【第1章:前半】 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「標的(ターゲット)は中京の坂。お掃除の時間は、10.6秒の旋律と共に」
曇り空から冷たい風が吹き下ろす、中京競馬場の芝コース。 むせ返るような青草の匂いと、張り詰めた空気が周囲を包み込む。 ガシャン、という無機質な金属音と共に、一斉にゲートが開いた。
最初の1ハロンは12秒2。 静かな立ち上がりかと思われた直後、大外枠から一頭の影が動く。
アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「あら、皆さまお揃いで。本日はよろしくお願いいたしますね」 と、18番牝4歳のアイサンサンが優雅にお辞儀をするように飛び出した。 大外枠から全くブレのない体幹で、真っ直ぐに最内へと切れ込んでいく。 その口元には、狂気的なまでの穏やかな微笑みが張り付いていた。
ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「姉さん!今日も素敵です!私も姉さんの隣で走りますからね!」 16番牝7歳のドロップオブライトが、最後方から興奮気味に叫ぶ。 一番人気の重圧など微塵も感じさせない、ただの身内バカの顔だ。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「ちょっと、近寄らないでいただけますか?お掃除の邪魔になります」 アイサンサンは振り返りもせず、ニコニコと微笑みながら冷たく言い放つ。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「お掃除!?私というゴミも一緒に片付けてほしいですぅぅ!」 ドロップオブライトは逆ギレのような歓喜の声を上げ、砂を被って咽び泣いた。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:(姉さんの冷たい視線……たまりません!でも全然前に行けない……!)

その直後、芝を抉る蹄の音が、突如として爆発的な連撃へと変わる。 アイサンサンの脚の回転が、常軌を逸したスピードへと跳ね上がった。 2ハロン目のタイム、驚愕の10秒6。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:(今日の特売お肉、絶対に手に入れないと。急いでお掃除を済ませます) 本人は近所のスーパーへ急ぐ主婦のつもりだが、周囲には殺人的なペースだ。
ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「……馬鹿な。1ハロン10秒6だと?ここは1400の舞台よ」 8番牝5歳のソルトクィーンが、氷のような視線で前方の桃色の帽子を睨む。 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「あんな無茶なペース、すぐに息が上がって自滅するに決まっているわ」 ソルトクィーンは5番手の内側という絶好位で、静かに息を潜めていた。 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:(でも、私の愛の炎は誰にも負けない。完璧な追走で勝利を捧げるわ)
3コーナーへの進入地点。 前半3ハロンの通過タイムは33秒9。 重賞としては、明らかな異常事態とも言える超ハイペースだ。
ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「ちょっとそこ、邪魔よ。私の視界からさっさと消えなさい」 ソルトクィーンが、隣を走る馬に肩をぶつけるように冷たく威圧する。 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「なによ!あんたこそ内側でコソコソと、気味が悪いのよ!」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「私は一番効率的で美しい進路を計算しているだけ。貴女とは違うわ」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「口の減らない女ね!このまま外に弾き飛ばしてやるわ!」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「……ふん。感情で走るから無駄なスタミナを消費するのよ。馬鹿馬鹿しい」 ソルトクィーンは表情筋を全く動かさず、馬群の隙間を縫うように進む。 内側に閉じ込められながらも、抜け出すための隙を虎視眈々と狙っていた。
一方、後方集団でも女たちの水面下の戦いが起きていた。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「前が勝手に潰れていくわね。若い子たちの砂を浴びるのは御免よ」 10番牝6歳のセフィロが、深く被ったブリンカーの奥で目を細める。 9番手という中団後方で、微動だにせず冷静に戦況を分析していた。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:(このハイペース、私は中団で平和的に息を潜めるのが一番賢い選択ね)
ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「おば……じゃなくてお姉様、随分と余裕ぶってますね!ムカつきます!」 ドロップオブライトが15番手の後方から、八つ当たり気味に噛み付いた。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「あら、息も絶え絶えのくせに。期待を背負って自滅する典型ね」 セフィロは鋼のような冷静さで、無慈悲な事実を的確に突きつける。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「じ、自滅なんてしてません!姉さんへの愛の助走ですぅ!」 ドロップオブライトは涙目で叫びながら、さらに馬群の底へと沈んでいく。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:(どうしてこんなにペースが速いの!?姉さん、私を置いていかないで!)
 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「アタマ差の秘匿(ひとく)事項。愛と、平和と、お肉の特売タイム」
土煙が舞い上がり、馬群がひとつの巨大な塊となって最終コーナーへなだれ込む。 最内ラチ沿いにピタリと張り付いているのは、依然としてアイサンサンだ。 外側を回る馬たちが遠心力で外へ膨らんでいく中、全く無駄のない軌道を描く。
アイサンサン【ヨル・フォージャー】:(コーナーのお掃除は隅々まで丁寧に。一歩のロスも許されませんからね) アイサンサンは息を乱すことなく、鼻歌交じりで直線の入り口を見据えていた。 背後で2番手を走っていた馬が、あまりの超ハイペースに白目を剥いて沈んでいく。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「あら、もうお疲れですか?無理はなさらないでくださいね」 アイサンサンが振り返りもせずに気遣うと、後方の馬群から怨嗟の声が上がる。
ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「誰のせいでこんな地獄のペースになってると思ってるのよ!」 ソルトクィーンが馬群の密集地帯から抜け出そうと、周囲の馬を弾き飛ばす。 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「文句を言う暇があるなら足を動かしなさい。私は外へ持ち出すわ」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「ふざけないで!ここは私が通る道よ、あんたは内側で詰まってなさい!」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「……邪魔。私の愛の計算式に、貴女みたいなノイズは不要なの」 ソルトクィーンは氷の刃のような冷たい視線で隣の馬を威圧し、右へと進路を切り替える。 直線に入った瞬間、目の前には広大なスペースが広がっていた。
ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:(完璧な進路確保。あとは私の全てを懸けて、前の桃色の帽子を仕留めるだけ) ソルトクィーンは全身の筋肉を躍動させ、残り300メートルで猛烈な加速を開始する。
同じ頃、中団から後方にかけても女たちのプライドがぶつかり合っていた。 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:「ちょっとおば様たち!そこどいてよね、私の出番なんだから!」 15番牝5歳のワイドラトゥールが、大外のさらに外をぶん回しながら突っ込んでくる。 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:「誰がおば様よ!お嬢ちゃんは家でママとおままごとでもしていなさい!」 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:「ふんっ!私はもう子供じゃないもん!最高に素敵な走りを見せつけてやるんだから!」 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:(見ててよね!この大外からの豪脚で、みんなまとめて差し切って主役になるんだから!) ワイドラトゥールは小柄な馬体を精一杯に伸ばし、驚異的なスピードで前との差を詰める。
だが、その後ろからさらに冷徹な足音が忍び寄っていた。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「……騒がしいお嬢ちゃんね。大外を回すなんて、距離ロスも計算できないの?」 セフィロがブリンカーの奥から、冷め切った視線でワイドラトゥールの背中を見つめる。 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:「なっ、何よ!計算なんてどうでもいいの!愛と情熱があれば勝てるんだから!」 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「平和ボケした脳みそね。勝負を決めるのは、冷酷なまでの効率と実績よ」 セフィロはワイドラトゥールのさらに外側から、無駄のないフォームで加速していく。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:(派手な立ち回りは若者に任せておけばいい。私は確実に賞金を回収するだけよ)
そして、最後方の泥沼でもがいている馬が一頭。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「姉さぁぁん!今行きますから!私の最高にカッコいいところを見てください!」 ドロップオブライトが涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に足を掻き回す。 しかし、道中で前との差が開きすぎたため、絶望的なまでに距離が縮まらない。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:(なんでこんなに遠いの!?姉さんへの愛は誰にも負けないのに、足が前に出ない!)
残り200メートル。 11秒2という驚異的な再加速ラップが刻まれる中、先頭の景色は変わらない。 アイサンサンは右手に持った見えない包丁を振り下ろすように、力強く芝を蹴る。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「さあ、お肉の特売時間が迫っています。急いでお会計に向かいましょう」 だが、その真横にまで、ついに銀色の刺客が迫っていた。
ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「……捕まえた。これで私の勝利、私の愛が証明されるわ!」 ソルトクィーンが狂気的なまでの執念で、アイサンサンの首元へと並びかける。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「あら、お買い物のお邪魔ですか?申し訳ありませんが、譲る気はありませんよ」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「譲る!?ふざけないで!私はこの一瞬のために全てを計算し尽くしてきたのよ!」 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「計算……?よくわかりませんが、力ずくで排除させていただいても?」 アイサンサンはニコリと微笑むと、さらにギアを一段階上げてみせた。
ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「なっ……!?この期に及んでまだ加速する余力が残っているというの!?」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:(私の完璧なデータが否定される!?そんなこと、絶対に認めるわけにはいかない!) ソルトクィーンは顔面を蒼白にしながら、必死にアイサンサンに食らいつく。
ゴール板が目の前に迫る。 大外からはセフィロの無慈悲な足音と、ワイドラトゥールの甲高い叫び声が迫る。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「お嬢ちゃん、そこまでよ。大人はここからが本番なの」 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:「まだまだぁ!私だって、絶対に負けないんだからぁぁ!」 そして、はるか後方からはドロップオブライトの悲痛な叫び声。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「姉さあああああん!私のことを見てええええええ!」
最後の50メートル。 アイサンサンとソルトクィーンの馬体が完全に重なり合い、火花を散らす。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「私のお肉!」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「私の勝利!」 二頭はほぼ同時にゴール板を駆け抜け、中京の長い直線に終止符が打たれた。
 写真判定の結果、わずかアタマ差で前に出ていたのはアイサンサンだった。 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「ふぅ、なんとか特売に間に合いましたね。今夜は豪華なシチューですよ」 アイサンサンは息を一つ吐くと、何事もなかったかのように優雅に歩き始める。
その横で、ソルトクィーンは地面に崩れ落ちんばかりに絶望していた。 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「アタマ差……。あとほんの数センチ、私の愛が足りなかったというの……」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:(完璧な立ち回りだったのに。あんなデタラメな逃げ切り、絶対に計算外よ……!)
少し遅れてゴールしたセフィロが、ソルトクィーンの横を通り過ぎながら呟く。 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「……ご苦労様。まあ、悪くない仕事だったわよ。私はちゃっかり3着をいただくけれど」 ソルトクィーン【フィオナ・フロスト】:「あなたね……!本当に腹の立つお局様だわ!」 セフィロ【シルヴィア・シャーウッド】:「お局とは失礼ね。経験値の違いと言ってちょうだい」
さらに遅れてやってきたワイドラトゥールが、悔しそうに地団駄を踏む。 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:「もうっ!4着なんて全然可愛くない!次は絶対に私が主役になるんだから!」 ワイドラトゥール【ベッキー・ブラックベル】:(あんなに大外から頑張ったのに!大人って本当にズルくて嫌な生き物ね!)
そして、遙か後方からようやくゴールに辿り着いたドロップオブライト。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:「はぁ、はぁ……姉さん……私、頑張りましたよ……」 アイサンサン【ヨル・フォージャー】:「あら、10着ですか。お掃除の邪魔にならなくて良かったですね。よくできました」 アイサンサンにニコリと微笑まれ、ドロップオブライトは白目を剥いて気絶した。 ドロップオブライト【ユーリ・ブライア】:(姉さんに褒められた……!もう、思い残すことは何もありません……!)
愛知杯という名の秘密のミッションは、こうして波乱とユーモアの中で幕を閉じたのである。
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