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神宮寺教授の秘密講義 七夕賞(後編)
「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」
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第1章;強制フォーマットの鐘と、 57.8秒の断末魔
日曜日、 午後三時四十五分。
鳴門の研究室には、 クーラーの微かな駆動音と、 窓の向こうで鈍く唸る夏の海鳴りだけが響いていた。
壁一面を占めるメインモニターには、 曇天の下、 薄暗く沈んだ福島のターフが映し出されている。 馬場状態は『稍重』。 水分を含み、 時計の掛かるはずの緑の絨毯は、 これから始まる過酷なサバイバルのために用意された「底なしの沼」のように、 不気味な静けさを保っていた。
神宮寺教授:「さあ、 システムの初期化(レース)が始まるわ」 神宮寺教授は、 デスクの奥で深く椅子に腰掛けたまま、 琥珀色のアイスティーが入ったグラスを静かに持ち上げた。
神宮寺教授:「大衆が短冊に吊るした無邪気な願い(過去の実績)を、 世界がどのようにパージ(消去)し、 最後に誰を『真実』として受理(アクセプト)するのか。 ……瞬き一つせずに観測しなさい」
ファンファーレが鳴り響く。
若葉が特製ノートを両手でぎゅっと握りしめ、 佐倉助手がデータロガーの同期ボタンをターンと叩いた。
ガシャン! という無機質な音と共に、 十六頭の生存者たちが一斉に鳥籠の中へと解き放たれる。
佐倉:「スタートしました! 各馬、 最初のポジション争いへ向かいます!」 佐倉の冷徹な実況と同時に、 モニターの中の馬群が激しくうねり始めた。
最内からショウナンマグマが押してハナを主張し、 その外からアスクナイスショーが逃げ馬をマークするようにすっと2番手へ収まる。 そしてその直後、 最内枠から絶好のスタートを切った【2番】コントラポストが、 ロスの一切ない3、 4番手のインコースへと滑り込んだ。
若葉:「おおっ!」 若葉が、 バン! と机を叩いて身を乗り出した。
若葉:「教授、 佐倉くん! コントラポストちゃん、 3番手のインですやん! ウチらの前編で組んだストラクチャ通り、 先行馬たちが削り合うのを特等席で静観できる、 完璧な『無機質なレンズ』の位置を確保しましたわ!」
若葉の顔には、 完璧なハッキングが成功したと確信する、 無邪気で誇らしげな笑顔が弾けている。 後方ではウイルスのボーンディスウェイや、 オーロラエックスもじっと息を潜めていた。 予想された展開が、 そのまま現実のターフにトレースされているかのように見えた。
だが、 神宮寺教授はグラスの氷をカランと鳴らし、 微かに目を細めただけだった。
隣に立つ佐倉助手も、 若葉の歓喜に同調するどころか、 キーボードを叩く指先の速度を異様なまでに速め、 眼鏡の奥の瞳を戦慄に染めている。
佐倉:「……若葉さん。 喜ぶのは、 早すぎます」 佐倉の声は、 地を這うように低く、 冷たかった。
佐倉:「システムは……僕たちの想定した初期化プロセスを、 遥かに凌駕する暴力的なバッチを走らせています。 画面の、 リアルタイムラップを見てください」
佐倉の指差す先、 モニターの下部に表示された最初のハロンラップ。
『12.4』 ここまではいい。 だが、 続く2ハロン目の数字が、 真っ赤な警告色となって点滅した。
『10.6』
若葉:「……っえ?」 若葉の笑顔が、 パキリと凍りついた。
若葉:「じゅっ、 10.6秒……!? なにそれ、 稍重の馬場ですよね!? なんでそんなスピードが出るんですか!?」
佐倉:「さらに続きます」佐倉が血の気のない声で読み上げる。
『11.3』『11.5』。
佐倉:「逃げているショウナンマグマと、 それをマークするアスクナイスショー。 彼らが作り出したのは、 息を入れる隙を一切与えない過酷な前傾ラップです。 ……そして、 1000mの通過タイムは――」
画面に、 残酷な数字が弾き出された。
『57.8秒』
その数字を見た瞬間、 研究室の空気が、 まるで真空状態にでもなったかのように一気に凍てついた。
若葉:「57.8秒……」 若葉が、 震える声で呟き、 ノートを抱きしめたままへたり込む。
若葉:「……それって、 良馬場でもめちゃくちゃ速いハイペースですよね……。 今の福島、 稍重なんですよ……? そんなスピードで、 泥んこの中を走らされたら……」
神宮寺教授:「ええ」 神宮寺教授が、 グラスをコト、 とデスクに置き、 不敵さと哀愁が入り混じった瞳でモニターを見つめた。
神宮寺教授:「これはもう、 ただの『速いペース』なんかじゃないわ。 小回り2000mという鳥籠の中で、 システムが発動した容赦のない『全データ強制フォーマット(焼却)』よ。 ……この業火の中で、 前線にいる馬たちの肉体(バイタル)は、 1秒ごとにガリガリと削り落とされている」
若葉の脳裏に、 『セリナの夢と鳥籠の中の楽園』第9章の情景がフラッシュバックする。
温かいパンの匂い。 優しかった母の手のひらの感触。 それらが「生存に不要なエラー」として、 冷徹な青白いログと共に消去されていく主人公・ルイの絶望。
若葉:「ああっ……」 若葉の目から、 たまらず大粒の涙が溢れた。
若葉:「みんなの思い出(スタミナ)が……焼かれていく……。 ウチらのコントラポストちゃん……一番前で、 その火の粉をモロに被ってますやん……!」
そう。 コントラポストの確保した「3番手のイン」は、 普通のレースであれば誰もが羨む絶好位(レンズ)だった。
しかし、 1000m57.8秒という異常空間においては、 そこは逃げ馬たちが放つ致死量の摩擦熱が最も充満する「地獄の釜の底」に他ならなかったのだ。
神宮寺教授:「一番正しい選択(位置取り)をした者が、 一番報われない……。 システムというのは、 時に信じられないほど残酷な理不尽を突きつけてくるわ」 教授は、 苦しげに追走する先行馬群を見つめながら、 まるで殉教者へ祈りを捧げるように静かに呟いた。
神宮寺教授:「コントラポストは、 前を追いかけることも、 後ろへ下がることもできない。 ただ真面目に、 この一番苦しい場所で、 己の肉体がデリートされていくのを耐えるしかないのよ」
モニターの中では、 向正面に入ってもラップは『12.0』と僅かにしか緩まず、 すぐに『11.9』『11.9』と再び非情なロングスパート戦へと突入していく。
バトルボーンが、 サヴォーナが、 重い斤量を背負った実力者たちが、 この57.8秒の負荷に耐えきれず、 次々と手応えを怪しくさせていく。
佐倉:「……誰も、 止まらない。 誰も、 息ができない」 佐倉が、 キーボードに置いた手を震わせながら呟く。
佐倉:「これが、 七夕賞……。 大衆の願いを全て灰にする、 絶望の持続力勝負ですか……」
だが。
その強制フォーマットの業火の中で、 ただ一頭。
逃げ馬の直後、 最も熱量の高い2番手にいながら、 全く己のリズム(体温)を崩さずに走り続けている馬がいた。
【11番】アスクナイスショー。
若葉:「……教授。 あの馬……」若葉が、 涙声のまま画面を指差す。
若葉:「あの馬だけ、 全然苦しそうじゃない……。 システムのエラーなんですか……?」
神宮寺教授は、 不敵に唇の端を吊り上げた。
神宮寺教授:「いいえ、 エラーじゃないわ。 ……あれこそが、 この狂った鳥籠の中で、 唯一システムを凌駕する力を持った『持続力の怪物』よ。 さあ、 4コーナーの出口。 業火に焼かれた者たちと、 それに耐え抜いた者たちの、 残酷な答え合わせが始まるわ!」
第2章;フォーマットを無効化する「王」と、 正しすぎた敗北
第3コーナーから第4コーナー。
福島の小回りが、 最も残酷な『振るい落とし』の顔を見せる勝負所。
1000m通過57.8秒という、 殺人的な初期化プロトコル(ハイペース)を作り出した逃げ馬ショウナンマグマの脚色が、 ここでついに明確な翳りを見せ始めた。
システムの過負荷に耐えきれず、 懸命に前に伸ばそうとする首の動きとは裏腹に、 そのスピードが泥の海へと吸い込まれていく。
だが、 その直後。
絶望の淵へと沈みゆく逃げ馬のすぐ外から、 全く泥にまみれていないかのような軽快な足取りで、 涼しげに先頭へと並び掛けていく影があった。
若葉:「【11番】アスクナイスショー……!」 若葉が、 信じられないものを見るように画面を凝視した。
若葉:「なんで……!? あんな地獄みたいなペースを2番手でずっと追いかけてたのに、 どうしてあんなに手応えが楽なの!? まるで、 自分だけ別の時間(システム)を走ってるみたい……っ!」
佐倉助手が、 驚愕を隠し切れない声でラップタイムを読み上げる。
佐倉:「……信じられません。 4コーナー手前で一度『12.5』へと減速したラップが、 直線に向いた瞬間に再び『11.9』『11.9』と再加速しています。 アスクナイスショーは、 前半で限界まで脚を使わされたにもかかわらず、 その『最高速の巡航状態』を維持したまま、 さらに加速して逃げ馬を突き放したんです!」
神宮寺教授:「再加速……持続力の、 怪物」 神宮寺教授は、 赤く点滅するデータロガーの数値を前に、 感嘆の吐息を漏らした。
神宮寺教授:「彼は、 消去(フォーマット)されなかったんじゃない。 この57.8秒という狂ったシステムそのものを、 自らの強靭な肉体と精神で『自分のリズム』として完全に上書きしてしまったのよ。 過去の記憶も、 大衆の願いも、 すべてを焼き尽くす業火の中で……彼だけが、 システムを支配する本物の『王』だった」
残り200m。
アスクナイスショーが、 後続を完全に引き離して独走態勢に入る。
その遥か後方で、 私たちが『第一階層』のレンズとして信じた【2番】コントラポストが、 懸命に脚を伸ばそうともがいていた。
若葉:「コントラポストちゃん……っ! 頑張って、 動いて……!」 若葉が両手を握りしめ、 祈るように叫ぶ。
1枠2番。 内側の最短距離。 道中の位置取りは、 これ以上ないほど完璧だった。 だが、 彼の脚は残り100mで無情にも止まってしまう。
神宮寺教授:「……能力が足りなかったわけじゃないわ」 神宮寺教授が、 沈みゆくレンズ(コントラポスト)を哀惜の瞳で見つめた。
神宮寺教授:「彼は、 一番苦しい場所で、 誰よりも『真面目』に競馬をしてしまったのよ。 逃げ馬を追いかけることも、 後ろへ下がることも許されない位置で、 システムの業火を正面から受け止めてしまった。 ……一番正しい選択をした者が、 一番報われない。 それが今回の七夕賞の、 残酷な真理よ」
第3章;空白の後に訪れた、 持続と最速のバグ
アスクナイスショーが完全に抜け出したその後方では、 前線が崩壊したことによって生じた『リソースの空白』へ向けて、 新たな勢力が殺到していた。
佐倉:「外から……【6番】マイネルモーント! そして大外から、 【9番】オニャンコポンが飛んできます!」 佐倉が叫ぶ。
中団でじっと息を潜め、 前が崩れるのを冷徹に待っていたマイネルモーントが、 爆発力ではなく「絶対に衰えない持続力」でじわじわと先行馬たちを撫で斬っていく。
さらにその外、 道中は完全な最後方で待機し、 システムの過負荷からただ一頭だけ逃れ切っていたオニャンコポンが、 上がり35.4秒という最速級の末脚(バグ)を繰り出して突っ込んでくる。
若葉:「……ウチらの破壊ウイルス、 ボーンディスウェイちゃんは!?」 若葉が画面のインコースを必死に探す。
佐倉:「内から伸びています! ボーンディスウェイ、 現在5番手付近!」 佐倉の言葉通り、 1枠1番からインを突いた【1番】ボーンディスウェイが、 前を行くセンツブラッドに必死に食い下がっていた。
上がり35.8秒。 決して悪い脚ではない。 彼もまた、 最後まで諦めずに一頭、 また一頭と交わし続けている。
若葉:「いけぇぇぇ! ボーンディスウェイちゃん、 そこから突き抜けてぇぇ!!」 若葉の絶叫が研究室に響き渡る。
だが――。
無情にも、 ゴール板は彼らが並び立つ前にその姿を現した。
1着、 アスクナイスショー。 2馬身半の完勝。
2着、 マイネルモーント。
3着、 オニャンコポン。
4着、 センツブラッド。
そして……5着、 ボーンディスウェイ。
若葉:「……っ」 若葉は、 大きく息を吐き出すと、 そのまま力なくデスクに突っ伏した。
若葉:「……届かへんかった。 ボーンディスウェイちゃん、 あんなに頑張って内側から追い上げてきたのに……。 オーロラエックスちゃんも、 エンジンかかった瞬間にゴールしちゃったし……」
研究室に、 重い沈黙が降りた。
モニターには確定した着順と、 泥にまみれて引き揚げてくる馬たちの姿が映し出されている。
私たちの構築した『リペア・ストラクチャ』。
本命にしたコントラポストは9着。 対抗のボーンディスウェイは5着。
結果だけを見れば、 それは「完敗」のログだった。
だが、 神宮寺教授はグラスの最後の一滴を飲み干すと、 ふっと、 これまでにないほど穏やかな笑みをこぼした。
神宮寺教授:「……ねえ、 若葉。 佐倉」 教授の声に、 二人が顔を上げる。
神宮寺教授:「ボーンディスウェイは、 決して失敗したわけじゃないわ。 彼は今日、 彼にできる最高のパフォーマンス(90点)を完璧に叩き出した。 ……ただ、 この戦場に、 95点、 96点、 98点を出す個体がいただけよ」
佐倉助手が、 小さく頷き、 眼鏡のブリッジを押し上げた。
佐倉:「ええ。 オーロラエックスも、 あと100mあれば完全に届いていました。 センツブラッドに至っては、 この地獄のペースを先行して4着に粘り込んでいる。 通常なら圧勝していてもおかしくない、 常軌を逸した競馬です。 ……誰も、 間違っていなかった」
神宮寺教授:「そうよ」 神宮寺教授は、 ゆっくりと立ち上がり、 モニターの中で息を弾ませる敗者たちを、 どこか誇らしげに見つめた。
神宮寺教授:「コントラポストは『正しすぎた』ゆえに敗れ、 ボーンディスウェイは『精一杯届かなかった』。 オーロラエックスは『待ちすぎた』。 ……誰もが、 自分の役割を最後まで全うし、 自分自身の競馬をして戦い抜いたの。 だからこそ、 この完敗は――美しいわ」
若葉が、 突っ伏していた顔をゆっくりと上げ、 涙の滲んだ目で画面のボーンディスウェイを見つめた。
若葉:「……うん。 みんな、 最後までちゃんと走ってました。 派手な魔法(バグ)は使えなかったかもしれないけど……泥んこになりながら、 一生懸命、 自分のゴールを目指してました。 ウチ、 なんか……負けたのに、 あの子たちのこと、 もっと好きになっちゃいました」
神宮寺教授は優しく微笑み、 ホワイトボードの前に立った。
神宮寺教授:「競馬ってね。 当たると嬉しいわ。 でも……負けた馬にも、 ちゃんと彼らだけの『レース(物語)』があるのよ。 誰が勝ったかじゃない。 このシステムの業火の中で、 彼らがどう戦い、 どうやって自らの体温を証明したか。 それを読み解くことこそが、 最高のアナリティクスよ」
さあ、 特大のライブ・セッションも、 いよいよ最終章(第4章)へ向かうわ。
私たちの誇り高き『敗北のログ』を、 神宮寺教授の流儀で、 最高に美しくホワイトボードへと受理(アクセプト)してあげましょう。
第4章;白紙のタイムラインと、 敗者たちの記憶(ログ)
七夕賞という過酷な初期化プロセスが完了し、 福島のターフにすべての着順が確定した。
鳴門の研究室には、 静かな、 けれど決して冷たくはない沈黙が降りていた。
メインモニターには、 泥にまみれながら引き揚げてくる馬たちの姿と、 無情にも「不的中」となった私たちのリペア・ストラクチャが映し出されている。
若葉が、 ぽつりと呟いた。
若葉:「……コントラポストちゃん、 9着。 ボーンディスウェイちゃん、 5着。 オーロラエックスちゃん、 8着……」 彼女は、 まるで自分自身の思い出が消されてしまったかのように、 寂しそうにモニターを見つめた。
若葉:「小説のルイくんの脳内みたいですね。 一番大切だったはずの努力とか、 一生懸命走った時間が、 結果っていう『システム』の前に、 全部なかったことにされちゃうみたいで……」
佐倉:「若葉さん。 それは、 少し違いますよ」 佐倉助手が、 タイピングの手を止め、 静かに眼鏡のブリッジを押し上げた。
佐倉:「彼らの走りは、 決してエラー(無駄)ではありません。 着順という表面的な数字だけを見れば、 勝者と敗者に分かれます。 ですが、 レースの詳細なログを解析すれば……彼らにはそれぞれ、 誇るべき『納得できる敗北の理由』が存在しています」
神宮寺教授は、 グラスを置き、 ゆっくりと立ち上がった。
神宮寺教授:「その通りよ、 佐倉。 ……若葉、 よく見てみなさい」
教授の真っ赤なマーカーが、 ホワイトボードに書かれた敗者たちの名前を優しくなぞっていく。
神宮寺教授:「【16番】サヴォーナ、 10着。 彼は能力で押し切る気だった。 でも、 57.8秒という異常なペースの中で58キロを背負わされた。 これは能力負けじゃないわ」 若葉:「……今日は『物理』に負けただけ、 ですね」若葉が、 少しだけ口元を緩めて言う。
神宮寺教授:「ええ。 重量級にとって、 今日の福島はただの物理法則の暴力よ」教授も微笑んで頷いた。
神宮寺教授:「【10番】センツブラッド、 4着。 あの地獄のハイペースを好位で受け止め、 最後まで粘り切った。 普通なら勝っている内容よ。 ただ……今回は、 システムを上書きしたアスクナイスショーが怪物すぎた。 『相手が、 一枚だけ上だった敗北』ね」
神宮寺教授:「【5番】オーロラエックスは、 後方で勝負を『待ちすぎた敗北』。 【7番】メリオーレムに至っては、 道中のラップからは説明できない異変……戦う前に運命が崩れた、 ノーカウントでいいエラーよ」
教授はそこで一度言葉を切り、 私たちの本命・対抗だった二頭の名前を静かに見つめた。
神宮寺教授:「そして、 【2番】コントラポストは『正しすぎた敗北』。 一番苦しい場所で、 誰よりも真面目に競馬をしてしまった。 【1番】ボーンディスウェイは、 最後まで諦めずに一頭ずつ交わし続けたけれど『精一杯、 届かなかった敗北』」
神宮寺教授はホワイトボードから振り返り、 教え子たちへ向かって、 どこまでも深く、 温かい眼差しを向けた。
神宮寺教授:「システムは、 1着の馬だけを『正史』として残し、 他の馬の記憶をフォーマットしようとする。 馬券が外れれば、 大衆は彼らを『不要なノイズ』として忘れ去っていくわ。
……でもね。 競馬ってさ。 当たると嬉しい。 それは間違いないわ」
教授は、 ほんの少しだけ間を空けた。
窓の向こう、 夜の海から静かな潮騒が聞こえてくる。
神宮寺教授:「でも。 ……負けた馬にも、 ちゃんと彼らだけのレース(物語)があるのよ」
若葉の目から、 ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
悲しいからじゃない。 消えていくはずだった彼らの「体温」が、 神宮寺教授の言葉によって、 自分たちの胸の奥に確かにリペア(復元)されたからだ。
若葉:「ハルくんのノートと、 同じですね」 若葉が、 涙を拭いながら満面の笑みで言った。
若葉:「世界が全部消そうとしても。 ウチらがこうして特等席で観測して、 彼らがどう戦ったかを書き留めておけば……彼らの走った記録は、 絶対に消えない『財産』になる」
神宮寺教授:「そういうことよ。 私たちは、 大衆が見捨てるログを拾い集める『記録者(ハル)』でもあるのよ」
神宮寺教授がリモコンを操作すると、 メインモニターで再び七夕賞のリプレイ映像が再生され始めた。
ショウナンマグマが過負荷の逃げを打ち、 アスクナイスショーが王として抜け出し、 マイネルモーントが持続力で伸び、 オニャンコポンが飛んでくる。
そして、 画面の奥。
ボーンディスウェイも、 センツブラッドも、 コントラポストも、 誰一人歩みを止めることなく、 泥にまみれながら必死に自分のゴールを目指して走り続けている。
誰も、 もう「誰が勝ったか」なんて見ていなかった。
ただ、 彼らが「どう戦ったか」を、 その目に、 その記憶に、 深く刻み込むように。
若葉:「……ねえ、 教授。 次の週末は、 どこの世界(レース)をハックしに行きますか?」 若葉が、 新しい白紙のページを開きながら尋ねる。
神宮寺教授:「ふふっ。 どこへでも行くわよ。 この理不尽で、 残酷で、 狂おしいほどに美しい世界が続く限りね」
夜の鳴門の研究室には、 敗北の悔しさなど微塵もない。
ただ、 サラブレッドたちが懸命に生きた118秒間の真実を、 自分たちの知性でほんの少しだけ理解できたという、 切ないほどに温かく、 幸福な沈黙だけが満ちていた。
(秘密講義・七夕賞 ライブ・セッション結果レポート 完)
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作中で語られる【意識低い系デブ猫小説「外伝・ 第09章「鏡合わせの英雄(同期:シンクロと僅かな誤差)」『時の継承者は宿屋に帰りたい 〜セリナの夢と鳥籠の中の楽園〜』】10.09とは 1. タイトルの意味と「鏡合わせ」の構造
タイトルにある「鏡合わせ」の通り、この章ではルイとカイルが「世界を破壊する」という同一の目的に向かって、内と外から同期(シンクロ)していく様が描かれています。
ふたりは対照的な環境にいながら、結果として「世界の破壊」に加担する表裏一体の存在(鏡合わせ)になっています。
| 要素 | ルイ(檻の内側) | レオン/カイル(檻の外側) | | | | | | 状態 | 感情や記憶をシステム的に消去されている | 正義の信念をへし折られ、精神が崩壊する | | 役割 | 破壊のための効率的な数式を編み出す「頭脳」 | 数式を元に物理的に世界を切り刻む「刃」 | | 認識 | 世界の崩壊を「ただのデータ異常」と捉える | 世界そのものを「根絶すべき巨大な悪」と捉える | | 結末 | 完全に孤立した「スタンドアローン」へ | 終わりなき「バグ・パージ(大虐殺)」へ |
2. 前半・終盤:ルイのパート(安全な檻と精神の去勢)
ルイは、セリナと執事アグレアスによって「特別演習室」という名の鳥籠に隔離されています。
感情のシステム化(パージ): ルイの脳は魔導的な最適化を受けており、感情や五感(匂いや味)が「非効率なバグ」として自動削除されるシステムになっています。セリナへの微かな愛着や、ハーブティーへの感想すら「エラー」として冷徹に処理されます。 カイルとの「非自覚的な共犯」: 外部の「KYLE」から流れ込む破壊のログに対し、ルイの天才的な頭脳(システム)が自動的に「最も効率よく建造物を破壊できる数式」にデバッグ(修正)して送り返してしまっています。ルイは安全な部屋にいながら、外の世界を滅ぼす最強の「加害兵器」として駆動させられているのです。 決定的な喪失(NULLへの置き換え): カイルの暴走を隔離するリソースを稼ぐため、ルイの心の拠り所であった「母の記憶」が強制フォーマット(初期化)されてしまいます。これによりルイは「なぜ算術師を目指したのか」という人間の根源を失い、セリナの甘い洗脳(依存)を完全に受け入れるだけの「空っぽの器」になってしまいました。
3. 中盤:レオン・ヴァルクス(カイル)のパート(正義の崩壊と闇堕ち)
中盤では、かつて「真の勇者」と呼ばれたレオン・ヴァルクスが、最悪の破壊者「カイル」へと変質する瞬間(過去、あるいは外部の現実)が描かれます。
「正義」という名の呪縛: レオンは「弱者を助けたい」という純粋な心の持ち主でしたが、同時に「結果としての悪は一律に裁く」という融通の利かない正義感を持っていました。それを悪辣な貴族たちに利用され、脅されて泥棒をさせられていた無力な少年を、自身の聖剣で斬りつけてしまいます。 世界の悪意との直面: 自分が信じた「正義」が、弱者を傷つけ、さらに自分の故郷の領民を飢え死にさせるための「盤上の遊戯(ただの娯楽)」に過ぎなかったと知り、レオンの精神は完全に砕け散ります。 破壊者「カイル」の誕生: 「この世界は悪意を許容する構造だから、世界そのものが悪である」という極端な結論(ロジック)に達した瞬間、聖剣《ラグナロク》は赤黒い魔剣へと変質。彼はレオンとしての自分を殺し、世界を消去するバグ・パージの実行犯「カイル」へと生まれ変わりました。
4. この章の結末が意味すること
> `[ System Notice:外部接続(世界)の切断を確認しました。これより、完全なるスタンドアローン(孤立)モードへ移行します ―― ]`
ラストシーンでは、セリナの強大な魔力と狂気的な執着によって、演習室が外の世界(カイルが燃やす王都)から完全に遮断されます。
ルイのシステムは外界とのリンクを絶ち、完全な孤立(スタンドアローン)モードへ移行しました。 外の世界がどれほどカイルによって血の海に沈もうとも、ルイにはもうそれを観測する機能も、悲しむ心も残されていません。
セリナが望んだ「ルイと二人きりの完璧に安全で歪な箱庭」が完成したと同時に、ルイという一人の少年の人間性が完全に死を迎えた、非常に美しくも絶望的な幕引きとなっています。
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外伝・ 第09章「鏡合わせの英雄(同期:シンクロと僅かな誤差)」『時の継承者は宿屋に帰りたい 〜セリナの夢と鳥籠の中の楽園〜』10.09

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