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『神宮寺教授の秘密講義』(皐月賞編)(前編:1~4章)
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: もち子さん」
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第1章;黄金の教室と五つの幻影透き通るような黄金色の夕日が、研究室の大きな窓から差し込んでいた。空中に舞う微小な埃の粒子が、まるで金色の雪のように光を反射しながら、ゆっくりと重力に身を任せている。頬を撫でる夕暮れの微温(ぬる)さと、書架から漂う古い紙の匂いが混ざり合う空間で、小気味よいキーボードの打鍵音だけが、メトロノームのように正確に響き渡っていた。
神宮寺:(傾きかけた太陽が作り出す、この透明感のある時間は悪くないわね。光の粒子が余計なノイズを霧散させ、隠された真実の輪郭だけをくっきりと浮かび上がらせる。……競馬の分析も同じ。無駄な主観を光の彼方へ消し去れば、そこに残るのは美しく、冷徹なまでの『論理的な正解』だけよ)
モニターの青白い光と夕日の黄金色に、その端正な横顔を二分されながら、神宮寺はゆっくりとタイピングを止めた。
佐倉:「教授、淹れたてのアールグレイです。糖分補給用のマカロンも添えておきました」
上品な陶器が触れ合うカチンという硬質な音とともに、佐倉が湯気の立つティーカップをデスクに置いた。ベルガモットの芳醇な香りと、焼きたての菓子の甘い匂いが、理性の城である研究室を優しく支配していく。
神宮寺が細い指をカップへ伸ばそうとした、その瞬間。
若葉:「教授! 佐倉助手! 持ってきたで、皐月賞の出走馬リストや! もう何がなんやら、馬が多すぎて目が回りそうやねんっ!」
重厚なドアが、その場の静寂を粉砕せんばかりの勢いで開け放たれた。
ドタドタと元気な足音を響かせ、嵐のように飛び込んできたのは若葉だった。肩で息をする彼女の額には、春の陽気に誘われたようなうっすらとした汗がにじんでいる。
佐倉はわずかに眉をひそめ、羽毛が落ちるような静かさで溜息をついた。 佐倉:「若葉さん、ボリュームを下げてください。教授は今、各馬がコーナーへ進入する際に受ける遠心力と物理的負荷……いわゆる『不可視の疲労』を脳内でシミュレートしていたところなんですから」
若葉:「ええっ、コーナーの負荷!? なんやそれ、最近流行りの異世界アニメに出てくる魔法陣の詠唱みたいやん!」
目を丸くして驚く若葉を横目に、神宮寺はマカロンを小さくかじった。舌の上で崩れるアーモンドの強烈な甘味を慈しむように、優雅な所作でカップを傾ける。
神宮寺:「異世界アニメといえば、昨夜放送していた『ステータスが反転する主人公』のエピソードは興味深かったわね。けれど若葉、私たちがこれから反転させるのは、オッズという名の虚飾に満ちた幻想よ。……佐倉くん、リストを」
佐倉:「はい、教授。まずは過去十年の統計推移から、論理的に『勝利の確率が限りなくゼロに近い』条件を抽出しました」
佐倉がタブレットの画面を滑らせると、空間に投影された大型モニターに無機質なデータ群が浮かび上がった。
若葉:「うわ、なんやこれ、数字の洪水やん……。佐倉助手、もっと初心者にも優しく、翻訳してえな」
若葉がモニターに吸い込まれそうなほど顔を寄せ、必死に目を細める。その無防備な後ろ姿を見つめながら、神宮寺は冷徹さと慈愛が同居する声で、静かに口を開いた。
神宮寺:「簡単な連想ゲームよ、若葉。高校野球の地区予選を這い上がったばかりの無名チームが、いきなりプロ野球の日本シリーズという修羅場に放り込まれたら、どうなると思う?」
若葉:「そらもう、ボッコボコのコールド負けですやん! バットにかすりもせえへんし、外野まで球が飛ばん光景が見えますわ」
その通り。それがサイモンシャリオという個体が置かれた残酷な現状よ。この馬は前走、ようやく未勝利という名の『アマチュアレベル』を脱したばかり。過去十年の統計上、皐月賞で掲示板に載った馬の八割以上は、直前に重賞という名の『超エリート階級』で凌ぎを削っていたわ。アマチュア上がりの成功率は、見事に零パーセントよ
若葉:「零……!? そらあかんわ。サイモンシャリオくん、ここでリタイアやね。……南無」
若葉が手元のリストに、断罪の響きを伴うバツ印を大きく書き込む。そのペンの音を合図にするように、佐倉が次のデータを指し示した。
佐倉:「では、プロの『練習試合』についてはどう推察しますか、若葉さん。たとえばロードフィレールとラージアンサンブル。この二頭は、前回その練習試合……非重賞のオープン競走を走っています」
若葉:「練習試合かあ。本編のストーリーには直接関係ない、アニメの番外編とか、ファンサービスのスピンオフ映画みたいなもんやんな?」
神宮寺:「素晴らしい比喩だわ、若葉。そのスピンオフから本編の最終決戦へ乱入し、大番狂わせを演じる確率は、過去十年でたったの三パーセント。……脚本はすでに、彼らを『脇役』として処理しているのよ」
神宮寺の冷徹な宣告に、佐倉が静かに、そして事務的な響きで補足する。
佐倉:「ロードフィレールはその練習試合で二着と勝ちきれず、ラージアンサンブルは辛勝したものの、そもそも過去に超エリート級のレースを一度も経験していません。不確実性の海から利益を救い上げる投資家にとって、彼らをわざわざ買う理由は一分(いちぶ)も存在しないのです」
若葉:「なるほどなあ。スピンオフのオリジナルキャラは、本編のパワーインフレにはついていかれへんってことか。残酷やけど『消し』やね。……じゃあ、このサノノグレーターはどうなん? この子はちゃんと超エリートのレースに出てるで!」
若葉がリストの一点を力説するように指差す。神宮寺は紅茶を一口含み、ベルガモットの残り香をゆっくりと愛でるように微笑んだ。
神宮寺:「出走しているだけでは、ただの『背景』と同じよ。若葉、アイドルグループの選抜総選挙で、ずっと六位や五位を彷徨っている子が、グループ最大の大舞台で突然センターに抜擢されると思うかしら?」
若葉:「ああっ! それ絶対無理なやつや! センターはいつでも一位か二位を争ってる、バチバチのトップ層だけの特権やんか!」
神宮寺:「ええ。サノノグレーターは超エリートのレースに連続で名を連ねているけれど、結果は常に掲示板の端っこ。つまり『埋められない実力差』がすでに証明されてしまっているの。――これも容赦なく、斬り捨てなさい」
佐倉が澱みのない動作でタブレットをスワイプした。
佐倉:「確かに最高峰のクラスへ挑みましたが、結果は見るに堪えない大敗です。しかも、そこから四ヶ月もの間、実戦を離れて休養しています」
神宮寺:(魔王にボコボコにされて四ヶ月もふて寝していた勇者が、再修行もせずにいきなり世界を救えるはずがない。休養明けで即座に結果を出せるのは、休む前に圧倒的な実力を証明していた一握りの天才だけよ。……データという名の歴史は、常にそう語っているわ)
神宮寺の冷徹な独白を代弁するかのように、佐倉が淡々と、引導を渡す。 佐倉:「過去十年の統計上、この長期間の休養明けで通用するのは、前走で三着以内の上位争いを演じていた個体のみです。大敗から立て直しの実戦も挟まない直行は、分析上、最も手を出してはいけない禁忌(タブー)と言えますね」
若葉:「うわあ、ホンマや。これで五頭が綺麗に消えたわ! 教授、佐倉助手、なんかパズルが解けたみたいでめっちゃ気持ちええわ! ……あっ、でも、ちょっと待って」
若葉がリストの最下部を凝視しながら、不思議そうに首を傾げた。
若葉:「このマテンロウゲイルって子も、前回は非重賞……つまり練習試合のレースやったみたいやで? 教授の言う『スピンオフキャラ』やったら、この子も一律で消しちゃってええのん?」
神宮寺は窓の外、燃えるような黄金色に染まる空へと視線を移し、思慮深く目を細めた。
神宮寺:「そこがデータの面白いところよ、若葉。彼は確かに直前こそ『練習試合』に身を置いていたけれど、その前身を見れば超エリート級のレースで、確かな実力とともに二着に食い込んでいる。――つまり、彼には本編のメインキャラクターとしての『血』が、今も脈々と流れている証拠ね」
若葉:「おおっ! じゃあ、この子は一律カットやなくて『保留』ってことやね! 俄然、ワクワクしてきたわ!」
神宮寺:(とはいえ、この美しい論理とて、所詮は過去の数字が作り出した幻影の切り貼りに過ぎない。絶対に破られないデータなど、この不確実な世界には存在しないのだから。……けれど、だからこそ。疑いながら、慈しみながら、余計なノイズを削ぎ落としていくこの過程が、たまらなく愛おしいのよ)
神宮寺は空になったティーカップをソーサーに戻し、微かな余韻を噛みしめるように小さく息を吐いた。
神宮寺:「さあ、第一段階の『クレンジング』は終了よ。次はもっと深く、もっと残酷に。残された幻影を切り裂いていくわ。――若葉、佐倉くん。準備はいいかしら?」
第2章;九割七分の壁と銀色の勇者研究室を包んでいた黄金色の陽光は、いつの間にか群青色の帳(とばり)へと姿を変えていた。窓の外では街灯がポツポツと灯り始め、都会の夜が静かに、だが確実に目を覚まそうとしている。室内では、アンティークなデスクランプの温かい光が、神宮寺の白い指先と散らばったデータシートを、逃れられぬ運命のスポットライトのように照らし出していた。
神宮寺:(夜の静寂は、思考の解像度を極限まで引き上げてくれる。昼間の喧騒という名のノイズが霧散し、無機質な数字たちが独自の言語で語りかけてくるわ。……けれど、統計という名の予言はどこまでも残酷ね。どれほど美しく、力強く駆ける馬であっても、過去の歴史という巨大な門番が『お前は、ここを通さない』と冷たく宣告するのだから)
神宮寺は、冷めかけた紅茶を唇に運び、一瞬だけ窓の外の虚空に視線を投げた。
佐倉:「教授、少し室温を上げました。夜風が冷え始めていますから」
佐倉が静かな動作で空調パネルを操作する。ピッという小さな電子音が、研究室に張り詰めた空気をわずかに弛緩させた。
若葉:「おお、佐倉助手、気がきくなあ! うちはもう、教授の鋭いツッコミで心拍数上がりっぱなしやから、ちょうどええわ!」
若葉が、前のめりになってリストを覗き込む。彼女の瞳には、未知の領域に対する無垢な好奇心が、夜の闇を跳ね返すように輝いていた。
神宮寺:「さて、若葉。ここからは『一等賞以外』を狙う者たちの選別に入るわよ。三連複やワイドという、いわゆる『仲良しこよし馬券』ですら、決して超えてはならない絶望の壁が存在するの」
神宮寺が、盤上のチェス駒を詰ませるような仕草で、銀色のペンを弄(もてあそ)んだ。
若葉:「えっ、一等賞じゃなくてもええのに、それでも壁があるん? 予選三位通過でも、本番で奇跡の金メダルをもぎ取れるパターンとか、ないん?」
神宮寺:「それがね、若葉さん。この世界では、その『予選』の格付けが全てなんです。特定の超エリート予選以外で敗北を喫した個体が、本番で巻き返す確率は……統計上、ほぼ『無』に等しいんですよ」
佐倉がタブレットを滑らせ、新たなグラフを虚空に展開する。そこには、過去十年の皐月賞で二着・三着に食い込んだ馬たちの「前走成績」が、冷徹な判決文のように並んでいた。
佐倉:「見て、若葉。過去の三着以内馬三十頭のうち、実に二十五頭は前走で一着だったの。負けてもなお許されるのは、前走が『弥生賞』か『共同通信杯』という、いわば最高峰の選抜試験だった馬だけ。それ以外のレースで土をつけた子は、本番のゲートが開いた瞬間に魔法が解けたシンデレラのように、舞台から消えていくわ」
神宮寺の静かな宣告に、若葉がごくりと喉を鳴らした。
若葉:「最高峰の試験以外は認めへんって……。まるで、どこかの超名門校の入試みたいやなあ。じゃあ、さっき私が気になってたマテンロウゲイルくんはどうなるん? 前回はちゃんとした一等賞やったやん!」
神宮寺:「いいところに気づいたわね。けれど、彼が勝ち星を挙げたのは『若葉ステークス』という名の、非重賞……つまり、先ほど言った『練習試合』よ。このレースを制して本番で馬券に絡む確率は、過去十年でたったの三パーセント。逆を言えば、九十七パーセントがここで脱落する――これが『九割七分の壁』の正体よ」
若葉:「きゅ、九割七分!? ほぼ全滅ですやん……! 宝くじ当てるよりはマシやけど、そんなん怖くて手が出せへんわ……」
若葉が苦虫を噛み潰したような顔で、リストの「マテンロウゲイル」に、震える手で引導を渡すバツ印を書き込んだ。
神宮寺:「データは嘘をつかないわ。どれほど過去の栄光が輝かしくとも、眼前にそびえ立つ『九割七分の壁』はあまりに高すぎる。次は、その練習試合で敗北を喫した子たちね。サウンドムーブにアクロフェイズ……。佐倉くん、この二人の『履歴書』を精査して」
佐倉:「了解です。どちらもスプリングステークスという名の『春のトライアル』出身ですが、結果は四着と三着。教授の仰る『二大エリート選抜(弥生賞・共同通信杯)以外での敗退馬』に完璧に該当します。過去、このルートから本番で巻き返し、戴冠を果たした例は……皆無ですね」
佐倉が淡々と、しかし一切の反論を許さない決定的な口調で引導を渡す。
若葉:「スプリングステークス……。春の階段みたいな名前やのに、上るどころか滑り落ちとるってことか。銀メダルすら取れへんかった子は、本番の金メダル争いには混ぜてもらわれへんのやね」
若葉が、この世界の峻厳さを象徴するかのような数字に、深く頷く。
神宮寺:「その通りよ。たとえ銀メダリストであっても、スプリングステークス組は過去十年でわずか二頭しか馬券に絡んでいない。それほどまでに勢力の衰退が著しいルートなの。ましてやそこで三着以下なら、連想ゲーム的に言えば『ラスボスどころか、中ボスの座すら危ういモブキャラ』扱いよ」
神宮寺が、さらにもう一頭、リストを冷徹な指先で示した。
神宮寺:「次はフォルテアンジェロ。この子は最高峰のエリートレースで二着。一見、次世代の主役候補に相応しい実績に見えるけれど?」
若葉:「せや! エリート試験の銀メダリスト! これは期待大ちゃうの、教授!?」
若葉が食い入るように身を乗り出す。だが、佐倉が静かに、そして残酷に首を横に振った。
佐倉:「そこが、統計学が仕掛けた甘い罠なんです、若葉さん。この個体は前回から四ヶ月もの長期間、実戦から離脱しています。過去、この『長期休養・直行ルート』で好走したのは、例外なく『前回一着を勝ち取った天才』のみ。二着で妥協した銀メダリストが、特訓という名の実戦を挟まず、四ヶ月後に奇跡を再現した例は……残念ながら皆無です」
若葉:「うわあ……。銀メダルじゃ足りへんのか。厳しいなあ。まるで『二位じゃダメなん?』って問いに、歴史が『ダメに決まっとるだろっ!』って即答しとるみたいや」
若葉ががっくりと力なく肩を落とす。神宮寺はその絶望すら愉しむように、優雅な手つきで最後の一頭に触れた。
神宮寺:「最後はアスクイキゴミ。この子は前回一着、重賞も勝ち取っているわ。でもね、若葉。この子の辿ってきた『道のり』をよく見て」
若葉:「えーっと……1600メートル? マイルってやつやんな。なんか青春アニメのタイトルにありそうな響きやわ」
神宮寺:「そう。けれど、今回の戦場は2000メートルなの。数値で見ればたった400メートルの差。でもね、これは100メートル走の選手がいきなり中距離走のオリンピックに駆り出されるようなものよ。過去、この『マイルの壁』を飛び越えて戴冠したのは、伝説級の怪物か無敗の天才だけ。この子には、その伝説を塗り替えるための……圧倒的な『スタミナの裏付け』が、あまりにも足りないわ」
若葉:「経験値不足かあ。いきなりレベル1の勇者が、ラスボス直前のダンジョンに放り込まれるようなもんですな。イキゴミだけではどうにもならんってことか。名前負けですやん!」
若葉が小気味よい音を立て、勢いよくバツ印を書き込んだ。これで、リストの余白はさらに虚しく広がっていく。
神宮寺:(論理のメスは、期待という名の贅肉を容赦なく削ぎ落としていく。けれど、削りすぎたその先に残るものは、果たして『真実』なのかしら。それとも、ただ過去という名の死骸を繋ぎ合わせただけの『化け物』なのかしら。……私は、自分の導き出した答えを、誰よりも私自身が疑っているわ)
神宮寺は、窓に映る自分の顔を見つめた。その瞳には、冴え渡る知性と、分析の果てにたどり着く名状しがたい虚無感が混ざり合っている。
神宮寺:「これでまた五頭、沈んだわね。生き残った馬たちは、ここからさらに厳しい『特例の審判』を受けることになるわ。若葉、心してかかりなさい」
若葉:「はいな、教授! 次のページ、めくらせてもらうで!」
第3章;例外の条件と無敗のチート主人公窓の外は、もはや完全に黒く塗りつぶされている。都会の夜空には星一つ見えない代わりに、薄暗い研究室の中で煌々と光る複数のモニターが、秩序を持った「疑似的な星座」を形成していた。 室内を満たしているのは、エスプレッソマシンの低い唸り声と、深く焙煎されたコーヒー豆の、焦げたような、それでいて理性を鋭く覚醒させる強い香りだ。
神宮寺:(残されたのは、過酷な選別を生き延びた真の強者たち。ここから先は、王道の外側に潜む『例外』を炙り出す作業になるわ。統計とは、本来的に残酷なもの。たった一つの例外を許容するために、百の死骸を積み上げる。……けれど、その血肉の山からこそ、真実の輪郭はくっきりと立ち現れるのよ)
神宮寺は、佐倉が淹れたばかりのブラックコーヒーを口に含み、その鮮烈な苦味にわずかに目を細めた。
若葉:「ふぁぁ……あかん、目ぇ開けたまま寝てまいそうや。さっきまで休憩で読んでた、異世界転生モノの漫画の主人公みたいに、指パッチン一つで徹夜の疲れが吹っ飛ぶチートスキルが欲しいわぁ……」
デスクに突っ伏したまま、若葉がアニメのキャラクターのような大げさなあくびを漏らす。
神宮寺はカップを音もなく置き、薄く、静かに微笑んだ。 神宮寺:「良い連想ね、若葉。指パッチンで因果を書き換える『チート主人公』。実は、競馬のデータ分析においても、王道の脚本を無視して勝つためには、その『チート属性』が絶対に不可欠なのよ」
若葉:「チート属性? なになに、魔法でも使うん、教授?」 若葉がのそりと、重そうな頭を持ち上げる。
傍らで静かにタブレットを操作していた佐倉が、新たなデータを星座の一部として空中に投影した。 佐倉:「魔法ではありませんが、それに類する圧倒的な『種』の才能です。過去の統計において、王道ルートを逸脱しながら本番でメダルを獲った個体には、ある強烈な共通点が存在します。若葉さん、なんだと思いますか?」
若葉:「うーん……王道を通らへんのに強いんやろ? もしかして、めっちゃでっかい剣を振り回して敵をなぎ倒すとか?」
神宮寺:「惜しいわね」 神宮寺が、思考の糸を鮮やかに引き継ぐ。 神宮寺:「正解は『土つかずの無敗』、あるいは『出走した全てのレースが一等賞』という、傷一つない完璧なステータスよ。王道の激戦区を避けた、いわば『裏ルート』からやって来て本番で戴冠するには、これまでの蹄跡で一度も屈辱を味わったことがないほどの、天賦のチート能力が必要なの」
若葉:「なるほど! 雑魚敵を倒してレベル上げせんと、いきなり魔王に挑むつもりなら、初期レベルがカンストしてなきゃアカンってことやね!」
神宮寺:「そういうこと。じゃあ、佐倉くん。最初のターゲットを『鑑定』してちょうだい」
佐倉がモニターの一部を拡大し、一頭のプロフィールを浮かび上がらせた。 佐倉:「カヴァレリッツォです。この個体は前走、マイルと呼ばれる一六〇〇メートルの最高峰レースを一等賞で制し、そこから本番へ直行するローテーションを選択しました」
若葉:「短い距離のトップか! それなら初期レベル、相当高そうやん。いけるんちゃうの?」 若葉が、希望を見出したように目を輝かせる。
だが、佐倉は感情を削ぎ落とした動作で首を横に振った。 佐倉:「過去、このマイル路線の最高峰から直行して本番でメダルを獲った例は、わずか一頭。その例外となった一頭は、それまでの全レースを一等賞で圧勝してきた、文字通りの完全無欠なチート馬でした。しかし、このカヴァレリッツォは、二走前に一度、二着という敗北を喫しています」
神宮寺:「短い距離の経験しかない上に、すでに『敗北の味』を知ってしまっている。そんな不完全なステータスで、王道を歩んできた猛者たちの過酷なスタミナ勝負を制する確率は、限りなく零に近いわ。――消しなさい」
若葉:「うわぁ、一回負けただけでチート認定剥奪か……厳しい世界やで。まさに一機死んだらゲームオーバーの無理ゲーやん」 若葉が重いため息をつきながら、カヴァレリッツォの名を漆黒のバツ印で塗り潰した。
神宮寺:「次も似たような直行ルートね。パントルナイーフはどうかしら?」 神宮寺が、闇に浮かぶモニターへ冷徹な視線を移す。
佐倉がすかさず、その『前歴』を読み上げた。 佐倉:「この個体は秋に行われたエリート級の重賞を一等賞で制した後、約五ヶ月もの長期休養に入り、今回がぶっつけの本番となります」
若葉:「五ヶ月の休養!? それって漫画でよくある『精神と時の部屋』みたいな、修行のタイムスキップ展開やん! 絶対にケタ違いに強くなって帰ってくるやつですわ、これ!」 若葉が膝を叩き、身を乗り出して興奮する。
神宮寺:「その連想は嫌いじゃないけれど、現実の統計はもっとシビアよ」 神宮寺が薄く笑う。 神宮寺:「過去、その『空白の五ヶ月』を飛び越えて本番で躍動できたのも、わずか一頭。そしてその一頭も、やはりデビューから一度も土をつけられていない無敗のチート馬だったわ。……さて、パントルナイーフは?」
佐倉:「デビュー戦で二着という『敗北』を記録しています」 佐倉が静かに、引導を渡した。
若葉:「あかんやん……! 修行に入る前に一度でも負けてたら、それはもうチートやなくて、ただの『努力の凡人枠』や。この過酷なインフレにはついていかれへんね」 若葉は悟ったように深く頷き、力強い筆致でその名をリストから抹消した。
神宮寺:「さあ、次はゾロアストロよ。この子は冬に行われたオープン競走で一等賞を獲っているわ」
若葉:「冬のレースか。寒風吹き荒ぶ雪山での過酷な特訓を乗り越えた……いわば隠れ里の修行明けやな! 今度こそ本物のチート候補ちゃうん?」
佐倉:「残念ながら。過去にその冬のオープン戦から本番で好走したのも一頭のみ。当然、その例外はそこまで全勝無敗の個体でした。対してゾロアストロは、すでに過去の戦歴で二着、三着と複数回の取りこぼしを経験しています」 佐倉の氷のように冷静な声が遮る。
若葉:「うわ、もうお約束のパターンやん! ボロボロに負けた過去がある時点で、例外ルートを突破する資格なしってことやね。はい、消し!」
サクサクと作業を進める若葉の潔さを見て、神宮寺が満足げに小さく頷いた。 神宮寺:「飲み込みが早くなってきたわね。じゃあ、次のアルトラムスはどうかしら? 彼は『毎日杯』という名の、春の急成長枠を一等賞で勝ち上がってきたわ」
若葉:「毎日杯……なんか、ソシャゲの『毎日のデイリークエスト』みたいな名前やな。コツコツ石を貯めて、戦力補強してきたん?」
佐倉:「面白い比喩ですね」 佐倉が微かに口角を上げた。 佐倉:「そのデイリークエストから本番を制したのも、過去十年でわずか一頭。その例外は驚異的な成長曲線を描きましたが、対してアルトラムスは、冬の重賞……シンザン記念で三着。確かに掲示板には載っていますが、勝ち馬からは決定的な差をつけられての入線です。コツコツ貯めた石も、ガチャ一回分……いえ、単発で終わってしまう程度の心許ない量かもしれません」
若葉:「三着かぁ! 悪くはないけど、チート級の無双状態やないってことやね。デイリークエストは完遂したけど、イベントの超高難易度ボスを捻り潰すには、まだレベルが足りひん感じか!」
神宮寺:「ええ、その通りよ」 神宮寺が、思考のバトンを受け取る。 神宮寺:「過去に毎日杯から戴冠したアルアインという馬は、確かにシンザン記念で六着と大敗していた。けれど彼は、その後の毎日杯で誰もが予測できなかった爆発的な進化……いわば『隠しスキルの覚醒』を証明してみせたのよ。対してアルトラムスの指数(レーティング)は、現時点ではまだ他のエリートたちを蹂躙するほどではない。未覚醒のステータスのまま本番へ挑むのは、無謀を通り越して無慈悲な結果を招くだけ。――消しなさい」
若葉:「なるほどな! 覚醒イベントが起きてへんのやったら、物語的にはまだ脇役キャラのままや。容赦なくバツや!」
若葉がペンを走らせる音を心地よく聞き流しながら、神宮寺はリストの最後に残ったデータに目を向けた。 神宮寺:「いよいよ、この段階での最後の一頭ね。アスクエジンバラ。この子は、直前の『スプリングステークス』で二着に食い込んでいるわ」
若葉がピタッとペンの動きを止めた。 若葉:「あれ? 教授、さっきの章で『スプリングステークス組はもう勢いが落ちてて、そこで負けた馬は絶望的』って言ってへんかった?」
神宮寺:「よく覚えていたわね、若葉。その通りよ。あなたの記憶力も、少しは『チート化』してきたかしら」 神宮寺は満足そうに、目を細めて微笑んだ。
佐倉:「そのルートで敗北し、本番で奇跡的な巻き返しを演じた唯一の例外は、前々走で見事に一等賞を射止めていた個体のみです。しかし、アスクエジンバラは前々回のトップクラスのレースでも三着。――つまり、決定的な瞬間に勝ちきれない、敗北の慣性が働いています」 佐倉が事務的な響きの中に、確信を込めて補足する。
若葉:「なるほどな! 連敗してる時点でチート主人公どころか、ただの脇役キャラに降格や! これで完璧に、このページの五頭も消えたで!」
若葉が誇らしげにリストを掲げると、そこには見事なまでに整然とした、死を宣告するバツ印が並んでいた。 深夜の静寂が支配する研究室で、コーヒーの香りが先ほどよりも少しだけ、優しく、柔らかく感じられた。
神宮寺:(これで、邪魔な幻影はすべて切り捨てた。残ったのは、統計という名の檻(おり)を突き破る可能性を秘めた、紛れもない本物たち。……けれど、競馬という筋書きのない残酷なドラマにおいて、この論理の城は果たして最後まで持ち堪えられるのかしら。疑念は尽きない。けれど、だからこそ。この綱渡りのような思考の遊戯は、震えるほどに美しい)
神宮寺は、窓に映る自分の虚像と目が合い、ふっと熱い吐息をついた。
神宮寺:「お疲れ様。これで全てのノイズは霧散したわ。……さあ、ここからは生き残った『本物』たちの、残酷で華麗な品評会(オークション)を始めましょう」
第4章;残された六つの真実と、美しい疑念日付が変わり、深夜の静寂が研究室を完全に支配していた。窓ガラスを細かな雨粒が叩く微かな音が、メトロノームのように一定のリズムを刻んでいる。雨に濡れたアスファルトの匂い――ペトリコールが、換気扇を通じて微かに室内へ紛れ込み、先ほどまでの焦げたコーヒーの残香と複雑に混ざり合っていた。
神宮寺:(冷たい雨の匂いは、昂ぶった神経を鎮静させてくれる。二十一もの雑多な情報から、不要なノイズを削ぎ落とす作業は終わったわ。フィルターを通り抜けたのは、たった六つの純粋な結晶。……けれど、この結晶すらも、当日の熱狂という名のハンマーで容易く砕け散る脆さを秘めている。論理とは、常にその矛盾を孕んでいるのよ)
神宮寺は、使い込まれた革張りのチェアに深く背を預け、冷え切った指先でこめかみをゆっくりと揉みほぐした。
色とりどりの星型グミを口に放り込み、弾力のある人工的な甘味を噛み締めながら、若葉が大きく背伸びをした。 若葉:「ん~っ! やっと終わったぁ! 最初は二十一頭もおって絶望したけど、見事に六頭まで絞れたな! ええっと……リアライズシリウス、バステール、ロブチェン、ライヒスアドラー、アドマイヤクワッズ、それにグリーンエナジーやね。なんか、RPGの終盤で仲間になる最強パーティみたいやん!」
その言葉に応じるように、佐倉がキーボードを軽く叩いて、メインモニターの表示を切り替えた。 佐倉:「最強パーティ、という比喩はあながち間違いではありませんよ、若葉さん。この六頭は、過去十年間のデータが示す『絶対的な王道』を、一歩も踏み外さずに歩んできた本物たちですから」
若葉:「王道って、あれやろ? 途中でスピンオフとか裏道に逸れんと、ちゃんと公式の全国大会予選を勝ち上がってきたってことやんな?」 若葉が指先に残ったグミの粉をぺろりと舐めながら、得意げに首を傾げる。
佐倉は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、重厚な静寂の中で頷いた。 佐倉:「その通りです。六頭のうち五頭は、春の二大エリート選抜試験と呼ばれる最重要のステップを経てきました。残る一頭、グリーンエナジーも、冬に行われた歴史ある公式重賞で、堂々の一等賞を獲得しています。彼らは皆、紛れもない特権階級の特待生なんです」
若葉:「なるほどなあ。やっぱり、最後にモノを言うのは血のにじむような王道の特訓ってわけや! ……あっ、でも待ってや。この六頭の中に、前回のテストで一等賞とれへんかった子もおるんちゃう?」
若葉の鋭い指摘に、神宮寺がゆっくりと伏せていた目を開いた。デスクランプの光が、彼女の知的な瞳に鋭利な光の束を映し出す。
神宮寺:「いいところに気がついたわね、若葉。確かにロブチェン、ライヒスアドラー、アドマイヤクワッズの三頭は、前走のテストで一等賞を逃しているわ。けれど、彼らの敗北には『論理的に許容される理由』があるの」
若葉:「許される理由? なんやそれ、テストの日に風邪ひいて実力出せませんでした、みたいな子供の言い訳なん?」
神宮寺は指先で弄んでいたペンをピタリと止め、愉しげに薄く笑った。 神宮寺:「違うわ。彼らは敗れたとはいえ、一等賞とのタイム差は『わずか〇・二秒以内』。……アニメのライバルキャラを想像してみて。主人公と限界を超えた死闘を繰り広げ、最後はほんの数センチ、紙一重の差で膝を屈する強敵がいるでしょう?」
その言葉に、若葉の顔がパッと華やいだ。 若葉:「あーっ! おるおる! 最後に『ふっ、お前の勝ちや……』って言って笑う、めちゃくちゃ強くて格好いいやつやろ! 主人公より人気出たりするねんな、そういうキャラ!」
神宮寺:「そう、それよ。過去の膨大なデータが示す真実は一つ。本番で戴冠を許される『前走の敗者』は、その紙一重の差で王者に食らいついた宿敵(ライバル)だけ。大差で千切られた脇役が、本番で奇跡という名のバグを起こす余地はないわ。だからこそ、この僅差の死闘を演じた三頭には、最強パーティに名を連ねる資格が十分にあるのよ」
佐倉がタブレットを静かに閉じ、教鞭を置くような所作で言葉を継ぐ。 佐倉:「つまり、今このデスクに残っている六頭は、『公式の最難関ルートを完遂した天賦の才』か、『そこで紙一重の差まで王者を追い詰めた最強の宿敵』のいずれかしかいない、ということです。論理的なノイズは、もはや微塵も存在しません」
若葉:「うおおお! なんか胸が熱くなってきたで! ほな、この六頭の中から、どれが一番『主人公』に相応しいんか今すぐ決めよや! 教授の必殺分析で、ズバッと一頭に絞ってえな!」
身を乗り出す若葉を、神宮寺は細く白い手で制し、静かに首を横に振った。
神宮寺:「残念だけれど、今日の講義はここまでよ」
若葉:「ええっ!? なんでなん!? ラスボス戦の直前で強制セーブして、ゲーム機の電源をブチ切るようなもんやんか!」
不満げに頬を膨らませる若葉に対し、佐倉が宥めるような柔らかなトーンで説明を補足する。 佐倉:「若葉さん、競馬のレースはまだ『スタート位置』すら確定していないんです。陸上競技でも、内側と外側のコースでは戦略が異なりますよね? この中山二〇〇〇メートルという戦場では、過去十年の統計において『真ん中から外寄りのゲート』を引いた個体が、圧倒的な優位性を誇るという明確な数字が出ているのです」
神宮寺:(どれほど優れた名馬であっても、不運な枠順、当日の雨にぬかるんだ重い泥、そして数万の群衆が放つ狂信的な歓声……。それらが絡み合う『混沌』の前では、本来の力など容易く霧散してしまう。私たちが導き出したこの六頭は、あくまで『無菌室で計算された最強』という名の、脆い偶像に過ぎないのよ)
神宮寺は、窓ガラスを伝い落ちる雨粒の不規則な軌跡を、細い指先でなぞりながら、ふっと自嘲気味な笑みをこぼした。
神宮寺:「佐倉くんの言う通りよ。スタート位置の発表、当日の空模様。そして、世間の人々がどの個体に自らの欲望を投影しているかという『人気の数字』……。それら全てのピースが出揃わない限り、真実の絵は完成しないわ」
若葉:「そっかあ。マリオカートでも、スタート位置とかアイテム運で順位がひっくり返るもんな。じゃあ、枠順ってやつが決まるまで、ご褒美はお預けってことやね」
若葉が納得したように背伸びをすると、強張った関節がポキポキと小さな乾いた音を立てた。
神宮寺は革張りのチェアから音もなく立ち上がり、少し冷えたコーヒーをシンクに流した。水道から流れ出る水の音が、静止した空気の中に鋭く響き渡る。
神宮寺:「ねえ、若葉。佐倉くん。私はね、自分のこの論理的な分析を、誰よりも疑っているのよ」
佐倉:「え……。教授が、ご自身のデータを疑うのですか?」 佐倉がわずかに目を見開き、若葉もキョトンとした表情で、神宮寺の細い背中を見つめた。
神宮寺:「ええ。私たちは過去の数字を切り貼りして、絶対の正解という名の『虚像』を組み上げようとしている。でも、競馬というドラマの真髄は、往々にして『計算外のバグ』が起きる瞬間にこそ宿るのよ。私たちが切り捨てたはずの『九割七分敗れ去る運命の馬』が、突然変異のような輝きを見せ、全ての統計を粉々に打ち砕いて、先頭でゴール板を駆け抜ける……。そんな非論理的で美しい反逆を、私の心のどこかは、いつだって期待しているの」
若葉はしばらくぽかんとしていたが、やがて視界が開けたようにニカッと満面の笑みを浮かべた。
若葉:「なんや教授、めっちゃロマンチストですやんか! データを信じ抜いた上で、そのデータがひっくり返る奇跡も楽しむなんて……。それ、最高に熱いアニメの最終回みたいで、うち、めっちゃ好きやわ!」
佐倉も穏やかに微笑み、儀式を終えるようにパソコンのメイン電源を落とした。 佐倉:「教授のその『美しい疑念』こそが、この研究室の真の存在意義(テーマ)ですからね。……さて、夜も更けました。枠順が確定し、最後の審判が下る週末まで、我々も少し英気を養うとしましょう」
若葉:「おっしゃー! ほな今日は解散や! 次集まるときは、絶対の絶対に、一番当てるで!」
若葉の快活な声が、澱んでいた夜の静寂を鮮やかに吹き飛ばした。 神宮寺は、デスクに残された六つの「真実」が記されたリストを、宝物を隠すようにそっと引き出しにしまい、誰にも聞こえない声で呟いた。
神宮寺:「ええ、楽しみにしているわ。論理が勝つか、奇跡が勝つか……。その答え合わせは、週末のターフの上で」
雨音はいつの間にか止んでいた。雲の切れ間から差し込んだ、冷たくも美しい月明かりが、研究室の床に刻まれた長い影を静かに照らし出していた。
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第5章:急坂の罠と、回線落ちの勇者たち 数日後の午後。研究室の大きな窓は開け放たれ、春特有の湿気を帯びた生温かい風が、白いレースのカーテンをふわりと持ち上げていた。神宮寺のデスクには、いつものアールグレイではなく、透明なガラスポットに満たされたフレッシュミントティーが置かれている。弾けるような清涼感のある香りが、雨上がりの微かな土の匂いと混ざり合い、気怠い午後の空気をピリリと引き締めていた。
(どんなに美しい過去の栄光を並べ立てようと、戦場の『地形』という絶対的な物理法則の前では、全てのステータスが等しく暴かれる。スタート直後に待ち受ける急峻な上り坂、そして息つく間もなく迫る、短くも絶望的な最後の急坂……。この中山二〇〇〇メートルというコースは、誤魔化しの利かない残酷な処刑場よ)
神宮寺は、ポットから注いだミントティーの爽やかな水色(すいしょく)を透かして見つめながら、静かに、そして確実な手つきでタブレットを叩いた。
「うわぁ、なんやこのコースの形! スタートしてすぐ坂道登らされて、最後にもう一回キツイ坂があるん? アクションゲームやったら、絶対みんな谷底に落ちてコンティニューする鬼畜ステージやんか!」
モニターに映し出された高低差グラフの、鋭く尖った「罠」を指差し、若葉が悲鳴のような声を上げる。
佐倉がホワイトボードの前に立ち、マーカーのキャップを小気味よい音を立てて外した。 「まさに『初見殺し』のステージです。この特殊な地形で最も恐ろしいのは、スタート直後の『ダッシュ力』が欠如している個体です。十八頭もの猛者がひしめくこの戦場では、最初の坂で一歩でもモタつくと、あっという間に激流の後方へ置き去りにされます」
「えっ、それってオンラインゲームで言うところの『回線落ち』とか『ラグで動けへん』状態ってことなん? 気づいたら周りに誰もいなくて、敵に囲まれてタコ殴りにされるやつやん!」
若葉の的確すぎる比喩に、神宮寺が満足げに唇を綻ばせた。 「その通りよ、若葉。そしてデータが示す『回線の弱い子』の正体は明確よ。たとえば、前回脱落させたサノノグレーターやパントルナイーフ。彼らはダッシュ力が極端に低かったり、長すぎるブランクで実戦の感覚が鈍っていたわ。スタートの号砲が鳴った瞬間、致命的なラグを抱えて最後方に沈む――それが彼らに約束された運命だったの」
「うわあ……。いくらプレイヤーの腕が良くても、初期装備でラグ持ちやったら即死やん。じゃあ、前回残したうちらの『最強パーティ』の六頭はどうなん? 全員回線サクサクで動けるん?」
若葉が期待を込めてリストを覗き込むと、佐倉が静かに、だが奈落の底まで響くような重みのある声で遮った。
「いえ。実は最強パーティの一角、バステールが非常に危険な状況です。彼の終盤の『必殺技(末脚)』の威力は現役屈指ですが、序盤のダッシュ力が致命的に低い。……つまり、ボス戦で奥義を放つ前に、雑魚敵の群れに阻まれて身動きが取れなくなる『詰み』の状態に陥る可能性が高いのです」
「ええっ、バステールくん大ピンチやん! 必殺技のゲージMAXまで溜まってるのに、敵に囲まれて発動できへんのは一番コントローラー投げたくなるやつやで! ほな、逆にこの鬼畜ステージで有利になるんは誰なん?」
神宮寺が、ポットの中で踊るミントの葉を指先で弄りながら、氷のように澄んだ視線をモニターへ向けた。 「このステージの『主導権(イニシアチブ)』を強引に奪い取るのは、リアライズシリウスよ。彼は全プレイヤーの中でトップの初速を誇る。つまり、彼が最前列で猛スピードの逃走劇を演じることで、レース全体が息つく暇もない過酷な『デス・ゲーム』へと変貌するわ」
「特攻隊長が場を荒らしまくるんやね! じゃあ、シリウスくんがそのまま逃げ切って完全勝利ちゃうの?」
「そこが、物理法則の残酷で面白いところなのです」 佐倉がホワイトボードに、ゴール直前にそびえ立つ断崖のような急坂を描き加える。 「彼はダッシュ力こそ最高ですが、最後の急坂を登り切るための『登板力(パワー)』と、終盤の爆発力が致命的に欠落しています。特攻隊長として戦場をかき乱すだけかき乱して、最後は酸欠状態で失速。後ろから迫るハンターたちの、格好の『獲物』として飲み込まれる運命です」
「うわぁ、ヘイトだけ集めて自滅するタンク役やん……悲しすぎるやろ。じゃあ、そのシリウスくんを死角から美味しく狙い撃ちできる『真のハンター』って誰なん?」
若葉の問いに、神宮寺がふっと自信に満ちた、蠱惑的な笑みを浮かべた。
「完璧なハンターは三頭。ロブチェン、ライヒスアドラー、そしてアドマイヤクワッズよ。彼らは前すぎず、後ろすぎない『死角』という名の絶好のポジションを確保し、最後の急坂で最大の爆発力を叩き出せるステータスを有している。シリウスの命数が尽きた瞬間、彼らが一気に戦場の主役に躍り出るわ」
「中距離から高火力のスナイパーライフルを構えとるってことか! めっちゃ強そうやん! ロブチェンくんたち、完全に『勝ち確』の主人公ムーブやね!」
若葉がリストの三頭を赤ペンで力強く囲む。そのインクの独特な匂いが、ミントの清涼感と混ざり合い、研究室の温度を一段と上昇させていた。
「けれど、勝利の美酒を夢見るのはまだ早いわよ、若葉」 神宮寺がティーカップをソーサーに静かに戻し、熱狂に冷や水を浴びせるような硬質なトーンで告げた。
「えっ、まだ何かあるん? あとはもう、この子らの中で誰が一番速いか決めるだけちゃうの?」
「ハンターとして優秀なのは確かよ。けれど、個体が持つ『ステータスの絶対値』や、この中山の土との『根本的な相性』はどうかしら? 次は、生き残ったこの六頭を、一切の情を排して『序列化(ランキング)』していくわよ」
「じ、序列化……! 仲間内でランキングつけるんか、エグいなあ……。でも、教授がつける格付け、めっちゃ気になるわ!」
第6章:公式戦闘力と、残酷な成長限界(レベルキャップ)黄昏時が過ぎ、研究室の窓から見える空は、燃えるような朱色から深い紫紺へとその色を沈めつつあった。部屋の隅に置かれた観葉植物の影が、間接照明の光を浴びて壁に長く伸び、まるで未知のダンジョンに潜む魔物のシルエットのように不気味に揺らめいている。 少しぬるくなったミントティーのグラスを細かな水滴がびっしりと覆い、静まり返った室内には、佐倉が操るマウスの小気味よいクリック音だけが規則正しく響いていた。
(データとは、残酷な鏡ね。過去の戦績という名の断面図を幾重にも重ね合わせていくと、その個体が持つ『成長の限界値(レベルキャップ)』が、冷酷なまでに可視化されてしまう。……どれほど美しいフォームで疾走しようとも、絶対的なエンジンの排気量が足りなければ、中山の急坂をねじ伏せることは叶わない。奇跡を渇望する心と、それを許さない無機質な数字のジレンマ。ふふ、悪くないわ)
神宮寺は、冷えたグラスの表面を指先でなぞり、集まった水滴を紙のコースターへと静かに吸わせた。
「さあ、教授! ポジションの有利不利は分かったで! ほな、いよいよこの『最強パーティ六頭』の中で、残酷な格付けを始めるんやね!」
デスクに身を乗り出し、両手に握った赤と青のボールペンをドラムスティックのように打ち鳴らしながら、若葉が興奮気味に鼻息を荒くする。
佐倉は静かに立ち上がり、大型モニターに六つの緻密なレーダーチャートを横並びに投影した。 「ええ。ここからは純粋な『ステータス勝負』の品評会です。彼らの公式戦闘力、得意とする属性、そして肉体の完成度を天秤にかけ、まずは下位となる第六位から第四位までを確定させます」
「公式戦闘力! スカウターでピピピって測るやつやね! 数字が高い方が絶対強いんやろ?」
若葉の単純明快な問いに対し、神宮寺が薄く、どこか憐れむように笑って首を横に振った。 「そう単純なら、誰も苦労はしないわ。若葉、ゲームで『水属性のモンスター』に『最大火力の炎魔法』を撃ち込んだらどうなるかしら?」
「そらもう、ダメージ半減の『いまひとつ』エフェクトが出て、全然削れへんやつやん! あっ……もしかして、競馬にもそういう『相性』があるん?」
「ご名答よ」と、佐倉がモニターの一部を拡大し、血統や馬場適性を示すアルファベットの記号を冷徹に映し出した。
「今回の戦場は二千メートル。これは解析上『I属性(インターメディエイト/中距離)』に分類されます。過去に一六〇〇メートルなどの『M属性(マイル)』でどれだけ驚異的な数値を叩き出していようと、属性が一致していなければ、その戦闘力は砂上の楼閣に過ぎません」
「なるほど! 属性一致ボーナスが乗らへんどころか、むしろデバフがかかるんやね! じゃあ、その厳しい基準で見たときの『第六位』……一番厳しい宣告を受けたんは誰なん?」
神宮寺が、真っ赤なルージュを引いた唇を冷淡な形に歪め、はっきりとその名を告げた。
「グリーンエナジーよ。彼はこの六頭の中で、最も基礎ステータスが不足しているわ」
「ええっ!? ちょっと待ってや、教授! グリーンエナジーくんって、冬に同じコースの公式戦で優勝してるんやろ? いわば『地元ステージの覇者』やんか。なんで最下位なん?」 若葉が目を丸くして、手元のリストとモニターを忙しなく往復させる。
佐倉が、心臓を射抜くような無慈悲な比較表を提示した。 「確かに同条件のステージで勝利してはいますが、その際に計上された公式戦闘力は『111』。対して、他のエリートたちは『112』から『115』という次元の違う数値を、より過酷な条件で記録しています。さらに、彼は今回、約十二週間という長い休養明け。ダッシュ力も極めて低く、この猛者たちを後方から一掃するための絶対的な熱量が、計算上どうしても足りないのです」
「うわぁ……。地元の村の大会で優勝して無双してたつもりやったけど、全国大会に行ったら周りが全員ステータス完スト勢で、しかも自分はブランク明けで身体がなまってる……みたいな地獄絵図やね」
若葉ががっくりと肩を落とし、グリーンエナジーの横に力なく『6』の数字を書き込んだ。
「絶望している暇はないわよ。第五位にいくわ」 神宮寺が、グラスの中で漂うミントの葉を指先で追い詰めながら、氷のように研ぎ澄まされた視線をリストへ向けた。
「第五位は、先ほど『特攻隊長』と呼んだリアライズシリウスよ」
「えっ! 彼はダッシュ力最強のタンク役やろ? ステータスも高いって言ってへんかった?」 若葉が不思議そうに首を傾げ、真っ赤に塗りつぶされたモニターを仰ぎ見る。
佐倉がホワイトボードに歩み寄り、心電図のような激しい高低差を持つペース配分のグラフを描き始めた。 「彼の公式戦闘力は『113』と非常に高いのですが、そこには大きな『幻影』が混入しています。彼の過去の勝利は、すべてがヌルい『スローペース』……。つまり、敵が足並みを揃えて歩いてくれる『接待プレイ』のような展開でのみ記録された虚像です。唯一、実戦レベルの激しいペースに晒された大会では、完全に息切れして目も当てられない惨敗を喫しています」
「うわ、接待でイキってただけなん!? ホンマのガチバトルになったら化けの皮が剥がれるタイプやん!」
「その通りよ」と神宮寺が冷たく切り捨てる。 「おまけに彼の本質は『M属性(短距離)』。今回は苦手な中距離の舞台で、自らハイペースなデス・ロードを切り拓かなければならない。ステータスの見栄えと人気だけを背負って、最後の急坂で属性不一致の重いペナルティを食らう……。跡形もなく沈む運命ね」
「うわぁ、チュートリアルで無双して『俺最強!』って勘違いしたまま、対人戦のガチ勢がひしめくランクマッチに突撃してボコられる初心者……。シリウスくん、五位決定やね。あな恐ろしや……」
若葉が納得したように頷き、リストの「特攻隊長」の横に無慈悲な『5』を書き込んだ。
「さて、ここからが上位争いを揺るがす重要な分岐点よ。第四位の発表ね」 神宮寺のトーンが一段下がり、研究室の空気密度がわずかに増した。
「第四位は……アドマイヤクワッズです」 佐倉が静かに、しかし冷徹な判決を下す死刑執行人のような声で告げた。
「えええっ!? 嘘やん!」 若葉が驚愕のあまり勢いよく立ち上がり、椅子が床と擦れてギーッと嫌な悲鳴を上げた。 「クワッズくんって、さっき『死角から狙い撃ちできる優秀なスナイパー』ってベタ褒めしてへんかった!? なんでトップ3にも入れへんの!」
神宮寺は動じることなく、黒いタイツに包まれた脚を優雅に組み替えた。 「優秀なスナイパーであることに嘘はないわ。でもね、若葉。彼がなぜ四位止まりなのか……その理由は、前回の『弥生賞』という名の前哨戦で見せた、彼自身の『完璧すぎた立ち回り』にあるのよ」
佐倉がモニターに、前回のレースにおける精密な『ポジショニング解析』を表示する。 「若葉さん、見てください。クワッズは前回の戦いで、これ以上ないほど理想的な進路を確保し、何の不利も受けずに最後の直線を迎えました。戦略的には百点満点の立ち回りです。……しかし、結果はどうでしたか?」
「えーっと……三着に負けてるな。バステールくんとライヒスアドラーくんに、最後はグイッと差されてるわ」
「そこが、致命的な問題なのよ」 神宮寺の瞳が、獲物の弱点を見抜く鷹のように鋭く細められた。
「百点満点の戦略を遂行し、一切のミスなく全力を出し切った。にもかかわらず、上位二頭に『純粋なスペック差』で力負けを喫した。これはデータ分析において、逆転の余地がないことを示す重い事実よ。さらに今回の検量データを見て。彼は前回から、わずか二キロしか馬体が増えていないわ」
「二キロ……。それって、春の成長期やのに、あんまり育ってへんってこと?」 若葉が、希望が指の間から零れ落ちていくのを感じて息を呑む。
「ええ。肉体的な成長が停滞し、現時点での『レベルキャップ』に達してしまっている可能性が極めて高い。前回、完璧なリソース管理とプレイングを見せて勝てなかった相手を、全く同じ条件のステージで、上積みなしに逆転できるロジックがこの世に存在するかしら?」
神宮寺の突き放すような問いかけに、若葉は力なく、ゆっくりと首を横に振った。
「無理やね。運の要素も言い訳もなしに、純粋なステータスと火力の差で押し切られたんやったら、何度リセマラしても同じ結果になるわ。……悲しいなあ。序盤からずっと強くて頼りになってたお助けキャラが、終盤のパワーインフレについていけなくなって、静かにパーティから外れていく瞬間を見とるみたいや……」
若葉が、戦友を見送るような切なそうな表情で、アドマイヤクワッズの横に『4』の数字を刻み込んだ。
「感情移入するのは自由だけれど、数字はどこまでも無機質で、残酷よ」 神宮寺は音もなく立ち上がり、ブラインドの隙間から、深い藍色の闇に沈んだ外の世界を見下ろした。
「これで、下位の三頭が確定した。残るはいよいよ、この過酷な戦場を支配するトップ3……選ばれし『真の主人公たち』の最終鑑定(格付け)よ」
「おっしゃ! 完璧スナイパーのクワッズくんすら蹴落とす、バケモノみたいな上位三頭やね! 教授、佐倉助手、うちの準備はバンタンやで!」
若葉が両手でパチンと頬を叩き、気合を注入する乾いた音が、夜の静寂に心地よく響き渡った。
第7章:頂への招待状と、完璧な主人公(パーフェクト・ヒーロー)夜の帳が完全に下りた研究室。間接照明の琥珀色の光が、ホワイトボードに刻まれた複雑な相関図をドラマチックに照らし出している。空調の微かな稼働音すら、今はオーケストラの開演を待つ劇場のような、心地よい緊張感を帯びていた。
(わずかコンマ一秒の世界。……それは肉体の限界と、乗り手の知略が交差する特異点。三位と一位を隔てる壁は、もはや運命の悪戯と呼べるほどの微差でしかないわ。それでも、私たちはその極小の隙間に『論理』という名の楔を打ち込み、唯一無二の真実を抉り出すのよ)
神宮寺は、冷え切ったグラスの底に沈むミントの葉を凝視しながら、静かに、だが確かな熱を帯びた声で沈黙を破った。
「さあ、上位三頭……メダル圏内の発表よ。まずは第三位、ライヒスアドラー」
「おおっ! ここでアドラーくんか!」 若葉が前のめりになり、机に肘を突いてモニターを食い入るように見つめる。 「でも待ってや。この子、前回のボス戦でバステールくんに負けてるんやんな? なんでクワッズくんより上の評価になるん?」
佐倉がタブレットを鮮やかに操作し、三頭の比較グラフを空中に投影した。 「そこが『成長限界(レベルキャップ)』の差です、若葉さん。先ほど、クワッズは二キロしか増えておらず成長が停滞しているとお話ししましたね。対して、このライヒスアドラーは、同期間で『プラス八キロ』という驚異的なビルドアップを果たしています」
「あっ! そっか、前回言うてた『筋肉の鎧』をさらに着込んできたってことやね!」
「ええ」と神宮寺が引き継ぐ。 「前回、彼とバステールの差はわずか〇・一秒。……写真判定の極限。バステールが現状維持に留まっているのだとしたら、裏で密かにレベリングをこなし、基礎ステータスを底上げしたアドラーが、その微差をひっくり返すロジックは成立する。だからこその第三位よ」
「なるほどなー! 画面外で修行して、再戦時に一回りデカくなって現れるライバルキャラや! これはお約束の熱い展開やで!」 若葉が勢いよく、リストの猛禽(ライヒスアドラー)の横に『3』の数字を刻んだ。
「続いて第二位は……バステールです」 佐倉が静かに告げると、若葉が再び激しく首を傾げた。
「ええーっ!? ちょっと待って、佐倉助手! バステールくんって、さっき『ダッシュ力がゴミすぎて、モブに囲まれて奥義を撃てへん』ってボロカスに言うてへんかったっけ?」
佐倉は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、フッと不敵な笑みを漏らした。 「ええ、機動力の欠如は致命的です。AIに任せて普通に操作すれば、確実にモブの群れに圧殺されてゲームオーバーでしょう」
「『普通に操作すれば』、の話よ」 神宮寺が、赤いルージュの唇に冷艶な弧を描いた。 「若葉、彼のコントローラーを握る『乗り手(ジョッキー)』のデータを見てみなさい」
若葉が目を凝らして手元の資料を覗き込む。 「えーっと……乗り手の総合評価点が……に、二百八十五!? なんやこれ、他のキャラとケタが一個違うやん!」
「その通りよ。彼は初期加速という重いハンデを抱えているけれど、その背に跨っているのは、このサーバーで長年トップに君臨し続ける『伝説の廃人ランカー』なの。彼は無理に前へ行こうとはしない。最後方でひたすら力を溜め、敵の陣形が崩れた一瞬の針の穴を通すような隙間に、超高火力の必殺技を叩き込む戦術を完全に掌握しているわ」
「うわぁ、ピーキーすぎる性能のキャラを、プレイヤーの超絶テクでカバーしとるんや! まさに職人芸やね!」
「さらに、彼が前回叩き出した公式戦闘力『114』は、今回と同じ戦場における最高到達点よ。体重の増減もゼロ。つまり、前回のボスを屠った時の『完璧なステータス』を寸分違わず維持している。最強のプレイヤーと、完成されたアバター。これが二位の正体よ」
若葉が感嘆の溜息を漏らしながら、バステールの横に『2』という重い数字を書き込んだ。
「ほな……いよいよやね。このバケモノたちを全員力でねじ伏せて、頂点に君臨する第一位は……!」
若葉がゴクリと喉を鳴らすと、神宮寺と佐倉が同時に視線を合わせ、確信に満ちた表情でゆっくりと頷き合った。
「第一位、ロブチェン。彼こそが、私たちの導き出した『完全無欠の正解(パーフェクト・ヒーロー)』よ」
神宮寺の凛とした声が、夜の静寂を震わせ、研究室の空気を一変させた。
「ロブチェンくんか! でも教授、この子って前哨戦のレース、三着に負けてへんかった? 一等賞やないのに一番強いって、一体どういう理屈なん?」
佐倉が手慣れた手つきで、過去の戦歴グラフをモニターの最前面に展開する。 「若葉さん、第六章の『属性』の話を思い出してください。前回の戦場は一八〇〇メートル。つまり彼にとっては守備範囲外の『短い距離』であり、さらに敵が全く動かない『超スローペース』……。彼にとって最も不利な、接待プレイの強制参加でした」
「あっ! そっか。高耐久・高火力の重戦士キャラやのに、制限時間付きのステルスミッションみたいなことやらされとったんか!」
「その見立てで完璧よ、若葉」 神宮寺が優雅に歩み寄り、ホワイトボードの『ロブチェン』の名に、深紅のマーカーで鋭いアンダーラインを引いた。 「不得意な戦場で、しかも展開という名の女神が完全に背を向けた絶望的な状況。それでも、彼は純粋な地力の高さだけで三着に食い込んでみせた。そして今回は、過去に彼が『115』という全頭中トップの戦闘力を叩き出した、最高に得意な大乱闘のステージ……属性一致の二〇〇〇メートルよ。ステータスのバランスには一片の隙もなく、馬体もプラス六キロという理想的なパンプアップを遂げているわ」
「弱点が見当たらへん……。属性一致、ステータス最強、成長度もバッチリ。ホンマに王道RPGのラストダンジョンで仲間に加わる、完全無欠の勇者様やんか!」
若葉が弾けるような歓喜の声を上げ、リストのロブチェンの横に、ひときわ大きく、力強い花丸で囲んだ『1』を書き入れた。
「第一位ロブチェン、第二位バステール、第三位ライヒスアドラー、第四位アドマイヤクワッズ、第五位リアライズシリウス、第六位グリーンエナジー。……これで、全六頭の序列が完全に確定しましたね」 佐倉が、完成した『真実のランキング』を見上げながら、重く深い息を吐き出した。
「おっしゃー! 完璧な勝利へのシナリオ、ついに完成や! もう明日の本番、この順番通りに一列になってゴールに飛び込む未来しか見えへんで!」 若葉が両手を高く突き上げ、弾けるようなバンザイのポーズをとる。
だが、神宮寺は音もなく窓辺に歩み寄り、夜空に浮かぶ孤高の月を見上げながら、ふっと意味深な笑みをこぼした。
「ええ、今の『この瞬間』のデータから導き出される解としては、これが絶対の真実よ。……でもね、若葉」
「ん? どないしたん、教授。そんな怖い顔して」
「オンラインゲームの運営って、決戦の直前になって、世界のバランスを根底から覆すような『緊急のアップデートパッチ』を当ててくることがあるでしょう?」
「えっ……。それって、ステータスの急な上方修正とか、バグ修正ってこと?」
神宮寺はゆっくりと振り返り、射抜くような視線で若葉を真っ直ぐに見つめた。 「明日の朝、彼らの最終的な『直前特訓(追い切り)』という名の最新パッチデータが届くわ。それが、私たちの築き上げたこの完璧な城を、一夜にして崩壊させるバグにならないと……誰が言い切れるかしら」
若葉のバンザイの手が、何かに凍りついたようにピタリと宙で止まった。 静まり返った研究室に、どこか遠くで鳴る夜鳴き鳥の鋭い声だけが、不吉な予言のように微かに響いていた。
第8章:緊急アップデートと、崩壊する城翌朝。春の柔らかい陽光を分厚い遮光カーテンで拒絶した研究室は、青白いモニターの光だけが不規則に瞬く、深海のような空間へと変貌していた。空気清浄機が吐き出すオゾンの匂いが、徹夜明けの室内に停滞するコーヒーの酸味と混ざり合い、無機質で冷ややかな緊張感を醸し出している。
(血統、過去の戦績、距離適性。それらはすべて『固定された過去』の演算結果。けれど、競走馬という生体ユニットはプログラムされた機械ではない。たった一週間の『直前特訓』で、過去のデータを粉々に粉砕するほどの突然変異を引き起こす。……さあ、運営が突きつけてきたこの緊急アップデートパッチが、私たちが築き上げた城をどう歪めてくれるのかしら)
神宮寺は、端末に届いたばかりの『直前特訓(追い切り)』の評価数値を睨みつけたまま、静かに、だが確実な拒絶を込めて息を呑んだ。
「うわぁ、朝っぱらからなんちゅう険しい顔してんの、教授。徹夜で高難易度クエスト周回してた廃人ゲーマーそのものやんか。……何? またガチャの排出率でも変わったん?」
コンビニの紙袋からメロンパンを取り出しながら、若葉が場違いなほど軽快な声をかける。
佐倉が、いつもよりわずかに早口で、そして機械的なほど無慈悲に応答した。 「ガチャどころではありません。若葉さん、我々が昨日、心血を注いで築き上げた『完璧なランキング』は、たった今、その基盤から崩壊しました」
「はえっ!? 崩壊!? 嘘やん、あんなに美しく数字並べたのに! 一体誰がバグらせたん!?」
若葉がメロンパンを咥えたまま、吸い寄せられるようにモニターへと駆け寄る。
神宮寺が、信じがたい汚物でも見るような冷徹な手つきで、リストの一角に鎮座していた名前を赤ペンでなぞり、抹消した。 「……第三位に据えていた、ライヒスアドラーよ。彼の今回の特訓評価は『B』。ライバルたちが限界を突破せんと血反吐を吐くような猛追を見せている中で、彼だけが、あろうことか『単走での馬なり』という軽微な調整で済ませているわ」
「軽い運動? ちょっと待って、昨日『プラス八キロの筋肉の鎧が最高』ってベタ褒めしてたんは教授やん!」 若葉が目を白黒させ、咥えていたメロンパンを落としそうになる。
佐倉が眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、冷徹な事実を宣告した。 「直前特訓で極限まで負荷をかけられなかったということは、あのプラス八キロの正体は、質の良い筋肉などではありません。……単なる『贅肉』。つまり、絞り込みに失敗した重度のオーバーウェイトである可能性が極めて高くなりました」
「宿屋で飯食いすぎたんやーっ!! 決戦前夜に何してんの、ライヒスくん! せっかくの強キャラポジションが、これじゃただの『動けるデブ』枠に降格やんか!」 若葉の悲鳴が、早朝の研究室に虚しく反響する。
「……致命的なのは、彼だけではないわ」 神宮寺が、さらに冷酷な追撃を加える。 「昨日消去したカヴァレリッツォもパントルナイーフも、揃って追い切り評価は『B』。格下の併走相手に遅れを取り、ゴール後も息が整っていない。これでは、中山の過酷な心臓破りの坂で、一歩も脚が動かなくなる。彼らは完全に、私の『論理の圏外』へと排斥されたわ」
「うわぁ、調整ミスで特大のデバフかかってもうてる……。直前の仕上がりだけで、ここまで評価がひっくり返るんやな。データって、ほんまに意思を持った生き物みたいや」
若葉が震える手で、昨夜書き上げたばかりのランキングに、大きな「×」を刻んでいく。
「嘆いている暇はないわよ、若葉。ここから、最新パッチを適用した『新・序列』の第六位から第四位を公開するわ」 神宮寺はミントタブレットを噛み砕き、その清涼感で思考を鋭利に研ぎ澄ませた。
「第六位――リアライズシリウス。特攻隊長を務める彼ね」
「あれ? この子、特訓評価は『A』ってなってるで! 調子ええんやったら、もっとランク上がってもええんとちゃうの?」 若葉が不思議そうにモニターの数値を指差す。
佐倉がホワイトボードに描かれた『中山コース図』を、ペン先で苛烈に叩いた。 「若葉さん。いくら剣の素振りを一万回完璧にこなし、体調を万全に整えたとしても、これから彼が挑まされるのは『銃撃戦』なのです。彼の『出足は鋭いが、終盤の心肺機能が持たない』という致命的な属性のミスマッチは、体調の良し悪しで埋められるものではありません。ラスト一ハロンを耐え抜くステータスがない以上、評価は据え置きです」
「そっかあ。初期装備とダンジョンの相性が絶望的やから、いくらコンディションが最高でもランクは上げられへんのやね。……ほな、第五位は?」
「第五位は、アドマイヤクワッズです」 佐倉が淀みなく、淡々と順位を告げる。
「おっ! クワッズくん、昨日は四位やったけど一個下がったん?」
神宮寺が、サイドテールを指先で弄びながら首を横に振る。 「いいえ。彼は文句なしのA評価に値する特訓をこなし、前回よりも明らかに鋭利なフットワークを見せている。つまり、我々が限界だと見積もっていた『レベルキャップ』を、自力で数段階引き上げてきたのよ。彼個人のポテンシャル評価は、昨日より確実に『上昇』しているわ」
「えっ、じゃあなんで五位なん? ライヒスアドラーくんが自爆して枠が空いたんやから、普通は繰り上げ当選で三位とかになれるはずやん!」 若葉が混乱したように、ポニーテールを振り乱して髪を掻き毟る。
「それはね――」 神宮寺の唇の端が、獲物を見つけた肉食獣のように、妖しく吊り上がった。 「昨日、私たちが『完全に消去』したはずの候補の中から、とんでもないバグを引き起こして蘇った『イレギュラー』が存在するからよ。……新ランキング第四位、フォルテアンジェロ」
「ふぇっ!? フォルテアンジェロ!? 四ヶ月のお休み明けやから、絶対アカンやつやって――それこそ『二位じゃダメなんですか』どころか掲示板も怪しいって、昨日バッサリ切り捨てたやん!」
「ええ、棄却したわ。でも、彼は今回の特訓で、計測不能なほどの『S評価』を叩き出した。長期間のブランクという致命的なデバフを、圧倒的な個体能力と完璧な仕上がりによって完全に相殺し、最前線へ強襲をかけてきたのよ」
佐倉がタブレットを操作し、さらにデータを補足する。 「新たにコンビを組む乗り手も、毎週のように彼に付きっきりで調教を行い、その感覚を極限までシンクロさせています。休養明けの割引を無に帰すこのS評価は、彼がかつて『世代最高峰のテスト』で獲得した銀メダルという実績が、決してフロック(まぐれ)ではなかったことを証明しています」
「うわわわ……! 修行の旅に出てた旧キャラが、インフレした現環境に最高のタイミングで乱入して、一気にパーティの主力に躍り出る展開や! 完全に王道漫画の熱いやつやんか!」 若葉が食べかけのメロンパンを両手で握り締め、その瞳をアニメ映画のヒロインのようにキラキラと輝かせた。
「第六位リアライズシリウス、第五位アドマイヤクワッズ、そして第四位フォルテアンジェロ。……これで、下位から中位にかけた戦力図は完全に塗り替えられましたね」 佐倉が、執刀医のような正確さでキーボードを叩き、モニターのリストを更新していく。
「ちょっと待ってや……。ライヒスくんが消えて、フォルテアンジェロくんが無理やり割り込んできたってことは……」 若葉の顔から、先ほどまでの無邪気な笑みがすっと失せた。彼女の特異な直感が、次に教授が口にする「異常事態」を察知していた。
神宮寺が、冷たくも美しい視線で、逃げ道を塞ぐように若葉を射抜く。 「その通りよ。中位打線の入れ替わりは、単なる序章に過ぎない。この上位陣をさらに飛び越え、昨日まで最下位の泥に沈んでいたはずの『あの馬』が……今、トップ3の不可侵領域へ、信じられない跳躍を見せているわ」
静寂の中、空気清浄機の低いモーター音だけが、嵐の到来を告げる不吉な警鐘のように、重く、低く鳴り響いていた。
第9章の冒頭、夜の静寂から一転して朝の光が差し込む演出が非常に鮮やかですね。
「数字を嘲笑う命」という教授の独白が、これまでのロジカルな積み重ねがあるからこそ、よりドラマチックに響きます。また、若葉のリアクションが読者の驚きを代弁しており、テンポよく「第二位」の衝撃へと繋がっています。
文脈を大切に守りつつ、さらに五感を刺激する筆致で推敲いたしました。
第9章:限界突破のバグと、揺るがぬ玉座分厚い遮光カーテンが佐倉の手によって静かに引かれ、鋭い朝の光が研究室へ一気に雪崩れ込んだ。光の帯が宙を舞う微細な埃を白銀に照らし出し、夜の間に澱んでいた停滞した空気を一掃していく。オゾンの冷たい匂いは、佐倉が新たに淹れた深煎りコーヒーの、肺の最深部まで届くような芳醇な香りによって塗り替えられた。
(数字は嘘をつかない。けれど、数字を生み出す源泉たる『命』は、時に計算式を嘲笑うようにして既存の枠を飛び越える。……たった数日でステータスの上限を物理的に破壊するその爆発力こそが、競馬という生きたデータの、最も恐ろしく、そして最も美しいバグなのよ)
神宮寺は、光の眩しさに細めた瞳で、朝日に照らされたモニターのランキング表を――まるで愛おしい「解けない数式」でも見つめるように、静かに見つめた。
「ちょ、ちょっと待ってや、教授! 昨日最下位やった『あの馬』って……まさか、グリーンエナジーくんのことなん!?」 若葉が、食べかけのメロンパンを握ったまま、物理的にフリーズしている。
佐倉が漆黒のコーヒーを満たしたカップを二人の前にコトリと置き、感情を抑制した声で頷いた。 「ええ。ですが、彼の最終的な立ち位置を明かす前に、まずは『第三位』を確定させましょう。新ランキング第三位――バステール」
「バステールくん! 昨日は二位やったのに、ランクダウンしてもうたん?」
「いいえ。彼自身の絶対評価が落ちたわけではないわ」 神宮寺が、立ち上る熱い湯気をふっと吹き飛ばし、琥珀色の液体を一口含んだ。 「今回の特訓評価は『A』。普段は練習で動かないタイプの彼が、あろうことか『練習番長』として名高いパートナーを子供扱いするほどの動きを見せた。つまり、本番で『必殺の溜め攻撃』を放つためのゲージは、すでに完璧にMAXまで溜まりきっている。彼の実戦における信頼度は、一ミクロンも揺らいでいないわ」
「なるほど! 自分のコンディションは最高やけど、上にヤバいバグキャラが強引に割り込んできたから、相対的に玉突きで順位がズレただけなんやね!」
若葉がようやく安堵の吐息をつき、リストのバステールの横に力強く『3』と書き込む。
「その通りです。では、若葉さん。我々の論理の城を粉砕した、最大級のバグ……新ランキング第二位を公開します」 佐倉が、キーボードのエンターキーを、ターン! と小気味よい音を立てて叩いた。
モニターの第二位の枠に、眩い蛍光グリーンでその名が浮かび上がる。
「第二位、グリーンエナジー。……特訓評価、計測不能な領域の『S』です」
「うおおおっ! ホンマに最下位から全抜きしてきおった! でも、特訓がスゴイって、一体どれくらいヤバいん!?」 若葉が、モニターのピクセルを数えんばかりの勢いで画面にへばりつく。
神宮寺が、まるで禁忌の怪談を語るかのように、声を低く潜めた。 「彼は今回の最終特訓で、自分自身が持つ『過去の限界値』をあっさりと粉砕したわ。終盤一ハロンの計測値……『十・九秒』。物理法則を疑いたくなるような猛時計を叩き出したのよ。しかも、味方の強力なユニット二頭を文字通り置き去りにする、超豪華な布陣での併せ馬。陣営の『ここで絶対に首を獲る』という殺気が、デジタルデータ越しに突き刺さってくるわ」
「十・九秒!? それって、もう画面に残像が見えるレベルの神速やん! 村の大会で優勝しただけのモブやと思ってたら、実は伝説の聖剣を抜いて勇者に覚醒してもうたパターンのやつや!」
「ええ」と佐倉が同意し、視線を鋭くする。 「これほどのパフォーマンスを見せつけられた以上、昨日まで我々が『絶対値不足』と断じていた公式戦闘力は、もはや無価値な過去の遺物です。彼は今、上位陣を丸ごと飲み込むだけの『一撃必殺の破壊力』を、その四肢に宿しました」
「最弱からの下克上、激アツすぎるわ……! ほな、そのバグキャラですら届かへんかった、絶対王者の『第一位』は!?」
若葉の叫びを背に、神宮寺はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外に広がる抜けるような青空を見上げた。
「不動の第一位――ロブチェン。彼は、その玉座から一歩も動かないわ」
「ロブチェンくん! 特訓の評価はどうやったん? 彼も限界突破のS評価!?」
神宮寺は振り返り、薄く、しかし絶対の自負に満ちた笑みを浮かべた。 「いいえ。彼の評価は『A』よ」
「えっ? A? バグキャラのグリーンエナジーくんより評価低いん?」 若葉が拍子抜けしたように、間の抜けた声を出して首を傾げる。
佐倉が、迷える生徒を諭す教師のような口調で解説を入れた。 「若葉さん。真の王者は、誇示するための無駄なパフォーマンスを必要としないのです。彼は特訓で十一・一秒という極めて優秀な時計を刻みながらも、終始涼しい顔で、全くの余力を持って走り抜けています。『前回のレース以上の状態』に、完璧に、そして静かに照準を合わせている。絶対能力、過去の実績、コース適性、そして現在の体調……すべてにおいて『死角が一片も存在しない』。それが、彼が一位である絶対の理由です」
「なるほどなあ……。チャレンジャーは必殺技の名前を叫びながら全力で突っ込んでくるけど、真のラスボスは腕組みしたまま、余裕でそれを受け止める準備ができてるってことやね。……くぅーっ、かっこよすぎるわ!」
若葉が、歓喜に震える手でホワイトボードへ向かう。ロブチェンの横に特大の『1』を、そしてグリーンエナジーの横に、今にも燃え上がりそうな筆致で『2』を書き込んだ。
「第一位ロブチェン、第二位グリーンエナジー、第三位バステール。……若葉さん、これで『調教データによる補正を終えた最終結論』がすべて出揃いました」 佐倉が、憑き物が落ちたような深い溜息をつき、モニターの主電源を落とした。青白い光が消え、研究室に一瞬の静寂が戻る。
「やったー! 今度こそホンマの、ホンマに完璧や! もう明日はこの通りに馬券買って、一気に大金持ち確定やで!」 若葉がメロンパンの最後の一口を口へ放り込み、両手を突き上げて歓喜の舞を踊り始める。
だが、神宮寺は冷めたコーヒーを静かに飲み干すと、氷のような冷徹さを湛えた視線を、手元のリストへと落とした。
「……いいえ。まだ終わっていないわ、若葉」
「へ? まだなんかあるん?」 若葉の動きが、不気味な予感に打たれたようにピタリと止まる。
「データサイエンスの最も恐ろしい欠陥は、現場の『リアルな肉体』を完全には数値化しきれないことよ。……もし明日のパドックで、猛特訓を課したはずのグリーンエナジーの体が、過剰な負荷に耐えかねてパサパサに萎んでいたとしたら? 逆に、特訓をサボったと断じたライヒスアドラーの体が、一分の隙もない黄金の筋肉の塊となって現れたとしたら?」
「あ……」 若葉の額から、不吉な冷や汗がひと筋、頬を伝い落ちる。
「そう。私たちが心血を注いで構築したこの『完璧な序列』すら、明日の午後、ターフの熱気と馬たちの生の息遣いの前では、一瞬にしてただの紙屑に変わるかもしれない。……けれど、だからこそ。この不確実性こそが、競馬という遊戯を狂おしいほどに美しくさせるのよ」
神宮寺の唇に、知性と狂気を等分に孕んだ美しい微笑が浮かぶ。 若葉は抗いようのない迫力にゴクリと喉を鳴らし、佐倉はただ静かに、眼鏡の奥に潜む観察者の瞳を鋭く光らせていた。
第10章:不確実性のロマンと、開かれた扉朝の光が完全に支配した研究室は、昨夜までの重苦しい停滞が嘘のように、晴れやかな空気に包まれていた。淹れたてのコーヒーから立ち上る湯気が、窓から差し込む光の帯に触れて白く揺らめき、静謐な空間に穏やかな時間を刻んでいる。
「ひえっ……! せ、せっかく最強の装備とレベルで魔王城の前に立ったのに、最後の最後で『実はカセットの端子に息吹きかけんとバグるかもな』って言われた気分やわ!」 若葉が、メロンパンの最後の一欠片を強引に飲み込みながら、頭を抱えて大げさにのけぞった。
佐倉がコーヒーカップを静かに傾け、呆れたように、けれど眼鏡の奥の瞳をどこか楽しげに細めて口を挟む。 「レトロゲームの比喩ですか、若葉さん。ですが、教授の仰ることは真理ですよ。パドックでの異常な発汗、観客の歓声によるパニック、あるいは当日の風向き一つで、我々が築き上げた論理の城は容易く瓦解します。計算式で生命の拍動すべてを縛ることなど、土台不可能なのですから」
「そやけど! あんなに完璧に順位つけたのに、最後に『運とコンディション次第やで』って、ちゃぶ台ひっくり返されたみたいでモヤモヤするやんか!」
神宮寺は、若葉の不満げな横顔を見て、鈴を転がすような澄んだ笑い声を上げた。 「ふふ、ごめんなさいね。でも若葉、それが競馬の……ひいては、『予想』という名の遊戯が秘める、究極の隠し味(スパイス)なのよ」
「スパイス? 激辛すぎて、食べる前から舌が痺れそうやけど」
神宮寺はデスクに両肘を突き、指先で優雅な三角形(ピラミッド)を作りながら、射抜くような真っ直ぐな視線で若葉を見つめた。 「もし、過去の残滓であるデータや数値化された戦闘力だけで、百パーセント勝敗が決まるのだとしたら。――そんな残酷なスポーツは、とっくにこの世から滅びているわ。AIが弾き出した解の通りに走るだけの精密機械を、誰が魂を焦がしてまで応援するかしら?」
「あ……そっか。絶対に主人公が勝つって決まってるスポーツアニメなんか、一話切り不可避やもんな。絶体絶命のピンチがあったり、予想外の伏線回収があるからこそ、みんな熱狂するんやんね」 若葉が、得心したようにぽんと手を打つ。
(そう。私たちは観客であり、共犯者。完璧な数式を組み上げ、その設計図に自ら火を放つ狂気を孕んだ遊戯。答え合わせの瞬間、すべてが灰に帰すか、あるいは黄金へと昇華するか。その指先が焼けるような不確実な痛みこそが、私がこの学問を手放せない理由なのよ)
神宮寺は、窓の外を横切る一羽の鳥を目で追いながら、祈りにも似た静かな声で言葉を紡いだ。 「何百年もの歳月をかけて血を繋いできた、美しきサラブレッドのロマン。たった数分の狂騒に人生のすべてを懸ける陣営の執念。そして、時速七十キロという極限の世界で躍動する、芸術品のような肉体。……私たちは無機質な数字をこねくり回しているように見えて、実はその『生きたドラマ』を読解しているに過ぎないのかもしれないわ」
佐倉がブラインドの角度をわずかに調整し、室内に差し込む光を整えながら頷いた。 「我々データサイエンティストの職務は、未来を予言することではありません。膨大な歴史という名の波からノイズを削ぎ落とし、『最も美しい奇跡が起きる確率』を極限まで高める作業……。言わばそれは、真実を直視するための『特等席のチケット』を手に入れる儀式なのです」
「特等席のチケットかぁ。なんか、超大作の大河ドラマと神作のスポーツアニメを、同時に最前列で見てるみたいやね。うちらはただの傍観者やなくて、『予想』っていう形で、彼らの命の輝きにガッツリ参加してるんやな!」 若葉の瞳に、朝陽を反射したような、純粋でキラキラとした好奇心の光が戻ってきた。
「その通りよ」 神宮寺は満足そうに微笑むと、デスクに散らばっていたデータシートの束を手に取り、トントンと端を綺麗に揃えた。 「私たちの論理が勝つか。それとも、計算をあざ笑う美しき反逆者が現れるか。すべては日曜日の十五時四十分、中山のターフの上で決まるわ。……もちろん、私は自分が導き出した『第一位ロブチェン、第二位グリーンエナジー、第三位バステール』という結論に、一円の狂いもなく全霊を投じるけれどね」
「えっ!? 奇跡がどうこう言うてたのに、結局データ通りにガッツリ買うンやん! 教授、完全に『データ至上主義のツンデレ』発動してるで!」
「教授は誰よりもロマンチストでありながら、同時に誰よりも負けず嫌いですからね。日曜日、モニターの前で一番大きな声を上げるのは……案外、教授かもしれませんよ」 佐倉が、眼鏡の奥で悪戯っぽく、しかし確信に満ちた目で笑った。
「あら、人聞きが悪いわね。私はあくまで冷徹に、自らの理論の正当性をモニター越しに検証するだけよ。……叫ぶだなんて、論理的に有り得ないわ」 神宮寺はツンとすました態度で顔を背けたが、その白磁のような耳の端が、隠しきれずわずかに朱を帯びているのを、若葉はめざとく見逃さなかった。
「はいはい、そういうことにしといたるわ! ほな、日曜日は各自テレビの前で正座して、うちらの『最強パーティ』の伝説を応援やね!」 若葉が拳を握り締め、力強くガッツポーズを作る。
神宮寺はふっと小さく吐息をつくと、革張りの重厚なチェアからしなやかに立ち上がった。 椅子の背に預けていた薄手のトレンチコートを手に取り、滑らかな手つきで袖を通す。カツリ、と乾いたヒールの音が、午前の静かな研究室に心地よく響いた。
「さあ、今週の秘密講義はこれでおしまい。私はこれから少々、私用(野暮用)があるから失礼するわね」
「えーっ、もう帰っちゃうん!? まだアニメの最新話の展開について、熱い考察を語り合ってへんのに!」
「その考察は、月曜日にレースの反省会と共に聞かせてもらうわ。……佐倉くん、後片付けをお願い」 神宮寺が、デスクに残されたティーカップへ一瞥をくれ、視線だけで指示を送る。
「承知いたしました。教授、良い週末を。――そして、良き競馬を(Good Luck)」 佐倉が、深く、静かに一礼した。
「教授! 月曜日はうちらの祝勝会やで! 絶対に当てて、高級焼肉おごってもらうんやからなー!」 若葉が、ちぎれんばかりに右手をぶんぶんと振り回す。
神宮寺は重厚なドアノブに指をかけ、振り返りざまに――この世界で最も美しく、解き明かし甲斐のある謎を見るような、そんな柔らかい慈しみに満ちた笑みを浮かべた。
「ええ、楽しみにしているわ。……不確実な未来に、乾杯」
バタン、と。 重厚な木製のドアが閉まる音が、静かな研究室に心地よく響いた。 後に残されたのは、朝の眩い光と、若葉の無邪気な笑い声の残響。そして、どこまでも深く澄み切った、琥珀色のコーヒーの残り香だけだった。
神宮寺教授の『秘密講義』は、日曜日の熱狂へ向けて、静かにその幕を下ろした。
(おわり)
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