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『神宮寺教授の秘密講義』~マイラーズカップ編~(前編:1~6章)
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: もち子さん」
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第1章「再現性の術式、あるいは不確実な魔法の否定」春の柔らかな陽光が、ブラインドの隙間を縫って大学の研究室に幾重もの光の層を描き出している。空中をゆったりと舞う微細な埃が、まるで意思を持った光の粒子のようにきらきらと輝いていた。どこからか微かに香る、淹れたての深煎りコーヒーの芳醇なロースト臭。ひんやりとした朝の空気が肌を心地よく引き締める、完璧な静寂の朝だった。
若葉:「ひえっ……! もうあかん、一ミリもわからんわ、これ!」
勢いよくスライド式のドアが開け放たれ、その静寂は弾けるような声によって一瞬で瓦解した。息を切らして研究室に駆け込んできたのは、このゼミの「特異点」とも言える学生、若葉だ。彼女の腕の中には、昨晩プリントアウトしたであろう大量の馬柱データが、格闘の末に無惨なしわくちゃとなって抱えられている。
ホワイトボードの前で精密な図表を整理していた助手の佐倉は、呆れたように、しかし温和な笑みを浮かべて振り返った。
佐倉:「おはようございます、若葉さん。朝から随分と威勢が良いですね。その手元の資料、もはや解読不能な古文書(グリモワール)のようになっていますが」
若葉:「おはようございます、佐倉助手! いや、昨日の夜、今週末のレースの出馬表を自力で解読しようとしたんやけど、データが多すぎて脳内メモリがパンクしそうやねん! せっかく最強のパーティ組んで魔王城の門の前に立った気分やったのに、いざ扉を開けてみたら宝箱の中身が全部ミミックやった時くらいの絶望やわ!」
研究室の最前列、ひときわ上等なレザーチェアに深く腰掛けていた神宮寺教授は、手元のタブレットから視線を上げることなく、氷のように冷ややかな、けれど心地よい声で応じた。
神宮寺教授:「おはよう、若葉。競馬においてデータという名の宝箱は、時に『一般攻撃魔法(ゾルトラーク)』のように、あまりに単純で残酷な事実を突きつけてくるものよ。ミミックに頭を齧られて再起不能(リタイア)になる前に、論理という名の杖の正しい振り方を教えるのが、この講義の目的だけど?」
若葉:「教授、おはようございます! いやほんま、いきなり高度な魔法戦のど真ん中に放り出された気分やわ……」
神宮寺教授はゆっくりと顔を上げ、細い指先で眼鏡のブリッジを直した。その瞳の奥には、これから始まる知的遊戯に対する静かな熱が、青い炎のように宿っている。
神宮寺教授:(朝から騒がしい新入生ね。しかし、未知の膨大な情報に直面して混乱し、直感的な絶望を抱く過程は、データサイエンスの学習初期段階として極めて正しい反応と言える。彼女のこの無軌道なエネルギーを論理の枠組みに流し込めば、面白い分析モデルが構築できるかもしれないわね……)
神宮寺教授:「さて、無駄話はこれくらいにして始めるわよ。今日、私たちが解析し、結論を導き出すべき対象は今週末に行われる三つの重賞競走よ。東京で行われる青葉賞、同じく東京のフローラステークス、そして京都で行われるマイラーズカップ。まずは、あなたがどの戦場を選ぶべきか、初心者の直感で答えてみなさい」
神宮寺の問いかけに、若葉は腕を組み、「うーんと」唸りながら天井を見上げた。
若葉:「そらやっぱり、青葉賞かフローラステークスやろ! 両方とも若い三歳馬がいっぱいおるし、これから日本ダービーとかオークスに向けて成長していく物語を見るのって、なんかロマンがあるやんか!」
佐倉は手元のファイルを一枚めくり、ペン先で軽く机を叩いた。
佐倉:「なるほど、感情的なアプローチとしては理解できます。しかし若葉さん、我々が今から行うのはロマンの盲信ではなく、冷徹なデータ分析による投資です。過去の蓄積が圧倒的に少なく、成長途上で変数の多い三歳馬のレースに、初心者がいきなり挑むのはリスクが極めて高いとは思いませんか?」
若葉:「え? でも、これまで走ってきた短い距離のタイムとかのデータはあるんやから、それを基準に計算したらええだけちゃうの? 二〇〇〇メートル走れるんやったら、青葉賞の二四〇〇メートルかて、あと四〇〇メートルくらい気合いと根性でいけるんちゃうかと思うんやけど」
神宮寺教授は静かに息を吐き、ブラックコーヒーの入ったマグカップを口元へ運んだ。苦味が口内を引き締め、脳の輪郭をクリアにする。
神宮寺教授:「そこが初心者の陥りやすい罠ね。青葉賞の二四〇〇メートルという距離は、大半の三歳馬にとって一度も足を踏み入れたことのない未知の領域なの。一八〇〇や二〇〇〇で記録したスピードの術式(データ)は、求められるスタミナの質が根本から変わる二四〇〇では、無意味なノイズに変わる可能性が高いわ。それこそ、別の魔法体系にいきなり放り込まれるようなものよ。それに、登録頭数が二十五頭もいてフルゲートの十八頭立てになる多頭数レースは、確率論的に紛れが生じやすく、的中期待値が著しく下がるの」
若葉:「別の魔法体系……! つまり、火炎魔法が得意な魔法使いに、いきなり水中戦で勝てって言うてるようなもんやね。そら過去のデータ通りにはいかんわ!」
佐倉:「その通りです」
佐倉が満足げに頷く。「では、もう一つの三歳戦、フローラステークスはどうでしょう? こちらは登録頭数も落ち着いていますし、距離も二〇〇〇メートルです」
若葉は期待に目を輝かせた。
若葉:「それならいけるんちゃう? 女の子だけのレースやし、華やかでデータも計算しやすい気がするわ!」
佐倉:「いいえ。データ分析の観点から言えば、フローラステークスは『極めて信頼度が低い』最悪のノイズ環境よ。春の三歳牝馬という生き物は、精神的にも肉体的にも、我々の術式が及ばないほどに不安定なの」
若葉:「ノイズ? ノイズってなんやの? 観客の歓声がうるさくて馬がパニックになるってこと?」
佐倉:「いえ、統計学的なノイズ――つまり『数値化を拒む不確定要素』のことです」
佐倉がホワイトボードに複雑な図式を書き込みながら、若葉を諭すように説明する。 「前走で他を圧倒して勝った実力馬が、当日の些細な苛立ちやホルモンバランスの影響だけで、まるで魔法が解けたかのように大敗することが珍しくありません」
神宮寺教授:「ええ。過去の実績データよりも、当日のパドックでの様子や、直前の体重増減といった不確実な情報の方が支配力を増してしまう。そんなイレギュラーが頻発するレースは、事前のデータ分析で論理的に勝負する私たちにとっては、ただの丁半博打に成り下がるわ」
若葉はがっくりと肩を落とし、手元のしわくちゃな資料を恨めしそうに見つめた。
若葉:「なるほど……。せっかく緻密に計算しても、当日の女の子のご機嫌一つで全部パーになるんか。理不尽すぎるわ、魔王の第二形態どころの騒ぎやないで」
神宮寺教授:(ここで彼女に正解を提示し、論理の美しさを実感させる。不確実性を極限まで排除した先に残るものこそが、私たちが追い求める真の『答え』なのだから。データとは事実の集積であり、暗闇の未来を照らす唯一の光源よ)
神宮寺教授:「だからこそ、私たちが選ぶべき戦場は『マイラーズカップ』の一択になるのよ」
神宮寺の凛とした声が、講義室の空気を鋭く震わせた。
若葉:「マイラーズカップ? 四歳以上の馬が走る、京都の一六〇〇メートルやね。でも、なんでそれが一択になるん? ベテラン馬ばっかりで、三歳戦に比べたらちょっと地味ちゃう?」
佐倉:「最大の理由は『再現性の高さ』です」
佐倉が若葉の方へ向き直り、モニターに過去の走破時計を表示させる。 「出走する古馬たちは、すでに何度も一六〇〇メートルという距離を走り抜き、その適性を証明し続けています。つまり、どの程度のペースで走れば、最後にどれだけの末脚を繰り出せるか。そして現在の能力の限界値がどこにあるのかという絶対的な指標が、すでに『完成された術式』として明確に蓄積されているのです」
若葉:「おー! 過去の実績がそのまま今回の強さの証明になるってことやね! ほな、そのデータ通りに一番タイムが速い馬を脳死で買えば、絶対に当たるんちゃうの!?」
神宮寺教授:「そう単純なら、私は苦労して研究などしていないわ」
神宮寺は微かに、挑発的なほど美しく口角を上げた。 「ただ、舞台となる京都の芝一六〇〇メートル外回りコースは、データ分析を強力に後押ししてくれる頼もしい味方になるのよ。向正面から第三コーナーにかけて上り坂があり、頂上から一気に下り坂へ転じる構造。この形態は、馬群に包まれるといった物理的な不利が極めて起きにくく、純粋な走力と瞬発力を備えた馬が、そのポテンシャルを順当に発揮しやすいの」
若葉:「紛れが少ないんやね! 実力通りの決着になるんやったら、うちらのデータ分析の精度が百パーセント活かせるってことやわ!」
佐倉:「ただし、若葉さん。完璧な術式に見えるこのレースにも、明確なデメリットが存在します。それが何か分かりますか?」
佐倉が眼鏡の奥の瞳を鋭くさせ、試すように問いかける。
若葉は「えー?」と首を大きく傾げた。
若葉:「デメリット? 実力通りに決まるんやったら、ええことづくめやんか。なんか、隠しボスみたいな落とし穴でもあるん?」
佐倉:「二つあるわ。一つは『目標レースによる出力調整』。マイラーズカップは、この後に控える大一番、安田記念への前哨戦なの。すでに実績のある上級魔法使い(有力馬)は次戦を見据えて余力を残した仕上げで来るし、逆にここで賞金を加算したい馬は、身を削るような極限の魔力解放で挑んでくる。絶対的な『能力』だけでなく、その瞬間の『状態』や『臨戦過程』の差が、計算結果を狂わせるリスクがあるわ」
若葉:「なるほど……本気度がキャラによって違うんやね」
佐倉:「そしてもう一つは、『配当の低さ』です。我々が能力比較を容易に行えるということは、他の多くの競馬ファンもまた、同様の結論に辿り着くということです。結果として人気馬に支持が集中しやすく、的中しても回収率が伸びにくい――つまり、投資としての期待値が著しく低くなりやすいのです」
若葉:「うわぁ……。当てやすいけど、儲けにくいんか。オッズっていう名の魔法耐性が立ちはだかるんやね……」
神宮寺教授:「それでも、初心者が論理の組み立てを学ぶにはこれ以上ない教材よ。不確実な奇跡を祈るのではなく、揺るぎない事実を積み上げる。それが私たちのやり方よ」
窓から差し込む光の角度が少し変わり、講義室は本格的な午前の輝きに包まれていた。
若葉:「わかったわ! ほな、今日はそのマイラーズカップで、最強の馬を見つけ出すんやね!」
神宮寺教授は静かにタブレットの電源を入れ、佐倉はキーボードに指を添えた。論理の刃を研ぎ澄ます、濃密な講義の幕が今、上がった。
第2章;削り出される真実、あるいはデータベースの冷徹な記憶陽が少し高くなり、ブラインド越しの光が研究室の床にゼブラ模様の影をくっきりと落とし始めていた。どこからか微かに聞こえる小鳥のさえずりが、静謐な空間に心地よいリズムを刻んでいる。佐倉がホワイトボードマーカーのキャップを外すと、ツンとした溶剤の匂いが鼻腔をくすぐった。カタカタと小気味良く響くタイピング音だけが、三人の間に流れる唯一のBGMだ。
若葉:「さて、マイラーズカップっていう戦場が決まったところで……次はどうするん? いきなり一番強い馬を指名するんか?」
若葉が、机の上に広げたしわくちゃの紙の束を指先でトントンと叩きながら尋ねた。
佐倉はマーカーを握ったまま、少し困ったような、苦い笑みを浮かべる。
佐倉:「指名……指名といえば、昨晩楽しみにしていた深夜アニメの録画予約を、うっかり別の番組の予約ミスで上書き消去してしまいましてね。立ち直るのに少々時間がかかりました」
若葉:「うわっ、それは悲劇やな! まるで記憶を消去する魔法を食らったみたいやん! 私やったら三日は寝込むわ」
神宮寺教授:「記憶の消去……都合の悪い過去の敗戦を忘れられるなら、私にもその魔法をかけてほしいものね。でも、無慈悲なことにデータベースは全てを克明に記憶しているわ。隠蔽も改ざんも許されない、残酷なまでに純粋な真実をね」
神宮寺は冷ややかな声を響かせながら、タブレットの画面を流麗にスワイプした。
神宮寺教授:「私たちが最初に行うのは、勝つ馬を探すことではないわ。『絶対に勝てない馬』を論理的に盤面から消し去ることよ。彫刻家が、大理石の不要な部分を削り落として真実を露わにするようにね。佐倉くん、まずは登録馬の中から、過去の記憶……つまりデータが明確に『ノー』と告げている五頭をピックアップしてちょうだい」
神宮寺教授:(初心者はどうしても『勝つ理由』ばかりを探したがる。しかし、勝負事において最も重要なのは『負ける要素』を的確に排除し、ノイズを棄却すること。彫刻の比喩は少し文学的すぎたかしら。だが、彼女の直感的な理解を促すには、こうした視覚的なイメージの提示が有効なはずよ)
佐倉:「承知しました。では、まず一頭目。七歳のベテラン、――アサヒという馬です」
若葉:「アサヒ! 朝日やん! なんなん、めっちゃ縁起ええ名前やんか。これから昇っていく太陽みたいで、一回逆転の超強力な魔法でも使ってくれそうやで!」
若葉は目を輝かせ、しわくちゃの資料の中からその名前を必死に指でなぞった。
佐倉:「昇る太陽、ですか。しかし若葉さん、彼の最近のステータスを確認してください。直近四走の成績は、すべて二桁着順――つまり、後ろから数えた方が早いほどの大惨敗を喫しています。しかも前走は、今回戦う舞台よりも数段レベルの低い、いわば地方の親善試合のようなリステッド競走でした。そこでも周囲から全く期待されておらず、結果も期待以下。もはやレベルキャップに到達し、能力値が減少傾向にあります」
若葉:「えっ……格下の試合でボロ負け? ほな、なんで今回こんなどデカい全国大会みたいなレースに出てきたん?」
神宮寺教授:「そこよ。サラブレッドであれ人間であれ、七歳という年齢は肉体的なピークをとうに過ぎているわ。過去の栄光という名の『残滓』にしがみついているだけで、再浮上の根拠となるデータが何一つ存在しないの。この『アサヒ』は、昇る太陽どころか、地平線の彼方へ沈みゆく夕陽よ。情け容赦なく盤面から棄却しなさい」
神宮寺の冷酷な宣告に、若葉は赤ペンを握りしめ、アサヒの名前に大きくバツ印を書き込んだ。紙が擦れる乾いた音が、処刑の合図のように室内に響く。
若葉:「ううっ……さよなら、昇らない太陽……。ほな、次の脱落者は誰なん?」
佐倉:「続いては二頭まとめていきましょう。『マテンロウスカイ』と『レディントン』です」
若葉:「マテンロウスカイ! 摩天楼の空! これまたカッコええ名前やんか! 空を飛ぶ魔法でも使えそうやで。レディントンは……なんか響きが英国紳士っぽくて強そう!」
佐倉:「若葉さん、彼らの直近の戦績欄を見て、何か違和感はありませんか? 彼らがこれまで戦ってきた『属性(フィールド)』に注目してみてください」
佐倉の促しに、若葉は眉間に皺を寄せ、紙が破れそうなほど顔を近づけた。古びたインクの匂いが微かに鼻を突く。
若葉:「戦ってる場所……あ、これ『ダート』って書いてあるわ。これって砂場みたいなとこやんな? 今回のレースって、たしか綺麗な芝生の上を走るんとちゃうの?」
神宮寺教授はマグカップをコトリとデスクに置き、優雅に足を組み替えた。
神宮寺教授:「その通りよ。彼らは最近、ずっと砂の上を走る競技に専念していたわ。芝の上を駆ける純粋なスピード勝負とは、使う筋肉も求められる魔力(技術)の質も全くの別物。砂の上のスペシャリストが、いきなり芝のトップレベルの戦いに混ざるなんて、精巧な砂の城を作る職人に、いきなり競泳のオリンピックに出ろと言うようなものよ」
若葉:「競泳のオリンピック! そら溺れるわ! どんだけ砂遊び上手くても、水の中じゃ息継ぎもできへんもんね。なんでそんな無茶なことするんやろ……」
神宮寺教授:「陣営の思惑は様々ですが、我々が考慮すべきは『芝の最新術式(データ)がない』という事実だけです。未知の要素は、分析におけるリスクでしかありません。よって、この二頭も棄却です」
佐倉の落ち着いた声に促され、若葉はさらに二つのバツ印を紙に刻み込んだ。
神宮寺教授:(砂遊びと競泳の比喩は、少し極端だったかしら。しかし、芝とダートの適性の違いを『別の魔法体系』として認識させるには十分な効果があったわね。彼女の吸収力は、まるで乾いたスポンジのよう。この調子なら、さらに高度な概念も理解できるかもしれないわね……)
若葉:「よし、これで三頭消えた! 残る消去候補はあと二頭やね。どんどんいこう!」
佐倉:「では四頭目。『ロングラン』という八歳の馬です。彼もまた、前走は砂の大きな大会でした」
若葉:「ロングラン! 長く走るんやから、スタミナ抜群ってことやろ! しかも八歳っておじいちゃんやん! 伝説の長老魔法使いみたいで、いぶし銀の活躍を見せてくれそうやで!」
若葉はまたしても名前から勝手なファンタジーを膨らませ、期待に目をキラキラさせている。
佐倉:「長老……確かに経験値だけはカンストしているかもしれません。しかし若葉さん、彼もまた直近のレースは砂の上の競技で惨敗しています。さらに言えば、かつて芝の大きな大会に挑んだ際も、全く歯が立たずに終わっている。年齢的な衰えもあり、ここから突然若返って自己ベストを更新するような『蘇生魔法』は、現実のデータベースには存在しません」
若葉:「ええーっ、経験値だけじゃどうにもならんの? なんか、かつて勇者パーティーにおったけど、今は腰痛で剣も振れへんおじいちゃん戦士みたいで悲しいわ……」
神宮寺教授:「感傷に浸っている暇はないわ。冷酷に切り捨てるのよ。過去の栄光は、今日の勝利を保証する『パッシブスキル』にはなり得ないわ。さあ、最後の一頭を出しなさい、佐倉くん」
神宮寺は窓外の空へと視線を向けた。雲一つない、透徹した青空が、彼女の冷徹な論理を祝福しているかのようだ。
佐倉:「最後は『ファインライン』という五歳の馬よ。彼は前走、見事一着でゴールしているわ」
若葉:「おっ! 一着! それはすごいやん! さっきまでの負け続きのお馬さんたちとは根本的にちゃうで! これは期待できるんちゃうの?」
若葉はバツ印を書きかけた赤ペンをピタリと止め、机から身を乗り出した。
佐倉:「確かに勝利を収めています。しかし若葉さん、彼が勝ったレースの『階位(クラス)』を見てください。我々が今から挑むのは『G2』という、全国トップクラスの猛者たちが集う魔境です。彼が前回勝ったのは、その二つも三つも下のランク――いわば町内会の運動会のようなレースなのです」
若葉:「町内会の運動会……! ってことは、町内で一番足が速いお兄ちゃんが、いきなりオリンピックの代表選考会に放り込まれるようなもんか!」
神宮寺教授:「その理解で完璧よ」
神宮寺が今日初めて、満足げに口角を上げた。「町内会で勝ったという局地的なデータは、中央の戦場で通用する証明にはならない。しかも彼は、そのレースですら誰も勝利を予見していなかった、期待値の低い状態での『紛れ』の勝ちだった。絶対的な実力の証明(エビデンス)が決定的に欠落しているわ。棄却しなさい」
若葉は大きく頷き、最後のバツ印を力強く書き込んだ。
若葉:「なるほど! 名前がカッコええとか、一回だけ勝ったとか、そんな表面的なステータスに惑わされたらあかんのやね! データって、もっと奥深くまで解析せなあかんのやわ!」
神宮寺教授:(完璧な誘導ね。『クラスの壁』という概念を、生活に密着した比喩で即座に理解させた佐倉くんの手腕も評価できるわ。不要なノイズを五つ削り落としたことで、大理石の塊はかなりクリアになったはずよ。さあ、ここからが真実の像を彫り出す、真の解析の始まりね)
研究室の空調が、微かなモーター音を立てて涼やかな風を吹き出した。肌を撫でる冷気が、三人の頭脳をさらに研ぎ澄ませていく。
神宮寺教授:「さて、これで五頭の不純物を排除したわ。だが、石の塊から真の像を彫り出す作業はここからよ。少し休憩を挟んで、さらに深淵へ踏み込むわよ。佐倉くん、次のお茶を淹れてちょうだい。……若葉、今のところ論理の迷子にはなっていないわね?」
若葉:「バッチリやで、教授! 次の魔法の授業もどんとこいや!」
第3章の幕開け、非常にスムーズで知的な導入ですね。
県大会(オープンクラス)での敗戦と、距離適性の「ぼやけ」を魔法の修練になぞらえる比喩が、若葉の理解をさらに加速させていて面白いです。
文脈を完全に維持しつつ、教授の「冷徹な分析官」としての描写を深め、比喩をより『フリーレン』的な世界観に寄せて推敲いたしました。
第3章;深層のスクリーニング、あるいは研ぎ澄まされる術式昼下がりの講義室は、窓から差し込む光が穏やかな黄金色に変わり始めていた。空調の微かな稼働音だけが響く静けさの中、佐倉が丁寧に淹れたダージリンティーの華やかな香りが、空間に上品なアクセントを加えている。ティーカップから立ち上る白く細い湯気が、神宮寺教授の冷徹な眼差しを、ほんの少しだけ柔らかく見せていた。
若葉:「よし、午後も気合い入れていくで! 教授、佐倉助手、次はどうするん? さっきので大分スッキリした気ぃするけど、まだいっぱい残ってるやんか」
若葉は、先ほどバツ印をつけた資料を満足げに眺めながら、残りの馬柱に熱い視線を向けていた。彼女の表情は、見知らぬダンジョンの奥深くへと進む冒険者のように高揚している。
神宮寺教授:「スッキリしたように見えるのは、表面的なノイズを取り除いたからに過ぎないわ。ここからが本当のスクリーニング――より微細なノイズを、精密なピンセットで取り除く作業よ。佐倉くん、次の五頭を提示して」
神宮寺はティーカップを静かにソーサーに戻し、瞬時に冷徹な分析官の顔へと戻った。
佐倉:「はい、教授。では、残った十四頭の中から、さらに論理の網の目から滑り落ちる五頭を選定します。まずは『クルゼイロドスル』という六歳の馬です」
若葉:「クルゼイロドスル……なんや、魔法陣を展開する時の呪文みたいな名前やな! 絶対に高火力の魔法を放つ熟練の魔法使いやで、これ!」
佐倉:「呪文、ですか。確かに響きは壮大ですが、彼の近況は魔法のように華麗とは言い難いですね。前走は『オープン』という階位(クラス)で、掲示板にも載れない七着という結果でした」
若葉:「オープン? さっきの町内会の運動会とはちゃうの?」
佐倉:「町内会よりは上ですが、我々が目指す全国トップレベルには届かない、いわば県大会レベルです。その県大会においてすら、七着に敗れている。さらに言えば、直近四走においても一度も五着以内に入っていない……つまり、入賞という『報酬』すら得られていないのです」
神宮寺教授:「ええ。さらに付け加えれば、彼は最近、意図的に少し長めの距離を中心に走らされているわ。一六〇〇メートルという極限のスピードと瞬発力が求められるマイル戦への適性が、データ上、ぼやけ始めているの。県大会で勝てない魔法使いが、専門外の属性魔法で全国大会に挑む……。これを期待する論理的根拠が、どこにあるのかしら?」
若葉:「ないわ! 全くない! 火炎魔法の練習ばっかりしてたのに、いきなり水中の全国大会に出ろって言われてるようなもんやね! それはアカンわ、棄却や!」
若葉は迷うことなく、クルゼイロドスルの名前に鮮やかな赤でバツ印を刻んだ
佐倉:「その決断の早さは評価するわ。次、佐倉くん」
佐倉:「二頭目は『シックスペンス』。五歳の馬です」
若葉:「シックスペンス! 六ペンス硬貨! なんか幸運のお守りみたいでええ名前やん! これ持っとったら宝箱から、めちゃくちゃ強いレアアイテムとかドロップしそうやで!」
佐倉:「若葉さん、名前の響きから能力を推測する癖は、そろそろ卒業しましょうか。彼の直近の履歴(ログ)を確認してください。直近二走は、砂の上の全国大会で大敗を喫しています」
若葉:「あっ、また砂場組か! さっき学習したで。砂のスペシャリストが芝生に来たらアカンってやつやんな!」
佐倉:「ただの砂場組ではありません。彼は過去、芝の全国大会に挑んだ経験もありますが、そこでも惨敗しています。芝でのまともな実績は、もはや一年近く前のものです」
若葉:「えっ……芝でも砂でもボロ負け? ほな、なんで今回出てきたん? 迷子?」
神宮寺教授:(迷子……面白い表現ね。しかし、陣営にとっては一縷の望みを託した挑戦。それを冷徹なデータで斬り捨てるのは、我々分析者の責務よ。過去の栄光という名の幻影にすがりつくことは、論理の放棄と同義なのだから)
神宮寺教授:「彼が再び芝の術式を取り戻すには、直近の砂での大敗というノイズが大きすぎるの。いわば、魔法の触媒が完全に破損している状態よ。彼がここで奇跡の復活を遂げる確率に賭けるのは、投資ではなくただの博打だわ。棄却よ」
若葉:「うーん、幸運のお守りやと思ったのに……さよなら、シックスペンス!」
若葉は少し名残惜しそうにしながらも、先ほど教わった「表面的な情報に惑わされない」という教訓を反芻するように、しっかりとバツ印を刻んだ。
佐倉:「では、三頭目にいきましょう。『ショウナンアデイブ』、七歳のベテランです」
若葉:「ショウナンアデイブ……湘南の海でサーフィンしてそうなおっちゃん、みたいな? 海の属性魔法使いか!」
佐倉:「海の魔法使いが芝生を走るかどうかは別として……若葉さん、彼の成績(ステータス)は非常に極端です。たまに奇跡のように上位へ食い込むことがあるのですが、その時は常に全く期待されていない大穴扱い。そしてその後は、また嘘のように大敗を繰り返す。データの振れ幅が極めて大きく、ムラが激しいのです」
若葉:「ムラがある? なんか、サイコロ振って『6』が出た時だけ超強力な魔法が発動するけど、それ以外は盛大に自爆するみたいな、ギャンブル性の高いキャラやね!」
神宮寺教授:「素晴らしい比喩ね」
神宮寺が初めて、低く鈴の鳴るような声で笑った。「その通りよ。私たちが必要としているのは、精密な計算のもとで確実に魔法(リザルト)を発動できる一級術士であって、自爆のリスクを抱えた博打打ちではないの。さらに彼は今回、習熟度の低い短距離への参戦。再現性の低い『奇跡』に、私たちの貴重な演算資源(リソース)を割くわけにはいかないわ」
若葉:「そらそうや! 大事なお金を投じるんやから、自爆キャラは勘弁やで! 棄却!」
若葉は勢いよく、迷いのないバツ印を資料に刻み込んだ。
神宮寺教授:(少しずつ、彼女の中で『データに基づかない期待』を切り捨てる回路が出来上がってきている。良い傾向よ。ギャンブルではなく、投資としての競馬を理解させるには、この痛みを伴う消去作業こそが、論理の杖を振るための絶対的な基礎修行なのだから)
佐倉:「順調ですね。では四頭目――『ドラゴンブースト』、四歳の若駒です」
若葉:「ドラゴンブースト! ドラゴンの力を借りて加速する魔法やん! これは絶対強い! しかも前回のレース、一着で勝ってるで!」
佐倉:「確かに勝利を収めています。しかし若葉さん、勝ったのは『県大会レベル』の階位。さらに距離は、今回より少し長い一八〇〇メートルでした。今回、敵のレベルが格段に上がる『階位上昇(クラスアップ)』と、より鋭い反応が求められる『距離短縮』。この二つの高い障壁を同時に突破するだけのデータ的な裏付けが、彼には不足しています」
若葉:「ええっ、せっかく勝ったのに? ドラゴンの力でも壁は越えられへんの?」
神宮寺教授:「ドラゴンの力は、少し長い距離でこそ発揮される適性(ポテンシャル)なのかもしれないわね。マイルという純粋なスピード勝負の世界では、その重厚な翼は、逆に機動力を削ぐ足枷になる可能性が高いわ」
若葉:「うわぁ……ドラゴンの翼が足枷に……。悲しいけど、論理的には納得やわ。棄却!」
若葉は少しだけため息をつきながら、四つ目のバツ印を力強く引いた。
佐倉:「最後の一頭は『ベラジオボンド』、五歳の馬です。彼も前走、一番人気という重圧を背負って一着でゴールしています」
若葉:「一番人気で勝ち! これこそ本命中の本命ちゃうの? なんで消去候補なん?」
佐倉:「勝った階位(クラス)が、先ほどのドラゴンブーストと同じく県大会レベルだからです。さらに彼はこれまで、全国レベルの魔境で結果を残したことが一度もありません。真の強者が集う舞台では、今までの術式は通用しない……。ゆえに彼もまた、棄却の対象となります」
若葉は赤ペンを資料に押し当てようとして、ふと動きを止めた。眉間に深くシワを寄せ、プリントアウトされた細かい数字の羅列を、獲物を追うように指でなぞる。
若葉:「……ちょっと待ってや、佐倉助手」
佐倉:「はい、何でしょうか?」
若葉:「さっきの資料やと、このベラジオボンドって馬、京都の『新春ステークス』っていうレースで一着になってへん? 今回のマイラーズカップも京都やんか。京都のコースの実績があるなら、これは『ご当地魔法の加点』があるんとちゃうの?」
講義室の空気が、ふっと密度を増して静まり返った。 佐倉は目を丸くして手元の端末を二度見し、神宮寺はマグカップを口元へ運ぶ手をピタリと止めた。
神宮寺教授:(驚いたわね。まさかこの素人が、膨大なデータの中から『京都での勝利実績』という、論理を覆しかねない一筋の光を自力で見つけ出すとは。単なる直感ではない、事実を拾い上げる観察眼も備わっているようね。……だが、論理の壁はそれほど甘くないわよ)
神宮寺教授:「……よく気づいたわね、若葉。あなたの言う通り、彼には京都のコースで勝利した確かな実績がある。その点は、私の助手も説明を省くべきではなかったわね」
佐倉は一つ咳払いをして、居住まいを正した。
佐倉:「失礼しました、教授。若葉さんのご指摘の通りです。京都での勝利実績は、無視できない有効なデータとして確かに存在します」
若葉はパァッと顔を輝かせ、立ち上がって拳を突き上げた。
若葉:「やったー! うち、初めてデータ分析で正しいこと言えたんちゃう!? この膨大な魔導書(データ)から、隠された真実を見つけ出したで! ほな、この馬は棄却せんと残すんやね!」
神宮寺教授:「いいえ、棄却よ」
神宮寺の氷のように研ぎ澄まされた一言が、若葉の歓喜を容赦なく打ち砕いた。
若葉:「なんでやねん!! 京都で勝ってるって、今認めたやんか!」
神宮寺教授:「彼が勝った『新春ステークス』は、さらに階位の低いクラス……例えるなら、市民プールでの水泳大会よ。そして前走勝ったレースがようやく県大会レベル。今回挑むのは、全国から化け物たちが集まるオリンピックの代表選考会(G2)なのよ。市民プールでどれだけ速く泳げても、いきなりオリンピックの荒波を泳ぎ切る証明にはならない。しかも彼は、市民プールレベルの別の大会で大敗した過去すらある。実力の出力が安定していないのよ」
若葉:「市民プール……!」
神宮寺教授:「つまり、コース適性という『術式の相性』はあっても、戦う相手の魔力量(レベル)が全く違うということです。一番人気で勝った直後だからこそ、群衆は過剰な期待を寄せてしまう。それは投資において最も警戒すべき『過大評価』という名の罠なのです」
若葉はがっくりと膝から崩れ落ち、机に突っ伏した。
若葉:「うわぁん……。せっかくミミックやなくて本物の宝箱見つけたと思ったのに。中身は『服が透けて見える魔法』みたいな、今回は全く役に立たんやつやったんか……。絶望やわ……」
神宮寺教授:「論理の前に、一時的な感情は無意味よ、若葉。さあ、きっちりとバツ印を引きなさい」
若葉は涙目でペンを握り、ベラジオボンドの名前に五つ目のバツ印を刻み込んだ。
若葉:「よし……! これでさらに五頭消えたで! 残るは九頭や! だんだん宝箱の中身が絞られてきた感じするわ……知らんけど!」
夕暮れが近づき、講義室はオレンジ色の濃い残光に包まれ始めていた。神宮寺のタブレットの画面だけが、暗がりの中で冷たく青い光を放っている。
神宮寺教授:「良いわ。石の塊から、少しずつ像の輪郭が見えてきたわね。だが、本当の勝負はここからよ。残った九頭は、それぞれに棄却しきれない『何か』を秘めた猛者たち。ここからは、ルーペを使って微細な傷を見極めるような、より緻密で神経を削る作業になるわ。佐倉くん、次のフェーズの準備を」
佐倉:「はい、教授。……若葉さん、脳の糖分(MP)は足りていますか? ここからが、本当の知恵比べですよ」
若葉:「ばっちりや! 休憩時間にチョコレート三個食べたから、魔力は満タンやで! 次の講義も、どんとこいや!」
第4章;黄昏の選別、あるいは保留という名の牢獄窓の外の景色はすっかり茜色に染まり、長く伸びた影が講義室の床を黒く塗りつぶし始めていた。夕暮れ特有の、少し埃っぽくてひんやりとした空気が、鼻腔の奥をツンと刺激する。遠くで鳴くカラスの哀愁を帯びた声が、長い一日の終わりが近づいていることを告げていた。すっかり冷めきったマグカップの底をじっと見つめていた神宮寺は、ふと顔を上げてタブレットの端を鋭く叩いた。
神宮寺教授:「さあ、黄昏(たそがれ)の時間が来たわね。不要な石を削り落とす作業もいよいよ佳境よ。残り九頭の中から、さらに三頭を完全に消し去り、一頭だけを『保留』という名の牢獄へ送るわ。佐倉くん、次のリストを」
佐倉:「はい、教授。長時間の魔導演算(解析)で目も疲れてきた頃合いですが、ここが正念場ですね。若葉さん、息切れしていませんか?」
若葉:「ふぇぇ……さすがに魔力が底をつきそうや。でも、ここでやめたら今までの苦労が水の泡やもんね! かかってこい! 次はどいつや!」
若葉は両手で自分の頬をバシバシと叩き、気合いを入れ直して前のめりになった。
佐倉:「では、最初のターゲットです。『シャンパンカラー』、六歳のベテランです」
若葉:「シャンパン! なんかめっちゃ豪華でパリピな名前やん! VIPルームで祝杯をあげる祝祭魔法(パーティー)が使えそうやで!」
佐倉:「ええ、非常に華やかで景気の良い名前です。しかし、彼の最近のパーティー事情はあまり芳しくありません。前走は全国レベルであるG2という格調高い舞台だったのですが、結果は十着という惨敗を喫しています」
若葉:「十着? VIPルームどころか、店の外に追い出されてるやん! なんでそんなに負けたん?」
神宮寺教授:「距離適性のズレよ。彼が前回参加したのは一八〇〇メートルという、今回よりも少し長い距離のレース。そしてもっと深刻なのは、彼が本来得意としていたはずの一六〇〇メートルの戦場(マイル)においても、近況は全く結果を出せていないことよ」
神宮寺の冷たい宣告が、静まり返った講義室に響く。
若葉:「えっ……得意なはずの距離でもダメなん? じゃあ、もう魔法のステッキが完全に折れてるってことやんか」
佐倉:「その通りです、若葉さん。かつての栄光の美酒も、時間が経てばただの気の抜けた炭酸水に変わります。現状の成績では、再び彼が輝きを取り戻すという論理的な根拠が何一つありません」
若葉:「炭酸の抜けたシャンパンなんて、ただの酸っぱいぶどうジュースや! 美味しくないわ! 棄却!」
若葉は迷いなく、容赦のない速度で赤ペンを走らせた。
神宮寺教授:(彼女の比喩表現は相変わらず独特だが、本質を突くスピードは格段に上がっているわね。不要な要素を切り捨てることへの躊躇いが消えたのは、分析者として大きな成長よ)
佐倉:「では次――『キョウエイブリッサ』、六歳のベテランです」
若葉:「キョウエイ……なんや、学校の名前みたいやな。真面目な優等生が使う、堅実な防御魔法って感じや!」
佐倉:「優等生であれば良かったのですが……。彼は前走、地方の親善試合レベルであるリステッド競走(L)で五着という結果でした。さらに、過去のログを見渡しても、全国レベルの重賞レースで上位に入賞した記録が存在しません」
若葉:「ええーっ!? ずっと地方でくすぶってるん? それって、さっき教わった『町内会の運動会』レベルから一歩も抜け出せてへんってことやん!」
神宮寺教授:「ええ。それに加えて、今回の舞台である京都の外回りコースを走った経験も、そこで勝った実績も皆無。未知の戦場で、格上の魔導師たちに突然勝利できるほど、現実の物理法則は甘くないわ」
若葉:「防御魔法ばっかり練習して、一回も強いボスと戦ったことないタイプか……。そらアカンわ、一撃で沈められるで! 棄却!」
乾いた紙の音が響き、また一つ、冷徹なバツ印が資料を汚した。
佐倉:「順調ですね。では、次が消去対象の最後の一頭になります。『ランスオブカオス』、四歳の若駒です」
若葉:「ランスオブカオス!! うわぁ、めっちゃ中二病やん! 『ククク……俺の右腕が疼く……混沌の槍が血を求めているぜ!』みたいな! 絶対ヤバい暗黒魔法使うで、これ!」
佐倉:「若葉さんの豊かな想像力(ファンタジー)にはいつも驚かされます。しかし、この暗黒騎士は前回、見事に周囲の期待を裏切りました。前走の地方レベルのリステッド競走で、二番人気という非常に高い評価を受けながら、十六頭中十一着という大惨敗を喫しているのです」
若葉:「二番人気で十一着!? 暗黒魔法、盛大に暴発したん!?」
神宮寺教授:「暴発したのか、それとも最初から魔力など枯渇していたのか。過去にはその名の通り鋭い機動力(スピード)を見せたこともあったけれど、圧倒的な支持を集めながら二桁着順に沈むというのは、現在の肉体的なコンディションや精神面に深刻な『致命的エラー』が起きている証拠よ。直近の状態にこれほどの不安を抱える個体を、大一番で信用する論理的根拠はないわ」
若葉:「うわぁ……口先だけのポンコツ中二病キャラやったんか。一番イタいヤツやん! さよならカオス、闇に飲まれて消えてや!」
若葉のペンが踊り、これで三頭が盤面から完全に消え去った。
佐倉:「さて、ここからが非常にデリケートな問題になります。若葉さん、深呼吸してください。次の一頭は『エルトンバローズ』、六歳の古豪です」
若葉:「エルトン! なんか有名なピアノ弾きのおっちゃんおったよね! 情熱的なメロディで敵を魅了する音響魔法や!」
佐倉:「ええ、彼は過去に輝かしい実績を持っています。しかし、前走の結果が極めて深刻です。彼は一番人気という最大級の期待を背負いながら、十三頭立ての最下位――十三着という奈落に沈みました」
若葉:「はぁ!? 一番人気で最下位!? それ、さっきの暗黒騎士より酷いやん! ピアノの弦、全部ぶち切れてるで! そんなん即効で棄却やろ!」
若葉が勢いよく赤ペンを振り下ろそうとした瞬間、神宮寺の鋭い一喝がそれを制した。
神宮寺教授:「待ちなさい。その馬は消去しないわ。今の段階では『保留』よ」
若葉:「へ? なんで? 一番人気で最下位やで? さっきまで『過去のデータより直近の大敗はノイズや』ってバンバン消してたやん! 教授、まさかのえこひいき!?」
佐倉:「私も若葉さんと同意見です、教授。これほどの惨敗は、肉体的、あるいは精神的なピークアウトを示す典型的なシグナル。これを残すのは、我々が定めた論理的ルールに抵触する気がします」
佐倉も不可解そうに眉をひそめ、神宮寺に問いかけた。
神宮寺教授:(データは嘘をつかない。しかし、データが記録した『順位』という結果の背後にある、物理的な事象を読み解かなければ、それは真の解析(アナリシス)とは呼べない。ここでただの数字の奴隷になるか、事象の支配者になるかの分水嶺よ)
神宮寺教授:「いいえ、ルールには反していないわ。数字の裏側にある『敗因』の質が、今まで消した馬たちとは決定的に違うの。彼が最下位になったのは、能力が衰えたからでも、魔力が尽きたからでもない。スタート直後につまずき、さらに道中ずっと他の馬の群れの中に閉じ込められて、魔法を放つための射線(ルート)が完全に封鎖されていたのよ」
若葉:「閉じ込められた……? それって、強力な拘束魔法を食らって、一歩も身動き取れんかったってこと?」
佐倉:「若葉さんの言葉を借りるなら、そういうことです。つまり、実力が足りずに負けたのではなく、回避不能な事故(アクシデント)が重なって『走れなかった』だけなのです」
佐倉が納得したように、手元の資料を指で叩いた。
佐倉:「なるほど……。改めて過去のログを参照すれば、彼は今回と同距離の最高峰の戦場で五着に入った実績がある。真のポテンシャル自体は、間違いなくこのメンバーの中でも特級クラスということですね」
神宮寺教授:「その通りよ。能力はあるのに、前回の不運な事故のせいで数字上は『最下位』という汚名を着せられている。ただ、一度そのような事故を経験したことで、繊細な個体であれば走ることそのものに恐怖(デバフ)を感じている可能性も否定できないわ。だからこそ、今はまだ完全な信頼は置けない。よって『保留という名の牢獄』へ送り、当日の気配を精査するまで判断を保留するの」
若葉:「はえーっ! 事故と実力不足を見分けるんやね! ただの数字の羅列ちゃうんや……。わかった、エルトンは一旦、取調室でお留守番やな!」
若葉は赤ペンの代わりに黒いペンを取り出し、エルトンバローズの名前に重厚な四角い枠を書き込んだ。
外は完全に日が落ち、窓ガラスには黄金色の室内灯と、知恵の火花を散らす三人の真剣な顔が、夜の闇に浮かび上がっていた。
第5章;運命のシークエンス、あるいは最強の陣形すっかり夜の帳が下り、漆黒に染まった窓ガラスが鏡のように講義室の内部を映し出していた。天井の蛍光灯が発する微かなハム音が、静まり返った空間に単調なリズムを刻んでいる。空調から吹き出す冷気はいつの間にか肌を刺すほど鋭くなり、長時間座り続けたことで凝り固まった肩の重さが、三人の疲労を静かに物語っていた。
若葉:「うう……さっき食べたチョコレートの魔力がもう切れたわ。HPゲージが赤点滅して、警告音が頭の中で鳴り響いてるで……」
若葉は机の上にだらりと突っ伏し、恨めしそうな声で呟いた。その指先は、かろうじて生き残った数頭の馬の名前を力なく指差している。佐倉は首の後ろに手を当てて軽く回し、強張った筋肉を解しながら苦笑いを浮かべた。
佐倉:「長丁場ですからね。しかし若葉さん、本当の冒険はボスの部屋の扉の前に立ってからが本番です。残された数頭を並べて、我々の最終的な陣形(フォーメーション)……つまり、暫定的な順位付けを行いましょう」
若葉:「陣形! 順位付け! ってことは、アニメの公式サイトでよくやってる『キャラクター強さランキング』みたいなもんやね! Sランク、Aランク、みたいな!」
神宮寺教授は眉間を指で揉みほぐしながら、鋭い視線を若葉に向けた。
神宮寺教授:「人気投票ではないわ。私たちが決めるのは、勝利という事象を引き寄せる『確率の序列』よ。大衆の熱狂ではなく、冷徹な因果律に従って順位をつけるの。佐倉くん、まずは我々のパーティのリーダー――本命筆頭から提示して」
佐倉:「はい。暫定的な本命筆頭、つまりSランクは、先ほど保留の牢獄に繋いだ『エルトンバローズ』とします」
若葉はガバッと顔を上げ、椅子を鳴らして佐倉を凝視した。
若葉:「ええっ!? さっきまで牢獄に入れとったヤツがいきなりSランクなん!? それって、かつて人類を滅ぼそうとした凶悪な魔族が、いきなり味方の最強戦力として仲間になるみたいな胸アツ展開やんか!」
佐倉:「胸アツかどうかはともかくとして」
佐倉がホワイトボードに力強い筆致で馬の名を書き込む。「前走の不可抗力による事故というノイズさえ取り除けば、彼が過去に記録したマイル最高峰での五着という実績は、今回の術式においては圧倒的なのです」
若葉:「なるほどなー。真の実力を隠し持ってるから、条件さえ揃えば最強の味方ってことか。じゃあ、次のAランク、対抗馬は誰なん?」
神宮寺教授がタブレットの画面をスワイプし、新たなデータを展開させた。
神宮寺教授:「対抗は『アドマイヤズーム』よ。彼には過去、二歳の若駒の頂点を決める『朝日杯フューチュリティステークス』という、最も格式高い戦場での勝利実績があるわ。この『G1馬』という称号(称号)を、論理的に無視することは不可能よ」
若葉は手元の資料に目を落とし、アドマイヤズームの経歴を指でなぞった。そして、不意に眉をひそめて顔を上げる。
若葉:「……なぁ、教授。ちょっと待ってや」
神宮寺教授:「何かしら? 私の構築した論理に、何か疑義でもあるの?」
若葉:「いや、疑うとかやないんやけど……この『朝日杯』ってレース、約一年半も前の話やんな?」
神宮寺教授:「ええ、そうよ。それがどうかした?」
若葉:「馬の一年半って、人間の時間に直したらめちゃくちゃ長いやろ? アニメで言うたら、高校生の時に全国大会で優勝した天才プレイヤーが、二十歳を超えてからサラリーマンの草野球に混ざって『俺は昔すごかったんやで』って威張ってるみたいなもんちゃうの? 前回のレースも六着で負けてるし、その昔の栄光(ステータス)だけで今の力を信じるのは、なんか危険な気ぃするわ」
講義室の空気が、ふっと氷結した。 蛍光灯の微かなハム音だけが、不自然なほど大きく耳に届く。
神宮寺教授:(驚いたわ……。この素人は、データ分析者が最も陥りやすい『G1実績への執着』という盲点に、感覚だけで辿り着いたの……?)
神宮寺教授はマグカップを持つ指先に、無意識に力がこもるのを感じていた。
神宮寺教授は目を見開き、佐倉は手にしたホワイトボードマーカーを床に落としそうになった。
神宮寺教授:(……見事だわ。完全に盲点を突かれた。過去の最大値(マックス)というスタティックなデータに引っ張られ、時間の経過による『能力の減衰率』という動的な変数の計算を軽視していた。この素人学生の直感は、時に私が構築した堅牢な論理の抜け穴を、一矢で正確に射抜いてくる。恐ろしい吸収力ね)
神宮寺教授:「……佐倉くん」
佐倉:「は、はい! 教授!」
神宮寺教授:「若葉の指摘は、極めて論理的かつ本質的よ。私は『実績』という文字の魔力に当てられて、最も重要なデータの『鮮度』を見落としていたわ」
若葉:「えっ! ほんまに!? うちら、また宝箱の罠を見破ったん!?」
若葉が勢いよく椅子から立ち上がり、誇らしげにガッツポーズを決める。
神宮寺教授:「ええ。アドマイヤズームは対抗の地位に留めるけれど、過信は禁物という強固な注釈(アラート)を付与すべきだわ。若葉、あなたのその健全な疑り深さは、分析者として最大の武器になるわよ」
若葉:「へへっ、照れるやん! まぁ、フリーレン様も『魔法は疑うところから始まる』って言うてた気がするしな! 知らんけど!」
佐倉:「素晴らしい着眼点でした、若葉さん」
佐倉も安堵したように、眼鏡の奥の目を細めて微笑んだ。「では、その疑り深さを保ったまま次へ進みましょう。穴馬(ダークホース)……つまり、一発逆転の特大魔法を秘めている『特異点』は――『ウォーターリヒト』です」
若葉:「特大魔法! どんな隠し球なん?」
佐倉:「彼はかつて、マイルの頂点決戦において十五番人気という地の底のような低評価から、三着に突っ込んでくるという凄まじい奇跡(ジャイアントキリング)を演じています。直近の成績も安定しており、京都という戦場の適性(フィールド・バフ)も証明済みです」
若葉:「うわっ、一番人気のないスカのミミックやと思って開けたら、中に伝説の聖剣が入ってたみたいなヤツやん! これは絶対パーティに入れなアカンやつやで!」
神宮寺教授:「ええ。そして少し評価を下げて連下(れんか)……つまりBランクに位置づけるのが『オフトレイル』よ」
神宮寺教授が静かに、だが重みのある声で引き継ぐ。
若葉:「え? なんで? この馬も結構強い成績残してるやんか」
神宮寺教授:「背負う『呪い(ウェイト)』が問題なのよ」
神宮寺教授が静かに首を横に振る。「彼は過去の勝利実績という代償のせいで、今回のレースでは他の馬よりも重い五十八キロという斤量を背負って走らなければならないの。物理的な重力は、極限のスピード勝負において最も残酷な足枷になるわ」
若葉:「重り……! 漫画とかで、修行のためにめちゃくちゃ重い道着着て戦ってるみたいな状態やね! そら、普段通りのスピードは出せへんわな。Bランクで納得や!」
神宮寺教授:「残る『ファーヴェント』と『ブエナオンダ』は、これまでの選別条件をギリギリでクリアした存在。一番下の抑え――Cランクとして、陣形の最後尾に配置します。これで、我々の暫定パーティ編成は完了ですね」
佐倉がホワイトボードにすべての馬の名前とランクを書き終え、小さく安堵の息を吐いた。
若葉:「よしっ! 完璧な布陣や! これで魔王城の攻略は間違いなしやね!」
若葉が両手を突き上げて歓喜の声を上げる。しかし、神宮寺の表情は氷のように冷たいまま、じっとホワイトボードに刻まれた文字の列を睨みつけていた。
神宮寺教授:「……いいえ、完璧すぎるわ」
若葉:「え? 完璧やったらええやんか。なんでそんな怖い顔してはるん?」
神宮寺教授はゆっくりと立ち上がり、窓ガラスに映る自分自身の姿を見つめた。
神宮寺教授:(論理のパズルが、あまりにも綺麗に組み上がりすぎている。ノイズを排除し、過去の事実を積み上げたこの陣形は、確かに美しい。だが、競馬というカオスな物理現象が、机上のデータ通りに完璧に収束することなどあり得ない。この静かな美しさは、嵐の前の凪に似ているわ。私は、私自身が構築したこの理論そのものに、強烈な違和感を抱いている……)
神宮寺教授:「若葉、佐倉くん。今日導き出したこの結論は、あくまで『仮の姿』よ。形だけを模した幻影と言ってもいいわ」
若葉:「幻影!? せっかく一日かけて作った最強パーティやのに!?」
神宮寺教授:「ええ。なぜなら、まだ決定的に欠けている『最後のピース』があるからよ。一つは『枠順』。戦場のどこを走るかという物理的なスタート位置の確定。そしてもう一つは、当日の『パドック』よ」
若葉:「パドック……お馬さんが本番前に、観客の前をグルグル歩いてるとこやんな?」
神宮寺教授:「そうよ。どれだけ美しい過去のログも、当日の馬の肉体が発する生々しい『ノイズ』……異常な発汗や、過度の興奮(イレ込み)という現実の前には、すべてが無に帰すわ。それは時に、あらゆる高等魔術を無効化する一般攻撃魔法のように、積み上げた理論をたやすく覆すの」
佐倉が深く頷き、ホワイトボードの横で居住まいを正した。
佐倉:「我々が今日組み上げたのは、あくまで未来を予測するための『特等席の招待状』に過ぎません。その招待状を握りしめ、週末に確定する戦域(枠順)と、レース当日の彼らの真の姿を見極めてこそ……初めて私たちは、勝利への最終的な魔法を放つことができるのです」
若葉はごくりと唾を飲み込み、手元の資料に記された、バツ印のついた馬たちの名前を見つめ直した。
若葉:「なるほど……。まだ冒険の旅は終わってへんのやね。今日のはあくまで、最強のパーティを組むための作戦会議やったってことか」
神宮寺教授:「その通りよ。さあ、今日の講義はここまで。頭を冷やして、決戦の週末(とき)に備えなさい」
神宮寺教授がタブレットの電源を落とすと、講義室に再び深い静寂が訪れた。 窓の外、夜の帳はさらにその色を濃くし、決戦の舞台となる週末へと、静かに時間を繋いでいく。
第6章;鏡の中の魔道士、あるいは真実の残光 完全に日が落ちた講義室の窓ガラスは、もはや外界の景色を一切映し出さず、巨大な黒い鏡となって三人の疲労を濃く映し出していた。空調から絶え間なく吹き出す冷気が、長時間座り続けて熱を持った頬を優しく撫でていく。若葉が鞄のジッパーを勢いよく引き上げる金属音が、静寂な空間に鋭く、だが心地よく響き渡った。
若葉:「ひえっ……! せっかく最強のパーティを組んで、魔王城の門の前に立ったのに……。最後に教授から『当日のパドックでバグるかも』なんて宣告されるなんて、実は魔王が絶望的な第二形態を隠し持ってたレベルの衝撃やわ!」
若葉はがっくりと頭を抱え、プリントアウトされた馬柱の束に顔を埋めた。インクの匂いと、微かに残る甘いチョコレートの香りが混ざり合い、脳の疲れを刺激する。
佐倉:「絶望、ですか? 我々は不確定要素(ノイズ)を極限まで削ぎ落としたはずですが、どのあたりが魔王の第二形態なのでしょう?」
佐倉が鞄の留め具をカチリと鳴らし、帰宅の準備を整えながら不思議そうに首を傾げた。
若葉:「せやから! ここまで完璧な魔導演算(データ分析)をして『これや!』って答えを出したのに、当日の馬のご機嫌一つで全部ひっくり返るかもしれへんのやろ? それこそ、フリーレン様が苦労して迷宮(ダンジョン)の奥で宝箱を開けたら、中身がミミックやった時くらいのショックやで!」
佐倉は柔らかく微笑み、ホワイトボードの文字を丁寧に消し始めた。キュッキュッというイレーザーの摩擦音が、規則正しく響く。
佐倉:「若葉さん。競馬においてパドックは宝箱ではなく、中身をありのままに映し出す『真実の鏡』のようなものです。決して、私たちを騙そうとするミミックではありませんよ」
若葉:「えっ? でも、データと違う残酷な結果を突きつけてくるんやろ? それって騙されてるんちゃうの?」
佐倉:「いいえ。ただ、その鏡が『一般攻撃魔法(ゾルトラーク)』のように、あまりに単純な事実――例えば『太りすぎ』や『異常な発汗』という、覆しようのない物理的な真理を突きつけてくるからこそ、抗いようがないのですよ。それは欺瞞(だまし)ではなく、研ぎ澄まされた最新のステータスを提示しているだけなのです」
若葉:「なるほど……! ミミックの罠やなくて、シンプルで強力な基本魔法で真正面からぶん殴られてるだけなんやね。それなら……それなら、潔く諦めもつくわ!」
若葉は大きく頷き、丸めたプリントを鞄の隅に押し込んだ。そして、ふと思いついたように顔を上げる。
若葉:「でもさ、競走馬の血統表(ターゲット)を見てたら、なんかもう凄すぎてクラクラしてくるわ。何代も前に遡ったら、伝説の馬の名前がキラ星のごとく並んでるやん?」
神宮寺教授はタブレットの電源ケーブルを丁寧に巻き取りながら、冷ややかな視線を向けた。
神宮寺教授:「血統がどうかしたの? ただの遺伝子の継承記録よ。そこに安っぽいロマンを見出すのは初心者の悪癖だと言ったはずだけど」
若葉:「ロマンちゃうよ! これ、もはや『人類の魔法を百年進化させた魔道士の遺産』みたいなもんやろって思って! 走るたびに古い血が組み合わさって、新しい歴史を書き換えてるんや!」
神宮寺教授:(ただの遺伝子の羅列を、歴史を改変する魔導体系と捉えるとは。非論理的でありながら、本質を鋭く突いた比喩ね。サラブレッドの交配史は、まさに最適解を求めて気の遠くなるような時間を費やした、巨大な術式の構築プロセスそのものなのだから)
神宮寺教授は指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、レンズの奥の瞳を鋭く光らせた。
神宮寺教授:「……血統の継承を魔術の体系化と捉えるのは、興味深いアプローチね」
若葉:「おっ! 教授が乗ってきた! せやろせやろ?」
神宮寺教授:「ええ。サンデーサイレンスという特異な血が現代競馬の基礎術式となり、それを改良したディープインパクトという結晶が『飛行魔法』に近い圧倒的な末脚をもたらした。私たちが今日一日かけて解析していたのは、単なる目の前の個体ではなく、数百年かけて編み上げられた『サラブレッドという名の巨大な魔法術式』の最新形……その末端なのかもしれないわね」
若葉:「うおおお! 教授の口からそんなファンタジーな解説が聞けるなんて! なんかめっちゃ壮大な歴史の証人になった気分やで!」
佐倉がホワイトボードの清掃を終え、上着に袖を通しながら二人の会話に加わった。衣擦れの音が、静まり返った教室に優しく響く。
佐倉:「我々の仕事は、未来の予言ではありませんからね。若葉さん、我々が一日かけて積み上げたこのデータは、一体何に似ていると思いますか?」
若葉:「えー? 魔法術式の一部とか?」
佐倉:「いいえ。いわば、フリーレン様が道中で収集している『かき氷を作る魔法』や『服が透けて見える魔法』のように、一見すると些細な、けれど確実にそこにある『真実』を拾い集める作業です」
若葉:「かき氷に、服が透ける魔法!? なんやそれ、今日の緻密な魔導演算(データ分析)が急にポンコツ魔法みたいに聞こえるんやけど!」
佐倉:「単体では役に立たないように見える小さな事実も、それが何十、何百と積み重なった時、私たちは運命という名の巨大な魔法に立ち向かうための、最前列のチケットを手にできるのです。それこそが、データ分析の真髄ですよ」
若葉は目を丸くし、それからパァッと花が咲いたような笑顔を見せた。
若葉:「なるほど……! 派手な爆発魔法が使えなくても、地味な解析の魔法を積み重ねることで、うちらは『馬たちが歴史を動かす瞬間』を特等席で目撃できるんやね。もはやうちらは、ヒンメルたちの旅を隣で見守り続けた、ハイターかアイゼンみたいな気分やわ!」
佐倉:「その通りです。我々は英雄ではありませんが、英雄の軌跡を最も正確に記録する『観測者』なのです」
佐倉の穏やかな言葉に、講義室の空気がふっと温かくなったように感じられた。その時、若葉の視線が、荷物をまとめて立ち上がった神宮寺の横顔に釘付けになった。
若葉:「……あれ? 教授、なんか耳赤いで!」
神宮寺教授:「なっ……何を突然、非論理的なことを」
若葉:「ほんまや! 真っ赤っかや! もしかして『冷徹なデータサイエンティストが感情を露わにしてしまう魔法』でもかけられたん!? もしくは、今週末のレースが楽しみすぎて、実は内心『アウラ、馬券を買え』って大声で叫んで命令したいほど興奮してるとか!」
神宮寺教授はピタリと動きを止め、氷のような視線で若葉を射抜いた。しかし、その耳の端は隠しきれず朱に染まっている。
神宮寺教授:「……不敬ね。私が今展開しているのは、非科学的な挑発から自らの理論を死守するための『精神防御魔法』よ」
若葉:「ええー! 絶対図星やんか! 隠せてへんで!」
神宮寺教授:「叫ぶなんて論理的に有り得ないわ。ただの毛細血管の拡張に伴う血圧の変動よ」
神宮寺教授は鞄を手に取り、ヒールの音を高く鳴らしてドアへと向かった。「来週の祝勝会……あるいは反省会まで、あなたのその饒舌な口は『封印』しておくことね」
スライドドアの冷たい金属の取っ手を引き、神宮寺は講義室から足早に立ち去っていった。 残された若葉と佐倉は顔を見合わせ、静まり返った夜の校舎に、二人の楽しげな笑い声がいつまでも心地よく響いていた。
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第7章「棄却の結界、あるいは選別される二週間の魔力」 (7~10章) 朝日が眩しく差し込む講義室。窓際のブラインドからは、幾重もの光の筋が埃の粒子をきらきらと輝かせている。空気中には、佐倉助手が丁寧に淹れた深煎りコーヒーの香ばしい匂いと、若葉が持ち込んだコンビニの焼き立てパンの甘い香りが混ざり合っていた。
若葉: 「教授、佐倉助手、おはようさん! 今日でいよいよ決着やね。昨日の夜はドキドキして、アニメの録画消化も進まんかったわ!」
若葉が元気よくドアを開け、アニメ風の関西弁を響かせながら席に着く。彼女の目の前には、付箋だらけになった競馬新聞とタブレットが置かれていた。
佐倉: 「おはようございます、若葉さん。今日一日の講義で、この六頭から真の精鋭を絞り込みます。現在の生き残りは、アドマイヤズーム、ウォーターリヒト、オフトレイル、エルトンバローズ、ファーヴェント、ブエナオンダの六戦士です」
最前列に座る神宮寺教授は、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、冷徹な瞳でボードを見つめた。
神宮寺: (朝の光は論理を研ぎ澄ませるわね。若葉のこの無駄な元気さも、情報のノイズを振り払うための触媒としては悪くない。さて、この六頭……データという名の術式で、誰が『本物』かを見極めさせてもらうわ)
神宮寺: 「若葉、寝不足で脳がフリーズしていないのなら、まずはあなたの直感を聞かせてもらえるかしら。この中で、パドックの映像を見て『魔力を隠している』ように見える子はいる?」
神宮寺の問いに、若葉は身を乗り出してタブレットの画面を指差した。
若葉: 「教授、見てや! このブエナオンダとファーヴェント、パドックで全然やる気なさそうにトボトボ歩いてるけど、これ実は『魔力を制限』して敵を油断させてるんちゃう? フェルンみたいに、実は底知れぬ魔力を隠し持ってるタイプやで、きっと!」
神宮寺: 「……それは『魔力制限』ではなく、単なる『エネルギーの温存』、あるいはただの『魔力不足』よ」
神宮寺がピシャリと言い放つ。佐倉が苦笑しながら補足した。
佐倉: 「若葉さん、残念ながら競馬のデータはもっと残酷です。教授の仰る通り、その二頭――ブエナオンダとファーヴェントは、今回『棄却』の対象になります」
若葉: 「ええっ!? なんでや、せっかくの隠し魔力やのに!」
神宮寺: 「論理的に説明するわ。まず、その二頭の共通点は『レースの間隔が二週間しかない』ということよ」
神宮寺は資料の一部を若葉の前に突き出した。
神宮寺: 「中三週以内の過酷なスケジュールで挑む場合、前走でよほど圧倒的なパフォーマンスを見せていない限り、過去のデータでは(0-1-2-80)と壊滅的なの。つまり、九割以上の確率で魔法は不発に終わる。町内会の運動会を全力で走った二週間後に、オリンピックで魔力全開にするなんて無理な話よ」
若葉: 「うわ……数字で見るとエグいな。ブエナオンダは十一番人気やし、期待値も低いってことか」
佐倉: 「その通りです、若葉さん」
佐倉がペンを走らせる。
佐倉: 「ファーヴェントも八番人気。しかも決め脚……つまり最後の直線での爆発力が、この六頭の中で一番低いんです。外枠から回されるリスクを考えると、魔力を解放する前にスタミナが切れてしまうでしょうね」
若葉はがっくりと肩を落とし、二頭の名前にバツ印をつけた。
若葉: 「なるほどな……。魔力を隠してるんやなくて、魔力そのものがカツカツやったんか。ほな、あと一頭は?」
神宮寺は窓の外、遠くの景色を眺めるように目を細めた。
神宮寺: 「エルトンバローズよ。彼もここでさよならね」
若葉: 「ええっ! エルトンバローズって、昨日の講義で『事故やったから保留!』って言うてた子やん! なんで急にクビなん?」
佐倉がタブレットで確定した枠順を表示した。
佐倉: 「枠順よ」
佐倉: 「エルトンバローズは八枠十七番……一番外側の不利な位置を引いてしまいました。今回の馬場状態は『内枠有利』。外を大きく回らされるリスクと、彼の六歳という年齢……そして何より、決め脚の数値が低いことを考えると、この大外枠は致命的な『呪い』になります」
若葉: 「うわぁ……。事故からは立ち直ったのに、今度は『枠の呪い』か。人生、甘ないなぁ」
若葉はため息をつきながら、エルトンバローズの名前にも斜線を引いた。
神宮寺: (感情を切り離し、冷徹なスクリーニングを行う。若葉も少しずつ『期待』という名の魔法から醒めてきたようね。だが、残った三頭……これこそが真の難問。論理が美しく組み上がりすぎていることに、私はまだ薄寒い違和感を感じているけれど)
神宮寺: 「これで残ったのは、アドマイヤズーム、オフトレイル、ウォーターリヒトの三頭よ。ここからが本当の『知恵比べ』になるわ。……佐倉くん、一度空気を入れ替えましょうか。コーヒーのおかわり、お願い」
佐倉: 「はい、教授。若葉さんも、少し甘いものでも食べますか?」
若葉: 「食べる! 脳みそが焦げ付いてきたから、糖分という名のポーション補給や!」
講義室には、再び穏やかな時間が流れ始めた。しかし、残された三頭の名前は、ホワイトボードの上で不気味なほどの輝きを放っていた。
第8章「集団知の魔導書(グリモワール)、あるいは情報の圧縮魔法」昼の足音が近づき、講義室に差し込む光は朝の白さから、少し温度を帯びた黄金色へと変わり始めていた。窓越しに伝わる微かな熱気。佐倉が新しく淹れ直した二杯目のコーヒーから立ち上る湯気が、若葉が頬張っているメロンパンの甘いバターの香りと空中で混ざり合い、なんとも言えない奇妙で心地よい空間を作っている。遠くで微かに聞こえるサイレンの音が、外界の喧騒を静かに伝えていた。
若葉: 「ぷはーっ! 糖分補給完了や!」
若葉はメロンパンの最後のひとかけらを飲み込むと、満足げに口元を拭い、再びホワイトボードの三頭の名前——アドマイヤズーム、オフトレイル、ウォーターリヒト——を睨みつけた。
若葉: 「でもなぁ、教授。うち、さっきからずっと引っかかってるんやけど」
神宮寺: 「何かしら。消化不良なら胃薬を出すけれど」
神宮寺は冷めたコーヒーを一口啜り、マグカップの縁を指でなぞりながら冷淡に返した。
若葉: 「胃袋は絶好調や! そうやなくて、みんな『一番人気やから』とか『三番人気やから信頼できる』とか言うてるやん? それってなんか、すごく非科学的ちゃう?」
佐倉がホワイトボードから振り返り、首を傾げた。
佐倉: 「非科学的、ですか? オッズという明確な数字に基づいているのですが」
若葉: 「やってさ、人気投票やんか! アニメの公式サイトでやってる『推しキャラ総選挙』みたいなもんやろ? 大衆のノリと勢いで決まってる数字を信用して、論理的な予想って言えるん? なんか矛盾してる気ぃするわ」
若葉の鋭い突っ込みに、神宮寺は小さく鼻で笑った。
神宮寺: (大衆の感情をノイズと見なす。データサイエンスの入り口としては、非常に正しい直感だわ。だが、彼女はまだ『金銭を伴う市場』の恐ろしさを理解していない。群衆の狂気と、群衆の叡智は、表裏一体なのだから)
神宮寺: 「若葉、あなたは大衆を馬鹿にしすぎているわね」
神宮寺はタブレットを操作し、過去数十年の膨大なレースデータをスクリーンに投影した。
神宮寺: 「いい? アニメのキャラクター人気投票と、競馬のオッズの決定的な違いは『身銭を切っているか否か』よ。競馬のオッズは、不特定多数の人間が自分の生活費や小遣いを賭けた結果として形成される。そこには、血統、過去のタイム、馬場の状態、さらには関係者の裏情報まで、あらゆる公開・非公開情報が『購入』という形で凝縮されているの」
若葉: 「身銭を切る……そら、タダで投票するのとは必死さが違うわな。でもさ!」
若葉は身を乗り出し、机をバンと叩いた。
若葉: 「みんながみんな、賢いわけちゃうやん! 一部のテレビ番組とか、ネットのインフルエンサーが『この馬が絶対来ます!』って煽ったら、それに踊らされて買うレミング(集団自殺するネズミ)みたいな人らがいっぱいおるんちゃうの? つまり、オッズは『情報の集約』やなくて、メディアによる『情報の汚染』やで!」
佐倉が目を丸くした。
佐倉: 「おや、若葉さん。意外にも陰謀論や市場操作を疑う冷徹な現実主義者のような視点を持っていますね。確かに、過剰なメディアの煽りで人気が偏る『オーバーリアクション』という現象は存在します」
若葉: 「せやろ! 放送前は『今期覇権アニメ間違いなし!』って煽られてたのに、いざフタを開けたら作画崩壊でスッカスカやった……みたいなこと、競馬でもあるはずや!」
佐倉: 「ですが、若葉さん」
佐倉は落ち着いた声で、スクリーンの一つのグラフを指し示した。
佐倉: 「その『煽り』を含めた上でも、長期的な統計データは残酷なほど正直です。過去数十年の日本のレースにおいて、一番人気の勝率は常に約三十二パーセント、三着以内に入る確率は約六十四パーセントで安定しています。もしオッズがメディアに作られただけの『デタラメな汚染数字』であれば、十番人気の馬と一番人気の馬の勝率に、これほど綺麗で絶対的な格差は生まれません」
若葉: 「うっ……。三十パーセント以上も勝つんか。十回に三回は絶対来るって、数字で見せられるとぐうの音も出へんな」
若葉は唇を尖らせ、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
若葉: 「……待てよ?」
ふと、若葉の動きが止まった。彼女の頭の中で、これまでの講義内容と、オッズという数字の持つ意味が、パズルのピースのようにカチリとはまり始める。
若葉: 「教授、佐倉助手。もしかしてオッズって……最強の『まとめサイト』みたいなもんちゃうの?」
神宮寺: 「まとめサイト?」神宮寺が眉をひそめる。
若葉: 「せや! うちらが何時間もかけて血統とかタイムとか調教とか、しらみつぶしに調べるんやなくて、日本中の何十万人っていう競馬ファンとかプロの予想家が、それぞれの得意分野で必死に調べた結果を、全自動で計算して一つの数字に『圧縮』してくれてるんや!」
若葉は立ち上がり、興奮気味に身振り手振りを交えて語り始めた。
若葉: 「もし、ある馬の脚が痛いとか、当日の体重が激増してるとか、ヤバい爆弾(マイナス要素)があったら、情報を持ってる人らは絶対に買わへん。そしたら自然とオッズは下がる。逆に、データ上は弱く見えても、プロが『今の状態は完璧や』ってこっそり買えば、オッズは上がる。オッズを見るってことは、自分一人じゃ絶対に処理しきれへん何十万という『情報の束』を、一瞬でフィルターにかけてもらうってことや!」
講義室に、静寂が訪れた。 空調の稼働音だけが、やけに大きく響いている。
佐倉は驚いたように口を半開きにし、神宮寺は持っていたマグカップをコトリと机に置いた。
神宮寺: (……驚愕ね。オッズを『市場価格』として説明しようとした私の意図を飛び越え、情報の非対称性とフィルタリングの概念を、『まとめサイト』という身近な比喩で完璧に言語化してのけた。この瞬間、彼女の論理構築は私のアプローチと完全に同調したわ)
若葉: 「……え、あれ? うち、なんか変なこと言うた? やっぱり人気投票は人気投票か?」
若葉が不安そうに二人を交互に見比べた時、神宮寺が静かに拍手を送った。 パチ、パチ、と、乾いた音が室内に響く。
神宮寺: 「完璧よ、若葉。あなたの言う通りだわ。全講義を通じて、あなたが完全に正しく、そして最も鋭い本質を突いた瞬間ね」
若葉: 「えっ! ほんまに!? よっしゃああ!」
神宮寺: 「オッズという名のフィルターを利用することは、株式投資において株価を見ずに売買するような愚行を避けるための、極めて論理的な防衛手段なの。期待値だけを追い求めて『人気馬は買う価値がない』と嘯く数学的狂人もいるけれど、基準値(オッズ)を無視した予想はただの自己満足に過ぎないわ」
神宮寺は立ち上がり、ホワイトボードに残された三頭の名前を指差した。
神宮寺: 「だからこそ、私たちは『人気』という最も信頼できる統計的指標を土台に置いたの。その上で、大外枠や過酷なローテーションといった個別のマイナス要因を重ね合わせて、期待値と実際の能力の間に生じる『歪み』を見つけ出した。人気に逆らうのではなく、人気を前提として利用する。それが、最も論理的な予想の構築法よ」
若葉: 「なるほどなぁ……! 数字は生きてるんやね。みんなの欲望と知恵の結晶なんや!」
若葉の顔には、もはや迷いはなかった。窓から差し込む太陽の光が、彼女の顔を明るく照らしている。
神宮寺: 「オッズがただの感情論ではないと理解できたのなら、次のステップへ進むわよ。残されたこの三頭……アドマイヤズーム、オフトレイル、ウォーターリヒト。いよいよ、この精鋭たちに完全なる序列をつける時よ」
若葉: 「おっしゃ! どんな『まとめサイト』よりも正確な、うちらだけの最強の結論を叩き出したるで!」
若葉が力強くガッツポーズをしたところで、神宮寺は佐倉に視線を送った。論理の鎖は、いよいよ最後の仕上げへと向かおうとしていた。
第9章「三人の術師と、イメージできない隙間の断裁」傾きかけた太陽が、講義室の窓ガラスを透過して強烈な西日へと変わりつつあった。オレンジ色の光線がホワイトボードの表面で鋭く反射し、網膜をチカチカと刺激する。空調から吹き出す風は少し乾燥しており、若葉の口の中には先ほど平らげたメロンパンの甘ったるい後味が、コーヒーの苦味と共に微かに張り付いていた。佐倉がホワイトボードの前に立ち、キュッ、キュッと黒いマーカーを滑らせる摩擦音が、規則正しいリズムを刻んでいる。
佐倉: 「さて、情報の海から掬い上げた三つの真実……アドマイヤズーム、オフトレイル、ウォーターリヒト。いよいよこの三頭に、最終的な序列を刻み込む時が来ました」
佐倉がマーカーを置き、真剣な眼差しで二人を見渡した。
若葉は腕を組み、ホワイトボードの文字を睨みつけながら唸り声を上げた。
若葉: 「うーん……ここまで残ったってことは、どの子も魔王を倒せる勇者の素質があるってことやんな。ここから順番を決めるって、なんか『誰が一番強いか』っていうより『誰が一番、今回のダンジョンに向いてるか』を探すみたいな作業やね」
窓際に座る神宮寺は、タブレットの画面から顔を上げず、冷徹な声だけを響かせた。
神宮寺: 「その直感は正しいわ、若葉。能力が拮抗している場合、勝敗を分けるのは『舞台装置との適合性』よ。つまり、今回のコースの性質――内側を前の方で走る馬が有利、という絶対的な物理法則にいかに逆らわず、従順に立ち回れるか。それが序列の最大の基準になるわ」
神宮寺: (この三頭は、それぞれが異なる武器を持つ特化型の戦士。だが、いかに優れた剣でも、水中で振るえばその威力は半減する。己の長所と、環境の有利不利が完全に合致する個体こそが、論理的な頂点に立つ資格を持つ……)
若葉: 「ほな、一番その『舞台装置』に合ってるのは誰なん?」
神宮寺はタブレットを机に伏せ、ゆっくりと立ち上がった。
神宮寺: 「第一位、つまり論理の頂点に君臨するのは『アドマイヤズーム』よ。彼を本命の軸とするわ」
若葉: 「おっ! 一番人気の子やね! やっぱり能力値がズバ抜けてるん?」
神宮寺: 「ええ。彼の最大の武器は、レースの前半から先頭集団の絶好の位置を確保できる『前の方で走る力』が、このメンバーの中で圧倒的なトップだということよ。内側で前を走るのが有利な今回の舞台において、最も恵まれたポジションを自らの力で強奪できる。他の馬の動きという不確定要素(ノイズ)に邪魔されるリスクが最も低いの」
佐倉が頷きながら、アドマイヤズームの名前の横に大きな星印を描き込んだ。
佐倉: 「さらに、彼は一番人気です。先ほどの講義で証明した通り、『最も多くの情報が集約された市場価格』が彼を勝者だと支持している。高い基礎能力、展開の有利さ、そして統計的信頼度。この三つの条件が完璧に揃っている以上、彼を一位から外す理由は論理的に存在しません」
若葉: 「なるほどなぁ……。弱点がない完璧超人って感じやね。まさに王道の主人公や! ほな、残る二位と三位の対決はどうなるん?」
若葉は目を輝かせ、身を乗り出した。残るは、内枠に入ったオフトレイルと、爆発的な末脚を持つウォーターリヒトだ。
神宮寺: 「ここが少し厄介なのよ」
神宮寺は眉間に微かな皺を寄せ、腕を組んだ。
神宮寺: 「ウォーターリヒトの『最後の直線での爆発力』は、全メンバーの中で群を抜いているわ。魔法で例えるなら、一撃必殺の超大魔術よ。ただし、彼はどうしてもレースの前半は一番後ろの方で待機しなければならない不器用な性質を持っているの」
若葉: 「えっ、それってヤバいんちゃう? さっき『前を走る方が有利』って言うてたやん!」
佐倉: 「その通りです、若葉さん」
佐倉がボードを指差す。
佐倉: 「前の馬を追い抜くためには、どうしても集団の外側を大きく回らざるを得ません。しかし今回の舞台は、外側を回ると距離を余分に走らされて大きく体力を消耗する構造なのです。どれだけ強力な一撃を持っていても、それを放つ前に魔力切れを起こすリスクが高い」
若葉: 「うわぁ……。超大魔術を持ってるのに、詠唱時間が長すぎて敵の攻撃避けられへんタイプか! ロマンはあるけど、投資としてはちょっと怖いなぁ」
若葉はウンウンと唸りながら、もう一頭のオフトレイルのデータに目を落とした。
若葉: 「ほな、オフトレイルはどうなん? この子、枠順の一番内側の窮屈なところ……一番端っこのスタート位置に入ってもうたやん。周りを他の馬にぎっしり囲まれて、身動き取れんまま閉じ込められそうでめっちゃ怖いわ」
佐倉が「確かに」と同意しようとした瞬間、若葉はポンと手を打ち鳴らした。
若葉: 「でも大丈夫や! あの子なら絶対いける!」
神宮寺: 「……急に自信満々ね。何の根拠があるの?」
神宮寺が怪訝そうな視線を送る。
若葉: 「精神論や! 閉じ込められたら、前の馬を真っ二つに割り振って突き抜けてきたらええんや! あのユーベルちゃんも言うてたやんか、『イメージできないものは斬れない』って! 騎手のお兄さんが『ここは道が開く!』って鮮明にイメージさえできれば、どんな分厚い馬の壁かてスパスパ斬り裂いて進めるはずやで!」
神宮寺は深い深いため息をつき、指先でこめかみを強く揉みほぐした。
神宮寺: 「若葉……。物理的に馬や騎手を斬り裂いたら、それはもうスポーツではなくただのスプラッタよ。即刻逮捕されてニュースのトップを飾るわ。それに、精神論で物理的な壁を透過できるなら、苦労してデータ分析などしないのよ」
佐倉: 「まぁまぁ、教授。若葉さんの表現は非常に物騒ですが、本質は外していませんよ」
佐倉が慌ててフォローに入り、ホワイトボードにコースの図を描き始めた。
佐倉: 「馬を斬るのではなく、『空間を斬る』……つまり、開いた僅かな隙間をイメージして瞬時に突く技術のことですね。オフトレイルが引き当てた一番内側の枠は、諸刃の剣です。確かに閉じ込められるリスクはありますが、もし騎手がインコースの最短距離……我々が『経済コース』と呼ぶ、最も魔力(スタミナ)を消費しないルートをじっと我慢して進めたらどうなるか」
若葉: 「あ……! もしかして、他の馬が外側を大回りしてバテてる間に、一番短い距離でワープみたいにスッと前に出られるってこと!?」
神宮寺: 「その通りよ」
神宮寺が佐倉からマーカーを受け取り、オフトレイルの名前の横に『第二位』と書き込んだ。
神宮寺: 「アドマイヤズームという完璧な王者を逆転するシナリオがあるとすれば、この『最短距離の経済コース』をノーロスで走り抜けた時だけよ。リスクはあるけれど、内側が有利な舞台装置の恩恵を最も強烈に受けられるのはオフトレイルなの。だから、彼を二位に据えるわ」
若葉: 「おおーっ! 『イメージした隙間を突き抜ける魔法』が見事に決まったら、一発逆転もあるってことやね! めっちゃワクワクしてきたわ!」
若葉の興奮をよそに、神宮寺は最後にウォーターリヒトの名前の横に『第三位』と書き込んだ。
神宮寺: 「ウォーターリヒトは第三位。彼の爆発力と二番人気という信頼度は認めるけれど、後ろから大外を回るという展開依存のギャンブル性が高すぎるわ。彼が勝つ時は、前の馬たちが総崩れになった時という、他力本願なシナリオに依存してしまう。論理の鎖としては少し脆いのよ」
神宮寺: (完璧だわ。能力値、枠順、馬場の性質、そして市場の評価。すべての要素が矛盾なく噛み合い、美しい序列が完成した。……だが、それでもなお、私の奥底で警鐘が鳴り止まない。生きた動物が走る以上、この完璧な数式を破壊する『見えない何か』が必ず潜んでいるはずなのよ)
若葉: 「よしっ! これで序列完成や! 一位アドマイヤズーム、二位オフトレイル、三位ウォーターリヒト! うちらの三人の知恵と魔法が詰まった、最強のパーティやで!」
若葉が立ち上がり、ホワイトボードに向けて深々と一礼をした。その姿を見て、佐倉も満足げに頷いている。
佐倉: 「長かった魔導書の解読も、これで一区切りですね。教授、見事な論理の構築でした」
神宮寺は手元のマーカーのキャップをカチリと閉め、夕陽に染まる窓の外へ視線を向けた。
神宮寺: 「ええ。机上の空論としては、これが最高傑作よ。さあ、あとは……」
若葉: 「あとは?」
神宮寺は口元に微かな、しかし挑戦的な笑みを浮かべた。
神宮寺: 「この完璧な理論が、週末の現実という名の荒波にどう呑み込まれ、どう抗うのかを……特等席で見届けるだけよ」
講義室は深い夕闇に包まれる直前の、最もドラマチックな時間帯を迎えていた。長く熱い議論の果てに導き出された三つの答えは、静かに週末の決戦の時を待っている。
第10章「銅像の錆を取る魔法、あるいは終わりのない探求」(未来編)週末の喧騒が嘘のように過ぎ去り、週明けの講義室には静かで重たい空気が沈殿していた。窓の外はすでに深い群青色に染まり、ぽつりぽつりと灯り始めた街灯が、ガラス越しにぼんやりとした光の輪を作っている。空調が吐き出す微弱な風の音と、壁に掛けられた時計の秒針が刻む硬質な音だけが、部屋の静寂を際立たせていた。
机の上には、赤ペンで無数の書き込みがされた資料と、そして……完全に外れた馬券が、力なく横たわっている。微かに漂う、時間が経って酸化したコーヒーの酸味と、消しゴムのカスが混ざったような乾いた匂いが、敗北の味を五感に訴えかけてきた。
若葉: 「ああ……負けた……。見事に散ったわ……」
机に突っ伏したまま、若葉が幽鬼のような声を漏らした。その頬は冷たい机の天板に押し付けられ、口から吐き出されるため息が資料の端を虚しく揺らしている。
佐倉が、同情を含んだ苦笑いを浮かべて振り返った。
佐倉: 「若葉さん、生きた動物が走る以上、絶対はありません。教授が懸念していた通り、当日のパドックでの異常な興奮状態……あの強烈な『ノイズ』が、美しい理論の数式を根底から破壊してしまいましたね」
若葉: 「せやな……。一番内側の枠からスパスパ空間を斬ってくれるはずやったオフトレイルも、結局馬群の壁にぶち当たって魔法不発やし。ウォーターリヒトの大魔術も、届かんかったわ」
若葉はのろのろと上体を起こし、力なく両腕を伸ばして背伸びをした。しかし、その瞳の奥には、敗北の絶望とは違う、どこか晴れやかな光が宿っていた。
若葉: 「でも、後悔はないわ。だって、『勇者ヒンメルなら、迷わずこの穴馬の単勝を買ったはず』やもん! うちはヒンメルの意志を継いで、ロマンっていう名の魔王に立ち向かったんや!」
窓際の定位置、レザーチェアに深く腰掛けていた神宮寺は、読んでいた分厚い洋書のページをパタンと閉じた。その冷徹な視線が、若葉の顔を真っ直ぐに射抜く。
神宮寺: 「死後数十年経ってもあなたの財布に影響を与えるなんて、ヒンメルも罪な男ね」
神宮寺の氷のような、しかしどこか呆れを含んだ声が講義室に響いた。
若葉: 「ええっ、教授! そこでヒンメルのせいにせんといてや! これはうちの気高き決断やで!」
神宮寺: 「気高いかどうかは口座の残高が決めることよ。でもね、若葉。ヒンメルが後世に残したのは、広場に建つ立派な銅像ではなく、未来へ進むための勇気……私たちで言えば『次の予想へ繋がるデータ』のはずよ。自分の分析が外れた事実から目を背けて、それを魔法や勇者のせいにしているうちは、あなたは三流の魔導師のままよ」
神宮寺: (完璧に構築した理論が、現実のパドックという名の物理的なノイズの前に敗れ去る。痛いほどの敗北だわ。だが、この敗北から新たな変数を抽出し、次の術式に組み込んでいく。それこそがデータサイエンスの真髄よ。この無軌道な新入生も、敗北の痛みを知ることで、ようやく本当の分析の入り口に立ったと言えるわね)
若葉は「うぐっ」と言葉に詰まり、佐倉に助けを求めるように視線を向けた。
佐倉: 「教授の仰る通り、我々が得たのは敗北ではなく、新しいデータという名の財産です。それに若葉さん、今回の一連のプロセス……膨大な資料からノイズを削ぎ落とし、真実を探り当てる作業そのものは、とても充実していたのではありませんか?」
その言葉を聞いて、若葉の表情がパァッと明るくなった。彼女は手元のしわくちゃになった資料を愛おしそうに撫でる。
若葉: 「……せやね。佐倉助手の言う通りやわ。最初は訳わからん数字の羅列でミミックの罠やと思ったけど、一つ一つ謎を解いていくの、めっちゃ楽しかったわ」
若葉は立ち上がり、すっかり黒い鏡のようになった窓ガラスに映る自分自身の姿を見つめた。
若葉: 「結局、競馬のデータ分析ってさ、『銅像の錆を綺麗に取る魔法』みたいなんかもしれへんな」
佐倉: 「銅像の錆を、ですか?」
佐倉が不思議そうに首を傾げる。
若葉: 「うん。他人から見れば『そんなん機械でやればええやん』とか『どうせ結果なんて運やろ』って言われるような、しょうもないことかもしれん。でも、そのしょうもないことに真剣に向き合って、徹夜で一生懸命になるのが一番楽しいんやね。うち、もっともっと、競馬っていう名の『くだらない魔法』を集めたくなったわ!」
若葉の声には、朝の講義で見せた無知な勢いではなく、一つの長大な旅を終えた者だけが持つ、静かな熱がこもっていた。
佐倉は目を細め、深く、深く頷いた。
佐倉: 「ええ。フリーレン様が数百年かけて趣味の魔法を極めたように、我々のデータ解析もまた、終わりのない旅のようなものですからね。次のレース、また次のレースと、世界にはまだ見ぬ変数が無限に転がっています。それを拾い集める旅路こそが、我々の生きる意味なのかもしれません」
若葉: 「うおおお! 佐倉助手、なんかめっちゃええこと言うやん! 次のダンジョン(重賞レース)も、うちら三人で絶対攻略したるで!」
若葉が元気よく拳を突き上げたその時、レザーチェアから立ち上がる衣擦れの音が響いた。
神宮寺はタブレットをスマートな革の鞄にしまい込み、デスクの上を完璧に整頓していた。彼女の所作には一切の無駄がなく、冷たい美しさを保っている。
神宮寺: 「次回の講義までに、今回の敗因のパラメーター化と、新たな分析モデルの基礎構築を提出しなさい。ロマンで満たされた頭を、一度氷水で冷やしておくことね」
若葉: 「ええーっ! 徹夜明けでいきなり宿題!? 教授、鬼や! 魔王より血も涙もないで!」
神宮寺は鞄の持ち手をしっかりと握り、ドアへと向かって歩き出した。ピンヒールが床を叩く硬質な音が、講義室にリズミカルに響き渡る。ドアの取っ手に手を掛けたところで、神宮寺はふと動きを止め、振り返ることなく、ほんの少しだけ顔を横に向けた。
神宮寺: 「……ちなみに私は、これからの時間を使って『失った馬券代が財布に戻ってくる魔法』を研究する予定よ」
若葉: 「えっ! なにそれ、教授そんなチート魔法の研究してたん!?」
神宮寺は微かに、だが確かに自嘲気味な笑みを浮かべた。
神宮寺: 「ええ。未だに成功報酬はゼロだけどね」
言い残すと同時に、スライドドアが静かに、だが確かな重みを持って閉められた。
あとに残されたのは、ぽかんと口を開けた若葉と、肩を揺らして静かに笑う佐倉、そして、次なる旅立ちを待つ無数のデータたちだけだった。夜の闇は完全に講義室を包み込んでいたが、不思議と二人の顔は明るく、どこか心地よい疲労感とともに、果てしない魔法の探求への第一歩を踏み出していた。
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