
|
|
神宮寺教授の秘密講義 札幌記念(後編)
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: 満別花丸」
|
第1章『開演の暴力的なクロックアップ(10.2秒)と、 支配者の逃走』
日曜日、 午後三時四十五分。
鳴門の海を焦がすような真夏の酷暑は分厚い遮光ブラインドに遮られ、 研究室の中は冷房の冷気とサーバーの排熱が混ざり合う、 特有のオゾン臭に満ちていた。
四Kの大型メインモニターには、 北の大地・札幌競馬場の青々とした洋芝が映し出されている。 ゲートの中には、 選び抜かれた十六頭の美しきサラブレッドたちが、 今か今かと開演の時を待っていた。
若葉:「うおおおおお……! ついに始まりますよ! うちらが絶対の自信を持って導き出した『黄金の安全地帯(セーブポイント)』が、 本番環境(ランタイム)でどう動くんか……!」
若葉はパイプ椅子の上で正座し、 赤ペンで印を書き込んだ競馬新聞を両手でギュッと握りしめている。 その額には、 冷房が効いているにもかかわらず、 じっとりと緊張の汗が滲んでいた。
佐倉助手:「若葉さん。 そんなに力むと、 紙の繊維が物理的に破損しますよ」
佐倉助手が、 使い込まれたThinkPadのキーボードに指を添えながら、 静かな声で窘めた。
佐倉助手:「事前の静的解析(Static)は完璧に完了しています。 あとは、 この『札幌記念』という名の過酷なプログラムが、 どのように実行(デプロイ)されるかを観測するだけです」
若葉:「せやけど佐倉助手! 今回はうちの晩ご飯の特上カルビがかかっとるんです! ◎アドマイヤテラちゃんと〇ショウヘイちゃんの最強コンビ、 絶対に頼みますよーっ!」
神宮寺教授は、 ゆったりとしたオフィスチェアに深く腰掛け、 氷の溶けかけた琉球ガラスのマグカップを傾けていた。 彼女の切れ長の瞳は、 大衆の熱狂を映すモニターを冷徹に、 そしてどこか楽しげに見つめている。
実況:『――各馬、 一斉にスタートしました!』
実況の甲高い声が、 研究室のスピーカーから響き渡った。
ゲートという名のソケットから、 十六のオブジェクトが一斉に解き放たれる。
若葉:「出たっ! うちらの◎アドマイヤテラちゃんは……中団のやや前! 悪くない位置ですやん!」
若葉がホッと胸をなでおろした、 その直後だった。
佐倉:「……いえ、 隊列の先頭(ヘッダ)にご注目ください」
佐倉が素早くキーを叩き、 サブモニターにリアルタイムのハロンタイム(区間時計)をポップアップさせた。
佐倉:「大外の⑯ホウオウビスケッツが、 強烈な推進力でハナ(先頭)を奪いに行きました。 ……最初の一ハロンが12.4秒。 そして、 続く二ハロン目が――『10.2秒』です」
若葉:「はぁっ!? じゅ、 10.2秒!?」
若葉が素頓狂な声を上げ、 椅子から転げ落ちそうになった。
若葉:「ちょっと待ってくださいよ! 札幌の洋芝2000メートルで、 序盤からそんなスピード出したら、 一瞬でガス欠になりますやん! ホウオウビスケッツ、 完全に暴走(バグ)しとるんちゃいます!?」
神宮寺教授:(開始早々の10.2秒という暴力的なまでの負荷(クロックアップ)……。 まるで第18章でゼファーが摩擦を棄却して駆け抜けたような、 命を削る速度ね。 でも、 これは決して制御不能な暴走ではないわ。 岩田康誠騎手は、 明確な意志を持ってこのペースを『選択』したのよ)
神宮寺教授はマグカップをデスクに置き、 白衣を翻して立ち上がった。
神宮寺教授:「暴走ではないわ、 若葉。 彼は『俺がレースを作る、 誰にも主導権は渡さない』と宣言しているのよ」
教授が真紅のレーザーポインターで、 先頭をひた走るホウオウビスケッツを照射する。
神宮寺教授:「外枠からの発走という不利を、 圧倒的な初速で相殺し、 隊列の先頭を確保した。 これは逃げ馬としての最も理にかなった生存戦略(プロトコル)よ。 ……ただし、 それに巻き込まれる後続にとっては、 たまったものではないけれどね」
若葉:「巻き込まれるって……ああっ! うちらの〇ショウヘイちゃん、 四番手におりますやん!」
若葉が頭を抱えた。
若葉:「あんなハイペースを前で追いかけたら、 ショウヘイちゃんまでスタミナ(CEL)オーバーで倒れてまう!」
佐倉:「ショウヘイのポジションは決して間違っていませんよ」
佐倉が冷静な声でカットインする。
佐倉:「彼は、 ホウオウビスケッツが作り出す狂気のペースを前方で受け止めながら、 『自分はまだ行ける、 最後まで残す』という正攻法のスタンスを崩していません。 問題は、 この異常なハイペースが『いつまで続くか』です」
画面の中では、 1コーナーから2コーナーへ向かって、 縦に長い隊列が形成されつつあった。
先頭でレースを支配するホウオウビスケッツ。
それに耐えながら好位を追走するショウヘイ。
中団で虎視眈々と機を伺うアドマイヤテラと、 崩れることなく追走する⑬グランディア。
若葉:「……あれ? 教授、 うちらが特注(▲)を打った⑮シェイクユアハートちゃん、 どこにおるんです?」
若葉がモニターに目を凝らす。
神宮寺教授:「後方よ。 十二番手付近ね」
教授がポインターを馬群の後ろへ移した。
若葉:「うわぁ、 めっちゃ後ろ! いくらなんでも離されすぎちゃいます!? こんな位置からやと、 直線だけで届くわけないですやん!」
神宮寺教授:「若葉、 あなたシステムのエラーログしか見ていないわね」
神宮寺教授は不敵に笑い、 長い髪をかき上げた。
神宮寺教授:「古川騎手は『置いていかれた』んじゃない。 『流れに身を任せる』という戦術を選択したの。 序盤の10.2秒という殺人的な負荷を避け、 自らのエネルギーの消耗を極限まで抑え込んでいる。 ……でも、 完全に勝負圏から外れたわけではない。 絶妙な距離感で、 前の馬たちをロックオンし続けているわ」
若葉:「意図的に後ろにおるってコトですか……?」
神宮寺教授:「ええ。 ホウオウビスケッツが前で作る灼熱の海を避け、 後方という名の『安全地帯』で静かに息を潜めているのよ。 ……さあ、 ここからがこのレース最大の分岐点(分岐処理)よ」
教授の切れ長の瞳が、 妖しい熱を帯びて細められた。
神宮寺教授:「逃げ馬が作り出したこの暴力的なペースは、 2コーナーで『ある劇的な変化』を迎えるわ。 前で耐える者と、 後ろで待つ者……彼らの運命を分ける中盤の処理(プロセス)を、 特等席で見極めさせてもらうわよ!」
第2章『一瞬のオアシス(12.8秒)と、 数式を破壊する王者の進撃』
冷気を吐き出し続けるエアコンの駆動音すら、 今の研究室では遠い耳鳴りのようにしか聞こえない。
メインモニターに映し出された札幌競馬場の向正面。 十六頭の馬群が2コーナーを回り終えた瞬間、 画面全体のスピード感が、 まるでスローモーションの魔法をかけられたかのようにガクンと落ちた。
佐倉:「……プロセスの実行速度に、 劇的な低下(ディレイ)を確認しました」
佐倉助手が、 タイピングの指をピタリと止めてサブモニターを見つめる。 そのレンズの奥で、 冷たい光が鋭く瞬いた。
佐倉:「4ハロン目のラップタイム、 12.8秒。 序盤の10.2秒という熱暴走から一転、 レース全体のペースが急激に減速しています」
若葉:「12.8秒!? 急にみんなゆっくり走り出しましたやん!」
若葉が、 握りしめていた競馬新聞をパタパタと扇ぐように振り回す。
若葉:「ホウオウビスケッツも、 ショウヘイちゃんも、 さすがに最初のダッシュで息が上がってもうたんですね! ここで一休みってコトですか!」
神宮寺教授:(ええ。 先頭のホウオウビスケッツにとっては、 ここで息を入れ(休んで)、 自らの陣形を再構築(デフラグ)するための絶好のオアシスよ。 このままスローで進めば、 前方にいる彼らがそのまま逃げ切る可能性は極めて高くなる。 ……けれど、 競馬というシステムは、 他者の安息を許すほど甘くはないわ)
神宮寺教授は、 デスクの角に腰掛けたまま、 真紅のレーザーポインターを中団の馬群へと向けた。
神宮寺教授:「彼らは休んでいるんじゃないわ、 若葉。 休ま『されている』のよ。 でも、 その一瞬の隙(脆弱性)を絶対に見逃さない男がいるわ。 ……私たちの本命(ROOT)、 ⑩アドマイヤテラよ!」
ポインターの赤い光が、 黄色の帽子を被ったアドマイヤテラの馬体を鮮やかに貫く。
若葉:「あっ! テラちゃんが動いた!」
若葉がパイプ椅子から跳ね起きた。
若葉:「まだ3コーナーやのに、 外からグングン上がっていきますよ! 8番手から……一気に2番手まで!?」
佐倉:「想定外の早仕掛け(アーリーアクセス)ですね」
佐倉が瞬時にデータを再計算し、 画面に警告のフラグを立てる。
佐倉:「アドマイヤテラは、 直線まで待って一瞬で差し切るタイプの個体ではありません。 だからこそ坂井騎手は、 前がペースを落とした(12.8秒)この瞬間を『唯一の進出ポイント』と演算し、 自らポジションを押し上げる戦術に出ました」
若葉:「最高ですやん! やっぱりうちらの◎アドマイヤテラちゃんは、 待つだけやなくて自分から勝ちに行く最強の王者(ROOT)なんや!」
若葉が歓喜の声を上げるが、 神宮寺教授の表情は氷のように冷徹なままだった。
神宮寺教授:「……最強の王者、 ね。 確かに彼は、 勝つために自ら動いたわ。 でもその行動(アクション)が、 このレース全体の数式を完全に破壊してしまったのよ」
教授がポインターのスイッチを切り、 白衣のポケットに手を突っ込む。
神宮寺教授:「テラが進出したことで、 休もうとしていたホウオウビスケッツは再びペースを上げざるを得なくなった。 ショウヘイも、 外から並びかけられて息を入れる余裕を完全に奪われたわ。 ……アドマイヤテラは、 自分の勝利を掴むために、 前方勢の『オアシス』を完全に干上がらせたのよ」
若葉:「えっ……それって、 前におる馬全員が、 もう一回無理やり走らされるってコトですか!?」
神宮寺教授:「それだけじゃないわ」
佐倉が、 冷静に後続のデータをも展開する。
佐倉:「前が動いたことで、 後方に待機していた馬たちにも『進出するためのスペース(余白)』が生まれました。 十三番手にいた⑬グランディアが、 全くリズムを崩さずに静かに追走を開始。 そして……」
神宮寺教授:「……うちらの特注、 ⑮シェイクユアハートね」
教授の切れ長の瞳が、 獲物を見つけた猛禽類のように妖しく光った。
画面の奥。 最後方近くにいた桃色の帽子――シェイクユアハートが、 アドマイヤテラが作り出した前の乱れに乗じ、 音もなく馬群の外側をするすると押し上げてくる。
若葉:「シェイクユアハートちゃん、 いつの間に八番手まで上がってきとる!?」
若葉が目を丸くしてモニターにすがりつく。
神宮寺教授:「これが彼らの泥臭い並列処理(パラレル・アタック)よ」
神宮寺教授の声が、 研究室の空気を震わせた。
神宮寺教授:「アドマイヤテラが前を潰しに行き、 ホウオウビスケッツとショウヘイがそれに耐える。 その後ろでグランディアが戦線を維持し……シェイクユアハートは、 決して焦ることなく、 そのすべての恩恵を最後方から静かに吸い上げながら勝負圏へ侵入してきたのよ!」
神宮寺教授:(なんて美しい連鎖反応(チェーン・リアクション)かしら。 第18章でエルゼが開けた最短ルートにゼファーが飛び込んだように、 テラがこじ開けたレースの綻びに、 後方の馬たちが次々と自分の最適解を叩き込んでいく。 ……Static(静的解析)では絶対に導き出せない、 Runtime(生きたレース)だけの奇跡のアンサンブルよ!)
佐倉が、 無機質な声で最終的な宣告を下す。
佐倉:「これよりレースは、 後半1000メートルを『58.8秒』で駆け抜ける、 狂気の高速持続戦へ移行します。 もはや、 息を入れる隙は一秒たりとも存在しません」
若葉:「後半ずっと全力ダッシュってコトですか!? そんなん、 前にいる馬は最後まで脚が持ちませんやん!」
若葉が顔面を蒼白にして叫んだ。
神宮寺教授:「そうよ。 4コーナーで前にいることが『最善』ではない。 直線で使える脚を、 誰が最後まで隠し持っているか……。 さあ、 真の絶対管理者(ROOT)が決まる最終直線の演算(デバッグ)へ向かうわよ!」
神宮寺教授の白衣が、 窓から差し込む夕陽を受けて赤く染まる。
北の大地のサバイバル戦は、 いよいよ最も残酷で美しい最終コーナーへと突入しようとしていた。
第3章『大外の特異点と、 三四・六秒の絶対支配』
鳴門の研究室を満たしていた冷房の駆動音が、 モニターから溢れ出す地鳴りのような大歓声に完全に飲み込まれた。
札幌競馬場の洋芝を蹴り立てる十六頭の蹄音が、 まるで地殻変動のように画面を揺らしている。 勝負は最終4コーナーへと差し掛かっていた。
若葉:「いけええええっ! テラちゃん、 そのまま先頭のホウオウビスケッツを交わしてしまえーっ!!」
若葉がパイプ椅子から飛び上がり、 握りしめた競馬新聞を千切れんばかりに振り回す。
画面の中では、 先頭で逃げ粘るホウオウビスケッツに、 早仕掛けでポジションを押し上げた⑩アドマイヤテラと⑦ショウヘイが襲いかかろうとしていた。 その後ろには、 好位で脚を溜めていた⑧サクラファレルが虎視眈々と前を狙っている。
佐倉助手:「若葉さん。 画面のテラの動きをよく見てください。 3コーナーで見せた圧倒的な推進力が、 完全に失われています」
佐倉助手が、 眼鏡の奥の瞳を冷ややかに光らせて指摘した。
若葉:「えっ、 なんで!? あんなに勢いよく上がっていったのに、 直線に入った途端に脚が鈍っとるやん!」
若葉がモニターに顔を擦り付けんばかりに身を乗り出す。
神宮寺教授:「早仕掛けの代償(コスト)よ」
神宮寺教授が、 琉球ガラスのマグカップを両手で包み込みながら、 静かに、 しかし断定的な声で告げる。
神宮寺教授:「アドマイヤテラは、 12.8秒に緩んだ瞬間に動いた。 そこまでは完璧だったわ。 でもその直後、 11秒台後半の高速ラップが4ハロンも連続したのよ。 自らペースを引き上げておいて、 その持続戦の負荷(ダメージ)を最前線でモロに受けてしまった。 ……ゴールまで走り切るためのエネルギー(CEL)は、 もう一ミリも残っていないわ」
若葉:「うわぁ……。 自分で作った激流に、 自分で飲み込まれてもうたんや……」
若葉が、 へなへなと椅子に座り込む。
神宮寺教授:(ええ。 前で戦う者たちにとって、 この後半1000メートル58.8秒というラップは、 まさに血を吐くような拷問ね。 ホウオウビスケッツは序盤の10.2秒で削られ、 アドマイヤテラは中盤の急加速で焼き切れた。 彼らの間に入ったショウヘイも、 前後の圧力に挟まれて限界を迎えている。 ……前方の安全地帯は、 いまや完全に灼熱の地獄と化しているわ)
教授の脳内で、 精緻な物理演算のロジックが弾き出されていく。
残り四百メートル。
ホウオウビスケッツが力尽き、 アドマイヤテラも後退する。 前線で耐え抜いたショウヘイが懸命に脚を伸ばすが、 その後ろから最も理想的なポジションで我慢していたサクラファレルが、 馬群を割って先頭へ躍り出た。
さらに中団からは、 インを突いた⑭レディネスと、 外に持ち出した⑬グランディアが襲いかかってくる。
若葉:「前が総崩れや! ショウヘイちゃんも捕まる! ああっ、 うちらの馬券が紙屑に……!」
神宮寺教授:「若葉、 馬券なんてどうでもいいわ。 見なさい!」
神宮寺教授が、 バンッとデスクを叩いて立ち上がった。 その切れ長の瞳に、 狂気じみた歓喜の炎が燃え盛っている。
佐倉:「……来ますよ。 大外から、 規格外のバグが」
佐倉のタイピングの音が、 一気に加速する。
大歓声に包まれる直線の外側。
インコースで泥沼の消耗戦を繰り広げる前方勢を嘲笑うかのように、 大外の綺麗な芝のど真ん中を、 桃色の帽子――⑮シェイクユアハートが、 異次元の加速で飛んできた。
若葉:「な、 なんやあの脚! 後ろにおったのに、 一瞬で前の馬を飲み込んでいきますやん!」
若葉が悲鳴のような声を上げる。
佐倉:「古川騎手の完璧なエスコート(誘導)です」
佐倉がサブモニターの数値を高速で切り替えながら解説する。
佐倉:「彼は4コーナーを八番手で回りましたが、 馬群に突っ込むことを避け、 迷わず大外へ進路(ルーティング)を切り替えました。 『外へ出せば必ず伸びる』という、 馬のポテンシャルに対する絶対的な信頼がなければできない判断です」
若葉:「でも佐倉助手、 最後の直線って前の馬もバテて遅くなるから、 後ろの馬が速く見えるだけちゃいますの?」
神宮寺教授:「いいえ。 今回は全く違います」
神宮寺教授が、 真紅のレーザーポインターでゴール前のラップタイムを激しく叩いた。
神宮寺教授:「最後の1ハロンのタイムを見てみなさい! 『11.4秒』よ! レースの終盤に向かって、 全体がさらに加速しているの。 前を走るサクラファレルやレディネスは、 決してバテて止まったわけじゃない。 彼らも最後まで必死に高速ラップを維持しているわ」
若葉:「えっ……じゃあ、 前が止まったんやなくて……」
神宮寺教授:「シェイクユアハートの末脚の絶対値が、 次元を二つほど超越していたのよ!」
教授の声が、 歓声に負けないほどの熱を帯びる。
残り五十メートル。
好位から抜け出し、 勝利を確信したサクラファレル。
だが、 その外側から、 摩擦を完全に棄却したかのようにシェイクユアハートが並びかけ、 そして、 いともたやすく抜き去っていった。
実況:『シェイクユアハート、 差し切った! 1分58秒2、 レコードタイムです!!』
実況の絶叫とともに、 桃色の帽子が先頭でゴール板を駆け抜けた。
続いてサクラファレル、 レディネス、 ローシャムパーク、 グランディアがなだれ込む。
アドマイヤテラは9着、 ホウオウビスケッツは10着に沈んでいた。
若葉:「……」
若葉は声も出ず、 両手で顔を覆った。
佐倉:「確定リザルト、 受信しました」
佐倉が、 無機質な声で着順と上がりタイムを読み上げる。
佐倉:「1着、 シェイクユアハート。 ……上がり3ハロンは『34.6秒』です。 2着のサクラファレルが35.2秒ですから、 実に0.6秒もの差をつけています。 この超高速持続戦において、 後方から自力で動いて34.6秒を叩き出すのは、 物理エンジンを疑うレベルの異常数値(バグ)です」
若葉:「34.6秒……。 前があんなに速かったのに、 最後も一番速い脚を使うなんて、 どうやってスタミナ温存しとったんですか……?」
若葉が、 信じられないものを見るような目でモニターを見上げる。
神宮寺教授:「それが、 彼の戦術の恐ろしさよ」
神宮寺教授は、 ふうっと熱い息を吐き出し、 白衣の襟を正した。
神宮寺教授:「序盤の激流(10.2秒)には一切乗らず、 後方で息を潜める。 中盤で前が緩んだ隙に、 静かに勝負圏の八番手まで進出する。 そして、 前が潰し合いを始めた直線で、 温存し切ったエネルギーを一気に大外で爆発させた。 ……『待つだけの差し』ではなく、 『勝つために自ら動く差し』よ」
若葉:「……うちらの◎アドマイヤテラちゃんが無理やり動いたおかげで、 シェイクユアハートちゃんにとっては完璧な狩場(ステージ)が完成してもうたんやね」
若葉の言葉に、 教授は深く頷いた。
神宮寺教授:「ええ。 前で逃げる者、 それに耐える者、 自ら動いて流れを破壊する者。 そのすべての思惑と欲望が絡み合い、 最終的に最も美しい形で利益(勝利)を吸い上げたのが、 大外のシェイクユアハートだった。 ……静的解析(Static)では決して到達できない、 泥臭くも完璧な五頭のアンサンブルよ」
教授は、 ホワイトボードに残された『究極の五頭』の文字を、 まるで至高の芸術作品を鑑賞するように見つめていた。 その瞳には、 馬券の敗北を微塵も感じさせない、 純粋な探求者の歓喜が満ち溢れていた。
第4章『五頭のアンサンブルと、 不完全な開演がもたらす奇跡』
西へ傾いた真夏の太陽が、 鳴門の海面をギラギラと照らし出し、 ブラインドの隙間から研究室の床にオレンジ色の縞模様を落としている。
壁掛けエアコンが懸命に冷気を吐き出しているものの、 モニターから放たれる熱気と、 先ほどの凄まじいレコード決着の余韻が、 部屋の空気をひどく重たくしていた。
若葉:「あーあ……終わりましたわ。 特上カルビ食べ放題どころか、 今日の晩ご飯、 またモヤシ炒め確定です……」
若葉は机の上に突っ伏し、 空っぽになった財布を力なくパタパタと開閉させた。 その横には、 赤ペンでぐちゃぐちゃになった競馬新聞が虚しく広がっている。
佐倉助手が、 排熱ファンを唸らせていたノートパソコンの画面を静かに叩き、 最終的なレースの全体ログを保存した。
佐倉助手:「資金(リソース)の運用という観点では、 完全なシステムクラッシュです。 しかし、 レースの構造(アーキテクチャ)としては、 極めて論理的かつドラマチックな結果ログが生成されました」
彼はズレた眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、 どこか満足げな息を吐く。
神宮寺教授:「お二人とも、 お疲れ様」
神宮寺教授は、 すっかり氷の溶けきった琉球ガラスのマグカップを傾け、 残っていた冷たい紅茶を飲み干した。 白衣のポケットに両手を突っ込み、 夕陽に赤く染まったホワイトボードを見つめる。 そこには、 赤色で大きく印をつけられた『究極の五頭』の名前が残っていた。
神宮寺教授:(完璧に構築したはずの黄金の安全地帯が、 アドマイヤテラの『勝利への渇望』によって自ら破壊される。 ……これだから競馬という名のシステムは愛おしい。 私たちが机上で組み上げた分厚い静的解析(Static)のガラスを、 彼らの泥臭い意志(Runtime)がこんなにも美しく叩き割ってくれたのだから)
教授は真紅のマーカーを手に取ると、 ホワイトボードに書かれた五頭の馬名を、 まるで小説の登場人物相関図のように線で繋ぎ始めた。
神宮寺教授:「ねえ、 若葉。 競馬の面白さって、 ただタイムが速いとか、 能力が高いとか、 そういう無機質な数字の羅列だけじゃないのよ」
若葉:「数字やないって……ほな、 何なんです?」
若葉が、 モヤシ炒めの悲哀を引きずったまま顔を上げる。
神宮寺教授:「それぞれの馬が持つ『物語上の役割(キャラクター)』のぶつかり合いよ」
神宮寺の切れ長の瞳に、 知的な歓喜の炎が灯る。
神宮寺教授:「今回の札幌記念は、 単なるシェイクユアハートの差し切り勝ちじゃない。 この五頭の思惑が完璧に連鎖した、 奇跡のアンサンブルだったの」
教授のマーカーが、 まずは一番下の名前を丸く囲んだ。
神宮寺教授:「ホウオウビスケッツ。 彼は『俺がレースを作る。 誰にも主導権を渡さない』という意志で、 序盤から10.2秒の激流を作り出した。 逃げることそのものに意味を見出した支配者ね」
若葉:「せやから、 あんな無茶苦茶なペースで飛ばしとったんや……」
神宮寺教授:「そしてショウヘイは『前にいる。 まだ行ける。 最後まで残す』という正攻法のスタンス。 派手な奇襲ではなく、 正面から激流に耐え抜こうとした男よ」
佐倉がキーボードを叩き、 ショウヘイの粘り強いラップタイムを画面に表示させる。
若葉:「でも、 その二人の我慢比べを、 外からぶっ壊したのが……」
若葉がハッと息を呑む。
神宮寺教授:「そう、 アドマイヤテラよ」
神宮寺が、 本命の二重丸を打った名前を強く叩く。
神宮寺教授:「彼は『待っていても勝てないなら、 自分から行く』と判断した。 自分が勝つために動いて、 レース全体を圧縮(コンプレッション)したの。 一番攻撃的で、 一番レースを変えた存在よ」
若葉:「でもそのせいで、 前におる馬はみんな苦しくなって……。 そこに突っ込んできたんが、 シェイクユアハートちゃんってコトですか?」
佐倉:「グランディアの存在も忘れてはいけません」
佐倉が静かにカットインする。
佐倉:「彼は『慌てない。 まだ終わっていない』と、 展開がどう変化しても自分のリズムを維持し、 最後まで戦線から消えなかった。 彼のような追走者がいたからこそ、 後方の圧力はさらに高まったのです」
神宮寺教授:「そのすべての圧力を背負い、 最後に大外から全部を奪い去ったのが……」
教授がマーカーを指先でクルリと回し、 シェイクユアハートの名前にアンダーラインを引いた。
神宮寺教授:「『まだだ。 最後に行く』と、 最初から最後まで自分のレースを捨てなかった男。 ……アドマイヤテラがレースを動かし、 ホウオウビスケッツが支え、 ショウヘイが耐え、 グランディアが残り、 最後にシェイクユアハートが決めた。 これが、 2026年札幌記念の真実よ」
若葉:「うわぁ……なんかそう言われると、 めっちゃ美しい物語に見えてきましたわ」
若葉がノートをパラパラと捲り、 パッと顔を輝かせる。
若葉:「それって、 うちが書いた『新・第18章』みたいやん! アドマイヤテラちゃんは、 自分が嫌悪するバグを承知でルートをこじ開けたエルゼさん! ホウオウビスケッツが作った障壁を、 シェイクユアハートちゃんがゼファーみたいに摩擦ゼロで突き破ったんや!」
神宮寺教授:「ふふっ、 まさにその通りよ」
神宮寺は楽しげに肩を揺らした。
神宮寺教授:「エルゼが自分の計算機を狂わせる選択をしたように、 アドマイヤテラも自分の勝利のために『安全地帯』を自ら破壊した。 その結果生まれたレコードタイムという名の奇跡は、 事前の数式(Static)では絶対に導き出せない、 本番環境(Runtime)だけの極上のバグなのよ」
若葉は呆れたように大きく肩をすくめ、 やがてふふっと吹き出した。
若葉:「ほんま、 教授は度し難い競馬変態(マゾ)ですねぇ! 自分の予想が外れても、 完璧な計算が馬たちの熱量でぐちゃぐちゃに壊される瞬間を見られたら、 それで大満足ってコトでしょ?」
神宮寺教授:「最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
研究室の壁に掛けられたデジタルクロックが、 静かに時間を刻んでいる。
夕陽が沈み、 部屋の中に深い藍色のグラデーションが広がり始めていた。
神宮寺教授:「競馬というシステムは決して完成しない。 だからこそ、 私たちはまた来週も、 新しい仮説(タクト)を振るい続けるのよ」
神宮寺教授が、 白衣の襟を正し、 凛とした声を響かせる。
神宮寺教授:「大衆の計算が追いつかない、 極上の不協和音を探しに。 ……ゲートが開くという『不完全な開演』が、 私たちに新しい世界を見せてくれるのだから」
若葉が 若葉:「よっしゃあ!」 と力強くガッツポーズを作った。
若葉:「ほな、 次のレースもアリーナの最前列で観測させてもらいますわ! うちらの要塞が勝つか、 それともまた伝承のバグ馬が飛んでくるか……来週の晩ご飯こそ、 絶対特上カルビにしたりますからね!」
重厚な扉がカチリとロックされる音が、 週末の熱狂を、 静かに研究室の中へと閉じ込めた。
『神宮寺教授の秘密講義 札幌記念(後編)』――完
|
作中で語られる意識低い系デブ猫無料趣味小説「新・第18章『不完全な開演(ファンファーレ)、あるいは境界を破る者たち』『響け、解析不能な共鳴(レゾナンス) 〜失敗作と呼ばれた少年と、消えゆく少女の遺した光〜』18【成長し続ける天才が歩むそれからの物語(第1部リライト+完結編)】」とは?
|
新・第18章『不完全な開演(ファンファーレ)、あるいは境界を破る者たち』解説
本章は、王国という名の閉ざされた『水槽(テラリウム)』のシステム、そして外の世界(外界)の理(ことわり)の双方が激しく衝突し、登場人物たちが個人の損得や既存の論理(数式)を超えて「他者を救う選択」を果たす、物語の大きな転換点となるエピソードです。
以下に、主要なポイントとテーマに沿って解説します。
1. 「数式(ロジック)」から「不確定要素(バグ)」への移行
物語の冒頭、エルゼをはじめとする管理官たちは、すべてを「生存確率」「効率」「プロトコル」という冷徹な数式で処理してきました。外界の人間を助けることは確率論的にゼロであり、国家のシステム維持のためには「切り捨てるべきノイズ」に過ぎません。
しかし、その冷酷な計算機(論理)が、ゼファーやアリアたちの「動機(誰かを救いたいという意志)」によって次々と狂い始めていきます。
エルゼの裏切り: 常に合理的だった彼女が、ゼファーを救うために王国の中央システムをハックし、自らの手で「数式外のバグ」を作り出しました。 ナギの同行: 国家反逆という重罪、そして自分自身の肉体が限界(死の危険)を迎えていると知りながらも、アリアと共に外界へ踏み出す選択をします。
効率や正解(セーフティ)を優先してきた彼らが、あえて「効率の悪い、しかし魂が震える選択」をする姿こそが、タイトルにある『不完全な開演(ファンファーレ)』の真意です。
2. 「四十九人の想い」とパルパルの合流
外界から決死の思いで大障壁にたどり着いたエルフの少女・パルパル。彼女の背景には、自分を逃がすために命を落とした「四十九人の同胞たち」の犠牲がありました。
パルパルが背負う重みと、アリアやゼファーたちが背負う「世界や仲間の代償」がここで重なります。 パルパルが「毒を解毒・進行を遅らせる術」を持っていることは、ただ守られるだけの存在ではなく、今後の過酷な旅において彼女もまた不可欠な「楽団の仲間(音色)」として加わることを意味しています。
3. アイリスの存在と「命を削る音」
アリアの白化した右手や、ゼファーの石化した右腕は、伝説の少女・アイリスの命や自らの肉体を薪にして放つ「世界の歪みを引き受ける力」です。
目に見えない『魂の残響』であるアイリスが常にアリアの側に寄り添い、彼の心を支えています。 痛みを伴い、寿命を削るような過酷な力でありながら、それを恐れではなく「誰かのための音」として鳴らすことで、アリアたちはただの戦闘者ではなく、世界に抗う「音楽家(オーケストラ)」へと昇華していきます。
4. 結末:半径十キロメートルの「セーブポイント」
アリアが放った渾身の第一陣律(ビート)とアイリスの黄金の残響の重なりは、死に満ちた灰色の世界に直径十キロメートルの「青空と生命の安全地帯」を生み出しました。
これは、王国という分厚いガラスの水槽のなかに閉じこもっていた彼らが、初めて「外の世界」へと自らの足で足跡を刻み、世界を自分たちの手で変えていくという壮大な宣戦布告(ファンファーレ)です。 リンネ、クロス、リアム、マーク、そして残ったエルゼやコトネといった仲間たちの思いを背負い、アリア、ナギ、ゼファー、パルパルの4人は、本当の真実と救済を求める旅へと歩き出します。
既存の秩序が崩壊し、不格好で泥臭い「人間らしいアンサンブル」が響き始めたことで、物語はいよいよ真の外界・世界の深淵へと突入していく熱い展開となっています。
|
新・第18章『不完全な開演(ファンファーレ)、あるいは境界を破る者たち』『響け、解析不能な共鳴(レゾナンス) 〜失敗作と呼ばれた少年と、消えゆく少女の遺した光〜』18【成長し続ける天才が歩むそれからの物語(第1部リライト+完結編)】

|