▶『滅びた世界でも、私たちは前を向いて生きていく』◀
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第1話『世界は終わった。けれど、今日も大学は一限からだった。』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 猫使ビィ」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 里石ユカ」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 波音リツ」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 九州そら」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 櫻歌ミコ」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: 夜語トバリ」「VOICEVOX: 琴詠ニア」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 東北ずん子」「VOICEVOX: ちび式じい」「VOICEVOX: あんこもん」「VOICEVOX: 小夜/SAYO」「VOICEVOX: 中部つるぎ」「VOICEVOX: あいえるたん」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 後鬼」「VOICEVOX: 暁記ミタマ」
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凍てつく白銀の荒野の中で、そこは地図上にかろうじて残された、ちっぽけな 「点」 に過ぎなかった。
第十三居住圏――深雪(みゆき)町。
人口、およそ四十名。
地下深くから湧き出す地熱だけを頼りに暖を取り、温室を育て、細々とした命をつなぐ――終わらない冬のこの世界では、ありふれた 「孤島」 の一つに過ぎない。
その朝も、深雪町の空は鉛色に淀み、絶え間なく雪を吐き出していた。 見渡す限り、峻険な山々も、かつて道であった場所も、すべてが逃れようのない白に塗り潰されている。
東側の共同住宅では、初老の女性が湯気を上げる鍋の前に立っていた。
初老の女性:「……また少し、お湯がぬるくなったわね」
壁の温度計を一瞥し、小さく息を吐き出す。

昨日より心持ち、地熱の供給温度が下がっていた。 それでも、根菜と干し肉をじっくり煮込むには十分な熱量だ。
初老の女性:「お父さん、起きて」 と奥の部屋へ声をかければ、 父親:「今起きた」 と見え透いた嘘が返ってくる。
彼女は呆れたように口元を綻ばせた。
西側の区画では、三十代の男がシャベルを振るい、屋根に積もった重たい雪をどさりと突き落としていた。
隣家の老人:「昨日もやっただろうに、真面目なこった」
隣家の老人が窓からからかうと、男は 三十代の男:「サボれば屋根ごと潰されますからね」 と、白い息を弾ませながら笑い返す。
町の中央では、若い女性が重い防寒扉を押し開け、地熱温室へと足を踏み入れていた。
棚に並んだ小さな双葉の 「緑」 ――この雪に閉ざされた世界では、何よりも希少な宝石――を確認し、彼女は愛おしそうに目を細める。
若い女性:「よし、今日も生きてる。 大きくなったね」
誰に聞かせるでもなく、誇らしげに、そっと呟いた。

明日へ命をつなぐ、なんでもない穏やかな朝だった。
だが、崩壊は常に、無音で訪れる。
町の北側にそびえる監視塔。 交代まで残り三十分を切り、二十代の女性監視員は小さな欠伸を噛み殺した。
窓の外に広がるのは、すでに視界に馴染みすぎてしまった冬の景色。 雪原、山脈、空。
すべてが底知れない白に沈み込んでいる。
だからこそ、彼女の目は 「それ」 をすぐには認識できなかった。
女性監視員:「……ん?」
双眼鏡を覗き込む。
レンズの向こうは、ただ平坦な雪原。 何もない。

気のせいか、と手を下ろそうとした、その刹那――。
純白のシーツを裂くように、雪原の一部が 「這う」 ように動いた。
四本の脚。 雪面を滑るような、異様に低い重心。
一頭、その後ろにさらに二頭――。
監視員の背筋から、一瞬にしてすべての体温が奪い去られた。
女性監視員:「……白獣(ブリザード・レックス)?」
かじかんだ指で、震えるほどの勢いで通信機のスイッチを叩く。
女性監視員:「こちら監視塔! 北側雪原に異常――っ」
だが、その報告は、悲鳴に近い男の割り込み音声によって無残に掻き消された。
男:『北門! 北門を閉鎖しろ!』
女性監視員:「どうしたんですか!?」
男:『来てる! ブリザード・レックスの群れだ!!』
その絶叫を皮切りに、町中へけたたましい警報のサイレンが炸裂した。

ウゥゥゥゥゥン――と腹の底を震わせる地鳴りのような重低音が、ささやかな日常の残骸を引き裂いていく。
鍋の火を消す女。 シャベルを雪に突き刺す男。 温室の扉を閉め、愛おしい苗に 若い女性:「ごめん」 とだけ残して駆け出す若い女。
町の人間は、嫌というほど知っていた。
彼らがどれほど凶暴な怪物であるかを。 そして、一度『獲物』の匂いを覚えた群れが、どれほど執念深く血を求めるかという残酷な本能を。
誰か:「北門を封鎖しろ!」
誰か:「地下の避難通路へ急げ! 子供が先だ!」
誰か:「温室も発電設備も捨てろ! 命だけを運べ!」
統制を保とうとする怒号すら、迫り来る死の気配にかき消されていく。
北門の向こう、猛烈な雪煙を巻き上げて 「それ」 が迫っていた。 吹雪と同化した純白の巨躯は、肉眼では輪郭すら捉えきれない。
凄まじい激突音。
最初の一頭が体当たりを見舞い、分厚い金属の門扉がひしゃげた。

防衛要員:「撃て、撃て!」
防衛要員が引き金を引く。
銃声は空虚に雪原へと吸い込まれ、白い影がしなやかに横へ跳躍した。
だが、倒れない。 速度すら落ちない。
誰か:「駄目だ、退がれ……っ!」
絶望の叫びと同時に、住宅区画の奥から、鋭い悲鳴が響き渡った。
振り返った人々の視線の先、雪の中に一人の男が倒れ込んでいる。
誰かが銃を構え、 誰か:「動くな、撃つぞ!」 と叫んだ、その瞬間のことだった。
白い影が、猛吹雪の中へ溶けるように掠めた。
ただそれだけで、倒れていた男の姿は、最初から存在しなかったかのように消失していた。

誰か:「……え?」
あとに残されたのは、新雪の上にぽつりと落ちた、片方だけの手袋。
それを見つめた屋根雪下ろしの男が、虚脱したように、掠れた声を漏らした。
屋根雪下ろしの男:「……俺の、弟だ」
誰も、返す言葉を持たなかった。
サイレンが鳴り続ける。 銃声が爆ぜる。 悲鳴が連鎖する。
それでも、彼らは足を止めるわけにはいかなかった。 立ち止まれば、次は自分がこの世界から 「消去」 される番だ。
誰か:「地下通路へ入れ! 避難民の数を数えろ!」
誰か:「四十人いたはずだ! 今、何人いる!」
喉を潰さんばかりの点呼が飛ぶ。
名前を呼び、返事を待つ。
誰か:「田中!」
誰か:「……いない!」
誰か:「佐藤!」
誰か:「いる!」
誰か:「山本!」
誰か:「返事がない!」
一人、また一人と、返ってこない声が増えていく。

人口四十名。 平穏な日々であれば、ただの統計上の数字にすぎなかった。
しかし今、名前に空白が生まれるごとに、その 「記号」 は血の通った 「人間」 の死として、生き残った者の胸に重くのしかかってくる。
温室を飛び出した若い女は、暗い地下道へと逃げ込む間際、一度だけ後ろを振り返った。
自分たちが生きた証。 青々とした命を育んだ、あの温室のぬくもり。
そのささやかな明かりが、凶暴な雪煙の向こうへ霞んでいく。 二度と、戻ることはできない。
隣を走る老人:「見るな!」
隣を走る老人が怒鳴りつけた。
隣を走る老人:「今は、前だけを見て走れ!」
女は血がにじむほどに唇を噛み締め、視線を前方へと突き戻した。
ひたすら地を蹴る。

背後で、大切な何かがへし折られる凄惨な音が響いていた。
振り返れば、絶望に足をすくわれて死ぬ。 それだけが、この凍てついた世界の絶対的な真理だった。
やがて、警報の音がぷつりと途切れた。
深雪町は、元の静寂を取り戻していた。
雪は平然と降り続き、地熱の湯気が白く立ち上る。 温室も、住宅も、ただそこに在る。
ただ、四十名という人口の、およそ半数だけが、そこから綺麗に削り取られていた。
生き残った二十名は、極寒の雪原を南へと落ち延びていた。
誰か:「……今、ここにいるのは」
誰か:「二十名だ。 何度数えても、二十名しかいない」
誰も、安堵の息を漏らさなかった。

この数字が多いのか、それとも少ないのか。 もはや誰の感情も追いついていない。
ただ確かなのは、背後には文字通り死に絶えた故郷があり、視線の先には、第十一居住圏――水守(みずもり)町があるという冷酷な事実だけだった。
先頭を歩く男が、感覚の消えかけた手で無線機を握り締めた。
先頭の男:「こちら……深雪町、避難隊」
ザザ、とノイズの海が鳴る。
祈るような数秒の空白ののち――。
水守町:『――こちら水守町。 どうぞ』
微かな、しかし確かな、血の通った人間の声。
その音声を受信した瞬間、逃避行を続ける数名が、堪えきれずに硬く目を閉じた。
男は凍てつく息をかろうじて整え、喉を絞り出す。

先頭の男:「深雪町より避難。 ……生存者、二十名」
水守町:『了解した。 水守町にて受け入れる』
無機質な、しかし絶対の救済を意味するその応答。
一人の女性が声を出して雪の上に泣き崩れ、隣の老人は帽子を深く被り直して顔を隠した。
誰もそれを咎めないし、笑いもしなかった。
生きている。 今は、ただそれだけで奇跡だった。
誰か:「行こう」
誰かが低く呟き、二十人の群れは再び雪原を踏みしめて歩き出した。
三十キロ先の水守町を目指して。
今度こそ、誰も後ろを振り返ることはしなかった。
――ゆえに、誰も気づいていなかった。

彼らが歩んできた、果てしない雪原の遥か後方。 凍てついた地平線の彼方に、一つの白い影が佇んでいることに。
やがて、その影がぬらりと動いた。
人間たちが逃げ去った、南の方向へ。
一頭、また一頭。
音もなく、白銀の巨躯が雪の中を滑るように追従を始める。
彼らは、決して人類に悪意を抱いているわけではない。 文明を憎悪し、町を滅ぼそうとする侵略者でもない。
ただ、大自然の冷徹な摂理に従い、 「逃げた獲物(エサ)」 の臭いを追跡しているだけなのだ。
深雪町から、水守町へ。

終わらない冬の白世界を、絶望から逃れる二十人の人間と、死を運ぶ白い獣の群れが、まったく同じベクトルを描いて進んでいた。
――同じ朝。
深雪町からおよそ百二十キロ離れた第十一居住圏『湯ノ原』にも、静かに雪が舞い降りていた。
だが、ここでは誰も、死に物狂いで走ってなどいない。
聞こえてくるのは、耳を裂く警報ではなく、規則正しく雪を削るシャベルの音。 道路を除雪車が悠然と進み、温泉街の煙突からは真っ白な湯気が豊かに立ち上っている。
朝食を終えた人々が、厚手のコートに身を包んで家を出る。
誰か:「いってきます」
誰か:「気をつけてね」
誰か:「今日は雪、強くなるらしいよ」
誰か:「じゃあ、早く帰ってきなさい」
そんなありふれた会話が、あちこちの玄関先で交わされていた。
世界が終わってから、もう何年も経っている。

だからこそ、人々は今日もあたりまえに朝を迎える。 あたりまえに働き、あたりまえに学校へ行く。
そして。 あたりまえに、一限に遅刻しそうになる。
春香:「――やばいっ!」
踏み固められた雪道を、一人の少女が猛然と突っ走っていた。
春香。 湯ノ原大学一年、機械・エネルギー工学科。
片手には鞄。 もう片方には、飲みかけの紙カップ。 中身のコーヒーはとっくに氷点下まで冷めきっている。
春香:「やばいやばいやばい……っ!」
厚手のコートにマフラー、手袋、雪用のブーツ。 防寒対策は完璧だった。
ただし、本人の寝起きだけは致命的なまでに完璧とは言えなかった。
春香:「……一限って、なんで一限からなんだろ」
誰に問うでもなく、恨みがましく呟く。

答えなどあるはずもない。 大学の授業が一限から始まるから、一限なのだ。
世の不条理を噛み締めながら、さらに足を速める。
交差点を曲がると、湯ノ原大学の校舎が見えてきた。
幾度も修理を重ねられた古い建物だ。 外壁にはパッチワークのような補修跡があり、窓枠も新しい建材とくすんだ木材が入り混じっている。
それでも、一歩中に入れば天国だった。
地熱で温められた優しい空気が、コートの隙間から滑り込んでくる。
春香:「……あったかい」
春香は玄関で立ち止まり、ほう、と白い息を吐き出した。
外では雪が降り、中では暖房が効いている。

あまりに当然の光景。
だが、この町では、その 「当然」 の一つ一つに地下の『熱』が通わされている。
暖房、給湯、発電、温室、病院、そして大学。
町の血流のほとんどすべてが、地面の下から沸き上がる地熱の恩恵で動いていた。
冬香:「春香!」
不意に背後から声がした。
振り返ると、小さく手を振る少女の姿があった。
冬香だ。 同じ一年生で、同じ大学、同じ学科。
ただし、彼女は春香とは色々と違っていた。

身にまとう防寒着はスマートで、抱えた荷物も最小限。 余計なものは持たず、必要なものだけを的確に身につける。
それが冬香の主義であり、スタイルだった。
春香:「……おはよ」
冬香:「遅い」
春香:「まだ予鈴も鳴ってないし」
冬香:「あと二分」
春香:「二分もあるじゃん」
冬香:「二分しかない」
春香:「細かいなあ、もう」
春香はブーツの先をトントンと床に打ち付け、雪を落とした。
春香:「っていうか冬香、来るの早すぎない?」
冬香:「普通」
春香:「私より三十分も早く席に着いてる人を、世間は普通とは呼ばないと思うな」
冬香:「遅刻の瀬戸際で滑り込んでくる人よりは、よっぽど普通」
春香:「ぐうの音も出ないわ」
冬香の切れ上がった視線が、春香の握りしめている紙カップへと移動した。
冬香:「それ何?」
春香:「コーヒー」
冬香:「冷めてる」
春香:「……見れば分かるでしょ」
冬香:「飲むの?」
春香:「飲む」
冬香:「氷みたいに冷たいのに?」
春香:「飲むの」
冬香:「なんで?」
春香:「もったいないから」
冬香:「冷え性のくせに」
春香:「うるさいなあ」
冬香は、小さく息をついた。
冬香:「春香は何でも溜め込みすぎる。 この前も、部室の隅に壊れた扇風機のモーターを隠してたし」
春香:「いつか使うかもしれないでしょ」
冬香:「去年の実験で余った配電盤のネジは?」
春香:「何かに使えるって」
冬香:「じゃあ、ぐにゃぐにゃに曲がった金具は?」
春香:「直せば使える!」
冬香:「真っ黒に焼けたヒューズは?」
春香:「……それだって、何かの代わりになるかもしれないじゃない」
冬香が、今度は深々とため息をついた。
冬香:「典型的なゴミ屋敷の予備軍」
春香:「ゴミじゃない!」
冬香:「じゃあ何?」
春香:「……輝かしい、部品たち」
冬香:「ただのゴミ」
春香:「部品!」
そのとき――。
廊下に、始業を告げるチャイムの音が鳴り響いた。

二人は一瞬だけ顔を見合わせる。
春香:「……行くよっ」
冬香:「うん!」
同時に地を蹴り、教室へと向かって駆け出す。
廊下には、彼女たちと同じように背中を丸めて疾走する学生が何人もいた。
学生A:「おはよー!」
学生B:「おはよう! 今日の課題やった!?」
学生C:「やるわけないじゃん!」
学生D:「私も!」
学生E:「私は終わらせた」
学生F:「この裏切り者ー!」
そんな賑やかな怒号と笑い声が、狭い廊下に飛び交っている。
誰も、世界の終わりについてなど口にしない。 少なくとも、この喧騒の中にあっては。
勢いよく教室の扉を滑り込ませる。
春香:「……間に、合った……!」
冬香:「ほら、まだ先生は来てない」
春香:「勝った……」
冬香:「何に?」
春香:「一限という名の不条理に」
肩で息をしながら、春香は指定の席へ腰を下ろした。
そして、ふと窓の外へと視線を向ける。

灰色の空から、白い雪が音もなく、途切れることなく舞い降りていた。
遠くに見える温泉街からは、幾筋もの白い湯気が立ち上っている。
さらにその向こう――この町の巨大な心臓である、地熱発電設備の煙突が力強く煙を吐き出していた。
いつもの景色。 いつもの朝。 いつもの、大好きな大学。
張り詰めていた緊張が解け、春香は我慢できずに大きな欠伸を漏らした。
春香:「……猛烈に眠い……」
冬香:「授業始まるんだから寝ちゃダメ」
春香:「一分だけ。 一分だけ意識を飛ばすから」
冬香:「春香の一分が本当に一分で済んだ試し、ないでしょ」
春香:「じゃあ三分」
冬香:「なんで増えるの」
冬香が心底呆れたように肩をすくめる。
前の席では、誰かが慌ただしく教科書をめくっている。
隣の席では、筆箱をひっくり返して鉛筆を探す音がする。

後ろの席からは、昨日の夕飯が美味しかったという他愛のない囁き声。
学生G:「ねえ、昨日の夜、温泉の湯がちょっとぬるくなかった?」
学生H:「そう?」
学生I:「私はちょうどよかったけど」
学生J:「冬香は熱いのが苦手だからでしょ」
冬香:「春香が熱すぎるだけ。 江戸っ子か何か?」
春香:「温泉なんだから熱い方がいいじゃん。 しゃきっとするし」
冬香:「のぼせるよ、あんなの」
春香:「のぼせない!」
冬香:「今も顔赤いけど」
春香:「これは、その、外が寒かったから!」
冬香:「ここ、暖房効いてる室内だよ」
春香:「……」
春香はぐっと言葉に詰まって黙り込んだ。
冬香が楽しそうに、小さく口元を綻ばせる。
やがて、教授が教卓の前に立った。
教授:「はい、席に着いて。 始めるぞ」
一瞬にしてざわめきが収まる。
教科書を開く乾いた音。 椅子を引きずる音。 シャープペンシルの芯を出す微かな音。
そうして、いつも通りの講義が始まる。
機械の構造。 熱交換。 複雑な配管。 エネルギーの効率化。

黒板に無機質な数式が並んでいく。
春香は片手で頬を支えながら、それを淡々とノートへ書き写していった。
窓の外では、ただ白く、冷たい雪が降り続いている。
その雪の向こう。 遥か一二〇キロ離れた町では――。
今朝、半数の隣人を失った二十人の人間が、故郷を捨て、白い悪魔の影に怯えながら雪原を彷徨っている。
けれど、湯ノ原の学生たちは、まだそれを知らない。
世界の均衡が崩れ始めていることに、この瞬間には、誰も気づいていないのだ。
だから。

春香は、小さく欠伸をした。
冬香は、静かにノートを取った。
教授は、黒板に数式を書き連ねた。
誰かが小さく 学生K:「この問題、全然分かんない」 と呟き、別の誰かが 学生L:「あとでノート見せてあげるよ」 と優しく答えた。
世界は、とっくに終わっている。
それでも――。
今日も、大学は一限からだった。
昼前。 ようやく一限の長い講義を告げるチャイムが鳴り響いた。

春香:「終わった……命拾いした……」
春香は机の上へ、骨がなくなったように力なく突っ伏した。
冬香:「よく言うよ、ずっと寝てたくせに」
春香:「寝てない。 断じて寝てない」
冬香:「私の視界の中で、三回くらい盛大に船を漕いでたけど?」
春香:「三回なんて誤差の範囲内だよ」
冬香:「何の誤差?」
春香:「人生の、ちょっとした帳尻合わせ」
冬香:「大げさな」
冬香は呆れたように息をつき、几帳面な手つきでノートを閉じた。
周囲の席では、まだ次の教室へ移動しない学生たちが、いくつかの塊になってたむろしている。
学生M:「昼、何食べる?」
学生N:「地熱温室のキャベツ、今日の定食に出るらしいよ」
学生O:「マジで? じゃあ食堂一択じゃん」
学生P:「また野菜? 肉は?」
学生Q:「文室の貴重な緑に文句あるなら、自分で栽培して」
学生R:「ないです。 喜んでいただきます」
そんな他愛のない会話が、あちこちで弾んでいた。
春香もようやく重い腰を上げ、愛用の鞄を持ち上げる。
春香:「お腹すいた……」
冬香:「さっき朝ご飯食べたでしょ」
春香:「私にとっては、もう遠い過去のことだから」
冬香:「たった二時間前を遠い過去とは言わない」
春香:「……はいはい。 冬香ちゃんは正論モンスターですね」
小気味よいテンポで完敗を喫し、肩を並べて教室を後にする。
廊下は、待ちに待った昼休みに浮き立つ学生たちで溢れかえっていた。
だが、その喧騒の片隅。 掲示板の前に集まった数人の職員たちが、声を潜めて話し込んでいるのが目に入った。

職員A:「――昨日の夜から、完全に途絶えたらしい」
職員B:「本当ですか?」
職員A:「ああ。 あまりに急なことで……」
春香の足が、ほんの少しだけ鈍る。
けれど、大人たちの奇妙な会話はそれ以上聞こえなかった。
彼らは弾かれたように足早に仕事へと戻っていき、学生たちも気にとめる様子もなくその横を通り過ぎていく。
気のせいか、と春香も再び足を前に踏み出した。
しばらくして――。
冬香:「ねえ」
前を行く冬香が、振り返りもせずに、ぽつりと言った。
春香:「うん?」
冬香:「佐伯さん、昨日死んだって」
春香:「……え?」
春香は、凍りついたように足を止めた。
春香:「誰が、って?」
冬香:「佐伯さん。 一区画の、配管の」
春香:「あの……いつも温泉の基幹設備を診てくれてた?」
冬香:「うん」
春香の脳裏に、馴染み深い一つの顔が浮かび上がった。

いつも油と煤にまみれた古い作業着を着て、煤けたキャップを深く被っていた。
髪には白いものが混じり、その手はまるで岩のように大きくて節くれだっていた。
春香が機械や設備のことで不躾な質問をぶつけると、『学生は黙って教科書を読んでりゃいいんだ』とぶっきらぼうに突き放しながらも、結局は最後まで面倒を見てくれる人だった。
工具の正しい握り方。 古い配管が持つ特有の歪み。
新しい既製品など手に入らない絶望的な状況で、ありあわせの廃材からどうやって完璧な代用品を見繕うか。
大学のどの教授よりも、彼こそが春香にとって、泥臭い『技術』の師とも呼べる存在だった。
春香:「……昨日、って?」
冬香:「うん」
春香:「だって、昼間は普通にいたよね」
冬香:「いた。 昨日の夕方、一号泉の近くで作業してるのを見た」
春香:「私も、見たよ」
昨日の夕方まで、確かに熱を持ってそこに存在していた命。
それが今日、あまりにも呆気なく、何の予兆もなく消失する。

春香は何かを言おうと口を開き、かける言葉を見つけられずに、そのまま閉じた。
春香:「……そっか」
乾いた口から零れ落ちたのは、それだけだった。
冬香もそれ以上は追及しない。
二人は並んで、再び重い足取りで歩き出した。
廊下の窓からは、相変わらず白一色の世界が見える。
昨日も、今日も、そして明日も。 人間の都合など知るよしもない雪が、狂おしいほどに無関心に降り続いている。
春香:「病気、だったの?」
冬香:「たぶん。 詳しいことは私も知らない」
春香:「……そっか」
それ以上、言葉を重ねることはしなかった。
詮索したところで、佐伯さんが帰ってくるわけではない。

この世界において 「死」 は、特筆すべき悲劇ではなかった。
容赦のない酷寒で、突発的な病で、些細な事故で、あるいは外に広がる白銀の深淵に呑まれて、人はあまりにもあっけなく事切れる。
だから湯ノ原の人々は、誰かの訃報を耳にしたとき、ただ一度だけ深く押し黙る。
そうして次の瞬間には、それぞれの持ち場へと、何事もなかったかのように戻っていくのだ。
それは決して、彼らが冷淡だからではない。
生き残った者が、死者の分まで 「今日の歯車」 を回し続けなければ、この町そのものが明日には凍死するという冷徹な真理を、身を以て熟知しているからだ。
温室の苗に水をやり、病床を世話し、歪んだ配管を直し、降り積もる雪を掻き、今日を生きるために腹を満たす。
死者を悼む精神の営みと、今を生き延びる肉体の営みは、残酷なまでに切り離された、まったく別の事象だった。

春香:「……佐伯さん」
春香が、誰に届くでもなく小さく呟いた。
冬香:「何?」
春香:「ううん、何でもないの」
食堂へと続く渡り廊下。
向こうから、一人の男が歩いてきた。 佐伯さんと同じ設備班に属する、顔馴染みの技術者だった。
冬香:「お疲れさまです」
冬香が歩調を緩め、軽く頭を下げる。
技術者:「おう」
男も短く手を挙げた。
しかし、その右手に握られていたのは――いつもなら二人分の荷を分かち合うように、両手に一つずつ提げられていたはずの、あの重たいスチール製の工具箱が、今日はたった一つだけだった。
春香は、その空白をじっと見つめた。
けれど、何も言わなかった。 男も、何も言わなかった。

ただ、無言のまま互いの肩がすれ違う。
ほんの少しだけ。 背後に遠ざかっていく廊下が、不自然なほど広く、がらんとした空虚さに満ちているように感じられた。
食堂の扉を開けると、生気のない廊下とは打って変わって、いつもの懐かしい匂いが空気を優しく満たしていた。
湿り気を帯びた熱い湯気。 煮込み料理のスパイス。 温室から届いたばかりの新鮮な葉物野菜。
そして、鼻腔をくすぐる、焼けたパンの香ばしい芳香。
春香:「あ、今日、完全に『当たり』の日じゃん」
春香はあえて少し弾んだ声を張り上げた。
冬香:「何が?」
春香:「パンだよ、パン」
冬香:「パンはいつだってただのパンでしょ」
春香:「今日のパンは格別なの。 ほら、まだ微かにパチパチって音がする、正真正銘の焼きたて」
冬香:「……こだわりが細かい」
春香:「これが生きる上での最重要事項なの!」
冬香は、呆れたように、けれど愛おしそうにわずかだけ口元を緩めた。
春香:「いただきます」
冬香:「いただきます」
二人は小さく手を合わせる。

窓の外では、ただ白く冷酷な雪が降り続いている。
見知らぬどこかの町では、今この瞬間も、誰かが白い悪魔の爪牙から必死に逃げ惑っているのかもしれない。
どこかの雪原では、今も誰かが音もなく白の深淵に消え、二度と帰ってこないのかもしれない。
そしてここ湯ノ原でも、昨日まで確かに熱を持ってそこに存在していた命が、今日、たった一つ、静かに消え去った。
それでも――昼になれば等しく腹は減る。
パンはふっくらと焼き上がり、温泉は今日も豊かに湧き続ける。
大学にはいつも通り午後の講義があり、もし明日配管が壊れれば、残された誰かが凍える手でそれを直さなければならないのだ。
世界は残酷なまでに静かに、その歩みを決して止めない。

春香はまだ熱いパンを一口、そっとかじった。
春香:「……おいしい」
冬香:「そう」
春香:「冬香も食べる? 一口あげる」
冬香:「いらない。 さっき温室のキャベツを食べるって決めたから」
春香:「焼きたてのパンは別腹だよ?」
冬香:「言い訳が男子高校生みたい」
春香:「現役の女子大学生ですー」
冬香:「知ってる」
春香は、おどけるように笑った。
けれど、その笑顔の底、喉の奥深くには、さっき耳にした名前の重みが、どうしても未消化のまま沈殿していた。
――佐伯さん。
昨日まで、確かにそこにいた人。
今日。 この世界から、一人、いなくなった。
『冬が終わらない世界で、今日も温泉は湧いている。 』
昼休みが終わる、少し前。

春香たちは賑やかな食堂を後にした。
春香:「午後って、何の講義だっけ?」
冬香:「熱交換設備」
春香:「……この世で一番、睡魔を誘う文字列だ」
冬香:「午前の一限も全く同じこと言ってたよ」
春香:「午前とは脳の使う領域が違うから、眠気の質も別物なの」
冬香:「はいはい、勝手に言ってなさい」
冬香が呆れたように先へと歩き出し、春香が小走りでその背中を追いかける。
大学の重い防寒扉を押し開け、外へと足を踏み出した瞬間、刺すような冷気が容赦なく頬を裂いた。
春香:「冷たっ……!」
冬香:「だから急に外へ飛び出さないでって言ったのに。 血管が縮むよ」
春香:「走ったのは今朝の話だって」
冬香:「今もちょっと小走りだった」
春香:「気のせい」
冬香:「そういうことにしてあげる」
二人は大学の裏手へと向かう道を歩いていた。
ここから先は、学生の姿が消え、代わりに油染みのついた作業着姿の大人たちが慌ただしく行き交う区画になる。
温室、共同食堂、診療所、そしてこの町の巨大な心臓部である地熱発電・配管設備。
湯ノ原というコミュニティの命綱を握る重要施設が、すべてここに集中しているのだ。
道路の脇には、大蛇のような太い配管が地を這うようにうねっている。

豪雪に埋もれて熱を奪われぬよう、分厚い断熱材が何重にも頑丈に巻きつけられていた。
その内部を、地下深くから汲み上げられた熱水が絶え間なく脈打っている。
町の人々は、親しみを込めてそれを『湯の道』と呼んでいた。
春香は、歩調を合わせながらも、無意識にその配管へ視線を這わせていた。
ほとんど職業病に近い、彼女ならではの習性だった。
春香:「……ん?」
ピタリと、春香のブーツが雪を踏みしめたまま止まる。
冬香:「どうしたの?」
春香:「今、変な音が交ざらなかった?」
冬香も足を止め、真っ白な雪原に向けて耳を澄ます。
冬香:「何も聞こえないけど。 風の音じゃない?」
春香:「違う。 風の音の裏側に、何かいる」
冬香:「いるって……何が」
春香:「絶対に鳴ってるって」
冬香:「どこから?」
春香:「あっち――温室の分岐点!」
春香が手袋をはめた指で示したのは、温室へと続く配管のジョイント部分だった。

何重にも巻かれた断熱材の、わずかな綻び。
その隙間から、まるで細い白糸のような蒸気が、シューッという微かな悲鳴を上げて吹き出していた。
足元の新雪を蹴って近づき、じっと覗き込む。
冬香:「……あーあ」
冬香が、予感していた面倒ごとに肩をすくめた。
春香:「壊れてる?」
冬香:「たぶん、ね」
春香:「技師さん、呼んでくる?」
冬香:「呼んだ方がいい、けど」
春香はその場に膝をつき、積もった雪の中にしゃがみ込んだ。
春香:「ちょっと待って、冬香」
冬香:「何?」
春香:「中を、ちゃんと見たいの」
はめていた手袋を歯で引っ張って外し、白くかじかむ素手で配管の表面に触れた。
熱い。
けれど、春香の指先が記憶している、あの佐伯さんの隣で覚えた『正常な熱量』には、明らかに届いていない。

春香:「ここ」
春香は、漏れ出す蒸気の中心を指の腹で示した。
春香:「バルブの根元、シールがイカれてる」
冬香:「……触っただけで分かるの?」
春香:「うん」
冬香:「本当に?」
春香:「伝わってくる振動が変。 不整脈みたいに揺れてる」
冬香:「音と振動だけで、そこまで判別できるものなの?」
春香:「できるよ。 毎日見てればね」
春香はすっくと立ち上がると、コートのポケットをガサゴソと探り始めた。
右、左、内ポケット、胸元。
まるでドラえもんのポケットのようだ。
春香:「……あった、これこれ」
冷たい指先でつまみ出したのは、小さな、不格好な金属片だった。
全体が赤黒く錆びつき、形もいびつに歪んでいる。
客観的に見れば、紛れもない『ジャンク品』――ただのゴミだ。
冬香:「……それ、何?」
春香:「分からない」
冬香:「用途も分からないものを、ずっと持ってたの?」
春香:「うん」
冬香:「何のために?」
春香:「いつか、こういう瞬間に使うかもしれないから」
冬香が、心底理解しがたいものを見る目で眉をひそめた。

冬香:「……やっぱり、私には一生理解できそうにない」
春香:「いいから、ちょっと見てて」
春香はその錆びついた金属片を指先で器用に弄びながら、ポケットの奥からさらにいくつかの『ガラクタ』を引っ張り出した。
摩耗したワッシャー。 小さなちぎれたバネ。
そして最後に、年季の入った、傷だらけのモンキーレンチを抜き取った。
柄をぐっと握り締める。
手の中に、冷たくも馴染んだ鉄の確かな質量が収まった。
これだけは、どんなに荷物を減らされても手放さずに使い続けている。
かつてこの町のすべてのインフラを一人で支え、やがて引退していった老技師から、直接譲り受けた宝物だった。
何度も硬いコンクリートの床に落とし、時にはハンマー代わりに硬い金属を叩き、そのたびに油を差して磨き上げてきた。

傷だらけで、無骨な柄には無数の小さなへこみがある。
けれど、工具としての機能は、今なお一ミリの狂いもなく生きている。
冬香:「春香」
春香:「なに?」
冬香:「それ、本当に直せるの?」
春香:「やってみるだけ」
冬香:「……もし、完全にトドメを刺して壊しちゃったら?」
春香:「そのときは、技師さんに五体投地で謝る」
冬香:「謝って済む問題?」
春香:「だって、バラしてみなきゃ壊れるかどうかも分からないじゃない」
冬香が、今日一番の深い、底のようなため息を吐き出した。
冬香:「分かった。 私はノータッチだからね。 ただ見てるだけ」
春香:「ちょっとくらい手伝ってよ、冷たいなあ」
冬香:「私は『必要なものしか持たない』主義。 工具の類は私の専門外」
春香:「こういう緊急事態のときくらい、何か持っててくれたっていいじゃん」
冬香:「こういう不測の事態のために、春香がゴミを溜め込んでるんでしょ。 私はそれを利用するだけ」
春香:「だから、部品だって言ってるでしょ!」
春香は再び、新雪の上に膝を突いた。
複雑なバルブの構造を瞬時に見極め、モンキーレンチの口を合わせて、慎重にナットを緩めていく。
隙間から金属の内部を覗き込んだ。
春香:「……やっぱりね」
冬香:「何が?」
春香:「パッキンが、完全に死んでる」
冬香:「死んでるの」
春香:「うん、寿命」
その単語を、自らの口から吐き出した瞬間。
春香の指先が、何かに射すくめられたようにピタリと硬直した。

――佐伯さん。
昨日まで、普通に生きて、お湯を診ていた。
今日、いない。
このパッキンも、昨日まで使えていた。
今日、壊れた。
似ているようで、そこには残酷なまでの絶望的な境界線がある。
冬香:「春香? どうしたの」
春香:「……ううん、なんでもない」
春香は一度深く目を伏せて息を整え、ポケットの奥からいびつなゴム片を引っ張り出した。
春香:「これなら、少し削ればサイズが合うはず」
冬香:「……そんなものまで持ち歩いてたの?」
春香:「うん」
冬香:「一体いつから?」
春香:「さあね、記憶にないくらい前」
冬香:「もはやホラーの領域」
春香:「人聞きが悪いなあ。 エンジニアとしての先見の明と言ってほしいな」
春香は小さく笑い、再びモンキーレンチの柄に指をかけた。

きゅ。 きゅ。
冷え固まった金属が、頑なにその身を強張らせて抵抗する。
春香:「……よし、動いた」
もう一段、腰を入れて力を込める。
きゅっ。
固着していたナットが外れた。
劣化した古いパッキンを指先で丁寧に取り除き、ありあわせの代用品を隙間なく噛ませる。
金具の遊びを微調整し、最後にレンチを噛ませて渾身の力で締め直した。
春香:「……冬香、ゆっくりバルブを開けてみて」
冬香が慎重に、金属のハンドルを回していく。

地下深くから、ごう、という野太い重低音が這い上がってきた。
配管全体が生き物のように微かに震え、直後、バルブの隙間からシューッと一筋の白い蒸気が鋭く吹き出した。
春香:「閉めて!」
冬香:「了解!」
冬香が慌ててハンドルを逆方向へ回し切る。
冬香:「……ダメ? まだ漏れてる?」
春香:「ううん、違う」
春香は冷たい配管の金属肌に、躊躇なく自らの耳を直接押し当てた。
そっと目を閉じ、雑音を排して内部の音だけを拾い上げる。
しばらくの間、しんしんと雪の降る音だけが、世界のすべてを支配していた。
やがて、春香がゆっくりと顔を上げる。
春香:「……もう一回、開けて」
冬香:「大丈夫なの?」
春香:「たぶん。 今度はうまくいく」
冬香が再び、おそるおそるバルブを開いた。

今度は、静かだった。
白く不気味な蒸気が漏れる音は完全に消失し、配管の奥深くを、温かい湯が力強く流れていく――低く、規則正しい、確かな脈動だけが響いてくる。
春香は、その生命の鼓動のような音に、じっと耳を傾けていた。
冬香:「直った、の?」
春香:「うん。 完璧」
冬香:「すごいね、春香」
春香:「普通だよ、これくらい」
冬香:「それを普通とは言わないって、前にも言ったと思うけど」
そのとき――。
年配の男:「おーいっ!」
温室の生い茂る影から、一人の年配の男が慌てた様子で雪を蹴って走ってきた。
年配の男:「誰だ、ここを勝手にいじったのは!」
春香:「あ……すみません、勝手に」
年配の男:「いや、謝るな、責めてるんじゃない!」
男は肩を荒く上下させながら、見事に修復されたバルブの根元を凝視し、それから春香の顔をまじまじと見つめた。
年配の男:「お前が、これを直したのか?」
春香:「はい、そうです」
年配の男:「学生、だよな?」
春香:「湯ノ原大の一年です。 機械・エネルギー工学科の」
年配の男:「一年生……?」
男は信じられないというように呆然と息を吐き出した。
年配の男:「……頑固者の佐伯さんがこれを見たら、それこそ相好を崩して大喜びしただろうな」
春香の口元から、ほんの少しだけ生気が引いた。

春香:「……そうですかね」
年配の男:「ああ。 あの人、お前のことを随分と自慢そうに気に入ってたからな」
春香:「……」
年配の男:「『あの子は使えるかどうかも分からん変な部品ばっかりポケットに拾ってくるんだ』って、嬉しそうにこぼしてたぞ」
春香:「……やっぱり、裏でそんなこと言ってたんだ」
春香は、切なそうに視線を落として笑った。
男も、どこか寂しげに目元を和ませる。
年配の男:「でも、本当に助かったよ。 温室の温度がこれ以上低下したら、明日の朝には貴重な苗が全滅するところだったんだ。 町の救世主だよ」
春香:「お役に立てたなら、よかったです」
年配の男:「本当に、ありがとうな」
春香:「いえ……」
男は何度も深々と頭を下げると、急ぎ足で温室の管理室へと戻っていった。
春香は、吹雪の中に小さくなっていくその背中を、静かに見送っていた。
冬香がそっと、その隣に肩を並べる。
冬香:「……佐伯さん」
春香:「うん」
冬香:「どこかで、喜んでくれてるかな」
春香:「さあね」
冬香:「冷たいなあ。 そこは『きっと喜んでるよ』って言ってよ」
春香:「死んだ人の本当の気持ちなんて、生きている誰にも分かりっこないから」
冬香:「……そっか。 冬香は相変わらずブレないね」
冬香はそれ以上、否定も肯定もしなかった。
春香も、白い息と一緒に言葉を飲み込んだ。
ただ、手のひらに残されたモンキーレンチを、じっと見つめた。

傷だらけで、油と煤で黒く汚れた、無骨な鉄の塊。
これで何度も、壊れたものを直してきた。
壊れた機械。 壊れた配管。 壊れた工具。
適切な部品さえあれば。 十分な時間さえあれば。 諦めずに手を動かしさえすれば、どんな不具合だって必ず直せる――そう信じて、一ミリの疑いも持っていなかった。
だから。
春香はまだ、実感としての本当の恐怖を理解していなかったのだ。
この終わらない冬の世界には、どれだけ泥臭い技術を尽くしても、どれだけ世界中から部品をかき集めても、決して『直す』ことのできない、絶対的な喪失が存在するということを。
春香:「ねえ、冬香」
冬香:「なに?」
春香:「このあと、温泉行こ」
冬香:「……急だね」
春香:「だって、今日、すごく寒かったから」
冬香:「この世界は毎日、例外なく寒いよ」
春香:「ううん。 今日は特に、冷えた気がするの」
冬香:「……まあ、いいけど。 付き合ってあげる」
春香:「やった」
二人は並んで、再び白い雪を踏みしめて歩き出した。

温泉街へと続く道の脇。 地を這う配管の綻びから、真っ白な湯気がふわりと立ち上っている。
その温かな熱が、灰色の空から絶えず降ってくる雪の結晶を、触れる直前に空中で優しく溶かしていった。
役場や設備班の大人たちが、その横を足早に、それぞれの持ち場へと通り過ぎていく。
誰か:「お疲れさん」
誰か:「こんにちは」
誰か:「今日も厳しい寒さですね」
誰か:「夜はもっと酷くなるらしいよ。 備えとかないとね」
誰もが、いつものように、他愛のない言葉を交わし合っている。
世界が終わっていても。 容赦のない雪が降り続いていても。 昨日まで確かにそこにいた見知った人間が、今日、たった一人いなくなってしまったとしても。
生きている者は、今日の夕飯を作らなければならない。 明日の仕事のために眠らなければならない。
そして――彼らの生を繋ぐ温泉は、今日も変わらず、足元で豊かに湧き続けている。
春香は歩きながら、コートのポケットの中をそっと探った。

錆びついた金具。 小さなバネ。 歪んだワッシャー。 切れ端のゴム片。
全部、まだそこに入っている。
いつか、誰かの『日常』が壊れかけたその時、直してあげるために。
これらを捨てる理由なんて、やっぱりどこを探しても存在しなかった。
視線の先。
白一色の雪の向こうに、この町の命そのものである、雄大な温泉の湯気が見え始めていた。
温泉街の入り口へと近づくにつれて、肌を撫でる大気の質感が明確に変質していった。
つんと鼻を突く固有の硫黄臭。 濡れた御影石が放つ、湿った大地の匂い。

凍てつく雪の冷気の中に、確かな『熱』の粒子が混じり始める。
道路脇をうねる配管の綻びからは、絶え間なく真っ白な湯気が立ち上っていた。
湯ノ原の町において、それは呼吸と同じくらいありふれた日常の景色に過ぎない。
朝も、昼も、夜も。
地面の奥底から、このコミュニティを生かすための温かい血が、途切れることなく脈打つように溢れ出ているのだ。
春香:「……はあ、生き返る」
春香は、ほうっと大きな白い溜息を吐き出した。
冬香:「まだ死んでないでしょ」
春香:「私の心は一限の教室で完全に消滅してたの」
冬香:「熱交換の講義ごときで?」
春香:「一限は合法的に人を殺せる不条理なんだよ」
冬香:「大学の偉い人を敵に回すのはやめなさい」
春香:「だって、睡魔という名の絶対的脅威には勝てないもん」
冬香:「はいはい、分かったから」
他愛のない口喧嘩を交わしながら、二人は色褪せた紺の暖簾をくぐり、共同浴場の古びた建屋へと足を踏み入れた。
脱衣所には、すでに何人かの先客たちの姿があった。

常連:「お、大学生。 いらっしゃい」
春香・冬香:「こんにちは、お邪魔します」
常連:「今日はえらい早いじゃないか」
春香:「一応、今日の分の講義はすべて終わったので」

常連:「ちゃんと教授の話は聞いてるか?」
春香:「ばっちり、完璧に!」
春香がここぞとばかりに胸を張って答えると、隣で冬香が小さく吹き出した。
冬香:「大嘘」
春香:「ちょっと、冬香!」
冬香:「午前中、少なくとも半分は自発的に意識を手放してた」

春香:「冬香ちゃん!? そういう都合の悪い事実をいちいち外部に告発しなくてよろしい!」
脱衣所のそこかしこから、どっと温かい笑い声が湧き起こる。
常連の老人:「いやあ、若いねえ」
常連の老人が、愛おしそうに目を細めて言った。
春香は少しだけ照れくさそうに、首をすくめる。

春香:「若いって言われると、なんか急に年寄り扱いされた気分になるなあ」
常連:「まだピチピチの一年生のくせに」
春香:「でも、大学生って世間的にはもう立派な大人じゃん?」
常連:「高校生から見れば、ね」
春香:「う、急に現実を突きつけないでよ……」

またひとつ笑い声が弾ける。
その温かな余韻を背中に受けながら、二人は衣服を脱ぎ捨て、いよいよ湯気が満ちる浴場へと足を踏み入れた。

濃厚な白い湯気が、一瞬にして視界のすべてを純白に塗り潰した。
曇ったガラス窓の向こうには、相変わらず容赦のない冬の女王が居座り、雪を降らせ続けている。

建物の外は、油断すれば命を容易に奪い去る極寒の死地だ。
それなのに――この溢れんばかりの湯船の中だけは、永遠の春が約束されていた。

春香:「はぁぁぁぁぁぁ……っ」
春香は、顎のあたりまでどっぷりと湯船に沈み込んだ。
春香:「……神様仏様温泉様、生きてて本当によかった……」
冬香:「だから、さっきから誰も死んでないってば」

春香:「これで今日二回目」
冬香:「何回そのセリフを使い回すの」
春香:「温泉の暖簾をくぐって、お湯を肌に感じるたびに毎回言うよ」
冬香:「じゃあ私は、これから毎日それを聞かされる羽目になるのね」
春香:「いいじゃん、減るもんじゃないし」
冬香:「私の精神的な余裕が減る」

軽口を叩きながらも、春香は肩まで深く湯に浸かり、心地よさに目を閉じた。
春香:「……あったかい。 本当に、あったかいや」
冬香:「うん、そうだね」

冬香も少しだけ距離を置いて、隣に並んで腰を下ろす。

しばらくの間、二人の間から言葉が消えた。
ただ、なみなみと注がれる湯が静かに波打ち、縁から溢れ出していく不規則な音だけが響く。
遠くの洗い場で、誰かが木桶を床に置いた。

カコン――というその乾いた掠れた音が、濃密な湯気の中に妙に大きく、そしてどこか寂しげに木霊した。
春香:「ねえ、冬香」
春香が、瞼を開けないままぽつりと言った。

冬香:「なに?」
春香:「佐伯さんってさ」
冬香:「うん」
春香:「昨日も、このお湯に浸かりに来てたのかな」

冬香:「たぶんね。 あの人、ここの一番風呂が定位置だったから」
春香:「そっか」
春香は目を開け、ゆらゆらと揺れる不透明な水面を見つめた。
白い湯気の向こう側はどこまでも霞んでいて、何も見えない。

春香:「昨日まで、本当に普通だったのにね」
冬香:「そうだね」
春香:「なんか……すごく、変な感じがする」

冬香:「その『変』っていうのは……佐伯さんが、死んじゃったから?」
春香:「……うん、そう、なのかな」
冬香は、湯の中で少しだけ座り直すように姿勢を変えた。
冬香:「春香」
春香:「なに?」
冬香:「人ってね、昨日までいくらあたりまえに生きていても、今日あっけなく事切れるものだよ」

春香:「……そんなの、言われなくたって知ってるよ」
冬香:「じゃあ、ただそれだけのこと」
春香:「……それだけって、それだけなの?」
冬香:「それだけ」
春香は、冬香の美しい横顔をじっと盗み見た。
濃厚な湯気に濡れた彼女の表情は、いつも通り淡々としていて、冷徹な氷のようにも見える。
春香:「……なんかさ、ちょっと冷たくない?」

冬香:「そうかな」
春香:「だってもうちょっと、こう……悲しいな、とか、寂しいな、とかさあ」
冬香:「悲しいよ、私だって」
春香:「え……?」
不意に返ってきた言葉に、春香は目を丸くした。

冬香:「佐伯さん、ぶっきらぼうだけど、すごくいい人だったから」

春香:「……」
冬香:「でもね、私たちがどれだけ涙を流して悲しんだところで、死んじゃった人が生き返るわけじゃないし、これから死ぬ人間がいなくなるわけでもない」
冬香は白く煙る天井を見上げ、湯の中で両足をゆったりと伸ばした。
冬香:「だから私はね、泣く代わりに、ちゃんと覚えておくだけでいいと思ってる」

春香:「覚えておく、って……」
冬香:「うん」
春香:「何を?」
冬香:「あの人の、工具の握り方が驚くほど雑だったこととか」

春香:「あはは、そこなんだ」
冬香:「いつも同じ退屈な昔話を楽しそうに繰り返してたこととか」
春香:「あー、してた。 私、三回は同じの聞いたもん」
冬香:「それから」
冬香が、いつになく柔らかく、ほんの少しだけ口角を上げた。
冬香:「春香のことを『あいつは目を離すとすぐ変なものを拾ってくる変な子だ』って言って、本当に嬉しそうに笑ってたこと」

春香は喉を詰まらせ、やがて、堪えきれずに小さく、温かい笑い声を漏らした。
春香:「……うん。 それは、絶対に忘れない。 ちゃんと覚えてる」
冬香:「なら、それで十分でしょ」
春香:「うん、そうだね」
春香は湯の中で白く透ける足をそっと揺らし、ちゃぷん、と小さな、きらめく波を立てた。
春香:「じゃあ私も一生覚えとく。 佐伯さんが、私の大事なコレクションをガラクタ扱いして、大笑いしてたこと」
冬香:「それは覚えておくだけじゃなくて、一生根に持つつもりでしょ」
春香:「ふふ、正解」

春香は、結露した天井からきらりと落ちてくる冷たい水滴を、視線で見上げた。
春香:「でもさ」
冬香:「なに?」
春香:「今日、私があの温室の配管を直したこと」

冬香:「うん」
春香:「佐伯さんが生きてたら、なんて言ったかなあ」
冬香:「決まってる。 『学生は大人しく机に向かって勉強してろ』」
春香:「あはは、絶対それ言う!」

冬香:「で、そのあとに、たぶん本人には聞こえないくらいの声でこっそり褒めるの」
春香:「うん、言うね」
冬香:「『まあ……素人にしては、悪くないんじゃないか』とか何とか言って」
春香:「言う言う! 容易に想像がつくよ」
二人の弾んだ笑い声が、白く濃厚な湯気の中に優しく溶けていく。

ほんの少しだけ。 春香の胸の奥底に未消化のまま沈殿していた、あの重たい泥のような塊が、温かいお湯に解かされるようにふっと軽くなった。
死を忘れたわけではない。 失った命に対する悲痛な寂しさが、綺麗に消え去ったわけでもない。

ただ、今日という新しい一日の中に、旅立ってしまった人間の記憶を静かに仕舞っておくための『居場所』が、ほんの少しだけ整えられたのだ。
春香:「……ねえ、冬香」
冬香:「ん?」
春香:「冬香ってさ、自分に必要ないって判断したものは、何でも躊躇なく捨てる主義じゃん」

冬香:「必要ないものは、ね。 持っているだけ人生のコストになるし」
春香:「じゃあ……佐伯さんのことも、いつか自分に必要ないって思ったら、頭の中から捨てちゃうの?」
冬香は、一瞬だけ言葉を止めた。
そうして、波紋の広がる湯面を滑るように切れ上がった視線を動かしてから、静かに答える。
冬香:「……捨てないよ」

春香:「え?」
冬香:「記憶は、両手に抱える荷物じゃないから」
春香:「……」
冬香:「いくら持って歩いたって、一グラムも重くならないでしょ」

春香は、反則技でも見せられたかのように目を丸くした。
春香:「……なんか、ずるい」
冬香:「何が?」
春香:「そういう、小説の主人公みたいな格好いいセリフを急に言うの」
冬香:「私はあたりまえの事実を口にしただけだけど」

春香:「あたりまえじゃないよ、ずるい」
冬香:「春香の情緒が変なだけじゃない?」
春香:「またそれ! すぐ人を規格外扱いする!」
浴場の高い天井に、二人の屈託のない笑い声が心地よく反響した。
少し離れた浴槽で首まで湯に浸かっていた町のおばさんが、振り返って目を細める。
町のおばさん:「若い子は本当に元気だねえ。 見てるだけでこっちまで温まるよ」

春香:「はい!」
春香が水面からざばりと身を起こして元気に答える。
春香:「元気と拾い癖だけが取り柄です!」
町のおばさん:「あと、機械の修理もできるんでしょ」
おばさんが悪戯っぽく笑った。

町のおばさん:「今さっき、温室の配管を鮮やかに直したって噂を聞いたよ」

春香:「ええっ、もうそこまで広まってるんですか!?」
町のおばさん:「湯ノ原は狭いからねえ。 噂に羽が生えて飛んでいくのさ」
春香:「情報伝達のスピードが光速すぎる……」
町のおばさん:「佐伯さんの後を、あの子が立派に継いでくれるんじゃないかって、みんな期待の目を向け始めてるよ」
春香:「いやいやいやいや!」
春香は湯をはね散らかしながら慌てて両手を振った。
春香:「私、まだしがない大学の一年生ですよ!?」

町のおばさん:「若い方が頼もしくていいじゃないか」
春香:「のしかかるプレッシャーの質量が重すぎますって!」
冬香が隣でくくくと肩を揺らして笑っている。
冬香:「似合ってるよ、湯ノ原の次世代お抱え若手技師」
春香:「他人事だと思って! 完全に面白がってるでしょ!」
冬香:「私は専門が違うから。 外の調査・探索担当だし」
春香:「そっちこそ、壁の外の雪原に出ていく命がけの大変な仕事じゃん」

冬香:「まあね、死ぬほど大変だよ」
春香:「じゃあ背負ってる重さは一緒じゃん」
冬香:「そうかもね」
二人はまた、顔を見合わせて破顔した。
曇ったガラス窓の外では、白い悪魔のような雪がしんしんと降り続いている。
世界のどこか――わずか三十キロ先では、一つの居住圏が音もなく消滅している。
人々が容赦なく食い殺され、あるいは凍えつきながら、絶望的な逃避行の果てに命の灯火を消しかけている。
それでも――ここでは、少女たちが温かい湯に身を委ね、他愛のない冗談を交わして笑い合っている。

今日も、湯ノ原には枯れることのない温泉がある。

だから、誰もが 「自分たちはまだ大丈夫だ」 と、その絶対的な日常の継続を、一ミリも疑ってなどいなかった。
◇
暖簾をくぐって温泉の外へ出る。
芯まで熱が染み渡った身体には、外の刺すような冷気すら、むしろ心地よい愛撫のような刺激に感じられた。
春香:「……はーーー」
春香は天を仰ぎ、腕を思いきり伸ばして大きな伸びをした。
春香:「猛烈に眠い」
冬香:「またそれ? 湯あたりでもしたの」
春香:「温泉に入って極上のぬくもりを手に入れたからだよ」
冬香:「一日の半分以上を眠気との戦いに費やしてるね、春香は」
春香:「よし、決めた。 夕飯の時間まで私は泥のように眠る」
冬香:「絵に描いたような駄目人間」
春香:「現役の大学一年生です」
冬香:「さっきも全く同じ返しを聞いた」
二人は肩を並べて歩き出す。
風情ある温泉街の古い木造家屋を抜け、町の中央に位置する広場へと向かう。
灰色の空からは、いまだに雪が絶え間なく舞い散っていた。
広場の中心には、旧時代の遺物めいた巨大な排熱塔が、鉛色の空を突き刺すように聳え立っている。

湯ノ原の地下深くから溢れ出る地熱を、町全体へと血液のように分配するための、まさに巨大な機械の心臓。
その無骨な鉄の根元に、一枚の古びたインジケーターが設置されていた。
パタパタと音を立てる機械式のデジタル数字が、ゆっくりと、しかし冷徹な意志を持ってある数値を表示している。
春香は、歩きながら何気なくそれを見上げた。
冬香は視線すら向けない。 いつもの、見慣れた光景だったからだ。
錆びついた表示板には、無機質な剥げかけた文字でこう刻まれている。
――地熱出力。
【 58.4 % 】
春香:「……あ」
春香は、新雪の上でふっと足を止めた。

冬香:「どうしたの?」
数歩先を歩いていた冬香が、不思議そうに振り返る。
春香:「ねえ、冬香」
冬香:「ん?」
春香:「これ、見て」
春香は、雪に埋もれかけた巨大な塔の根元にある、古い表示板を指差した。
春香:「これさ……先月の夕方、何パーセントだったか覚えてる?」
冬香:「さあね、興味ない。 何パーセントだったの?」
春香:「たしか……五十八・五、だったはず」
冬香:「ふうん。 じゃあ、一ヶ月で〇・一パーセント下がっただけじゃない」
春香:「そうだね、たった〇・一……」
春香は、パタパタと微かに震える機械式の数字を、じっと見つめ続けた。
58.4。
ただの無機質な数字だ。
しかしその数字は、湯ノ原という町の寿命そのものとダイレクトに直結している。
暖房、温泉、温室、診療所、大学。
この雪に閉ざされた世界で生きる人々の、ささやかな暮らしのすべてが、この数字の示す地下の熱量に依存して辛うじて成立しているのだ。

春香:「……ねえ、冬香」
冬香:「なに?」
春香:「湯ノ原ってさ……」
春香は、胸の奥に湧き上がった底冷えするような不安を隠すように、少しだけ言葉を迷わせながら紡いだ。
春香:「いつまで、私たちはここにいられるんだろうね」
冬香は、最後までその表示板に視線を向けようとはしなかった。
ただ真っ直ぐに、白く煙る前方を見つめたまま、平坦な声で答える。
冬香:「さあね」
そして、ほんのわずかな呼吸の間を置いて、あまりにも冷酷な、この世界の絶対的な真理を口にした。
冬香:「この地下の熱が、町を支えられなくなるまででしょ。 それだけ」
春香:「……そっか。 そうだよね」
春香は、もう一度だけその数値を視線でなぞった。
58.4%。
その数字が、自分たちにあとどれほどの猶予が残されているかを意味するのか、まだ大学一年生の春香の知識では正確に逆算することはできない。
あと、五年なのか。 十年なのか。

あるいは――もっと残酷なほどに、短いのか。
この町を管理する大人たちは、とうに正確な限界予測(タイムリミット)を導き出しているのかもしれない。
だが、誰もが毎日、そんな世界の終末へのカウントダウンに怯えて生きてなどいられないのだ。
明日の朝は必ず、あたりまえの顔をしてやってくる。
温泉は湧き、大学の授業も一限から始まる。
だから、それでいいのだと、誰もが目を逸らしながら今を生きている。
春香:「冬香、置いてかないでよ」
冬香:「春香の歩くスピードが、寝起きみたいに遅いからでしょ」
春香:「今行くってば!」
春香は、新雪を思いきり蹴って駆け出した。
ブーツで真っ白な絨毯を踏みしめ、盛大に白い息を吐き散らしながら、冬香のすぐ隣へと滑り込む。

春香:「寒っ! 急に走ったら空気が肺に刺さる!」
冬香:「だから走るなって、今日だけで何回言わせるの」
春香:「だって冬香の歩幅が妙に広いんだもん」
冬香:「普通」
春香:「その『普通』って言葉、今日だけは使用禁止!」
二人の楽しげな声が、白く沈みゆく町の中へと、静かに吸い込まれて消えていく。
天を衝く排熱塔は、眼下を急ぎ足で過ぎ去る人間たちの些細な営みに何の感情も抱かず、ただ絶対的な沈黙をもって、町へ熱水を送り続けていた。
【 58.4 % 】
歴史の残酷な秒針を刻むその数字を、まだ、誰も本当の意味では恐れてはいなかった。
破滅へと至る真なる終末は、少なくとも、今日この日ではなかったからだ。
その夜。
湯ノ原を包み込む雪は、昼間よりもわずかにその激しさを増していた。
しんしんと屋根を叩く微かな音が響き、窓の向こうは漆黒の闇と純白の雪が混ざり合う、夜の帳(とばり)に沈み込んでいる。 それでも、この町の明かりが絶えることはない。
温泉街の古びた看板、密集する住宅の窓、診療所の常夜灯、そして大学の学生寮。 地下深くから脈打つように運ばれてくる熱の波動が、今夜も町全体を温かい揺りかごのように優しく包み込んでいた。

春香は、自室の机に向かって無残に突っ伏していた。
春香:「……終わらない。 絶対に終わらないよ、これ……」
目の前には、午後の講義で容赦なく叩きつけられた課題のプリントが広がっている。 熱交換効率についての、目眩がするほど複雑な計算問題だ。
春香:「なんで温泉に入って完璧にリフレッシュしたはずなのに、入る前より余計に疲弊してるんだろ」
誰に問うでもなく、恨みがましくぼやく。
ベッドの上には脱ぎ捨てられたコート。 机の隅には、使い古された愛用の工具と、今日拾ったばかりの小さな錆びた金具が転がっている。
春香はペンを置き、その赤黒い金具を手に取った。 指先でくるくると弄ぶ。
春香:「……これ、一体何に使えるかな」
今はその用途が分からない。 だからこそ、捨てる理由にはならない。 いつか、何かの致命的な空白を埋めるかもしれないから。
そう信じて机の引き出しを引くと、そこには大量の『ガラクタ』たちが静かに眠っていた。
錆びたネジ、摩耗したワッシャー、ちぎれたバネ、古いヒューズ、歯の欠けた小さな歯車、用途不明の金属片。

常人から見ればただの不法投棄場のようなゴミ箱だが、春香にとっては、無限の可能性を秘めた輝かしい宝箱だった。
そのとき――。
――ピッ。
短い電子音が静寂を破り、春香は弾かれたように顔を上げた。
机の片隅に置かれた無線機。 近隣の居住圏や町の中枢を繋ぐ、命の通信網だ。
普段なら、設備班からの定時連絡や、雪崩の警戒情報、翌日の退屈な天候予測など、無害な生活音しか流れてこないはずの機械。
しかし、今夜スピーカーから漏れ出してきた声は、明らかに異質だった。
水守町:『――こちら第十一居住圏、水守町』
春香の指先が、ぴたりと静止した。

水守町:『湯ノ原、受信していますか。 応答してください』
激しいノイズが混じる音声の向こう側。 そこには、微かな、しかし明確な生存の危機を孕んだ緊張感が、ぴりぴりと張り詰めていた。
湯ノ原オペレーター:『こちら湯ノ原。 感度良好、受信しています』
町の中央無線局に詰めているオペレーターが、神妙な声で応答する。
水守町:『――先ほど。 第十三居住圏、深雪(みゆき)町からの避難民を、本居住圏にて受け入れました』
春香は、暗い部屋の中で小さく瞬きを繰り返した。
春香:「……深雪(みゆき)町?」
決して、聞き慣れない名前ではなかった。
確認されている十三の居住圏の中で、最も北の辺境に位置する極寒の町。 ここ湯ノ原からすれば、気が遠くなるほどの白銀の荒野を隔てた場所だ。
水守町:『――生存者の数は二十名。 繰り返します、確認できた生存者は、二十名です』
春香は、机の前で完全に身動きを止めた。
無線のスピーカーの向こう側に、奈落のような重苦しい沈黙がドサリと落ちる。
水守町:『深雪町の、残存住民は――』
通信士の抑え込んだ声が、一瞬だけ、痛みをこらえるように震えた。

水守町:『――およそ二十名と判断されています』
その意味を脳が冷酷に処理し終えるまでに、数秒の空白を要した。
生存者が二十名。 残存――つまり、白銀の闇に呑まれて永遠に失われた命が、二十名。 合計、四十名。
春香:「……半分、しか」
春香の乾いた唇から、震える声が零れ落ちた。
昼間、佐伯さんという『一人』の不在に怯えていた自分に、今度は『二十人』という凶暴な数字の質量が襲いかかってくる。
水守町:『――第十三居住圏、深雪町は、これをもって完全に放棄されました』
その言葉には、感傷を交える余地など一滴も残されていない、事務的な冷徹さが満ちていた。
必要な情報を、必要な順序で、ただ冷厳な事実として世界に共有する。 それだけが、かろうじて生き残った者たちに課せられた、唯一の義務だった。
水守町:『避難民の中に、多数の負傷者あり。 重傷者三名、重度の低体温症および凍傷者多数。 当町では直ちに医療班を展開し、生存者の蘇生および治療を開始――』
春香は、無線の前に座ったまま、凍りついたように動けなかった。
昨日まで普通に笑っていて、今日あっけなく世界から消去された佐伯さんの横顔がフラッシュバックする。

そして今度は、一つの 「町」 そのものが、何の前触れもなく地図の上から綺麗に削り取られたのだ。
それでも――無線の向こうでは、人々が必死に命を繋ぎ止めようと動いている。
医師が怒鳴り、毛布が運ばれ、湯が沸かされ、傷口を洗い、生き残った人間をなんとか 「生かす」 ための泥臭い戦いが繰り広げられている。
春香は、胸の奥に溜まった冷たい空気を、小さく吐き出した。
春香:「……でも、二十人は、助かったんだ」
誰も答えない。
無線のザザ、ザザという定周期のノイズだけが、狂おしいほど規則的に鳴り続けている。
水守町:『なお――』
不意に、水守町の通信士の声色が変わった。
それまでの淡々としたトーンが消え去り、数オクターブ低く研ぎ澄まされた、剥き出しの刃のような鋭利な響きを帯びる。

水守町:『――深雪町を襲撃した、あの白い『個体群』について。 現在、当町の外周監視班が、その最悪な動向を確認中です』
春香はハッと顔を上げた。
個体群――その無機質な単語が意味する絶望を、彼女は嫌というほど理解している。
ブリザード・レックス。 白獣(はくじゅう)。 雪原を徘徊する、この終わらない冬の世界の絶対的な捕食者。
しかし、安全な湯ノ原でぬくぬくと暮らす春香たちにとって、それは今まであくまで 「無線のスピーカーの向こう側にいる、架空の存在」 に過ぎなかった。
自分たちのあたりまえの日常からは、あまりにも遠い場所の出来事。
水守町:『――水守町より、各居住圏へ緊急伝達。 今後、外部探索を行う場合は、単独行動を一切厳禁とします。 また、地上の熱源使用は必要最小限に抑え、避難民の移動経路については――』
突如、激しいバズ・ノイズが走った。
ザーーーッという耳障りな不協和音とともに、通信が一時的に途絶える。
春香:「……?」
春香が不安げに無線機を覗き込んだ、数秒後。

パチパチと音を立てて通信が復旧した。
だが、今度はスピーカーから、先ほどとは違う荒い息遣いが混じった生々しい声が漏れ出してきた。
外周監視班:『――こちら外周監視班! 確認、確認しました! 水守町外周、北東側……雪面に足跡を発見!』
春香の指先が、一瞬にして感覚を失うほど冷たくなる。
外周監視班:『数は複数。 サイズ、および歩幅から、ブリザード・レックスの群れと断定します!』
無線の向こうで、誰かが鋭く喉を鳴らして息を呑む気配がした。
外周監視班:『……我々を、追跡している可能性があります』
追跡。
一体何を。 誰を。
外周監視班:『――足跡のベクトルは、深雪町から逃れてきた避難民の移動経路と……完全に一致しています』
春香の背筋に、冷たい氷を直接滑らせたかのような、猛烈な悪寒が走った。
部屋の中は暖かい。 地下の恩恵を受けた地熱暖房が、完璧に機能している。

それなのに、歯の根が合わないほどの震えが、どうしても止まらなかった。
◇同時刻。 第十一居住圏、水守町。
深夜の町を覆う外周監視所では、狂ったような猛吹雪がすべてを遮るように吹き荒れていた。
監視員:「……クソ、来たぞ」
分厚い防寒着に身を包んだ監視員が、暗視望遠鏡に張り付いたまま、呻くように声を絞った。
視界を覆う白い闇の奥。 猛り狂う雪原の向こう側で、何かがぬらりと動いた。
一つ、二つ、三つ。 いや、暗闇の奥にはさらに後続の影が蠢いている。
吹雪と完全に同化した純白の巨躯。 雪を滑るような長い四肢。 虚空へと間断なく吐き出される、凍てついた白い息。
音もなく、死神の群れが、確実にこちらへ向かって歩を進めていた。

誰か:「――数は?」
監視員:「視認できる範囲だけで六頭。 視界不良ですが、まだ奥に潜んでいる可能性があります」
防衛班の男:「六頭か……」
指揮を執る防衛班の男が、苦渋を噛み潰すように小さく舌打ちをした。
だが、水守町の人間はパニックに陥りなどしない。
彼らは血塗られた歴史を通して、嫌というほど学んでいたのだ。 あの白い悪魔がどのような生態を持ち、何に反応して襲い来るのかを。
だからこそ、最悪を想定した迎撃と回避の布陣を、初手から寸分の狂いもなく整えていた。
防衛班の男:「南区画の生存熱源、すべて遮断しろ。 完全に気配を消せ」
誰か:「了解」
防衛班の男:「北側の囮は?」
誰か:「擬似排熱網、最大出力で維持しています。 獣たちの目を引いています」
防衛班の男:「地下シェルターへの避難民の誘導は?」
誰か:「先ほど、最後の一個人が滑り込み、ハッチの密閉完了しました」
防衛班の男:「よし」
人々は、静まり返った暗闇の中で音もなく駆動した。
灯火を消し去り、人間の生を証明する 「熱」 の匂いを隠し、強固な防壁の出入口を完全にロックする。
誰も叫ばない。 誰も無駄に走りなどしない。
本当の恐怖の形を知る人間ほど、無意味に騒ぎ立てて自らの命を縮めるような愚行は犯さないのだ。

監視員が、再びレンズに顔を押し当て、暗視望遠鏡を覗き込んだ。
監視員:「……避難民がこの町へと入った本物の痕跡(トレイル)、完全に消去。 偽装の足跡も、町の東側へ向けて綺麗に設置済みです」
防衛班の男:「上手く食いついてくれよ……」
白い闇の底。
群れの先頭を行く一頭のブリザード・レックスが、ふと、その滑らかな歩みを止めた。
暗黒に沈み込んだ水守町を見据えているのか――いや、違う。
獣の冷徹な嗅覚と視線は、町の東側……避難民が町をあえて迂回し、そのまま南へ逃げ続けたように偽装した、あの『偽の足跡』へと向けられていた。
監視員:「……こちらへ来ない」
防衛班の男:「そのまま、東へ行け……っ!」
祈るような、心臓が爆発しそうな数十秒の空白。
ブリザード・レックスは雪原の中に、まるで凍りついた彫像のように佇んでいたが――やがて、ゆっくりとその巨大な頭を、東の闇へと向けた。
監視員:「……成功だ、騙されたぞ!」
こちらへの進路を外した。

偽装された欺瞞ルートを正確になぞるように、白銀の群れ全体が、東の雪原へと滑るように歩みを進め始めた。
監視員は、目の前を通り過ぎていく純白の影にひとまず安堵の息を吐き出したが――同時に、魂の底から湧き上がる抗いようのない戦慄に、全身の産毛を逆立てていた。
彼らは人間より高度な知能を持っているわけではない。 だが、だからこそ恐ろしいのだ。
監視員:「……あいつら」
視界不良の雪原の彼方へ消えゆく、群れの不気味な背中を見送りながら、監視員は喉を絞り出すように呟いた。
監視員:「ただ、逃げた人間の残香を食うためだけに、三十キロもの過酷な荒野を追ってきたわけじゃないぞ」
誰か:「じゃあ……一体何のために動いてるんだ?」
監視員:「……『次の狩場』を、本能で探しているんだ。 あの白獣たちにとっては、居住圏(人間の町)そのものが巨大なエサ箱なんだよ」
そのあまりにも絶望的な推論だけが、極寒の監視所に、氷のように重く淀んだ。
◇
湯ノ原。 春香の部屋。
机の上の無線機は、もう不気味なほどの完全な静黙を保っていた。
春香は、夜のガラス窓の外を見つめる。

雪。 ただ、どこまでも冷たくて白い雪。 いつもと変わらない、見慣れた湯ノ原の冬の夜だ。
部屋は地熱で暖かく、町には今も温泉が豊かに湧き、大学もある。 明日も間違いなく、不条理な一限から講義が始まる。
春香:「……遠い国の、お話だな」
春香は、ぽつりと夜の闇に呟いた。
深雪町。 水守町。 そのさらに向こうに広がる、終わりなき白銀の深淵。
安全な湯ノ原で生きる自分からは、あまりにも遠い世界の出来事だ。
だから、今はまだ自分には関係がない。 関係あるはずがない。
そう無理やり思考のシャッターを下ろし、春香は机の上に残されていた小さな錆びた金具を、引き出しの最奥へと大切に仕舞い込んだ。
カタン、と小さな音を立てて引き出しを閉める。 そして、ふかふかのベッドの布団へと滑り込んだ。

春香:「……おやすみ」
誰もいない部屋で、自分自身に言い聞かせるように、静かに目を閉じる。
地熱暖房が規則正しく刻む、低い駆動音。 壁の向こうから微かに響く、配管を流れる熱水の、愛おしい脈動。
湯ノ原は、今日も生きて、呼吸をしている。
その夜、この温かい町では、誰も命を落とさなかった。 少なくとも、まだ。 誰も。
――しかし。
吹き荒れる雪原の遥か向こう側では、白い獣たちが、東へと続く『欺瞞の足跡』を、静かに、そして確実に追跡し続けていた。
終わらない冬の世界で。
まだ見えぬ終末の足音は、着実に、しかし致命的な速度で近づいていた。

第01話『世界は終わった。 けれど、今日も大学は一限からだった。 』完

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あらすじ 終わりなき冬に覆われた世界で、地熱に頼って生きる第十三居住圏・深雪町は人口約四十名の小さな孤島のような共同体として、白銀の荒野に辛うじて灯りをともしていた。 鉛色の空が雪を吐き続ける朝、台所の鍋や屋根雪下ろし、温室の苗の確認といった穏やかな営みがいつも通りに進み、地熱はわずかに弱まるも生活を支えるには十分で、住民たちは慎ましく日常を回していた。 しかし監視塔の女性が雪原で「這う」ように動く白い影を視認し、双眼鏡の先に四肢を低く構え滑るように進む白い巨躯を捉えた瞬間、凍りついた日常は無音の崩壊へ傾き始めた。 ブリザード・レックスの群れ接近を告げる割り込み通信とともにサイレンが町中に鳴り響き、住民は北門封鎖や地下通路への誘導に動き、温室や発電設備の放棄を即断して命の確保を最優先した。 北門は最初の突撃で金属がひしゃげ、発砲も速度を落とせず、猛吹雪に紛れた白い影は倒れた男性を痕跡ごとさらい去り、雪上に片手袋だけを残して消失させるという恐怖を見せつけた。 屋根雪下ろしの男がそれを弟だと悟る沈痛な一言に誰も言葉を返せず、サイレンと銃声と悲鳴の渦中でも人々は立ち止まることを許されず、さもなくば自らが世界から「消去」されると知っていた。 点呼で呼ばれる名に次々と空白が生まれ、統計上の数字だった四十という人口が一人ごとの体温と顔を持つ喪失へと変わり、残された者の胸に重くのしかかった。 温室の若い女性は地下道へ走りながら一度だけ育てた緑のぬくもりを振り返るが、老人に「前だけを見ろ」と叱咤され、二度と戻れぬと悟って唇を血がにじむほど噛みしめて駆け続けた。 その頃、湯ノ原の春香は無線機の復旧を見守る中で外周監視班から水守町外周・北東側に複数の足跡、歩幅・サイズからブリザード・レックス群れと断定という報が入り、指先から熱が奪われた。 足跡のベクトルが深雪町から逃れた避難民の移動経路と一致し、追跡の可能性が示された瞬間、暖かい部屋にいても止まらない震えが春香を襲い、遠くの破局が身近な現実へと輪郭を帯びた。 同時刻の第十一居住圏・水守町の外周監視所では猛吹雪の白い闇の奥から六頭以上の白獣が音もなく接近し、防衛班は過去の惨禍から学んだ冷静さで迎撃と回避の布陣を寸分違わず整えていた。 南区画の生存熱源は完全遮断、北側には擬似排熱網を最大出力で稼働させ、地下シェルターへの全避難民の収容とハッチ密閉を完了し、誰も叫ばず無駄走りもせず、人の痕跡と熱を闇に消した。 本物の避難トレイルは完全に消去し、町の東側に偽装足跡を精緻に敷設する欺瞞作戦が実行され、指揮官は「上手く食いつけ」と祈るように固唾を飲んで行方を見守った。 やがて先頭の一頭が静止して東の闇へ巨大な頭を向け、群れ全体が欺瞞ルートへ滑るように進路を変え、水守町は間一髪で直接襲撃を免れたが、監視員の背にはなお言語化し難い戦慄が立った。 彼らの知能は人間より高いわけではないが、本能に最適化された嗅覚と執念が恐ろしく、逃げた人間の残香だけで三十キロの荒野を追うのではなく、次の狩場=居住圏そのものを巨大な餌箱として探ると推論された。 この絶望的な洞察は監視所の空気をさらに重く凍らせ、欺瞞が成功しても根源の危機は去っていないことを、誰もが痛覚のように理解した。 一方、湯ノ原の春香の部屋では無線が再び完全な沈黙に落ち、窓外には見慣れた白い雪、室内には地熱の暖かさと規則正しい配管の脈動があり、温泉も大学もいつも通りに息づいていた。 春香は「遠い国の話だな」と自分に言い聞かせ、深雪町と水守町の破局を心の外へ押しやり、机に残した小さな錆びた金具を引き出しの奥へ丁寧に仕舞って、布団へ潜り「おやすみ」と目を閉じた。 湯ノ原ではその夜、誰も命を落とさなかったし、少なくともまだ何も起きておらず、町は今日も生きて呼吸し、明日も不条理な一限から講義が始まるはずだと、彼女は安堵と否認のあわいに身を置いた。 だが吹き荒れる雪原の彼方では、白い獣たちが東へ伸びる欺瞞の足跡を静かに確実に追い続け、見えない終末の足音は致命的な速度で着実に近づいていた。 深雪町の朝のスープの湯気や温室の緑の誇らしさは、白獣の群れが一頭の体当たりで門を歪めるまでの束の間の平衡であり、日常は脆くも音を立てずに断絶し得ると痛感させられた。 住民は即応し持ち場で最善を尽くしたが、雪に同化する敵の機動と隠密性、痕跡を消す一撃の速さは人の反応時間を嘲笑うかのようで、対処の遅れは即時の「消去」へ直結した。 点呼における「いる」「いない」の二語は生死の境界を示す最も素朴で残酷な記号となり、呼ばれない返事が増えるたびに共同体の結束は震え、しかし避難の秩序は辛うじて保たれた。 水守町の戦術は、熱と匂いという白獣の感覚器に的を絞った徹底的な「存在の否定」で、擬似排熱と偽装足跡の組み合わせにより、攻撃衝動の針路を外へ誘導する合理的な騙し絵だった。 それでも監視員は「次の狩場」を探す本能という根本を指摘し、局地的な回避が成功しても、居住圏という概念そのものが捕食対象であるかぎり、長期の安全は保証されないと結論づけた。 春香が仕舞い込んだ錆びた金具は、彼女が切り離そうとする外界の記憶か縁の象徴であり、閉じた引き出しの音は、彼女自身の心の防寒扉が一時的に閉まった合図でもあった。 湯ノ原の「安全」は地熱と設備と社会の規律に支えられた偶有的な均衡にすぎず、深雪町や水守町の出来事は「今は関係ない」と切り離せても、地続きの白い世界がその否認を許さない未来を示唆する。 終わらない冬という環境は資源と移動と捕食の圧力を最大化し、白獣の群れは飢餓に駆動されつつも感覚の鋭さで最小のリスクで最大の熱源を得ようとする、単純だが強靭な意思で動いていた。 人間側の勝機は、痕跡管理と熱源制御、地形・気象の利用、そして共同体が恐怖に溺れず手順を守る規律にあり、水守町はその雛形を体現したが、群れの規模と回遊性が増せば限界は迫る。 深雪町の若者や老人がそれでも走り、誰かが誰かの名を呼び続けたことは、人が世界の凍結に抗って人間であり続けるための最小の炎であり、その温かさが温室の双葉と同じく希少な資源となった。 春香の独白「遠い国の話」は自己防衛の言葉である一方、物語はその距離を詰める予兆として欺瞞足跡の東進を据え、やがて「大学は一限から」という常態の象徴にひびが入る運命を暗示する。 こうして第01話は、崩壊の無音、狩る者と隠れる者の知恵比べ、否認と予兆の二重奏を重ね、世界がすでに終わってなお続く日々の営みと、その日々へ忍び寄る終末の足音を、冷たい確度で刻んで閉じた。
解説+感想+採点もちろん。かなりしっかり読みました。 この第1話、「終末世界なのに日常が続いている」というテーマの出し方がかなり上手いです。
総合評価:93 / 100点
| 項目 | 点数 | 感想 | | | : | | | 世界観 | 19/20 | 「終わった世界」でありながら生活インフラが機能しているのが魅力 | | ストーリー構成 | 19/20 | 深雪町→湯ノ原→佐伯さん→配管→再び深雪町、と段階的に危機を接近させている | | キャラクター | 18/20 | 春香・冬香の掛け合いが自然。春香の技術者としての個性も強い | | 演出 | 19/20 | 静寂と恐怖、日常と死の対比が非常に効いている | | セリフ | 18/20 | 軽妙な会話と重い場面の切り替えが良い | | 総合 | 93/100 | 「終末もの」なのに、人間の生活そのものを描いているのが最大の強み |
1. 一番良いところ――「世界が終わった」のに、生活は終わっていない
冒頭の、
> 『世界は終わった。 > けれど、 > 今日も大学は一限からだった。』
ここが作品全体の核になっています。
普通の終末作品なら、
「世界が滅びる」 ↓ 「主人公が生き残る」 ↓ 「敵と戦う」
となりがち。
でもこの作品は違う。
世界はとっくに終わっている。 それでも人間は朝起きて、仕事をして、学校へ行き、昼飯を食べる。
この発想がすごく良いです。
しかも湯ノ原では、
除雪する 温室を育てる 温泉に入る 大学へ行く 配管を修理する パンを焼く 「いってきます」と言う
という生活が成立している。
だからこそ読者は、
「ここ、本当に世界が終わってるの?」
と思う。
そして、その直後に深雪町を見せる。
この温度差が怖い。
2. 深雪町の冒頭はかなり強い
深雪町の人口は約40人。 地熱だけを頼りに温室を維持している小さな居住圏です。
そこで最初に描かれるのが、
> 「……また少し、お湯がぬるくなったわね」
なんですよね。
これ、実はかなり重要。
いきなり怪物を出すのではなく、
「地熱が少し弱くなっている」
という小さな異変から始まる。
その後、
> 「今日も生きてる。 > 大きくなったね」
という温室の双葉。
この「今日も生きてる」が、後半の人間の生死と響き合っています。
植物も、人間も、
昨日まで生きていた。 今日も生きているとは限らない。
この構造が綺麗です。
3. ブリザード・レックスの怖さが「悪意がない」ことで増している
個人的にここはかなり好きです。
普通なら怪物に、
「人類を滅ぼす意思」
を持たせるところですが、この作品ではそうしない。
> 彼らは、 > 決して人類に悪意を抱いているわけではない。
そして、
> 「逃げた獲物(エサ)」の臭いを追跡しているだけ
と説明する。
これが怖い。
つまりブリザード・レックスは、
悪役ではない。
ただの捕食者。
だから人間側からすると、
「話し合えない」 「説得できない」 「憎しみすら向けてこない」
という絶望があります。
自然災害に近い存在なんですよね。
そして、
人間20人と白獣の群れが同じ方向へ進んでいる
という描写。
これは非常に良い引きです。
4. 「40人→20人」という数字の使い方が上手い
ここも印象的。
最初は、
人口40名
という単なる設定資料だった。
ところが襲撃後、
> 「四十人いたはずだ! 今、何人いる!」
となる。
そして、
> 「二十名しかいない」
になる。
この瞬間、
40という数字が「人間の集合」から「死者20+生存者20」に変わる。
さらに後で春香が、
> 「……半分、しか」
と受け止める。
水守町からの報告では、深雪町が完全放棄されたことまで伝えられる。
数字だけでここまで喪失感を出せているのは上手いです。
5. そして湯ノ原への切り替えが最高に残酷
深雪町では、
人が食われる。
一方、湯ノ原では、
> 「いってきます」 > 「気をつけてね」 > 「今日は雪、強くなるらしいよ」
と会話している。
ここがこの作品の最大の魅力だと思います。
同じ世界。
同じ雪。
同じ「終わった世界」。
なのに、
ある町では人間が死に、 別の町では大学生が遅刻しそうになっている。
この残酷な非対称性が非常に良い。
6. 春香と冬香の掛け合いがちゃんと「日常」になっている
春香:
> 「二分もあるじゃん」
冬香:
> 「二分しかない」
このやり取り、めちゃくちゃ普通なんですよね。
さらに、
> 「私より三十分も早く席に着いてる人を、世間は普通とは呼ばないと思うな」
に対して、
> 「遅刻の瀬戸際で滑り込んでくる人よりは、よっぽど普通」
という冬香。
この二人、会話だけで関係性が分かる。
説明文で、
「二人は仲が良い幼馴染だった」
などと説明しなくても、
「あ、この二人いつもこんな会話してるんだな」
と伝わります。
キャラクター造形としてかなり成功しています。
7. 春香の「ガラクタ好き」が単なるギャグじゃない
ここ、かなり重要です。
序盤では、
> 「壊れた扇風機のモーター」 > 「余った配電盤のネジ」 > 「ぐにゃぐにゃに曲がった金具」 > 「真っ黒に焼けたヒューズ」
を溜め込む春香を冬香が、
> 「典型的なゴミ屋敷の予備軍」
と評する。
完全にコメディ。
ところが後半、
そのガラクタが本当に役に立つ。
さらに佐伯さんから受け継いだ工具も登場する。
これはキャラクター設定を、
「設定」→「ギャグ」→「能力」→「物語上の意味」
へ変換できています。
すごく良いキャラクターの作り方です。
8. 佐伯さんの死が「世界観説明」ではなく春香の感情になる
個人的にはここが一番好きです。
佐伯さんについて、
油と煤まみれの作業着 大きく節くれだった手 ぶっきらぼう でも結局面倒を見てくれる 工具の使い方を教えてくれた 廃材から代用品を作る技術を教えた
という描写があります。
つまり読者は、
佐伯さん本人をほとんど見ていないのに、どんな人だったか分かる。
そして翌日には死んでいる。
さらに春香が配管を触って、
> 「正常な熱量」
を覚えている。
ここで、
佐伯さん=湯ノ原の技術そのもの
という意味合いまで出てくる。
かなり綺麗です。
9. 「パッキンが死んでる」が佐伯さんの死と重なる
ここは狙いが明確で、しかも成功しています。
春香:
> 「パッキンが、完全に死んでる」
↓
> 「うん、寿命」
↓
春香の中で佐伯さんを思い出す。
そして、
昨日まで使えたものが今日壊れる。 昨日まで生きていた人間が今日死ぬ。
ただし、
機械は交換できる。 人間は交換できない。
この対比が、この作品のテーマにかなり合っています。
だから春香が配管を直すことは単なる修理イベントではなく、
「失われたものを、残った人間が繋ぎ直す」
という物語になっている。
10. そしてタイトルが効いてくる
> 『冬が終わらない世界で、 > 今日も温泉は湧いている。』
これが単なるキャッチコピーじゃない。
この第1話では、
人が死ぬ。 町が消える。 それでも温泉は湧く。
という構造になっています。
さらに大学では講義が続く。
パンも焼ける。
温室の野菜も育つ。
配管が壊れれば誰かが直す。
つまり、
「世界が終わる」ことと「生活が続く」ことを同時に描いている。
この作品のタイトルと内容が非常に噛み合っています。
11. 特に好きな部分
個人的なベスト5を挙げるなら、
🥇 1位
「世界は終わった。けれど、今日も大学は一限からだった。」
作品全体のテーマを一撃で説明している。
🥈 2位
深雪町の40人→20人
数字が人間の喪失へ変わっていく。
🥉 3位
春香の「ゴミ」が実際の修理部品になるところ
キャラクターギャグがストーリー上の伏線になる。
4位
佐伯さんの工具箱が一つになっている描写
直接「悲しい」と書かずに喪失を見せている。
5位
白獣が悪意なく避難民を追跡している
敵ではなく「自然」だからこそ怖い。
12. 改善するとさらに良くなる部分
93点なので、かなり高評価ですが、20点満点を逃している部分もあります。
① 冒頭の深雪町パートは少し長い
描写自体は良いんですが、
町の日常 → 白獣襲撃
までが少し丁寧です。
世界観をしっかり見せたい作品なので許容範囲ですが、映像作品を意識するなら10〜15%ほど圧縮しても成立します。
② 説明がやや重複する部分がある
「世界は終わっているが、それでも日常が続く」というテーマは非常に強いので、何度も説明したくなるのは分かります。
ただ、
> 世界は終わっている。 > それでも大学は続く。
という主題は読者がかなり早い段階で理解できます。
その後は説明するより、
パンを食べる春香、授業を受ける冬香、修理する技師
などを見せるだけでも十分伝わります。
③ 白獣襲撃の後半は、もう少し「個人」に寄せてもいい
深雪町の死亡者描写はかなり効果的ですが、40人中20人という大量喪失なので、読者が個々の死者を識別するのは難しい。
ただしこれは、
「個人の悲劇」ではなく「居住圏そのものの喪失」を描く
という狙いなら正解です。
もし今後、深雪町の生存者を重要キャラクターとして登場させるなら、最初の襲撃で1〜2人だけ強烈に印象を残しておくと、後々さらに効いてきそうです。
13. 一番期待したくなるポイント
そして、この第1話の構造を見る限り、最大の楽しみはここです。
深雪町の事件と湯ノ原の日常が、いつ交差するのか。
実際、後半では水守町から、
> 「深雪町の残存住民は――およそ二十名」
という報告が入る。
さらに、
> ブリザード・レックスが避難民を追跡している
ことまで判明する。
つまり読者は、
「この平和な湯ノ原にも、もう危機が近づいている」
と理解できる。
しかも春香はまだ、
「大学の授業」 「パン」 「温泉」 「配管修理」
という日常の中にいる。
この「主人公だけまだ知らない」状態が非常に良いです。
最終的な感想
これは単純な「ポストアポカリプス作品」ではなく、
「文明崩壊後の日常系ドラマに、終末の恐怖が少しずつ侵食してくる作品」
としてかなり魅力があります。
特に春香がいい。
彼女は最初、
「一限だるい」「パンおいしい」「ゴミじゃなくて部品!」
みたいな普通の大学生なのに、
その「ゴミを拾う癖」が、実はこの世界で生き残るための才能になっている。
そして佐伯さんから受け取った技術を、春香が少しずつ引き継いでいく。
ここには、
「世界を救う英雄」ではなく、 「壊れたものを一つずつ直す人間が世界を支える」
という、この作品ならではの美しさがあります。
そして何より、
深雪町では20人が失われた。 湯ノ原では春香がパンを食べている。 その両方が同じ世界の「現実」。
この対比が本作の最大の武器だと思います。
93点。かなり好きです。 特に「終末なのに一限」というコンセプトは、タイトルだけで作品を思い出せるレベルの強さがあります。
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