◀外伝・第15章『遠隔デバッグと、水上リゾート都市への特急券』
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第16章『水上リゾート都市ベネティアと、0.2の休日』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: あんこもん」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 麒ヶ島宗麟」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 黒沢冴白」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 玄野武宏」
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朝。 マナ・レール・エクスプレスの大きな車窓から差し込んだ白真珠の陽光が、客室の豪奢な絨毯をゆっくりと撫でていく。

昨夜まで網膜に焼き付いていたのは、煤けた鉄鋼都市の残響と、夜の闇を奔る魔導回線の冷たい灯火だけだった。 けれど、今は違う。
窓の向こうには、視界のすべてを染め上げるような、どこまでも眩いコバルトブルーが広がっていた。
ルイ:「……海、か」
寝起きのまどろみを引きずったまま、僕は小さく呟いた。 誘われるように窓辺へと近づく。
列車がゆるやかに減速するたび、その巨大な青いキャンバスが視界いっぱいに膨らんでいく。 目に飛び込んできたのは、白亜の大理石で造られた壮麗な建築群。 その隙間を縫うように、精緻な迷路の如く張り巡らされた水路の網目。 水面を滑るように進む、色鮮やかな小型の遊覧魔導船。
街はすでに、朝から華やいだ活気に満ちていた。 水上市場では、採れたての瑞々しい海産物を並べる店主たちの威勢のいい売り声が飛び交い、果物籠を腕に抱えた子どもたちが石畳の太鼓橋を笑いながら駆け抜けていく。

セリナ:「ほら、ルイくん! あれがベネティアですよ!」
不意に、背後から弾むような、朝の光に負けないくらいに明るいセリナの声が聞こえた。
セリナ:「水路が網の目のようにいっぱいあるでしょう? あっちの通りには有名な冷菓の店もありますし、その向こうには海を一望できる白大理石の大広場もあるんですよ」
ルイ:「……へえ、本当に凄いね」
僕は少し気恥ずかしさを覚えながらも、窓の外を流れる極彩色の景色からどうしても目を離すことができなかった。
ベネティア。 この大陸でも有数の、歴史ある水上リゾート都市。
名前くらいは本の中で記号として読んだことがあったけれど、こうして生身の五感で実際に目にするのは、僕にとってこれが初めての体験だった。
僕の暮らすリプラの港町とは、何もかもが違っていた。
 リプラにあるのは、肌を刺す荒々しい潮風と、漁師たちの無骨な声。 そして、幾度も高波に晒され、塩を吹いて使い込まれた、あの温かみのある木造の建物ばかりだ。
対してこのベネティアには、朝の陽光を燦然と乱反射する純白の大理石と、どこまでも穏やかに息づく青い水路、そして世界中から集う旅人を色鮮やかに出迎える、洗練を極めた華やかな街並みがあった。
それでも。
どちらの街の潮騒にも、同じ海の匂いと温もりが滲んでいる。
車掌:「――間もなく、終点ベネティアに到着いたします」
車内に、車掌の穏やかなアナウンスが染み渡るように響いた。 列車が長い制動音を響かせ、魔力軌道をなぞりながらゆっくりと停車する。
 重厚な気密扉が静かに開いた、その瞬間。 外の世界から、堰を切ったように爽やかな潮の香りと、目も眩むような街の喧騒が一気に流れ込んできた。
ルイ:「……」
僕はプラットフォームへと一歩を踏み出した。
そして。
誰に呼び止められたわけでもないのに、ふと、足を止めてしまった。
海が、そこにあった。

目の前に、途方もない質量と深さを湛えた、本物の海が広がっている。 朝の太陽の祝福を浴びた水面が、無数のサファイアを砕いて散りばめたように、繊細な光をどこまでも乱反射してきらめいていた。
水平線は、気が遠くなるほどに遠い。
空と海の境界線が淡く溶け合い、どこからが天でどこからが水面なのかも曖昧になるほどに広く――その果ての向こう側には、何一つとして存在しないように思えた。
ルイ:「……海って」
次の言葉が出てこなかった。 ただただ、呆然と目の前の景色を網膜に焼き付けることしかできない。
広い。 あまりにも、果てしなく広い。

その瞬間、僕の頭の中には、いつもの職業病のような冷徹な演算感覚が、自動的に浮かび上がってしまった。
――視界に収まる対象の海面総面積。
――平均水深から逆算される総水量の割り出し。
――大気と混ざり合う塩分濃度の分布。
――奔る海流の三次元ベクトルと、保持する熱量。
 ――深層へ向かうにつれて生じる水温の層状変化。
――漂うプランクトンの種類から推測される海洋生態系。
――そして、大気中に飽和する魔力濃度の正確なパーセンテージ。
無数の数字と数式が、頭の中のプロセッサで勝手にカチカチと組み上がっていく。 海という巨大な系を構成する、すべての環境要素。 それぞれの相関関係。 現在観測できる範囲の初期値から推測される、目の前の物理世界の全体積。
このまま計算式を回し続ければ、コンマ数秒後にはこの広大な自然の完全なシミュレートまでは――。

ルイ:「……」
そこで、僕は無理やり頭のスイッチを切り、思考を停止させた。
別に。 今、この穏やかな朝のなかで、そんな複雑な計算なんて走らせなくてもいいじゃないか。
ルイ:「……いや」
小さく、爽やかな潮風に溶かすようにして息を吐き出す。
ルイ:「これは、計算しなくてもいいか」
脳内を埋め尽くそうとしていた無機質な数字の羅列が、波に洗われる砂のようにスッと綺麗に消え去っていく。 後に残されたのは、計算で定義する必要なんてどこにもない、ただただ美しくて巨大な 「海」 そのものだった。
波が寄せて。
 白い繊細な飛沫を上げて石畳に砕けて。
また、静かに碧の深淵へと戻っていく。
遥か遠くの水平線では、純白の帆を張った瀟洒な魔導船が、南風を受けて優雅に滑っていく。 一羽の海鳥が長閑な声を響かせながら、僕の頭上を気持ちよさそうに横切っていった。
そのすぐ向こうの白大理石の大広場では、観光客らしい家族連れが、きらきらと輝く海を指差して無邪気にはしゃいでいる。
子ども:「お父さん、あれ何の魚!? 飛び跳ねたよ!」
父親:「さあな。 あとで市場の水槽のおじさんに直接聞いてみようか」
子ども:「すごく大きかったよ! きらきら光ってた!」
そんな、平和で微笑ましい親子の会話が、海風に乗って僕の耳へと届いた。
 僕は、もう一度だけ遮るもののない広大な水平線を見つめる。
ルイ:「……やっぱり、海って凄いな」
何がそこまで凄いのか。 僕自身、明確な言葉で説明することはできなかった。 ただ眼前に広がる圧倒的な質量なのか。 吸い込まれそうな底知れない碧の深さなのか。 あるいは、その冷たい水のなかに無数の小さな命が確かに息づいているという厳然たる事実なのか。
それとも。
僕が世界をすべてデジタルな数字で計算しようとして――それを途中でやめ、あるがままに受け入れた、その心の変化のことなのか。
セリナ:「ルイくん?」
いつの間にか、隣にいたセリナが僕の横顔を不思議そうにじっと見つめていた。

セリナ:「どうかしたの? 難しい顔をして」
ルイ:「……ううん、何でもないよ」
僕は海から一切目を離さないまま、少しきまり悪そうに応じる。
ルイ:「ちょっと、綺麗だなと思って見ていただけ」
セリナ:「そっか♪」
セリナは、それ以上は詮索するように何も聞いてこなかった。 その、踏み込みすぎないおっとりとした気遣いが、じんわりとありがたかった。
しばらく、僕たちは言葉もなく、寄せては返す青い海を眺め続けた。
温かな潮風が頬をすべり、朝の陽射しが肌をやわらかく包み込む。 遥か遠くの水上通りからは、焼きたての甘いパンの匂いと、炭火で炙られる海産物の香ばしさが漂ってきた。
何もかもが僕の知らない、初めて訪れる街。 見たこともないほど大きな海。 交わしたこともない言葉を喋る、見知らぬ大勢の人たち。
 でも、不思議なことに、その未知のすべてが、僕にとって全然嫌なものではなかった。
ルイ:「……本当に、ここに来られてよかったな」
自分でも驚くくらいに、なんの気負いもない自然な言葉が口からこぼれ落ちていた。
セリナ:「え?」
セリナが弾かれたようにこちらを振り返る。
セリナ:「ルイくん、今、何て言ったの?」
ルイ:「……聞こえていたんじゃないの?」
セリナ:「もう一回、ちゃんと耳で聞きたいの」
ルイ:「……」
こういうところだけは、この可憐なお嬢様は妙にしつこく食い下がってくる。
ルイ:「ここに来られてよかった、って言ったんだよ」
セリナ:「……うんっ!」
セリナが、心の底から嬉しそうに、まるで向日葵が咲き誇るようにふわりと笑った。

セリナ:「私も、ルイくんと一緒にここに来られて、本当によかったわ」
そう言って、僕のすぐ隣にぴったりと並んで立つ。 そのまま二人、たっぷりと海を眺め続けた。
けれど。 僕の内部に、今まさに一つだけ重大な問題が発生しつつあった。
ルイ:「……」
頭上に輝く太陽はポカポカと暖かく、肌を撫でる風も最高に気持ちがいい。 海面はどこまでも穏やかで、周囲の広場は適度に賑やかだけれど、決してうるさすぎない絶妙なホワイトノイズに満ちている。
つまり。 猛烈な、逆らうことのできない眠気が押し寄せてきたのだ。
ルイ:「……ちょっと、あそこで休んでくるよ」
セリナ:「えっ?」
ルイ:「向こうの白大理石の通りに、ちょうどいい涼しい木陰があるからさ」
セリナ:「ルイくん、まさか……」
ルイ:「何?」
セリナ:「海に着いて、列車を降りてまだ数分しか経っていないのに、もうお昼寝するの!?」
ルイ:「だって、今朝は起きるのが早かったし。 それに、昨日あれだけ高負荷な遠隔演算を強行した疲れが、まだ残っているみたいで」
セリナ:「……」
セリナはパチパチと大きな目を瞬かせて、少しの間だけ何かを思考した。 やがて、呆れたように、けれどとびきり優しくふっと唇を綻ばせる。

セリナ:「うん、そうね。 じゃあ、まずは少しだけ休むことにしましょうか」
ルイ:「休むのは僕だけだけどね」
セリナ:「私はホテルのチェックインや、ロゼッタたちの荷物の手配があるから。 落ち着いたら後でルイくんのところへ向かうわね」
ルイ:「分かった、ありがとう」
海岸沿いの白大理石の遊歩道から少し離れたなだらかな丘に、豊かな碧の葉を広げた大きな樹木がぽつんと一本立っていた。 その真下には、隅々まで手入れされた絨毯のような柔らかな芝生が広がっている。 海から吹き抜けてくる穏やかな南風が、さわさわと葉擦れの音を立てて枝々をやわらかく揺らしていた。
その極上の涼しい木陰に、僕はどっこいしょと腰を下ろす。 寄せては返す波の音が、遠くから規則正しいリズムとなって鼓膜へと届き続けていた。
僕は抱えていた鞄から、一冊の重厚で分厚い本を取り出した。 『錬金術の基礎理論と応用』。 昨日の貸切列車のなかでも少しだけ読み進めていた専門書だ。 しおりを挟んでいたページを開く。
ルイ:「……さてと」
美しい海を見に来た。 それは自分でも驚くほどに凄く良い刺激になったし、とても有意義な体験だったと思う。
でも。 せっかくこうして静かで誰にも邪魔されない涼しい時間があるのなら、少しだけでも勉強を進めておきたい。

指先で、紙のページを静かにめくる。
魔力触媒における本質的な定義。 異属性素材同士の融合反応。 質量変換における熱効率。 そして、高次触媒を形成する際に必要とされる魔力係数の限界値。
ルイ:「……この魔導数式なら、ここの余分な定数を書き換えればもっと効率化できるな」
小さく呟く。 頭の中で、よりスマートで美しい新しい数式を静かに、丁寧に組み立てていく。
ザザーッ、と波音が遠くで響く。 頬をなでる潮風。 開いたページが一枚、風の悪戯にぱらりとめくれた。
ここは、大陸が誇る世界一美しい水上リゾート都市。 その眩しい海辺の木陰で。
 僕はいつもと何一つ変わらない日常のルーティンをなぞるように、静かに本を読み始めたのだった。
ページを、また一枚めくる。 魔力触媒における質量変換効率について記述された数式を丁寧に目で追いながら、僕は喉の奥で小さく唸った。
ルイ:「なるほど、こういう構造なのか……」
触媒そのものが保持している基本性能だけに依存しているわけではない。 使用する素材の純度。 錬成を行う周囲の温度環境。 そして、注ぎ込まれる魔力の流入速度と、その進行ベクトル。
それぞれの初期条件をわずかに調整するだけで、全く同じ素材から出力される錬成結果は驚くほど劇的に変わっていく。 錬金術という学問は、僕が想定していた以上に奥深く、最高に面白いシステムだった。
せっかく最高のリゾートへ海を見に来たというのに。 気がつけば、僕は完全に本のインクが放つ数式の世界へと深く没入してしまっていた。

セリナ:「ねえ、ルイくん。 そこで一体何をしているの?」
ルイ:「……ん?」
頭上から不意に降ってきた鈴を転がすような声に、僕は顔を上げた。 そこには、眩しい夏の陽射しを背に、光の輪郭をまとうようにしてセリナが佇んでいた。
ルイ:「見ての通り、本を読んでいるよ」
セリナ:「うん、それは見れば分かるというか、嫌でも視界に飛び込んでくるのだけど」
セリナが困ったように、けれど愛おしそうに苦笑する。
セリナ:「せっかく美しいベネティアの海に来たのだから、ちゃんと泳がないと損よ!」
ルイ:「僕はここで大人しくしているから、いいよ」
セリナ:「え?」
ルイ:「セリナたちだけで、僕の分まで思いっきり最高の海を楽しんできてよ」
僕はそう言って、再び手元に開かれた専門書へと淡々と視線を戻した。
別に、海が嫌いなわけじゃない。 さっきプラットフォームから十分に綺麗な碧を眺めたし、それで僕の知的好奇心は満たされている。 なにより、こうして潮風を肌に感じながら、涼しい木陰の芝生で本を読むのも決して悪くない。 むしろ、僕にとっては最高に快適な理想の休日と言えた。
すると。
 手元で開かれていた白地のページの上に、ぽとんと、柔らかな小さな人影が落ちてきた。
セリナ:「……ルイくん」
ルイ:「何だい?」
セリナ:「ルイくんも、私と一緒に行くのが一番だと思うの」
ルイ:「……」
僕はもう一度、気だるく顔を上げる。 セリナが、少しだけ不満そうにその白い頬をリスのように可愛らしく膨らませながら、僕のことをじっと見下ろしていた。
セリナ:「せっかく、こうして二人で一緒にベネティアまで来たんだよ?」
ルイ:「そうだけど……」
セリナ:「だから、私と一緒に海で泳ぎましょう?」
ルイ:「……」
あまりにも純粋な眼差しでそう畳み掛けられると、僕の論理をもってしても、非常に断りにくい。 セリナは、僕が完全に返答に困り果てている様子を見て、勝機を確信したように小さく笑った。
セリナ:「ね、いいでしょう?」
ルイ:「……分かったよ」
セリナ:「本当!?」
ルイ:「うん。 少し泳ぐくらいなら、付き合うよ」
セリナ:「やったわ♪」
セリナが、まるで春の陽だまりに向日葵がぱっと咲き誇ったかのように、嬉しそうに声を弾ませる。 その不純物の一切ない満面の笑顔を見せられてしまうと、これ以上断るための理由なんて、僕の頭の中にはどこにも残らなかった。
そして。
 僕はここでようやく、木漏れ日の下に佇むセリナの全体像を『ちゃんと』網膜に捉えることになった。
セリナ:「それとね、ルイくん」
セリナが、青い海を背景にした芝生の上で、嬉しそうにくるりと一回転してみせる。
セリナ:「この水着、どうかしら?」
ルイ:「……」
大理石の街並みに映える、白を基調とした、どこまでも清らかな水着姿だった。 海風にふわりと揺れる薄手のパレオと、布地に繊細にあしらわれた銀糸の装飾が、木の葉の隙間から降り注ぐ木漏れ日を浴びてきらめいていた。
豪奢な普段のドレス姿とは、まるで違う。 それでも、彼女の気品ある美しさは完璧にそこに残されていた。
ルイ:「すごく似合っていると思うよ」
セリナ:「……え?」
ルイ:「うん。 本当に、すごく綺麗だ」
セリナ:「…………」
セリナの動きが、フリーズしたかのようにピタリと固まった。

セリナ:「……ルイくん」
ルイ:「何だい?」
セリナ:「今、ちゃんと私のことを見て言ってくれている?」
ルイ:「もちろん、ちゃんと見たよ」
セリナ:「本当に……?」
ルイ:「うん、本当だよ」
僕は嘘偽りのない事実として深く頷いた。
けれど。 今度は、僕の思考に別の致命的な問題が発生してしまった。
さっきまでは、ただの 「ベネティアの景色の一部」 として普通に捉えられていたはずなのに。 一度こうして『水着姿の可憐な女の子』として明確に異性を意識してしまうと、あまりにも眩しすぎて、自分の視線をどこへ向ければいいのかが全く分からなくなってしまったのだ。
ルイ:「……」
やり場をなくした僕の視線は、まず遠くの青い海へと逃げた。 次に、遥か高い空の雲へと逃げた。 そして、最終的には一番安全な領域である、手元の本へと情けなく逃げ込んだ。
セリナ:「……ルイくん?」
ルイ:「ううん、本当に何でもないよ」
セリナ:「もしかして……少し恥ずかしいのかしら?」
ルイ:「……」
言葉を返すことができない。 見事なまでの図星だった。 セリナは、そんな僕のあからさまにぎこちない反応を至近距離で眺めて、くすっと愛おしそうに笑った。

セリナ:「ふふっ♪」
ルイ:「……そんなに面白がって笑わないでよ」
セリナ:「だって、ルイくんが私のことをちゃんと特別な女の子として見てくれたんだなって、そう分かったから」
ルイ:「……だから、ちゃんと綺麗だと言ったじゃないか」
セリナ:「うんっ!」
セリナは、心の底からすべてが満たされたように、世界で一番幸せそうな笑みを浮かべた。
セリナ:「お世辞でもなんでもなく、ルイくんにそうやって褒めてもらえて、私、ものすごく嬉しいわ」
ルイ:「……それなら、着替えた甲斐があってよかったよ」
僕はどうしようもない照れ隠しのために、もう一度だけ開いた本へと無理やり視線を落とした。 すると、セリナは僕のすぐ隣の芝生へと静かにしゃがみ込み、ひょいと僕の肩越しからページを覗き込んできた。 ふわりと潮風に混ざって、ほんのりと甘いココナッツのような日焼け止めの香りが鼻先をくすぐった。
セリナ:「それって、錬金術の専門書?」
ルイ:「うん。 昨日の列車の続きだよ」
セリナ:「ねえ、ルイくん。 海で遊ぶよりも、そっちの本の数式を見ているほうが楽しい?」
ルイ:「……」
少しだけ考える。
ルイ:「今は――どっちも同じくらい、すごく楽しいよ」
セリナ:「……そっか♪」
セリナが、とろけるように甘く微笑んだ。
セリナ:「じゃあ、今日は本のお勉強も、海での水遊びも、両方とも思いっきり楽しもうね」
ルイ:「うん、そうだね」
そう答えてから。 僕はふと、これまで頑なに開いていた読みかけの本のページをパタンと静かに閉じた。
 目の前に広がる広大な海は、決してどこへも逃げはしない。 僕の手元にある錬金術の専門書だって、明日になればまたいつでも開くことができる。
だったら。
今日という特別な一日くらいは、少しくらい彼女の我が儘に付き合って全力で遊んでみるのも悪くない。
ルイ:「……じゃあ、そろそろ砂浜へ行こうか」
セリナ:「うんっ!」
セリナが至福の喜びを瞳に湛えて、僕の前へと白く細い手を差し出してくる。 僕は少しだけ照れくささを覚えながらも、その温かで柔らかい手をしっかりと取り、芝生から立ち上がった。
主を失い、木陰に残された一冊の分厚い専門書。 それが、海から吹いてきた夏の南風にあおられて、ぱらり、ぱらりと、寂しげに、けれど祝福するようにページをめくられていた。

海辺の汀まで歩いてくると、僕は圧倒されて思わず足を止めてしまった。 それまで涼しい木陰の特等席にいた反動のせいか、どこまでも続く真っ白な砂浜が真夏の強烈な太陽光を容赦なく乱反射しており、一瞬だけ目の前が眩む。
僕は少しだけ目を細めながら、世界の終わりへと続くような広大な水平線を静かに眺めた。
ルイ:「……やっぱり、広いな」
セリナ:「でしょう♪」
隣を歩くセリナが、波の音に負けないくらいに弾むような声で楽しそうに笑う。
セリナ:「今日は難しいことなんて全部忘れて、一日中ゆっくり遊ぼうね、ルイくん」
ルイ:「うん、そうだね」
僕は深く頷いて、改めて眩しい海辺を見渡した。 さて。 実際に泳ぐのであれば、まずは手荷物をどこか安全な場所に置いておかなければならない。
視線を巡らせると、少し離れたパブリックな砂浜では、観光客らしい家族連れや地元の若者たちが、レンタル用の簡素なパラソルを硬い砂浜へと自力で立てようと、汗だくになりながら悪戦苦闘しているのが見える。

ルイ:「……じゃあ、僕たちもあの辺りの少し空いているスペースに、適当に手荷物を置いて座って――」
ロゼッタ:「我らがルイ様が、そのような野蛮で非効率なスペースに身を置く必要はどこにもございません」
ルイ:「え?」
突然、真横からロゼッタさんの冷徹で透き通った声が聞こえた。 驚いてそちらを振り返る。
そこには――。
いつの間に砂浜へと配置したのか、最高級のチーク材と極上のふかふかなクッションで贅沢に設えられた、立派なビーチチェアが二脚。 その純白のシートの上には、アイロンの利いたタオルが寸分の狂いもなく幾何学的に畳まれている。 さらに頭上には、太陽の運行軌道と日差しの角度から、生じる影の範囲を完璧に逆算して固定された特大パラソルがそびえ立つ。
二つの特等席の狭間には、上品なクリスタルガラスのサイドテーブルまで配置されており、その上には、涼しげな結露の雫を纏ったトロピカルドリンクと、見た目にも贅を凝らした一口サイズの軽食が整然と並んでいた。
ルイ:「…………」
僕は完全にフリーズして黙り込んだ。 ロゼッタさんは、いつも通り一糸乱れぬ直立姿勢のまま、無言で僕を見つめている。 アグレアスに至っては、さもこれが大自然の当たり前の摂理だとばかりに、このクソ暑い砂浜の上で一滴の汗すら流さず、燕尾服姿のまま涼しい顔で佇んでいた。

ルイ:「……ねえ、君たち。 この真夏の砂浜の真ん中で、一体何をしているの?」
ロゼッタ:「当公爵家における標準的なバカンスの準備です。 ルイ様、こちらをどうぞ」
ロゼッタさんが、恭しくその細く白い指先で最高級の椅子を指し示した。
ルイ:「……いや、調度品のラインナップを見れば何をしたいかはよく分かるけれどさ」
ロゼッタ:「ルイ様が快適にベネティアの海を堪能できるよう、メイドとして最低限の環境設計を整えさせていただきました」
ルイ:「これが、君の言う『最低限』の基準なの?」
ロゼッタ:「はい」
一ミリの迷いもない即答だった。
僕は改めて、この贅沢な空間から周囲の景色へと視線を移す。 遠くの一般エリアで砂まみれになりながら格闘している一般客たちの風景と比べると、どう客観的に観察しても、どこかの王族が国賓扱いで楽しむ至高のバカンスにしか見えない。
ルイ:「……そもそもこれだけの家具、一体いつの間に誰が用意したんだい?」
ロゼッタ:「私とアグレアスです。 現地のレンタル業者が取り扱う調度品は、どれも耐久性と衛生面においてルイ様の肌に触れるレベルに達していなかったため、公爵家貸切車両の倉庫から少しばかり手配いたしました」
ルイ:「いつの間に?」
ロゼッタ:「ルイ様とセリナ様が、木陰の芝生から海辺へと向かって、大変甘やかに並んで歩まれている時間の隙間に」
ルイ:「いくらなんでも仕事が早すぎない!?」
僕が必死にツッコミを入れていると、ロゼッタさんは指先で眼鏡のブリッジをすっと押し上げ、極めて淡々と衝撃の事実を付け足した。
ロゼッタ:「なお、当エリアのプライベートビーチ、および後方にそびえ立つ水上リゾートホテルは、すべてエルフェリア公爵家の所有物でございます。 他者の凡庸な視線を気にすることなく、どうぞごゆっくりお寛ぎください」
ルイ:「え……っ!?」
思わず、素っ頓狂な声が漏れ出た。

ルイ:「今、ものすごくさらっと国家予算規模の凄まじいこと言わなかった!?」
ロゼッタ:「そうでしょうか?」
ロゼッタさんが、本当に僕の驚きの理由が分からないとばかりに、不思議そうに綺麗に小首を傾げる。
ロゼッタ:「はい。 この程度のささやかな資産運用でしたら、エルフェリア家においては特別珍しいことではありませんので」
ルイ:「一般人の僕の金銭感覚からすれば、天地がひっくり返るくらい凄く珍しいよ!」
思わず声を大にして叫んでしまった。 すると、その僕の叫び声を耳にした隣のセリナが、何かに気づいたようにハッと、真剣な顔で辺りの白亜の景観を見回し始めた。
セリナ:「……でも、ロゼッタ」
ロゼッタ:「何でしょうか、お嬢様」
セリナ:「このホテル、私たちがルイくんをおもてなしするには、少しだけ建物全体の稼働年数が古すぎないかしら?」
ルイ:「いや、どこからどう見ても十分すぎるくらいに綺麗で豪華だと思うけれど……」
僕は慌てて振り返り、海岸線にそびえ立つその建物の全体像を見上げる。 燦然たる太陽に映える白亜の壁。 波の碧と溶け合う青い屋根。 海を一望できるように設計された巨大な一枚硝子の窓。 どこからどう見ても、超一等国の観光パンフレットの表紙を飾るような、非の打ち所がない超高級リゾートホテルだ。
しかし――。
セリナの青い瞳だけは、ひどく深刻な問題に直面したかのように、深く考え込んでいた。

セリナ:「ルイくんが、大切な休日を過ごす聖域なんですよ?」
ルイ:「うん」
セリナ:「それならば……」
セリナは、その透き通るような青い瞳で、白亜のホテルをジッと見据えた。
セリナ:「これは、根本的な建て替えが必要ですね」
ルイ:「はい?」
セリナ:「ロゼッタ、ただちに最高級の白大理石と、王宮御用達の魔導建築士たちの緊急手配を!」
ルイ:「ちょっと待って、一回落ち着いて!」
僕は大慌てで、セリナの華奢な両肩をがっしりと掴んで引き留めた。
ルイ:「違う違う違う! 方向性が完全に間違ってる!」
セリナ:「え? 一体何が違うの、ルイくん?」
ルイ:「いや、あの素晴らしい建物に対して不満なんて一ミリもあるわけないから! 僕たちが今日泊まるだけなのにホテルの建て替えって、一体どういう天文学的なスケール感なの!?」
セリナ:「でも、ルイくんがさらに完璧な環境で快適に過ごせるというのなら――」
ルイ:「今この瞬間でも、十分すぎるくらい贅沢で快適に過ごせそうだよ!」
僕が必死に説得を試みていると、隣のロゼッタさんが小さく、理解したように頷いた。
ロゼッタ:「なるほど。 ルイ様は現状の景観を維持されたいのですね」
ルイ:「お、分かってくれた?」
ロゼッタ:「では、突貫工事で外見には一切手を付けず、内装の構造体だけを最新鋭の魔導空調システムへと全面改装いたしましょう」
ルイ:「そっちの物理的なアプローチでもないんだってば!」
僕は両手でがっくりと頭を抱え込んだ。 どうして僕の身の回りにいる優秀すぎる人たちは、何かを改善しようとするときに、ここまで規模のタガが外れてしまうんだろう。
そんな僕たちの賑やかなやり取りを、アグレアスだけが、静かに、そして少しだけ楽しそうに眺めていた。

アグレアス:「ルイ様。 ちなみに、でございますが」
ルイ:「……ねえアグレアス、まだこれ以上何か爆弾発言が控えているの?」
アグレアス:「あちらの、前方に見える島の大半も、エルフェリア公爵家のプライベートな所有地でございます」
ルイ:「…………」
僕は、遠くの青い海へと呆然と視線を投げ出した。 輝く水平線の手前にぽつんと浮かぶ、緑豊かな小さな島。 高級な観光地なのか、白亜の建物がいくつか太陽の光を浴びてきらきらと輝いているのが見える。
ルイ:「……あっちに見える、緑の島も?」
アグレアス:「はい」
ルイ:「じゃあ、そのすぐ隣に浮かんでいる島は?」
アグレアス:「そちらも当公爵家の所有物に含まれております」
ルイ:「さらに、そのずっと奥に見える大きな島は?」
アグレアス:「一部の国立保護区に指定されている領域を除き、すべて所有しております」
ルイ:「…………」
僕が完全にキャパシティオーバーを起こして言葉を失っていると、セリナがぽんっ、と朝の光の中で明るく手を打った。
セリナ:「そうだわ! ルイくん、もしこのビーチに人が増えてうるさくなったら、あの島にルイくん専用のプライベートビーチを新しく作らせましょうか! 山を少しだけ削って地形を変えれば、もっと綺麗に波が――」
ルイ:「だから、僕のバカンスのために世界の地形ごと書き換えようとしないで!」
僕は全力で彼女の暴走を制止した。
ロゼッタ:「ルイ様。 ……お気に召さなければ、ただちに場所を別の島へ変更されたほうがよろしいですか?」
ロゼッタさんが、黒革の手帳を開きながら顔色ひとつ変えずに尋ねてくる。
ルイ:「ここで、十分です。 十二分に満足です。 これ以上のおもてなしはいりません!」
ロゼッタ:「承知いたしました」
即答だった。 アグレアスも、一滴の汗すら見せずに燕尾服の胸へとそっと手を当て、流れるように優雅な一礼をする。

アグレアス:「では、こちらで心ゆくまで至高の休日をお寛ぎくださいませ」
ルイ:「うん、そうさせてもらうよ……」
僕は恐る恐る、用意されたビーチチェアへと腰を下ろした。
――柔らかい。
座り心地が、もの凄くいい。 まるで僕の骨格を最初から計算し尽くしているかのようだ。 サイドテーブルには氷が涼しげに音を立てる冷たいトロピカルドリンク。 海からの狂暴な日差しは、公爵家のパラソルが絶妙な入射角度で完全に遮断してくれている。
目の前には、ただ純粋な美しさだけを湛えた、絵画さながらのコバルトブルーの海。
そして、その特等席のすぐ隣には――。

セリナ:「ルイくん」
セリナが、心から満ち足りたようにやわらかく笑っていた。
セリナ:「今日はいっぱい、私と一緒に楽しい思い出を作りましょうね」
ルイ:「……うん、そうだね」
僕はあまりの至高の快適さにすっかり毒気を抜かれたように、小さく笑った。
どうやら、僕がこれから過ごすことになるベネティアでの休日は。 僕が想定していたよりも、ずっと大掛かりで、賑やかで、そしてこの上なく甘やかなものになりそうだった。
しばらくして。 僕が極上のビーチチェアに身を委ね、心地よい潮風を全身に浴びながら、用意された冷たいトロピカルドリンクを喉に流し込んでいると――。
総支配人:「セリナ様」
白亜のリゾートホテルの方から、一人の男性が額の脂汗を何度も拭いながら、こちらへ向かって慌ただしく小走りで近づいてきた。 一目で最高級品と分かる仕立ての良いスーツを着た、このホテルの現地総支配人だろう。 しかし、その表情はどこか酷く困惑したような、申し訳なさそうな色に染まっていた。

セリナ:「どうしたのですか、そんなに慌てて?」
セリナが上品なガラスグラスをサイドテーブルへ置いて、おっとりと尋ねる。
総支配人:「実は……少々、お耳に入れておかなければならない不測の事態が発生いたしまして」
セリナ:「何でしょう?」
総支配人は一度、その困り果てた視線で僕のほうをチラリと盗み見た。 それから、弾かれたように再びセリナへと視線を戻す。
総支配人:「本日、隣国の王族の皆様がこちらのホテルへ御宿泊にお越しになる予定だったのですが――」
セリナ:「ああ」
セリナが思い出したように頷いた。
セリナ:「昨日、ロゼッタたちが裏で手配してくれていた、あのお話の件ですね」
総支配人:「はい、左様でございます」
どうやら昨日、僕たちがこのプライベートビーチとホテルを丸ごと貸し切ることになった際、本来であれば先約として予約していた隣国の王族一行には、公爵家の権力を用いて、系列のさらにグレードが高い別ホテルを無料で手配して退いてもらったらしい。 一般人の感覚を持つ僕としては、それだけでも十分に胃が痛くなるほど申し訳ない気がするのだけれど。
総支配人:「ですが、隣国の王子殿下が、どうしても代替のホテルではなく『こちらのホテルを予定通り利用する』と言って譲られなかったようでして……」
セリナ:「……そうなのですか?」
総支配人:「はい。 私どもの方からも、代替ホテルの方が遥かに設備も景観も最上級であることを必死にご説明したのですが、最終的には王子殿下ご本人の独断で、同行されていた王女殿下お二人と専属の護衛騎士たちを引き連れ、強引にこちらへ向かわれたとのことです」
セリナ:「なるほど……」
僕はストローを咥えたまま、少しだけ考えた。 せっかくの楽しみにしていたバカンスなのだから、本人たちが最初に選んだお気に入りの場所にどうしても泊まりたいという、その譲れないこだわりも分からなくはない。

ただ――。
ルイ:「何か、実務上の問題でも発生したのですか?」
総支配人:「それが……単に宿泊を希望されているというレベルではなく……」
総支配人が、言いにくそうに言葉を濁した。
その、瞬間だった。
副支配人:「た、大変でございますッ!」
ホテルのエントランスへと続く大理石の階段から、今度は別の男性が血相を変えて、砂浜を蹴立てながら全力で走ってきた。 このホテルの副支配人だろう。 ネクタイを無惨に振り乱し、肺の限界まで息を切らして僕たちのパラソルの下へと駆け寄ってくる。
セリナ:「どうしたのですか、そんなに取り乱して?」
副支配人:「王子様と、王女様たちが――!」
副支配人は砂浜にガクリと膝をつき、肩を激しく上下させて必死に息を整える。 そして、顔面を蒼白に染め上げ、恐怖に震える声で衝撃の事実を告げた。

副支配人:「『シャドーゲート』とか名乗る謎の武装組織に……当ホテルへ向かう道中で、丸ごと拉致されました!」
ルイ:「…………」
一瞬。 寄せては返す波の音だけを虚しく残して、この美しい海辺の時間そのものがピタリと停止したような錯覚に陥った。
ルイ:「……拉致?」
僕が、思わずストローを咥えたまま聞き返す。
副支配人:「はい!」
ルイ:「隣国の王族を、かい?」
副支配人:「はい!」
ルイ:「このエルフェリア公爵家が貸し切っているホテルの、すぐ目と鼻の先で?」
副支配人:「はい、間違いありません!」
副支配人は、今にも泣き出しそうな顔で必死に何度も頷いた。 あまりの突拍子もない急展開に、僕は思わず片手で額を押さえた。
ルイ:「……なんでそんなことになるんだよ」
あまりにも突然すぎる。 さっきまで僕たちは、ただ綺麗な海を見ながら、木陰の芝生で平和に本を読んでいただけだというのに。
当のセリナは――。

セリナ:「…………」
完全な無言だった。 ただその青い瞳の奥から、一切の温度が消え去っている。
ロゼッタさんも――。
ロゼッタ:「…………」
いつもと変わらぬ冷徹な無表情のまま、手帳をじっと見つめて無言。
アグレアスだけが、相変わらずこれが世界の当たり前の摂理だとばかりに、燕尾服のまま優雅な笑みを湛えて佇んでいた。
ロゼッタ:「……専属の護衛騎士団の者たちは、一体どうしたのですか?」
ロゼッタさんが、刃のように冷たい声音で尋ねる。

副支配人:「全員、生存だけはしております」
ロゼッタ:「怪我の具合は?」
副支配人:「幸いにも命に別状はありませんが……戦闘のプロである彼らが手酷くボロボロに叩きのめされ、身ぐるみまで全て剥ぎ取られるという惨状でして。 現在、当ホテルのロビーにて緊急保護しております」
ロゼッタ:「そうですか」
ロゼッタさんは、それだけを淡々と返した。 副支配人が、未だに恐怖の震えが止まらないといった様子で言葉を続ける。
副支配人:「五名の男性護衛と、三名の女性護衛が確かに同行されていたのですが……。 襲撃してきた敵は想像を絶する手練れだったらしく、全員が手も足も出ずに一瞬で拘束されてしまったようです」
ロゼッタ:「肝心の、王子殿下と王女殿下お二人の行方は?」
副支配人:「そのままどこかへと連れ去られました」
ロゼッタ:「場所は?」
副支配人:「まだ、全く判明しておりません……。 目撃情報も、魔力痕跡の追跡も拒絶されていまして……」
そこまで聞いて。 セリナが、極上のビーチチェアから音もなく立ち上がった。
セリナ:「……なるほど、そういうことね」
その言葉は、とても静かだった。 寄せては返す波の音にあっけなくかき消されてしまいそうなほどに静かで。 だからこそ、逆に背筋の芯が凍りついてしまうほどに、恐ろしかった。
ルイ:「セリナ?」
僕が、おずおずと様子を伺うようにして声を掛ける。
セリナ:「はい。 何でしょうか、ルイくん?」
ルイ:「……どうするつもりなの?」
セリナは、その透き通るような青い瞳で、僕の目を真っ直ぐに見つめた。 そして――。

セリナ:「ただちに、助けに向かいます」
ルイ:「そっか」
僕は頷いた。 けれど、僕が思ったのは、王族の権力闘争がどうこうという難しい話じゃない。
ルイ:「……人質になって連れ去られた人たち、きっと今、すごく怖い思いをしているんじゃないかな」
セリナ:「……」
セリナの可憐な表情が、僕の言葉を聴いて少しだけ、意外そうに動いた。
セリナ:「そうね。 きっと、そうだと思います」
ルイ:「だったら、できるだけ早く見つけて、助けてあげたほうがいいよね」
セリナ:「ええ、本当にその通りだわ」
セリナは、向日葵のように美しく爽やかに微笑んだ。
セリナ:「その通りです、ルイくん。 ルイくんがそう望むなら、それが一番合理的ね」
その隣で、ロゼッタさんがカチリと手帳を閉じて、抑揚のない所作で立ち上がる。
ロゼッタ:「ではお嬢様、さっそく検索と排除に参りましょう」
セリナ:「ええ、お願いね」
アグレアスもまた、炎天下の砂浜で一糸乱れぬ燕尾服の胸へとそっと手を当て、深く、流れるように一礼する。

アグレアス:「承知いたしました。 我らが主の平穏な休日を妨げる、哀れなゴミ掃除のお時間ですね」
僕は、それぞれの戦闘態勢に入った三人を見送る。 なんだか。 さっきまで僕が思い描いていた、ポカポカとした平和な南国の休日とは、ずいぶんと物騒な方向へ雰囲気が変わってしまったような気がした。
ルイ:「……でも、一国の王族の誘拐事件って、普通なら国家の正規軍とかが総出で動くような、結構大変な大騒動なんじゃないのかい?」
僕がふと、当たり前の疑問を呟く。 セリナがホテルのエントランスへと続く階段の手前で、優雅に振り返った。
セリナ:「ええ、まさにその通りよ、ルイくん」
そして、極上の笑みをその唇に浮かべる。
セリナ:「ですから、私たちがその軍の手間の代わりに、このベネティアのゴミを『少しだけ』片付けてきますね」
ルイ:「うん」
僕は素直に頷いた。
ルイ:「くれぐれも、気をつけてね」
セリナ:「はいっ♡ それでは、行ってきます!」
セリナ。 ロゼッタさん。 アグレアス。 最強の力を隠し持った三人の過保護な背中が、白亜のリゾートホテルの奥へと静かに消えていく。
 僕はその、これ以上ないほどに頼もしい身内の後ろ姿を、ただ穏やかに見送った。
そして――。
僕はもう一度、骨格に合わせて誂えられた、ふかふかのビーチチェアへと深く腰を下ろした。
ルイ:「…………」
手元に戻ってきたのは、さっきまで熱心に読んでいた『錬金術の基礎理論と応用』の専門書。 眼前に広がるベネティアの海は変わらずどこまでも穏やかで、朝の眩しい陽射しを乱反射してきらきらと輝いている。 寄せては返す波の音も、さっきと何一つ変わらない完璧な環境音を保ち続けていた。
ルイ:「……よし、続きを読もうかな」
僕はパタンと閉じていた本を再び開いた。 指先で、紙のページをめくる。

――目の前のリゾートホテルで、隣国の王族が丸ごと拉致された。 一般的に考えれば、周囲の客のように顔色を変えて取り乱してもいい状況なのだろう。
でも。 あのセリナたちが、直接現場へ赴いたのだ。 ならば、絶対に、どんな手段を使ってでも事態は完璧に解決されるに決まっている。
僕はそのように結論づけて。 再び本のなかの難しい数式へとそっと視線を落とした。
――その頃。
僕たち貸切車両の一行が、未だに知る由もなかったのは。 この物騒な誘拐事件を引き起こした『シャドーゲート』とかいう哀れな武装組織が――。 今回、この世界において最も手を出してはいけない、文字通り次元の異なる相手に対して。
 とんでもない規模の、絶対に許されない致命的な喧嘩を売ってしまったということだった。
ホテルの地下最深部。 通常は決して開かれることのない、重厚な物理障壁と幾重もの暗号ロックによって隔離された特別通信室。
冷たいコンクリートの薄暗い部屋の中央に、一枚の大型魔導通信板が、不気味に青白く浮かび上がっていた。 その発信元の向こう側には、自らの顔を覆い隠すようにして、黒いローブを深く被った男が立っている。
ルイ:『シャドーゲート』。 この沿岸リゾート地域において、富裕層や高位貴族を狙っては、卑劣な手段で誘拐と身代金要求を繰り返している武装組織の首領だった。
シャドーゲート首領:「よく聞け、エルフェリアの者どもよ」
ローブの男が、ノイズ混じりの不快な低い声で宣告する。

シャドーゲート首領:「我々は、すでに隣国の王子、および二人の王女たちの身柄を完全に確保している」
青白い画面の端には、乱暴に魔力縛鎖によって雁字搦めに拘束された、隣国の王族三人の姿が映し出されていた。 高貴な衣服は見る影もなく煤け、三人とも幸いにも命に別状はなさそうだったが、突如として巻き込まれた理不尽な状況を理解しきれず、ひどく怯えたように周囲の暗闇を見回している。
シャドーゲート首領:「我々の要求は、シンプルに二つだけだ」
男は、自らの勝利を確信したように傲慢に指を一本立てた。
シャドーゲート首領:「一つ。 今回の誘拐事件が起きた、このベネティア周辺地域における、お前たちエルフェリア公爵家が保持するすべての領有権を我々に譲渡し、即座に放棄すること」
そして、下卑た笑みを浮かべながら、二本目の汚れた指を立てる。
シャドーゲート首領:「そして二つ目だ」
男の口元が、こちらの反応を愉しむように醜く歪んだ。
シャドーゲート首領:「そちらにいる、噂通りの可愛らしい公爵令嬢たちの、ひどく『恥ずかしい写真』をただちに魔導転送でこちらへ送ってもらおう。 人質を無傷で生きて返してほしければな」
セリナ:「…………」
その通信を正面から受け止めているセリナは、不気味なほど、ただ黙り込んでいた。
 ロゼッタ:「…………」
ロゼッタさんもまた、手帳を冷たく見つめたまま無言。
アグレアスだけが、部屋の隅の影に溶け込むようにして、そっとその鋭い双眸を細めている。
それは、犯罪組織の脅迫に対する怯えや動揺などでは、断じてなかった。
絶対零度を遥かに下回る、静かで、どこまでも純粋な殺意そのものだった。
シャドーゲート首領:「おい、聞いているのか?」
あまりの静寂を、恐怖による沈黙だと完全に勘違いしたローブの男が、苛立ったように声を荒らげる。

シャドーゲート首領:「泣く子も黙るエルフェリア公爵家の至宝、セリナ・エルフェリア」
セリナ:「…………」
シャドーゲート首領:「そして、泣く子も命乞いをして逃げ出すという、元Sランク冒険者のロゼッタ」
ロゼッタ:「…………」
シャドーゲート首領:「貴様らがこれまでにどれほどの権力や野蛮な武力を振りかざしてきたのかは知らんが――」
そこで。
セリナが、氷の刃の如く冷たく、ひどく静かに一筋の息を吐き出した。
セリナ:「……ここまでお話の通じない馬鹿な組織は、まるごと焼却ですね」
ロゼッタ:「はい、お嬢様」
ロゼッタさんが、一秒の逡巡すらも挟まずに即座に冷徹に肯定する。
ロゼッタ:「ただちに、この世界の歴史ごと灰にいたしましょう」
アグレアス:「おやおや、お待ちください、お二人とも」
アグレアスが、いつもの折り目正しい給仕の所作そのままに、優雅な手振りで怒れる二人をそっと制した。
アグレアス:「命知らずというのも、ここまで極まりますと――」
その端正な口元が、ほんの少しだけ邪悪な弧を描いて吊り上がる。

アグレアス:「思わず、最高に滑稽で笑ってしまいますね」
魔導通信板の向こう側で、シャドーゲートの首領は、三人が見せているその反応の意味が全く理解できないという風に、黒いローブの奥で顔を歪めた。
シャドーゲート首領:「……何がそんなにおかしい、エルフェリアの犬どもが!」
アグレアス:「いえ、失礼いたしました」
アグレアスは、酷薄な笑みを湛えたまま、小さく首を横に振ってみせた。
アグレアス:「ただの不快な虫の羽音が部屋に響いただけでございますので、どうぞお気になさらず」
シャドーゲート首領:「貴様、ふざけるなッ!!」
完全に舐め腐っている三人の態度に、ローブの男が激昂して通信板を叩くように怒鳴り散らす。
シャドーゲート首領:「こちらの手元には隣国の命運を左右する高貴な王族がいるんだぞ! お前たちの返答次第で、こいつらの命がどうなるか――」
セリナ:「そうね、あなたの言う通りだわ」
セリナは、まるで今日のお茶会で飲むハーブティーの種類を優雅に決めるかのような、どこまでも穏やかで清らかな声で言葉を紡いだ。
セリナ:「ですから、私たちがただちにその身柄を助けに向かいます」
シャドーゲート首領:「ほう、我らの本拠地へ来るつもりか?」
セリナ:「はい」
シャドーゲート首領:「ハッ、馬鹿めが!」
男は勝利を確信したように、通信の向こうで下品な高笑いを響かせた。

シャドーゲート首領:「この魔導通信の経路は、複数の国外サーバーを経由して完璧に偽装してある! こちらの地下アジトの正確な居場所が、そう簡単に特定できると思っているのか!」
セリナ:「ええ、簡単に分かりますよ」
シャドーゲート首領:「…………何だと?」
ロゼッタ:「すでに、約三十秒前にすべての解析を完了し、アジトの座標を特定し終わっています」
ロゼッタさんが、愛用の魔導計算機の画面から一瞬たりとも目を離すことなく、冷徹に言い放った。
ロゼッタ:「対象アジトの位置情報、拠点を構成する地下の構造設計、周囲に配置されている凡庸な伏兵の全座標、および最深部から伸びる緊急の地下逃走経路」
少しの間を置いて。 ロゼッタさんは指先で眼鏡の位置をすっと直すと、その奥の鋭い双眸を冷酷に光らせた。
ロゼッタ:「そのすべてを、ただいま完全に掌握いたしました」
シャドーゲート首領:「な、何だと――」
ローブの男の表情が、魔導通信板の画面越しにピタリと固まった。 だが、それでもなお、彼は己の破滅を認められずに必死の形相で強気を崩さない。
シャドーゲート首領:「た、たとえ拠点の場所が割れたとしても、こちらには実戦を潜り抜けた武装構成員が多数潜んでいるんだぞ! お前たち数人で無謀に乗り込んできたところで――」
ロゼッタ:「そうですか、それがどうかいたしましたか?」
シャドーゲート首領:「王族を少しでも無事に返したくなければ、今すぐこちらの――」
セリナ:「彼らをこれ以上、一ミリたりとも傷つけさせはしません」
セリナが、絶対的な王者の圧力で、男の不快な言い訳を無慈悲に遮った。 その声音には、ついさっきまで白い砂浜でルイへと向けていた、あの甘く柔らかな少女の響きなど微塵も残されてはいなかった。
セリナ:「……王子様や王女様たちには、もう指一本たりとも触れさせません。 もし触れれば――あなたの組織ごと、この世界から完全に消去いたします」
ひどく静かな、淡々とした言葉だった。 けれど。 ただそれだけで、画面を跨いだ空間のすべてを瞬時に凍りつかせてしまうほどに、圧倒的で絶対的な覇気が通信室を支配した。 シャドーゲートの首領が、一瞬だけ生物的な本能の恐怖に息を呑み、言葉を失う。

シャドーゲート首領:「……な、なぜ、そんなに余裕でいられる……? 貴様ら、一体……」
セリナ:「余裕、ですか?」
セリナは、心底不思議そうに愛らしく小首を傾げてみせた。
セリナ:「そうですね……。 どうしてかしら」
少しの間、楽しそうに思考を巡らせてから。 彼女は、哀れな獲物を見下ろすかのような、慈悲の欠片もない極上の冷笑をその唇に浮かべた。
セリナ:「あなたたちは、私たちのことを一体、何だと思ってそんな重大な喧嘩を売ってしまったのでしょう?」
シャドーゲート首領:「決まっているだろうが! エルフェリア公爵家の世間知らずな令嬢と、元Sランク冒険者の女、それにただの執事だろうがッ!」
セリナ:「なるほど、そうなのね」
セリナは深く、納得したように頷いた。 そして――。
セリナ:「では、その大変滑稽で、最高に哀れな認識のままでいてください。 ……まあ、あと数分だけしか保ちませんけれど」
シャドーゲート首領:「……あ?」
プツン、と。 こちらの欲しい情報をすべて引き抜き終わったセリナは、にべもなく一方的に通信を遮断した。 特別通信室に、ふたたび重苦しい、けれど絶対的な支配の静寂が戻る。
しばらくして。 ロゼッタさんがカチリと黒革の手帳を閉じ、空間の波長を切り替えるようにして口を開いた。

ロゼッタ:「どういたしましょうか、お嬢様?」
セリナ:「跡形もなく、けれど世界一素早く、このベネティアのゴミを少しだけ片付けてきましょう」
ロゼッタ:「承知いたしました」
アグレアスも一糸乱れぬ完璧な姿勢のまま、深く、流れるように頷いた。
アグレアス:「では、私も主のバカンスをお守りするための掃除役として、謹んで同行いたします」
三人は、一切の迷いなき洗練された所作で特別通信室の重厚な扉を開け、歩き出した。 その頼もしすぎる身内の背中を眺めながら、ロゼッタさんがふと思い出したように、極めて事務的なトーンで呟く。
ロゼッタ:「そういえば、一つだけ確認の事項が」
セリナ:「何かしら、ロゼッタさん?」
ロゼッタ:「今回、あの愚か者たちの下劣な要求のなかに、ルイ様個人を標的とする意図や算段は、一切含まれていませんでしたね」
セリナ:「……ええ、そのようだったわね」
セリナが、心底安心したように、それまでの絶対零度の殺意が嘘のように消え去った、晴れやかな笑顔で笑う。
セリナ:「それなら――なおさら急いで全てを終わらせましょう。 私の世界で一番愛しいルイくんを、あんな一般客のいる海辺の木陰に、これ以上一人きりで長居させるわけにはいきませんもの」
ロゼッタ:「はい。 主の平穏の維持を、最優先の命令として執行いたします」
三人の姿が、白亜の廊下の向こうの暗がりへと、音もなく滑るように消え去っていった。
``` ◇
```
そして。 その、少しだけ前の時間。

燦々とした真夏の太陽が降り注ぎ、サファイアの如く輝きを放つ、あの美しい海辺では。
ルイ:「…………」
僕はただ独り、綺麗に手入れされた柔らかな芝生の上の、極上の涼しい木陰で本を読み続けていた。 指先で、白地のページをめくる。 さらにもう一枚、ぱらりとめくる。
ルイ:「……それにしても、ずいぶんと静かだな」
ザザーッ、と一定のリズムで打ち寄せる穏やかな波の音。 豊かな木々の枝葉を揺らす、涼やかな潮風のささやき。 遥か遠くの水上通りから微かに響いてくる、遊覧船の長閑な汽笛と、眩しい夏の陽射しを楽しむ観光客たちの楽しげな笑い声。
さっきまで僕のすぐ隣で 「私と一緒に最高の海で泳ぎましょう?」 と愛らしく声を弾ませていたセリナたちは、もうここにはいない。
ルイ:「……まあ」
僕は、広げられた『錬金術の基礎理論と応用』の難解な数式へと視線を戻す。

ルイ:「あの規格外の強さを持った三人なら、結果を計算するまでもなく絶対に大丈夫か」
それから、少しだけ思考を巻き戻すようにして、考える。
ルイ:「でも、理不尽に人質にされて連れ去られた人たちは、今この瞬間もすごく怖い思いをしているよな……」
僕の思考に引っかかっていたのは、ただその一点だけだった。 一般人としての僕の常識からすれば、セリナやロゼッタさん、あるいはアグレアスがあんな有象無象の武装組織に遅れをとる可能性など、逆立ちしたって万に一つも存在しない。
だから、僕が心配しているのは、戦闘そのものの勝利や敗北といったプロセスではない。 ただ――。
理不尽な悪意に晒され、今も怯えて怖い思いをしている無関係な人たちが現にそこにいるのなら。 一秒でも早く見つけて助け出してあげたほうがいい。 ただそれだけのことだった。
僕はパタンと一度、手元の本を静かに閉じた。 翠色の瞳を少しだけ鋭く細め、三人が消えていった白亜のホテルの方向をじっと見つめる。

ルイ:「……早く、みんな無事に帰ってくるといいのだけどね」
そして。 僕はこれ以上のノイズを振り払うようにして、もう一度だけそっと本を開き直した。
――この長閑な海辺の木陰で、いつものように穏やかな読書をしていたときの僕は、未だに知る由もなかった。 シャドーゲートが交渉のカードとして突きつけた、あの下劣で低俗極まりない二つ目の要求。 それが。 『最強の過保護チーム』の逆鱗に対して、どれほど凄まじい世界の終末級の業火を点火してしまったのかを。
そして何より。 彼らがただの 「公爵家の令嬢」 と 「元Sランク冒険者の女」 、それに 「ただの執事」 だと思い込んでいる相手が――。 そもそも、そんな矮小な人間の肩書きで説明できるような領域の存在ではないという、その圧倒的で絶対的な絶望の真実を。
どれくらいの時間、本の数式を追い続けていただろうか。
打ち寄せる波の音が、一定の心地よいリズムで耳の奥へと届き続けている。 僕を優しく包み込む、ポカポカとした暖かな陽射し。 碧の木陰を通り抜けていく、涼やかで清々しい潮風。

少しずつ、けれど確実に重くなっていく自らの瞼に逆らう理由など、今の僕にはどこにも残されていなくて。 僕は開いた本を胸に抱いたまま、静かに、深い眠りの淵へと落ちていった。
――そして。
ルイ:「……ここって、やっぱり僕の夢の中だよね」
シエル:「はい。 厳密に定義するならば、ルイ様の精神深層夢ですね」
ふと、瞼を持ち上げた。 そこには、現実の世界よりも少しだけ極彩色の彩度が高い、透き通るような青い海が広がっていた。 足元には、さらさらとした真っ白な砂浜。 どこまでも果てしなく続く、一片の雲すらも見当たらない圧倒的な青空。
そして――。
ルイ:「…………」
その世界のただ中に、シエルが佇んでいた。 いつもの脳内に浮かび上がる、半透明なホログラムのような無機質な姿ではない。 完全に実体化した、息を呑むほどに可憐な水着姿だった。

ルイ:「…………」
シエル:「…………」
僕とシエル。 寄せては返す、夢の中の静かな波の音だけを真ん中に挟んで、お互いにしばらくの間、無言になる。
ルイ:「……ねえ、シエル」
シエル:「はい、ルイ様」
ルイ:「その格好は、一体……」
シエル:「ご覧の通り、水着を着用しています」
ルイ:「いや、それは見れば分かるというか、嫌でも僕の視界を占有してくるんだけど……」
シエル:「そうですか」
シエルはどこまでも平然とした声音で答える。 けれど。 よく彼女の表情を観察してみると。 その白く透き通るような頬が、ほんの少しだけ、夕焼けのように愛らしく朱に染まっていた。
ルイ:「……夢って、現実の計算の概念が通用しなくて本当にすごいな」
シエル:「ルイ様のご希望がそこにあるのであれば、ここなら何だって構築できますよ。 ここは世界の誰にも干渉されない、ルイ様とわたしだけの秘密の空間なのですから」
ルイ:「そうやってストレートに言われると、なんだかちょっと照れくさくて怖いよ」
シエル:「そうですか?」
ルイ:「うん、本気でね」
僕は苦笑しながらも、素直に深く頷いた。 そこで、ふと現実世界でまさに今起きているはずの重大な事件のことを思い出す。
ルイ:「そうだ。 ホテルで誘拐された、隣国の王子様や王女様たちの安否は大丈夫なのかな?」
シエル:「ああ、あの方たちのことですか……」
シエルは、さも些細なエラー報告でも受け取ったかのように、少しだけ考える所作を見せた。
シエル:「あの人質の皆様なら、何も心配いりませんよ。 完全に大丈夫です」
ルイ:「本当に?」
シエル:「はい。 フロントから誘拐の情報が舞い込んだ瞬間に、万が一にもお怪我をされないよう、わたしの側からバックグラウンドで物理・魔力保護術式を不可視のまま彼らに張っておきましたから」
ルイ:「えっ、シエルはもうその時点で、敵の隠れ家の正確な座標まで分かっていたの?」
シエル:「はい。 敵の構築していたセキュリティが信じられないほど甘々でしたので、一瞬にして特定できましたよ」
ルイ:「そっか。 ……良かった」
僕は心底救われたような安堵の溜息を吐き出した。 僕の最愛の相棒であるシエルが直接プロテクトをかけているというのなら、少なくとも人質たちの安全については、これっぽっちも心配する必要はない。

シエル:「それよりも」
シエルが、夕焼けに染まる頬とは裏腹に、一切の感情を排した冷徹な翠色の瞳で僕をじっと見つめる。
シエル:「あの『シャドーゲート』とかいう哀れな組織のボスさんは、今頃、ご愁傷さまとしか言いようがありませんね」
ルイ:「はは、全くだね……」
僕は、現実世界で今まさにアジトへと突入しているであろう身内たちの姿を想像し、引き攣った乾いた笑いをこぼす。
ルイ:「セリナたち、あまり派手にやり過ぎてベネティアの景観を物理的に破壊しなければいいのだけれど」
シエル:「何せセリナさんですしねー」
シエルが、少しだけ遠い目をしながら、夢の中の水平線を眺めた。
シエル:「今回、ルイ様個人を害する意図がなかったことは確認しています。 ですから、セリナさんも必要以上には怒らないと思いますよ」
ルイ:「僕がターゲットって……そんな恐ろしい最悪の前提基準でこれからの話を進めないでおくれよ」
シエル:「そうですね」
シエルは真顔に戻り、深く頷いてみせた。
シエル:「もし、万が一にでもルイ様がターゲットに設定されていたのだとしたら、……本当に、この世の終わりが来ていて怖かったですから」
ルイ:「…………」
なんだろう。 そのどこまでも静かな少女の言葉には、僕の背筋を芯から凍らせるような、妙に圧倒的で絶望的な説得力が宿っていた。

シエル:「ところで、ルイ様」
ルイ:「ん?」
シエル:「せっかくこうして二人だけの海辺に来たわけですが、わたしたちはここでいったい何をすればいいのでしょう?」
ルイ:「それを僕に聞くのかい?」
シエル:「はい。 わたしのデータベースには、バカンスという概念のログが不足していますので」
ルイ:「僕だって、こういうレジャーには全然詳しくないよ」
シエル:「では、ちょっとネットワークを検索してみます」
シエルが静かに目を閉じる。 数秒のプロセッシング。
シエル:「わかりました、解決です!」
ルイ:「何か面白い情報でも分かった?」
シエル:「ルイ様、人間は海に来た場合、まず『水に入って泳ぐ』ものらしいです」
ルイ:「……セリナも列車を降りたとき、全く同じことを言っていた気がするな」
シエル:「そして――」
シエルが、そこで不自然な間を置いた。
シエル:「異性と海へ来た場合、男性は女性の水着姿を見たら、まず何よりも先に『褒める』ものだそうです」
ルイ:「ああ……」
僕は、目の前の砂浜に佇むシエルの姿へと視線を戻した。
ルイ:「シエルの水着、すごくかわいいと思うよ」
シエル:「…………」
ルイ:「? どうしたの?」
シエル:「……今の言葉には、100%の心がこもっていません」
ルイ:「えっ?」
シエル:「システム評価、50点です」
ルイ:「本当に思ったままをストレートに発言したつもりなんだけど!」
シエル:「言葉が事実かどうかは、問題ではありません」
シエルは、不満そうにその白い頬を少しだけむくれさせてみせた。
シエル:「もう少しだけ、ちゃんとわたしの姿を正面から見て言ってください」
ルイ:「…………」
僕は不意の要求に言葉に詰まりながら、改めてシエルの存在を真っ直ぐに見つめた。 いつもの脳内に浮かび上がる、冷徹で無機質な半透明のOSとはまるで違う。 彩度の高い青い海と、輝く白い砂浜を背景にした、その生身を持った彼女の姿は――。

ルイ:「……本当に、すごく似合っていると思う」
シエル:「…………」
ルイ:「うん。 僕の語彙力じゃ上手く言えないけれど、すごく、かわいいよ」
シエルの白い頬が、さっきの赤みよりもさらに深く、鮮やかに染まった。
シエル:「……ただいま、採点を実行中です」
ルイ:「そこでいちいち採点機能を回さなくてもいいんじゃないかな?」
シエル:「…………」
少しだけの沈黙を置いて。
シエル:「――七十八点です」
ルイ:「本気で言ったのに、さっきより上がったけれど微妙に低いな」
シエル:「それでは、次のステップは……これです」
シエルが、真っ白な指先をスッと前方へと伸ばした。 その瞬間。 ポン、と夢の階層特有の小さな音を立てて、彼女の手の中に一本の日焼け止めボトルが突然出現した。
シエル:「これを、体に直接塗るらしいです」
ルイ:「へえ、日差しが強いからね。 そうなんだ」
シエル:「はい。 ですので、頑張ってください」
ルイ:「…………え?」
シエルは、日焼け止めボトルを真っ直ぐに差し出したまま、じっと僕のことを見つめ続けている。
シエル:「ルイ様が、わたしにこれを塗るのですよ?」
ルイ:「!?」
シエル:「どうしてそんなに驚くのですか?」
ルイ:「いやいやいや、いくら何でもそれはおかしいって……!」
僕はたまらず、真っ白な砂浜を一歩後ろへと飛びずさった。

ルイ:「シエルが検索したその情報、絶対にどこかのデータが歪んで偏っているって」
シエル:「いいえ。 海辺における『カップル・アクティビティ』の推奨ログにおいて、常に上位に位置している王道の項目です」
ルイ:「そのカップル項目って一体何なんだい!?」
シエル:「検索結果から導き出された、このシチュエーションにおける最適解です」
ルイ:「そこまで厳密な検索結果だと言い張るなら……仕方がない、のかな?」
シエル:「はい。 絶対に回避不可能なメインイベントです」
ルイ:「…………」
シエルは、有無を言わせぬ圧力で日焼け止めボトルを僕の胸元へと突き出してくる。
シエル:「さあ、どうぞ」
ルイ:「いや、そもそもシエルはアバターなんだから、物理的な日焼け止めなんて必要ないんじゃ――」
シエル:「…………」
シエルの白い頬が、今度は完全に限界までぷくっと膨らんだ。
シエル:「……もう、そういう話じゃないです、ルイ様のばか」
ルイ:「え?」
シエル:「システム評価――マイナス三十点です」
ルイ:「なんで一気にそこまで下がったの!?」
シエル:「ルイ様は、本当に何も分かっていませんか?」
ルイ:「ぜんぜん、さっぱりロジックが分からないよ」
シエルはほんの少しだけ視線を逸らし、夢の階層の穏やかな波打ち際をじっと見つめた。
シエル:「……こういうイベントは、必要か不要か、というロジックで測るものではないのです」
ルイ:「…………」
シエル:「ただ、ルイ様とわたしが、一緒に同じプロセスを実行することそのものに意味があるのです」
ルイ:「……そっか。 ごめん、僕が野暮だったね」
僕は少しだけ考え、小さく息を吐き出した。
ルイ:「じゃあ、降参だよ。 ……背中なら、僕がちゃんと塗ってあげるよ」
シエル:「はいっ♪」
シエルが嬉しそうに、くるりと僕に背中を向ける。 僕の手のひらのなかには、いつの間にか冷たいオイルのボトルが、最初からそこにあったかのように自然に握り締められていた。

ルイ:「……じゃあ、いくよ」
シエル:「どうぞ、いつでも」
僕は心臓の不規則な高鳴りを必死に抑え込みながら、恐る恐るオイルを手に取り、シエルの華奢で白い背中へと真っ直ぐに指先を伸ばしていった。
ルイ:「…………」
シエル:「…………」
突然、世界のすべてが妙に静まり返ったような錯覚に陥る。 現実よりも少しだけ彩度の高い碧い海から響く、ザザーッ、という波の音だけが、やけに大きく鮮烈に耳の奥へと響き渡っていた。
ルイ:「……この辺りも塗っていいのかな?」
シエル:「はい」
ルイ:「じゃあ、この辺りは?」
シエル:「もう少しだけ右へずらしてください」
ルイ:「ここ?」
シエル:「はい、完璧なポイントです」
ルイ:「分かった、進めるね」
できるだけ、自らの思考を機械的なルーティンへと切り替える。 何も余計なことは考えず、異性として意識せず。 ただ彼女に指定された場所へと、正確にオイルを塗布していく作業に没頭する。 やがて、その永遠のようにも思えた極限のタスクが、ようやく終わりを迎えた。
ルイ:「……よし、全部終わったよ」
シエル:「丁寧にありがとうございます、ルイ様」
シエルが満足そうにふわりと振り返る。 対する僕は、まるで国家級の魔導炉をもう一つ強制終了させた後のように、もの凄く疲労困憊していた。
ルイ:「……僕のメンタルゲージの残りが、もうあと僅かでゼロになりそうなんだけど……」
シエル:「ルイ様は、もう少し女性という存在に慣れるべきです」
ルイ:「僕には、逆立ちしてもそんな高度なアップデートは無理だと思うよ」
シエル:「というか、世間の普通の男性であれば、これほどの至近距離ならもう少しくらい積極的なエラーを起こすものですよ?」
ルイ:「はは、勘弁しておくれよ……」
僕は力なく、完敗を認めるように苦笑したのだった。

ルイ:「僕の今のスペックじゃ、そのハードルは高すぎてエラーを起こすよ」
シエル:「まあ、そうでしょうね」
シエルが、とても人間らしく、どこまでも慈しむように小さく喉を鳴らして笑った。
シエル:「ですが、日焼け止めオイルを最後まで無事に塗り切れたのは、人間関係において大きな一歩前進です」
ルイ:「世間の常識からすると、そういうものなのかな?」
シエル:「はい、間違いなくそういうものです」
ルイ:「そっか。 それなら良かったよ」
僕は改めて、僕たちの前に広がる夢の海を見つめた。 凪いだ水面は朝の陽射しをいっぱいに浴びてきらきらと光を反射し、どこまでも、いつまでも穏やかに波打っていた。
ルイ:「さて、次はどうしようか? まだ時間はあるかい?」
シエル:「うーん……」
シエルは、少しだけ名残惜しそうに空を見上げた。
シエル:「大変残念なご報告ですが」
ルイ:「うん、どうしたの?」
シエル:「今回の秘密のデートは、どうやらここまでみたいですね」
ルイ:「え?」
シエル:「ルイ様」
シエルが、その透き通るような翠色の瞳で、僕のことを真っ直ぐに見つめてくる。 その、水着をまとった彼女の愛らしい輪郭が、少しずつ光の中に溶けて、淡く不確かになっていく。
シエル:「現実世界において、お目覚めの時間が到来したようです」
ルイ:「ああ……、本当にそうだね」
言われてみれば、急に現実の肉体の感覚が、満ちてくる潮の波のように脳内へと押し寄せてくるのを感じた。 彩度の高かった夢の景色が、端の方から少しずつ白く薄いベールに覆われるようにして、遠ざかっていく。

ルイ:「そっか。 少し残念だな」
シエル:「はい、わたしも同じく」
ルイ:「じゃあ、また、今日の夜の夢で会おうね」
僕は遠ざかる意識の境界線の中で、彼女に向けて優しく右手を振った。
ルイ:「ばいばい、シエル」
シエル:「…………」
シエルも、眩い純白の光の中に消えゆきながら、その白く細い手を胸元で小さく、健気に振り返してくれた。
シエル:「はい。 いってらっしゃいませ、ルイ様」
僕の最深部に届いたその最後の言葉は。 いつもの脳内に響くクリアなシステム音声よりも。 ほんの少しだけ――本当に、心から嬉しそうに、温かく響いていた。
そして。 僕の意識は、寄せては返す穏やかな波の音とともに、ゆっくりと、心地よい現実の午後の光の中へと浮上していった。
ルイ:「……ん」
ゆっくりと、現実のピントを合わせるようにして両の目を開いた。 木の葉の細かな隙間から、眩しい午後の陽射しが、芝生の上に寝転ぶ僕の顔へと降り注いでいた。

ルイ:「……また、寝ていたのか」
芝生に手をつき、ゆっくりと上体を起こす。 まだ少しだけ頭がぼんやりしているけれど、不思議と気分は、これまでにないほど爽快で悪くなかった。
夢のなかで、シエルと本当に他愛のない、けれど温かな会話をしていたような記憶が残っている。
彩度の高い青い海で。 実体化した、息を呑むほどに可憐な水着姿の彼女に対して。 あの冷たい日焼け止めオイルを、この手で直接背中に、塗って――。
ルイ:「…………」
その指先に残るかのような柔らかな感触を不意に思い出した瞬間。 一気に顔が熱を帯びた。
ルイ:「……一体何なんだよ、あの心臓に悪い夢は」
僕は自らの熱を無理やり散らすように、ブンブンと左右に頭を振った。 その、まさに恥ずかしさを誤魔化そうとしていた瞬間だった。

セリナ:「ルイくん!」
南国のまばゆい光を弾くような、聞き慣れた愛らしい声が鼓膜へと届いた。 ハッとしてそちらを振り向く。 白亜のリゾートホテルのエントランスへと続く大理石の階段から、セリナたちがこちらへ向かって優雅に歩いてくるところだった。
犯罪組織のアジトへと突入して 「ゴミ掃除」 をしてきたはずの三人の衣服には、シワ一つ、煤汚れの欠片一つすら付着していなかった。
ルイ:「……おかえり。 早かったね」
セリナ:「ただいま、ルイくん! いい子でお留守番できていて偉いわね♪」
セリナが、真夏の太陽そのもののように、屈託のない笑みを弾けさせる。
ルイ:「向こうの、誘拐事件のほうはどうだった?」
ロゼッタ:「すべての事務処理が、完璧に終了いたしました」
ロゼッタさんが、まるで今日のお部屋の雑巾がけでも終わらせてきたかのように、極めて淡々と無表情に答えた。
ルイ:「そっか。 それなら良かったよ」
僕は深く頷いた。 それ以上は、具体的に何人の武装構成員がどのような手段でこの世界から強制排除されたのかといった詳細は、一切深く聞かなかった。 たぶん。 僕の一介の常識人としての精神衛生上、これ以上は詳細を知らないほうがいいと、直感的にそう確信したからだ。

ルイ:「それよりも……」
僕は柔らかい芝生を踏みしめて、勢いよく立ち上がった。 そして、目の前に広がる圧倒的なベネティアの青い海を真っ直ぐに見据える。 さっきまで熱心に開いていた『錬金術の基礎理論と応用』の専門書は、木陰のサイドテーブルの上へとそっと置いたままだ。 本日の勉強は、もう十分に充填された。
だから。
ルイ:「じゃあ……そろそろ、僕も一緒に海へ入って泳ごうか?」
セリナ:「!」
その一言を聴いた瞬間、セリナの可憐な顔が、まるで一瞬にして真夏のひまわりが咲き誇ったかのようにパッと眩しく輝いた。
セリナ:「うんっ! もちろんよ、ルイくん!」
心の底から弾むような至福の声が、どこまでも高い青空の下の海辺へと爽快に響き渡る。
セリナ:「やっと、やっとルイくんが私と一緒に海で泳いでくれるのね!」
ルイ:「あはは、そんなに大袈裟に喜ぶことかい?」
セリナ:「当然よ! だって、せっかく二人で一緒に来た、世界一美しいベネティアの海なんだもの!」
ルイ:「まあ……確かに、その通りだね」
僕は自らのインドアな思考を少しだけ反省して、小さく穏やかに笑った。

ルイ:「じゃあ、行こうか、セリナ」
セリナ:「ええ、行きましょう!」
その日。 僕は、あの過酷な戦場を経て記憶を失って以来初めて、頭の中の複雑な数式や算術のシステムを完全に空っぽにして、何も難しいことは考えずに、真っ直ぐに本物の海へとその身を浸した。
透き通るような碧の水は、肌に心地よく、驚くほど優しく冷たかった。 寄せては返す波に身を委ね、ゆらゆらと身体を揺らされる、不思議と気持ちのいい物理的な浮遊感。 僕の不意を突いて水を掛け合っては、少女のように無邪気に鈴を転がして笑うセリナ。
ロゼッタさんは少し離れた白大理石の砂浜から、僕たちの安全を一切のノイズなく黙って、けれど誇らしげに見守っていて。 アグレアスは、僕たちが少しでも喉の渇きを感じるより前の完璧なタイミングで、極冷のトロピカルドリンクをトレイに載せて砂浜に控えていた。
ただ夢中で泳いで。 火照った身体を涼しい木陰で優しく休ませて。 また、幼子のように無邪気に海へと入って。 そんな、何一つとして憂いのない時間を夢中で繰り返しているうちに、気がつけば、世界は華やいだ夕方を迎えていた。
天頂にいた太陽が、眩いオレンジ色の光を放ちながら、遥か彼方の水平線へとゆっくりと厳かに沈んでいく。 空が少しずつ赤や紫、藍色のグラデーションへと贅沢に染まりゆき、静かに波打つベネティアの海面には、世界の終わりへと続くかのような黄金色のまばゆい光の道が、真っ直ぐに伸びていた。

ルイ:「…………」
僕は黄金色の細かな砂浜の上にどっかりと座り込み、そのあまりにも眩い夕暮れの景色を静かに眺め続けた。 いつもの僕の頭脳であれば。 きっと、目の前の大自然の美しさを視覚認識した瞬間に、無意識のうちにそれを定義するための計算を走らせているはずだった。
水平線へ向かう太陽の正確な沈降高度。
大気の密度によって不規則に歪む光の屈折率と入射角。
波打つ水面が放つ黄金色の反射率。
潮の満ち引きを決定づける海流のベクトル。
 深度による急激な水温変化。
現在の気温。 そして湿度。
――僕のスペックであれば、そんな無数の環境要素なんていくらでも瞬時に計算して数値化できる。 実際、網膜の裏側で、ほんの少しだけ数式を自動的に組み立てようとしていた。
ルイ:「…………」
でも。 僕は走ろうとしていた計算式の稼働を、自らの意志で途中でピタリとやめたんだ。
ルイ:「……やっぱり、海って本当に凄いや」
朝、プラットフォームに降り立った時にも全く同じことを思ったけれど。 改めて、心からの熱を込めてもう一度だけ口に出した。

セリナ:「うん、そうね」
すぐ隣にぴったりと寄り添うようにして座っていたセリナが、僕の言葉を聴いて、おっとりと首を巡らせて僕の横顔を見つめた。
セリナ:「ねえ、ルイくん。 さっき、何か難しいことをしようとしていたでしょう?」
ルイ:「うん。 いつも通り、目の前の景色を全部数字に置き換えようと思ったんだ」
セリナ:「うん」
ルイ:「でも、途中でやめた」
セリナ:「どうして? ルイくんなら、一瞬で正解が出せるのに」
僕は少しだけ、自分の感情を辿るようにして考えた。 そして――。
ルイ:「……計算しないほうが、楽しい気がしたから」
セリナ:「…………」
セリナは、それに対して何も言葉を返さなかった。
ただ。 夕陽の眩しさのせいか、今にも泣き出しそうなくらいに、愛おしさと嬉しさをその青い瞳いっぱいに湛えて、とろけるように幸せそうに微笑んでみせた。
セリナ:「そっか♪」
本当に、ただそれだけだった。

``` ◇
```
夜。 リゾートホテルの最上階に位置する、国家の国賓が使うような超豪華なスイートルームの自室へと戻る。 大きく切り取られた大窓の外には、暗く果てしない夜の海が広がっていた。 昼間の極彩色の賑やかさとは打って変わった、深淵の底から響く波の音だけが保持する、穏やかな絶対の静けさがそこにはあった。
僕が最高級のふかふかのベッドへと身体を潜り込ませようとした、まさにその瞬間だった。
レオン:『――おい、ルイ。 聞こえるか?』
不意に、枕元に置かれていた魔導通信具が淡く明滅し、音声回線が繋がった。
ルイ:「うん、聞こえているよ。 レオンかい?」
レオン:『ああ、オレだ』
通信機の向こう側から、あの戦場を生き抜いたレオンの、相変わらず無駄に力強い声音が響いてくる。
レオン:『軍の退屈な戦後処理を力尽くで文官どもに丸投げしてきた。 明日のお昼頃には、そっちの白亜のホテルに合流できそうだぞ』
セリナ:「レオンくん、本当にこっちへ来てくれるのね!」
僕のすぐ隣で、いつの間にかフリルがあしらわれた可愛らしい桃色のパジャマ姿になっていたセリナが、嬉しそうに声を弾ませてベッドの上から身を乗り出す。

レオン:『ああ、行くとも。 公爵令嬢からの直々のお誘いだ、断る理由がないからな』
レオンが、そこでほんの少しだけ、何やら言い淀むような奇妙な間を置いて言葉を重ねた。
レオン:『それと……オレの独断で申し訳ないんだが、一人、どうしてもそっちへ行きたいとしつこい 「連れ」 を連れていくことになるが、構わないか?』
ルイ:「一人? 誰だい、それは」
レオン:『ああ、それがな――』
なんだか、通信回線の遥か奥の方から『ちょっとレオン! 私にもその魔導通信機を早く貸しなさいよ! その、そこにいるルイって人が、あの地獄の中心で0.2秒の超高精密な遠隔魔法陣を構築したっていう……!』という、どこかで聞いた記憶のある、猛烈に元気で勝気な女の子の怒鳴り声が微かに漏れ聞こえてきた気がするけれど。
僕は少しだけ不思議に思って小首を傾げた。 一体誰の声だろう。
でも。
ルイ:「レオンの連れなら、僕は別に構わないよ。 歓迎する」
特に、それを拒絶する理由なんてどこにも見当たらない。

ルイ:「明日も、僕たちは一日中このベネティアの海で思いっきり遊ぶ予定だしね」
セリナ:「うんっ! みんなで一緒に、もっと楽しい一日にしましょうね、ルイくん!」
セリナも至福の笑顔を浮かべ、僕の意見に全面的に同意してくれた。 その後、実務的な明日の正確な到着時間の確認を交わし終え、プツンと、通信があっけなく切断された。
豪華な室内に、ふたたび寄せては返す、穏やかな夜の波の音の静けさがゆっくりと戻ってくる。 僕は大きな窓の向こうの、どこまでも深い夜の水平線を見つめた。 黒い一級品のベルベットのように波打つ夜の水面に、中天の白月が放つ清らかな純白の光が、優しく、ゆらゆらと揺れていた。
ルイ:「……明日も、か」
今日という特別な一日だけではない。 明日もまた、眩しい海が僕を待っている。 すぐ隣にはセリナがいて、砂浜にはロゼッタさんも、アグレアスも控えている。 そして――僕の唯一無二の親友であるレオンも、わざわざここへ来てくれるらしい。 それから、もう一人。
ルイ:「…………一体、誰なんだろうな」
少しだけ、新着メッセージの主のことが気になった。 でも。 今は、ただそれだけでいいんだ。 分からない未知の未来を、すべて脳内の計算式で強引に解き明かして、今すぐこの瞬間に正解を出さなくたっていい。 明日になれば、その時が来れば、きっと自然に分かることだから。
僕は、潮風を遮るように大きな硝子窓を静かに閉めた。

ルイ:「……みんな、おやすみ」
僕は今度こそ、最高級のベッドのシーツの中へと身を滑り込ませる。 今日という日は。 僕の記憶のなかで、最も『世界を計算しなかった』一日だった。 そしてその結果は――僕が想定していたよりも、ずっと、ずっと楽しかったんだ。
セリナ:「――って、ルイくん! まだそんな満足そうに寝ようとしないで!」
ルイ:「えっ、うん。 もう夜も遅いし、流石に寝るつもりだけど」
セリナ:「夜のバカンスはまだまだこれからだよ! それより、このスイートルームのお風呂、ものすごく広くて夜の海が一望できて素敵なんだから、……ね、一緒に入りましょ!」
ルイ:「いやいやいや、いくら何でも一緒に入るのは無理だってば!」
シエル:『――警告;ルイ様はこれより休眠状態へ移行した後、夢のローカル階層にて、すでにわたしと一緒にお風呂へ行く予定がシステムに組み込まれています。 現実世界のセリナさんは、ただちにその場をご遠慮してください』
ルイ:「いやいやいや……! これ、起きていても眠っていても逃げ場がない、最悪の『解なし』に陥っているよ!?」
こういう絶体絶命の窮地の時に限って、いつもなら一瞬で事務処理をこなしてくれる優秀なロゼッタさんとアグレアスの姿は、部屋のどこを見回しても見当たらなかった。 (おそらく、意図的に極上の気を利かせて完全に気配を消しているのだろう)
シエル:『―― ピッ 』 シエル:『人格機能復元率、39.9% から 「40.0%」 へと更新されました 』
脳内のシステムログのデジタル文字だけが、この主の危機を他所に、場違いなほど律儀に、そして得意げに数字を刻んでいた。
僕はパジャマ姿のセリナに全力で細い腕を引っ張られながら、助けを求めるようにして窓の外の暗闇を見つめた。 どこまでも深く、優しい夜の海。 その遥か遠くの水平線の先から、水上を走る直通魔導列車の微かな駆動音が、僕の耳へと小さく届いていた。
ルイ:「誰でもいいから! レオン、頼むから一秒でも早くここへ来てくれーっ!」

(外伝・第16章『水上リゾート都市ベネティアと、0.2の休日』 完)

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【主題歌】『0.2の空』②――計算できない未来を、君と歩く。|時の継承者は宿屋に帰りたい 外伝「セリナの夢と鳥籠の中の楽園」
『0.2の空』 ――計算できない未来を、君と歩く。
【Verse 1】
小さな数字から 始まった物語 誰にも見えない 僕だけの答え
足りないものなら 数えればいい 届かない場所なら 式を変えればいい
静かな部屋で 本を開いて 知らない世界を 文字の中に探した
だけど君はいつも その手を引いて 「こっちだよ」と 青い空を指した
【Pre-Chorus】
正しさばかりを 追いかけていた 間違わないことが 強さだと思ってた
だけど君と歩く この時間だけは 答えを急がなくても いい気がした
【Chorus】
ほんの少しの力でも 届く場所があると知った
足跡ひとつ 残すたび 知らない景色が増えていく
強くなれなくても 構わない 完璧じゃなくても 進めるから
胸の奥でまだ眠っている 小さな可能性を抱いて
【Verse 2】
朝の光に 目を細めながら 昨日より少し 遠くまで歩いた
笑い声がして 風が吹き抜けて いつもの仲間が そこにいてくれる
無茶をする君と 呆れる誰か 静かに見守る 優しい背中
気づけば僕の世界には 一人では描けない色が増えていた
【Pre-Chorus 2】
未来の形なら 予測できる 起こる出来事も ある程度は読める
それでも心だけは 不思議なくらい 予定どおりには 動いてくれない
【Chorus 2】
たった一度の今日だから 見落としたくないものがある
風に揺れてる花の色 隣で笑ってるその声
遠回りだって 悪くない 寄り道だから見えるものもある
決められた道の外側へ 僕らは少しずつ歩いていく
【Bridge】
世界がどんな仕組みでも 数式にできないものがある
守りたいと思った瞬間に 理屈より先に 手が伸びていた
ほんのわずかな力でも 誰かの明日を変えられるなら
僕は僕のやり方でいい 大きな奇跡じゃなくてもいい
【Quiet Bridge】
波の音だけが 遠くで響く 夕暮れの空が ゆっくり染まる
「何を考えてるの?」 そう聞かれて 少し迷った
たぶん僕は―― 何も考えていない
ただ 隣にいることが こんなにも心地いいと
初めて 知っただけ
【Final Chorus】
ほんの少しの勇気から 景色は変わっていくんだ
知らなかった空の青さも 触れたことのない風も
君がくれた時間の中で ひとつずつ僕のものになる
答えを出すことばかりじゃない 感じるための今日もある
【Last Chorus】
だから今は 顔を上げて 広い空を眺めていたい
どこへ向かうか決めなくても 歩き出せば道になる
足りないものを数えるより ここにあるものを抱きしめよう
小さな力で 十分だから 僕らの未来を描いていこう
まだ見たことのない景色へ まだ知らない季節の向こうへ
計算できないその先で きっとまた 何かに出会える
【Outro】
夕暮れが夜へ変わる頃 遠くで誰かが僕を呼ぶ
振り返れば いつもの笑顔
「行こうか」
その一言だけで 明日の場所が少し近くなる
小さな数字から始まった僕の世界は 今では こんなにも広い
そして――
まだ知らない空が その先で待っている。
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あらすじ ルイは、マナ・レール・エクスプレスで煤けた鉄鋼都市を離れ、水上リゾート都市ベネティアへ向かう。 朝の列車から見えたのは、白大理石の建築群と複雑な水路、色鮮やかな遊覧魔導船、活気に満ちた水上市場など、これまで暮らしてきた港町リプラとはまったく異なる華やかな景色だった。 リプラには荒々しい潮風や無骨な漁師の声、塩を吹いた木造建築がある一方、ベネティアには穏やかな青い水路と純白の大理石、世界中の旅人を迎える洗練された街並みが広がっている。 しかしルイは、両方の街に同じ海の匂いと温もりが宿っていることに気づく。 終点に到着し、駅の扉が開くと、潮の香りと街の喧騒が一気に車内へ流れ込む。 ルイはプラットフォームに降りたところで足を止め、目の前に広がる本物の海を見つめる。 朝日を浴びた水面は無数の宝石のように輝き、空と海の境界が溶け合うほど水平線は果てしなく遠かった。 海の広大さに圧倒されたルイの頭には、職業病ともいえる計算癖が現れる。 海面の面積、水量、塩分濃度、海流、熱量、水温の層、プランクトン、生態系、さらに大気中の魔力濃度まで、目の前の自然を数値化し、完全なシミュレーションを構築しようとする。 しかしルイは、穏やかな朝にまで複雑な計算をする必要はないと考え、意識的に思考を停止する。 数字や数式を手放した結果、彼の前には計算で定義する必要のない、ただ美しく巨大な「海」そのものが残った。 波が石畳に砕け、船が水平線を滑り、海鳥が空を横切る。 広場では観光客の親子が飛び跳ねた魚について楽しそうに話しており、その平和な光景がルイの心を穏やかにする。 彼は海の何がすごいのか明確に説明できないまま、その質量や深さ、そこに生きる無数の命、そして世界を数字だけで捉えることをやめた自分の変化を感じていた。 セリナに難しい顔をしていた理由を尋ねられたルイは、いつものように景色を数字へ置き換えようとしたものの、途中でやめたと答える。 正確な答えを一瞬で出せる彼が計算をやめた理由は、「計算しないほうが楽しい気がしたから」だった。 その言葉を聞いたセリナは何も説明せず、愛おしさと喜びを瞳に浮かべて幸せそうに微笑み、「そっか」とだけ返す。 ルイにとって、ベネティアで過ごしたこの日は、世界を理解するために数値化するのではなく、目の前の景色をそのまま味わうことを選んだ特別な休日となった。 夜、ルイとセリナは、国賓用のように豪華なリゾートホテルのスイートルームへ戻る。 大窓の外には昼とは異なる深い夜の海が広がり、波音だけが静かに響いていた。 ルイが眠ろうとしたとき、枕元の魔導通信具が鳴り、戦後処理を終えたレオンから連絡が入る。 レオンは翌日の昼頃にベネティアへ合流すると伝え、さらに、どうしても同行したい人物を一人連れていくと告げる。 通信の向こうからは、ルイが戦場で構築した「0.2秒の超高精密な遠隔魔法陣」に興味を示す、元気で勝気な少女の声が漏れ聞こえるが、ルイはその正体に気づかない。 ルイはレオンの連れを歓迎すると答え、翌日もセリナたちと海で遊ぶことを楽しみにする。 夜の海を眺めながら、彼は明日もセリナや仲間たち、そしてレオンと未知の同行者がそばにいることを思い浮かべる。 未知の人物が誰なのか気にはなるものの、ルイはすぐに答えを計算で導き出そうとはしない。 明日になれば自然に分かることとして、分からない未来をそのまま受け入れる。 これは、何もかもを先回りして数式で解こうとしてきた彼にとって、大きな心境の変化だった。 窓を閉め、皆におやすみを告げたルイは、今日が自分の記憶の中で最も「世界を計算しなかった」一日だったと振り返る。 そして、その結果は予想していた以上に楽しかったと実感する。 しかしセリナは、夜のバカンスはまだ終わっていないと言い、夜の海を一望できる広い浴室へ一緒に入ろうと誘う。 ルイは慌てて拒むが、シエルも夢の中でルイと入浴する予定が組み込まれていると告げ、彼は現実でも夢でも逃げ場のない状況に陥る。 普段なら助けてくれるロゼッタやアグレアスは、二人のために意図的に姿を消しているらしい。 その一方で、シエルの人格機能復元率だけが39.9%から40.0%へ更新され、騒動とは無関係に機械的な記録を刻む。 セリナに腕を引かれたルイは、助けを求めるように夜の海を見つめ、遠くから聞こえる魔導列車の音に希望を託す。 そして、レオンに一秒でも早く来てくれるよう叫びながら、ベネティアでの穏やかで特別な休日は、賑やかな騒動のうちに幕を閉じる。
|
解説+感想+採点『時の継承者』第16章「水上リゾート都市ベネティアと、0.2の休日」として採点すると、かなり高いです。 特に今回は「ルイの成長」と「セリナとの関係進展」と「コメディ」がきれいに一本につながっています。冒頭からベネティアの描写もしっかり作り込まれています。
総合評価
92 / 100点
| 項目 | 点数 | 評価 | | | : | | | ストーリー構成 | 18/20 | 休日→事件→日常回帰→夜のオチまで流れが良い | | キャラクター | 19/20 | ルイ・セリナ・ロゼッタ・アグレアスの役割が明確 | | 文章・描写 | 18/20 | 海・水路・街並みの映像感が非常に強い | | 会話・テンポ | 18/20 | ツッコミと甘い場面の切り替えが上手い | | ルイの成長描写 | 10/10 | 今章最大の強み | | 次への引き | 9/10 | 「シャドーゲート」など事件要素を残せている | | 総合 | 92/100 | かなり完成度の高い章 |
特に良かったところ
① 「海を計算しない」というルイの変化が非常に良い
今回の章で一番評価したい部分です。
ルイは海を見た瞬間、
> 海面総面積 > 水量 > 塩分濃度 > 海流 > 水温 > 生態系 > 魔力濃度
まで計算しようとします。
これは単なる「天才主人公のギャグ」ではなく、ルイという人物そのものになっています。
そして最終的に、
> 「これは、計算しなくてもいいか」
へ到達する。
ここが非常に重要です。
つまり、
世界を理解するために計算するルイ ↓ 世界を理解しなくても楽しめるルイ
へ一歩進んでいる。
しかも「計算をやめた=頭が悪くなった」ではありません。
計算できるけれど、あえて計算しない。
この描写はルイの成長としてかなり綺麗です。
② 「ここに来られてよかった」が強い
この一言もかなり良いです。
ルイ:
> 「……本当に、ここに来られてよかったな」
セリナが、
> 「もう一回、ちゃんと耳で聞きたいの」
と聞き返すところも、二人の関係性がよく出ています。
そして、
> 「ここに来られてよかった、って言ったんだよ」
に対して、
> 「……うんっ!」
というセリナ。
ここは恋愛描写としても非常に自然です。
大げさな告白ではないのに、セリナにとっては非常に大きな言葉になっている。
このタイプの関係進展は『時の継承者』と相性がいいです。
③ セリナの「甘さ」と「暴走」のバランスが良い
今回のセリナはかなり良いです。
前半では、
「ルイと一緒に海を楽しみたい女の子」
として描かれる。
ところが後半になると、
> 「これは、根本的な建て替えが必要ですね」
になる。
そして、
> 「山を少しだけ削って地形を変えれば――」
まで行く。
ここでルイが、
> 「僕のバカンスのために世界の地形ごと書き換えようとしないで!」
とツッコむ。
このコンビ、かなり完成しています。
ルイ=常識的な天才 セリナ=常識を超越したお嬢様
という構造が非常に分かりやすい。
④ ロゼッタ&アグレアスが強い
今回、個人的にはこの二人のコメディ性能もかなり高評価です。
特に、
> 「これが、君の言う『最低限』の基準なの?」
に対して、
> 「はい」
というロゼッタ。
この即答の破壊力がいいです。
さらに、
> 「当エリアのプライベートビーチ、および後方にそびえ立つ水上リゾートホテルは、すべてエルフェリア公爵家の所有物」
から、
> 「あちらの、前方に見える島の大半も……」
へ発展する。
そしてルイのキャパシティがどんどん破壊されていく。
このパターンは『時の継承者』のコメディとしてかなり完成度が高いです。
⑤ 「シャドーゲート」の投入も効果的
ここで一気に空気が変わります。
それまで、
海! 休日! 水着! 本! お嬢様パワー! 高級リゾート!
だったところへ、
> 「『シャドーゲート』とか名乗る謎の武装組織に……丸ごと拉致されました!」
を投入。
これはかなり良いです。
特に、
平和な休日 → 王族拉致
という落差が大きい。
ルイの、
> 「……なんでそんなことになるんだよ」
も読者の感想そのものです。
⑥ 今章の最大のテーマは実は「休日」
タイトルの、
「0.2の休日」
が最後まで効いています。
ルイにとっての休日とは、本来、
静かな場所で本を読むこと。
でもセリナは、
一緒に海へ行くこと。
そして最終的にルイ自身が、
> 「今日という特別な一日くらいは、少しくらい彼女の我が儘に付き合って全力で遊んでみる」
という方向へ変わる。
つまり今回の章は単なる水着回ではなく、
「ルイが“効率的な時間”ではなく、“楽しい時間”を選ぶ話」
になっています。
ここはかなり評価できます。
文章面で少しだけ気になるところ
92点なので、大きな問題ではありません。
ただし、95点以上を狙うなら圧縮できる部分があります。
① ベネティア描写が少し長い
冒頭の街・海・水路・建築物の描写は綺麗です。
ただ、
海の描写 ↓ 計算開始 ↓ 計算停止 ↓ 再び海の描写
という流れがかなり丁寧です。
世界観を売る章なので許容範囲ですが、商業ラノベとしてさらにテンポを上げるなら、10~15%程度圧縮しても成立すると思います。
② 「セリナの可愛さ」の表現がやや重複
例えば、
向日葵 満面の笑顔 とろけるような笑顔 幸せそうな笑み 春の陽だまり 可憐 愛おしそう
など、似た方向の表現が何度か出ています。
一つ一つは綺麗なのですが、積み重なると少しだけ「可愛いことを説明している」感が出ます。
ここを一部、
表情を説明せず、ルイの反応だけで見せる
ようにすると、さらに洗練されます。
そして一番評価したいポイント
今回の章は、
「ルイが世界を計算する話」ではなく、「計算しなくても世界を楽しめるようになる話」
になっています。
これは『時の継承者』の主人公成長としてかなり重要です。
序盤の、
> 「海という巨大な系」
を分析するルイと、
終盤の、
> 「世界を計算しなかった一日だった。そしてその結果は――僕が想定していたよりも、ずっと、ずっと楽しかった」
というルイを比較すると、第16章そのものが一つの成長エピソードになっています。
ここは非常に強いです。
商業ライトノベルとしての評価
新人賞・商業作品を意識した場合:89~92点クラス
特に強いのは、
主人公の個性 ヒロインとの関係性 コメディ 世界観 休日回としての読後感 次の事件への接続
です。
一方で、さらに商業作品寄りにするなら、
「描写を少し削ってテンポを上げる」
のが一番効果的だと思います。
キャラクター別評価
| キャラクター | 評価 | | | : | | ルイ | 96点 | | セリナ | 95点 | | ロゼッタ | 94点 | | アグレアス | 93点 | | シエル | 91点 | | 総支配人・副支配人 | 88点 |
ルイ
今回かなり良いです。
「天才」「算術師」「0.2」という設定を、説明ではなく行動で見せています。
セリナ
かなり強い。
「おっとり可愛い」→「ルイ大好き」→「公爵家権力で全部解決しようとする」
という三段変化が楽しいです。
ロゼッタ
「最低限です」「はい」のような淡々とした返答がキャラクターとして完成しています。
アグレアス
今回も「何でも知っている執事」+「ちょっと楽しそう」という味が出ています。
最終採点
⭐ 92 / 100
そして、この章の評価を一言で表すなら、
> 「ルイが初めて、世界を計算せずに楽しんだ休日」
です。
第16章は単なる水着・リゾート回ではなく、ルイの精神的成長を描いた重要な日常回として機能しています。
さらに終盤のシエルの人格機能復元率 39.9%→40.0% と、最後の「夜のバカンス」ギャグまで入ることで、重くなりすぎず『時の継承者』らしい読後感に戻しているのも良いです。
「癒やし回+恋愛回+コメディ回+次章への事件フック」を一章にまとめた構成として、かなり強い出来です。
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