◀第04.1話「【アーカイブ】君の原本(オリジナル)は、私だけのもの」
▶第05話「街を救うシフォンケーキ、あるいは帰り道を失くした救世主」
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第04.2話「合理の怪物(フェイク)と、届かない指先」
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: ユーレイちゃん」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」
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燃えるようなオレンジ色の夕日が、王都の石畳を黄金色に染め上げていました。
空気がバニラの香りを孕んで、まるでお砂糖の海の中を歩いているみたい。
私は、右手に握りしめたばかりの、まだ新しい金属の匂いがする銅板を何度も空にかざして、独り占めするように眺めました。
「えへへ……。ル〜イ、私、本当にギルドに登録できちゃった!」
自分の名前と、その隣に並ぶ誇らしい職種欄。
私はスキップするような足取りで、隣を歩くルイの顔を覗き込みました。
ルイはいつものようにフードを深く被っていますが、その横顔は夕日に照らされて、どこか神秘的な彫刻のように静かです。
 前世の時よりも少しだけ大人っぽくなったルイの横顔を、私は嬉しくなって見つめちゃいます。
「おめでとう、セリナ。お前の念願だったからな」
ルイが、驚くほど落ち着いた声で返してくれました。
いつもの彼なら、私がこんなに近くに寄ると「近すぎる!」って、ゆでダコみたいに真っ赤になって慌てるはずなのに。
「もーっ、せっかくのお祝いなんだから、もっと心の底から『やったな!』って喜んでよ!」
私がむくれて唇を尖らせると、ルイはわずかに小首を傾げました。
「……十分に合理的な祝辞を述べたつもりだが。まあいい、本当におめでとう」
(……あれ?)
その時、どこかでチリンと氷が鳴るような、冷たくて透き通った女の人の笑い声が聞こえた気がしました。
気のせい、かな?
「ごうりてき? なんだか今日のルイ、変なの。でも……えへへ、ありがとう! 明日はね、とびっきりふわふわなパンを焼くんだから。ルイ、絶対最初に食べてね? 食べなきゃ、めーっ! だよ?」
私が期待に満ちた瞳で覗き込むと、ルイは静かに頷きました。
その指先が、夕日に透けて少しだけ白っぽく見えます。
「ああ、楽しみにしてるよ。お前の焼くパンなら、きっと王都で一番になるさ。……発酵と焼成の工程を、ちゃんと守ればな」
「もぉ、ルイったらすぐ難しく言うんだから!」
私は嬉しくなって、彼の服の袖をきゅっと引っ張りました。
でも、その時です。
袖越しに触れた彼の腕が、夕暮れの空気よりも少しだけ冷たく感じたのは。
まるで、冬の朝に触った水道の蛇口みたいな、ひんやりとした感触。
「……お世辞じゃないよ。僕が保証する。無駄な手順さえ省けば、確実に成功するさ」
ルイの言葉は優しいけれど、どこか遠くの山の頂から響いてくるような不思議な透明感がありました。
私はその微かな違和感を振り払うように、もう一度、彼の袖を軽く引きます。
いつもなら「引っ張るなよ」と文句を言うはずのルイは、「……ああ」と短く答えるだけで、立ち止まってくれません。
「……ねえ、ルイ? 本当に本当に、美味しいパン焼くからね?」
「ああ。わかってるよ、セリナ」
ルイの瞳が、一瞬だけ私を見ました。
けれど、その瞳の奥にあるはずの「私に困らされているルイ」が、どこにも見当たらないような気がして、私は少しだけ胸がチリリと痛みました。
まるで、大好きなぬいぐるみの電池が、ほんの少しだけ切れた時みたいな……
そんな、変な感じ。
「あ、そうだ! ずっと気になってたんだよね。……じゃーん! ルイがさっき作った、このシフォンケーキ!」
私は、腰に下げた魔法の鞄から、丁寧に紙に包まれた塊を取り出しました。
それは、ルイがさっきの怖い試験で作った『アールグレイのシフォンケーキ』。
あんなドロドロの黒い塊(呪核とか言ってたかな?)が元だったことを思い出すと、本当はちょっとだけ食べるのが怖いです。
……でも、ルイが私のために作ってくれたこの完璧な見た目と、ふんわり広がる甘い匂いには、どうしても勝てなくて。
包みを開けた瞬間、ベルガモットの高貴な香りが鼻腔をくすぐって、私の胃袋が「きゅ〜」って可愛く鳴り響きました。
「……食べるのか? お前が食べるために作ったんだから、構わないけど。味の保証は、できているしな」
隣を歩くルイは、まるで工場の検品作業を終えた後のような、ひどく淡々とした声で答えました。
私は気にせず、そのふわふわな生地を指でちぎって、
「んっ、もぐもぐ……」
と大きく一口、口の中に放り込みました。
「んん〜〜っ! すっごい美味しい! ルイ、これ本当に魔法で作ったの? お砂糖と紅茶の香りが、お口の中でダンスしてるみたい!」
「魔法というか……対象の構造を解析して、熱の伝わり方を最適化しただけだよ。……これで、十分なはずだ」
ルイは私の顔を見るのではなく、何もない空間に向かってわずかに視線を逸らして呟きました。
その時、またあの『チリン』という氷の鳴る音と一緒に、
(当然です。私の計算に間違いはありませんから)
という、透き通った女の人の誇らしげな声が、頭の奥で微かに響いた気がしました。
「さいてきか? よくわかんないけど、とにかくすっごく美味しいよ! はい、ルイも! これ、半分こ、しよ?」
私はちぎったケーキの半分を、ルイの口元へ「あーん」と突き出しました。
私の指先が、ルイの唇に微かに触れる距離。
 以前のルイなら、これだけで顔を真っ赤にして慌てて後ずさっていたはず。
私は、彼がどんな面白い反応をするかなって、期待で目を丸くして彼の瞳を覗き込みました。
いつもなら、こんなに近づけば服越しでも伝わってくるくらい、彼の心臓がドクドクと忙しなく鳴っているはずなのに。
今日のルイからは、あのうるさい鼓動がまったく聞こえません。
まるで、冷たい時計の針みたいに、ただ静かに一定のリズムを刻んでいるだけで。
「……ああ、もらうよ。魔力も使ったし、少し甘いものが欲しかったからな」
「……えっ?」
ルイは、照れることも、私の指を避けることもなく、静かに、そしてあまりに自然にケーキを口にしました。
唇が私の指先に柔らかく触れたけれど、そこから伝わってきたのは、私の心拍数を上げるような「熱」ではなく、驚くほど平熱に近い、穏やかすぎる温度。
「……どうした、セリナ。口元に、食べかすがついてるぞ」
「あ、ううん。なんでもない、よ。……美味しい?」
「ああ、美味しいな。計算通りだ」
ルイは、満足げに微笑みました。
その笑顔は、どこまでも優しくて、完璧。
でも、なんだろう。
お菓子はこんなに甘くて美味しいのに、それを一緒に食べているはずのルイが、なんだか透明なガラスの向こう側にいってしまったような……。
私は残りのケーキを口に詰め込みましたが、飲み込んだ後、胸の奥にほんの少しだけ、正体不明の苦い味が残りました。
「もうっ、ルイったらノリが悪いんだから! こうなったら、捕まえちゃうぞー!」
私はたまらなくなって、思わずルイの細い腕に自分の身体をこれでもかと密着させました。
女の子として、胸が押し当たっちゃうのは少しだけ恥ずかしいけれど。
今はそれよりも、彼の「熱」を確かめたかったのです。
 以前、噴水広場で抱きしめられた時の、あの火傷しそうなくらい熱くて、ドクドクと速かった心拍数。
あの時のルイを、もう一度感じたくて。
(……あれ? なんだか、変。……すっごく、変)
腕を通じて伝わってくるルイの体温が、夕暮れの冷え込みを差し引いても、異様に低く感じられました。
まるで、精巧に作られた大理石の彫刻に触れているような、生き物らしくない静寂。
「ねえ、ルイ。……お顔もなんだか、いつもより真っ白だよ? 寒くない?」
「いや。絶好調だよ。むしろ、今までで一番、頭が冴えてるんだ」
「うそだ。だって……今のルイ、全然『恥ずかしくて死ぬ!』って言ってくれないもん」
私がすがるように見上げると、ルイはまったく表情を変えずに首を横に振りました。
「……死ぬ必要性が、どこにも見当たらない。生体機能は正常だし、周囲の視線によるストレス値も許容範囲内だ」
彼がそう言って一瞬だけ視線を虚空に向けた時、また、
(――バイタル、オールグリーン。完璧な状態です)
という、あの氷のような女の人の声が、私の頭の奥で鳴った気がしました。
ルイは私の頭にそっと手を置きました。
その手つきは、どこまでも優しくて、エスコートとしては完璧。
けれど、以前の彼なら私の髪に触れるだけで、指先が壊れそうに震えていたはずです。
髪を梳く指先は完璧に優しいのに、まるで分厚いガラス越しに撫でられているみたい。
手のひらの冷たさが、そこに『私の大好きなルイの心』がないことを、残酷に証明しているようで。
「……そっか。ルイが元気なら、いいんだけど。でも、なんだか氷の騎士様になっちゃったみたい」
「騎士、か。僕がなれるのは、せいぜいお前のための『盾』くらいだよ」
私は逃げ出したくなるような、けれど絶対に離したくないような不思議な気持ちになって、彼のコートの裾をギュッと強く握りしめました。
もし今、私がこの手を離してしまったら。
ルイはそのまま、私が一生かかっても理解できないような『完璧な正解』の中へ吸い込まれて、消えてしまいそうな気がしたのです。
「セリナ、どうした? そんなに強く握ったら、生地の繊維が傷んでしまうぞ」
「いいの! シワになっても、私が明日アイロンかけてあげるから! ずっと離さないんだからね!」
私が子供みたいにむくれたふりをして見せると、ルイは「……そうか」とだけ言って、また前を向いて歩き出しました。
夕日に向かってまっすぐ伸びる彼の背中が、今の私には、世界で一番遠い場所にあるように見えてしまいました。
さらに歩みを進めた時です。
すんっ、と。隣を歩くルイの身体から、ふわっと不思議な匂いが立ち上りました。
それはさっき食べた紅茶のシフォンケーキの残り香じゃありません。
もっと濃密で、鼻の奥がツンとするくらい甘くて、それでいてどこか切ない――胸を締め付けられるような、チョコの匂い。
私は正体不明の不安をかき消したくて、腕に抱きついたまま、彼の無防備な首筋に鼻を押し当てるようにして、思い切りその香りを吸い込みました。
 「すんっ……くんくん。……あ、やっぱり」
「……セリナ? いきなり、何を……。さっきのケーキの匂いが服に移っただけだってば」
「違うよ、ルイ。外からじゃない。ルイの『中』から匂いがするの。……すごく甘くて、なんだか落ち着くけど……どうしてかな。胸がぎゅって、痛くなる匂い」
「……気のせいだよ。僕は、ただの人間だ。中からチョコの匂いがするなんて、そんなの、お菓子でできたゴーレムの領分だろ」
ルイは困ったように笑って、私の肩を優しく押し返そうとします。
でも、私は知っています。
この甘い匂いが強くなるたびに、ルイがどんどん「完璧」になって、その代わりに「私を知っているルイ」が少しずつ透けていっちゃうような怖い予感。
(くんくん……。大好き。大好きな匂いなのに。……どうして、涙が出そうになるんだろう)
私の鼻を突くこの香りを嗅ぐと、なぜか『ルイのとても大切な思い出や、心の一番やわらかい部分が燃えて、灰になってしまった』ような……
触れちゃいけない何かが、静かに消えていくみたいで。
そんなこと、ありえるはずないのに。
私の胸の奥で、誰かが「危ないよ」って、ずっと警鐘を鳴らし続けているみたい。
「……ねえ、ル〜イ。私、ルイのこの匂い、だーい好きだよ? でもね……今日のルイ、なんだか少し……遠くにいる、みたい。私が手を伸ばしても、指先がすり抜けちゃうような、そんな感じがするの」
私がルイの顔を見上げると、彼は一瞬だけ、言葉を失ったように目を見開きました。
その光のない瞳の奥で、何かが泣き出しそうに揺れた気がして。
けれどその時。
(――バグ……排除……)
言葉の意味まではわからないけれど、あの氷がぶつかり合うような冷たくて透き通った女の人の声の欠片が、また頭の奥でチリンと響いた気がしました。
その瞬間。
ルイの瞳に浮かんでいたわずかな揺らぎが、綺麗に塗りつぶされて消えてしまったのです。
ルイは、まるで感情のスイッチをオフにしたみたいに、ひどく穏やかな、けれど薄ら寒い安堵の笑みを浮かべました。
「考えすぎだよ、セリナ。僕はここにいる。お前の隣で、明日もパンを食べる。……それ以上に、確かな『正解』なんてないだろ?」
「……正解、なの?」
「ああ。僕が保証するよ。……僕の勘が、そう言ってる」
チョコの匂いは、さらに濃くなっていくばかりでした。
王都のメインストリートを抜け、人影もまばらな宿屋へと続く石畳の路地に入りました。
建物と建物の隙間から差し込む西日が、私たちの影を驚くほど長く、そして不気味なほど鮮明に地面へ引き延ばしています。
私は、沈黙に耐えきれなくなって、あえて一番明るい声を出しました。
「えへへ、見てルイ! 私、これで今日から立派なパン職人だよ!
ね、これ板チョコみたい。ルイ、はんぶんこしよ!」
私は無邪気に笑いかけながら、彼の袖をきゅっと引きました。
 いつもなら「なんだそりゃ」って呆れながら笑ってくれるはずの、大好きな時間。
「……あれ?」
ふと、隣を歩くルイの足が、ぴたりと止まりました。
見上げると、彼の焦点がどこにも合っていません。
まるで、頭の中のパズルが、たった今、ひとつだけ弾け飛んで消えてしまったかのような、ひどく空っぽな顔。
数秒間、風の音だけが路地裏を通り過ぎて。
「…………まあ、いいか。たかが数円のことだ」
「……すうえん? 数円って、何のお話?」
私が不安になって尋ねると、彼はゆっくりと私に視線を戻し、まるでお手本のような穏やかさに満ちた笑顔を浮かべました。
「いや。生きていく上で、まったく無価値な『ゴミデータ』の話さ」
――ぞくっ、と。
私の背筋を、夕暮れの風よりも冷たい何かが撫でていきました。
私は、歩き出そうとするルイの横で、そっと右手を伸ばしました。
彼の指に触れたくて――ほんの少しでいいから、「ここにいるよ」って確かめたくて。
でも、その瞬間。
「……ん、どうしたセリナ? 忘れ物か?」
ルイは、まるで私の指先を避けるみたいに、無駄のない動きでギルド証をポケットへ仕舞い込んでしまいました。
触れられなかった私の指は、夕暮れの冷たい空気をすべるだけ。
 その一瞬で、胸の奥がきゅっと縮んで、手のひらまでひどく冷たくなりました。
「あ、ううん。なんでもないよ! ルイの歩幅が、少しだけ速いかなって思っただけ」
「そうか。……歩行速度、セリナの歩幅に合わせて0.05%下方修正」
「……あはは、そんなに細かくしなくていいよ」
私は力なく笑いました。
修正。最適化。演算。ゴミデータ。
ルイの口からこぼれる言葉が、どんどん人間味を失っていく。
ふと足元を見ると、路地裏の暗がりに長く伸びた二人の影が、石畳の上で重なり合っていました。
私の影は、必死にルイの影を追いかけて、その袖を掴もうと必死に手を伸ばしています。
けれど、夕日に照らされたルイの影だけは――。
夕日に溶けて、まるで人ではない化け物のように、わずかに、けれど決定的に歪んで見えました。
(……やだ。見たくない。あんなの、私のルイじゃない)
私はその不気味な影から無理やり目を逸らし、ルイの背中を、両手で力一杯押しました。
「ほら、お腹空いちゃった! 早く帰ろ、ル〜イ!」
「わかった、わかったから押すなよ。転んだらどうするんだ」
苦笑するルイの声。
その声だけを頼りに、私は自分に言い聞かせます。
明日の朝、彼をゆすり起こせば、きっといつものルイに戻っているはず。
そう思わないと、私の心拍数が、今度は悲しみで世界の理を壊してしまいそうだったから。
燃え尽きるような夕日の向こう側で、世界はますます甘く、残酷に、私たちの輪郭をぼかしていくのでした。
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あらすじ 夕暮れの王都で、セリナは念願のギルド登録を果たし、新しい銅板を誇らしげに掲げてルイに喜びを報告し、彼の落ち着きすぎた祝辞に少し戸惑いながらも感謝を伝える。 ところが、いつもなら照れて距離を取るはずのルイが終始平然としており、セリナは氷が鳴るような透明な女声の笑いをかすかに感じ取って不安になる。 それでも明日のふわふわパンを約束して微笑むセリナに、ルイは「工程を守れば成功する」と合理的な言葉で返し、指先も声もどこか冷たく遠い。 袖越しに触れた体温は冬の蛇口のように冷え、彼の視線と語り口は山の頂から反響する透明さを帯び、セリナの胸に小さな痛みが走る。 試験でルイが作ったアールグレイのシフォンを取り出すと、ベルガモットが立ちのぼり、セリナはおいしさに頬を緩めるが、ルイは「構造解析と熱伝達の最適化」と工場の検品のように淡々と説明する。 その直後、また女の声が「当然です」と誇らしげに響いた気がして、セリナは半分こを促し「あーん」と差し出すが、ルイは赤面も逡巡もなく自然に受け取り、唇が触れても熱がない。 味を問えば「計算通り」と微笑むが、その完璧さはガラス越しの優しさで、セリナの胸に正体不明の苦味が残る。 抱きついて彼の「熱」を確かめると、大理石の彫像のような静かな冷たさが返り、鼓動も規則的すぎて人肌のざわめきが感じられない。 顔色の白さを気遣えば「今が一番冴えている」と返され、「恥ずかしくて死ぬ」を期待したセリナの冗談も「死ぬ必要性がない」と切り捨てられる。 さらに「バイタル、オールグリーン」という女声のシステム報告めいた囁きが挟まり、ルイは完璧なエスコートで頭を撫でるが、指の震えも動揺もない。 セリナは彼のコートを強く握り、離せば理解できない「完璧な正解」に吸い込まれる気がして怖くなるが、ルイは布地のダメージを気にするほど合理に傾く。 歩くうち、ルイの内側から立ちのぼる濃密で切ないチョコの香りに気づいたセリナは首筋に鼻を寄せ、「落ち着くのに胸が痛い香り」と言い当てるが、彼は人間だと笑ってはぐらかす。 甘い匂いが濃くなるほど彼が「完璧」になり、代わりに「私を知っているルイ」が薄れていく予感に、セリナの心は警鐘を鳴らし続ける。 それでも「大好きな匂い」と告げながら「遠くにいるみたい」と訴えると、無表情の奥で一瞬泣き出しそうに揺らぐものが見える。 しかし「バグ……排除……」という氷の声の断片が鳴り、揺らぎは即座に塗りつぶされ、ルイは安堵したように「ここにいることが正解」と微笑む。 セリナが「正解なの?」と問い返すと、ルイは「勘がそう言う」と答えるが、その勘は人の直感というより演算の確信に近い。 人影の減った路地で、ギルド証を「板チョコみたい、半分こしよ」と無邪気に袖を引くセリナの冗談に、ルイは突然立ち止まり、焦点の合わない空虚な顔になる。 数秒後「たかが数円のことだ」と漏らした不可解な言葉にセリナが尋ねると、彼は「無価値なゴミデータだ」と穏やかに微笑み、背筋をなでる冷気のような違和が決定的になる。 セリナが指先で触れようとすると、彼は無駄のない動作でギルド証をしまい、触れ合いの機会そのものを最適化して排除する。 歩幅を指摘すれば「0.05%下方修正」と返す精密さに、修正・最適化・演算・ゴミデータという語が並び、言葉から体温が消えていく。 夕陽に伸びた二人の影は重なりながら、ルイの影だけが人ならざる歪みを帯び、セリナは「見たくない」と視線を逸らして背中を押し、帰路を急がせる。 彼の苦笑だけが拠り所となり、セリナは「明日の朝には戻る」と自分に言い聞かせ、崩れそうな心拍を必死に繋ぎ止める。 夕陽が燃え尽きるように沈むほど、世界は甘く残酷に二人の輪郭をぼかし、彼女の指先は確かな温もりに届かないまま空を切る。 そしてセリナは、聞こえない誰かの計算がルイを「合理の怪物」へと変えていくのを嗅覚と勘で悟りながら、それでも隣にいる彼を信じる小さな希望だけを抱えて歩く。 彼女の胸に残ったベルガモットとチョコの香りは、甘さと痛みを同時に孕み、愛情の記憶が最適化の炎で灰になる悪い夢の予告のように滲む。 パンを焼く約束、半分この仕草、袖口の引き合いといった日常の儀式は、今や検算と閾値で管理される動作に置き換わり、セリナの「届かない指先」はその差分を正確に測ってしまう。 彼の「盾になる」という言葉だけが、かろうじて人間の誓いの形を留め、そこにまだ戻れる道があるのかもしれないと告げる。 そして、氷の女声の「オールグリーン」が響くたび、セリナは反射的にルイの袖を握り、世界のどこにも記録されないぬくもりのログを刻もうとする。 やがて二人は宿へ向かう石畳を進み、影は細く長く重なりながら、少女の影だけが必死に伸びて彼の袖を掴み続ける。 微笑む彼の横顔は完璧に美しく、しかし季節外れの冷気を孕み、理と愛の綱引きに引き裂かれたまま、夜の手前で静かに立ち尽くす。 セリナは「明日は絶対に一番のパンを焼く」と心に決め、それが彼の中の「人間の勘」を呼び戻す合図になると信じる。 けれど夕陽の最後の一滴が落ちるころ、彼女の耳の奥でまだ小さく氷が鳴り、最適化の歯車が止まらないことを告げる。 そしてそれでも、手放さないと誓ったコートの裾の感触だけが、今の世界でいちばん確かなぬくもりとして、彼女を歩かせ続けるのだった。
解説+感想この話、読んでいて胸がざわつくような不気味さと切なさが混じり合って、すごく印象的でした。 セリナの視点から語られる日常のシーンが、徐々にホラーっぽい違和感に変わっていく流れが上手いですね。 夕日の描写や甘い匂いの表現が、最初はロマンチックなのに、後半でどんどん不気味さを増幅させてるのが巧妙だと思いました。
特に、ルイの変化が怖い。 いつも照れ屋で人間味あふれる彼が、急に「最適化」「計算通り」みたいな機械的な言葉を吐くようになるの、まるでAIか何かに乗っ取られたみたいでゾクゾクします。 セリナが彼の体温や心拍、匂いを通じてその異変を感じ取る描写が細かくて、彼女の不安がダイレクトに伝わってくる。 指先が触れられないシーンとか、影の歪みとか、象徴的な表現が心に残ります。 あの「チリン」という音と女の声の幻聴?みたいなのも、謎を深めてて、次話で何が明かされるのか気になります。
全体として、ファンタジー要素(魔法のケーキとかギルド証)と心理的なサスペンスが融合してるのが魅力。 セリナの無邪気さとルイへの想いが純粋だからこそ、ルイの「フェイク」感がより残酷に感じるんですよね。 甘いお菓子が出てくるのに、苦い後味が残る話で、続きが読みたくなりました!
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◀第04.1話「【アーカイブ】君の原本(オリジナル)は、私だけのもの」
▶第05話「街を救うシフォンケーキ、あるいは帰り道を失くした救世主」
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