――ゴォォォォォォン。
第三の鐘が、白亜の神殿全体を重々しく震わせた。澄み切った鐘の音は天井高く張り巡らされた魔法回路を伝い、この世界そのものの理へと深く刻み込まれていく。王国の根幹に組み込まれた絶対的なシステム権限。それは儀式の進行を強制的に推し進める、最上位の管理命令だ。

重厚な残響が引き絞られるのと、同時だった。
わたくしの視界を埋め尽くしていた無数の魔法陣から、一斉に白銀の光彩が弾けた。〈WAIT〉。わたくしの構築した術式に深く食い込んでいた改竄記述が、音もなく霧散していく。標的拘束。空間封鎖。明滅を繰り返し、不快なエラーを吐き続けていたすべての魔法回路が、本来あるべき整然とした数式の列へと強制回帰していくのが見えた。

「……強制解除されましたか」

わたくしは静かに、張り詰めた息を吐き出した。やはり、あの侵略者は自らの命の秒針を削り、力ずくで改竄状態を維持し続けていたのだ。しかし、第三鐘による上位権限がその異常なループを上書きし、システムを初期化させた。そう冷徹に結論付け――
わたくしは、そこでふと思考の歯車を止めた。
(……いいえ)
何かが、違う。
ゆっくりと視線を下ろしていく。焦げ付いた沸騰インクの臭いが漂う石畳の向こう。血を吐き、床に膝を突きながら、肩で荒く息を繰り返している少年。侵略者――ルイ。彼は、微動だにしていない。新たな命令の追記も、新たな術式の構築も、何一つ発動しようとはしていなかった。

(……おかしいですね)
もし、本当に彼が自らの魔力で術式を『維持』していたのだとしたら。第三鐘によって強制初期化された今の瞬間こそ、再び記述を書き換える最大の好機であるはず。彼の解析眼には、わたくしの魔法陣の侵入口がすでに見えている。ならばなぜ、もう一度〈WAIT〉を書き込もうとしない。
わたくしの脳細胞が、急速な演算を開始する。

解除された術式。第三鐘。管理権限。維持魔法。一文字の改竄。
違う。違う。違う。
わたくしの前提が、最初から根本的に間違っていた。
「まさか……」
胸の奥底で、数百年ぶりに小さな鼓動が跳ねた。
彼は、自らの魔力で術式を維持していたのではない。術式へと改竄命令を能動的に発信し続けていたのでもない。術式が絶対的に従うべき――この世界の『仕様』そのものを、たった一文字の記述によって、根底から書き換えていたのだ。
だから術者の魔力など不要。だから拘束を維持するための演算も必要ない。一度だけ書き換えられた理は、自らを「待機せよ」という大いなる矛盾へ叩き込み、自律的にその命令を繰り返す。永久循環。自己完結した完全なる回路。術者である彼が意識を失おうとも、半永久的に回り続ける狂った時計の歯車。第三鐘という、さらに上位の絶対的な管理権限が直接介入しない限り、何者にも解除できない最悪の改変。
「……そう、でしたか」

わたくしはぽつりと小さく呟いた。その声音には、怒りも焦りも混じらない。去来するのはただ一つ。わたくしすら知り得なかった『世界の深淵』へと、一足飛びに辿り着いた天才への、純粋なまでの敬意。
魔法とは。ただ術式を美しく構築する技術ではない。術式が従うべき法則を正しく理解する学問でもない。その普遍なる法則さえも、己の泥臭い意志によって都合よく書き換える。そんな冒涜的な発想は、悠久の時をただ正しく生きてきたわたくしでさえ、ただの一度も思考の埒外にすら置いたことがなかった。

ゆっくりと、彼を見下ろす視線を落としていく。

ルイはなおも硬質な床に膝を突き、苦しげに肩を上下させている。その額から滴るおびただしい汗。微かに震える指先。血を吐くような呼吸。あれは魔力切れなどではない。維持魔法による精神の消耗でもない。世界の理を強引にこじ開けるという、本来ならば人間に許されざる神の領域へ手を伸ばした――その絶大な代償が、彼の肉体を内側から焼き切っているのだ。
(だから……、一歩も動けなかったのですね)

わたくしは、ようやくすべての辻褄を理解した。彼はただ時間を稼いでいたのではない。初めから、その命そのものを薪のように焚べていたのだ。
その真実に辿り着いた瞬間。胸の奥の凍てついた領域に、これまで経験したことのない奇妙な熱が芽生える。
もし。この侵略者が、ここで燃え尽きることなく、さらにこの先へと辿り着くのだとしたら。わたくしすら見通せない未知の理へ、いつか到達する日が来るのではないか。
『未来』という不確定な言葉が、ほんの一瞬だけ、わたくしの完璧な演算の隙間を不条理に揺るがした。
しかし。わたくしは、今一度静かに瞼を閉じた。
その未来を見届けることは、わたくしの背負うべき役目ではない。わたくしには絶対の使命がある。神との契約を違わず守ること。儀式を最果てまで完遂させ、この王国の停滞した平穏を永遠に維持し続けること。それだけが、存在理由。
「……申し訳ありません」

誰に宛てた謝罪なのか。自分でも判然としないまま、わたくしは右手を厳かに掲げる。床面で淡く眠っていた巨大な幾何学陣が、静かに、だが絶対的な威圧感を伴ってその輝きを研ぎ澄ませ始めた。
標的拘束は、もはや意味を成さない。純粋な攻撃魔法さえも、彼の特異な解析眼には見切られる可能性がある。ならば――初めから用意していた、最期の備えを起動するまで。
幾重もの白銀の光輪が石畳を這い、神殿の回廊全体へと急速に拡張していく。広域封鎖結界。術者であるわたくしごと、この戦場を外界から不可逆的に遮断するための、最終防壁。
淡い光の円帳がわたくしとルイを包み込み、世界そのものからこの空間を切り離そうとした、まさにその瞬間だった。
「ルイ―――ッ!!」
幼く、あまりにも必死な少女の叫びが、静まり返った回廊の深淵へと鋭く響き渡った。結界の境界が完全に融解して閉じる、そのコンマ一秒の極限の寸前。一人の少女が、泥と汗に汚れた巫女服の裾を激しく翻し、迷うことなく白銀の光壁の内側へと飛び込んできた。
――ミナ、だった。

――ゴォォォォォォン。
地鳴りのような第三の鐘が、神殿全体を重々しく揺さぶった。その、刹那。
「――っ、が、はっ……!」
全身の細胞を焼き尽くすような激痛が、脳髄の奥底から一気に駆け抜けた。耐えかねて片膝を硬質な石畳へと突き立てる。肺が寸断に裂けるほど酸素を求めて悲鳴を上げ、視界が白黒に明滅した。
(……強制解除、されたか)

〈WAIT〉。僕が世界の理へ無理やり刻み込んでいた侵略の改竄が、一斉に初期化されていく。幾何学の魔法陣は本来の清浄な純白を取り戻し、完全停止していた術式が次々と息を吹き返していくのが見えた。
だが、これで詰んだわけじゃない。

僕は沸騰する呼吸を強引に整えながら、血の滲むモノトーンの視界で、正面に佇むエリーゼだけを鋭く睨み据えた。
(次は何を撃ってくる)
標的拘束か。純粋な攻撃魔法か。どちらが来ようとも、カウンターの構築はすでに脳内で完了している。侵入口は、まだ完全に生きている。第三鐘の権限が初期化したのは、あくまで〈WAIT〉という改竄記述だけだ。彼女の術式へと潜り込むための『綻び』そのものは、依然として残存している。
ならば――拘束魔法なら再び〈WAIT〉を上書きする。攻撃魔法なら、詠唱が完成するコンマ一秒の寸前に因果を改竄し、術式を内部から暴発させてやる。まだ、勝負になる。
そう冷徹に演算した、まさにその瞬間だった。
「……?」

エリーゼは、ぴくりとも動かなかった。詠唱の兆候もない。魔力の指向性もない。攻撃の気配すら一切存在しない。
代わりに――。
彼女の足元。石畳に眠るように刻まれていた幾何学模様が、淡く、禍々しいほどの光を帯び始めていた。一本。また一本。細い光の道筋が、冷酷な蜘蛛の糸のように神殿の回廊へと這い伸びていく。
(……違う)
あれは攻撃呪文じゃない。空間拘束の類でもない。僕は反射的に解析眼を極限まで見開き、その魔法陣の術式を強制的に読み解く。複数の円環。重なり合う絶対固定術式。空間支柱。完全な座標指定。超広域展開。
(この構築紋様は……っ!)

最悪の予感が、氷の棘となって背筋を鋭く駆け上がった。
(広域封鎖結界……だと……!?)

しかも、今この場で一から構築している術式じゃない。最初から――最初からこの回廊そのものに設置されていた、物理的・魔術的な絶対不可侵の防壁だ。
「しまっ――!」

侵入口の記述を力ずくで書き換える。そう思考を走らせた時には、もう何もかもが遅すぎた。
静かに。冷酷なほどに音もなく。巨大な光の円帳が、神殿の回廊全体を包み込んでいく。天井。床。左右の壁。四方のすべてが、完全なる密室へと閉じられていく。
「くそっ……!」
なおも残存する侵入口へ意識を深く潜らせる。間に合え。あと一文字。あと一手。あと――。
結界の境界が完全に閉じる、その刹那。
「ルイ――――ッ!!」
少女の悲痛な叫び声が、回廊へ鋭く響き渡った。弾かれたように、振り返る。閉じゆく白銀の光壁へ向かって、一人の少女が泥だらけの巫女服を激しく翻し、全力で駆けてくるのが見えた。
「ミナ――っ!?」

結界が閉じ切る、コンマ一秒の極限の寸前。彼女は迷うことなく光の障壁の内側へ飛び込み、そのままの勢いで僕の胸へと激しく突っ込んできた。
「はぁ……、はぁっ……っ、う……!」
僕の胸に顔を埋めたまま、肩で激しく息を荒くし、小さな身体をガタガタと震わせている。だが、その両手だけは、大切な何かを絶対に壊さないようにと、胸元で頑ななまでに強く握り締められていた。
「……間に、合った……っ」

酸欠で掠れた声でそう呟いたミナは、胸元から震える指先を、ゆっくりと開いてみせる。
その、小さな掌の上。
現実の光を完全に失った、数条の、痛々しい白髪。白磁の破片のように虚ろな、空になった精製薬の薬殻。そして――無残に半分へと引き裂かれた、小さなレモン菓子の欠片。
「……これは」

僕は思わず、息を呑んだ。ミナは今にも泣き出しそうな顔で、それらを見つめる。
「エリナちゃんが……、あそこでずっと、奪われてきたもの」
紡がれたのは、その一言だけだった。それ以上は、もう何も語らない。いや、語る必要すらお互いになかった。言葉よりも先に、彼女の瞳から溢れ出た大粒の涙だけが、ぽろぽろと冷たい石畳へ落ちては染み込んでいく。
「お願い……」
「ルイ」
「エリナちゃんを……っ、助けて!」
僕は、静かに首を縦に振った。
「ああ」
「――分かってる」
その確たる応えを耳にしたミナは、弾かれたようにエリーゼへと向き直る。
「お願いです……! エリーゼ様! ルイを、あの子のところへ行かせてあげてください!」

墓碑銘のような冷たい静寂が、空間に舞い落ちた。エリーゼは結界の中心に佇んだまま、微動だにしない。やがて、極めて事務的な声音で冷酷に告げる。
「人がかつて犯した罪の代償は、種が滅びのその日を迎えるまで、支払い続けなければなりません。それが、神との絶対なる契約なのです」

僕は、軋む肉体を叱咤してゆっくりと立ち上がった。まだ全身の細胞が悲鳴を上げている。それでも、解析眼だけは真っ直ぐにエリーゼの芯を射抜いていた。
「一人の少女が、そのすべてを背負わされていい理由にはならない。支払うというのなら、人間全員で少しずつ均して支払えばいいだけの話だ」

エリーゼは、哀れむように静かに首を横に振る。
「命の価値が等しくとも、対価としての質量は等しくありません。彼女の魂は、百万の雑多な命にすら匹敵する、純粋なる対価なのです」
胸の奥底で、何かが決定的な音を立てて冷え切っていく。
「そんなもの……」

血の滲む拳を、壊れるほど強く握り締めた。
「一体、誰が決めた。誰に、そんな権利があるというんだ」

声は決して荒げない。だが、そこに宿る熱量は、すでに限界値を突破していた。
「支払うべき命を、犠牲にするべき人間を、世界が勝手に天秤にかけて鋳造していいはずがない」
エリーゼは口を噤む。僕は彼女の透明な瞳を真っ直ぐ見据えたまま、冷徹に言い放つ。
「そんな歪な理なら、僕は死んでも認めない」

ほんの、僅かだった。エリーゼの硝子細工のような瞳が、この日初めて、明らかな揺らぎを露にした。

「……世界の理を、正面から否定するのですか」
僕は、ゆっくりと顎を引く。
「違う」
視線を、己の手元へと落としていく。ミナの掌に残された、熱を失った白い髪。空の薬殻。無残なレモン菓子。これまで点と点であったはずの証拠が、僕の脳内で爆発的な演算を起こして一つに繋がり――教団が隠蔽してきたシステムの全容と、その致命的な脆弱性を暴き出していく。
どんなに完璧に組み上げられた上位システムであろうとも、そこには必ず設計思想が存在する。
「ならば、必ず――抜け道はある」
その三つの真実を網膜の奥に焼き付けたまま、僕は獰猛に唇を歪め、静かに呟いた。

「……見つけてやる、神様のバグを」

――ゴォォォォォン。
中庭の重苦しい大気をびりびりと震わせながら、第三の鐘の余韻がゆっくりと引いていく。俺は正面を見据えたまま、祭壇へと続く唯一の回廊――その深淵の闇を凝視した。遥か石造りのアーチの向こう側で、微かな魔力の明滅と、凍てついた空気を切り裂くような破裂音が不気味に響いている。
(……始まったか)

手にした大剣の柄を、ミシリと金属が悲鳴を上げるほど強く握り締める。ルイがすでに最奥へと向かっているのなら、門前に立ち塞がっているのは間違いなく教団の守護者――エリーゼだ。
「カイル、様……っ」

足元で、サーシャがなおも激しくしゃくり上げながら、縋るように俺を見上げていた。大粒の涙に顔を濡らし、震える小さな指先で修道服の裾を強く握りしめている。
「わたし……っ、もう、あとは、どうしたらいいのか分からなくて……っ」
すべての綺麗な嘘をぶちまけ、俺という『正義の騎士』の欺瞞を内側から打ち砕く。その命懸けの大役を果たし終えた彼女は、今やただの一人の怯える少女へと戻っていた。
俺は静かに身を屈め、その小さな頭へと、優しく、けれど決して揺るがない力強さでぽんと掌を置いた。
「あとはすべて俺に任せておけ。ここからあの回廊まで、五分もあれば十分だ」

第三の鐘が鳴り響いたということは、第四の鐘が破滅を告げるまで、残された猶予はおそらく四十分足らず。門前のエリーゼさえ引き剥がせば、ルイなら確実に祭壇へと辿り着き、エリナをあの地獄から救い出せるはずだ。
「ルイ様は……っ、本当に、エリナ様を救えるのですか……?」
不安と恐怖に揺れるサーシャの問いに、俺は一切の迷いなく首を縦に振った。
「俺は、剣を振るうことしかできない不器用な男だ。だが、あいつは違う」

脳裏に、泥まみれになりながら世界の理に傲然と牙を剥く、あの捻くれた魔法学徒の横顔がありありと浮かぶ。
「あいつが本気で儀式会場へ向かっているのなら……あいつなら、この王国の狂ったシステムそのものを内側から『壊せる』。……そこだけは、悔しいが認めている」
サーシャの丸い瞳から、堰を切ったような安堵の涙がふわりと溢れ出た。それを見届け、俺は力強く踵を返す。
「――行ってくる。ここで待っていろ」

銀の重鎧を鳴らし、回廊へ向かって疾走しようとした、まさにその刹那だった。
「――隊長ッ!!」
中庭の入り口から、ガチャガチャと無数の冷たい不協和音を響かせながら、十数名の王国騎士たちが雪崩れ込んできた。全員が例外なく剣の柄へと手をかけ、俺のただならぬ殺気と異常事態を察知して立ち塞がる。
「隊長、その大剣……一体、何処へ向かわれるおつもりですか!?」
俺は歩みを止めることなく、行く手を阻む彼らを真っ直ぐに睨みつけた。
「どけ」

低く、地を這うような重低音。だが、かつての部下たちは一歩も退かない。
「退けません! 隊長、我々は王国騎士です。この国に命を捧げ、民の為に戦い、王国の正義を護ることこそが道理のはずです!」
「……正義、か」
俺は自嘲気味に、鼻で小さく笑った。
「そんな綺麗なものは、たった今どぶに捨ててきた。もう、俺は王国の騎士じゃない」
刹那。俺は大剣を限界まで振り上げ、迷うことなく目前の石畳へとソードスキルを叩き込んだ。
――ガァァンッ!!
激しい火花とともに凄絶な破砕音が炸裂し、俺と騎士たちの間に、深々とえぐれた「一本の境界線」が刻まれる。
「その溝が境界線だ。……それ以上、こちら側へと越えてくるな」

静かな、だが絶対的な威圧を孕んだ拒絶の宣告。若き騎士たちは一様に息を呑み、その境界線の前で悔しげに顔を歪ませた。

「……隊長のご覚悟は、痛いほど理解しました。ならば……っ!」
数人の騎士が、悲痛な貌でついに剣を抜き放つ。
「我々も、ここで覚悟を決めましょう」
「……そうか。残念だ」
互いに刃を交えるしかない。俺がそう腹を括り、大剣を構え直した、その瞬間だった。
「――待ちなさい」
騎士たちの列を強引に掻き分け、一人の男がその境界線の直前へと進み出た。ずっと俺の右腕として、この部隊を、俺の背中を支え続けてくれた副隊長だった。

彼は悲壮な決意を宿した瞳で俺を見据えると、くるりと振り返って部下たちへ鋭い命令を飛ばした。
「副隊長命令である。――お前たちは、その境界線を越えることを一切許さない」

「なっ……、副隊長っ!?」
にわかにざわめき立つ騎士たちを、副隊長は厳格な片手で制止する。
「お前たちは、ここで事の顛末を見届けなさい。ここから先は……、隊長と、私の務めだ」
それは、若い部下たちを「反逆者の共犯」にも「隊長殺し」の悪名にも染めさせないための、彼なりの不器用で優しすぎる防波堤だった。
副隊長は静かに愛剣を抜き放ち、ただ一人きりで、俺の引いた境界線を踏み越えた。

「行きますッ――!」
凄絶な気迫とともに、副隊長が渾身のソードスキルを纏って吶喊してくる。鋭利な刺突、質量を乗せた斬撃。迷いのない猛烈な連撃。

――ガキンッ! ギィィンッ!
俺はそのことごとくを肉厚な大剣の腹で強引に弾き飛ばし、一瞬の隙を突いて彼との間合いをゼロへと詰めた。
大剣は振らない。殺意の代わりに、左腕の拳を壊れるほど固く握り締める。
――ドゴォッ!!
「が、はっ……、あ……」
俺の左拳が、副隊長の腹部へ深々と突き刺さった。金属鎧が不快な音を立ててひしゃげ、肺からすべての空気が力ずくで搾り出される。副隊長は一瞬だけ、すべてを託したかのような、どこか寂しげな笑みを浮かべ――そのまま意識を完全に刈り取られ、石畳へと崩れ落ちた。

「副隊長……っ!」

境界線の向こう側で、残された騎士たちが悲痛な声を張り上げる。だが、誰一人としてあの溝を越えようとする者はいなかった。彼らもまた、副隊長の命懸けの意図と、俺の決別の覚悟を正しく理解して立ち尽くしているのだ。
「……すまない」

昏倒した副隊長と、かつての忠実な部下たちへ一度だけ背中越しに謝罪を落とし、俺は再びあの暗い回廊へと向かって駆け出した。
(急がなければ……!)
門前に立ち塞がるエリーゼ。そして、泥濘の侵略者たるルイ。あの二人は、まともに戦えばあまりにも相性が悪すぎる。王国の全システムを味方につけたエリーゼの圧倒的な力の前に、魔力の底を突きかけているルイが真正面から立ち向かえば、一瞬で消し炭にされるのは火を見るより明らかだ。
(ルイ。――死ぬなよ。生きてろ、大馬鹿野郎)

俺は大剣の柄を強く握り直し、深淵へと続く暗い回廊の闇へと、弾かれたように飛び込んでいった。
広域封鎖結界の内側は、異様なほど静まり返っていた。外界を完全に遮断する金色の光壁が、淡い輝きを放ちながらこの空間をドーム状に包み込んでいる。その壁の向こう側から、誰かがこちらへ向かって疾走しているかのような微かな振動が伝わってきたが――それさえも、今の僕には遥か遠いノイズに過ぎない。
誰も、口を開こうとはしなかった。ミナは頬の涙を拭うことすら忘れ、小さく肩を震わせている。エリーゼは静かに佇んだまま、一切の隙を見せることなく、その透明な瞳で僕を凝視していた。

僕だけが、冷たい石畳へと視線を落とし、その一点を見つめていた。
そこには、ミナが届けてくれた三つの証拠が並んでいる。
熱を失った一本の白髪。白磁の破片に似た、空の薬殻。そして、無残に半分へ引き裂かれたレモン菓子。
「……白髪」

僕はその白い髪を、血の気の引いた指先でそっと摘まみ上げた。瑞々しい春の陽光を反射していた少女の金髪が、強制的に純粋魔力へと還元され、無機質に退色した証。これはただの物質的な残滓じゃない。
「――価値の、抽出だ」

静かな独り言が、乾いた唇から漏れる。次に、白磁の薬殻へと冷徹に視線を落とした。魂を削る激痛を誤魔化し、心そのものを空っぽにするための非情な精製薬。
「……五感の麻痺。そして、記号としての維持」

短く、数式を吐き出すように呟く。最後に、半分に割れたレモン菓子を手に取った。黄色い包装はひどく潰れ、角も折れ曲がっている。誰かが、胸が張り裂けそうな不条理を耐え忍ぶように、何度も、何度も強く握り締めた確かな痕跡だった。
「ミナ」
小さく、その名前を呼ぶ。ミナは溢れそうな涙を袖で拭いながら、小さく頷いた。
「エリナちゃんが……ずっと、ずっと大事にしてたの。……ルイのことが、好きだったから」

好きだったから。僕はその情緒的な言葉を、あえて冷徹に脳内で反芻する。違う。まだ何かが、決定的に引っ掛かる。好意を寄せていた。だから手放さなかった。理由がそれだけであるはずがない。
僕は包装の破れたレモン菓子の欠片を、解析眼の奥でじっと凝視した。
甘い。酸っぱい。そして、皮のほろ苦さ。人間の舌が、肉体が、確かに覚えているはずの――味。
その瞬間。僕の頭の奥底で、カチリとすべての理の歯車が噛み合う音がした。
「……味覚」
ミナが、ゆっくりと首を縦に振る。溜まっていた涙がまた一粒、石畳へと落ちては爆発した。
「もう……何一つ、味が分からないの」

その一言だけで、すべてのパズルが揃った。
僕はゆっくりと、三つの証拠を石畳の上に並べ直していく。白髪。薬殻。レモン菓子。そこに隠された絶対の規則性を探し出すために。世界の誰も解けなかった、最悪の証明問題を完璧に解き明かすために。
一つずつ。一つずつ。その本質にある『共通項』を探り当てていく。
「――髪」老化による退色……違う。「――薬」生贄の延命……違う。「――レモン」ただの味覚の消失……それも、違う。
共通点はそこじゃない。もっと根本にある構造だ。
僕は静かに瞼を閉じる。白く染まりきった髪。心を殺すための薬。すでに失われた味覚。全部。全部。
「……失ったもの」
ぽつりとそう呟いて、すぐに自嘲気味に首を横に振った。違う。違う。そんな生ぬるい表現じゃ、決定的に足りない。主語が根本から間違っている。
「彼女は失ったんじゃない」

「――『支払わされた』んだ」

静まり返った結界の深淵へ、冷徹な声が落ちる。その瞬間。エリーゼの硝子細工の瞳が、ほんの僅か、だが確実に揺らいだ。
僕はその微弱な反応を視界の端で冷酷に捉えながら、さらに深く、思考の暗海へと潜っていく。
支払った。対価。契約。神。あらゆる契約には、必ず発動条件が存在する。契約には必ず履行が伴う。そして、すべての契約には必ず――終了条件が仕込まれているはずだ。
僕は石畳の三つの証拠を見つめたまま、確認するように、呪文を紡ぐように小さく呟いていく。
「神……」「契約……」「対価……」「代償……」「履行……」「完了……」
脳内で、これまで万年写本生として学んできた魔術の基本数式が、まるで全く別の学問へと姿を変えていく。これは魔法なんかじゃない。法律だ。契約だ。ある条件を満たした者は、相応の対価を支払う。神は、その差し出された対価を正しく受領する。ならば――契約は、一体どこで終了する?
要求されたすべての支払いが、完了した瞬間だ。
その刹那。僕の思考の秒針が、ピタリと停止した。
「……待て」
胸の奥底が、悍ましい予感にざわつき始める。
「支払った……、だと……?」
視線が再び、三つの証拠へと引き戻される。白髪。薬殻。レモン菓子。感情。五感。思い出――。彼女の人間性のすべて。

「――すでに、終わっている……?」
脳裏の暗闇で、すべてのバグの正体が、閃光のような一本の線となって繋がった。
「だとしたら」
ゆっくりと、僕は顔を上げる。真正面。絶対たる理の執行官として君臨するエリーゼを、射抜くように凝視する。
「神は」
僕の乾いた唇から、自然と言葉が零れ落ちた。
「――今、この瞬間に何を請求している?」

空間の空気が、完全に氷結した。ミナが息を呑む音が微かに響く。エリーゼは、石像のように微動だにしない。
僕は軋む肉体を叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。魔力過多による第四階梯の負荷で身体中が悲鳴を上げている。それでも、脳内の演算領域だけは、これまでにないほど冷徹に澄み切っていた。

「そういうことか」
ようやく。この千年続く狂った世界の、最大にして最悪のバグが見えた。
「エリーゼ」
彼女は幽霊のような静けさで、僕を見つめ返してくる。
「神は――契約違反を起こしている」

初めてだった。エリーゼの無機質な輪郭から、絶対の確信という名の光彩が消え去ったのは。
「…………」
どろりとした、濃密な沈黙が回廊を埋め尽くす。
「……何を」
かすかに、その美しい声音が震えていた。
「何を……言っているのです」
僕は一歩だけ、彼女の絶対領域へと踏み出した。
「契約の対価なら。彼女はもう、とっくにすべて支払い終えているんだよ」

さらに、傲然ともう一歩を刻む。
「だとしたら――この契約は、とうの昔に終了しているはずだ」
もう一歩、彼女の絶対領域を引き裂くように踏み出す。
「それでもなお、まだ命という器まで支払えと世界が強いるのなら」
視線を寸分も逸らすことなく、冷徹に引導を渡す。
「契約を違え、破綻させているのは――神の、システムの方だ」

エリーゼの瞳が、激しく、痛々しいほどに揺れ動いた。その揺らぎは、決して凡庸な恐怖などではない。普遍の前提に狂いが生じたことへの、論理的な慄きだった。彼女は今、その悠久の時の中でただの一度も抱いたことのない、自分が立っていた前提そのものへの致命的な不信を抱いている。
「そんな……」
かすかに漏れ出た声音は、僕へ向けられたものではなく、自らの内なる理へ向けたものだった。絶対にして普遍であるはずの神が契約を違える――過剰請求を起こす。そんなあり得ない可能性など、世界の守護者たる彼女の完璧な演算領域には、ただの一度も存在し得なかったのだ。
僕は、静かに嗤った。勝ち誇るための浅薄な笑みじゃない。この千年続く世界の脆弱性の最底へと辿り着いた、ただ一人の侵略者としての、冷徹な微笑だった。
「僕は、魔法を書き換えない。契約の仕様も、都合よく書き換えたりはしない」

静かに。だが、揺るぎない絶対の確信を伴って言い切る。
「僕がやるのは、神が構築した契約の記述を――正しく読み直し、執行することだけだ」
エリーゼは、美しく息を呑んだ。その透明な瞳は、もはや目の前の少年をただの侵略者としては捉えていない。王国の根幹たるシステムの真理を容赦なく射抜く――知の怪物として、戦慄とともに凝視していた。
「あなたは……」
静寂のなか、消え入りそうな問いが落ちる。
「神を、欺くつもりですか」
僕は、小さく首を横に振った。そして、地の底から響かせるように、ゆっくりと答えてみせる。
「違う」
ほんの、一拍のタメを置いて。
「神が――契約の解釈を、致命的に読み間違えているだけだ」

その、破綻の瞬間だった。絶対不可侵であるはずの光壁の外側から――。
――ドォォォォォンッ!!

鼓膜を容赦なく震わせる凄絶な衝撃音が、巨大な結界全体を激しく揺さぶった。エリーゼと僕は、同時にその振動の発生源へと、鋭く振り返った。
――ドォォォォォォンッ!!
悍ましい重低音が、白銀の結界全体を激しく揺さぶった。外界を完全に遮断していたはずの金色の光膜が、水面のように大きな波紋を描いて歪み、隔離された空間そのものが悲鳴をあげるように軋みをたてる。
「きゃっ……!」
ミナが短く悲鳴を漏らし、思わずその場に身を縮こまらせた。対照的に、エリーゼが初めて自らの背後へと振り返る。その無機質だったはずの輪郭には、先ほどまでの絶対的な静謐が微塵も残されていなかった。
「……馬鹿な」

かすかに漏れ出た、動揺の声。結界の向こう側では、親の仇を討つかのような大質量の衝撃が、容赦なく、何度も何度も光の障壁を叩き据えていた。
「外界から……ただの物理的な質量によって、この絶対結界を……内側からではなく破壊しているというのですか……?」
信じられない不条理を凝視するように瞳を細める彼女を見て、僕は脳裏の奥で、小さく嗤った。
(――カイル)
やっぱり、来やがったか。あの融通の利かない大馬鹿野郎なら、必ずそうするだろうと思っていた。
「何が、おかしいのです」
エリーゼが射抜くような視線とともに問い掛けてくる。僕は軽く肩を竦め、肺の奥の澱んだ息を吐き出した。
「僕は、あいつのことが大嫌いだ」

嘘偽りの一切ない、僕の素直な本音だった。
「だが、こうなる確信だけはあったよ」
もう一度。隔離された世界が激しく爆発するように震える。
――ゴォォォォンッ!!
僕は激しく明滅する光壁を見つめたまま、言葉を紡ぎ続けた。
「あんな綺麗事にまみれた理不尽が、あの馬鹿の掲げる『正義』であるはずがないからな」

エリーゼは口を噤んだまま、じっと僕を見つめ返す。
「僕は、最初から一人でここまで歩んできたんじゃない」
その一言が、彼女の前提を再び崩していく。エリーゼは静かに長い睫を伏せた。
「……最初から」ぽつりと、自らの演算をなぞるように呟く。「それぞれの役割を、初めから分担していたのですか」
僕は、ゆっくりと首を横に振った。
「違うよ」
僕は祭壇の深淵へと歩を進めるのではなく、自らの足元――この結界を強固に形成している魔力線へと、冷徹に視線を落とした。神殿の最奥へとわざわざ赴かずとも、この結界もまた、王国の巨大な霊脈と完全に地続きで繋がっている。
「示し合わせたわけじゃない。ただ、みんな本当はとっくに分かってたんだよ。そのきっかけが、今回の儀式だったってだけでね。それぞれがこの狂い切ったシステムに直面し、各自の頭脳で同じ答えを弾き出した。……ただ、それだけのことだ」

誰かがその命を薪のように焚べる。誰かが綺麗な正義を捨てて剣を抜く。誰かが泥濘のなかで涙を流す。
それは事前に交わした命令などではない。精緻に練られた計画でもない。それぞれの人間が、それぞれの信じる矜持を胸に、この泥濘の世界へ自らの意志で足を踏み入れた結果に過ぎなかった。
エリーゼはゆっくりと瞼を閉じ、かすかな息を吐き出す。
「……そういうこと、でしたか」

その声音には、微かな納得と、そして悠久を生きる彼女が初めて抱いた『人間』という不条理な存在への羨望が混じり合っていた。
「あなたは、仲間を盲信していたのではない。人という歪な存在が導き出す答えを――あらかじめ、正しく理解していたのですね」
僕は、あえて返事をしなかった。
ゆっくりと膝を折り、足元で蠢く光の紋様へとしゃがみ込む。第四階梯まで強制解放された僕のバグだらけの視界には、金色の美しき結界など、とうの昔に霧散して映っていなかった。見えているのは、その膨大な魔力線の最奥。神がこの世界の理へ直接刻み込んだ根幹記述へと直通する、細い一本の導線。狂ったように激流する魔力の奔流のなかに、一箇所だけ、酷く不自然な継ぎ目が視界に留まる。
「……見つけた」

小さく、勝利の確信を呟く。この侵入口からなら、神が結んだあの契約へと直接干渉できる。
「――やめなさいッ!」

エリーゼが鋭く叫んだ。理の執行官であるはずの彼女が、その悠久の歴史のなかで初めて、剥き出しの感情を戦慄とともに露にする。
「その先は……っ! 人間が、決して触れていい領域ではありません!」
「人間かどうかなんて、今の僕にはどうでもいいことだ」
僕は、負荷で激しく震える指先を、結界の魔力線へと力ずくで突き立てた。
「僕は僕自身の極私的なエゴで――これより神を侵略する」

――カッ。
刹那、世界が反転した。
白。白。圧倒的な、白。モノトーンに沈んでいたはずの視界が、網膜を焼き切るほどの光の奔流だけで埋め尽くされていく。無数の文字。幾千万もの魔法数式。複雑怪奇に絡み合う契約言語。条件式。論理分岐。例外処理。この世界そのものを下支えしている、巨大な演算構造の全容が、端末たる結界を通じて一瞬で僕の脳髄へと暴力的に流れ込んでくる。
「……なるほど。だから、これまで世界の誰も読めなかったのか」
脳が沸騰するような激痛のなかで、思わず獰猛な笑みが零れ落ちた。
「だが、僕には読める。……全部、理解できる」
最悪のバグの起点が完全に特定できた、まさにその瞬間だった。 (起点は儀式祭壇の大器だ!)
「もうすぐ、結界が壊れる。走るぞミナ!」
――パリィィィィィンッ!!
鼓膜を破らんばかりの甲高い破裂音とともに、絶対無敵を誇ったはずの広域封鎖結界が、無数の硝子片となって粉々に砕け散った。
眩く舞い散る光の残滓の向こう側。ボロボロになった銀の重鎧を痛々しく軋ませ、大剣を豪快に振り抜いた姿勢のまま、カイルが荒い息を吐いて立ち尽くしていた。

「……っ!」
結界を力ずくで強行突破されたエリーゼが、即座にその杖を掲げる。
「――行かせません!」
純白の拘束魔法が僕とミナへ向けて収束しかけた、その刹那。狂暴な銀の閃光が、エリーゼの眼前に凄まじい質量を伴って割り込んだ。
――ガァァンッ!!
肉厚な大剣の腹が、エリーゼの放つ魔力の奔流を正面から力ずくで叩き落とす。
「あんたの相手は俺だ、世界の理の守護者殿――!」
「カイル……っ!」
「行け、ルイ――ッ!!」
カイルはエリーゼの行く手を遮るように立ちはだかり、背中越しに僕へ向かって猛然と吠えた。

「ここは俺が、命に代えても通さない!」

その頼もしき背中は、かつてのような「絵に描いたような正義の騎士」の模造品ではない。泥を被り、血を流し、ただ友の道を切り開くためだけに刃を振るう、泥濘のなかのただ一人の男の背中だった。
「……死ぬなよ、カイル」
短く吐き捨て、僕は限界の肉体を叱咤して立ち上がった。その傍らで涙に震えていたミナの細い腕を、力強く掴み取る。
「止まるな、ミナ」
「うんっ……!」
背後から鼓膜を叩く、光の魔術と鋼の大剣が激突する凄絶な轟音。僕とミナは、ついに開かれた深淵――エリナが待つ最奥の祭壇へと続く回廊を、全力で蹴り出した。
(――待っていろ、エリナ)
暴風のように流れる白亜の景色のなか、僕の口元に、傲慢にして冷徹な笑みが浮かぶ。
(今から――)
(僕が直々に、その狂い切った神様を説得してやるよ)
 第11章『神を騙す侵略者』完了

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