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『神宮寺教授の秘密講義』前編(1-5章)(桜花賞編)
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: 満別花丸」
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第1章「五つのギロチンと乙女の防衛線」 春の陽光がブラインドの隙間から差し込み、空中に舞う細かな埃を黄金色に染め上げている。大学の片隅にあるデータ解析研究室。部屋には、淹れたての深煎りコーヒーの香ばしくも苦い匂いが充満し、デスクトップパソコンの冷却ファンが微かな低音を響かせていた。
若葉:「教授! 今年の桜花賞、うち絶対当てたいんよ! 春の新作アニメのブルーレイ、全巻予約してフィギュアも買わなあかんねん!」
勢いよくドアを開け放ち、マグカップを片手に乗り込んできたのは新人の若葉だ。彼女の元気な関西弁が、静かな研究室の空気を一瞬でかき混ぜる。
神宮寺:「……若葉。春のアニメなら最近始まった『異世界転生したら馬だった件』がおすすめよ。馬の心理がよく描写されているわ。ただ、あなたの物欲を満たすための資金源として競馬を使うのは感心しないわね」
神宮寺は、振り返りもせずにマーカーを置いた。さらりとした黒髪が揺れる。
佐倉:「教授、そのアニメはただのコメディなので競馬の予想には一ミリも役立たないと思いますよ。それにしても若葉さん、ずいぶんと気合が入っていますね」
束ねた資料とタブレットを抱え、助手の佐倉が苦笑いしながらコーヒーメーカーの電源を切った。カチッという小さな音が響く。
若葉:「当たり前やんか佐倉助手! 桜花賞言うたら女の子の晴れ舞台やろ? うちかて乙女の端くれとして、ここはガツンと大穴を当てて一攫千金狙いたいねん!」
神宮寺:(乙女の端くれが『ガツンと』なんて擬音を使わないわよ。でもまあ、穴馬を探すというアプローチ自体は間違っていない。大衆の思い込みというノイズを削ぎ落とせば、真実は自然と浮かび上がるものだから)
神宮寺はゆっくりと振り返り、白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
神宮寺:「いいわ、若葉。大穴を見つけたいのなら、まずは『買っちゃいけない馬』を徹底的にゴミ箱に捨てる作業から始めるのよ。感情を捨てなさい。冷酷なデータという名のギロチンで、TOP5の『消し条件』を解説してあげるわ」
若葉:「ギロチン!? なんか物騒やな……でも面白そう! ほな、第一のギロチンは何なん?」
若葉が目を輝かせながらタブレットを覗き込む。佐倉が画面をスワイプし、過去10年の着順データを表示させた。
佐倉:「第一の条件。それは『直前のレースで4着以下に負けている馬』です。データ上、前走4着以下だった馬が本番で3着以内に来る確率は、たったの4.7パーセントしかありません」
若葉:「えーっ!? たったそれだけ? でもさ、アニメの主人公かて、一回ボロ負けしてから覚醒して勝つのが王道展開やんか。負けた悔しさをバネにするんとちゃうの?」
神宮寺:「若葉、現実は魔法少女アニメじゃないのよ」
神宮寺が冷たく言い放つ。彼女は窓辺に歩み寄り、ブラインド越しに外の桜の木を見つめた。
神宮寺:「競走馬、特に春の繊細な女の子たちは、人間が思っている以上にメンタルに左右されるわ。直前のテストで赤点を取った子が、本番の受験でいきなり全国トップクラスの成績を出せるかしら? 一度負け癖がついて自信を失うと、短期間で立て直すのは至難の業なのよ」
若葉:「なるほど……悔しさよりショックを引きずってしまうんやね」
佐倉:「その通りです若葉さん。では次、第二の条件。『前走がアネモネステークスだった馬』。これはもう、問答無用で消しです」
佐倉の言葉に、若葉は首を傾げた。
若葉:「アネモネって可愛い名前やのに! なんであかんの? 女の子らしくてええやん!」
神宮寺:「可愛い名前に騙されてはいけないわ。過去10年で、このレースから来た馬は20頭。そのうち馬券に絡んだ馬は『ゼロ』よ」
神宮寺の宣告に、若葉が息を呑む。
若葉:「ぜ、ゼロ!? 呪われとるんか!」
神宮寺:「呪いじゃないわ、物理法則よ。アネモネステークスが行われるコースと、今回の桜花賞のコースは、形も求められる才能も全く違うの。例えるなら、障害物だらけの狭い室内で反復横跳びの練習をしてきた子が、いきなり広大な陸上競技場で100メートル走に出かされるようなものよ。得意な競技が違うの」
神宮寺:(競馬は適性のスポーツ。どれだけ能力が高くても、舞台設定が違えばただの凡人になる。それが理解できないから、みんなオッズという幻想に踊らされるのよね)
若葉:「なるほどなー。いくら卓球が強くてもテニスコートじゃ勝てへんみたいなもんか。ほな、第三の条件は?」
佐倉:「第三は『極端な枠番』です。具体的には一番内側の1枠と、一番外側の8枠ですね。どちらも過去10年で優勝馬が出ていません」
佐倉がタブレットにコースの図解を表示させる。滑らかな液晶画面を指でなぞる。
若葉:「え、内側って走る距離短くなるから得なんちゃうの? スーパーのレジかて一番端っこが空いてるやん!」
佐倉:「若葉さん、スーパーのレジと競馬は違いますよ……」
佐倉が困ったように笑うと、神宮寺がコーヒーカップを持ち上げながら補足した。
神宮寺:「一番内側はね、他の馬にぎゅうぎゅうに押し潰されるのよ。満員電車でドアの端っこに押し付けられて、出たい駅で降りられない状況を想像しなさい。逆に一番外側は、常に他の馬の外を走らされるから、結果的にグラウンドの端から端まで余分に走らされるの。どちらも体力の無駄遣いよ」
若葉:「うわぁ……満員電車も遠回りも嫌やわ。極端な場所はあかんのやね」
神宮寺:「ええ。では第四の条件。これもコースの違いだけど、『前走がフィリーズレビューだった馬』よ。これも成績がすこぶる悪いの」
若葉:「また名前がオシャレやん! フィリーズレビュー! アイドルグループみたいやのに、これもあかんの?」
神宮寺:「アイドルグループで言えば、彼女たちは『ショートソング専門』なのよ」
神宮寺はホワイトボードに『1400』と『1600』という数字を書いた。キュッというマーカーの摩擦音が静かな部屋に響く。
神宮寺:「フィリーズレビューは1400メートルの短い距離を全力疾走するレース。対して桜花賞は1600メートル。たった200メートルの違いに見えるでしょう? でも、全力疾走した後の最後の200メートルは、心臓が爆発するほど長いのよ。短い距離でスピードを出し切ることに慣れてしまった馬は、最後まで息がもたないの」
若葉:「ううっ、想像しただけで息苦しなってきた……。短距離走者が中距離走らされるようなもんか。確かにそれはキツいわ」
若葉が自分の胸元を押さえて大げさに顔をしかめる。佐倉がその様子を見てクスリと笑った。
佐倉:「そして最後、第五の条件です。これが一番厳しいフィルターかもしれません。ズバリ、『過去のレースで一度でも6着以下に負けたことがある馬』です」
若葉:「……は? え、過去一回でも? 嘘やろ佐倉助手。そんなん、ちょっと体調悪かった日とか、機嫌悪かった日もあるやん!」
若葉が目を丸くして抗議するが、神宮寺は冷徹な眼差しでそれを遮った。
神宮寺:「2013年以降、一度でも6着以下に沈んだことのある馬は、ただの1頭も桜花賞を勝っていないわ。これは揺るがない事実よ」
神宮寺:(春の牝馬はガラスの靴を履いているようなもの。少しでもヒビが入れば、大舞台の圧力で簡単に砕け散る。どんな不利があっても大崩れしない『底力』こそが、G1という極限の舞台で勝つための最低条件なのよ)
若葉:「厳しすぎるやろ……たった一度の失敗も許されへんて、どこのブラック企業やねん……」
若葉が肩を落とす。
神宮寺:「勝負の世界はブラック企業以上にシビアなのよ若葉。この5つのギロチンをくぐり抜けた馬だけが、本当の栄光を掴める。どう? これで『買ってはいけない馬』の輪郭は見えてきたかしら?」
神宮寺の問いかけに、若葉はゴクリと喉を鳴らして力強く頷いた。
若葉:「はいっ! なんか、データって冷たいけどめっちゃ説得力あるわ! で、教授! 次はどういう馬を『買えばええのか』教えてもらえるんやんな!?」
身を乗り出す若葉に、神宮寺はふっと口角を上げた。佐倉もタブレットの次のページを開き、準備を整える。
第2章「黄金の生存戦略とエリートの処方箋」 神宮寺が窓際に置かれた観葉植物の葉を指でそっと撫でると、乾いた微かな音が研究室に響いた。開け放たれた窓からは、春特有の少し湿り気を帯びた生暖かい風が入り込み、先ほどまで部屋を満たしていたコーヒーの香りを窓の外へと押し流していく。
代わりに広がったのは、若葉が乱暴に開けたレモン味のグミの袋から漂う、人工的で甘酸っぱい匂いだった。
佐倉:「若葉さん、さっきお昼ご飯を食べたばかりじゃありませんでしたっけ? そんなに甘いものばかり食べていると、午後の講義で眠くなりますよ」
タブレットの画面をスクロールさせながら、助手の佐倉が呆れたような視線を若葉に向ける。
若葉:「頭使うたら糖分が減るんや! さっきの『買っちゃあかん馬のギロチン』の話で、うちの脳細胞はカロリーを消費しまくったんよ。で、ギロチンの次はなんやの? 早く『これを買えば蔵が建つ』っていうチート技を教えてや!」
神宮寺:(チート技、ね。最近の若者はすぐに近道をしたがる。でも、競馬において確実な近道など存在しない。あるのは、過去の事象から紡ぎ出された確率という名の細い糸だけ。それを何本も束ねて、ようやく命綱になるのよ)
神宮寺は観葉植物から手を離し、ゆっくりとキャスター付きのオフィスチェアに腰を下ろした。革張りの座面が微かに沈み込む。
神宮寺:「チート技なんてないわ。でも、確率を極限まで高める『5つの黄金律』ならある。さあ佐倉くん、まずは第一の条件を彼女の脳にインストールしてあげて」
佐倉:「第一の条件は『去年の冬に行われた同じコースの大きな大会から、一度も別のレースを挟まずに直行してきた馬』です。さらに言うなら、その直行馬が当日、多くの人から『この馬は強い』とトップクラスの期待を集めていることですね」
教授の合図を受け、佐倉が手元の資料を指差した。
若葉:「ええっ? それっておかしない? 冬から春までずっと休んでたんやろ? 普通、本番の前には練習試合みたいな小さいレースに出て、体を慣らした方がええんとちゃうの? アニメの主人公かて、決勝戦の前には雑魚キャラ倒してレベル上げするやん!」
佐倉の言葉に、若葉はパチパチと瞬きをしてから首を横に振った。
神宮寺:「若葉、あなたは『練習試合に出ないと体がなまる』と思っているようだけど、それは昔の話よ。今は『外厩』と呼ばれる、超一流のトレーニングセンターがあるの。例えるなら、学校の小テストを受けずに、山奥の超エリート養成塾で本番の試験問題だけをひたすら解き続けている状態ね」
神宮寺は手元のボールペンを指先でクルクルと回しながら、薄く笑う。
若葉:「えっ、学校行かんと塾だけでええの!?」
神宮寺:「ええ。無駄な練習試合に出ると、怪我のリスクもあれば、移動で疲労も溜まるわ。だから、本当に強いエリートは、無駄な体力を使わずに塾から直接、本番の試験会場に乗り込んでくるの。データでも、この『直行組』で当日上位人気になる馬は、ほぼ百発百中で良い成績を残しているわ」
若葉:「はえー……。今どきの馬は合理的やなぁ。ほな、第二の条件は?」
若葉が感心したように頷きながら、次のグミに手を伸ばす。佐倉がタブレットの画面を切り替えた。
佐倉:「第二の条件は『直前のレースで3番以内に入っていて、さらに客観的な能力スコアが極めて高い馬』です。競馬には『レーティング』という、その馬の強さを世界共通の数字で表した戦闘力みたいなものがあるんですよ」
若葉:「戦闘力! それならうちにもわかるわ! スカウターで測って『戦闘力53万です』ってやつやろ?」
佐倉:「まあ、概念としては近いです。ただ、直前のレースで良い着順を取ったからといって、無条件で信じてはいけません」
佐倉の注釈に、若葉がグミを噛む手を止める。
若葉:「なんで? 直前のレースでメダルもろてるんやから、普通に強いんちゃうの?」
神宮寺:「直前のレースと言っても、参加者のレベルが違えば意味がないのよ。幼稚園児の徒競走で1位になった子と、オリンピック選手の選考会で3位になった子、次に戦って勝つのはどっちだと思う?」
神宮寺が立ち上がり、ホワイトボードの前に移動した。
若葉:「そりゃ、オリンピック選手の方やろ」
神宮寺:「その通り。だから『ただ順位が良いだけ』ではなく、『客観的な能力スコア(レーティング)が高いこと』がセットで求められるの。強い相手と戦って良い成績を残し、高いスコアを持っている馬。これが本物の実力者よ」
神宮寺:(クラスの成績優秀者が、全国模試でも通用するとは限らない。井の中の蛙を見破るためのフィルターが、この客観的な能力スコアよ。人間の目というバイアスを排除できる素晴らしい数字だわ)
若葉:「なるほど! 戦闘力が高いエリートを探せってことやね。連想ゲームみたいに繋がってきたわ。ほな、エリートつながりで第三の条件は?」
若葉のノリに合わせるように、佐倉が言葉を繋ぐ。
佐倉:「エリートと言えば『安定感』です。第三の条件は『これまで走った全レースのうち、1位か2位になった確率が約7割以上あること』。そして先ほどの消し条件にもありましたが、『大負けした経験が一度もないこと』です」
若葉:「7割!? 10回走ったら7回は銀メダル以上ってこと!? そんな優等生、おるん?」
佐倉:「いるんですよ、桜花賞という大舞台には。過去の優勝馬を見ても、ほぼ全員がこの恐ろしいほど優秀な成績をキープしたまま本番に挑んできています」
若葉:「うーん……でもさ、たまにはポカする日かてあるやん。お腹痛いとか、寝不足とか。そういう人間味がある方が応援したならへん?」
神宮寺:「人間味で馬券は買えないわ、若葉。ここは残酷な数字の世界よ。少しでも波がある馬は、あの広くて過酷な阪神のコースで、最後の最後に心が折れるの。常にトップ争いをしてきた『負けを知らないエリートのプライド』こそが、急な上り坂を駆け上がる最後のエンジンになるのよ」
神宮寺の冷徹な声が切り裂く。
若葉:「うっ……教授の言うこと、いちいち刺さるわ……。で、その過酷なコースって話に関連するのが第四の条件?」
神宮寺:「その通り。勘が良くなってきたわね」
神宮寺はホワイトボードに、緩やかな下り坂から急な上り坂へと続く簡単な図を描いた。
神宮寺:「第四の条件は『コースに合った走り方ができること』よ。このレースが行われる場所は、最初はゆったりと進んで、最後の直線で一気にスピードを爆発させる『持久走からの短距離ダッシュ』みたいな展開になりやすいの」
若葉:「持久走からの短距離ダッシュ……体育の授業で一番しんどいやつやん! 最初から全力で飛ばしたらあかんの?」
佐倉:「最初から飛ばすと、最後に待ち受けている急な坂道で足が止まってしまうんです。だから買うべきは、道中は真ん中より少し前、あるいは真ん中あたりで体力を温存し、最後の直線で『最も速いダッシュ』を決められる馬です。ずっと後ろでサボっていて最後にだけ走る馬は、届かずに負けてしまう確率が高いんですよ」
佐倉が図を指差しながら解説に加わる。
若葉:「なるほどなぁ……。息継ぎを我慢して我慢して、最後のターンで一気にスパートかける水泳の選手みたいな感じか」
神宮寺:「良い例えね。そして最後の第五の条件。それは『良い席に座っていて、かつ良い血筋であること』よ」 神宮寺がマーカーを置き、パンと両手を叩いた。乾いた音が響く。
若葉:「良い席? 指定席の話?」
佐倉:「枠順のことです」佐倉がすかさず訂正する。「最初の消し条件で『一番内側と一番外側はダメ』と言いましたよね。つまり買うべきは『2番目から7番目の間の、真ん中あたりのスタート位置』に入った馬です。そこが一番、周りに邪魔されずに自分のペースで走れる『特等席』なんですよ」
若葉:「映画館でも真ん中の席が一番見やすいもんな! で、良い血筋ってのは?」
佐倉:「お父さん馬の遺伝ですね。このコースはパワーと最後のダッシュ力が両方必要なので、その才能を伝えやすい特定のお父さんを持った馬……データで言えば『キズナ』や『エピファネイア』といった名前のお父さんを持つ馬が、圧倒的に良い成績を残しています」
若葉:「お父さんの才能を受け継ぐんやね……なんか少年漫画の血統モノみたいで熱いやん!」
若葉が興奮したように立ち上がり、ドンッと机を叩いた。袋から飛び出したレモングミが、机の上をコロコロと転がる。
神宮寺:(要約としては少し乱暴だけれど、本質は捉えているわね。複雑な事象をシンプルに言語化できるのは、彼女の意外な才能かもしれない)
神宮寺は満足げに頷き、冷めきったコーヒーの残りを飲み干した。苦味が舌の奥に広がる。
神宮寺:「その通りよ、若葉。これで『買ってはいけない馬』と『買うべき馬』のフィルターが完成したわ。あとは、今年実際に走る馬たちを、このフィルターにかけていくだけね」
若葉:「おおっ! いよいよ実践編やな! 佐倉助手、はよ次のデータ出して!」
佐倉が苦笑いしながらタブレットを操作し、今年の出走予定馬のリストを画面に映し出した。ズラリと並ぶ馬の名前を見つめ、三人の目に真剣な光が宿る。
佐倉:「では教授、ここからは実際の登録馬を対象に、過去データと照らし合わせて『消せる馬』を具体的に炙り出していきましょうか」
佐倉の言葉に、神宮寺は静かに頷いた。
第3章「ダイヤモンドの粉砕と三重の葬送曲」 神宮寺は、窓際から移動し、研究室の中央にある革張りのソファに深く腰を下ろした。足を組み、長い指先で顎を支える。その視線は、ホワイトボードに書き出された今年の桜花賞登録馬リストを、まるで獲物を狙う猛禽類のような鋭さで射抜いていた。
神宮寺:「佐倉くん、コーヒーのおかわり。今度は少し濃いめにして。若葉の関西弁とグミの匂いで、私の論理回路が少しオーバーヒート気味だわ」
佐倉:「了解しました、教授。若葉さん、そのグミ、僕にも一つください。脳をフル回転させないと神宮寺教授のスピードについていけませんから」
佐倉が手際よく豆を挽き始めると、ガリガリという規則的な音が部屋に心地よく響く。若葉は
若葉:「はいな!」
とレモン味のグミを佐倉の口に放り込み、自分も一粒放り投げた。
若葉:「教授! うちは準備万端やで。さっきの『消しのギロチン』を、この名前の並んでるリストにガツンと落としていこうや! まずは誰から生贄……やなくて、消去対象にするん?」
神宮寺:「……若葉。競馬を『生贄』なんて呼ぶのは、最近のダークファンタジーアニメの影響かしら? でも、その直感は悪くないわ。まずは、データという名の審判が下す『弁解無用の消し馬』4頭を選び抜くわよ。まずはこの子……ディアダイヤモンドね」
若葉:「ディアダイヤモンド! 名前はキラキラしてて、めっちゃ走りそうやん!」
神宮寺:「名前の輝きと、脚の輝きは別物よ、若葉」
神宮寺が、タブレットの画面を指先で弾くように操作した。
神宮寺:「彼女は前走、アネモネステークスを勝っているわ。でも、思い出して。第1章で話した『第二のギロチン』を」
若葉:「あっ……アネモネ組は過去10年で1頭も馬券に絡んでへんってやつや!」
佐倉:「その通りです、若葉さん」佐倉がコーヒーを神宮寺の前に置きながら補足する。「さらに、彼女はシンザン記念で9着という大敗を喫しています。教授の言う『第五のギロチン』、一度でも6着以下に負けた馬は勝てないという鉄則にも抵触するんです」
若葉:「ダブルギロチンやん……。キラキラのダイヤモンドが、粉々に粉砕されてもうた……」
神宮寺:(名前の響きに惑わされる大衆の心理こそが、オッズの歪みを生む。データは常に、その歪みを冷酷に指摘してくれるわ。次は、もっと顕著なノイズを排除しましょうか)
神宮寺:「次はルールザウェイヴ。彼女も同じ理由よ。前走アネモネステークス2着。さらに彼女の場合、能力スコアであるレーティングが98……出走馬の中で最低水準だわ。戦闘力5の農民が、魔王の城にサンダルで乗り込むようなものよ」
若葉:「サンダルで魔王城は死ぬわ! 即死イベントやん!」
若葉が椅子から転げ落ちそうになりながら笑う。佐倉が慌てて彼女を支えた。
佐倉:「教授、例えが過激すぎますよ。でも若葉さん、データは嘘をつきません。実績のない馬が、いきなりG1という魔境で覚醒することは、現実の競馬では万に一つもないんです」
若葉:「なるほどなー。夢を見るのはアニメの中だけにしとけってことやな。ほな、3頭目は?」
神宮寺は、リストの中の一頭をペンでぐるりと囲んだ。
神宮寺:「エレガンスアスク。彼女も厳しいわ。前走のチューリップ賞で7着。第1章の『第一のギロチン』、前走4着以下の馬は3着内率が極めて低いというデータに直撃しているわ。それに、彼女には重賞での実績が全くない。経験値が足りなすぎるのよ」
若葉:「エレガンスなのに、エレガントに負けちゃったんやね……。厳しいなぁ、データ様は」
神宮寺:「そして4頭目。プレセピオ。彼女はフィリーズレビュー組の5着。前走4着以下というだけで消しなのに、低調なフィリーズレビュー組、さらには過去に8着という大敗歴もある。まさに『消しの三重奏』、トリプルギロチンよ」
若葉:「ひえぇぇ……! もう、首がいくつあっても足りへんやん!」
若葉が自分の首をすくめる。その様子を見て、佐倉が感心したように呟いた。
佐倉:「これで、まずは4頭が完全に消えましたね。神宮寺教授、ここまではデータに忠実な、完璧なスクリーニングです。でも、このリストに残っている馬たちも、まだ一癖も二癖もありそうですが……」
神宮寺は、カップから立ち上る湯気をじっと見つめた。その瞳の奥には、データだけでは割り切れない「何か」に対する疑念が、静かに、しかし確実に渦巻いていた。
神宮寺:「……ええ。データは完璧よ。でも、競馬には時として、その論理を軽々と飛び越えてくる『バグ』のような存在が現れる。私はこの完璧な予想さえ、どこか疑っているの。まだ、何かが足りない気がするわ」
神宮寺:(論理の果てにあるのは、真実か、それとも精巧な罠か。若葉のような無垢な情熱さえも、私の冷徹な数式に取り込めたら、もっと完璧な結論に辿り着けるのかしら……)
若葉:「教授、なんか怖い顔してはるで! 続き、早く教えてや! まだ消せる馬、おるんやろ!?」
若葉の明るい声が、神宮寺の思考の深淵をかき消した。
第4章「執念のバグと距離の壁を越える刃」 窓の外では、風に煽られた桜の花びらが数片、研究室のベランダへと迷い込んできた。神宮寺はその淡いピンク色の侵入者を一瞥し、再び手元のタブレットに視線を落とした。
神宮寺:「佐倉くん、次のコーヒーは豆を変えて。エチオピアの浅煎り、華やかな香りが欲しいわ。思考が少し澱んできた」
佐倉:「かしこまりました。若葉さん、グミのおかわりは?」
佐倉が手際よくミルを回す横で、若葉は最後の一粒を名残惜しそうに口に放り込んだ。
若葉:「グミは品切れや! でも、うちのやる気は満タンやで! 教授、さっきの4頭に続いて、さらに『サヨナラ』する馬を教えてや!」
神宮寺は、細い指先で画面をスワイプした。リストに残った名前が、まるでオーディションの最終選考に残った候補生のように並んでいる。
神宮寺:「いいわ、若葉。論理の刃をさらに研ぎ澄ませましょう。次に削ぎ落とすのは……この子、ショウナンカリスよ」
若葉:「えっ! この子、追加登録料を払ってまで出てきた執念の塊やん! アニメやったら、その執念で奇跡を起こす枠やろ?」
若葉が身を乗り出す。神宮寺はフッと鼻で笑った。
神宮寺:「執念で馬券が当たるなら、今頃私はこの研究室を黄金で埋め尽くしているわ。彼女は前走のフィリーズレビューで8着。第1章の『第一のギロチン』、前走4着以下は即アウト。おまけに阪神JFでも7着と大敗している。一度でも6着以下に沈んだ馬は勝てない……『第五のギロチン』のダブルパンチよ」
若葉:「ううっ……執念もデータには勝てへんのか。厳しいなぁ」
佐倉が香ばしいコーヒーを差し出しながら、静かに付け加える。
佐倉:「若葉さん、執念は時に盲目になります。データ上、彼女がここで巻き返す確率は限りなくゼロに近い。それがG1という舞台の重みなんです」
若葉:「なるほどな……。ほな、6頭目は?」
神宮寺:「アイニードユーね。彼女も厳しいわ」
神宮寺が画面の一点を鋭く指差した。
神宮寺:「前走フィリーズレビュー3着。一見、権利を取って好調に見えるけれど、第1章の『第四のギロチン』を思い出して。フィリーズレビュー組は1400mのスピード勝負に特化しすぎていて、阪神マイルのスタミナ勝負では息切れする。事実、彼女はマイル戦での連対実績が一度もない。典型的な距離の壁ね」
若葉:「1400mのアイドルが、1600mのバラードを歌わされて声が枯れる……みたいな感じ?」
神宮寺:「面白い例えね、若葉。まさにその通りよ。そして最後、7頭目は……ロンギングセリーヌ」
若葉:「えーっ! この子、前走のフラワーカップで2着やん! めっちゃ勢いある感じするけどあかんの?」
若葉の抗議に、神宮寺は冷徹な視線を向けた。
神宮寺:「彼女の前走は中山の1800m。第1章のコース適性の話を忘れたの? さらに言えば、過去10年のデータに『前走フラワーカップ組』の好走例がそもそも掲載されていない。データにないということは、母数が少ないか、あるいは箸にも棒にもかからなかったということ。未知の要素に賭けるのは、私の美学に反するわ」
神宮寺:(データがないことは、それ自体が強力な否定の根拠になる。暗闇の中に道があると思い込むのは、無謀なギャンブラーの特権よ。私は光の当たっている場所しか歩かない)
若葉:「教授、なんかもう……リストがスカスカになってきたで。でも、まだこの『ギャラボーグ』って子が残っとるやん。阪神JFで2着やった有名人やろ? この子は?」
若葉の問いに、神宮寺は少しだけ眉をひそめた。
神宮寺:「彼女は……『来たら仕方ない』と割り切って消す、最後のボーダーラインね。前走クイーンCで9着。これも『第一』と『第五』のギロチンに直撃している。本来なら即消しよ。でも、阪神JF2着の実績があるから、一部のファンが盲目的に買うでしょうね。私はあえて、そのノイズを無視するわ」
若葉:「ひぇぇ……。過去の栄光すらバッサリやな。でも、これでスッキリしたわ! あんなにいた馬が、もう指で数えるほどしかおらへん!」
若葉が晴れやかな顔で笑う。佐倉も手元のリストを整理し、大きく頷いた。
佐倉:「これで論理的なスクリーニングは完了ですね。神宮寺教授、いよいよ……ですね」
神宮寺:「ええ。でも、ここからが本当の地獄よ。残った馬たちの中から、現時点での『最適解』を導き出すわ。ただし、私が選ぶ結論さえ、私はまだ100%は信じていない……」
神宮寺の瞳に、再び深い思索の影が落ちた。
第5章「論理の果て、そして桜の蕾が綻ぶ時」 夕暮れ時、研究室のブラインドから漏れる光がオレンジ色から深い紫へと溶け込んでいく。神宮寺は、使い古された万年筆のキャップをカチリと閉め、手元のノートに最後の二つの名前を書き込んだ。
神宮寺:「さて、若葉。論理の迷宮を抜けて、ようやく光が差し込む出口に辿り着いたわ。データという名の冷徹な執事たちが、最後に跪いて差し出した二頭……それが、スターアニスとドリームコアよ」
若葉:「おおっ! ついに真打ち登場やな! 阪神JFの女王・スターアニスと、クイーンCを制したドリームコア! まさにエリート中のエリートやん!」
若葉が興奮して身を乗り出し、机の上の資料がハラリと床に舞い落ちた。佐倉がそれを苦笑しながら拾い上げる。
佐倉:「教授、やはりこの二頭に辿り着きましたか。スターアニスは阪神JFからの直行で、当日も2番人気以内が濃厚。データ上は連対率100%の鉄板パターンです。対するドリームコアも、キズナ産駒で通算連対率100%。どちらも神宮寺教授が挙げた『買うべき条件』を完璧に満たしていますね」
神宮寺:「ええ。でもね、佐倉くん。私はこの完璧すぎる結論さえ、まだどこかで疑っているの。データは過去の影に過ぎない。現実という生き物は、時として影を裏切り、全く別の形を見せつけることがある……」
神宮寺:(スターアニスはドレフォン産駒で母父ダイワメジャー、スピードの絶対値は高いけれど、今のタフな阪神の馬場で最後の一踏ん張りが利くかしら。ドリームコアは関東馬で初の遠征……不安要素を挙げればキリがない。論理を信じつつも、常に裏切りを想定するのが私の性分ね)
神宮寺は椅子の背もたれに体を預け、深く息を吐いた。
神宮寺:「ま、予想の続きは枠順が決まってからにするわ。今日はもうおしまい。……そういえば、昨日の大阪杯は見ていたかしら?」
若葉:「見ましたよ! メイショウタバル、めっちゃ惜しかったですね! 武豊騎手の完璧な逃げで、あとちょっとやったのに……!」
若葉が悔しそうに拳を握る。
神宮寺:「ええ、タバルは自分の競馬を完璧に遂行したわ。でも、それを外から力でねじ伏せたクロワデュノール……。彼、強すぎないかしら? まるで重戦車がフェラーリを追い抜くような、圧倒的な底力だったわ」
佐倉:「本当に……。僕は教授の予想通り、タバルとエコロディノス、ダノンデサイルの3連複を買ってましたが、クロワデュノールが強すぎてお手上げでした」
佐倉がタブレットでレース結果を表示させる。
若葉:「そうなんよ! うちもタバルが粘った時は『教授、天才や!』って叫んだんやけどな。それより、エコロディノス……レース後に池添ジョッキーが下馬してたけど、大丈夫なんかな? 心配やわ……」
神宮寺:「……ええ。彼のような素質馬が怪我で消えるのは、競馬界にとっての損失よ。無事であることを祈るしかないわね」
神宮寺は窓の外、夜の帳が下りたキャンパスを見つめた。
神宮寺:「タバルは惜しくも2着、エコロディノスは心配。でも、競馬は続いていく。来週は桜花賞……。若葉、あなたのブルーレイ代が紙屑にならないよう、枠順が出たらもう一度、この論理の刃を研ぎ直すわよ。いいわね?」
若葉:「はいっ! 教授、うち一生ついていくで!」
若葉の元気な返事が、夜の研究室に明るく響き渡った。
(完)
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第6章:壁と遠回りのデスゲーム、あるいは外れくじの悲劇(6~9章)
窓ガラスを打ち据える雨粒の音が、薄暗い研究室に絶え間なく響いていた。 金曜日の午後。 分厚い雲に覆われた空は太陽の光を完全に遮断し、部屋の中には蛍光灯の無機質な白い光と、エスプレッソマシンから立ち上る濃密なコーヒーの香りだけが満ちている。
若葉:「あーあ、バリバリッ……これ、主人公の初期位置が完全にクソゲーやんか。 バリッ、ボリボリ……」
部屋の隅にあるパイプ椅子の上で胡座をかきながら、若葉がコンソメ味の厚切りポテトチップスを豪快に噛み砕いていた。 彼女の膝の上にはタブレットがあり、今期話題のバトルロイヤル系アニメが再生されている。
白衣のポケットに両手を入れ、窓の外の雨滴を無言で見つめていた神宮寺が、ゆっくりと振り返った。
神宮寺:「若葉。 ポテトチップスの破砕音とあなたの独り言で、私の脳内で行われている美しい確率計算が著しく妨害されているのだけれど。 その『クソゲー』とはなんのことかしら」
若葉:「あ、ごめん教授! いやな、このアニメの主人公、ゲーム開始直後に『毒の沼地のど真ん中』に飛ばされてスタートするねん。 周りは敵だらけやし、動いたら毒で体力減るし、開始十秒で詰んどるんよ。 初期配置の運が悪すぎやろって思って」
若葉がポテトチップスを指で摘んだまま画面を指差す。 その指先から零れ落ちた塩の粉を、佐倉が布巾で手際よく拭き取りながら会話に加わった。
佐倉:「バトルロイヤルゲームにおいて、開始位置の有利不利は命に直結しますからね。 マップの端や障害物の多い場所に配置されると、それだけで生存確率が極端に下がります。 現実のスポーツでも、ポジションの差は大きな壁になりますよ」
佐倉の言葉を聞いた神宮寺は、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、黒板の前に歩み寄った。 コツ、コツというヒールの音が冷たい床に響く。
神宮寺:「……佐倉くんの言う通りよ。 初期配置の絶望。 それはゲームの中だけの話ではないわ。 今日発表された『枠順』という名のスタート位置こそが、乙女たちにとっての残酷な初期配置なのよ」
(アニメの理不尽なスタート位置……素晴らしい連想ね。 実力に関係なく、運命のダイス一つで死地に追いやられる。 これこそが枠順の恐ろしさを説明するのに最も適した比喩だわ)
神宮寺は赤いチョークを手に取り、黒板に大きく三つの名前を書き殴った。 チョークが黒板を叩く乾いた音が、雨音に混じってリズミカルに鳴る。
『1枠1番フェスティバルヒル』 『1枠2番サンアントワーヌ』 『8枠17番ブラックチャリス』
神宮寺:「さあ若葉、ポテトチップスを仕舞いなさい。 第1章で語った『第三のギロチン』……極端な端っこのスタート位置による処刑を執行するわよ。 まずはこの二頭、フェスティバルヒルとサンアントワーヌね」
若葉は慌ててお菓子の袋の口を閉じ、ウーロン茶で喉を潤してから黒板を見上げた。
若葉:「1番と2番……。 一番内側のコースやんね。 前にも言うてたけど、一番内側って走る距離が短くなるんやから、普通に考えたら大当たりの場所とちゃうの? なんでこれが毒の沼地なん?」
若葉が首を傾げる。 最短距離を走れる場所がなぜ不利になるのか、日常の感覚では確かに理解しがたい。
佐倉が淹れたてのエスプレッソを神宮寺のデスクに置き、若葉の方に向き直った。
佐倉:「若葉さん、陸上競技のトラックを走る時、誰もいないなら内側が一番速いのは間違いありません。 でも、競馬は十頭以上の馬が同時に、猛スピードで走るんです。 一番内側のスタート位置から飛び出すと、どうなると思いますか?」
若葉:「ええっと……すぐ隣に別の馬がおるから……」
神宮寺:「その通りよ」神宮寺がチョークの先で1番と2番をトントンと叩く。 「スタートした直後、外側にいる十頭以上の馬たちが、少しでも短い距離を走ろうとして一斉に内側へ斜めに殺到してくるの。 一番内側にいるフェスティバルヒルとサンアントワーヌは、外から押し寄せる巨大な壁に蓋をされる形になるわ」
若葉:「うわっ、それって満員電車でドアの端っこに押し付けられるってやつやん! でもさ、教授。 馬ってめっちゃ力強いんやろ? 外から来られたら、逆に肩バーンってぶつけてはじき飛ばしたらええんちゃうの?」
若葉が両腕を曲げて、プロレスラーのように肩をぶつける仕草をする。 佐倉がそれを見て苦笑いを浮かべた。
佐倉:「若葉さん、彼女たちはまだ春を迎えたばかりの、経験の浅い若い女の子なんですよ。 体重が四百キロ以上あるとはいえ、周りを屈強な馬たちに隙間なく囲まれ、前にも横にも行けない状態になれば、パニックを起こしてしまいます」
神宮寺:「精神的な圧迫感よ」神宮寺がエスプレッソのカップを持ち上げ、芳醇な香りを嗜みながら言葉を紡ぐ。 「一度閉じ込められると、自分の好きなペースで走ることは不可能になる。 前の馬が遅くなればブレーキをかけさせられ、外に出ようにも壁があって出られない。 身動きが取れないまま体力を消耗し、最後の直線を迎える頃には走る気力を失っているのよ」
(人間でさえ、四方を大柄な人間に囲まれた満員エレベーターの中では息苦しさを覚える。 ましてや、広大な草原を自由に走ることを本能とするサラブレッドにとって、そのストレスは計り知れないわ。 だからこそ、過去十年間、1枠から勝者は生まれていないの)
若葉:「なるほどなぁ……。 最短距離の特等席やと思ったら、実は四方八方を敵に囲まれる地獄の牢屋やったんやな。 フェスティバルヒルもサンアントワーヌも、運が悪すぎたってことか……」
若葉が同情するようにため息をつく。
神宮寺:「ええ。 初期配置の不運によって、彼女たちの能力は発揮される前に封殺されるわ。 論理的に見て、この二頭は馬券の頭(一着)としては完全に消しよ」
神宮寺は冷徹に言い放ち、フェスティバルヒルとサンアントワーヌの名前に上から真っ直ぐな横線を引いた。
神宮寺:「そして次。 これが一番残酷なギロチンかもしれないわね」
神宮寺の視線が、黒板の一番下に書かれた名前に移動した。
『8枠17番ブラックチャリス』
その名前を見た瞬間、若葉がパイプ椅子からガタッと立ち上がった。
若葉:「ちょっと待ってや教授! ブラックチャリスって、あの大種牡馬キタサンブラックの娘やんか! しかも今まで全部のレースでメダルもろてる、めっちゃ優秀な優等生やで!? なんでこの子が消しなん!?」
若葉の抗議は熱を帯びていた。 あんてい感抜群の血統馬が、なぜあっさりと切り捨てられるのか。
佐倉がタブレットの画面を操作し、競馬場のコース全体を見下ろす図面を表示させた。
佐倉:「若葉さんの言う通り、ブラックチャリスの実力は誰もが認めるトップクラスです。 しかし、彼女が引いてしまった『17番』というスタート位置が致命的すぎるんです。 図を見てください。 一番外側の端っこです」
若葉:「外側やったら、さっきの内側みたいに囲まれる心配はないやん! 自由に走れるんやから、むしろええんとちゃうの?」
若葉が画面を覗き込みながら反論する。 神宮寺はチョークを置き、窓に打ち付ける雨を見つめた。
神宮寺:「確かに、誰にも邪魔されずに走れるわ。 でもね、若葉。 陸上競技で、一番外側のレーンを走る選手が、内側の選手と同じスタートラインから走り出したらどうなるかしら?」
若葉:「え? ……あ、そっか。 カーブを曲がる時に、外側の方が円が大きいから、内側の人より長い距離を走らされることになるんか!」
佐倉:「その通りです」佐倉が図面上のコースの外側を指でなぞる。 「競馬場は陸上トラックのようにスタート位置がズレていません。 全員が横一線からスタートします。 つまり、一番外側に配置されたブラックチャリスは、レース中ずっと大回りをさせられ、内側の馬よりも余分に長い距離を走らされる物理的なハンデを背負うんです」
佐倉の説明を聞き、若葉は口元を手で覆った。
若葉:「長い距離……それって、どれくらい損するん?」
神宮寺が静かに振り返る。
神宮寺:「コーナーを一つ曲がるたびに、数メートルずつ損をしていくわ。 このコースは外回りの大きなカーブがあるから、最後まで外側を走り続ければ、内側の馬よりも十メートル近く……つまり、車数台分も余分に走ることになるのよ」
(十メートル。 たったそれだけと思うかもしれない。 しかし、コンマ一秒を争い、最後の数センチで勝敗が決する極限のスポーツにおいて、その距離のロスは絶対に覆せない巨大な鉛の重りとなる。 それがデータが示す『おおそと枠の死』の正体よ)
若葉:「でもさ、教授! 賢い子なんやから、スタートしたらすぐ内側に向かって斜めに走って、短いコースに入り込んだらええんちゃうの!?」
若葉が必死に食い下がる。 アニメの主人公なら、機転を利かせて不利な状況を覆すはずだ。
神宮寺はふっと息を吐き、首を横に振った。
神宮寺:「それができれば苦労はしないわ。 内側に向かって走ろうとしても、そこにはすでに他の馬たちが密集しているの。 無理に入り込もうとすれば激突して事故になるし、スピードも落ちる。 外側にいる馬には『他の馬の後ろに回って一番後ろに下がる』か、『ずっと外側を長い距離走る』という、二つの地獄しか残されていないのよ」
若葉:「地獄の二択やん……。 どっち選んでも負け確定みたいなもんやんか」
神宮寺:「それが『8枠の悲劇』よ。 どれほど才能があっても、どれほど努力をしてきても、スタートのくじ引き一つで物理的な限界を押し付けられる。 過去十年間、一番外側のグループから勝者が出ていないのは、偶然ではなく完全な物理法則の帰結なの」
神宮寺は黒板に歩み寄り、ブラックチャリスの名前にも深く横線を引いた。 チョークの粉が、パラパラと床に舞い落ちる。
神宮寺:「能力だけを見れば、ブラックチャリスは間違いなく主役の一人だった。 でも、この過酷な初期配置が彼女から主役の座を奪い取ったわ。 だから、冷酷だけれど消しよ。 私たちの論理に、同情が入り込む隙間はないの」
研究室は静まり返り、窓を叩く雨音だけがやけに大きく響いた。
若葉:「ううっ……理不尽や。 実力あるのに、席の場所が悪かっただけで消されるなんて。 競馬の神様って、めっちゃ性格悪いな……」
若葉がポテトチップスの袋を握りしめ、悔しそうに下を向く。
佐倉が新しいウーロン茶を若葉の横にそっと置いた。
佐倉:「若葉さん、理不尽だからこそ、僕たちはこうしてデータを分析するんです。 運という見えない神様に振り回されないために、過去の事実という確固たる盾を手にする。 神宮寺教授のギロチンは、決して残酷なものではありません。 僕たちを迷いや幻想から救い出してくれる、道標なんです」
若葉:「佐倉助手……」
若葉は顔を上げ、黒板の横線が引かれた三つの名前をじっと見つめた。 そして、両手で自分の頬をパンと叩く。
若葉:「せやな! かわいそうやけど、ここで情けをかけたら、うちのブルーレイが買えへんくなる! 運が悪かったこの三頭の分も、残った馬たちをきっちり見極めたるわ!」
神宮寺:「その意気よ、若葉」神宮寺が微笑み、チョークをトレイに置いた。 「これで、迷いを誘うノイズはさらに減ったわ。 内側の牢屋に囚われた者、外側のこうやを走らされる者。 彼女たちを除外し、最も恵まれた特等席にいる馬だけを抽出する。 私たちの論理の刃は、雨に濡れることなく、さらに鋭く研ぎ澄まされていくわよ」
雨の降る薄暗い研究室で、神宮寺の言葉が力強く響く。 残酷な枠順のギロチンを経て、真の勝者を探し出すための秘密講義は、いよいよ最終局面へと向かっていた。
第7章:雨音のレクイエムと、泥に沈む四つの幻想 金曜日の朝から降り続いた大雨は、夜になっても勢いを衰えさせることなく、研究室の分厚い窓ガラスを乱暴にたたき続けていた。
部屋の中には、佐倉がペーパードリップで丁寧に淹れた深煎りグアテマラの香りが漂っている。 雨の日の湿気を帯びた重い空気と、カカオのようなほろ苦い香りが混ざり合い、独特の密室感を作り出していた。
若葉:「あーあ、せっかくの週末やのに大雨やんか! これじゃあ、今週から始まった『魔法少女マジカル・ウェザー』の第一話みたいに、ヒロインの魔法が湿気で不発になっちゃうで!」
窓枠にひたいを押し付けながら、若葉が恨めしそうに外の暗闇を睨む。 彼女の言葉に、マグカップを片手に持った神宮寺が、ゆっくりとキャスター付きの椅子を回転させた。
神宮寺:「魔法少女のステッキが湿気で壊れるかどうかはどうでもいいわ、若葉。 問題は、この大雨が日曜日の阪神競馬場にどういう『魔法』をかけるかよ」
若葉:「魔法? 雨降って地固まる、みたいなええ魔法なん?」
若葉が振り向くと、佐倉がタブレットの画面をフリックしながら静かに首を横に振った。
佐倉:「逆です、若葉さん。 日曜日は晴れて『良馬場』という発表になるかもしれません。 でも、表面の芝が乾いて見えても、地面の奥深く……路盤には金曜日の大量の水分がたっぷりと残っています。 つまり、足を踏み込むたびにズブズブと沈み込む、非常に力のいる『タフな馬場』になるんです」
佐倉の説明を聞き、神宮寺はデスクの上に広げられた枠順表をペン先でトントンと叩いた。
神宮寺:「佐倉くんの言う通りよ。 そして、この『見えない泥沼』という異常気象のバグは、私たちが前章までで築き上げた完璧な理論……『内側の特等席が有利』というセオリーを根底から覆すほどの破壊力を持っているわ」
(過去のデータは絶対よ。 でも、自然の猛威は時として統計を凌駕する。 パンパンに乾いた高速道路を走るためのデータは、泥だらけのオフロードではなんの役にも立たない。 前提条件が崩れた今、もう一度、論理の刃を別の角度から振り下ろさなければ)
若葉:「えっ!? ほな、せっかく真ん中のええ席引いたあの子……うちらの希望の星やったアランカールはどうなるん!?」
若葉が慌てて机に駆け寄り、枠順表の「4枠7番」を指差す。 神宮寺の瞳が、蛍光灯の光を反射して冷たく光った。
神宮寺:「……消しよ。 あるいは、良くても3着までのオマケ。 彼女を『絶対的な主役』として買うことは、論理的にもう不可能になったわ」
若葉:「な、なんでや! 4枠7番って、特等席中の特等席って教授も言うてたやんか!」
若葉の悲鳴に近い抗議に対し、神宮寺は黒板の前に立ち、三つの丸を描いた。 真ん中に「アランカール」、その左に「アイニードユー」、右に「リリージョワ」。
神宮寺:「席自体は悪くないわ。 でも、両隣に座る人間が最悪なのよ。 若葉、満員電車であなたの両隣に、絶対に座席を譲らない屈強なラガーマンが座ってきたらどうなる?」
若葉:「そりゃもう、肩身狭くてペチャンコやわ。 息もできへん」
神宮寺:「それが今のアランカールよ」
神宮寺が真ん中の丸を赤いチョークで塗りつぶす。
神宮寺:「内側のアイニードユーには、ポジション取りに命を懸ける川田騎手が乗っている。 そして外側のリリージョワは、何がなんでも前に行きたい逃げ馬よ。 スタートした瞬間、この二頭が猛烈な勢いでアランカールを左右から挟み込むわ。 結果として彼女は、ばぐんの密集した窮屈な場所に閉じ込められる」
佐倉がタブレットを若葉の前に差し出し、補足する。
佐倉:「ただでさえ精神的なストレスがかかる上に、アランカールは馬体重が430キロ台と非常に小柄で軽いんです。 軽い女の子が、水分を含んで重くなった泥沼のような馬場を、周りから飛んでくる泥の塊を浴びながら走らされる……想像してみてください」
若葉:「ひえっ……。 体力ゲージが、走る前からゴリゴリ削られていくやん! 日本刀みたいな鋭い武器持ってるのに、泥まみれで鞘から抜けへん状態になるんか……」
若葉が絶望的な表情で両手で頭を抱える。
神宮寺:「その通りよ。 展開の圧迫と、重い馬場によるフィジカルの限界。 この二つの逆風は、彼女の鋭い切れ味を完全に殺すわ。 だから、冷酷だけれど彼女はここで『消し』のリストに入るの」
神宮寺は振り返り、黒板の端に『来たら仕方がない馬』という新しい見出しを書いた。
神宮寺:「さあ、悲しんでいる暇はないわ。 馬場が重くなるという新事実を利用して、さらに怪しい馬たちを論理的に処刑していくわよ。 次は……ジッピーチューンね」
若葉:「ジッピーチューン! この子、めっちゃ速そうな名前やし、データでも悪くない成績やったやん?」
神宮寺:「名前の通り、彼女は生粋のスピード狂よ」
神宮寺はマグカップに残ったコーヒーを飲み干し、口元を拭った。
神宮寺:「彼女の血統、お父さんのロードカナロアとお母さんのお父さんのCity Zipは、アメリカの乾いたダートや、開幕直後の綺麗な芝生を猛スピードで駆け抜けるための『スポーツカー』の遺伝子なのよ」
若葉:「スポーツカーやったら、めっちゃ強いやんか!」
佐倉:「若葉さん、泥沼の山道にフェラーリを持っていったらどうなりますか?」と、佐倉が静かに問いかける。
若葉:「あ……。 タイヤがツルツル滑って、軽トラに抜かれるわ」
神宮寺:「ええ。 ジッピーチューンのスピード血統は、今回のタフな馬場では最大の弱点に転落するわ。 一歩踏み込むごとに足が滑り、最後の阪神の急な上り坂では完全にエンジンがストップする。 良馬場なら本命級でも、この馬場では『来たら事故』レベルのノイズよ。 だから消し」
チョークの音が響き、ジッピーチューンの名前が黒板に刻まれる。
(血統は嘘をつかない。 綺麗なステージで踊るための靴を履いた馬に、泥濘の行軍は耐えられないわ。 適性のミスマッチを見抜くことこそ、分析の醍醐味ね)
若葉:「うわぁ……天気が変わるだけで、フェラーリが粗大ゴミになっちゃうなんて。 競馬って恐ろしいな。 ほな、次は誰を消すん?」
若葉が身震いしながら尋ねると、佐倉が手元の資料を一枚めくった。
佐倉:「次はスウィートハピネスです。 彼女は血統や展開以前に、もっと根本的な問題を抱えています」
若葉:「根本的な問題? 幸せが足りひんの?」
佐倉:「いいえ、闘争心と体力が足りないんです」
佐倉がタブレットに表示した調教(練習)のタイムを指差す。
佐倉:「大一番のG1レースに向けた最終の合同練習で、彼女は一緒に走った練習相手に遅れてゴールしてしまったんです。 しんば戦の頃から一度もそんなことはなかったのに、この一番大事な時期に、です」
若葉:「ええっ! それって、アニメで言うたら決勝戦の前にヒロインが謎の高熱で倒れるベタな展開やん!」
神宮寺が深く頷いた。
神宮寺:「まさにその通りよ。 春の牝馬はガラス細工。 少しの体調の変化やメンタルの落ち込みが、取り返しのつかない結果を生むの。 ただでさえ底力が問われる過酷な馬場で、状態が100パーセントではない馬が、万全のライバルたちを逆転できる魔法なんて存在しないわ。 だから、無条件で消し」
若葉:「厳しいなぁ……。 でも、確かに体調不良の子に無理させたらあかんもんな。 これで3頭消えたけど、最後の1頭は誰なん?」
神宮寺はチョークを強く握り直し、最後に残った名前を力強く書き殴った。
神宮寺:「リリージョワよ。 さっき、アランカールを外側から潰しに行くと説明した逃げ馬ね」
若葉:「えっ、あの子あかんの!? アランカール潰すくらい元気なんやったら、そのまま一番前を走ってゴールしちゃえばええやん!」
若葉の純粋な疑問に、神宮寺はふっと鼻で笑った。
神宮寺:「若葉、彼女は『元気』なんじゃないわ。 『暴走』しているのよ。 彼女の練習データにははっきりと『気性難』という不名誉なレッテルが貼られているわ」
佐倉がコースの図面を表示し、外側の13番ゲートから一番内側の先頭に飛び出すまでの斜めのラインを指でなぞる。
佐倉:「気性が激しい馬が、外側の不利な席から無理矢理先頭に立とうとすれば、スタート直後からものすごいエネルギーを消費することになります。 いわば、マラソンの最初の1キロを全力の100メートル走のペースで走るようなものです」
若葉:「うわっ、それゲームでダッシュボタン押しっぱなしにして、スタミナゲージが真っ赤になってフラフラになるやつやん!」
神宮寺:「その通りよ」神宮寺が黒板を指差す。 「ただでさえ泥のように重い馬場よ? その上、前半でスタミナを浪費すれば、最後に待ち構える急坂でパタリと足が止まるのは物理的な必然だわ。 彼女は他馬を巻き込みながら、最終的に自分自身が一番最初に沈んでいく『自滅する爆はじ』よ。 馬券の計算に入れる価値はないわ」
研究室に響いていた神宮寺の声が止むと、雨の音だけが再び耳に届くようになった。
黒板には『来たら仕方がない馬(期待値ゼロ)』として、アランカール、ジッピーチューン、スウィートハピネス、リリージョワの四頭の名前が並んでいる。
神宮寺:「……これで、すべての幻想とノイズを切り捨てたわ」
神宮寺はチョークの粉を払い落とし、窓の外の暗闇を見つめた。
神宮寺:「『もしかしたら来るかも』という甘い期待は、投資としての競馬において最大の敵よ。 適性、状態、展開。 それぞれ別のベクトルから致命的な欠陥を抱えた馬たちに情けをかける余裕は、今の私たちにはないわ」
若葉:「教授……」
若葉は息を呑み、黒板の文字と神宮寺の横顔を交互に見つめた。
若葉:「めっちゃ冷酷やけど……でも、不思議とスッキリしたわ! 泥沼に足を取られるフェラーリも、自爆する爆はじも、最初からおらんかったと思えばええんやな!」
神宮寺:「ええ。 その割り切りが、最後に笑うための唯一の武器よ」
神宮寺の言葉に、佐倉が静かに頷き、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。
佐倉:「過去の枠順データという『平時のセオリー』を捨ててでも、異常気象という『最強のバイアス』を受け入れる。 教授のこの柔軟な決断力こそが、分析家としての真骨頂ですね。 ……となると、この過酷なサバイバルを生き残る『真の怪物』は……」
佐倉の視線が、枠順表の一番外側、14番のドリームコアへと向けられた。
神宮寺:「……ふふ。 そうね。 すべての前提が崩れ去った泥濘の中で、最後に立っているのは誰か。 答えはもう、出ているのかもしれないわ」
雨音のレクイエムが響く研究室で、神宮寺教授の秘密講義は、いよいよ最終的な一つの結論へと収束しようとしていた。
第8章:泥濘に咲く宇宙(コスモス)と、完璧なる投資の数式 金曜日の夜は更け、窓を叩く雨音はもはや一種の環境音として研究室に溶け込んでいた。 佐倉が新しく淹れたハーブティーの香りが、張り詰めた空気をほんの少しだけ和らげる。
佐倉:「さて、教授。 ギロチンの執行も終わり、盤面はかなりスッキリしました。 しかし、最大の難問が残っています」
佐倉がタブレットを操作し、残された有力馬たちのリストをモニターに映し出した。
若葉:「うわっ、ほんまや! ギロチンから生き残ったエリートたち……でも、よく見たら大本命の二頭が、さっき教授が言うてた『14番以降の呪い』の席に座っとるやん!」
若葉がモニターを指差し、目を丸くする。
神宮寺はティーカップを手に取り、静かに頷いた。
神宮寺:「ええ。 ドリームコアの14番と、スターアニスの15番ね。 この二頭の扱いが、今回の桜花賞における最大の分岐点になるわ」
若葉:「扱いって……呪いの席なんやから、消しちゃうん?」
若葉の問いに、佐倉が手元の調教データを読み上げながら首を振る。
佐倉:「消すのは危険すぎます。 特にドリームコアは、今回の出走馬の中で唯一の『調教S評価』。 栗東に滞在して調整した効果で、本来は調教で動かないタイプが別馬のように素晴らしいタイムをたたき出しています。 さらにキズナ産駒で連対率100パーセント。 能力の絶対値は文句なしのトップです」
若葉:「じゃあ、スターアニスは?」
佐倉:「彼女も調教A評価です。 重い馬場でも力強い走りを見せており、阪神JFからの直行という王道ローテーション。 能力を疑う余地はありません」
若葉:「ほな、どうするん!? 能力はMAXやのに、席が呪われとるって……アニメやったら、呪いの装備を着けたまま戦う最強の騎士みたいな状態やんか!」
若葉が頭を抱える。 神宮寺はフッと微笑み、黒板の前に立った。
神宮寺:「簡単なことよ、若葉。 呪いの装備を着けた騎士に、先陣を切らせなければいいの。 彼女たち二頭は、能力だけで馬券圏内……つまり3着以内に飛び込んでくる確率は非常に高い。 でも、過去10年の統計データと、外枠からタフな馬場を回らされる物理的ロスを考慮すれば、『1着を勝ち切る』確率は著しく低いわ」
若葉:「つまり……?」
神宮寺:「『1着候補』からは降格よ。 彼女たちは、2着か3着の『ヒモ』として扱う。 これが論理的帰結ね」
神宮寺が黒板のドリームコアとスターアニスの名前に、それぞれ『2・3着候補』という印を付ける。
若葉:「なるほどなー! アタマ(1着)にはせえへんけど、完全に捨てるわけやないんか。 でも教授、それやったら誰が1着になるん? アランカールもさっき消しちゃったし……もう誰も残ってへんで?」
若葉が不思議そうにモニターのリストを見つめる。
神宮寺はチョークを持ち直し、リストの中段にあった一つの名前を、円で力強く囲んだ。
神宮寺:「いるじゃない、ここに。 全ての条件をクリアし、かつ大衆の盲点となっている真の暗殺者が」
『5枠10番ナムラコスモス』
若葉:「ナムラコスモス……! さっき筋肉パンパンのカプチーノって言うてた子やな! でも、この子がなんで1着候補なん?」
佐倉がタブレットの画面を切り替え、血統と過去のデータを表示させる。
佐倉:「若葉さん、思い出してください。 過去10年の勝ちうまは『13番以内』という絶対条件を、彼女は10番という絶好の枠でクリアしています。 内すぎず外すぎないこの枠は、内で揉まれるリスクも、外を回らされるロスも回避できる最高のポジションです」
若葉:「おおっ! まさに特等席やん!」
神宮寺:「それだけではありません」神宮寺がチョークの先でナムラコスモスの血統欄を叩く。 「彼女のお母さんのお父さん、ジョーカプチーノは、大雨の不良馬場で行われたNHKマイルカップを力でねじ伏せた馬よ。 金曜の大雨で緩み、日曜日に向けて中途半端に乾いていく『粘り気のあるタフな泥馬場』……足を取られるこの最悪のコンディションこそが、彼女の血に眠るパワーを極限まで引き出すのよ」
若葉:「おじいちゃんの血が騒ぐんやな! 少年漫画の覚醒イベントみたいでめっちゃ熱いやん!」
神宮寺:「さらに、展開の利もあるわ」神宮寺が言葉を続ける。 「さっき、アランカールが両隣の速い馬に潰されると言ったわよね。 でも、10番にいるナムラコスモスにとっては、内の速い馬たちが前に行った後の『ぽっかり空いたスペース』にスッと入り込むことができる。 外から被せられるリスクも極めて低いの」
若葉:「完璧やん……! 枠も、血筋も、展開も、全部ナムラコスモスのために用意されたステージみたいや!」
若葉が目を輝かせる。 しかし、佐倉が少しだけ申し訳なさそうに手を挙げた。
佐倉:「教授、一つだけ懸念があります。 ナムラコスモスの調教評価が『B』なんです。 メモには『2走前ほど動かず、良くて現状維持』とあります。 状態がピークではない馬を本命にするのは、先ほどのスウィートハピネスを消した理由と矛盾しませんか?」
佐倉の鋭い指摘に、若葉も「あっ、ほんまや! 練習で手ぇ抜いてる子はあかんのちゃうの?」と不安げな表情を浮かべる。
神宮寺は全く動じることなく、涼しい顔でハーブティーを一口飲んだ。
神宮寺:「佐倉くん、そこがデータ分析の落とし穴よ。 スウィートハピネスは『併せ馬で遅れた』という明確なデバフがあった。 でもナムラコスモスの場合、単に『時計が遅い』だけよ。 これは『メイチ(全力)で仕上げていない』という解釈もできるわ」
若葉:「全力じゃないのが、ええことなん?」
神宮寺:「ええ。 タフな馬場での消耗戦になれば、練習でのタイムの速さよりも、当日の精神力と馬場適性が勝敗を分けるの。 泥沼の行軍において、綺麗に早く走る練習なんて無意味よ。 彼女の『B評価』は、オッズを下げるための美味しいスパイスでしかないわ」
(完璧な時計を出した馬ばかりが勝つなら、競馬にオッズなど存在しない。 ノイズに隠された適性の輝きを見抜くこと。 それが真の分析よ)
若葉:「なるほど……! 教授の話聞いてたら、もうナムラコスモスが勝つ未来しか見えへんようになってきたわ! ほな、具体的にどうやって馬券買うん!?」
若葉が前のめりになり、タブレットのメモ帳アプリを開く。
神宮寺は黒板の前に立ち、まるで数学の公式を書き記すかのように、三つの買い目を板書した。
神宮寺:「論理が導き出した、最も期待値の高い投資の数式よ」
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【神宮寺教授の最終買い目(予定)】
① 単勝・複勝ナムラコスモス ② 馬連・ワイドナムラコスモス - ドリームコア ③ 3連複ナムラコスモス - ドリームコア - スターアニス
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若葉:「ええっと……これは、どういう意味合いなん?」
若葉が首を傾げると、佐倉が丁寧に解説を始めた。
佐倉:「まず①ですが、先ほどの分析通り、アタマ(1着)を取れる条件を完璧に満たしているのはナムラコスモスだけです。 だからこそ、彼女の1着を狙う単勝と、3着以内をカバーする複勝。 これが最もリターンの大きい本線になります」
若葉:「なるほど、主役の単独ライブに全振りってことやね!」
佐倉:「次に②の馬連とワイド。 ナムラコスモスを軸にしつつ、相手には能力S評価のドリームコアを選びます。 ドリームコアは14番枠という不利がありますが、順位を問わない馬連やワイドなら、枠の不利を券種で相殺できます。 能力は信じるが、枠は疑う。 最高のリスクヘッジです」
若葉:「おおー! 呪いの装備を着けた騎士を、アシスト役に回すんやな! めっちゃ賢い!」
佐倉:「そして最後の③、3連複です。 これも順位を問わない券種ですが、ここに阪神JF覇者のスターアニスを加えます。 内側の特等席からナムラコスモスが抜け出し、外側の不利な席からドリームコアとスターアニスが自力の違いで突っ込んでくる……これが、タフな馬場における最も現実的なシミュレーションです」
佐倉の解説を聞き終え、若葉はパチパチと拍手をした。
若葉:「完璧や……! アニメの最終回ばりに伏線が全部回収された気分やわ! 枠の有利不利、重い馬場の適性、血統のパワー、全部がこの三つの買い目に詰まっとるんやな!」
神宮寺:「その通りよ、若葉」神宮寺が満足そうに微笑む。 「感情を排除し、ノイズを削ぎ落とし、過去のデータと現在の環境バイアスを掛け合わせた結果がこれよ。 これが、私の『秘密講義』の集大成ね」
雨音はまだ止まない。 しかし、研究室の中には、全ての謎を解き明かしたような清々しい空気が満ちていた。
若葉:「よっしゃ! うちはこの数式に、ブルーレイBOXとフィギュアの予約代、全部乗っけるで! 教授、佐倉助手、ほんまにおおきにな!」
若葉の元気な声が響き渡る。
神宮寺は窓の外に目を向け、暗闇の中で散りゆくであろう桜に思いを馳せた。
(完璧な数式。 論理の極致。 ……でも、だからこそ競馬は恐ろしいのよね)
第9章:春雷のファンファーレと、不確実性という名のロマンス(未来という名の予想図)日曜日、午後三時三十分。
金曜日から降り続いた雨は嘘のように上がり、分厚い雲の切れ間からは春の弱々しい陽光が差し込んでいた。 しかし、研究室の空気はピンと張り詰め、大型モニターから発せられる熱気と、佐倉が淹れたアールグレイのベルガモットの香りが、奇妙なコントラストを描いて部屋に充満している。
画面の中では、阪神競馬場のパドックを周回する乙女たちが、鈍く光る馬体を揺らしていた。 足元の芝は緑色を保っているものの、画面越しでも伝わるほど水分を含み、黒々とした土の匂いを漂わせているようだった。
握りしめたスマートフォンを胸に押し当て、若葉がパイプ椅子の上で貧乏揺すりをしている。 ギュッ、ギュッとパイプが軋む音が、静かな部屋に不規則なリズムを刻んでいた。
若葉:「あかん……心臓口から飛び出そうやわ。 うちらのナムラコスモス、画面で見たらめっちゃ気合入っとるやん! これ絶対勝つで! うちらの完璧な数式が、ついに火を噴く時が来たんや!」
祈るように両手を組む若葉を横目に、佐倉がタブレットのオッズ画面を指ではじいた。
佐倉:「若葉さん、気合が入っているのと、イレ込んでいる(興奮しすぎている)のは紙一重ですよ。 ほら、ナムラコスモス、さっきからしきりに首を振って、少し発汗も目立ちます。 パドックの周回も、普段より歩幅が狭いような……」
佐倉の冷静な指摘に、若葉がバッと顔を上げる。
若葉:「ええっ!? それってヤバいやん! もしかして、めっちゃ怒っとるん!? 誰かにプリンでも食べられたんか!?」
佐倉:「パドックにプリンはありませんよ若葉さん。 それに、怒っているというよりは……」
神宮寺:「……怯えているか、苛立っているのよ」
窓際の革張りソファに深く沈み込んでいた神宮寺が、ティーカップをソーサーにコトリと置き、静かに口を開いた。 彼女の視線はモニターのナムラコスモスではなく、その背景で蠢く何万という大観衆に向けられていた。
神宮寺:「いい、若葉。 私たちは金曜日まで、データという名の無菌室で完璧な数式を組み上げたわ。 過去十年分の歴史、血統の法則、枠順の有利不利。 それらは全て、ノイズを排除した『美しい理論』よ」
若葉:「せ、せやろ? 教授の理論は完璧やんか! 呪いの席も避けたし、血筋もバッチリやし!」
若葉がすがるような目で神宮寺を見る。 しかし、神宮寺は冷ややかな微笑を浮かべ、首を横に振った。
神宮寺:「理論は完璧よ。 でもね、今モニターの向こうで走ろうとしているのは、数字の羅列でも数式の記号でもない。 血の通った、わずか三歳の思春期の女の子たちなのよ」
神宮寺が立ち上がり、モニターの前に歩み寄る。 画面越しの大歓声が、彼女の白衣を微かに揺らした。
神宮寺:「人間で言えば、まだ中学生か高校生になったばかり。 そんな女の子が、五万人もの人間が発する怒号と欲望の渦の中に放り込まれ、泥濘んだ芝生の上を時速六十キロで走れと命令されているの。 いつも通りの精神状態でいられると思うかしら?」
神宮寺の問いかけに、若葉はゴクリと喉を鳴らした。
若葉:「そ、そりゃ……うちかて、全校集会で前に立たされただけで頭真っ白になるのに、五万人に見られながら泥んこ競争させられたら、泣いて帰るわ……」
佐倉:「そうでしょう」佐倉が若葉の言葉を引き取る。 「それに、今日の馬場状態です。 JRAの発表は『良馬場』に回復しましたが、事前のレースを見ていると、馬が走るたびに巨大な土塊が宙を舞っています。 表面が乾いているだけで、中は完全に泥沼です」
佐倉がリモコンを操作し、直前に行われたレースのゴール前の映像をリプレイ再生した。 泥に塗れ、体力を限界まで削られながら走る馬たちの姿が映し出される。
佐倉:「こんな馬場を走らされれば、ただでさえ繊細な三歳牝馬の機嫌なんて、秒単位でコロコロ変わります。 ゲートの中で隣の馬が動いただけで集中力を切らすかもしれない。 飛んできた泥が顔に当たっただけで、走るのをやめてしまうかもしれないんです」
佐倉の説明を聞き、若葉は手に持っていたスマートフォンを机に置いた。 先ほどまでの熱狂が嘘のように、その顔には不安の色が浮かんでいる。
若葉:「そんなん……。 ほな、うちらが何日も徹夜して導き出したデータとか数式って、なんの意味もなかったん? アニメやったら、努力して見つけた必殺技は絶対敵に当たるのに……」
若葉の落胆した声が部屋に落ちる。 神宮寺は若葉の頭にポンと手を置き、ふっと息を吐いた。
神宮寺:「アニメの必殺技は、脚本家が当たるように書いているから当たるのよ。 でも競馬に脚本家はいないわ。 データは決して無意味じゃない。 暗闇の中で、最も正解に近い道幅を照らしてくれる強力なサーチライトよ。 でもね……」
神宮寺はモニターの画面に映る、スタート地点へと向かう乙女たちを愛おしそうに見つめた。
神宮寺:「サーチライトで道を照らしても、その道を歩く女の子が『今日は気分が乗らないから歩きたくない』と座り込んでしまえば、それまでなの。 馬の機嫌、見えない痛恨の疲労、ほんの数センチのスタートのズレ。 データでは絶対に測りきれない『生命のバグ』が、競馬というスポーツの本質なのよ」
(完璧な数式を組み上げ、論理の城を築き上げる。 でも、最後にその城の扉を開けるのは、気まぐれな風と、乙女たちの気分次第。 だからこそ、私はこの不完全で混沌としたゲームを愛してやまないのだけれど)
若葉:「生命のバグ……」
若葉が呟く。 その時、モニターの向こうから、阪神競馬場を震わせるG1競走のファンファーレが鳴り響いた。
鼓膜を打つ金管楽器の音色。 五万人の地鳴りのような手拍子が、研究室の床まで微かに振動させる。
若葉:「教授……! 佐倉助手……! 始まるで!」
若葉が椅子から跳ね起き、モニターの前に張り付く。 その瞳には、不安を塗り潰すような強い光が宿っていた。
若葉:「データは信じすぎたらあかん。 でも、うちらが考え抜いた結論や! 最後はあの子らの生命力と、うちのブルーレイへの執念を信じるしかないんやな!」
神宮寺:「ええ、その通りよ若葉」神宮寺が腕を組み、不敵な笑みを浮かべる。 「私たちは人事を尽くした。 不確実性の海から、最も美しい貝殻を拾い上げたはずよ。 あとは、波がそれをどう浚っていくかを見届けるだけ」
佐倉もモニターの横に並び立ち、静かに眼鏡の位置を直した。
佐倉:「ドリームコアもスターアニスも、そしてナムラコスモスも……無事に、力を出し切ってほしいですね。 全ての論理が崩れ去る瞬間も、また競馬の美しさですから」
若葉:「佐倉助手、縁起でもないこと言わんといて! 絶対勝つんやから!」
ファンファーレが終わり、大歓声が最高潮に達する。 実況アナウンサーの興奮した声が、部屋のスピーカーから響き渡った。
『さあ、第86回桜花賞! 乙女たちの春の夢、いよいよゲートインが完了します!』
神宮寺は静かに目を閉じ、アールグレイの最後の一口を飲み干した。 ベルガモットの香りが、雨上がりの空気と混ざり合い、鼻腔を抜けていく。
『体勢完了。 ……スタートしました!』
五万人の悲鳴と歓声が、泥濘のターフにはじける。
論理と直感、データと生命のバグ。 全ての数式が現実という名の坩堝に投げ込まれた瞬間、神宮寺の秘密講義は終わりを告げた。
盤上の乙女たちは、計算式には収まりきらないそれぞれのロマンスを抱え、桜舞う急坂へと駆け出していく。 その行方は、まだ誰も知らない。
(完)
第10章:想定外の事態と状況の見直し(10~11章)
日曜日の朝。研究室の窓から差し込む陽光は暴力的とも言えるほど眩しく、空中に舞う微細な埃までを白く輝かせていた。金曜日の大雨が嘘のように、空は抜けるような青色に染まっている。
トーストが焼ける香ばしい匂いと、佐倉が淹れたモカ・マタリのフルーティーな香りが交差する中、バンッ!という派手な音を立ててドアが開いた。
「きょ、教授ゥゥゥ! えらいこっちゃ! 緊急事態発生や!」
息を切らして駆け込んできた若葉の手には、プリントアウトされた昨日のレース結果が握りしめられている。
「朝からやかましいわね、若葉。私の優雅な休日のティータイムを、あなたのそのけたたましい足音で台無しにしないで頂けるかしら。……で、何が緊急事態なの? また録画予約でも間違えたの?」
神宮寺はトーストに塗っていたイチゴジャムのナイフを止め、胡乱な目を向けた。
「アニメの録画やない! 阪神競馬場や! 昨日の土曜日のレース、教授が『泥沼』って言うてたのに、めちゃくちゃタイム速かったんやて! ほら、この数字見てみ!」
若葉が突き出した紙を、佐倉が横からスッと受け取り、タブレットにデータを打ち込んでいく。数秒後、佐倉の表情が微かにこわばった。
「……教授。若葉さんの言う通りです。昨日の阪神牝馬ステークス、勝ち時計が1分31秒6。これは完全なレコード級……泥沼どころか、コンクリートのように硬く走りやすい『超・高速馬場』になっています」
「なっ……!?」
神宮寺の指先から、ジャムを塗るナイフがカチャリと音を立てて皿に落ちた。
(金曜の大雨を、土曜の強風と異常な気温上昇が一気に乾かしたというの……!? 水捌けの良さを甘く見ていた。自然という名の気まぐれな神様は、どこまで私の数式を嘲笑えば気が済むのかしら)
「そ、それでな! 前を走ってた馬が全然バテんとそのままゴールして、内側を走ってた子ばっかり上位に来たんやて! 外側から追い込んできた馬は全滅や!」
若葉の報告に、佐倉がタブレットにコース図を描きながら頷く。
「ええ。今のコース状況を分かりやすく言うと、『内側のコースだけ動く歩道になっている状態』です。しかも、前を走る馬が全く疲れない。こうなると、後ろから外側をぐるっと回って追い抜こうとするのは、動く歩道の外の砂利道を、重い荷物を背負って走るようなものです」
「うわぁ、そんなん絶対追いつけへんやん! ほな……うちらが本命にしたナムラコスモスは!?」
若葉の悲鳴に、神宮寺はゆっくりと立ち上がり、乱れた白衣の襟を正した。
「……ナムラコスモスは、泥道を力強く進むための四輪駆動のオフロード車よ。でも、今の阪神競馬場は、綺麗に舗装されたF1のサーキットに姿を変えてしまった。オフロード車でスポーツカーに勝つのは、物理的に不可能だわ」
「そ、そんな……! おじいちゃんのパワー(ジョーカプチーノの血)が火を噴くはずやったのに!」
「それだけじゃありません」佐倉が眼鏡を指で押し上げる。「僕たちが『2着・3着の相手』として選んだドリームコア(14番)とスターアニス(15番)も危険です。外側の席からスタートする彼女たちは、どうしても外を回らされる。今の『内側だけが動く歩道』の状況では、いかに能力が高くても、前の馬に届かずに終わる可能性が高いんです」
「ええええっ!? ほな、うちらの数式、全部ご破算ってこと!? 今日が最終回やのに、ラスボス直前でセーブデータ消えたみたいな絶望感やんか!」
若葉が頭を抱えて机に突っ伏す。
研究室に重い沈黙が落ちた。窓の外からは、どこかのサークルが練習している微かな吹奏楽の音が聞こえてくる。
神宮寺は窓辺に歩み寄り、眩しい太陽を見上げた。
「……いいえ。セーブデータは消えていないわ。ただ、ゲームのルールが途中でアップデートされただけよ。分析家としての真価は、一度出した結論に固執することではなく、新しい事実を前に、いかに早く論理を再構築できるかにかかっているわ」
神宮寺が振り返り、黒板の前に立った。昨晩書いたナムラコスモス中心の買い目を、黒板消しで躊躇いなく全て消し去る。
「教授……! 全部消しちゃった!」
「ノイズを消したのよ。さあ、一から組み直すわよ。今の条件は『超高速』『内側が有利』『前の方にいる馬が有利』。この三つの条件に完璧に合致する馬が、過去のギロチンリストの中に一頭だけ眠っているわ」
神宮寺がチョークを構えると、佐倉がハッとして手元の資料をめくった。
「まさか……教授。金曜日の雨で『馬体重が軽くてパワーがないから』という理由で消した、あの馬ですか!?」
「ええ、そのまさかよ」
神宮寺は黒板に、一度は線を引いて消したはずの名前を、大きく力強く書き直した。
『4枠7番:アランカール』
「アランカール! 日本刀の切れ味のお嬢様や!」
若葉が顔を上げる。神宮寺の瞳には、一切の迷いがない。
「彼女は430キロ台の小柄な馬。だから泥沼では消したわ。でも、抵抗のない高速道路なら話は別よ。彼女の『上がり3ハロン33秒0』という日本刀の切れ味は、この高速馬場でこそ真価を発揮する」
「でも教授、アランカールは両隣の馬に挟まれて、窮屈な場所に入っちゃうって言うてたやん!」
若葉の鋭い指摘に、神宮寺はフッと口角を上げた。
「若葉、状況が変わればデメリットはメリットに反転するのよ。両隣の速い馬についていけば、彼女は自然と『前の方の内側』という、今のコースで最も有利な特等席に潜り込むことができる。周りを馬に囲まれることは、風よけになって体力を温存できるという最強の盾になるの」
「おおっ……! 挟まれるんやなくて、ガード付きのVIP席になるんや!」
「その通りです」佐倉がタブレットで新たな買い目を弾き出す。「しかも、一度人気を落としたことでオッズの妙味も上がっています。アランカールを軸にしつつ、内側で粘り込みそうな先行馬へ流す。これが、今日の最新のトラックバイアスを完全に読み切った、最も美しい数式です」
神宮寺は満足げに頷き、冷めかけたコーヒーを優雅に口へ運んだ。
「過去の己の過ちを認めること。それこそが、真理へ近づくための唯一の道よ。さあ若葉、ブルーレイの予約表を握りしめなさい。私たちの新しい日本刀が、阪神のターフを切り裂くわよ」
「よっしゃあああ! 教授、一生ついていくで! 今度こそ絶対勝つ!」
若葉の歓声が、日曜の明るい研究室に響き渡る。 変わりゆく天気、揺れ動く乙女の心、そして直前でひっくり返るデータ。全てを飲み込んで、いよいよ桜花賞のゲートが開く。
第11章(最終章):閃光の日本刀と、気まぐれな乙女の秘密 パドックを周回する乙女たちの足元で、乾き始めた砂埃が黄金色に舞い上がっている。研究室の大きなモニターに映し出される阪神競馬場の空は、先ほどまでの雨が嘘のような快晴だ。
神宮寺は、窓から差し込む強烈な日差しを避けるように、ブラインドを少しだけ下げた。逆光の中で彼女の細いシルエットが浮かび上がり、その手元にある一冊のノートが、まるで魔導書のようにも見えた。
「教授! 教授ぅ! 最後にうちがこれだけは言わせて! さっきのジョーカプチーノの話、うち気になって調べ直したんやけど……あの日、土砂降りやなくて、めっちゃ快晴やったで! レコード級の爆速レースやったんや!」
若葉がスマートフォンの画面を突き出しながら、ここぞとばかりに声を上げた。
(……っ! 完璧な計算の中に、これほど初歩的な記憶のノイズが混じっていたなんて。論理を標榜するこの私が、晴天を豪雨と誤認する。この屈辱……でも、これを認めなければ真実には辿り着けないわ)
神宮寺の白い頬が、微かに、しかし確実に林檎のような赤みに染まった。彼女は眼鏡を指先で押し上げ、わざとらしく一つ、小さく咳払いをした。
「……ふん。若葉、あなたもようやく『疑う』ということを覚えたようね。ええ、そうよ。ジョーカプチーノが勝ったのは快晴の高速馬場。私がわざと間違えた……と言いたいところだけれど、これは私のデータベースの『一時的なバグ』ね。修正しましょう」
「教授、顔真っ赤やで! でもな、この間違いのおかげで、うち逆に気づいたんよ! 今日の阪神、昨日からのタイム見てたら、泥沼どころか超高速のコンクリート道路やんか!」
「……鋭いわね、若葉。あなたの言う通りよ」
神宮寺はすぐさま表情を引き締め、黒板に書かれたナムラコスモスの名前を、より太い線で囲んだ。
「泥沼のパワーではなく、高速馬場を先頭集団で駆け抜ける『持続的なスピード』。ジョーカプチーノの真の血の力は、そこにあるの。土曜日の阪神牝馬ステークスの1分31秒6という時計……。この超高速馬場こそが、スピードを持続して前を押し切るナムラコスモスにとって、最高の追い風になるわ」
佐倉がタブレットを操作し、最新の馬場データをモニターに並べた。
「教授、今の阪神は完全に『内側が有利な高速道路』です。外を回した馬は、どんなに脚があっても物理的な遠心力で外に弾き飛ばされる。となると、軸(エース)はやはり……」
「ええ。5枠10番・ナムラコスモス。彼女を今回の不動の軸に据えるわ」
神宮寺は迷いなく、黒板に最終結論を刻み込んでいく。
「そして相手(ライバル)は、あの日本刀の切れ味を持つ4枠7番・アランカール。泥沼では消したけれど、この舗装されたサーキットなら話は別よ。彼女の33.0秒という異次元の瞬発力が、内の特等席から炸裂するはずだわ」
「よっしゃ! 筋肉(ナムラコスモス)と日本刀(アランカール)の最強タッグやな! ほな教授、最後の一枠、3連複の相手はどうする? やっぱり外の馬……ドリームコアとかにした方がええんかな?」
若葉の問いに、佐倉が調教データを横から差し出した。
「ドリームコアは14番という外枠のハンデはありますが、何と言っても『調教S評価』。本来動かないタイプが10秒台を叩き出しています。高速馬場で外を回すロスはありますが、能力の絶対値で3着以内にはねじ込んでくる……そう考えるのが、最も合理的なリスクヘッジ(保険)です」
神宮寺は、最後に14番・ドリームコアの名前に小さな星印を付け、チョークをトレイに置いた。指先に付いた白い粉を、エレガントに払い落とす。
「いい、若葉。これで数式は完成したわ。私たちの『秘密講義』の集大成、これが今回の最適解よ」
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【神宮寺教授の最終投資数式】
■軸馬(最有力):10 ナムラコスモス ■相手筆頭:7 アランカール ■3番手(抑え):14 ドリームコア
【買い目】 ①単勝:10 ②複勝:10 ③馬連:7-10 ④ワイド:7-10 ⑤3連複:7-10-14
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「……完璧や。単勝1点、複勝1点、馬連1点、ワイド1点、3連複1点。まさに無駄のない、美しすぎる買い目やんか!」
若葉がうっとりと黒板を見つめる。しかし、神宮寺の表情は、どこか遠くを見つめるように穏やかだった。
「若葉。最後にこれだけは覚えておきなさい。この数式は、現時点での最高の知性が導き出した『答え』。けれど、競馬の本当の答えを知っているのは、今ゲートに向かっている三歳の女の子たちだけよ」
神宮寺は窓辺に寄り、春の眩しい光に目を細めた。
「彼女たちは機械じゃない。今日という日が、彼女たちの人生で一番機嫌が悪い日かもしれないし、隣の馬の尻尾が動いただけでパニックになるかもしれない。三歳牝馬の着順なんて、風の向き一つでコロコロ変わる。データは信じても、データに依存してはいけない。最後に信じるのは、あなたのその『当てたい』という純粋なパッションよ」
「……教授。なんか、かっこよすぎて泣けてくるわ。データだけやなくて、あの子らの『命』まで愛してるんやね」
若葉が少しだけ鼻を啜り、佐倉が優しく彼女の肩を叩いた。
「さあ、発走まであと五分です。若葉さん、マークシートのチェックは済みましたか? 夢のブルーレイBOXまで、あと一ハロン(200m)ですよ」
「おう! もちろんや! 教授、佐倉助手……ほんまにおおきに! うち、この数式と一緒に、乙女たちの夢、見届けてくるわ!」
ファンファーレが、スピーカーから爆音で鳴り響いた。 阪神競馬場、五万人の手拍子が地鳴りのように研究室の床を揺らす。
神宮寺は、最後の一口のコーヒーを飲み干し、不敵な笑みを浮かべた。
「さあ、行きなさい。桜が舞い散る坂の上で、真実という名のゴールテープを切るのは誰か。……見逃さないことね」
カーテンが春風に大きく揺れ、研究室の中に光が溢れ出す。 乙女たちの、そして三人の「秘密の講義」は、今、最高潮のファンファーレと共に、歴史のターフへと解き放たれた。
(完)
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