境界線:一箇所。 > ルイ様にバレた回数:一回(あの瞳はすべてを知っている)。 > 私の胃壁の残存量:前日比マイナス20%。 > ……カイ殿。至急、物干し竿(グングニル)を持って北塔へ来い。 > このままだと、お嬢様が「世界を畳む」前に、私が精神的に蒸発する。
第1章 完
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