アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:(……年金が減額されるほどの精神的重圧だ。さっさとノルマを片づけ、温かい紅茶にありつくとしよう)
アドマイヤズーム――第九座標に布陣するヤン・ウェンリーは、左右を鉄の障壁に挟まれた狭隘なゲートの内で、いかにも場違いな大欠伸を辛うじて噛み殺していた。
鉛色の雲が重苦しく垂れ込める京都星域。 芝一六〇〇メートル、その短距離決戦の戦場には、湿り気を帯びた土の匂いと、春特有の峻烈な風とが満ちていた。吹き抜ける風は、若き勇者たちの昂揚を冷やし、老将たちの闘志をも等しく試している。
周囲の精鋭たちが極限の緊張に筋肉をこわばらせ、一触即発のエネルギーを蓄積している中、この魔術師の思考を占めていたものは、帰還後の私室にて味わうティータイム、その茶葉の銘柄選定のみであった。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:「よう、若造ども! じいさんの尻を拝めるだけの脚は残っているか。民主主義の末端を担う覚悟ってやつを、見せてみろ!」
内側、第五座標より、酒焼けしたかのように嗄れながら、それでいて不思議な芯を失わぬ野太い号令が轟いた。
ショウナンアデイブ――第五座標のビュコックである。
彼は額にブリンカーという名の重装甲をまとい、幾多の戦場をくぐり抜けた老兵のみが発する独特の威圧感を、荒々しい鼻息へと変えて周囲へ撒き散らしていた。そこには衰えもあった。だが、それ以上に意地があった。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「ふん、老いぼれが! 全軍突撃(フォイヤー)の合図を待つ間、せいぜい粋がっているがいい! 貴様の艦列など、この俺の槍で一撃のもとに粉砕してくれるわ!」
やや外側の枠より、獲物を屠る寸前の猛獣そのままに、ベラジオボンド――ビッテンフェルトが吠えた。
彼もまた視界を限定するブリンカーを装着し、進軍路以外の一切を拒絶している。その首は衝動を抑えきれぬまま激しく上下し、理性という名の手綱が、いまにも断ち切れんとしていた。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「威勢がいいのは結構だが、正面から突っ込むしか能がないというのは、あまり感心しないね。戦略的柔軟性を欠いた軍隊ほど、無意味に損害を拡大させるものだよ」
アドマイヤズーム――ヤン・ウェンリーが、心底うんざりしたように耳を水平へ伏せ、独り言めいた調子でぼやいた。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「なんだと、魔術師! 貴様のような小賢しい詭弁家から、真っ先に我が槍で薙ぎ払ってくれるわ!」
ベラジオボンド――ビッテンフェルトは前肢でゲートの床を激しく蹴り上げた。 火花すら散りそうな勢いである。威嚇というより、もはや宣戦布告であった。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「やれやれ、話が通じないな。それなら勝手に突っ込んで、勝手に自滅してくれればいい。私は給料分だけ走って、安全な退路を確保させてもらうよ」
ヤンは深々とため息をついた。 そして再び瞼を重く閉ざすと、目前の喧騒から完全に意識を切り離し、己の内面世界――すなわちティータイムの幻想郷へと退避した。
そのときである。
ガシャン、と重厚な磁力ハッチ――否、鉄扉が解放された。
各陣営は一斉に前進を開始する。
最初の二百メートルは十二秒一。 それは互いの出方を慎重にうかがう、戦況静観の立ち上がりであった。
だが、次の瞬間。 淀の星域に、老兵の咆哮にも似た衝撃波が走る。
ショウナンアデイブ――ビュコックが、その老躯に鞭打ち、全エネルギーを噴出させる狂気の猛加速を敢行したのである。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:(ここで一気に主導権――ハナを奪う。民主主義の意地ってやつが、まだ死に絶えていないことを証明してやるぜ!)
電光掲示板に刻まれた第二ハロンの数値は、十秒七。
それはマイル戦の常識を逸脱した、狂気じみた加速ラップであった。 最内枠という戦略的優位を最大出力で活用し、老将は強引に、そして孤独に、先頭という名の栄光を奪取したのである。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「げほっ、馬鹿な! あの老兵、自爆装置(オーバーヒート)でも作動させたか!」
跳ね上げられた土塊をまともに浴びたベラジオボンド――ビッテンフェルトが、予測不能の事態にたじろいだ。
彼の誇る突進力は空転し、進路は厚い艦壁に阻まれた。結果として、その巨体は三番手集団へと押し込められる。勇猛さはあっても、状況判断が伴わぬとき、しばしばこうした結末を迎える。
その混乱を、冷然と――あるいは無関心にやり過ごしながら、アドマイヤズーム――ヤン・ウェンリーは滑るように二番手の好位を確保していた。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:(……勝機なんてものは、相手が勝手に転ぶのを待って、その隙に拾い上げるものさ。ここがいちばん風の抵抗を受けない安全地帯でもあるしね)
呼吸ひとつ乱さず、彼は老将の背後という特等席へ、寸分の狂いもなく収まった。
他馬が急加速という名の戦費――体力を浪費していく中、彼だけは無用の摩擦を一切排除していた。 その姿は、まるで高度に完成された自動航行システムへ身を委ねているかのような、究極の省エネルギー走法であった。
一方、最内枠より発走したドラゴンブースト――第一座標のミッターマイヤーは、馬群中団、八番手付近という窮屈な座標に押し込められ、不快げに顔をしかめていた。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:(……内枠の閉塞感というものは、どうにも性に合わん。やはり戦場とは、広く、翼を広げ、風の音を聞ける場所であるべきだ)
両脇を無骨な馬体に挟まれ、自慢の超高速航行能力――トップスピードを物理的に封じられる屈辱。 疾風の狼の瞳に、苛立ちの火花が散った。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:「おい、前方の艦列! そこを退け! 私の疾風が泣いているのが聞こえんのか!」
ドラゴンブースト――ミッターマイヤーが、圧縮された熱気を吐き出すように叫ぶ。
オフトレイル【メックリンガー】:「騒々しいことですね。高尚な芸術鑑賞の妨げになります。もう少し静謐というものを保てませんか」
最後方集団を優雅に航行するオフトレイル――第二座標のメックリンガーが、流麗な足取りを崩すことなく、通信越しにたしなめた。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:「妻帯者の余裕、というやつですか。しかし貴公は、ターフという名のキャンバスにおける黄金比の構図を、まだ理解しておられないようだ」
オフトレイルは涼しい顔のまま、最後方より全軍の隊列を一枚の宗教画のごとく俯瞰していた。 その視線は静かでありながら、すでに終幕の位置まで見通しているかのようでもあった。
向正面の直線へと入り、ハロンタイムは十二秒三へと極端に緩んだ。
それは序盤に費やされた狂気的出力を補填するため、全軍が暗黙裡に結んだ一時停戦――いわゆる中弛みの時間帯であった。
先頭を行くショウナンアデイブ――ビュコックは、荒くなった呼吸を整えつつ、悠然と首を振って後続を牽制している。 老将の背には疲労がにじんでいた。だが、その姿勢にはなお崩れぬ威厳があった。
そして、その直後。 もっとも安全で、もっとも利益率の高い特等席において、アドマイヤズーム――ヤン・ウェンリーは完全なる戦術的休息(居眠りモード)へと突入していた。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「おい、魔術師! 貴様、戦場の只中で居眠りだと! ふざけるな! 開戦の礼儀というものを知らんのか!」
すぐ斜め後方の座標より、ベラジオボンド――ビッテンフェルトが鼓膜を揺さぶる怒声を浴びせた。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「……やれやれ、うるさいなあ。これも立派な戦術的休息だよ。君も無意味な咆哮でエネルギーを浪費するくらいなら、少し血圧でも下げたらどうだい?」
ヤンは重い瞼をわずかに持ち上げただけで、面倒くさそうに答えた。 ついでに尻尾という名のバラストを、気だるげにひと振りする。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「休息だと! 私の辞書にそんな軟弱な言葉はない! 我が黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)は、突撃の二文字のみで構成されている! 今すぐ貴様を粉砕してやる!」
ベラジオボンドの全身から、制御不能の破壊衝動という熱気が噴き上がった。 その勢いは大気すら歪ませ、陽炎となって周囲に立ちのぼるほどであった。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「なら、勝手に突撃(フォイヤー)すればいいじゃないか。私はもう少しここで、平和な余生に思いを馳せさせてもらうよ」
アドマイヤズーム――ヤンは再び耳を水平に伏せた。 他者の猛りを柳に風と受け流しつつ、自軍の最小損害を淡々と維持し続ける。その姿勢は消極的に見えて、実のところ最も合理的な防衛戦術であった。
だが、戦域が第三コーナーという名の重力圏へ接近するにつれ、淀みきっていた空気は再び鋭く張り詰めてゆく。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:(……このまま内殻に埋もれていては、勝利という果実には届かん。魔術師の巧妙な罠を破るには、物理法則すら無視した外周からの強襲しかない!)
ドラゴンブースト――ミッターマイヤーが、中団の艦列――馬群を縫うように進出した。 徐々に、しかし一切の迷いなく、その進路を外縁部へと転換していく。
第四コーナー――最終決戦の入口を目前に控え、一六〇〇メートルの強行軍を課された兵士たちの筋肉が、疲労と興奮の極致において激しく軋み始めた。
アドマイヤズーム――ヤンも、ついにその重い瞼を真に開いた。 視線の先にあるのは、淀のなだらかな下り坂――死の淵へと続く加速軌道である。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:(……さて。給料分のノルマをさっさと片づけて、平和な帰還の途につこうか)
第四コーナー、淀の緩やかな重力カーブ。
一六〇〇メートルの攻防は、ついにハロンタイム十一秒一という、肺胞を焼き尽くすロングスパートの死闘へと突入した。
内ラチ沿い、最短航路という名の防衛線にへばりつくようにして、ショウナンアデイブ――ビュコックがその老骨に鞭打つ。
重装甲(ブリンカー)の奥で目を血走らせ、口元から白い泡――呼気を飛ばしながら、民主主義最後の意地を賭けて、なおも先頭を守り続けていた。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:「どうだ、若造ども! 歴戦の老兵が見せる『逃げ水』は、そう簡単には飲み干せまい!」
酸素供給はすでに限界を超え、肺は焼け焦げるような激痛を訴えていた。 それでもショウナンアデイブ――ビュコックは、不敵に、そして誇り高く笑った。
その姿には、敗北を恐れぬ者だけが持つ威厳があった。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:(……そろそろ『定時退社』の準備を始めようか。これ以上の残業(オーバーワーク)は、私の人生哲学に反する)
その真横。
アドマイヤズーム――ヤンが、驚くべきことに呼吸ひとつ乱さぬまま、外殻へと並びかけた。
それは激戦の最中に行われた機動とは到底思えなかった。 あたかも散歩の途中、次の角を曲がることを思いついた――ただそれだけのような、あまりにも自然で、あまりにも無駄のない戦術的進路変更である。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「……ご老人を労わりたいのは山々なんだけどね。あいにく、ここからは私の帰宅ルートなんだ。邪魔立てはしないでほしいな」
アドマイヤズームは、面倒くさそうに耳先を揺らしながら言った。 それは挑発ではなく、勝負の終結を事務的に通達する声であった。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:「減らず口を叩く若造だ! そう簡単に航路(みち)を譲るような、腑抜けた老いぼれだと思ったか!」
ショウナンアデイブ――ビュコックが、魂の意地のみで馬体を寄せた。 最後の抵抗――白兵戦である。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「……やれやれ。年長者の意地は最大限に尊重するよ。だが、あいにく私は、これ以上ないほど早く紅茶が飲みたいんだ」
アドマイヤズーム――ヤンは涼しい顔のまま、ふわりと加速した。
そこには力みもなく、激しさすらない。 にもかかわらず、その加速は物理法則そのものを嘲笑うかのようであった。
老将の必死の抵抗は、次の瞬間、羽毛を払うように軽やかに置き去りにされた。
その背後――戦域のただ中において、破壊の権化が甲高い嘶きを上げた。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「前方(まえ)の老兵! 邪魔だ! いつまで私の射線を塞いでいる! 私に『直進』以外の軟弱な選択をさせるな!」
ベラジオボンド――ビッテンフェルトが、眼前に立ちはだかる二頭の艦壁に業を煮やし、大気を震わせる怒号を叩きつける。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:「がっはっは! 実に元気がいいな、黒色の若駒君! だが、年寄りを敬うという道徳を、士官学校では教わらなかったのかい?」
ショウナンアデイブ――ビュコックは、肺を焼く苦痛の合間を縫って笑った。 それは豪快でありながら、どこか晴れやかでもあった。死地にあってなお笑える者だけが、真の老将なのである。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「黙れ! 私の教官は『突撃』の二文字のみを叩き込み、余計な道徳など教えなかった! どかんか、この民主主義の残滓め!」
ベラジオボンドは、内殻に生じたわずかな隙間――針の穴を通すような座標を見出した。
次の瞬間、黒色槍騎兵の猛攻(シュワルツ・ランツェンレイター)が発動する。
理性も安全性もかなぐり捨て、その巨体を強引にねじ込んだのである。
最終直線。
全艦隊が最大出力を解放し、ハロンタイムは十秒八という極限の物理領域へ到達した。
各馬の筋肉は断裂寸前の悲鳴を上げ、蹄は淀の芝を削り取る。 暴力的な衝撃音が戦域に響き渡る、その只中――
大外より、物理法則そのものを否定するかのような轟風が吹き荒れた。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:(……戦域に風穴を開ける! 我が疾風の真骨頂、今ここでその目に焼き付けよ!)
ドラゴンブースト――ミッターマイヤーである。
第四コーナーという重力圏で中団まで強引に位置を押し上げた彼は、一切の障害物が存在しない絶対自由の航路――大外を選択していた。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:「私の速度(ヴェロシティ)に付いてこられる者がいるか! 疾風の狼を、この程度の包囲網で捕らえられると思うな!」
――疾風の蹂躙(ストーム・ウルフ)。
ドラゴンブーストが放つ凄まじい推進力は、前方の馬群という名の艦列を、一隻、また一隻と容赦なく呑み込んでいく。
その進撃は直線的でありながら美しく、暴力的でありながら秩序だった。 速度とは、彼にとってひとつの信仰であった。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「……やれやれ、外殻(そと)はずいぶん賑やかだね。ビッテンフェルト君、あまり怒鳴り散らすと血圧が上がって寿命を縮めるよ」
アドマイヤズーム――ヤンは、大外より迫る金色の閃光を視界の端に捉えながらも、一切の焦燥を見せなかった。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「……勝利への道というものはね、こうして無駄な力を使わず、さらりと開けるものなのさ。じゃあ、お先に失礼させてもらうよ」
彼は、もっとも低燃費にして効率的なストライドを刻んだ。 それは膨大な戦術計算の果てに導き出された、唯一最適の歩幅である。
そして次の瞬間、物理計算の果てに出現した空白の先頭へと、鮮やかに抜け出した。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「おのれ魔術師! 逃げるな、卑怯者め! 正面から我が槍(つの)で突かせろ! 戻ってこい、戦いというものを教えてやる!」
内殻を強引に突破したベラジオボンド――ビッテンフェルトが魂の咆哮を上げる。
だが、魔術師の背中は、まるで質量を持たぬ陽炎のように、するすると遠ざかっていくばかりであった。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:「……最愛の妻が家で待っているんでね。これ以上ぐずぐずと、無益な流血を続けている暇はない。一気に決着をつける!」
ドラゴンブースト――ミッターマイヤーが、さらに加速する。
上がり三ハロン三十三秒〇。 それは常識的観測の範囲を逸した、絶望的な末脚であった。
だが、アドマイヤズーム――ヤンが放ったサボるための全出力が描き出した絶対計算値には、わずか半馬身だけ届かない。
勝利は、努力の総量ではなく、投入のタイミングによって決まる。 その冷厳な現実が、そこにあった。
さらに、その熾烈を極めた戦域の遥か後方。
荒れ狂う砲火の中で、ただ一頭。 宇宙(ターフ)の余白へ優雅な軌跡を描く影があった。
オフトレイル【メックリンガー】:(……この凄惨な直線の余白に、一筋の美しい閃光を書き加え、作品を完成といたしましょう)
オフトレイル――メックリンガーが、上がり三ハロン三十二秒九という、もはや芸術の領域に達した末脚を炸裂させ、最後方より飛来した。
それは追撃というより、完成目前の画布へ最後の筆致を加える所作に近かった。
オフトレイル【メックリンガー】:「勝利も、そして敗北すらも。ターフという名のキャンバスに描かれた色彩の一つに過ぎません。……美しくない結末など、私には不要だ」
静かな呟きとともに、彼は疲弊した前方の艦列を次々と抜き去っていく。 速度に乱れはなく、姿勢に崩れもない。
そして黄金比を保ったまま、優雅に五着という画廊(掲示板)へと滑り込んだ。
先頭でゴール板――戦結点を駆け抜けたのは、アドマイヤズームであった。
周囲は、まるで歴史の転換点に立ち会ったかのような熱狂に包まれていた。 だが、当の魔術師にとっては、それはただ定時に仕事を終えたというだけの、実に退屈な事実に過ぎなかった。
レース後
検量室前には、噴き出した汗と熱気、そして極限まで神経を磨り減らした者たち特有の、濃密な疲労の匂いが満ちていた。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「ああ、脚が重い……。ユリアン、走らなくていい民主主義の国は、銀河のどこかにないものかな」
アドマイヤズーム――ヤンが、優勝馬とは思えぬほど深いため息をつき、重力に従うまま首を垂れる。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「おのれ魔術師め! なぜ我が黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)の突撃を、そうもひらりと躱す! 正面から正々堂々と受け止めんか!」
三着という屈辱を味わったベラジオボンド――ビッテンフェルトが、なおも火薬のような鼻息を荒くしながら、通信距離など意に介さぬ勢いで詰め寄ってきた。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「やれやれ。君の全力突撃を真正面から受け止めるなんて、そんな非効率なことはしたくないね。年金生活が来る前に、私の体(フレーム)が骨になってしまうよ」
アドマイヤズーム――ヤンは、物理的衝突そのものを嫌悪するかのように、心底迷惑そうな顔で一歩後ずさった。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「三着だと!? 私の旗艦(フラッグシップ)に相応しい数字は『一』のみだ! 気に入らんな……すべて黒く塗りつぶして書き換えてやろうか!」
ベラジオボンド――ビッテンフェルトは怒りのあまり、制御不能のエネルギーを爆発させた。 近くの防御柵(フェンス)へ前肢を叩きつけ、猛然と蹴り飛ばす。
敗北を受け入れる器量は、残念ながら彼の装備一覧には存在しなかった。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:「……一歩及ばず、か。私の疾風をもってしても、魔術師の張り巡らせた計略の網には届かなかったということか」
大外から空間を切り裂くように追い込んだドラゴンブースト――ミッターマイヤーが、自らの機動力の限界を知った者のように、悔しげに耳を伏せる。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:「がっはっは! 俺の尻を必死に追いかけて、外周から飛んできた疾風の坊主か。いい脚(あし)だったぜ、見直したぞ」
四着という激闘の果て、全身を淀の泥に染めたショウナンアデイブ――ビュコックが、豪快な笑いとともに声をかけた。
ドラゴンブースト【ミッターマイヤー】:「……慰めは不要だ。内枠という名の閉塞した星域は、やはり性に合わん。戦場とはもっと広く、自由な風を感じられる場所であるべきだ」
ドラゴンブースト――ミッターマイヤーは生真面目な口調で言い返し、泥にまみれたたてがみ(装甲)を鋭く振った。
ショウナンアデイブ【ビュコック】:「あーあ、腰が痛え。最後は若い連中に花を持たせてやるが……民主主義の掲示板には、しっかり爪痕を刻んでやったぜ。四着か……まあ、戦友たちと酌み交わす酒の肴には、悪くない戦だったな」
老将は、自らの全出力を使い果たしたことに満足げな笑みを浮かべた。 そして悠然と、検量室という名の退場門へ消えていく。
オフトレイル【メックリンガー】:「……前方で、品性のかけらもない怒号を上げている黒い馬が騒がしいですね。芸術鑑賞の妨げです。もう少し静粛を願えませんか」
少し離れた安全圏にて、オフトレイル――メックリンガーが涼しい顔のまま、きわめて事務的な感想を漏らしていた。
ベラジオボンド【ビッテンフェルト】:「芸術だと!? 貴様、この血みどろの戦場(ターフ)において、何を気取った寝言を抜かしているのだ!」
その言葉を耳ざとく拾ったベラジオボンド――ビッテンフェルトが、再び衝動的な怒りの矛先を向ける。
オフトレイル【メックリンガー】:「五着。……全体の構図としては悪くありませんが、もう少し黄金比を意識して差し込むべきでしたか。今後の創作活動への教訓といたしましょう」
オフトレイルは怒声など真空の彼方へ流したものとして、自らが刻んだ美しい蹄跡を、一点の曇りもない審美眼で静かに振り返っていた。
アドマイヤズーム【ヤン・ウェンリー】:「一六〇〇メートルもの距離(強行軍)を全速力で走らせるなんて、陣営による明白な虐待じゃないかな。ああ、早く帰って、ブランデーたっぷりの紅茶が飲みたいよ……」
不敗の魔術師――アドマイヤズーム(ヤン)の切実なぼやきは、熱狂の冷めやらぬ京都競馬場の空へと吸い込まれていった。
それは虚しくもあり、同時に、誰より現実的な平和への祈りでもあった。
銀河の歴史が、また一マイル……
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