第1章;開演のファンファーレと、完璧な追走
日曜日、15時45分。 鳴門の研究室に設置された巨大メインモニターには、曇天の東京競馬場、芝1800mの戦場が映し出されていた。馬場状態は「稍重」。水分を含み、じわじわと体力を削り取る泥濘(ぬかるみ)の舞台である。
神宮寺教授:「ゲートオープン。さあ、大人たちの『お掃除』が始まるわよ」 神宮寺教授がアイスティーのグラスを手に、静かに開戦を見届けた。
スタート直後、迷いなくハナを切ったのは【7番】セキトバイーストだった。 若葉:「おおっ、ウチらのヒモ穴、セキトバイーストが逃げましたね! 浜中騎手、思い切ったな!」 若葉がノートを握りしめて身を乗り出す。
その後ろ、ブラウンラチェットとテリオスララが続き、そして4番手の絶好位に、大衆が盲信する一番人気、クリストフ・ルメールの【6番】ヴァルキリーバースがピタリとつけた。
神宮寺教授:「……見てごらんなさい。ルメールのヴァルキリーバース。折り合い、ポジション、フォーム、すべてが計算され尽くした『自動人形(オートマタ)』のように完璧よ」 神宮寺教授は目を細めた。 神宮寺教授:「でも、血統のバグ【0.0.0.5】の呪いが彼女の体内で時限爆弾のように時を刻んでいるはず。私たちは、私たちの選んだ『泥を被れる大人たち』の動きに集中しましょう」
佐倉助手がリアルタイムで通過順位のログを読み上げる。 佐倉助手:「本命に据えた【15番】ルージュソリテールは中団の7番手。もう一頭の本命【8番】ニシノティアモも同じく7番手の内側。隊列は縦長ですが、最初の3ハロンは35.5秒。極端に遅くはないミドルペースです。スタミナの削り合いになるタフな流れですね」
神宮寺教授:「いいわ。西塚騎手も津村騎手も、じっと息を潜めて直線までマナ(脚)を温存している。予定通りよ」
第2章;第3コーナーの焦燥(ノイズ)
しかし、レースが3コーナーへ差し掛かったその時、研究室の空気が凍りついた。
若葉:「えっ……!? ちょっと待って、後ろから一気に上がっていく馬が……!」 若葉が画面を指差して叫んだ。
モニターの中、後方7番手にいたはずの【15番】ルージュソリテールが、馬群の大外をぶん回しながら、掟破りの猛まくりを開始したのだ。2コーナーまで先頭から離れていた彼女は、一気にテリオスララと並ぶ2番手までポジションを押し上げてしまった。
神宮寺教授:「西塚ァッ!! なぜそこで動くの!?」 神宮寺教授が思わず声を荒らげ、机を叩いた。
神宮寺教授:「稍重のタフな馬場で、大外を回して一気に5馬身以上も押し上げるなんて、完全な自殺行為よ! 現場の掃除屋が、冷静さを失って感情(ノイズ)のままに暴走してどうするの!」
佐倉も渋い顔で眼鏡を押し上げる。 佐倉助手:「早めに勝負を決めたいという焦りか、あるいは馬の行く気に逆らえなかったか……。いずれにせよ、直線での瞬発力勝負を想定していた僕たちのシナリオから、彼女の動きが完全に逸脱しました」
一方で、先頭のセキトバイーストは、後続のプレッシャーを受けながらも単独先頭をキープし、淡々と自分のリズムを刻み続けていた。
若葉:「アカン……これ、ルージュソリテールは直線の入り口でガス欠になるパターンちゃいますの!?」 若葉の悲鳴と共に、馬群は最後の長い直線へと雪崩れ込んでいった。
第3章;崩落する王子様と、ひらがな達の反逆
神宮寺教授:「直線よ! さあ、中身の空っぽな自動人形が崩れ落ちる時間だわ!」 神宮寺教授が祈るようにモニターを見つめる。
その言葉通り、絶好の4番手から抜け出しにかかったヴァルキリーバースの脚色が、残り400mでピタリと止まった。ルメールの懸命のムチにも反応しない。
佐倉助手:「ヴァルキリーバース、伸びません! やはり母父ハーツクライ×東京1800mの呪いは生きていました!」 佐倉が実況する。 神宮寺教授:「血統のバグが、彼女の知性(スタミナ)を奪ったのよ!」
だが、神宮寺の歓喜はそこまでだった。 暴走気味に捲ったルージュソリテールも、直線の急坂で完全に脚が止まり、ズルズルと後退していく。もう一頭の本命ニシノティアモも、馬群の中で進路を見出せず、7番手からピクリとも動けない。
神宮寺教授:「嘘でしょう……私たちの掃除屋たちが、揃いも揃って泥に足を取られている……!?」
先頭で粘るセキトバイースト。そこへ襲い掛かってきたのは、大衆の死角どころか、神宮寺の演算の遥か外側から飛んできた「伏兵」たちだった。
佐倉助手:「内側から【2番】ウイントワイライト! さらにその後ろから【4番】ミアネーロが突っ込んでくる!」
神宮寺教授:「ミアネーロ……!?」 神宮寺教授の顔から血の気が引いた。
神宮寺教授:「私が第1章で、『過去の実績という漢字を剥ぎ取られた、中身の空っぽなガラス玉』だと一刀両断にカットしたミアネーロ……!? なぜ彼女が、直線の急坂をあんな力強い足取りで駆け上がってくるのよ!」
ゴール板を真っ先に駆け抜けたのは、終始ハナを譲らず、自分のペースを守り切った逃げ馬セキトバイースト(5番人気)。 2着には後方のインベタで一切のロスを省いたウイントワイライト(9番人気)。 そして3着には、神宮寺が完全に切り捨てたミアネーロ(14番人気)が滑り込んだ。
【14着】ヴァルキリーバース 【10着】ニシノティアモ 【12着】ルージュソリテール
神宮寺教授:「……終わったわ。私たちのストラクチャは、木っ端微塵に焼き切られたわ」
第4章;焼け焦げたストラクチャと、泥臭い教訓
レース終了後、研究室には重い沈黙が流れていた。 若葉が両手で顔を覆い、机に突っ伏している。
若葉:「こんなん……当てるの絶対無理ですやん! 1番人気飛んで、逃げ馬残って、内から大穴2頭って! 難易度SSS級どころか、エラー発生で強制ログアウト食らった気分ですわ!」
佐倉助手が、冷静にハロンタイムと進路の解析ログをモニターに映し出した。 佐倉助手:「前半3ハロン35.5秒、中盤4ハロンが46.4秒の淀みないミドルペース。ラスト2ハロンが『11.6→12.0』と落ち込んでいることからも、稍重特有の完全な『持続力とスタミナの消耗戦』でしたね」
佐倉はキーボードを叩き、進路取りの有利不利をハイライトした。 佐倉助手:「勝敗を分けたのは、明白な『進路取りのパラドックス』です。早めに外を回して動いたルージュソリテールやテリオスララは、道中で脚を使い果たし惨敗。逆に、内でジッと息を潜め、ポジション争いに一切のマナを消費しなかったウイントワイライトとミアネーロが、最後に空いたインコースを強襲した。大衆が外に目を奪われている間に、最もロスのない『最短距離』を走った者だけが生き残るサバイバルでした」
神宮寺教授は深くため息をつき、自らの引いた「カット」の斜線を指先でなぞった。
神宮寺教授:「……私の完敗よ。 ルメールの自動人形(ヴァルキリーバース)が崩落することまでは読めていた。けれど、私が『泥を被る』と期待した大人たち(本命馬)は、現場の焦燥と重馬場の負荷に耐えきれず、自分から自滅してしまった」
教授は、3着に入ったミアネーロの馬名を見つめる。
神宮寺教授:「そして何より、私が『ひらがな以下のすっからかん』だと嘲笑い、忘却パッチを当てたはずのミアネーロが、内でじっと力を溜め、直線で見事に反逆してきた。……ルイが、ひらがなだらけの手帳を握りしめながらも、ナギやレイガの優しさに触れて『頼れる人ができたかもしれない』と僅かな希望を見出したように。 過去のデータが空っぽでも、彼らは『今』を懸命に走っている生きた命(バイタル)だったのよ」
若葉が顔を上げ、涙目で笑った。 若葉:「せやから競馬はオモロくて、残酷なんですよね。ウチらの計算なんか、ゲートが開いたら全部馬と騎手の『リアルな感情』で上書きされちゃうんですから」
神宮寺教授:「ええ。だからこそ、私たちはまた一からログを拾い集めるのよ」 神宮寺教授は、外れた馬券のデータをモニターのゴミ箱へとスワイプし、新たなホワイトボードに向き直った。
神宮寺教授:「大荒れの夏競馬。私たちの理論が通じない泥濘の迷宮だからこそ、ハックする価値がある。次は絶対に、大衆もろともこの不条理なシステムをひっくり返してやるわ。 ……さあ、反省会はここまでよ。次の譜面(スコア)の準備に取り掛かりなさい!」
茜色の夕暮れが夜の闇へと溶けていく中、3人のアナリストたちは、傷だらけのストラクチャを抱えながら、次なる戦いへと密かに闘志を燃やしていた。
(秘密講義 ライブ・セッション;府中牝馬ステークス編・完)
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