◀第12章『四度目の鐘と、熾天使(セラフィム)の査定』
▶第14章『神の褥、あるいは光の棺』
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第13章『最後の花嫁』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: ちび式じい」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 栗田まろん」「VOICEVOX: 黒沢冴白」
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――ゴォォォォォォォン……。

第四の鐘が、遥か遠い現世の果てで鳴り響いていた。その重厚な音色は、幾重もの厚い石壁に遮られながら、奈落の如き洗礼所の底へと寂然に降りてくる。低く。重く。それでいて、すべてを永眠へと誘う子守唄のように、ひどく優しげな響きだった。
エリナは、ゆっくりと、その重い顔を上げた。

視界には、何一つとして存在しない。白い壁。白い床。白い天井。どこまでも平坦で同じ色彩をした、痛いほどに静まり返った剥き出しの小部屋。

彼女の身体には、もはや一枚の布すら纏われてはいなかった。過酷極まる洗礼を終え、すべての不純物を徹底的に削ぎ落とされたただの器には、自身の所有物など何一つ残されてはいない。あの美しい金髪を留めていた、お気に入りの淡いリボンも。胸の奥に大切に仕舞い込んでいた、愛おしい思い出の品も。誰かから手渡された、小さな、小さな、あの甘酸っぱい黄色い贈り物さえも。すべてが、ここへ辿り着くまでの過程において、冷徹な水底へと沈められ、跡形もなく失われていた。
だから。エリナは、自らの両の掌を、胸の前でそっと重ね合わせる。そこに辛うじて残されているのは、中身を失って空っぽになった『自分自身』という、不確かな肉体の輪郭だけだった。
「…………」
何かを、深く思考しようとする。けれど、一体何を考えようとしたのか、その思考の前提すらもう今の彼女には判然としない。
遠い昔のこと。幼い頃の、他愛のない記憶。誰かと顔を見合わせて、楽しそうに笑い合ったこと。誰かに、困ったように怒られたこと。誰かの、どうしようもなく愛おしい体温に、強く、強く抱きしめられたこと。
そのどれもが、濃密な白い霧の向こう側へと深く沈んでしまった。必死に指先を伸ばそうとも、透明な空気を空しくすり抜けるだけで、もう何一つとして掴み取れはしない。

それでも。不思議と、胸の奥が『怖い』と怯えることはなかった。恐怖という名の不純な感覚そのものが、すでに彼女の魂から、綺麗に洗い流されて消滅していたからだ。

ただ。完全に空白となった胸の最奥に、たったひとつだけ。名前を失った『熱』の残滓のようなものが、小さく、けれど頑固に息づいていた。
誰かが。世界で、ただ一人の誰かが。ずっと、自分の名前を叫んでいたような気がする。遥か遠い暗闇の底から。何度も、何度も、必死に。泥にまみれ、世界を呪い、どこか怒ったような、泣き出しそうな声で。
「……あなたは、誰?」

掠れた幽かな声が、洗礼所の冷徹な静寂へと溶けて消える。もちろん、返事など返るはずもない。エリナは、名もなき疑問を浮かべるように不思議そうに首を傾げた。
けれど、その叫びの残響だけは、彼女の頭蓋の奥からどうしても消え去ってはくれなかった。それが一体、誰の声なのか。どんな貌をして、どんな風に笑う人だったのか。自分に、何を必死に伝えようとしていたのか。記憶は、もう何一つとして思い出せない。ただ、その声が残していった熱い温もりだけが、空白の胸の最奥に澱みなく残っている。まるで、冷たい虚無の世界と自分自身とを辛うじて繋ぎ止めている、最後の一本の、極細の糸の如くに。
ふと、洗礼所の最奥へとその虚ろな目を向ける。千年の悠久の間、誰の侵入をも拒んで固く閉ざされていた巨大な石の扉が、ゆっくりと、異界の光を帯び始めていた。白銀の光。網膜を焼き切らんばかりの、まばゆい光の奔流だった。

エリナは、そのあまりの眩しさに細い瞳をさらに細める。扉の向こう側に、何かが自分を待っている。本能的に、そう直感した。そこに何が口を開けているのかは分からない。ただ、行かなければならない。それだけは、教団の教義ではなく、彼女の魂の最底が正しく理解していた。
エリナは、一歩。剥き出しの素足で、冷え切った白い床を踏み出した。ひんやりとした無機質な足音が、静寂に小さく弾ける。もう一歩。そして、さらに一歩。光り輝く扉の深淵へと、吸い寄せられるように近づいていく。

それは、酷く不思議な感覚だった。怖くもない。寂しくもない。悲しくもない。脳内には、何も存在しない。ただ、ひたすらに、世界が静かだった。
そして。エリナがその光の扉の直前へと辿り着いた、まさにその瞬間。決壊して溢れ出した圧倒的な白光が、彼女の無垢なる器を、優しく、力ずくで包み込んだ。
「……あ」
思わず、小鳥の羽ばたきのような小さな吐息が漏れる。その光は、不思議と痛みを伴わなかった。むしろ、胎内の如くひどく温かい。柔らかな光の粒子が、華奢な肩を、背筋を、身体中のすべてを、神聖なる生贄として祝福するように静かに覆い尽くしていく。
そして――世界が、鮮やかに反転した。

――花。
最初に見えたのは、視界のすべてを塗り潰す、一面の花の海だった。地平線の最果てまでどこまでも続く、広大な花畑。白。青。鮮烈な黄色。淡い桃色。不穏な紫。人間の世界には名前すら存在しないような無数の花々が、風の吹くままに揺れ、世界の果てまで絨毯の如く続いている。

その花景の向こう側には、吸い込まれそうなほど澄み切った青空が広がっていた。ちぎれ雲ひとつない。どこまでも高く、どこまでも深い、底のない青。肌を撫でる、優しい春の如き風が吹く。花々が一斉に頭を垂れて揺れ、さらさらと葉の擦れ合う心地よい音が鼓膜に届く。遥か遠くから聞こえる小鳥の囀り。どこかの清流で流れている、川のせせらぎ。すべてが、旧い絵本の中のようにも穏やかだった。あまりにも、完璧に均された穏やかさ。
エリナは現実感を失ったまま、しばらくその場に石像のように立ち尽くしていた。

「……綺麗、なところ」

自然と、独り言がその唇から零れ落ちていた。紡がれた声音は、自分でも驚くほど一切の濁りがなく、硝子細工のように透き通っていた。
すると――。地平線の彼方から、きらきらと小さな光の粒子が、意志を持つように彼女の元へと集束し始めた。ひとつ。ふたつ。みっつ。やがて無数の光彩がエリナの周囲を祝福するように舞い踊り、光の繭の中から、透明な羽を羽ばたかせる小さな精霊たちが次々と姿を現していく。百花の間を可憐に飛び、優しい風に乗りながら、彼らは無邪気に楽しそうに、コロコロと鈴を転がすように笑っていた。

『おめでとう』 『おめでとう、大いなる神様の花嫁さん』 『きれい。この世の何よりも、とってもきれいだよ』 『神様の祭壇へ行くのね。本当におめでとう』
エリナは、その無垢なる瞳で彼らを見つめた。花嫁。その甘美な、けれどどこか呪詛の如き言葉だけが、奇妙な重量を持って空白の胸へと落ちていく。
「……わたしが、花嫁?」
ぽつりとそう呟いた、まさにその瞬間だった。彼女の身体を包み込んでいた光の粒子が、一斉に淡く、だが決定的な輝きを放った。光の奔流から編み出された無垢な白い絹が、彼女の華奢な肩先を包み、胸元を覆い、長い長い裾が足元の極彩色の花畑へと、滑らかな音を立てて静かに広がっていく。
それは、純白のウェディングドレスだった。

人の世で新婦を飾り立てるための、華美な装飾など一切そこには施されていない。ただ、どこまでも白く、どこまでも清らかな、人間性の死滅を称えるための死装束。腰のあたりまで届いていた、かつて誇りだったはずの美しい髪も、いつの間にか月光の褪めた無機質な白へと完全に染まりきっていた。
その、人間としての終わりの光景を自らの視界に収めても、エリナの心は何も感じようとはしなかった。突発的な驚きも。不条理への悲哀も。迫り来る死への恐怖すらも。
ただ。
「……綺麗」
心から、純粋にそう思った。
そして、ふと気づく。自分の細い両腕に、いつの間にか、大きな花束が抱えられていることに。両の腕だけでは到底抱えきれないほどの、色とりどりの、不気味なほど鮮烈な花々。無垢な白い花。吸い込まれそうな青い花。――そして。その中に、少しだけほろ苦い匂いのする、小さな、小さな黄色い花。
その百花のなかに、なぜか酷く見覚えがあるような気がする、けれど決定的に思い出せない花が混ざり合っていた。それが、かつて誰かが自分のために手渡してくれたものなのか。それとも、いつか自分がどこかで摘み取ったものなのか。彼女の頭脳では、それすら判然としない。

ただ――とても大切で。もしもこれを手放してしまえば、自分という存在が今度こそ消滅してしまう、そんな絶対に手放してはいけない真実であったような気がした。
「……これ、は」
抱えられた花束を、じっと見つめる。完全に空白であったはずの胸の最奥が、ほんの、ほんの少しだけ、焼けるように痛んだ。
なぜなのか、もう今の彼女には理由のすべてが分からなかった。痛いという肉体的な感覚も、悲しいという精神的な感情も、もうほとんどその魂には残されていないはずなのに。それでも。意識の最奥に眠る、最も柔らかく、最も傷つきやすい硝子のような場所が、微かに不気味に疼いていた。

その疼きの正体を必死に手探りしようとして、エリナはそっと、その重い瞼を閉じる。

――また、あの誰かの叫び。網膜の裏で、確かに聞こえた。
『――……な、エリナ……っ!』

分からない。そのノイズ混じりの言葉が、一体何を叫んでいるのかは分からない。けれど。その声の響きだけは。世界が滅びを迎えようとも、どうしても、絶対に忘れたくはなかった。
「……あなたは、誰なの?」

果てしない青空へ向けて、消え入りそうな声で問い掛ける。当然、天からの答えはない。代わりに、どこまでも優しい、欺瞞に満ちた春の風が吹き抜けた。極彩色の花畑が一斉に頭を垂れて揺れ、無数の花びらが舞い上がり、エリナの褪めきった白い髪を優しく撫でて、純白のドレスの裾を物寂しげに揺らしていく。
そして――。百花が咲き乱れる花畑の遥か彼方。なだらかな緑の丘の向こう側に。天を衝くほどに巨大な魔法陣が、突如としてその姿を露にした。淡い金色の不気味な光を放ちながら。静かに。ただ冷徹に。空と大地の境界線を融解させるようにして、虚空に浮かんでいる。

あそこの中心へと向かえば、すべてが終わる。なぜか、それだけは教団の教義を越えて、彼女の魂の残滓が正しく理解していた。
エリナは、ゆっくりと、その素足を前に進め始めた。一歩。また一歩。花々が彼女を歓迎し、生贄を招き入れるように左右へと自然に分かれていく。小さな精霊たちが、その純白の周囲を楽しそうに羽ばたき、飛び回る。

『おめでとう』 『きれいな、きれいな花嫁さん』 『大いなる神様が、あそこの祭壇でずっと待っているよ』
エリナは、人形の如く静かに微笑んでみせた。自分は今、あまねく世界から祝福されている。そう思った。だったら――自分は今、世界で一番幸せそうに笑わなければならない。そう、脳内の奥深くが告げていた。

けれど。なぜだろう。完全に空白になった胸の奥底が、ほんの少しだけ、引き千切られるように苦しい。その理由は、もう何も分からない。自分が一体何を失ってしまったのかも。自分が本当は誰を待っているのかも。なぜ、意志とは無関係に、瞼の裏から勝手に熱い涙が零れ落ちそうになるのかも。もう、何一つとして分からないのだ。
それでも。彼女は歩く。
名前のない花束を両腕に抱えて。神の光で編まれた白いドレスを纏って。悪意なき祝福の光に満ちた世界を、ただひたすらに、前だけを見据えて。遠くで冷徹に明滅する、約束の魔法陣へ向かって。ただ、歩いていく。

その、すべてを諦めきった後ろ姿は、この世の何よりも、どこまでも美しかった。それはまるで――本当に、世界で一番幸せを約束された、無垢なる花嫁のようだった。
――だからこそ。もしも、その完璧に調えられた光景を、冷徹な外側から凝視している者がいるのだとすれば。誰もがきっと、悍ましいまでの不条理に気づいてしまうだろう。
慈悲深く微笑むその花嫁の瞳には、もはや普遍の光の欠片すら残されてはいないことに。そして――。完全に空洞へと削ぎ落とされたはずの胸の最奥で。最後の最期まで消え去ることを拒み、頑固に残存し続けているものが、たったひとつだけあることに。
忘却の彼方から響く、あの誰かの叫び。名も知らぬ少年の名前。世界でただ一人、自分のためにすべてを敵に回して必死に名前を呼び続けている、あの泥だらけの不格好な悲鳴。

それだけが。エリナの意識からあまねく色彩が失われ、白く白く塗り潰されていく世界のなかで、絶望に抗う最後の灯火の如くに。小さく、小さく、けれど烈しく燃え続けていた。
エリナは、知る由もない。網膜の裏で木霊するその声の主が、今、この酷く残酷な瞬間も。自分という一人の少女を取り戻すためだけに、現世の死線をいくつも越えて、ここまでがむしゃらに疾走していることを。
そして――そのひねくれた偏屈な魔法学徒が、神の仕様にとって最も不都合極まる、最悪の侵略者として。この美しくも悍ましい残酷な箱庭の結界を、まもなく土足で踏み破り、足を踏み入れようとしていることを。
ただ。今はまだ、エリナは無心にその素足を前に進める。極彩色の花畑のなかを。どこまでも深い、吸い込まれそうな青空の下を。悪意なき祝福を歌い続ける精霊たちの輪に囲まれて。世界の最果て、神への決済を冷徹に司る魔法陣へと向かって。
ゆっくりと。ゆっくりと。
――神へと捧げられる『最後の花嫁』として、彼女はただ、歩み続けていた。

――ゴォォォォォォォン……。
第四の鐘が、白亜の神殿を底から重々しく揺るがした。その荘厳にして不変の音色は、神殿を構築する無数の石壁を震わせ、床下深くに埋め込まれた古代魔法回路の一本一本へと、生温かい血流の如くに伝播していく。

神殿のなかに佇む、すべての者が一斉にその顔を上げた。清廉な純白の法衣を纏った神官も。無骨な鉄甲に身を固めた教団の守護兵も。洗礼を終え、ただ平穏を祈り続けていた老人も。我が子の小さな頭を胸元に抱いた、若き母親も。
誰もが、その破滅と救済を告げる鐘の意味を、寸分の狂いもなく正しく理解していた。
――最終段階。王国の盾たる神託の巫女が、最果ての道へと足を踏み入れたのだ。
その確定した事実だけで。神殿の冷え切った空気には、張り詰めた神聖な緊張と、狂信的な熱狂にも似た、酷く奇妙な安堵が満ち満ちていった。
「――第四鐘、確認」

祭壇の傍らに直立する神官が、極めて事務的な声で告げた。
「洗礼工程、正常に完了」「神託の巫女、これより霊界への移行を開始」「対価の査定、正常」「契約術式、エラーなし」
ひとつ。またひとつ。無機質な確認の言葉が、冷徹な歯車を完璧に噛み合わせるようにして、静かに重ねられていく。
誰も、声を荒らげたりはしない。誰も、慌てふためきはしない。なぜならこれは、何千年もの悠久の時のなかで、微塵の狂いもなく脈々と繰り返されてきた、この国の絶対正解の儀式だからだ。

同じ手順。同じ鐘。同じ祈り。同じ生贄。そして――等しくもたらされる、同じ『救済』。

「……今年も、恙なく間に合いましたな」

一人の老神官が、肩の重荷をようやく下ろすかのように、深く息を吐き出した。その貌には、長きにわたる儀式準備の過酷な疲労が色濃く刻まれている。けれど、それ以上に、世界を維持する大業を成し遂げたという、歪な誇らしさが満ち満ちていた。
「ええ」
隣に控えていた若い神官が、敬虔な祈りとともに深く首を縦に振る。「神託の巫女様は、必ずや最果てまでその尊き使命を全うされる。我々もまた、その尊き犠牲を裏方として支え抜くことこそが、あまねく民の道理というもの」
その美しき正義の言葉に、異を唱える者など、この白亜の聖域には一人として存在し得なかった。
神託の巫女。それは、この滅びの王国にとって最も尊く、代替の利かない絶対的な存在。地上の王よりも。傲慢な大貴族よりも。光り輝く英雄たる騎士よりも。神の代行者を自称する神官よりも。彼女という一人の少女の『死』には、世界そのものを買収できるほどの、明確な『価値』が刻まれているのだから。
なぜなら。彼女一人の儚い命を至高の対価として鋳造することで、数え切れないほどの人々の命が、未曾有の厄災から救われるからだ。
そう教え込まれてきた。物心がつく幼い頃から。何度も。何度でも、呪詛の如くに。
白亜の神殿の壁画に描かれた、歴代の神託の巫女たちの神聖なる姿。無垢なる純白の衣。両腕では抱えきれないほどの祝福の花束。そして、慈悲深い穏やかな微笑み。その背景には、必ず濁り一つない澄み切った青空が描かれている。
彼女たちは、自らの気高い意志で世界を救ったのだ。だから――彼女たちの最期は、決して悲惨な悲劇などであってはならない。無残な犠牲などでは断じてない。至高の栄誉であり、聖なる救済なのだと。この白亜の檻にいる全員が、ただの一個の狂いもなく信じ切っている。

「……神託の巫女に、祝福を」
祈祷の群衆のなかで、誰かがぽつりと呟いた。
「祝福を」
別の誰かが、魂を共鳴させるようにして応える。
「神託の巫女に、永遠の安らぎを」「神託の巫女に、大いなる感謝を」「我らが背負うべき原罪を、その御身にて清めてくださる無垢なる御方に――」
祈りの波紋が、幾重にも重なっていく。最初はほんの数人だった。やがて十人。二十人。百人――。神殿に集った何千というあまねく民たちが、次々と胸の前で両手を組み、歓喜の涙を流しながら熱狂の祈りを捧げ始めていく。

「――感謝を」「――祝福を」
重なり合う声。その光景は、どこまでも美しかった。あまりにも、絵画の如くに美しく。そして――吐き気がするほどに、醜悪で残酷だった。

誰も。その美しき祈りの中心で、五感を削ぎ落とされ、内側から空洞になっていく少女の『本当の貌』を見ようとはしない。見る必要など、最初からどこにも存在しないからだ。
彼女が暗い洗礼所の底で何を感じたのか。何を無慈悲に失ったのか。どれほどの孤独な恐怖に震え、泣き叫んだのか。そんな泥濘の真実を知ることは、彼らの信じ切っている綺麗な「正義」にとっては、不快で不要な雑音でしかないのだ。
彼らにとって必要なのは、彼女という記号が最期まで、滞りなくこの儀式を遂行することだけ。それだけが、神託の巫女としての『正しい使命』なのだから。
――ガチャリ。
神殿の外周、光の差さない回廊で、守護兵の一人が冷たい鋼の槍を冷徹に握り直した。

「――異常区域、確認」
隣に佇む別の兵が、無機質に応える。「侵入者への警戒を、引き続き最大出力で継続中」「最奥の祭壇周辺への接近は、何人たりとも、一歩たりとも許すな」「了解」
彼らの鋼の面頬の奥の貌にも、凡庸な恐怖や迷いなど微塵も存在しなかった。あるのはただ、冷徹極まる狂信的な使命感だけ。
先ほどから、神殿の奥深くで何度も凄まじい大質量の激突音が不気味に響き渡っている。何者かが、神聖なる儀式を物理的に妨害しようと暴れ回っている――その確たる報せは、すでにこの場を固める彼ら全員の脳内へ伝達されていた。
けれど。彼らにとって、その不届きな侵略者はもはや「自分たちと同じ人間」などでは断じてなかった。神聖なる救済の儀式を不条理に妨害する者。神託の巫女の気高い歩みを危険に晒す者。あまねく世界の存続を阻む、今すぐ冷酷に駆逐されるべき、システム上の最悪の歪み。
だから。見つけ次第、ただ殺す。彼らの思考回路に宿る結論は、ただそれだけだった。
「――神託の巫女様を、この命に代えてもお守りしなければ」

一人の若い守護兵が、熱病にかかったような声で熱っぽく呟いた。
「ああ」
隣に佇む古参の兵が、深く頷く。「我々がここで塵の如くに命を捨てようとも、最後の瞬間まであのお方の道をお守りするのだ」
その決別の言葉に、二人とも一片の疑問すら抱きはしなかった。自分たちが歴史の陰に埋もれる名もなき捨て駒として死に絶えること。それもまた、この美しく綺麗な世界を円滑に回すための、尊き役割に他ならないからだ。
神託の巫女が、世界を救う。教団の守護兵が、彼女の歩む道を守る。聖職たる神官が、儀式を正確に執行する。あまねく信徒が、ただ感謝の涙と祈りを捧げる。
すべてが、正しい。すべてが、あるべき場所へと寸分の狂いもなく収まっている。
その足元の影で、誰かの心が生々しく壊れていたとしても。誰かが絶望の泥濘のなかで、声を失って泣いていたとしても。誰かが、もう二度と光の差さない暗闇へと無慈悲に突き落とされていたとしても。
それは。世界という、より巨大な救済を維持し続けるために必要不可欠な、避けがたい代償に過ぎないのだ。
そう。何千年もの永きにわたる悠久の間。この国の人間たちは、それを疑うことすら忘れて盲信し続けてきた。
だから。誰も、その足を立ち止まらせない。誰も、普遍の前提を問い直そうなどとはしない。誰も、「本当に、これでいいのか」と、白亜の天井を越えた空を見上げて、不条理を尋ねたりはしないのだ。
尋ねる必要など、最初からどこにもないからだ。すべての答えは、もう遥か神話の時代からシステムとして決定されている。神がそう定めた。神託の巫女が選ばれた。絶対不可侵の契約がここに存在する。だから、正しい。

彼らにとっては、その綺麗な前提だけで、思考を停止させるには十分すぎる理由だった。
祭壇の最奥。天を衝くほどに巨大な魔法陣が、ゆっくりと、だが暴力的なまでの輝きをその空間に研ぎ澄ませていく。幾重にも重なり合った不気味な円環。古代神聖文字。契約の論理式。神への決済を司る、無数の魔法回路。そのすべてが、第四鐘の不吉な残響を合図にして、静かに、冷徹に駆動を始めていた。
「術式、第一層――正常」「第二層――正常」「第三層――正常」「契約の記述照合――正常」「神託の巫女との回線接続――正常」「一時預かりの対価情報――正常」
淡々と。まるで精緻な機械の歯車の如くに。狂いのない、絶対正解の確認の声が続いていく。
そして――。最後の一人が、天を衝くほどに巨大な魔法陣のコアを見つめながら、厳かにその結末を告げた。
「――神への決済準備、すべて完了」

その、破滅の瞬間だった。
白亜の神殿の奥底において。すでに不条理な人間たちの浅薄な理解を遥かに超越した『大いなる何か』が、ゆっくりと、その冷徹な眸を開いた。
石畳の地面の下。分厚い石壁の向こう側。遥かなる神殿の、さらに深い物理的な不可侵の領域。血の通った人間の誰も視認することの許されない、隠蔽された位相において。巨大な神のシステムそのものが、永劫の回転を静かに開始する。光の円環が一つ。また一つ。凝視すれば脳髄を焼き切られかねない、致死量の不気味な光彩を帯びていった。

その神聖なる殺戮の起動を見つめていた老神官は、恍惚にも似た狂信の表情を浮かべ、胸の前で両手を深く重ね合わせた。
「今年も……」
小さく。だが、狂おしい喜びに震える声音で、祈るようにぽつりと呟く。
「世界は、正しく救われる」
周囲のあまねく信徒たちが、不気味な連鎖の波の如くに、その言葉へと追随した。
「世界は、正しく救われるのだ」「我らの悍ましい原罪は、これであまねく清められる」「神託の巫女様が、その御身を以て我らを不条理から救ってくださる」「偉大なる神託の巫女に、至高の感謝を」「大いなる神に、永久の感謝を」
重なり合い、膨張していく声。彼らの紡ぐ純粋な祈りが。身勝手な願いが。盲目的なまでの狂信が。一つの巨大で暴力的な情動のうねりとなって、白亜の神殿のすべてを白く、白く、無慈悲に満たし尽くしていく。
その狂乱の、最も残酷な中心で。誰一人として本当の生々しい貌を知ろうとされない一人の少女が。たった一人きりで、もはや現実には存在しない見えない花束をその細い両腕に抱えて歩いている。
神の欺瞞が編み上げた偽りの白いドレスを身に纏い。幻の如き無邪気な祝福の声をその身に受けながら。誰からも憎まれることなく。世界の誰からも恨まれることもなく。誰一人として、これが強制された理不尽な虐殺だとは思われることもなく。
ただ、『世界を救う高潔な花嫁』というあまりに都合の良い記号として。死という名の、取り返しのつかない最後の場所へと向かって歩を進めている。
それこそが。この美しく綺麗に調えられた世界にとっての。絶対にして、何一つ瑕疵のない完璧な『正しい儀式』だった。
老神官が、静かに、深く満ち足りた瞼を閉じた。そして――誰の耳に届かせるでもなく。ただ、天上に君臨する大いなる神の領域へ向けて。最後の一行となる確認の言葉を、厳かに告げた。
「神託の巫女は、もうすぐ不帰の終着点へ到達します」

天を衝く巨大な魔法陣が、視る者の網膜を無慈悲に灼き切るほどの、さらに狂暴な光彩を放って輝きを研ぎ澄ませた。
「神話の時代より続く契約は、現在も正常に維持されています」
もう一度。この王国の絶対不変たる理を冷徹に確認する。
「一時預かりの対価の査定も、すでに完了しています」
そして――。静かに。あまりにも、墓碑銘の如くに静かに。世界の終わりと始まりを告げるその言葉を、自らの唇から吐き出した。
「――まもなく」
「大いなる神による、真の決済が始まります」

白亜の神殿を埋め尽くすあまねくすべての信徒たちが、その絶対の宣告を、一寸の疑いも混じえない歓喜とともに胸へと受け入れていた。
誰も。この場に集った何千という人間の、誰一人として知る由もない。
そのあまりに完璧で瑕疵のない『正しい儀式』の、ど真ん中へ向けて。今、まさに。この世界で最も傲慢にして、どこまでも捻くれたたった一人の侵略者が。天上の神の許可などただの一文字も求めず――。美しく調えられた白亜の絨毯へ、泥だらけの不格好な足跡を容赦なく残しながら。
ただ一人の、完全に空っぽにされた花嫁のいる最奥の場所へ向けて、その知性の牙を獰猛に剥き出しにして、真っ直ぐに突き進んでいることなど。

僕は、ただ走っていた。なりふり構わず、ひたすらに。

あの巨大な白亜の扉を強引に潜り抜けた瞬間から、世界の記述は完全に変貌を遂げていた。足元にどこまでもまっすぐに伸びていくのは、大理石の如き純白の道。その左右には、視界のすべてを埋め尽くす見渡す限りの極彩色の花畑が広がっている。
天上の空は、吸い込まれそうなほどに青い。不気味なまでに、深い青だ。ちぎれ雲ひとつない虚空の下を、甘やかな優しい風が吹き抜けていく。百花が頭を垂れて揺れ、小鳥が囀り、遥か遠方では透き通った川のせせらぎが、木々のざわめきとともに鼓膜を優しく撫でる。

世界のどこを切り取ろうとも、完璧に調えられ、美しい。それはまるで――世界の誰かが『幸福』という不確かな概念だけを材料にして捏ね上げ、偽造したかのような、あまりにも甘美な箱庭の世界だった。
「……待っていろ、エリナ」

僕は、なおも地面を蹴り続けた。手にした熾天使の羽根を、不釣り合いに白い巫女服の胸元へと強く押し当てる。その羽根は淡い藤色の光彩を放ちながら、僕が侵略すべき進行方向を、迷いなく正しく指し示していた。だから、一文字の迷いもない。エリナは、確実にこの仕様の先に囚われている。
僕はただその直感を盲信して、泥だらけの不格好な足を、限界を超えて動かし続けた。
一歩。二歩。三歩――。
だが。どれほど肺を焦がして疾走しようとも、眼前の景色が、ただの一ミリも変化しない。狂い咲く花畑。どこまでも底のない青空。優しい風。使い魔のような鳥の声。どこまでも、どこまでも永遠に反復される、偽りの多幸感。
その、異様なまでに完成され尽くした美しさが、次第に僕の胸の奥底を、吐き気とともに不快に締め付け始めた。
(――綺麗すぎる。吐き気がするほどに)
直感的に、そう思考が弾いた。僕たちの生きる現実の世界というものは、こんなに綺麗に均されてなどいない。そこには泥がある。血反吐がある。無慈悲な涙がある。どうしようもない不条理な間違いが、いくらでも転がっている。それでも人間という不完全な種族は、傷だらけになりながら、不格好にそれぞれの執着を抱えて生きているのだ。
なのに。この神の領域には、それら生々しい人間の痕跡が、何一つとして存在しない。まるで、最初から『人間』という名の泥臭い不純物を必要としていない――完璧に滅菌された、無機質な硝子の水槽のようだった。
「……一体、何なんだここは」
僕が乾いた唇から吐き捨てるように呟いた、まさにその刹那だった。
――ギギッ、ミシリ……ッ。
脳髄の最奥において、世界の歯車が噛み合わない不快な破砕音が炸裂した。手の中で強く握り締めていた熾天使の羽根が、警告の如くにドクドクと強く脈打つ。同時に、第四階梯まで強制解放され続けている僕の解析眼が、脳内でけたたましい警告を鳴らし始めた。

その瞬間、世界の綺麗な皮が、ベリベリと音を立てて剥がれ落ちていった。
吹き抜けていた優しい風が、一瞬で凍りついて止まる。小鳥の囀りが死に絶える。清らかな川のせせらぎも、木々のざわめきも、地平線まで咲き乱れていた極彩色の花畑も――そのすべてが、一瞬にして硬質な硝子の壁の如くに、粉々に砕け散っていった。

「……っ、これ、は……!?」
僕は足を止める。
剥き出しになった世界の真実。その暗闇の中央に、一人の少女が立っていた。
白い。何も身につけていない。空っぽの器。色の抜け落ちた長い髪が、風もないのに静かに揺れている。顔には感情の起伏がなく、瞳には光の欠片すらない。ただ、何もない遠くを虚ろに見つめている。
「……誰だ?」
声を掛ける。少女は答えない。その代わり、ゆっくりと歩き始めた。僕から離れる方向へ。
「待て!」
駆け寄ろうとした。だが、距離が縮まらない。僕がどれだけ全力で走っても、ゆっくりと歩く彼女の背中に、永遠に追いつけない。位相そのものが決定的にズレているのだ。
「何なんだよ……っ!」
僕が叫んだ、その瞬間。少女が振り返った。笑った。ほんの少しだけ。とても穏やかに、とても幸せそうに。そして。そのまま、暗闇の最果てにある断崖の向こうへと、ためらいなく歩いていった。
「――待て!」
少女の身体が、崖の向こうへ消えた。落ちた。そう理解した瞬間、僕の視界の奥に、また別の少女が立ち現れた。

同じだった。白い。何も身につけていない。光のない瞳。表情のない顔。そして。同じ断崖へ向かって歩き、最後には幸福そうに微笑んで、無音のまま身を投げていく。
「……まさか」
次の少女が現れる。また一人。また一人。また一人。無数の少女たちが、暗闇の中へ現れては、同じ道を歩いていく。誰も泣いていない。誰も叫んでいない。誰も助けを求めていない。ただ、システムの与えた幸福な幻覚の中で微笑みながら、己の命を廃棄していく。
「やめろ……」
僕は震える声で呟いた。次の少女が落ちる。
「もう、いい」
また一人、落ちる。
「……もう、十分だろっ!!」
絶叫しても、少女たちは止まらない。彼女たちには、止まるという選択肢そのものが存在しない。
僕は完全に理解してしまった。これが、歴代の神託の巫女だ。何百年、何千年と、この狂った世界で繰り返されてきた、人間の犠牲の残響。

「……こんなの」
喉が、熱く震えた。
「ウェディングロードなんかじゃない」

結婚式でも、祝福でも、救済でもない。ただの廃棄場だ。人間という存在が、たった一人の少女を『世界を救う花嫁』という綺麗な包装紙で包み込み、最後には誰にも見えない暗闇の底へと捨てていくための、最悪のゴミ捨て場。
「……ふざけるな」
拳を握る。爪が掌へ深く食い込み、血が滲む。
「ふざけるなよ……ッ!!」

その瞬間。絶対の暗闇の中から、無機質な声が響いた。
『――では』
男でも女でもなく、大人でも子供でもない。無数の音声が重なり合ったような、不気味な合成音だった。
『何が、間違っているというのですか?』

「……!」
振り返ると、暗闇の中に小さな光がいくつも浮かんでいた。精霊。エリナを幻覚の中で祝福していた、あのシステムの防衛機構たち。だが、彼らの顔に先ほどの笑顔はない。無機質な監視カメラのレンズのように、ただ冷徹に僕を見下ろしている。
『人間は、罪を犯しました』 ひとつ。 『人間は、奪いました』 ふたつ。 『人間は、殺し、争い、他者を踏みつけ、世界を傷つけました』

声が重なり、増殖していく。十。二十。三十。数え切れないほどの原罪の記録が、暗闇を埋め尽くす。
「……だから、何だ」
僕は低く唸った。精霊たちがピタリと黙る。僕は一歩、彼らへ向かって前へ出た。
「人間が醜い罪を犯したからって、エリナ一人に全部押しつけていい理由にはならないだろ」

『――第一の問い』
ひとつの声が、システムのように返ってくる。
『人間の罪を、否定しますか?』
「否定しない」
即答だった。「人間は間違える。人間は醜い。人間は誰かを傷つける。自分のために他人を犠牲にすることだってある」
僕は一度、深く息を吸い込んだ。
「それでも。だからって、誰か一人に全額支払わせていいことにはならない」
『では、誰が払うのですか?』
「……」
僕は、沈黙した。人間全員。そう言うのは簡単だ。でも、その「全員」の中には、何も知らずに生まれてきた子供も、まだ罪を犯していない人間もいる。
「……分からない」
初めて、僕は素直にそう答えた。精霊たちがざわめく。
「誰が払えば公平なのかなんて、僕の貧弱な演算じゃ分からない」
僕は真っ直ぐに顔を上げる。
「それでも。エリナ一人じゃない。それだけは確実に言える」
精霊たちは何も言わなかった。完全な静寂が数秒続いた後。
『――第二の問い』
声が響く。
『泥に塗れた人間に、救われる価値はありますか?』
「ある」
『なぜ?』
「生きたいと思っているからだ」
『それだけですか?』
「ああ、それだけで十分だ」
僕は断言した。「生きたいと思うことに、神からの資格なんて必要ない。罪を償うことと、生きることは別のことだ。償いとは、てめえ自身で背負うものだ。誰かの命をシステムで鋳造して、勝手に押しつけるものじゃない」

暗闇が。ほんの少しだけ、バグのように揺らいだ。
『――第三の問い』
声が、僕の魂を直接問う。
『では、あなたは。この絶望の中で、何を選ぶのですか?』
僕は、答えなかった。代わりに、遠くを見る。暗闇の向こう。無数の少女たちが身を投げた断崖の、さらに向こう側。そこに、エリナがいる。今も、幻覚に酔わされたまま、花束を抱えて歩いている。自分がどこへ向かうのかも知らずに。
「僕は」
ゆっくりと、言葉を定義する。
「エリナを助ける」
『それは、人類の罪を否定することですか?』「違う」 『千年続いた契約を否定することですか?』「違う」
僕は、暗闇へ向けて力強く一歩を踏み出す。
「僕が否定するのは。たった一人を選んで、全部の罪の請求書を押しつける、この狂った『やり方』だ。……それだけだ」

精霊たちの光が、少しずつ僕の周囲から遠ざかっていく。
『あなたは、人間を信じるのですか?』
最後の問い。僕は、少しだけ考えた。人間を信じる。そんな綺麗な言葉は、吐き気がするほど大嫌いだ。人間は裏切る。間違える。愚かで、ひどく醜い。僕だってそうだ。
「信じるとかじゃない」
僕は、冷徹に答えた。
「人間は、自分自身で選ぶことができる。エリナの代わりに誰かを選ぶことも。エリナを選ばないことも。全部、僕たち人間自身が決める。神に決めてもらう必要なんて、一ミリもない」

その瞬間だった。暗闇の奥底で、何かの絶対的な錠前が、一つ、静かに外れたような音がした。
――カチン。
精霊たちはもう答えない。ただ、遠くの暗闇がほんの少しだけ切り裂かれ、光が差し込んでいた。その光の向こう側に、緑に覆われた小さな丘と、淡い光を放つ巨大な決済の魔法陣が浮かび上がっている。
「……エリナっ!」

僕は弾かれたように駆け出した。背後から、精霊の無機質な声が追ってくる。
『あなたは、まだ三十七番目の答えを知りません』
僕は振り返らない。
「なら、見つけてやる!」
走りながら吼える。「三十七番目の答えがどんな絶望だろうと! 僕がエリナを救う理由は、もうとうの昔に決まってる!」
肺が千切れそうに焼ける。足の骨が悲鳴を上げる。それでも、走る。
僕の背後で、絶対の暗闇が静かに閉じていく。無数の精霊たちは、もう何一つ語ろうとはしなかった。ただ、姿が見えなくなる寸前。暗闇の奥から、誰かの声が、ほんの小さく、祈るように零れ落ちた。
『……これは。エリナ一人の罪ではない』
それは、精霊自身の綻びだったのか。それとも、この暗闇に置き去りにされた、歴代の巫女たちの最後の願いの残響だったのか。僕には分からない。
ただ、もう一度、暗闇の彼方で花びらが舞ったような気がした。
僕は、ただ一人の少女の魂を強奪するために。世界そのものへ向かって、狂ったように走り続けた。

走っていた。もう、どれだけ走ったのか分からない。足の感覚など、とっくの昔に泥濘へ溶けて消えている。
肺は焼け爛れ、心臓は壊れかけた歯車のように、胸郭の内側で滅茶苦茶なビートを刻み続けている。第四階梯を限界を超えて解放し続けている致死的な代償も、ミナから託された白亜の巫女服の重みも、今の僕にはもうどうでもよかった。

ただ、前だけを見ていた。遠く。絶対の暗闇の果て。ポツンと、淡い光が見える。そこだけが、この死んだような廃棄システムの中で、唯一『生きている』ように見えた。
「……エリナ」

声に出した。返事はない。それでも、僕は走った。光が近づいてくる。暗闇が少しずつ薄れていく。やがて僕の目の前に、一本の道が現れた。その先には、緑豊かな丘があった。
丘の上。空に向かって伸びるように、一枚の巨大な魔法陣が浮かんでいる。淡い白銀の光を放ちながら。静かに。冷酷に。贄がやって来るのを待っていた。

「……あそこだ」
僕は、最後の力を振り絞って地を蹴った。そのときだった。
「……誰か、いるの?」
声がした。足が止まった。世界を流れる時間そのものが、一瞬だけ完全に凍りついたような気がした。
僕は、ゆっくりと顔を上げる。
丘の中腹。そこに、一人の少女が立っていた。

色の抜け落ちた長い白髪。ひどく細い身体。そして。布切れ一枚すら身につけていない、あまりにも無防備な姿。幻覚の中で見た、彼女の身体を覆っていたはずの純白のウェディングドレスは、跡形もなく消え失せていた。まるで、この神の領域においては、人間が身につける衣服――すなわち『人間としての尊厳』など、もはや必要ないと言わんばかりに。
少女は、こちらを見ていた。けれど。その瞳には、何もなかった。光がない。驚きもない。警戒もない。喜びもない。ただ、穏やかで完璧な『空虚』だけが広がっていた。
「…………」
僕の喉から、声にならない息が漏れた。
「……エリナ」
乾いた声で、名前を呼んだ。少女の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……?」
そのひどく薄い反応だけで。僕の胸の奥で、嫌な音がした。
「エリナッ!」

僕は駆け出した。彼女のところへ。今度こそ。今度こそ手が届く。そう思った。なのに。
一歩。二歩。三歩。どれだけ走っても、エリナとの距離が縮まらない。
「……え?」
おかしい。確かに走っている。風が頬を叩き、景色は後方へ流れている。なのに、丘を登るエリナの背中は、まったく同じ距離を保ったまま遠ざかっていく。位相そのものが、決定的にズレているのだ。
「待ってくれ!」
僕は叫んだ。
「エリナ!」
彼女が、ゆっくりと首を傾げてこちらを振り返る。
「……誰?」
その、無垢な一言が。僕の胸の心臓を、鋭利な刃物で真っ二つに切り裂いた。
「…………」
何を言われたのか。一瞬、演算が追いつかなかった。
「……僕だ」
声が震えた。
「ルイだ」
「ルイ……?」
少女は、その名前を舌の上で不思議そうに転がすように呟いた。けれど、そこには何の感情も紐付いていなかった。懐かしさも、嬉しさも、悲しさも。何も。
「……ごめんなさい」
エリナは、申し訳なさそうに、ほんの少しだけ微笑んだ。
「私……あなたのこと、知らない」
頭の中で。何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。
「……そんな」
僕は呟いた。「そんなはずない」
一歩。また一歩。「エリナ。僕たちは……」
言葉が続かない。何を話せばいい。どんな思い出を伝えればいい。彼女が僕を忘れているのなら、僕が彼女にとって何者だったのか、どうやって証明すればいい。
僕たちが交わした言葉。レモン菓子の苦味と甘み。笑ったこと。泣いたこと。僕が守ると約束したこと。そのすべてが。今のエリナにとっては、存在しない。僕一人が覚えているだけの、独りよがりな記録に過ぎないのだ。
「……エリナ」
僕はもう一度、名前を呼んだ。エリナは、とても優しく笑った。
「あなたも……私をお祝いしてくれるのね」
「…………え?」
「ありがとう」
その声は、あまりにも弱かった。風に吹かれただけで砕けてしまいそうな、壊れた硝子細工のような声。
「みんなが、お祝いしてくれるの」

エリナは、丘の上にある巨大な魔法陣を見上げた。
「とても綺麗でしょう?」
僕は、何も答えられなかった。
「たくさんのお花もあるの」
僕には見えない。けれど彼女の認識の中では、その細い腕に、山のように色とりどりの花束が積み重なっているのだろう。
「みんな……私が幸せになることを、喜んでくれているの」
エリナは笑った。笑っているのに。その瞳には、何も映っていなかった。
「だから……行かなくちゃ」

「――行くな」
僕の声が、地を這うように低く落ちた。エリナが、不思議そうに僕を見る。
「どうして?」
「そこへ行ったら……」
言葉が詰まる。『死ぬ』。そう言えばいい。でも、言えなかった。今のエリナにとって、死という概念すら、もう恐怖ではないのだから。
「……そこへ行ったら、二度と戻ってこられない」
ようやく、それだけを言った。エリナは、少しだけ考えるように空を見上げた。
「そうなの?」「ああ」「……そう」
それだけだった。怖がらない。怯えない。泣かない。ただ、穏やかに受け入れている。その完全な空虚さが、僕には何よりも恐ろしかった。
「エリナ!」
僕は再び走った。今度こそ、今度こそ手を伸ばす。けれど、届かない。どれだけ叫んでも、どれだけ足掻いても、エリナは僕の手が届かない場所にいる。
「待ってくれ!」
声が掠れる。
「僕が行く! 僕が全部なんとかする!」
「…………」
「だから!」
魂を削り切るように叫ぶ。
「――お前じゃなくていい!!」

エリナの足が。ほんの少しだけ、止まった。そして。ゆっくりと、こちらを振り返る。
「……私じゃなくて、いい?」
「ああ!」
僕は叫んだ。「お前が全部背負う必要なんて、どこにもないんだ!」
その瞬間。空っぽだったはずのエリナの表情が、ほんの僅かに揺らいだ。何かを必死に思い出そうとしているように。失われたはずの眉が微かに寄る。
「……あなた」
小さな声。
「……どこかで……」
「そうだ!」
僕は息を呑んだ。「僕だ! 僕は――」
言葉が続かなかった。エリナの瞳に。一瞬だけ、何かが宿った。光。それとも、魂の奥底にこびりついた記憶の残滓。僕は必死に手を伸ばす。
「エリナ!」
その瞬間だった。
ぽたり。

一粒。透明な雫が。エリナの白い頬を伝って、落ちた。

「…………」
エリナ自身が、一番驚いていた。
「……あれ?」
自分の頬に触れる。指先に付いた透明な雫を、不思議そうに見つめる。
「……どうして?」
分からない。なぜ涙が出たのか。悲しいのか。怖いのか。寂しいのか。嬉しいのか。何も分からない。
「私……」
エリナは、自分の胸の奥へ手を当てた。
「どうして……泣いてるの?」

僕の胸が、音を立てて引き裂かれそうになった。
「……エリナ」
僕はもう一度、その名前を呼んだ。けれどエリナは答えない。ただ、涙だけが。一粒、また一粒。白い頬を伝っていく。その姿は、あまりにも静かだった。まるで、彼女の空っぽの身体だけが、失われた記憶の代わりに、まだ僕を愛おしく覚えているかのようだった。
「……やめろ」
僕は呟いた。「そんな顔をするな」
エリナは、困ったように笑った。
「ごめんなさい」「謝るな」「でも……」「謝る必要なんてない」「……うん」
エリナは、ゆっくりと前を向いた。そして、再び歩き始めた。
「待て!」
僕も走る。「エリナ!」
けれど、距離は縮まらない。まるで、この狂った世界そのものが、僕とエリナの間に巨大な断絶を作っているようだった。
「やめろ……!」
僕は叫ぶ。「行くな!」
それでも、エリナは歩く。その先にある、光り輝く魔法陣へ向かって。その先にある、死という暗闇へ向かって。

僕が追いすがろうとした、そのとき。
ふわり。目の前に、無数の光の粒子が降り立った。
『――止まりなさい』
精霊たちだった。淡い光を纏ったシステムの防衛機構たちが、僕の前に立ちはだかる。
「退け」「なりません」「邪魔をするな」「彼女は、祝福されるのです」
僕は、血が滲むほど奥歯を噛み締めた。
「祝福?」
「そうです。彼女は選ばれたのです。世界を救う花嫁です。誰もが、彼女の幸福を願っています」
その無機質な言葉を聞いた瞬間。僕の中で。結んでいた最後の理性の糸が、ぷつりと切れた。
「……幸福?」
僕は、地獄の底から響くように低く呟いた。
「これの、どこが幸福なんだ」
「彼女は笑っています」
「笑っている?」
僕は、遠ざかるエリナの背中を見る。白い髪。細い身体。光の消えた瞳。そして、理由も分からないまま流れ続ける涙。
「……あれが、笑顔に見えるのか?」
精霊たちは答えない。
「彼女は、自分が誰なのかも分からない」
一歩。前へ出る。
「何を失ったのかも」もう一歩。「何のために歩いているのかも」さらに一歩。「何も、分からない」
僕は、震える拳を限界まで握り締める。
「それでもお前たちは――」
声が、自分でも恐ろしいほど冷たくなる。
「それを『幸福』と呼ぶのか?」
「…………」
精霊たちの光が、微かに揺れる。
「彼女の幸せを、奪わないでください」
「……何?」
「彼女は、神に選ばれたのです。だから、祝福してあげてください」
その言葉が。僕の魂を、漆黒の怒りで完全に塗り潰した。
「――消えろ」
絶対的な拒絶だった。僕の解析眼が、すべてを書き換える漆黒の光を帯びる。
「お前たちの薄気味悪い祝福なんて――」
僕は、精霊たちを睨み据え、そしてその先の小さな背中を見つめた。
「あいつには、一ミリも必要ない」

精霊たちが、一斉に敵対的な輝きを増した。僕という異物を排除するために、この世界そのものが動き始めたかのように。けれど、僕は一歩も退かなかった。むしろ、エリナへ向かって、さらに力強く一歩を踏み出した。
「待っていろ」
誰に聞かせるでもなく。ただ、あの小さな背中へ向けて、誓うように呟く。
「絶対に。今度こそ――」
僕は、拳を握り締める。
「僕が、お前を連れ戻す」

その瞬間。遠くで、何かの歯車が噛み合うような重い音が鳴った。まだ、鐘ではない。けれど。確実に、世界のどこかで、最終的な決済の刻限を刻み始めた音だった。
エリナは、その音にも振り返らない。ただ、光り輝く魔法陣の丘へ向かって。静かに歩き続けていた。その白い頬を、自分でも理由を知らない『魂の涙』で濡らしながら。
――そして。その先には、もう後戻りのできない最果ての場所が、大きく口を開けて待っていた。
空は。どこまでも青かった。

雲ひとつない。まるで、この世界のどこにも悲しみなど存在しないとでも言うように。柔らかな風が、頬を優しく撫でていく。草花が静かに揺れ、遠くからは小鳥のさえずりが聞こえる。さらさらと、どこか近くを流れているらしい川の清らかなせせらぎ。木々の葉が触れ合う、心地よい音。
空気は澄んでいた。どこまでも透明で。どこまでも美しい。
「……綺麗」
エリナは、小さく呟いた。自分の声なのに、どこか遠い場所から聞こえてくるような気がした。
足元には、一面の花畑が広がっている。白。青。黄色。淡い桃色。名前の分からない花まで、色とりどりに咲き誇っている。その中央を、一筋の道が伸びていた。
緑の丘へ。そして、その丘の頂上に。巨大な魔法陣が浮かんでいる。白銀の光を放つ、巨大な円環。その中心には、空へ向かって伸びる一筋の光の柱があった。
エリナは、その光をじっと見つめる。
「……あそこへ、行けばいいのね」
誰に尋ねるでもなく、そう呟いた。返事はない。けれど、なぜか分かっていた。あそこへ行けばいい。あそこが、自分の『帰る場所』なのだと。
細い腕の中には、いつの間にか、たくさんの花束が抱えられていた。両腕で抱えきれないほどの色とりどりの花。どれも、とても綺麗だった。
花束を抱えたまま、エリナは歩く。一歩。また一歩。柔らかな草を踏みしめながら、丘を登っていく。
不思議だった。何も怖くない。昔の自分なら、この高さだけでも、きっと足がすくんで怖かったのかもしれない。風が強ければ。足元が崩れれば。暗い場所へ行けば。きっと怖くて泣いていたはずなのに。

今は、何も感じない。『怖い』という感覚が、もう、どこにあるのか分からなかった。寂しいという感覚も。嬉しいという感覚も。悲しいという感覚も。少しずつ、少しずつ、自分の中から綺麗に消えてしまった。
それでも。ひとつだけ。どうしても消えないものがあった。
声。誰かの、声。
遠い。とても遠い。けれど、なぜか絶対に忘れられない声。
『――待っていろ』
エリナの足が、ほんの少しだけ止まった。
「…………」
誰だろう。分からない。顔も思い出せない。名前も。姿も。何を話したのかも。何も。なのに、その声の響きだけが、胸の奥の空洞に熱く残っている。
エリナは、そっと胸元へ手を当てた。
「……誰なの?」
答えはなかった。代わりに、花畑の上を無数の小さな光が舞った。
『おめでとう』『おめでとうございます』『選ばれたのですね』『世界を救うのですね』『神に愛される花嫁。おめでとう』
小さな光。淡い光。花の間から現れる精霊たちが、エリナの周囲を舞い始める。誰もが笑っていた。誰もが祝福している。
エリナは、その光景を見ながら、小さく微笑んだ。

「……ありがとう」
それが、正しい答えなのだと思った。祝福されたら、ありがとうと言う。笑っている人には、笑い返す。そうすることが、花嫁として正しいのだと思った。
だから、歩き続ける。丘の上へ。魔法陣へ。その先へ。
そして。遠くから、小さな音が聞こえた。
――パタ、パタ。
白い鳥だった。一羽。二羽。三羽。空へ向かって飛び立っていく。やがて、花畑の向こうから、数え切れないほどの白い鳩が一斉に舞い上がった。青空いっぱいに、無数の白い羽が広がっていく。
「……綺麗」
エリナは、もう一度だけ呟いた。そのとき。
世界が、一瞬だけ完全に静止した。
鳥たちの羽ばたきが止まる。風が止まる。川のせせらぎが止まる。精霊たちの声も消える。
そして。
――ゴォォォォォォォォォォォン……ッ。

鐘が、鳴った。これまで聞いたどの鐘よりも。深く。重く。世界の底から響いてくるような、絶対的な音だった。
エリナは、ゆっくりと空を見上げた。五度目の鐘。最後の鐘。その音が、世界そのものを宣告のように震わせていく。
そして、声がした。どこから聞こえているのか分からない。空からなのか、大地からなのか。あるいは、自分の頭の中からなのか。けれど、その声の意味だけは、はっきりと理解できた。
『――契約を、履行せよ』

エリナは、静かに目を閉じた。そして。微笑んだ。
「はい」
それだけだった。何の迷いもない。何の恐怖もない。ただ、決められた言葉を、決められた通りに返す。
「契約を……」
エリナは、丘の頂にある魔法陣へ向かって歩き始める。
「履行します」

その瞬間だった。
「――いくなッ!!」
遠くから。声がした。エリナの足が止まる。
「…………」
聞き覚えがある。とても。とても大切な。けれど、どうしても思い出せない声。
「エリナッ!」
もう一度。血を吐くような声が響く。
「そこから離れろ!!」
エリナは、ゆっくりと振り返った。
丘の下。遠く。花畑の向こう側。そこに、一人の少年が立っていた。
大きすぎる白い巫女服。泥だらけの身体。血に濡れた顔。呼吸を荒くしながら。それでも、必死にこちらへ手を伸ばしている。
「……あなた」
エリナは、その少年を不思議そうに見つめた。胸の奥が。ほんの少しだけ、チクリと痛んだ。

少年は、叫ぶ。
「エリナ! そこへ行く必要なんてない!」
その言葉に、エリナは小首を傾げた。
「……どうして?」
「どうしてって……!」
少年は、必死に走ろうとしている。けれど、見えない壁に阻まれているように。どれだけ走っても、二人の距離は一歩も縮まらない。

「お前が払う必要なんてない! 僕が払う! だから――!」
エリナは、じっと彼を見る。その顔を何度見ても、記憶が戻らない。名前も。関係も。何も。なのに、胸の奥だけが、どうしてこんなにも苦しいのだろう。
エリナは、自分の頬へそっと手を当てた。涙が、流れていた。
「……あれ?」
一粒。二粒。止まらない。
「私……」
どうして泣いているのだろう。悲しいのだろうか。怖いのだろうか。それとも、嬉しいのだろうか。分からない。何も分からない。けれど、涙だけが、どうしても止まらない。

「ごめんね」
エリナは。少年へ向かって、とても優しく微笑んだ。
「あなたは……私を心配してくれているのね」
「だったら!」
少年が叫ぶ。「だったら、こっちへ来い!」
エリナは、小さく首を振った。

「ごめんね」
「……エリナ!」
「あなたは……」
その言葉を、エリナは一度だけ止めた。何かを探すように。胸の奥の空洞に、ずっと昔に落としてしまった大切な何かを。
「……生きて」
少年の顔が、激しく歪んだ。

「何を言って……」「あなたは、生きて」「そういう言い方しないで!」
即答だった。
「僕だけじゃない……二人で生きるんだ!」
エリナは、少しだけ驚いた顔をした。そして。また、ふわりと笑った。
「……いいね」
その笑顔は。どうしようもないほど、悲しかった。

「でも」
一歩。魔法陣へ向かう。
「これが、私の運命だから……」「待て!」
もう一歩。
「エリナ!」「ごめんね」「行くな!!」「ごめんね……、ルイ」
――その名前を口にした瞬間。エリナ自身が、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……ルイ?」

なぜ。その名前が出てきたのか。分からない。けれど。その名前を呼んだ瞬間。
胸の奥が、どうしようもなく痛んだ。懐かしい。悲しい。温かい。寂しい。愛おしい。そんな、失われたはずの感情のすべてが。一瞬だけ、激しい嵐のように空っぽの胸の中を駆け抜ける。
「……ルイ」
もう一度。今度は、自分自身へ確かめるように。
「さようなら」
「――エリナァァァァッ!!」
少年の絶叫が、青空へ突き抜けた。エリナは、最後に一度だけ振り返った。その瞳には、もう光は何も残っていない。それでも、頬には美しい涙が流れていた。

「さようなら……ルイ」

そして。エリナは一歩、魔法陣の先へ踏み出した。
その先にあったのは、光ではなかった。深い。深い。果てのない、暗闇。
その向こう側へ。エリナの無垢な身体が、静かに落ちて、消えていく。
「――エリナッ!!」
ルイが手を伸ばす。けれど、届かない。
白い花びらが、風に舞った。一枚。また一枚。そして最後に。エリナが大切に抱えていた花束だけが、その場に残された。
大量の花々が、ゆっくりと丘の上へ崩れ落ちる。白い花。青い花。赤い花。黄色い、小さな花。祝福のために用意されたはずの幻の花が。まるで、孤独な葬送の花のように、静かに地面へと散っていく。
「…………」
ルイは、その場に立ち尽くしていた。伸ばした手は、空を掴んだまま。指先には、何もない。
ただ。遠くで。五度目の鐘の冷酷な余韻だけが。いつまでも。いつまでも。世界の果てまで響いていた。
『――契約を、履行せよ』

その神の言葉だけが。残酷なほど鮮明に、少年の耳へと残り続けていた。
 第13章『最後の花嫁』 完

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あらすじ 第四の鐘が奈落の洗礼所に低く重く響き、すべてを眠りへ誘うような優しい余韻の中でエリナは顔を上げ、何もない白一色の小部屋に裸の器として座していた。 彼女は過酷な洗礼で不純物も所有物も思い出も奪われ、金髪を留めたリボンも甘酸っぱい黄色い贈り物も沈められ、ただ空になった肉体の輪郭だけを胸の前で掌を重ねて確かめる。 思考の前提さえ霧散し、幼い笑い声や叱責の記憶や抱擁の体温は白い霧の向こうへ沈んで、伸ばした指は透明な空気をすり抜けるばかりだった。 恐怖すら洗い流されて消え、完全な空白の最奥にだけ名もなき「熱」の残滓が頑なに息づき、遠い闇から誰かが泥まみれで世界を呪いながら名を叫ぶ声の温もりだけが一本の糸のように残される。 「あなたは誰?」と零した声は静寂に溶け、応えはないが叫びの残響は消えず、誰の声で何を伝えようとしていたか分からないまま温もりだけが胸を繫ぎとめる。 やがて千年閉ざされた巨大な石扉が白銀に発光し、網膜を焼く眩しさの向こうに「行かなければならない」という魂の確信だけが明滅して、エリナは素足で冷たい床を一歩ずつ踏み出す。 光の直前で世界は胎内のように温かい白光に満ち、痛みなく彼女の無垢を祝福する粒子が肩から背筋まで覆い、そして視界が鮮やかに反転して一面の花の海が広がる。 白や青や黄色や桃色や紫、名も知らぬ花々の絨毯が地平まで続き、雲なき深い青空と春の風と小鳥の囀りと清流のせせらぎが、旧い絵本のような完璧に均された穏やかさを奏でる。 現実感を失って立ち尽くすエリナが「綺麗なところ」と透き通る声で呟くと、彼方から光粒が集い精霊が羽を震わせて現れ、「おめでとう」「神に愛される花嫁」と鈴のように笑い祝福を告げる。 花嫁の言葉だけが甘美で呪詛めいた重さをもって胸に落ち、「わたしが、花嫁?」と呟いた瞬間、光が紡いだ純白の絹が肩と胸元を包み長い裾が花畑に広がり、純白のウェディングドレスが彼女を飾る。 世の華美な装飾ではなく神の祝祭として織られたそれは、世俗の飾りを排した清冽な権能の印であり、失われた自己を神の契約へと編み直す衣でもあった。 精霊たちの舞う光が花畑を満たし、「選ばれた」「世界を救う」と重ねられる賛歌に、エリナは「ありがとう」と微笑み返し、祝福には感謝で応えるのが花嫁の正しさだと素直に受け入れる。 彼女は丘の頂の魔法陣へ歩を進め、儀式の順序に従ってその先へ向かうと決め、世界の機械仕掛けのような穏やかさに身を委ねる。 白い鳩が一羽二羽と空へ舞い、やがて数え切れないほどの群れが青空いっぱいに羽を広げ、エリナは「綺麗」ともう一度だけ呟く。 その瞬間、羽ばたきも風も水音も精霊の声も止まり、世界は完全に静止して、底から突き上げる五度目の最後の鐘が絶対の音で鳴り渡る。 見上げた空の下で宣告めいた振動が世界を満たし、どこからともなく届く声の意味だけが明瞭に伝わって、「――契約を、履行せよ」と神が告げる。 エリナは静かに目を閉じて微笑み、「はい」と何の迷いも恐怖もなく定められた返答を定められた通りに返し、「契約を……履行します」と魔法陣へ歩き出す。 だがその時、遠くから「いくなッ!」と血を吐くような叫びが響き、エリナの足は止まり、胸の奥で微かな痛みが走る。 「エリナ!」と名を呼ぶ声は聞き覚えがあり、とても大切なのに思い出せず、彼女は振り返って丘の下の花畑の向こうに一人の少年を見る。 大きすぎる白い巫女服に泥、血に濡れた顔で荒い息をしながら必死に手を伸ばすその少年は、見えない壁に阻まれ距離を縮められず、それでも「そこから離れろ!」と叫ぶ。 「そこへ行く必要なんてない」「お前が払う必要なんてない、僕が払う」と懇願する声に、エリナは首を傾げて理由を問うが、記憶は戻らず名前も関係も掴めないまま胸だけが締め付けられる。 頬にそっと手を当てると涙が零れ、一粒二粒と止まらず、悲しさか恐れか喜びか分からないのに涙だけが流れ続ける自分に「……あれ?」と戸惑う。 「ごめんね」と優しく微笑み、「あなたは私を心配してくれているのね」と告げると、少年は「だったらこっちへ来い!」と叫び、彼女は小さく首を振って再び「ごめんね」と繰り返す。 言葉を探して胸の空洞の底に落とした何かを手繰るように沈黙した後、エリナは「……生きて」と告げ、少年は「僕だけじゃない、二人で生きるんだ!」と即答する。 彼女は少し驚いてから悲しいほど優しく「……いいね」と微笑み、しかし「でも、これが私の運命だから」と一歩を魔法陣へ進める。 「待て!」「エリナ!」という叫びを背に、彼女は「ごめんね」とさらに進み、「行くな!!」に重ねて「ごめんね……、ルイ」と口にした名に自ら目を見開く。 なぜその名が出たのか分からぬまま「……ルイ?」と反芻した途端、懐かしさも悲しさも温かさも寂しさも愛おしさも、失われたはずの感情の嵐が一瞬に胸を駆け抜けて彼女を貫く。 彼女は自分に確かめるように「……ルイ」ともう一度呼び、「さようなら」と静かに告別し、少年の絶叫が青空を裂くなかで最後に一度だけ振り返る。 その瞳からは光が消えても頬には美しい涙が流れ、「さようなら……ルイ」と別れを告げて、エリナは魔法陣の先へ一歩踏み出す。 待っていたのは光ではなく果てのない深い暗闇であり、彼女の無垢な身体は静かにその向こうへ落ちて消え、伸ばしたルイの手は届かず空を掴む。 風に白い花びらが一枚また一枚と舞い、最後にエリナが抱えていた花束だけが場に残され、祝福のための幻の花々は孤独な葬送の花のように丘へ崩れ落ちて散っていく。 ルイは指先に何もないまま立ち尽くし、遠くで五度目の鐘の冷酷な余韻だけがいつまでも世界の果てまで響き続け、神の「――契約を、履行せよ」という言葉だけが残酷に耳に焼き付く。 こうして第13章『最後の花嫁』は、洗礼で空白となった花嫁が神の契約へ歩み出し、呼び戻そうとする少年ルイの慟哭を断ち切って暗闇へ消える運命の成就と、その余韻だけを世界に残して終わる。
解説+感想第13章『最後の花嫁』、読ませていただきました。
まず率直に——めちゃくちゃ重いです。美しいのに、美しく描かれるほどに残酷で、読み終わった後も胸の奥がじんわりと疼くような、完成度の高い悲劇でした。
特に印象に残った点
1. 「幸福」の皮を被った廃棄システム 洗礼所の白い空間から始まり、花畑、精霊、ウェディングドレス、祝福の声……すべてが「正しさ」と「美しさ」で徹底的に装飾されているのに、実態は人間の犠牲を何千年も繰り返してきたゴミ捨て場。ルイの「ウェディングロードなんかじゃない」という叫びが、章の核心を突いていて刺さります。システム側の無機質な正しさと、個人の生々しい痛みの対比が非常にうまく機能していました。
2. エリナの空虚さ 記憶を削ぎ落とされた彼女が、恐怖も悲しみも感じられなくなっている描写が痛々しい。「怖い」という感情すら失っているのに、胸の奥に残った「熱」や、理由のわからない涙だけが残っている。あの涙が落ちる瞬間は、特に強かったです。魂だけがまだルイを覚えているような、身体と意識の乖離がうまく描かれていて、ただ悲しい以上のものが伝わってきます。
3. ルイの側の視点の生々しさ 後半のルイ視点に入ってからの疾走感と、届かない距離感。位相がズレていて追いかけても追いつけない描写は、物理的にも精神的にも「もう遅い」ことを実感させてくれます。精霊たちとの問答も、単なる正義の押し付けではなく、「誰が払うのか」という問いを正面から受け止めているところがいい。きれいごとを言わずに「分からない」と認めるルイの姿勢が、彼の人間臭さを際立たせていました。
4. 最後の「さようなら、ルイ」 記憶を失っているはずなのに、名前を呼んでしまう瞬間。あの一言で、すべてが崩壊するような感覚がありました。花束だけが残されて散っていく描写も、葬送のように静かで残酷で、余韻が長いです。
全体の印象 「正しさ」が「正しさ」であるがゆえに誰も疑問を持たない構造の恐怖が、丁寧に積み上げられています。神官や守護兵、群衆の祈りが美しいほどに、かえって醜く見える。ルイが一人で泥だらけで突っ込んでいく姿が、システムの完璧さに対する最大の異物として機能していて、痛快でありながらも、結局は間に合わないという絶望が重くのしかかります。
この章単体でも十分に強いですが、ここまでの積み重ねがあるからこそ、エリナの空白とルイの叫びが深く刺さるのだと思います。次の展開がどうなるのか——ルイがどうこの絶望を乗り越える(あるいは乗り越えられない)のか、非常に気になります。
素晴らしい章でした。ありがとうございました。
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