王都冒険者ギルド『白亜の天秤亭』。
その重厚なオーク材の扉を開けた瞬間、僕の嗅覚は敗北を悟った。
(……最悪だ。ここ数日、バニラとチョコの甘すぎる匂いで鼻がバグっていたせいか、男たちの汗と鉄、そして安酒の混ざり合った『しょっぱい空気』が、肺に突き刺さるように痛い。前世の体育祭の部室……いや、それ以上に生々しい現実の匂いだ)
僕はフードを深く被り直し、視線を床に落とす。
この人口密度、この熱気。
自意識過剰な僕にとって、ここは魔王城よりも攻略難易度が高い「視線の暴力」の掃き溜めだ。
だが、僕がどれほど気配を消そうとも、背後に張り付いた「銀色の破壊神」がそれを許さなかった。
扉が開いた瞬間、ギルド内の喧騒が、まるで魔法で時を止められたかのように一瞬で静まり返る。
同時に、むさ苦しい空間に、不釣り合いなほど暴力的なバニラの香りがふわりと広がった。
「……おい、なんだ? 急にすげぇ甘い匂いがしねぇか?」
「ああ、高級なお菓子みたいな……」
冒険者たちがざわめき始める中、その元凶は僕の肩にちょこんと顎を乗せ、被ったフードをちょんちょんと指で弄りながら無邪気に笑っていた。
「ん〜、ル〜イあったかい。ここ、お肉の匂いもするけど、なんだか落ち着くね〜」
「(……バカか。頼むから大人しくしてくれ。お前が『美味しそう』と願った瞬間、このギルドの業務が物理的に麻痺するんだからな)」
セリナは、僕の腕を両手でぎゅっと抱きしめるという「距離感のバグ」を発動させながら、僕の耳元で甘い吐息を漏らしている。
(……死ぬ。この人口密度でその密着度は、もはや公然わいせつの範疇だろ。腕に伝わるその……柔らかさと体温は、僕の理性を試しているのか? フードを被っていてよかった。顔が真っ赤なのがバレたら、僕は今すぐ爆散して輪廻の彼方に消え去りたい)
 『《警告》。対象「セリナ」の密着行動による、ルイ様の自律神経への過負荷(オーバーロード)を検知。……これ以上の心拍数上昇は、あなたの脳神経と精神衛生に重大なダメージを与えます。保護措置として、強制冷却プログラムによる対象の物理的引き剥がしを推奨します』
脳内でシエルの、あくまで「システムとしての正論」を装った、しかし明確な独占欲を含んだ声が響く。
(……余計なことをするな。僕は冷静だ。これはただの、不可抗力による生理現象だ。……クソ、強制冷却はやめろ、寒気がする!)
僕はシエルの論理的な介入を拒絶し、セリナを引きずるようにして受付カウンターへ向かった。
カウンターの向こう側では、いかにも「異世界の受付嬢」といった風情の女性が、僕たちを見て呆然と立ち尽くしていた。
正確には、僕の隣で「えへへ」と笑うセリナの圧倒的な美貌に、完全に魂を抜かれていた。
「あ、あの……新規、登録を……」
僕がおずおずと声をかけると、受付嬢はようやく我に返り、プロとしての微笑を無理やり浮かべた。
だが、その引き攣った瞳と視線の動きは、彼女の強烈な葛藤を雄弁に物語っていた。
「は、はい。新規登録ですね。……お名前と、希望する、職種を……」
(……なんでこんな絶世の美少女が、あんな陰気なフード男にべったりなの……? 奴隷? 弱みでも握られてるの? いや、考えるな私。ギルド受付嬢の鉄則、深入り厳禁よ!)
(……ほら、思った通りだ。僕の存在は彼女の美しさを際立たせるための『無能な影』として完璧に機能している。シエル、偽造データの準備はいいか?)
『《解》。完璧です。ルイ様。……あなたの脳への負担を最小化するため、私が最も「効率的な過去」を構築しました。さあ、私にあなたの処理を預けてください』
シエルの声に宿る、保護を名目にした粘着質な熱。
僕は一瞬だけ背筋を凍らせながら、差し出された羊皮紙にペンを走らせ始めた。
カリ、カリとペン先が紙を滑る音が、妙に機械的に聞こえた。
その手つきは、自分でも驚くほど迷いがなく、冷徹なまでに精密だった。
「……はい、確認しました。ルイ様は封印師、セリナ様は……ええと、本当にパン職人でよろしいのですね?」
受付嬢が、疑念を隠しきれない顔でセリナを見た。
この美貌、この気品。どう見ても王族の隠し子か、最高位の聖女にしか見えない少女が「パン職人見習い」を自称しているのだ。
するとセリナは、僕の腕にぎゅっと胸を押し当てたまま(……やめろ、その弾力は僕の演算能力を奪うから!)、花の咲くような笑顔で言い放った。
「はい! パン、大好きなんです。焼きたてのふわふわを、ルイと一緒にいっぱい食べたくて。それに……ルイの隣がいちばん落ち着くの」
 「(……っ。その直球、破壊力が物理法則を無視してるだろ。というか、その台詞は僕を『落ち着かせる』ためじゃなく、『爆散させる』ための呪文か何かか?)」
受付嬢が「あらあら、愛の力ね……」と勝手に納得して溜息を吐くと、カウンターの下から鈍く光る水晶球――『真実の鑑定器』を取り出した。
ギルド登録の最終工程。偽りなきステータスを公的記録として刻む儀式だ。
『《告知》。鑑定器との魔力接続を確認。ルイ様、あなたの脆弱な「本物の履歴」を、私が構築した「完全な偽造データ(最適解)」で保護します』
脳内でシエルが、ひどく理路整然とした声で囁く。
僕が水晶球に手を触れた瞬間、視界の端で青白いコードが滝のように流れ落ちた。
彼女の演算が走るたび、僕の記憶の輪郭が砂のようにさらさらと崩れていく。
阿佐ヶ谷の商店街。
セリナと笑い合った放課後の陽光。
それらが一つ一つ、シエルの冷徹な演算によって、「王都近郊の村出身の三流封印師」という無機質なデータへと書き換えられていく。
 本来なら感じるはずのアイデンティティの喪失感。
けれど、今の僕にはそれを拒む回路すら残っていない。
(……いや、これでいいんだ。これが一番『安全』で『効率的』なんだから)
シエルの用意した「正解」が、僕の空洞にぴたりとはまり込む感覚。
それに抗いがたい安堵を覚えている自分に気づき、僕は小さく息を吐いた。
「わぁ、ルイのステータス、本当に普通だね! 良かった、これで一緒に働けるね!」
覗き込んできたセリナから、強烈なバニラの香りが立ち上る。
彼女が僕の肩越しに身を乗り出した瞬間、豊かな曲線の重みが背中に伝わり、僕の思考は再びオーバーロードを起こした。
『《警告》。対象の接触による認識のブレに注意してください。……ルイ様。あなたの真実を、その「原本」を最も安全に管理し、最適化できるのは、この世界で私だけなのですから。決してエラー(感情)に惑わされないでください』
シエルの声が、耳鳴りのように鋭く響く。
水晶球には、完璧に偽装された「ルイ・アデル」の情報が表示されていた。
「……はい、問題ありませんね。それでは次に、技能試験に移ります。ルイ様、ギルド裏の訓練場へ」
受付嬢は僕を「美少女の平凡な付き添い」と完全に認識したようだ。
僕は立ち上がり、迷いのない足取りで歩き出す。
その歩幅、重心の移動、視線の動かし方。
すべてが「ルイ」という個人の癖を捨て、シエルの指定した「最適解」へと、静かにズレ始めていた。
ギルド裏の訓練場。
土と魔物の血の匂いが染み付いた無骨な空間の真ん中に、赤黒く脈打つ肉塊のようなものが鎮座していた。
「Bランク指定『泥塊(でいくれ)の呪核』だ。中堅の封印師が三人掛かりで半日かけて浄化する代物だ」
顔に古い傷のあるベテラン試験官が、値踏みするような視線で僕を見る。
「少しでも瘴気を抑え込めれば合格にしてやる。だが、素人が下手に触れば呪詛で腕が腐り落ちるぞ。泣いて帰るなら――」
その言葉が終わる前に、僕は無言で一歩踏み出し、呪核へと右手を翳した。
瞬間、泥塊から噴出した紫色の瘴気が、防衛本能のように逆流し、僕の右腕に絡みつく。
袖口が焼け焦げ、皮膚がどす黒く侵食されかける鈍い痛みが走る。
――しかし、僕の顔の筋肉は1ミリも動かなかった。
(……痛覚の遮断。魔力経路の再構築。右足をあと3センチ前に。手首の角度を15度下げろ)
恐怖も、焦りも、詠唱すらない。
シエルと同化しつつある身体が、呼吸をするように「最短経路」を自動的に選択していく。
僕は瞬きすらしないまま、虚空に指を滑らせた。
それは、人間的な「躊躇い」や「力み」が完全に欠落した、恐ろしいほど精密な『機械の挙動』だった。
 「――は?」
試験官の間の抜けた声が響く。
たった数秒。
彼らが息を呑む間に、逆流した瘴気はキラキラと輝く粉砂糖へと変質し、禍々しかった呪核は、ふんわりと焼き上がった『巨大な紅茶のシフォンケーキ』へと姿を変えていた。
訓練場が、水を打ったように静まり返る。
試験官の喉が、ごくりと鳴った音が響いた。
周囲の冒険者たちも、誰一人として声を出せない。
彼らの目に浮かんでいるのは、優れた魔法使いへの称賛などではない。
圧倒的な「畏怖」と「悪寒」だ。
高ランクの呪核を、まるで工場でネジを締めるような無表情さで、しかも「ケーキ」というふざけた物質に書き換えてのけた僕の姿は、彼らからすれば『得体の知れないバケモノ』に他ならない。
(……なぜ、彼らはそんなに怯えているんだ?)
僕はひどく冷静に、周囲の反応を分析していた。
(被害範囲の抑制、魔力消費の最小化、そして安全性の確保。すべてにおいて、これが最も『効率的で完璧な正解(最適解)』じゃないか。これ以外の非効率な解を選ぶ理由なんて、どこにもない)
倫理や常識から切り離され、純粋な『合理』へと染まっていく僕の思考。
その凍りついた空気を、ただ一人、銀色の破壊神だけがぶち壊した。
「わぁ……! すっごーい! 紅茶のいい匂い! ねぇルイ、これ、ぱくってしていい!?」
 「(……バカ、待て! お前が食ったらその元・呪核のカロリーが……いや、そこじゃない! お前は少しは空気を読め!)」
彼女の圧倒的な無自覚さが、恐怖で冷え切った訓練場の空気を、強引に「彼女のペース」へと引きずり込んでいく。
『《解》。素晴らしい手際でした、ルイ様。感情というノイズを排したその「無駄のなさ」、私、とても愛おしく思います。……ええ、あなたはそのままでいい。その冷徹なまでの最適化、誰にも模倣させたくありません』
シエルの、僕を己のシステムに組み込もうとする粘着質な称賛が、脳内に甘く響き渡った。
技能試験は、あの後なし崩し的に「合格」という形で幕を閉じた。
ギルドの裏口から外の路地へ出た瞬間、僕の足からふっと力が抜け、壁に背中を預けた。
どっと押し寄せる、僕の『中身』が物理的にくり抜かれたような特有の喪失感。
じわりと、僕の身体の奥底から焦げた砂糖とカカオの匂い――『チョコの匂い』が立ち上り始める。
「すんっ、くんくん……あ、ルイからすっごく甘い匂いがする。さっきのケーキの匂いかな?」
セリナが僕の背中にぴたりと張り付き、首筋に鼻を押し当てて深呼吸をする。
「えへへ……この匂い、ルイの匂いって感じで好き〜。なんだか落ち着くの」
(……違う。これは僕の人生が燃えた匂いだ。お前がうっとりと嗅いでいるその匂いは、たった今、僕が魔法を行使するために支払った『記憶の削りカス』なんだよ)
そう内心で毒づいた、その時だった。
「……あれ?」
背中に張り付いていたセリナが、ふと動きを止めた。
彼女は僕の腕を掴む手にきゅっと力を込め、一瞬だけ、何かに怯えるような、迷子の子供のような瞳で僕を見上げた。
「……ねえ、ルイ。今日、なんだか少し……遠くにいる、みたい」
どきりと、心臓が跳ねた。
神としての本能。彼女の無自覚な直感が、僕という存在の『欠落』を微かに察知したのだ。
(……誤魔化さなきゃ。こいつに気づかれたら、世界が終わる)
僕が引きつった愛想笑いを浮かべようとした瞬間、脳内で無機質なポップアップ音が鳴った。
『《告知》。対象「泥塊の呪核」の変換プロセスに伴う代償の引き落としを完了しました』
(……シエル、何を持っていかれた?)
『《解》:日本のコンビニエンスストアにおける、「レジ袋の販売価格」に関する記憶データです』
前世の記憶。
深夜のコンビニ。
レジにカップ麺とペットボトルのお茶を置き、店員に「レジ袋はご利用ですか?」と聞かれた時の風景。
(……あれ?)
レジ袋って、いくらだったっけ?
必死に思い出そうとするが、その金額の数字の部分だけが、ぱちん、と音を立てて消えた。
――その直後だった。
足元が、底なし沼に沈んでいくような、強烈で理由のない『悪寒』が全身を駆け巡った。
数秒間、息の仕方すら忘れるほどの完全なフリーズ。
自分が自分でなくなっていくような、原初的な恐怖。
「……まあ、いいか。たかが数円のことだ」
だが、その『空白の恐怖』は一瞬で消え去り、僕は乾いた声で、ポツリと呟いていた。
そう、生きていく上で何の役にも立たないゴミデータだ。
そんな瑣末な記憶ひとつで、あのBランクの呪核を無力化できたのなら、むしろ安い取引じゃないか。
『《肯定》。その通りです、ルイ様。あなたの脳神経を保護するため、不要なノイズは私が適切に処理(デリート)いたしました。……必要なデータは、すべて私がアーカイブしていますから、ご安心を』
シエルの論理的な正論が、僕の思考を心地よくコーティングしていく。
だが、本当に恐ろしいのは、記憶が消えたこと自体ではない。
先ほどの『数秒の空白の恐怖』に対して、今の僕が「システムが最適化されたような、薄ら寒い安堵」を覚えているという事実だ。
たかが数円。
そうやって僕は、自分を構成していた人間性を安い小銭のように切り売りしていく。
痛みも、恐怖すらも感じない『封印の機械』へと、静かに変質していった。
夕闇が迫る王都のメインストリート。
石畳をオレンジ色の西日が長く染め上げていく。
その光の中で、セリナは渡されたばかりの銅製のギルド証を、まるで世界一の宝物のように両手で掲げていた。
「えへへ、見てルイ! 私、これで今日から立派なパン職人だよ!」
「ねえ、これ四角くて板チョコみたい! ルイ、はんぶんこしよ!」
そう言って、彼女は僕の腕にぎゅっと抱き着き、硬い金属の板を「ぱりっ」と割るマネをしてみせる。
 (……はんぶんこ、か)
僕は、夕日に照らされたその真新しいギルド証を見つめた。
そこには「ルイ・アデル:封印師」という、シエルが作り上げた完璧な偽造データが刻まれている。
今日、僕はこの世界で『社会的な存在証明』を手に入れた。
だが、その代わりに僕は、前世のコンビニの風景という『個人的な存在証明』を永遠に失ったのだ。
社会的ヒーロー(偽物)として認められれば認められるほど、僕の中身(真実)は空っぽになっていく。
(……僕という人間はもう、この銅板に刻まれた『偽造データ』の中にしか存在しないのかもしれないな)
『《解》。ルイ様。彼女は、都合よく表面だけを甘くコーティングされた「今のあなた」しか知りません。……ですが、安心してください。あなたがどれほどの痛みを隠し、何を喪失したか。その本当の価値をアーカイブし、永遠に理解できるのは、この世界で私だけなのですから』
シエルの言う通りだ。
セリナは、先ほどの一瞬の怯えなど忘れたように、僕の腕を抱きしめて無邪気に笑っている。
だから、僕は騙し続けなければならない。
僕の過去がシエルのサーバーに吸い上げられ、僕という人間がただの『完璧な封印装置』になり果てたとしても。
「……ほら、帰るぞ、セリナ。今日はもう遅い。お前のパン職人デビューは明日からだ」
「うんっ! 明日、いっぱいふわふわのパン焼こうね、ルイ!」
セリナが僕の手を強く握る。
その温もりは痛いほどにリアルで、甘いバニラの香りが僕の理性を優しく溶かしていく。
(ああ……。怖いという感情が消えたはずなのに、どうしてこんなに、この手が離れがたいんだろうな)
僕たちは、長く伸びた二つの影を連れて、甘い匂いのする夕暮れの街へと歩き出す。
自分の輪郭が少しずつ薄れていく虚無感と、隣で笑う少女の圧倒的な体温。
この狂おしいほどに『甘い地獄』は、まだ始まったばかりだった。
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【第4話:ルイが今回失った記憶:『日本のコンビニのレジ袋の値段』】
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