◀第15章『眠れる演算神と、白銀の楔』
▶第17章『白銀の楔と、藤色の花びら』
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第16章『白銀の楔、王都を穿つ』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 春歌ナナ」「VOICEVOX: 離途」「VOICEVOX: 栗田まろん」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: 後鬼」「VOICEVOX: 中部つるぎ」「VOICEVOX: あいえるたん」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 小夜/SAYO」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 東北きりたん」「VOICEVOX: もち子さん」
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王都アルカディアの空が、白らみ始めていた。 夜と朝が融(と)け合う境界の時刻。 静まり返った街の片隅に佇(たたず)む古びた建物――そのさらに地下深く、分厚い石壁に閉ざされた一室へ、荒々しい足音が響き渡る。

ドン、ドン、ドン。
やがて、乱暴に扉が弾(はじ)け開いた。
スリーピング・シープ工作員:「……対象は、間違いなくあの地下にいる」
現れた男は膝(ひざ)に手をつき、肩で激しく息を喘(あえ)がせていた。 衣服は泥と血に塗(まみ)れ、頬(ほお)には浅い裂傷が走っている。 ひどく乱れた呼吸は、胸の奥でヒューヒューと軋(きし)むような音を立てていた。 それでも、男は顔を上げる。
スリーピング・シープ工作員:「報告します」
彼こそが決死の覚悟で学園地下へ潜り、ただ一人だけ生還を果たした《スリーピング・シープ》の工作員であった。

スリーピング・シープ工作員:「対象――ルイ・アーデルは確かにいる。 王立魔法学園地下、特別演習室だ」
ペテルギウス:「状態は?」
ペテルギウスが淡々と尋ねる。
スリーピング・シープ工作員:「……不明です」
ペテルギウス:「不明だと?」
スリーピング・シープ工作員:「はい」
男は息を呑(の)み、迷うように言葉を選んだ。
スリーピング・シープ工作員:「居場所の特定までは至りました。 しかし――」
そこで、男の声が僅(わず)かに震えた。
スリーピング・シープ工作員:「……あの防衛力は、異常だ」
部屋に控えていた者たちが、男へ視線を向ける。
スリーピング・シープ工作員:「たった一人の少女……魔導師の護衛が、俺たちの対魔術戦術を一度見ただけで完全に解析(ハック)しやがった」
ペテルギウス:「一度だけ、ですか」
スリーピング・シープ工作員:「……ああ。 一度だけだ」
生還者は苦渋に満ちた顔で深く頷(うなず)く。

スリーピング・シープ工作員:「音による偽装も、魔力の撹乱(かくらん)も、対魔術装備も、すべてだ。 こちらが何をするか完全に読まれていた。 俺たちが何年もかけて磨き上げてきた戦術を……まるで、最初から知っていたかのように」
一拍の沈黙。
スリーピング・シープ工作員:「俺以外の四人は、全員やられた」
部屋の空気が重く沈んだ。 男は震える拳(こぶし)を握りしめる。
スリーピング・シープ工作員:「一つ、言っておく」
その声には、裏社会で幾度も死線を潜り抜けてきた暗殺者とは思えぬほど、深い恐怖と疲労が滲(にじ)み出していた。
スリーピング・シープ工作員:「諜報だけでも手一杯だった。 暗殺なんて手段が通じる相手じゃない」
血走った目が、部屋にいる者たちを一人ずつ巡る。
スリーピング・シープ工作員:「おまけに、あの奥には……王宮が敷いたとは思えないほどの、規格外の防壁が張り巡らされていた。 あれを正面から抜くのは不可能だ」
ペテルギウス:「……他には?」
スリーピング・シープ工作員:「俺たちが確認できたのは、そこまでだ」
男は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、テーブルの上へ放るように置いた。

スリーピング・シープ工作員:「依頼された『情報の収集』と『所在の裏取り』は果たした」
そして、深く、重い息を吐き出す。
スリーピング・シープ工作員:「俺は、この件から手を引かせてもらう」
誰も止めはしなかった。
スリーピング・シープ工作員:「……ここまでだ」
男はそう言い捨て、踵(きびす)を返す。
ペテルギウス:「待て」
ペテルギウスの平坦な声が背中を打った。 男の足が僅(わず)かに止まる。
ペテルギウス:「報酬については?」
スリーピング・シープ工作員:「……約束通りで構わない」
ペテルギウス:「分かりました」
ペテルギウスは感情もなく頷(うなず)いた。

ペテルギウス:「では、契約は完了です」
男はそれ以上何も言わず、足早に立ち去った。 重い扉が閉ざされる。 やがてその足音さえも、地下の静寂へと完全に溶けて消えていった。 部屋には、冷たい沈黙だけが残される。
ペテルギウス:「……四人の命と引き換えに、確かな情報を持ち帰る」
ペテルギウスが、テーブルに残された羊皮紙へ視線を落とした。
ペテルギウス:「裏社会の人間とはいえ、契約を全うする執念は見事なものです」
グレゴール:「ええ」
不意に、別の声が響く。
グレゴール:「彼らが有能だったからこそ、これだけの情報が得られました」
部屋の最奥。 ランプの光すら届かない暗がりから、ひどく理知的で、温度のない声が紡がれる。
グレゴール:「四人の命を対価にして、王国の最高機密である防衛レベルを暴き出した。 極めて有能な働きです」
闇が、ゆっくりと揺らめいた。 やがてその奥から、一人の男が歩み出てくる。 三十代半ば。 長身で細身の体躯(たいく)。 灰色がかった黒髪を短く整え、白装束の構成員たちとは異なる、濃紺を基調とした無駄のない長衣を纏(まと)っている。 手には純白の手袋。 端整な顔立ちにはめ込まれた灰青色の瞳(ひとみ)には、人間の感情など微塵(みじん)もなく、ただ数式と論理だけを映し出す絶対的な冷徹さが宿っていた。

男は歩み寄りながら、テーブルの上の羊皮紙へ淡々と目を落とす。
グレゴール:「生存者は一名」
ペテルギウス:「はい」
グレゴール:「それで十分です」
男の表情はピクリとも動かない。
グレゴール:「四人が死んだこと自体に意味はない。 重要なのは、その死によって我々が何を得たかです」
ペテルギウスが目を細める。
ペテルギウス:「相変わらず、徹底していますね。 グレゴール監察官」
男――《白銀の楔(くさび)》王都攻略作戦・地上戦域統括。 教皇直属戦場監察官、グレゴール・ヴァイス。
グレゴール:「感情は、作戦を成功させる材料にはなりませんから」
グレゴールは淡々と返し、手の中の魔導具を起動した。 カチリ、と硬質な音が鳴る。 淡い光が走り、虚空に王都アルカディアの立体地図が浮かび上がった。 街路、城壁、王宮、軍施設、そして魔導施設――さらには、王都各所に潜伏する《白銀の楔》の部隊情報が、無数の光点となって明滅している。

魔導具《戦場盤》。 王都そのものをチェス盤に見立てる、戦況解析の要であった。
グレゴール:「これで、我々は中途半端な『諜報』という選択肢を迷いなく捨て去ることができます」
グレゴールは戦場盤を見つめたまま告げる。
グレゴール:「対象の防衛力が、局地戦で突破不可能な水準にあると判明した」
純白の手袋に包まれた指先が、王立魔法学園の座標をなぞった。
グレゴール:「ならば、局地戦環境そのものを成立させなければいい」
ペテルギウス:「どうするのです?」
ペテルギウスの問いに、グレゴールの灰青色の瞳(ひとみ)が冷たく地図を滑る。
グレゴール:「戦術を切り替えます。 『諜報』から――『混乱(エラー)』へ」
ペテルギウス:「混乱……」
グレゴール:「ええ」
グレゴールは、学園地下ではなく王都全体を指で囲い込むように示した。

グレゴール:「王都の防衛戦力を、すべて地上へ引き剥がします。 あの地下を守る人間を、地上へ出させればいい」
ペテルギウス:「……つまり、地下そのものを戦場から切り離す、と?」
グレゴール:「その通りです」
グレゴールは即答した。
グレゴール:「防御とは、守るべき対象が一つだから強固に成立する。 ならば、守るべき場所を一つではなく、十も二十も作ればいいのです」
ペテルギウスは、同じ教皇直属であるこの男の思考を測るように目を細めた。
ペテルギウス:「手は打ってあるのですか」
グレゴール:「当然です」
グレゴールは振り返る。 部屋に整列している《白銀の楔(くさび)》の構成員たちは、誰一人として口を開かず、ただ視線を向けていた。
グレゴール:「待機させている地上部隊40名、及びアークデーモン40体の運用方針を伝達します」
グレゴールが告げると、構成員たちが一斉に姿勢を正した。
グレゴール:「第一に、各個撃破や重要施設の制圧は二の次とします」
白銀の楔構成員:「では、何を優先するのですか?」
一人の隊員が尋ねる。

グレゴール:「優先目標は、若い女性の確保です」
グレゴールは抑揚のない声で答えた。
グレゴール:「殺す必要はありません。 むしろ、殺さないでください。 彼らが『守りたい』と願うものを、目の前で奪い、生かしたまま辱(はずかし)めなさい」
一瞬、部屋の空気が凍りついた。 女性隊員が、思わず問い返す。
白銀の楔女性隊員:「……女性を、ですか? ですが、それでは王国軍の激しい怒りを買います」
グレゴール:「その方が好都合なのです」
グレゴールは、心底どうでもいいことを説明するように頷(うなず)いた。
グレゴール:「彼らは大義と誇りを持った王国軍です。 真正面から兵士を殺すよりも、彼らが『守りたい』と願うものを惨たらしく蹂躙(じゅうりん)した方が、彼らの陣形と理性は容易(たやす)く崩壊する」
戦場盤に、王国軍の想定配置が浮かび上がった。
グレゴール:「北門を守る兵士に、南区画の悲鳴を聞かせる。 王宮を守る兵士に、逃げ惑う市民を見せる。 そして市民を守る兵士には――目の前で蹂躙される人間を救わせるのだ」
グレゴールの指先が止まる。

グレゴール:「兵士の判断を鈍らせるために、守るべき対象を極限まで増やす。 そうすれば、彼らは軍隊として合理的に動けなくなる」
ペテルギウス:「……そうして、地下に隙(すき)ができると」
グレゴール:「ええ。 王国自身に地下を守る兵力を割かせず、完全に孤立させればいいのです」
誰も言葉を発しなかった。 それは、人間の最も美しいはずの感情―― 「誰かを守りたい」 という願いを、盤上の泥として計算式に組み込む、純度百パーセントの悪魔のロジックだった。
ペテルギウス:「……恐ろしい男ですね、あなたは」
ペテルギウスが呟(つぶ)く。 だが、グレゴールは微塵(みじん)も表情を変えなかった。
グレゴール:「恐ろしい? いいえ。 合理的なだけです」
ペテルギウス:「それを恐ろしいと言うのですよ」
グレゴール:「そうですか」
本当に興味がなさそうに相槌(あいづち)を打ち、グレゴールは戦場盤へ視線を戻す。
グレゴール:「戦争とは、ただの殺し合いではありません。 相手の選択肢を、一つずつ消していく。 ただの作業です」
ペテルギウスはしばらく黙っていたが、やがて彼もまた戦場盤へ目を向けた。
ペテルギウス:「……なるほど。 理解しました。 ならば、私(わたし)も一つ確認しましょう」
グレゴール:「どうぞ」
ペテルギウス:「陽動となる地上部隊40名は、どこまで損耗して構わないのですか?」
グレゴールの答えは早かった。

グレゴール:「全員です」
ペテルギウス:「……全員?」
グレゴール:「40名全員が死亡しても構いません。 彼らは第一段階――混乱(エラー)状態を成立させるための戦力に過ぎませんから」
グレゴールは戦場盤から視線を外さず、今度は学園の地下深くを指し示した。
グレゴール:「我々が本命部隊です。 地上部隊が全滅したとしても、我々が手薄になった地下へ到達できればそれでいい。 重要なのは、王国の防衛能力が地上へ釘付けにされたという事実だけです」
ペテルギウス:「……徹底していますね」
グレゴール:「必要なだけです」
グレゴールは戦場盤を閉じた。 淡い光が消え、地下室には再び薄暗いランプの灯(あか)りだけが残る。
グレゴール:「では」
待機していた構成員たちへ視線を向けた。
グレゴール:「第一段階――開始しなさい」
一斉に敬礼がなされた。
白銀の楔構成員たち:「了解」
白銀の楔構成員たち:「承知しました」
複数の声が重なる。 ただ、それだけだった。 誰も叫ばない。 誰も興奮しない。 まるで朝の定例業務を確認するかのような、不気味なほどの静けさ。 構成員たちが影のように一人、また一人と部屋から姿を消していく。

最後に残ったペテルギウスが、問いかけた。
ペテルギウス:「グレゴール監察官」
グレゴール:「何でしょう」
ペテルギウス:「……あなたは、本当にあの対象をただの『生体資源』としか考えていないのですか?」
グレゴールは数秒だけ沈黙し、ほんの僅(わず)かに目を細めた。
グレゴール:「評価はまだ保留しています。 情報が足りません」
それだけ答え、視線を何もない虚空へ向ける。
グレゴール:「だからこそ、これから知るのです」
窓の外。 王都アルカディアの東の空から、柔らかな朝の光が差し込み始めていた。 市場には、すでに早起きの商人たちが立っている。 パン屋の店頭には、香ばしい焼きたてのパンが並ぼうとしていた。 子どもたちは今日もいつもの平和な朝が来ると信じ、兵士たちもまだ何の異変も察知していない。 聖女もまた、冷たい地下の泉で国を守るために祈り続けている。 そして――王立魔法学園の地下深くでは、ルイ・アーデルが何も知らずに眠り続けていた。
そんな穏やかな朝が終わるまで――残り数分。

グレゴール・ヴァイスは、呟(つぶ)いた。
グレゴール:「――さあ、王国の防衛能力を測らせてもらいましょうか」
狂おしいほど平和な国が、凄惨(せいさん)な地獄へと叩き落とされる。 その最初の一手が、今――盤上へ置かれた。
南の王国アルカディアの朝は、いつもと変わらず美しかった。 王都の中央市場では、釜(かま)から出されたばかりの焼きたてのパンの香りが漂い、色鮮やかな野菜を並べた商人が、朝の活気に負けじと声を張り上げている。 石畳の上では、買い物袋を抱えた母親の間を縫うように子どもたちが駆け回り、少し離れたところでは、買い物を楽しむ若い娘たちの笑い声が風に乗っていた。
若い娘:「ねえ、その髪飾り昨日も見てたでしょう?」
若い娘:「だって、可愛いんだもの」
若い娘:「じゃあ買えばいいじゃない」
若い娘:「今月、ちょっと使いすぎちゃって……」
どこにでもある、平穏な朝。 空は底抜けに青く、柔らかな陽光が街全体を優しく包み込んでいる。
老婆:「今日もいい天気ね」
空を見上げた老婆が、穏やかに微笑(ほほえ)んだ。

商人:「ええ。 アルカディアでは、いつだってそうですよ」
隣にいた商人も笑い返す。
商人:「聖女様のおかげですからね」
誰もが知っている。 この国は守られている――と。 だからこそ。 空が 「割れた」 とき、人々はそれが何かの余興だとすら錯覚した。
――バヅッ!
市民:「……え?」
上空で、世界そのものの膜を力任せに引き裂くような、醜悪(しゅうあく)な音が響く。 空を見上げていた者たちの顔から、笑みが一つ、また一つと消え去っていった。 抜けるような青空に、黒いインクをぶち撒(ま)けたような亀裂(きれつ)が走っている。
自然に生じたものではない。 外から結界を破壊したわけでもない。 結界に守られた空間の内側へ、すでに潜伏していた術者によって、強制的に別の入口がこじ開けられたのだ。
市民:「な、何……?」
市民:「空が……」
市民:「ちょっと、あれ……!」
亀裂の向こう側から、濃密な瘴気(しょうき)が滝のように降り注いだ。 空気が変わる。 暖かな朝の匂(にお)いが、一瞬にして腐臭にも似た異臭へと塗り潰されていった。

籠(かご)に林檎(りんご)を入れていた若い娘が、呆然(ぼうぜん)と空を見上げる。
若い娘:「……何、これ」
次の瞬間。 亀裂の中から、巨大な漆黒の塊が石畳へと落下した。
――ズドォォォン!!
市民:「きゃあああっ!」
市民:「うわぁっ!」
腹の底を揺らすような地鳴り。 爆風が市場を薙(な)ぎ払い、露店が吹き飛ぶ。 木箱が砕け、野菜が宙を舞い、商品が石畳へ容赦なく叩きつけられていく。
市民:「何が起きた!?」
市民:「逃げろ!」
市民:「子どもを連れていけ!」
市民:「こっちだ、早く!」
もう、誰も空など見ていなかった。 粉塵(ふんじん)の向こう、巨大な影がゆっくりと立ち上がる。 三メートルを超える巨体。 山羊(やぎ)のような角。 蝙蝠(こうもり)を思わせる巨大な翼。 漆黒の皮膚。 そして、黄色く濁った眼球。
市民:「……あ……」
誰かが、掠(かす)れた声を漏らした。 静止していた時間が、そこでようやく動き出す。

市民:「ひ、ひぃぃぃぃッ!」
市民:「魔獣だ!」
市民:「なんで王都の中にいるんだ!?」
市民:「衛兵は!? 騎士団は!?」
市民:「知らない! 早く逃げろ!」
阿鼻叫喚(あびきょうかん)。 平和な市場は、一瞬にして凄惨(せいさん)な地獄へと変貌(へんぼう)した。 人々は蜘蛛(くも)の子を散らすように逃げ惑う。 母親が子どもの手を引き、老人が転び、商人が店を捨てて走る。 誰もが同じことを考えていた――ここなら安全なはずだった。 王都なら。 結界の内側なら。 アルカディアなら、と。
しかし。 顕現したアークデーモンは、ただ無差別に暴れ回るような真似はしなかった。
市民:「……?」
一人の男が、走りながら振り返る。
市民:「来ない……?」
怪物は動いていない。 ただ、周囲を見ていた。 ぎょろり、と黄色く濁った眼球が動く。 逃げ惑う人々を、転倒した者を、叫ぶ者を、子どもを抱きかかえる母親を――特定の誰かを探すように、選別するように、ゆっくりと視線を巡らせていた。
若い娘:「……何を、見てるの?」
若い娘が、震える声で呟(つぶ)いた。 直後だった。

若い女性:「キャアアアアッ!」
逃げ遅れ、石畳へ足を取られた若い女性が転倒する。
若い女性:「痛(いた)っ……!」
立ち上がろうとするが、恐怖で足が震えていた。
若い女性:「た、助け――」
その悲鳴に、アークデーモンの視線が固定される。
若い女性:「……っ」
女性の顔から、一瞬で血の気が引いた。
若い女性:「いや……」
怪物が、一歩進む。 ズン。 石畳が震えた。

若い女性:「来ないで……!」
もう一歩。 ズン。
若い女性:「やめて……!」
巨体に似合わぬ速度で、怪物が跳躍した。 女性の目の前へと降り立つ。
若い女性:「いやぁぁぁッ!」
巨大な鉤爪(かぎづめ)が振り下ろされる。 女性が咄嗟(とっさ)に顔を庇(かば)った。 だが――。 刃は命を奪わなかった。 鉤爪は華奢(きゃしゃ)な肩を掠(かす)め、上質なドレスの生地だけを残酷に引き裂く。
ビリッ。
若い女性:「……っ!」
白い肌が露(あら)わになり、女性が羞恥と恐怖に顔を歪(ゆが)める。

若い女性:「お願い……やめて……!」
怪物は答えない。 ただ、彼女を乱暴に掴(つか)み上げた。
自警団員:「離せ、化け物!」
叫び声が市場に響いた。 振り返れば、近くにいた自警団の男たちが武器を手にしている。
自警団員:「隊長、こいつは俺たちが――!」
自警団隊長:「無茶するな!」
自警団員:「でも、あのままじゃ!」
自警団隊長:「分かってる!」
若い男たちが刃物や棍棒(こんぼう)を握りしめる。
自警団員:「俺たちの街で、好き勝手させるか! 行くぞ!」
一人が駆け出した。 続いて二人、三人と飛び出していく。
自警団員:「その女を離せ!」
男が叫んだ瞬間――アークデーモンは、掴(つか)み上げた女性を手放さなかった。 空いた腕だけを、虫でも払うように無造作に横へ薙(な)いだ。

――グシャッ。
鈍い破砕音。 勇敢に立ち向かった男たちの身体(からだ)が、血飛沫(ちしぶき)と共に石畳へ叩(たた)きつけられた。
市民:「……え」
誰かの口から、呆然(ぼうぜん)とした声が漏れる。 一撃。 ただ、それだけだった。 助けに入った男たちは、一瞬にして物言わぬ肉塊へと変わっていた。
市民:「……あ」
市民:「うそ……」
市民:「そんな……」
誰も動けない。 足が竦(すく)む。 喉(のど)が震える。 目の前で起きたことを、脳が現実として処理することすら拒んでいた。
宙吊りにされた女性の瞳(ひとみ)から、ぽろぽろと絶望の涙が零(こぼ)れ落ちる。

若い女性:「……助けて」
掠(かす)れた声だった。
若い女性:「誰か……お願い……」
けれど、誰も近づけない。 恐怖が、足を石畳へ縫い止めていた。 周囲を取り囲む群衆からは、戦慄(せんりつ)と、何もできない己への無力感、そして怪物に対するどす黒い憎悪が、濁流のように立ち上っていく。
――それこそが、悪魔の至高の糧(かて)であった。
アークデーモン:「……グル、ァ……」
アークデーモンの喉から、低い唸(うな)り声が漏れる。 漆黒の表皮が、どくん、と脈打った。
市民:「……何だ、あれ」
誰かが呟(つぶ)く。 怪物の身体を覆う魔力が、目に見えて濃くなっていく。 悲鳴を浴びるたび。 恐怖を喰(く)らうたび。 憎悪をすするたび。 その巨体が、僅(わず)かずつ膨張(ぼうちょう)していく。

市民:「さっきより……大きくなってない?」
市民:「嘘だろ……」
市民:「魔力が……増えてる……」
群衆には理解できない。 何をすれば止まるのかも分からない。 だが、目の前の怪物は知っていた。 人間が恐怖すればするほど、自分は強くなる。 絶望が深ければ深いほど、さらに強くなる。 人間の尊厳を惨たらしく折り砕くこと――それそのものが、この化け物を際限なく強化し続けるのだ。
最悪の永久機関。
アークデーモン:「――ァァァァァァッ!」
アークデーモンが、歓喜と暴食に満ちた咆哮(ほうこう)を上げる。 その声を耳にしただけで、群衆の中から新たな悲鳴が上がった。
市民:「来るぞ!」
市民:「逃げろ!」
市民:「走れ!」
市民:「助けてくれ!」
恐怖がさらに広がり、その恐怖がまた怪物の力へと変わる。 それは単なる破壊や殺戮(さつりく)ではなかった。 日常を壊す。 誰かを奪う。 助けようとする者を踏みにじる。 そして、その光景を目撃した者たちの心に絶望を植え付けるのだ。 絶望という名の餌(えさ)を、人間自身に生み出させる。
――それが、《白銀の楔(くさび)》の地上戦術だった。

そして、この光景を望んでいた者がいる。 王都のどこか。 安全な高所から、戦況を観測する一人の男。 彼にとって、ここで生まれている悲鳴も、恐怖も、憎悪も――すべてが作戦上の数値でしかなかった。 敵の戦力を測るための材料。 王国軍の反応を引き出すための刺激。 そして、人間そのものを制御するための手段。
グレゴール:「守りたい」
グレゴール:「助けなければ」
グレゴール:「ここを見捨てるな」 ――そんな感情こそ、彼が狙うものだった。
その瞬間。 別の場所でも、爆音が響く。
――ドォン!!
市民:「まただ!」
市場の外から、別の悲鳴が上がった。 さらに遠く。
――ドォォン!!
その向こうでも。

――ズドン!!
一つ。 二つ。 三つ。 やがて、王都全域へ連鎖するように破壊音が広がっていく。 市場だけではない。 王都北門、軍事施設周辺、魔導施設、貴族街――アルカディアの心臓部とも言えるあらゆる区画で、次々と空間が裂け、漆黒のアークデーモンたちが顕現していた。
老人:「……嘘だ」
市場に取り残された老人が、震える声で呟(つぶ)く。
老人:「王都中で……?」
誰も答えられなかった。 そして――アルカディアの朝は、終わった。 ほんの少し前まで、焼きたてのパンの香りが漂っていた市場。 子どもたちが笑い合っていた石畳。 若い娘たちが買い物を楽しんでいた街角。 そのすべてが、炎と悲鳴に塗り潰されていく。
狂った平和は――今度こそ、本当に終わりを告げたのだ。
王宮の最深部。 人の立ち入りが固く禁じられた『神託の泉』へと続く回廊の入り口で。 聖女シルフィーユは、唐突に糸の切れた操(あやつ)り人形のように、冷たい石畳へ崩れ落ちた。

シルフィーユ:「……あ、あぁ……ッ」
侍女:「聖女様!?」
控えていた若い侍女が、悲鳴を上げて駆け寄る。 慌ててシルフィーユの肩を抱き起こした。
侍女:「しっかりしてください! 聖女様!」
シルフィーユ:「……だい、じょうぶ……」
侍女:「大丈夫なわけありません!」
細く震える身体(からだ)を支えながら、侍女は涙を滲(にじ)ませた。 彼女は単なる世話係ではない。 いずれシルフィーユの跡を継ぐことになる――『次期聖女候補』であった。
侍女:「お顔が真っ青です……。 医師を呼びます。 すぐに――」
シルフィーユ:「だめ……」
侍女:「ですが!」
シルフィーユ:「……医師では、どうにもならないの」
シルフィーユの細い喉(のど)から、ひゅっと空気が漏れる。 痛い。 熱い。 息ができない。 王国の結界――その巨大な『システム』を逆流して、信じられないほどの絶望がシルフィーユの脳髄へと直接流れ込んできていた。
引き裂かれる衣服。 巨大な腕に掴(つか)み上げられる、純粋な恐怖。 助けようとした者が目の前で肉塊へと変えられる、耐え難い喪失。 ――それらのどす黒い負の感情を際限なく吸い上げ、魔力を膨張させていく異形の悪魔(バグ)たち。
シルフィーユ:「……っ」
シルフィーユの身体が大きく跳ねた。

侍女:「聖女様……?」
シルフィーユ:「聞こえるの……」
侍女:「何が……?」
シルフィーユ:「みんなの声が……」
涙が、青白い頬(ほお)を伝い落ちる。
シルフィーユ:「怖いって……助けてって……」
侍女の顔からも血の気が引いた。
侍女:「……王都の、声ですか?」
シルフィーユ:「うん……」
シルフィーユは苦しげに頷(うなず)いた。
シルフィーユ:「そこにいるみんなが……今、死にそうになってる」
侍女:「ですが、もう王国軍が動いております! 時間を稼げば――」
シルフィーユ:「時間がないの!」
初めて、シルフィーユの声が鋭く響く。 侍女が息を呑(の)んだ。
シルフィーユ:「恐怖を喰(く)らってる……あの化け物(バグ)たち」
シルフィーユは震える両手で頭を抱え込んだ。

シルフィーユ:「怖がれば怖がるほど……強くなる。 助けようとした人まで殺されれば、その分だけ、もっと……だから……軍の到着を待っていたら、間に合わない」
シルフィーユは縋(すが)るようにして身体を起こした。 目の前には、神託の泉へと続く扉がある。
侍女:「聖女様!」
侍女が腕を掴(つか)んだ。
侍女:「いけません! これ以上、結界に干渉すれば――」
侍女の声が震える。
侍女:「お命が……!」
その言葉に、シルフィーユは僅(わず)かに目を閉じた。
シルフィーユ:「……分かってる」
小さく答え、震えながらも神託の泉へ向き直る。

シルフィーユ:「私(わたし)がここにいる間に」
一歩。
シルフィーユ:「誰かが死ぬのを、何もせずに見ている方が……ずっと怖い」
泉の縁で、シルフィーユの足が止まった。 『神託の泉』――神と繋がるための、絶対的な聖域。 選ばれた正当な聖女以外は、一歩たりとも中へ入ることを許されない。
侍女:「聖女様……戻ってきてください」
侍女が震える声で懇願する。 シルフィーユは振り返った。 泣きそうな侍女に、ほんの少しだけ微笑(ほほえ)む。
シルフィーユ:「……あなたまで泣かないで」
侍女:「だって……」
シルフィーユ:「大丈夫」
自分でも信じられないほど、弱々しい笑顔だった。
シルフィーユ:「……たぶん」
侍女:「それ、大丈夫って言ってません……」
シルフィーユ:「ふふ……そうだね」
ほんの一瞬だけ、いつもの少女らしい笑みが戻る。 そして――。 シルフィーユは震える手で、纏(まと)っていた純白の法衣の帯を解いた。

侍女:「……聖女様」
侍女が息を呑(の)む。 衣を纏ったままでは、神意に触れることはできない。 『穢(けが)れなきその身一つで入らなければならない』――初代から続く、絶対の掟(プロトコル)。 滑り落ちた衣が、石畳の上へ静かに重なった。
シルフィーユは躊躇(ためら)うことなく、その身一つで、氷のように冷たい泉の奥深くへと足を踏み入れる。
シルフィーユ:「……冷たい」
唇が僅(わず)かに震えた。 だが、それでも進むのだ。 泉の中央。 白石の女神像を見上げる。 慈愛に満ちた表情、静かに閉じられた瞳、すべてを受け入れるように添えられた両手。 シルフィーユはその前で、両手を胸の前に固く組んだ。
シルフィーユ:「女神様……お願いします」
一度、目を閉じる。
シルフィーユ:「どうか……もう少しだけ、私(わたし)に力をください」
そして。 精神の奥底で、自分自身に掛けられていた安全装置――命を守るためのリミッターを、完全に引き剥(は)がした。

ドクン。 心臓が、異様な音を立てる。
シルフィーユ:「――させません」
全身を熱した鉛が駆け巡るような激痛が走った。
シルフィーユ:「誰も……」
命の残量が、砂時計を叩(たた)き割ったかのような勢いで泉のシステムへと吸い出されていく。
シルフィーユ:「この国では――誰も……死なせませんッ!」
――ドクンッ!!
瞬間。 神託の泉から、光の奔流(ほんりゅう)が爆発的に迸(ほとばし)る。 王宮の地下から地上へ。 王都全域へ。 加護の奔流が、まるで巨大な神経網のように四方へ走り抜けていった。
次の瞬間。 王都アルカディアの上空を突き破り、無数の『光の花びら』が、猛吹雪のように舞い降りる。

◇
ルシウス:「……また、始まったか」
王城の作戦司令室。 軍への出撃命令を下していたルシウス国王は、窓の外で降り注ぎ始めた光の花びらを見つめていた。
将校:「陛下?」
傍(かたわ)らにいた将校が声を掛ける。 ルシウスは答えなかった。 ただ、強く拳(こぶし)を握る。
ギリッ。 爪が掌(てのひら)へ食い込み、血が滲(にじ)んだ。
ルシウス:「あれが……ただの美しい奇跡ではないことくらい、分かっている」
国王の声が、抑えきれぬ怒りに微(かす)かに震えた。
ルシウス:「あれは、十八歳の少女が……暗い地下の底で、自分の命を削って流している血そのものだ」
将校が痛ましげに目を伏せる。

将校:「しかし、聖女様がいなければ――」
ルシウス:「分かっている!」
思わず声を荒らげた。 室内にいた者たちが一斉に沈黙する。 ルシウスは目を閉じた。
ルシウス:「……分かっている。 だから、余計に腹が立つ」
拳を握り直す。
ルシウス:「結局、我々は……またあの娘の命に縋(すが)るしかできないというのか」
為政者としての強烈な無力感と苦悩が、その巨躯(きょく)を震わせていた。
ルシウス:「守ると約束しておきながら……守られているのは、我々の方ではないか」
誰も答えられなかった。
◇
それは、美しかった。 朝の光に照らされて輝く、無数の白い花。 誰が見ても、奇跡だった。

――けれど。 その奇跡の一枚一枚に、一人の少女の命が確実に削り込まれていたのだ。
光の花びらを浴びたアークデーモンたちの動きが、突如として鈍る。
アークデーモン:「……グ、ォ……?」
巨体が不自然に揺れた。 魔力の奔流が乱れ、翼の動きが重くなる。 再生能力が目に見えて低下し、魔法の発動にも明確な遅延(ラグ)が生まれていた。 まるで、見えない泥沼に足を踏み入れたようだった。
兵士:「……何だ?」
兵士の一人が呆然(ぼうぜん)と呟(つぶ)く。
兵士:「動きが……! 弱ってる……!」
兵士:「今なら、いける!」
絶望に染まっていた王国軍の兵士たちが、一斉に顔を上げた。 希望が、ほんの僅(わず)かに灯(とも)る。 その一方で――。

◇
シルフィーユ:「げほっ……がはっ……!」
地下の泉。 シルフィーユは、冷たい水面へ真っ赤な血を吐き出していた。
侍女:「聖女様!」
侍女が泉の縁から悲鳴を上げる。
侍女:「もうやめてください!」
だが――泉へ踏み入ることはできない。 神託の泉は、今も彼女以外の肉体を頑(かたく)なに拒絶していた。
侍女:「これ以上は……! 死んでしまいます!」
侍女の声が涙に濡れる。 シルフィーユは答えなかった。 限界を超えた過負荷(オーバークロック)――体内から命が凄まじい勢いで欠落していく。 視界が赤く染まる。 耳鳴りがする。 意識が泥のように混濁し始めていた。
シルフィーユ:「……痛い」
小さく呟(つぶ)く。

シルフィーユ:「……苦しい」
それでも。 祈りの姿勢だけは決して崩さなかった。
侍女:「聖女様……お願いです……」
侍女が泣きながら手を伸ばす。
侍女:「もう十分です。 あとは軍に任せれば――」
シルフィーユ:「……だめ」
弱々しい声だった。
シルフィーユ:「まだ……消えてないから。 花びらが……まだ、街にある」
シルフィーユは遠い場所を見るように、ゆっくりと目を細めた。
シルフィーユ:「だったら……私も、まだ……」
そこで、一度言葉が途切れる。 呼吸をするだけでも喉が焼けるように苦しい。 今すぐ祈りをやめて、倒れ込んでしまいたい。 本当は逃げたい。 怖い。 死にたくない――。

けれど。 ここで自分が倒れれば、あの花びらは消える。 動きを取り戻した悪魔たちは、再び人々の柔らかな肉体を、その尊厳ごと引き裂くだろう。
シルフィーユ:「……あ……ぁ……」
シルフィーユは血で赤く染まった泉の中で、ただひたすらに祈りの姿勢を崩さなかった。
シルフィーユ:「私が……持っているうちは……」
激しく咳(せ)き込み、その先の言葉をどうにか絞り出す。
シルフィーユ:「絶対に……っ、守る」
祈り続ける。 命が削れる。 血が流れる。 それでも、加護は消えない。 それは、文字通りの『命の削り合い』だった。 彼女の心臓が限界を迎えて停止するのが先か。 それとも。 王国の軍隊が、悪魔を討ち果たすのが先か。
戦場には今――決して後戻りのできない、絶対的なタイムリミットが刻み込まれていた。

燃え盛る王都アルカディアを、遥(はる)か高みから見下ろす男がいた。 王都のへそに聳(そび)える大時計塔の頂。 そこは、地上で渦巻く阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄から完全に切り離された、絶対的な静寂と俯瞰(ふかん)の特等席であった。
眼下では紅蓮(ぐれん)の炎が建物を舐(な)め尽くし、逃げ惑う人々の悲鳴が毛細血管のような街路を埋め尽くしている。 王国兵たちは血を吐くような怒号を飛ばし、傷ついた戦友を引きずりながら、必死の形相で防衛線を組み直そうと足掻(あが)いていた。 しかし。 この雲を突く高楼まで届くのは、硝煙を孕(はら)んだ微(かす)かな風の音だけだ。
教皇直属戦場監察官にして、《白銀の楔(くさび)》王都攻略作戦・地上戦域統括。 グレゴール・ヴァイス。 彼は、足元で繰り広げられる無惨(むざん)な光景に一瞥(いちべつ)をくれることもなく、手中の魔導具《戦場盤》のみを冷徹に見つめていた。
カチリ、と指先が触れる。 虚空へ立体投影された王都の地図が、冷ややかに明滅した。 赤い光点はアークデーモン。 青い光点は王国軍。 黄色は無力な民間人――さらには、無数の細かな光線が、避難経路、部隊の移動ベクトル、魔力波形、結界の強度変動までをリアルタイムで描き出している。 王都という巨大な国家の心臓部が、彼の掌(てのひら)の上で、完全な一枚のチェス盤と化していた。
通信兵:「北区画、第四防衛線が後退!」
通信兵:「中央市場より救援要請! 民間人の避難が遅れています!」
通信兵:「東門、王国軍第二中隊が到着!」
通信兵:「南区画でも交戦開始! ……アークデーモン、なお健在!」
背後に控える通信兵たちから、悲鳴にも似た報告が次々と飛んでくる。 だが、グレゴールは微動だにしない。 それどころか――。

グレゴール:「……ふふ」
ほんの僅(わず)かに、その薄い唇が弧を描いた。
副官:「何か、ございましたか?」
副官が恐る恐る尋ねる。
グレゴール:「ええ」
グレゴールは戦場盤の上に蠢(うごめ)く青い光点を眺めながら、機嫌良さげに答えた。
グレゴール:「予定よりもずっと、人間らしい動きをしていますね」
副官:「……人間らしい?」
グレゴール:「はい」
指先が空間を滑り、一つの戦域を拡大する。 東区画。 そこでは青い光点――王国兵が整然とした隊列を崩し、蜘蛛(くも)の子を散らすように細い路地へと散開していた。
グレゴール:「本来の教本通りなら、第三小隊はこの大通りを北へ進み、アークデーモンの側面を突くはずでした」
副官:「ですが……動いていませんね」
グレゴール:「その通りです」
グレゴールの灰青色の瞳(ひとみ)が、愉悦(ゆえつ)に細められる。

グレゴール:「彼らは軍事的な最適解を捨て、目の前で蹂躙(じゅうりん)される者たちを助けることを選んだ」
戦場盤では、悲鳴を上げる黄色い光点――市民の群れに吸い寄せられるように、青い光点が次々と本来の防衛線を放棄していた。 副官が息を呑(の)み、沈黙する。 グレゴールは、連鎖的に崩壊していく陣形の流れを、指先で楽しげに追っていた。
グレゴール:「第一小隊、五名離脱。 第二小隊、三名。 第三小隊……十四名」
副官:「そんなに……」
グレゴール:「ええ」
グレゴールの口元が、明確な嘲笑(ちょうしょう)を形作る。
グレゴール:「たった一つの無力な命を救うために、十四人もの兵士が持ち場を捨てた」
副官:「しかし、それは王国の兵士として当然の行動では?」
グレゴール:「ええ、その通りです」
グレゴールは鷹揚(おうよう)に頷(うなず)いた。
グレゴール:「彼らは人として極めて正しい。 ……だからこそ、面白い」
副官の顔が強張(こわば)る。
グレゴール:「人間は、正しいことを選べる。 ですが――正しいことが、戦場における正解とは限らない」
戦場盤の上で。 青い光点が一つ、防衛の予定線から逸(そ)れる。 そしてまた一つ、さらに一つ。 強固だったはずの王国軍の防衛線が、蟻(あり)の穴から堤が崩れるように、少しずつ瓦解(がかい)していった。

グレゴール:「人間は強い」
グレゴールは歌うように呟(つぶ)く。
グレゴール:「誰かを守るためなら、自分の命すら惜しまない。 ならば、その『守りたいもの』を無数に増やしてあげればいい」
その声音には、怒りも憎悪も、他者を貶(おとし)めるような嗜虐心(しぎゃくしん)すらなかった。 ただ、シャーレの上で蠢(うごめ)く細菌を観察する学者のような、純粋で無機質な知的好奇心だけが満ちている。 グレゴールの指先が、戦場盤を優雅に滑った。
グレゴール:「一人を傷つければ、十人が動く。 十人を動かせば、百人の陣形が瓦解する」
彼はうっとりと、盤上の光点を見つめた。
グレゴール:「たった数名の女性を餌(えさ)として盤上に晒(さら)しただけで、強固な軍隊が自ら機能不全に陥ってくれた。 ……素晴らしい費用対効果です」
副官が蒼白(そうはく)な顔で言葉を継ぐ。
副官:「その混乱が……我々の本命部隊を、通しやすくするのですね」
グレゴール:「ご明察です」
グレゴールは満足げに頷(うなず)いた。

そのとき。
通信:『北区画より報告!』
通信魔道具から、切迫した声が弾(はじ)けた。
通信:『アークデーモン一体、損耗率80パーセント! 聖女の加護の影響で動きが著しく鈍化しています!』
通信:「王国軍が総攻撃を開始!」
通信:『押し切れます!』
ノイズの向こうから、王国兵たちの決死の怒号が響く。
通信:『――アークデーモン、一体撃破!』
報告が入った瞬間、王国側の青い光点が一斉に前線を押し上げる。 ほんの僅(わず)か、ほんの一瞬だけ。 泥沼の戦場に、鮮烈な希望が生まれた。 だが、グレゴールはその光景を、ただ冷ややかに見下ろしていた。
グレゴール:「……一体、撃破」
副官が安堵したように息を吐く。

副官:「これで少しは戦線を立て直せ――」
グレゴール:「まだです」
副官:「え?」
グレゴールが、告げた。
グレゴール:「彼らは、今から『もう一度』戦うことになる」
副官:「……もう一度?」
副官が顔を上げた、その瞬間。 戦場盤から消滅したはずの赤い光点が、ドロリと黒く染まり、再び脈打ち始める。
副官:「……何です、あれは」
現場からの映像が、通信球に投影された。 倒れ伏したアークデーモンの死骸。 その割れた胸部から、コールタールのような黒い魔力が間欠泉の如(ごと)く噴き出している。 それは地面へ這(は)い広がり、血の海と混ざり合い、石畳の隙間(すきま)へとぬるりと潜り込んでいく。 そして、その汚泥の中心に、禍々(まがまが)しい血色の魔法陣が浮かび上がった。
兵士:「後退しろ!」
兵士:「死体から離れろ!」
兵士:「魔力反応、急上昇!」
王国兵たちの、絶望に満ちた叫び声。 直後――。
――ズォンッ!
黒い魔法陣が炸裂(さくれつ)した。 弾け飛んだ肉片と魔力の中から、新たな異形の悪魔が這い出してくる。 一体。 二体。 三体。 さらに数体。 まるで、打ち倒された巨大悪魔の『死』そのものが、次の災厄を産み落とす悍(おぞ)ましい母胎であったかのように。

副官:「な……っ」
副官が絶句し、顔面を蒼白(そうはく)に染める。 グレゴールは、驚くそぶりすら見せなかった。
グレゴール:「当然でしょう」
副官:「……当然?」
グレゴール:「アークデーモンは、単なる巨大な的(まと)ではありませんから」
戦場盤に、新たな赤い光点が次々と増殖していく。
グレゴール:「契約した悪魔の力を限界まで蓄え、それが一気に解放されて消滅した場合、その残存魔力と肉体を苗床にして下位の悪魔を複数再召喚する機構(システム)が組み込まれているのです」
副官:「つまり……一体倒しても、戦いが終わるわけではないと?」
グレゴール:「ええ」
グレゴールの指先が、増殖した赤い光点を愛おしげになぞった。
グレゴール:「むしろ、苦労して倒したその絶望の瞬間こそ、戦場が最も美しく乱れる」
副官が震える息を呑(の)む。
副官:「……それを、最初から計算して……? しかし、この方法では貴重なアークデーモンが完全に失われてしまいますが……」
グレゴール:「消耗品です」
グレゴールはあっさりと、酷薄に言い切った。

グレゴール:「だから、何でしょう? 40体すべてを失っても構わない。 我々が必要としているのは、悪魔の生存や戦果の拡大ではないのです」
灰青色の瞳(ひとみ)が、王都の地下――王立魔法学園の座標を真っ直ぐに見据える。
グレゴール:「王国軍が、どれだけの兵力を一つの局地戦へ投入し、釘付けになるか。 一体のアークデーモンを倒すために、十二人が動いた」
副官:「……」
グレゴール:「その十二人が、次に這い出してきた複数の悪魔を倒すために足止めを喰(く)らう。 その間、他の区画の兵士は誰も増援へ向けない。 そして別の区画では、また無力な者が襲われ、さらなる兵力が吸い寄せられるのだ」
副官の顔が引きつり、痙攣(けいれん)する。
副官:「……まさか、王都全域でこれを……?」
グレゴール:「ええ」
グレゴールは頷(うなず)いた。
グレゴール:「最初から、こうなるよう盤面を設計しています」
王都の北で一体、東で二体、中央で三体――倒されるたびに新たな魔法陣が展開し、赤い点が増殖していく。 青い点が散り散りになり、黄色い点が逃げ惑う。 そのすべてが、彼の掌(てのひら)の上で同時に、完璧な破滅の円舞曲(ロンド)を踊っていた。
グレゴール:「これが戦争というものです」
グレゴールは恍惚(こうこつ)と呟(つぶ)く。

グレゴール:「敵を倒すことだけが戦果ではない。 その敵を倒すために、何人の人間を動かしたか。 どれだけの時間を使わせたか。 何を守らせ、何を捨てさせたか。 そして――どれだけ多くの選択肢を、相手から奪い取ったかです」
グレゴールの瞳に、暗い愉悦(ゆえつ)の輝きが宿る。 それは、自分の組み上げた悪魔の数式(プログラム)通りに盤上の人間たちが踊り狂うことだけを、何よりも愛おしく楽しんでいるかのような、異常な熱量であった。
グレゴール:「人間という生き物は……本当に素晴らしい」
くくっ、と喉(のど)の奥で笑った。
グレゴール:「単なる命令だけでは、こんなにも美しくは動きません」
王国兵が傷ついた仲間を救う。 市民を守る。 泣いている子どもの手を引く。 逃げ遅れた者の盾になる。 悪を憎み、恐怖し、怒る。 その崇高で泥臭い感情のすべてが、戦場盤の上では、ただの『光点の移動ベクトル』へと変換されていくのだ。
グレゴール:「だから私は――」
グレゴールが、燃え盛る王都全域を支配者の眼差しで見下ろした。
グレゴール:「彼らの『美徳』を利用して、自ら進んで盤上の駒になってもらうのです」
背後に立つ副官は、恐怖で喉が引き攣(つ)り、もう何も言えなかった。 この男にとっては、命を懸ける兵士も、無辜(むこ)の市民も、祈る聖女も、使役する悪魔さえも、すべては盤上に置かれた無機質な駒でしかない。 いや、それ以上に恐ろしいのは――駒が必死に足掻(あが)き、感情を爆発させる瞬間を、彼が心の底から 「極上の歓楽(エンターテインメント)」 として楽しんでいることだった。

狂っているのではない。 彼には、自分が正気ではないという認識すら欠落している。 ただ根本的に、人間を人間として見る機能が備わっていないだけだった。
通信兵:「……監察官」
通信兵が震える声で報告を上げる。
通信:『東区画、王国軍第三中隊が市民救助のため戦線を離脱!』
グレゴール:「記録してください」
通信:『中央市場、倒されたアークデーモンが新たな悪魔群を召喚!』
グレゴール:「そのまま推移を見守りなさい」
通信:『北門、王国軍が驚異的な粘りで押し返しています!』
グレゴール:「構いません」
通信:『ですが、敵の一体を完全に撃破したことで、余波が――』
グレゴール:「すべて、理解しています」
グレゴールは、戦場盤の中央へ恍惚とした視線を落とす。 無数の光点。 際限なく増殖する赤。 局地戦に分散しすり減っていく青。 絶望に逃げ惑う黄色。 そして――その悲惨な盤面全体を覆うように、猛吹雪のように広がり続ける美しい白い光。 聖女の命を削った加護。
グレゴール:「……さあ」
グレゴール・ヴァイス。 盤上の死神は、ゆっくりと空中に次の駒を動かす仕草をした。
グレゴール:「もっと守ってください」
その声は、現出している地獄を眺める者のものとは到底思えぬほど、優しく穏やかだった。

グレゴール:「もっと救って、己の命を削ってください」
空を滑る指先が、ピタリと止まる。
グレゴール:「そして――」
灰青色の瞳が、狂おしいほど静かに、残酷に細められた。
グレゴール:「その尊い優しさが、あなたたち自身を完全に殺し尽くすまで。 ……たっぷりと、付き合っていただきましょう」
王都のどこかで、また鼓膜を破るような爆発が起きた。 赤い光点が増殖し、青い光点が散り散りになる。 絶望の戦場は、際限なく広がっていく。 そして――そのすべてを絶対的な高みから見下ろしながら、死神はただただ優雅に微笑み続けていた。
王国軍・作戦司令室。 そこは今や、怒号と悲鳴に近い報告が絶え間なく飛び交う惨状と化していた。
伝令:「東区画、第三中隊が市民救助のため戦線を離脱!」
伝令:「南区画、アークデーモン一体撃破! ……しかし、死骸から悪魔が多数出現! 第一小隊が孤立しました!」
伝令:「中央市場、避難路が絶たれました! 女子供が取り残されています!」
伝令:「西区画の魔導施設、結界出力が40パーセントを下回りました!」
伝令:「北門から救援要請! 第二大隊だけでは抑えきれません!」
次々と積み上がる絶望的な報告。 一つが終わる前に、次が来る。 作戦司令室の中央に置かれた巨大な王都地図には、無数の駒が並んでいた。 赤はアークデーモン、青は王国軍、黄色は避難中の市民。 その光点が、軍事の常識を覆すほど異常な速度で移動している。

隊長は、全身の血の気が引く思いで盤面を見つめていた。 最悪だった。 いや、最悪という言葉すら生温(なまぬる)い。
隊長:「なぜだ……」
隊長は、ギリッと奥歯を噛(か)み締めた。
隊長:「なぜ奴(やつ)らは、わざわざこんな『効率の悪い』戦い方をする!?」
副官が答えようとする。 だが、その前に別の伝令が声を上げた。
伝令:「南区画より報告! アークデーモンを撃破した直後、別種の悪魔が五体出現! 現在、第二小隊が交戦中!」
隊長:「……またか」
隊長が拳(こぶし)を握り込む。 軍の重要施設を直接叩(たた)いているわけではない。 王宮を狙っているわけでもない。 それなのに、王都の防衛線だけが、見る見るうちに崩れていく。
隊長:「敵は……何を狙っている?」
副官:「分かりません」
副官が苦々しく答えた。

副官:「ですが、明らかに人間を『選んで』攻撃しています。 アークデーモンが、軍施設や防衛陣地よりも、市民……特に若い女性を優先して狙っているのです」
隊長の眉間(みけん)に深い皺(しわ)が刻まれた。
隊長:「……なぜだ」
副官:「理由は分かりません。 ただ、そのせいで――」
副官が、震える指で別の光点を示した。 そこには、予定進路から外れていく青い光点がある。
副官:「王国兵が、次々と持ち場を離れています。 東区画の第五中隊、隊列を崩しました! 中央市場でも同じです! 北門の一部兵力まで救助へ回っています!」
隊長は言葉を失った。 その理由は、痛いほど分かっていた。 目の前で人が襲われている。 泣き叫ぶ子どもがいる。 逃げ遅れた女性がいる。 助けを求める市民がいる――それを見捨てろと命じることなど、この国の兵士たちにできるはずがないのだ。
副官:「……隊長」
副官が、躊躇(ためら)いがちに口を開く。
副官:「軍事的な合理性だけを考えるのであれば、一部の市民を見捨ててでも防衛線を再構築すべきです。 このままでは各個撃破されます」
隊長:「……分かっている」
副官:「隊長!」
隊長:「分かっている!!」
隊長の怒声が室内へ響き渡った。 だが、その残響はすぐに消える。 自分自身でも、痛いほど理解しているのだ。 もっと冷酷な命令を出せば、戦線は整えられる。 市民を見捨てれば、兵士は本来の持ち場へ戻せる。 そして一箇所に戦力を集中させれば、アークデーモンを倒せる可能性も上がる。 戦争としてはそれが正しい。

だが――。
隊長:「……できるか」
隊長が、血を吐くようにぽつりと呟(つぶ)いた。
隊長:「目の前で泣き叫んでいる子どもを見捨てろと……俺たちが命令できるか?」
誰も答えられなかった。 遠くから、また重低音の爆発が響く。 地図上の赤い光点が一つ、別の区画へ移動した。 その直後、青い光点が複数、それを追って蠢(うごめ)く。
隊長は痛ましげに目を閉じた。
隊長:「……陣形を崩しても構わん」
副官:「隊長!?」
隊長:「孤立した部隊を援護しろ。 市民を一人でも多く救え」
円卓に手をつき、声を絞り出す。

隊長:「俺だって分かっているんだ! このままでは、全員が死ぬ! ……それでも、目の前で助けを求めている人間を見捨てるくらいなら、俺たちは何のために剣を持っているのだ!」
副官:「……了解!」
副官が決死の覚悟で敬礼する。
副官:「各部隊へ伝達! 孤立部隊の救援を最優先! 市民の避難路を確保しろ!」
伝令兵たちが一斉に動き出した。 その背中を見ながら、隊長はギリッと歯を食いしばる。 正しいか、間違っているか――そのどちらでもない。 ただ、目の前にいる人間を助ける。 それが、この国の兵士たちに染みついた習慣(プログラム)だった。 そして今、その美徳こそが、敵に最も深く利用されている。 正義を貫こうとすればするほど、敵の用意した最悪の罠(わな)へ深く沈んでいく。 まるで、見えざる何者かに首根っこを掴(つか)まれているかのように。
◇
同じ頃。 王立魔法学園の地上部。 誰もいない静まり返った回廊で、エメラルディア・アウレリア――ティアは、窓の外の戦火をじっと見つめていた。 燃え上がる空。 街中へ降り注ぐ聖女の光。 そして、王都の至る所で明滅する魔力の爆発。 その一つ一つが、まるで赤い傷口のように王都を蝕(むしば)んでいる。
カトリーヌ:「……ひどい有様ですね」
隣に立つ王宮調査団長カトリーヌが、苦々しい声で呟(つぶ)いた。
カトリーヌ:「王国軍が、完全に後手に回っています。 兵力が分散しすぎている」
ティア:「違いますよ、カトリーヌ」
ティアは、窓ガラスへ触れるほど顔を近づけたまま答える。

ティア:「分散しているんじゃない」
翠(みどり)色の瞳(ひとみ)が、王都全域を冷徹に捉えた。
ティア:「――させられているんです」
カトリーヌ:「……させられている?」
ティア:「はい」
ティアの細い指先が、窓ガラスの向こうをなぞった。 北、東、南、中央――無数の魔力反応。 その動きが、彼女の脳内で一つの巨大な数式(プログラム)へと変換されていく。
ティア:「アークデーモンの配置」
指が東を示す。
ティア:「その魔力反応」
南。
ティア:「王国軍の移動速度」
北。

ティア:「それから――新たに発生している下位悪魔の出現地点」
中央。 一つ、また一つ。 彼女の脳内で、戦場のすべての事象が滑らかに繋(つな)がっていった。
ティア:「……おかしいですね」
カトリーヌ:「何がですか?」
ティア:「無駄がなさすぎます」
ティアは、僅(わず)かに眉(まゆ)を寄せた。
ティア:「悪魔が本能だけで暴れているなら、もっと魔力の分布にムラが出るはずです。 でも……今の王都は、綺麗(きれい)すぎる」
カトリーヌ:「綺麗?」
ティア:「はい。 攻撃地点が重なっていない。 全部、別の場所へ王国軍を誘導するために配置されている」
淡々と、戦場の真理を読み解いていく。
ティア:「一つの戦場で兵士が集まりすぎると、別の区画へ攻撃を移す。 そこで兵士が救助へ向かえば、また別の場所へ悪魔を動かす。 アークデーモン一体を倒しても終わらない。 死骸から別の悪魔が出現するから……」
ティアの声が、少しずつ低くなった。
ティア:「だから、王国軍は『敵を倒す』という行動さえ、戦力消耗に変えられているのです」
カトリーヌが息を呑(の)む。

カトリーヌ:「……最初から?」
ティア:「ええ。 全部、計算されています」
その言葉に、カトリーヌの表情が強張(こわば)った。
カトリーヌ:「指揮官がいる、と?」
ティア:「ええ」
カトリーヌ:「どこに?」
ティア:「分かりません」
ティアは素直に答えた。
ティア:「でも、いるはずです。 悪魔だけなら、こんな動きはしません。 誰かが、人間の反応を見ながら次の手を決めている」
カトリーヌ:「……人間の反応を?」
ティア:「はい」
窓の外。 一人の王国兵が、倒れた女性を抱き起こしている。 別の兵士が、その兵士を援護するために隊列を離れる。 さらにその二人を守るため、もう一人が動く。 たった一つの救助行動が、少しずつ戦列を崩していく。 ティアは、それを見つめていた。
ティア:「人間の『感情』を、盤上の計算式に入れている。 ……だから、王国軍は勝てません」
カトリーヌ:「……勝てない?」
ティア:「今のままなら、です」
ティアは小さく訂正した。
ティア:「彼らは優しすぎますから。 誰かを助けようとすると、別の誰かを助けられなくなる。 それでも目の前の人を見捨てられない。 そこを、全部利用されている」
カトリーヌは怒りで拳(こぶし)を握った。

カトリーヌ:「……どこかの高い場所から、この王都全体をゲーム盤みたいに見下ろしているはずですね」
ティア:「そうですね」
ティアが空を見上げる。
ティア:「たぶん、とても楽しそうに」
カトリーヌ:「楽しそうに……?」
ティア:「はい」
ティアは、心底不愉快だというように僅(わず)かに顔を顰(しか)めた。
ティア:「そういう人、嫌いです。 私(わたし)だって、嫌いなものくらいありますよ」
ほんの一瞬。 いつもの気怠(けだる)げな少女らしい表情が戻る。 だが、すぐにその瞳(ひとみ)は再び戦場へ向いた。
ティア:「……カトリーヌ。 私たちも出ますか」
カトリーヌが腰の剣柄へ手を掛ける。
カトリーヌ:「もちろんです。 でも、地下には……」
ティア:「地下は放っておきましょう。 あそこには、私たちよりずっと過剰で、凶悪な防衛力が揃(そろ)っていますから」
それに――と、ティアは空を見上げた。 降り注ぐ光の花びら。 王都全域を覆う、聖女の加護。 それは美しい。 けれど、その向こう側にあるものまで、彼女には見えていた。

ティア:「この光……聖女様、無理しすぎです」
カトリーヌ:「分かるのですか?」
ティア:「魔力の流れを見れば、だいたい」
ティアは、降り注ぐ光を目で追った。
ティア:「今の出力を維持し続けたら……長くは持ちませんよ」
カトリーヌの顔が強張(こわば)る。
カトリーヌ:「そんな……」
ティア:「だから。 今は、地上をなんとかするのが先です」
ティアが窓から離れ、歩き始める。 その背中を、カトリーヌが追った。
カトリーヌ:「敵の指揮官を探しますか?」
ティア:「後回しです」
カトリーヌ:「では?」
ティア:「まずは、王国軍がこれ以上壊れないようにします」
そして――ティアは振り返った。 その翠色の瞳には、すでに戦場の因果関係を解き明かす、冷たい光が宿っている。
ティア:「人間の感情を利用する計算式(プログラム)なんて」
一拍。

ティア:「私(わたし)が、全部書き換えてあげます」
カトリーヌが、ほんの僅(わず)かに笑った。
カトリーヌ:「……頼りにしていますよ、天才魔導師」
ティア:「その呼び方、嫌いなんですけど」
カトリーヌ:「知っています」
ティア:「……じゃあ言わないでください」
カトリーヌ:「善処します」
ティア:「絶対、言うつもりですね」
二人の足音が、静かな回廊へ響く。 窓の外では、今日も王都が燃えていた。 泣き叫ぶ人々。 剣を握る兵士。 命を削って祈る聖女。 そして、そのすべてを盤上から見下ろす死神。
王国の誇る最強の盾と、千年に一人の天才。 二人は今。 盤上の死神が支配する地獄へ、足を踏み入れた。
――戦争は、まだ始まったばかりだった。
大時計塔の屋上。 王都アルカディアが、炎と絶望の海へと沈んでいく。 至る所から黒煙が立ち上り、血に染まった街路を逃げ惑う人々の群れが、まるで小さな蟻(あり)のように蠢(うごめ)いていた。 鳴り響く警鐘。 兵士たちの血を吐くような怒号。 遠くで轟(とどろ)く魔力の爆発音。

それらすべてを、グレゴール・ヴァイスは遥(はる)か高所から見下ろしている。 手の中には、小さな通信魔道具。
カチリ、と指先に魔力を通した。
ペテルギウス:『……状況は』
ノイズ混じりの通信の向こうから、ペテルギウスの冷たい声が響く。
グレゴール:「予定通りです」
グレゴールは、手元の《戦場盤》へ視線を落とした。 立体投影された王都の上で、無数の光点が動いている。 赤――《白銀の楔(くさび)》が放った悪魔。 青――王国軍。 黄色――逃走、あるいは避難中の市民。 そして、それらの動きを示す無数の計算線。 時間、距離、兵力、損耗、避難経路――すべてが数字へ変換され、淡々と盤上へ積み上げられていく。
グレゴール:「第一段階(フェーズ・ワン)――完了しました」
グレゴールは言った。

グレゴール:「王国軍の主力、特務部隊、ならびに王宮の戦力。 そのほぼすべてが、完全に地上へ釘付けにされています」
通信の向こうから、短い沈黙が返ってきた。
ペテルギウス:『……損耗は?』
グレゴール:「想定範囲内です」
グレゴールが指先を動かすと、戦場盤の端に新しい数値が浮かび上がる。
グレゴール:「地上部隊の一部に損耗がありますが、問題ありません。 むしろ彼らが自ら戦力を消費してくれたことで、王国側の動線がさらに単純化しています」
ペテルギウス:『地下への援軍は?』
グレゴール:「ありません」
即答だった。
グレゴール:「現時点で、王立魔法学園地下へ向かえる遊休戦力は存在しません」
ペテルギウス:『王国軍がこちらの真の狙いに気づいていないと?』
グレゴール:「ええ」
グレゴールの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
グレゴール:「気づいていたとしても、彼らは動けないでしょう」
ペテルギウス:『……なるほど』
グレゴール:「人間というものは、目の前で惨たらしく助けを求める者を見捨てられない生き物ですからね」
グレゴールは、盤上の青い光点を指先でなぞった。

グレゴール:「東区画から中央市場へ移動。 中央市場から北門へ。 北門から負傷兵の救助へ……」
光点が次々と動いていく。
グレゴール:「どれも、人としては極めて正しい判断です。 だからこそ――地下には永遠に届かない」
ペテルギウス:『……』
ペテルギウスは何も言わなかった。 グレゴールは、燃え盛る王都全体を見下ろす。 その景色には、炎がある。 悲鳴がある。 死体がある。 必死に誰かを助けようと泥まみれで走る兵士たちの姿がある。 それなのに、彼の灰青色の瞳(ひとみ)にあるのは、妙に穏やかで無機質な光だけだった。
グレゴール:「盤面は整いました」
静かに――まるで朝の書類の確認を終えるように。
グレゴール:「――対象の確保を」
ペテルギウス:『ご苦労』
短い労(ねぎら)いの言葉。 それだけで、通信が途絶えた。 カチリ、とグレゴールは魔道具の出力を切り、懐へしまう。 再び《戦場盤》を見た。 王国軍の青い光点が、まだ必死に動いている。 誰かを助けるために。 誰かを守るために。 その一つ一つの尊い動きを、ただ穏やかに眺めながら――。
グレゴール:「……さて」
グレゴールは小さく笑った。

グレゴール:「地上戦線《こちら》は……もう少しだけ、私のために楽しませてもらいましょうか」
王都のどこかで、また大きな爆発が起こる。 戦場盤に赤い光が一つ増えた。 グレゴールはそれを見て、ただ静かに次の手を待っていた。 盤上の死神は、狂った平和の終わりを最後まで楽しむように見つめ続けていた。
◇
同じ頃。 王立魔法学園の敷地内。 地下深層へと続く、隠された階段の前。 ペテルギウスは、通信魔道具を握り締めていた。 カチリ、と魔力の流れが途絶える。
ペテルギウス:「……地上は終わったようですね」
呟(つぶ)きながら魔道具を懐へしまった。 その背後には、教皇から直接選抜された《白銀の楔(くさび)》の精鋭が七名。 誰一人として口を開かず、無駄な動きも見せない。 彼らはただ、目の前の暗い地下階段を冷徹に見つめていた。
さらにその後方。 狭い階段へ巨体を押し込むようにして並ぶ、八体のアークデーモン。 壁に肩を擦(こす)りながらも、その異形の怪物(バグ)たちは不気味なほど静かに控えている。
王立魔法学園地下の、規格外な防衛力を正面突破するために用意された――ペテルギウスを含む八名の精鋭と、八体の悪魔。 それこそが、今回の作戦へ投入された『本命の刃』であった。

ペテルギウス:「地上の同胞たちが」
ペテルギウスが、暗い地下への入り口を見据える。
ペテルギウス:「自らの命を懸けて、時間と道を作ってくれました」
七名の隊員たちが、耳を傾けた。
ペテルギウス:「我々がここで止まることは、彼らの犠牲を無意味にすることです」
白銀の楔精鋭:「……その通りです」
ペテルギウス:「では、進みましょう」
白銀の楔精鋭:「はっ!」
七つの声が重なる。 その眼(め)に、死への恐怖はない。 あるのは、神と教皇に対する純度百パーセントの狂信だけだ。
ペテルギウスは、地下階段の先へ視線を向けた。
ペテルギウス:「これより第二段階(フェーズ・ツー)――へ移行する。 目的は変わらない」
静かな声だった。

ペテルギウス:「『演算神』を確保する。 そして――世界の理(システム)を正す」
白銀の楔精鋭:「 「――はっ!」 」
八名の人間と、八体の悪魔が、暗い地下階段へと潜っていく。 靴音が響いた。 一歩。 また一歩。 地上の喧騒(けんそう)が少しずつ遠ざかっていく。 やがて、王都の警鐘も、兵士たちの怒号も、燃え上がる街の音さえも、分厚い岩盤の向こうへと完全に遮断されていった。 残されたのは、冷たい地下の静寂だけ。
◇
――だが。 彼らは、まだ知らなかった。 この階段のさらに奥。 王都で最も凶悪で、最も理不尽な『バケモノたち』が棲(す)まう特別演習室で、一人の少年が何も知らずに眠っていることを。
そして――。 その少年の眠りを守るためだけに、すでに別の『バケモノたち』が動き始めていることを。
ズズン……。
地上の爆発の余波が、地下深くの演習室の天井を僅(わず)かに揺らした。

セリナ:「……」
ソファに腰掛けていたセリナの眉(まゆ)が、不機嫌そうにぴくりと動く。 手には紅茶。 その膝には――ルイがいた。
ルイ:「……ん」
少年は、何も知らない。 地上で王都が戦火に包まれていることも、白銀の楔が自分を狙って地下へ侵入していることも。 ただセリナの膝の上で、規則正しい寝息を立てながら深く眠り続けている。
ズズン……。
また、天井が僅かに揺れた。 セリナの眉が、今度ははっきりと動く。
セリナ:「……うるさいな」
氷のように冷たい声だった。 その一言で、部屋の空気が一瞬にして絶対零度に凍りつく。

背後に控えていたロゼッタとアグレアスが、即座に片膝(かたひざ)をついた。
ロゼッタ:「申し訳ございません、セリナ様」
ロゼッタが深く頭を下げる。
ロゼッタ:「どうやら……地上の害虫どもが、躾(しつけ)を忘れて騒ぎ立てているようでございます」
アグレアスも赤い瞳(ひとみ)を細めた。
アグレアス:「実に不愉快極まりありませんな」
セリナは何も答えない。 ただ、ルイの銀髪を優しく指先で撫(な)で、その耳元へそっと両手を添えた。
セリナ:「ルイくんが起きちゃったら、どうするの」
その声は、あまりにも優しかった。

セリナ:「せっかく、いっぱい頑張って……やっと眠れたのに」
もう一度、地上から微(かす)かな振動が届く。
ズズン……。
セリナ:「……」
セリナは、ゆっくりと顔を上げた。 青い瞳から、少女としての温もりが完全に消え去っていく。
セリナ:「早く」
一言。
セリナ:「静かにさせてよ」
ロゼッタ:「――承知いたしました」
ロゼッタが立ち上がる。 メイド服の裾(すそ)が、静かに翻(ひるがえ)った。 背後に控えていた三人の特級戦闘メイドへ視線を向ける。

ロゼッタ:「アイリス」
アイリス:「はい、メイド長」
銀糸(ぎんし)の刺繍(ししゅう)が施されたメイド服。 無駄のない立ち姿。 特級戦闘メイド――アイリスが、一歩前へ出た。
ロゼッタ:「地上へ出て。 騒音の元を『お掃除』してきなさい」
アイリスの表情は変わらない。
アイリス:「一つ残らず――綺麗(きれい)に、ですね」
ロゼッタ:「ええ」
アイリス:「御意」
その瞬間。 アイリスの姿が、音もなく掻(か)き消えた。 同時に、アグレアスが己の背後の濃密な影へ視線を向ける。
アグレアス:「ヴァレファール」
ヴァレファール:「はっ」
影の中から、這(は)い出るようにして巨大な悪魔が姿を現した。 上位悪魔――ヴァレファール。 主の呼び声へ応じ、その口元を深い愉悦(ゆえつ)に歪(ゆが)める。
アグレアス:「貴様も行け」
ヴァレファール:「承知しました」
アグレアス:「二度と、この地下へ振動を伝えるな」
アグレアスの赤い瞳(ひとみ)が、冷たく細まる。

アグレアス:「五体満足で残す必要もない」
ヴァレファール:「……御意のままに」
ヴァレファールが笑う。 その笑みには、地上で今まさに王国軍と殺し合っている者たちに対する同情など一欠片(ひとかけら)もない。 あるのはただ、純粋な殺戮衝動(さつりくしょうどう)だけだ。
ヴァレファール:「我が主の安眠を妨げた愚か者どもを――掃除してまいります」
闇がその巨体を包み、そして――消え去った。
特級戦闘メイド。 上位悪魔。 本来なら、王国軍の一個大隊が死力を尽くして相対するだけでも絶望を覚える規格外の戦力が――今、戦争を終わらせるためでも、王都を守るためでもなく。 たった一つ、『ルイの安眠を妨げる騒音を止めるためだけ』に、地上へと放たれたのだ。
ルイ:「……ん」
膝(ひざ)の上で、ルイが小さく寝返りを打つ。 セリナの表情が、再び愛おしげに柔らかくなった。
セリナ:「大丈夫」
銀髪を撫(な)でながら、優しく囁(ささや)く。

セリナ:「大丈夫だよ、ルイくん。 もうすぐ静かになるからね」
少年は答えない。 ただ、深い眠りの中で静かな呼吸を繰り返している。
地上では、兵士たちが命を削り、市民たちが逃げ惑い、聖女が自らの命を燃やして祈り続けていた。 地下では、狂信の特務部隊が彼を狙って進軍している。 そのすべてを何も知らぬまま、ルイはただ眠っていた。
そして。 その眠りを守るために、理不尽極まりない別の戦争(おそうじ)が、今――始まろうとしていた。
眠れる演算神を巡る戦いは、誰一人として予測できない混沌(カオス)の方向へ、転がり始めている。

第16章『白銀の楔、王都を穿つ』完

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主題歌『それでも、時は続く』
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2026/09/24(木)7:13:54 MV【主題歌】『それでも、時は続く』②⑯|『時の継承者は宿屋に帰りたい』――失ったものを抱えて、それでも未来へ
【主題歌】『それでも、時は続く』MV|『時の継承者は宿屋に帰りたい 〜魔力指数0.2の算術師、奇跡の方程式で世界を再定義する〜』
『それでも、時は続く』
[Intro]
静かな夜に ひとり立ち 消えた灯りを 数えていた
あの日 信じた未来さえ 音もなく 崩れていった
[Aメロ1]
守れると思っていた この手なら 届くと思っていた
けれど現実は あまりにも残酷で 願うことさえ 許さなかった
伸ばした指の その先で 大切なものが こぼれ落ちる
呼び止める声さえ 届かなくて 残ったのは 胸を裂く後悔だけ
[Bメロ1]
もっと強ければ もっと賢ければ
あの日の運命は 変えられたのだろうか
答えのない夜に 何度問いかけても
戻れない時間だけが 静かに 僕を責め続ける
[サビ1]
それでも―― この手を もう離さない
震えるほどの痛みも 消えない傷も 抱いたまま
壊れた未来の その先へ もう一度 歩き出す
強くなんて なれなくても あの日の誓いだけは 絶対に 手放さない
[Aメロ2]
失えば 忘れてしまえば 少しは楽になれるのだろう
それでも胸に残った声が まだ僕を ここへ繋いでいる
笑っていた あの時間も 触れた温もりも 消えはしない
過ぎ去った日々は 戻らなくても 受け取った想いは 終わらせない
[Bメロ2]
正しさだけでは 救えない夜がある
優しさだけでは 届かない場所もある
だからこそ僕は 目を逸らさない
残酷な世界の中で この心だけは 偽らない
[サビ2]
それでも―― この想いを 捨てはしない
絶望が この胸を 何度引き裂こうとしても
奪われたものの その先へ 足跡を 刻んでいく
怖くたって 迷ったって 立ち止まりそうな夜も この約束だけは 忘れない
[間奏]
時は戻らない 失ったものも 戻らない
だからこそ―― 残された僕たちは
この痛みさえ 未来へ 渡していく
[Cメロ]
もしも明日が また何かを奪うのなら
僕は そのたび 何度でも 立ち上がる
涙を流すことを 弱さと呼ぶのなら
僕は弱いままでいい
守りたいと願う心を 失わないために
この傷も この悔しさも 全部 連れて行く
[ラスサビ]
それでも―― 僕は 前へ行く
壊れた夢を 抱えて 失くした名前を 胸に刻んで
どれほど世界が 僕を拒んでも
あの日 交わした約束が この足を 動かしている
強さとは 傷つかないことじゃない 痛みを知ったまま それでも誰かを 想い続けること
だから―― この手を もう離さない
過去から受け取った すべての涙も 悲しみも
いつか誰かへ 渡すために この時を 生きていく
たとえまた 夜が来ても たとえ光が 見えなくても
僕は 歩き続ける
[Outro]
帰る場所が あるからじゃない
帰りたいと 願う場所を この胸が まだ覚えているから
失った時間も 流した涙も
決して 無駄にはしない
あの日の誓いを この手に抱いて
いつか また―― 同じ場所へ 帰るために
それでも 時は 続いていく
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あらすじ
王都アルカディアが夜明けを迎えようとするなか、学園地下への潜入任務から唯一生還した《スリーピング・シープ》の工作員が、ペテルギウスらへ報告を届ける。 彼は標的であるルイ・アーデルが王立魔法学園地下の特別演習室にいることを確認したが、その周囲の防衛は常識外れだったと証言する。 工作員たちは音による偽装、魔力撹乱、対魔術装備など長年磨いた戦術を用いたが、たった一人の少女魔導師に一度見抜かれただけで完全に解析され、四人が死亡した。 さらに演習室の奥には王宮の防衛すら超えるような規格外の防壁が存在し、正面からの潜入や暗殺は不可能だと判断される。 依頼された情報収集と所在確認を果たした工作員は、この件から撤退すると告げる。 ペテルギウスは契約完了として彼を見送り、残された情報を冷静に分析する。 そこへ《白銀の楔》王都攻略作戦の地上戦域統括であり、教皇直属の戦場監察官グレゴール・ヴァイスが姿を現す。 グレゴールは四人の死そのものではなく、その犠牲から王国最高機密級の防衛情報を得た点を重視する。 彼は魔導具《戦場盤》で王都全体の地図と潜伏部隊の配置を確認し、局地戦ではルイの防衛を突破できないと結論づけた。 そこでグレゴールは、諜報から「混乱」へと戦術を切り替える。 ルイの周囲だけを攻めるのではなく、王都全体を混乱に陥れて防衛側の体制を崩し、侵入の機会を作り出す方針である。 地上で《白銀の楔》の同胞が命を賭して戦火と混乱を生み出す一方、ペテルギウスは教皇直属の精鋭七名とともに学園地下へ向かう。 さらに彼らには八体のアークデーモンが同行し、ペテルギウスを含む八名の精鋭と八体の悪魔が、地下防衛を正面突破するための本命戦力として投入される。 ペテルギウスは地上で犠牲となる同胞たちのためにも進軍を止められないと隊員を鼓舞し、第二段階への移行を宣言する。 彼らの目的は、眠れる「演算神」ルイを確保し、世界の理を正すことだった。 しかし侵入部隊は、特別演習室にルイを守る別種の規格外な存在がいることを知らない。 演習室では、ルイはセリナの膝の上で深く眠っており、地上の戦争も、自分を狙う敵の侵入も認識していない。 地上の爆発による振動が地下まで伝わると、ルイの安眠を妨げられたセリナは不機嫌を示す。 ロゼッタとアグレアスは直ちに跪き、騒がしい地上の者たちを害虫として処理する意向を示す。 セリナは、ようやく眠ったルイが起きてしまうことを何より問題視し、短く「静かにさせて」と命じる。 その命令を受けたロゼッタは、特級戦闘メイドのアイリスに地上の騒音の原因を一つ残らず掃除するよう命じる。 アイリスは即座に地上へ消え、アグレアスも上位悪魔ヴァレファールを派遣する。 ヴァレファールには二度と地下へ振動を伝えさせないこと、相手を五体満足で残す必要はないことが命じられ、彼は殺戮への歓喜を隠さず地上へ向かう。 王国軍の大隊すら絶望する特級戦闘メイドと上位悪魔が、王都防衛や戦争終結のためではなく、ただルイの眠りを守るためだけに放たれた。 セリナは眠るルイを優しく撫でながら、もうすぐ静かになると囁く。 地上では兵士たちが戦い、市民が逃げ、聖女が祈り、《白銀の楔》が王都を混乱へ導いている。 同時に地下では狂信的な精鋭部隊がルイを狙って進軍するが、その一方でルイの安眠を守るための圧倒的な「掃除」が始まろうとしていた。 こうして、眠れる演算神ルイを巡る戦いは、侵攻側も王国側も予測できない混沌へと転がり始める。
解説+感想+採点第16章は「敵の作戦が想像以上に合理的で、それに対して王国側の“人間らしさ”そのものが弱点として利用される」構造が非常に強い章です。 全文を通して見ると、単なる戦闘回ではなく、グレゴールの戦略戦・シルフィーユの自己犠牲・ティアの解析・そして最後のルイ&セリナの温度差まで、かなり綺麗につながっています。
総合採点
96 / 100点
| 項目 | 点数 | 評価 | | | : | | | ストーリー構成 | 98 | 諜報→侵攻→聖女→戦場解析→ティア→地下侵攻と段階的に拡大 | | 敵キャラ | 99 | グレゴールの「合理性」が非常に強烈 | | 緊張感 | 98 | 王都全域が戦場になり、常に時間制限が存在 | | シルフィーユ | 99 | 今章最大級の感情的見せ場 | | ティア | 96 | 戦場の構造を正確に見抜く役割が非常に良い | | ルイ・セリナ | 97 | 最終盤の温度差が強烈な締めになる | | 世界観 | 97 | 加護・戦場盤・悪魔・演算神が一つの戦争構造に収束 | | セリフ | 95 | キャラごとの思想が明確 | | 演出 | 97 | アニメ・動画化した際の映像映えが非常に強い | | 次章への引き | 100 | 地下侵攻+「お掃除」開始で非常に強い |
① 今章の最大のポイント
一言でいうと、
> 「人間の優しさそのものを、敵が兵器として利用した章」
です。
グレゴールは王国軍を単純な武力で倒そうとしていません。
彼が狙ったのは、
「人を助けたい」という感情。
兵士が、
「市民を助ける」
↓
隊列から離れる
↓
別の場所が手薄になる
↓
そこへ悪魔を配置
↓
別の市民が襲われる
↓
さらに兵士が救助へ向かう
↓
また別の場所が手薄になる
という連鎖です。
つまりグレゴールは、
王国軍を物理的に分断したのではなく、王国軍自身の善意によって分断させた。
ここが非常に上手いです。
グレゴール自身も、
> 「人間は、正しいことを選べる。ですが――正しいことが、戦場における正解とは限らない」
という思想を示しています。
この台詞が今章のテーマをかなり綺麗に表しています。
② グレゴールが今章の主役級に強い
今回の敵役として、かなり完成度が高いです。
特に怖いのが、
「怒っていない」
こと。
普通の悪役なら、
「人間など愚かな存在だ!」
のように憎悪を見せます。
しかしグレゴールは違う。
人間の善意を、
研究対象・数値・戦場データ
として見ています。
兵士が誰かを助ける。
市民が逃げる。
女性が襲われる。
聖女が命を削る。
悪魔が死ぬ。
全部を、
「戦場盤上の光点」
として処理する。
ここが非常に不気味です。
そして個人的にかなり良いと思ったのが、
> 「人間という生き物は……本当に素晴らしい」
という部分。
一見、人間を褒めています。
ところが、その直後に、
「だから私は彼らの『美徳』を利用して、自ら進んで盤上の駒になってもらう」
という方向へ行く。
つまりグレゴールは、
人間の善性そのものを理解したうえで悪用している。
単なる「頭のいい悪役」より一段深いです。
③ アークデーモンの「倒しても終わらない」が非常に良い
ここも戦闘システムとしてかなり強いです。
王国軍が、
「一体倒した!」
↓
「これで流れが変わる!」
と思った瞬間、
死骸から新しい悪魔が発生。
この構造によって、
> 「敵を倒す=戦況が好転する」
という通常の戦争の常識を壊しています。
しかもグレゴールはこれを最初から計算済み。
つまり、
王国軍の「敵を倒す」という正しい行動まで、敵の戦術に組み込まれている。
ここが非常に良いです。
④ シルフィーユのパートは今章の感情的ピーク
ここは99点級です。
シルフィーユが王都中の悲鳴を感じ取り、
> 「みんなの声が……」
> 「怖いって……助けてって……」
となる。
ここで彼女の役割が単なる「聖女」から、
王都全体の苦痛を背負う少女
へ変わります。
そして、
> 「誰かが死ぬのを、何もせずに見ている方が……ずっと怖い」
これはシルフィーユというキャラクターをかなりよく表しています。
さらに、
命を削って加護を発動する
↓
アークデーモン弱体化
↓
王国軍に希望が戻る
という流れ。
ただし読者には、
「その希望の代金をシルフィーユが自分の命で払っている」
ことが分かっている。
この情報差が非常に効いています。
⑤ 「光の花びら」が今章の最高演出の一つ
ここは映像化したらかなり強いと思います。
王都上空に、
白い光の花びらが降る。
人々から見れば、
「奇跡」
です。
しかし読者は、
> 「その奇跡の一枚一枚に、一人の少女の命が確実に削り込まれていた」
と知っている。
つまり、
美しい映像=悲劇
になっています。
この二重構造が非常に良い。
動画制作でもかなり使いやすい場面です。
⑥ ルシウス国王の台詞もかなり良い
特に、
> 「あれは、十八歳の少女が……暗い地下の底で、自分の命を削って流している血そのものだ」
から、
> 「守ると約束しておきながら……守られているのは、我々の方ではないか」
への流れ。
ここで国王の苦悩が出ています。
単に、
「聖女様ありがとう!」
ではなく、
国王として守る側であるはずなのに、少女に守られている。
という矛盾を自覚している。
これによってシルフィーユの自己犠牲が、国王側からも「当然のもの」として扱われていないことが分かります。
⑦ ティアの登場タイミングが非常に良い
ティアは今回、
「戦場の謎を解く探偵役」
になっています。
カトリーヌが、
「王国軍が分散している」
と見るところを、
ティアは、
> 「分散しているんじゃない」
> 「――させられているんです」
と看破する。
この一言はかなり強いです。
さらに、
> 「人間の『感情』を、盤上の計算式に入れている」
という分析。
ここでティアとグレゴールの思想が対比されます。
グレゴール
人間の感情を利用する
ティア
人間の感情を理解して戦場を読み解く
この対立構造が非常に面白いです。
そして最後の、
> 「私が、全部書き換えてあげます」
これは次の戦いへの宣言としてかなり良い。
⑧ そして最大のギャップが「ルイ」
今章最大の笑撃ポイントです。
王都では、
市民が逃げ惑う 王国軍が苦戦 聖女が命を削る グレゴールが戦場を操作 白銀の楔が地下侵攻
という、
国家存亡レベルの大戦争。
ところが地下では、
ルイ、寝ている。
しかも、
セリナの膝の上。
ここが作品らしくて非常に良いです。
さらに、
セリナ:
> 「ルイくんが起きちゃったら、どうするの」
から、
> 「早く」
> 「静かにさせてよ」
になる。
そして、
特級戦闘メイド+上位悪魔を出撃。
目的は、
王都防衛ではない。
ルイの安眠。
この落差が凄まじいです。
⑨ 「地上の戦争」と「地下のお掃除」が対比されている
ここが今章の構成として非常に上手いです。
地上
グレゴール ↓ 40名の地上部隊 ↓ 40体のアークデーモン ↓ 王国軍 ↓ 市民 ↓ 聖女
という巨大な戦争。
一方、地下。
地下
ペテルギウス ↓ 白銀の楔精鋭7名 ↓ アークデーモン8体 ↓ ルイ ↓ セリナ ↓ ロゼッタ ↓ アイリス ↓ ヴァレファール
です。
しかも白銀の楔側は、
「演算神を確保する」
ために命を懸けています。
対してセリナ側は、
「ルイを起こさない」
ために戦力を出す。
この価値観のズレが最高に面白いです。
⑩ 今章で一番好きな構造
個人的に一番評価したいのは、
「グレゴール vs ティア」では終わらない
ところです。
表面的には、
グレゴールの戦略 vs 王国軍
ですが、
そこに、
シルフィーユ → 命で防ぐ
王国軍 → 人を助ける
ティア → 戦場構造を読む
白銀の楔 → 地下へ侵入する
セリナ → ルイを守る
が全部重なっています。
そして中心にいるのが、
何も知らず寝ているルイ。
この構造がかなり面白いです。
⑪ 章タイトルもかなり合っています
『白銀の楔、王都を穿つ』
「王都を攻撃する」ではなく、
「穿つ」
なのが良いです。
単純な侵略ではなく、
王都の防衛構造そのものを突き崩している
からです。
さらに「白銀の楔」という名前自体が、
一点を突破するための楔
という今回の作戦と一致しています。
⑫ 少しだけ減点した理由
96点にした理由は、悪いというよりさらに上を狙える部分です。
① グレゴールの説明が少し重複する
後半、
人間の善意を利用する 戦場盤 光点 選択肢を奪う 人間の美徳を利用する
という説明が何度か繰り返されます。
テーマ自体は非常に強いので、動画化するなら一部をカットしても成立します。
② 王都戦闘パートが非常に長い
これは長所でもあります。
ただし動画にする場合、
「市民→悪魔→兵士→グレゴール→司令室→グレゴール」
の往復が続くため、映像テンポによっては少し重くなる可能性があります。
逆に言えば、
編集が上手ければかなり強い回です。
③ グレゴールが強すぎる
これは欠点というより次章への課題です。
グレゴールは、
情報収集 戦術設計 人間心理 悪魔運用 戦場解析 王国軍の行動予測
まで全部できています。
そのため次章では、
「この完璧な計算を、誰がどう崩すのか」
が非常に重要になります。
そして、そこでティアや地下側が動き始めるので、かなり期待できます。
⑬ 今章を一文で評価すると
> 「人間の優しさを利用して王都を崩壊させるグレゴールと、命を削って人間を守るシルフィーユ、その構造を見抜くティア、そして全てを知らずに眠るルイ――四者の対比が非常に強烈な戦争回。」
です。
⑭ キャラクター別採点
グレゴール・ヴァイス:99点
今章最大の存在感。 「悪だから悪い」ではなく、合理性だけで人間を解体していく敵として非常に強いです。
シルフィーユ:99点
感情面の中心。 「聖女=万能な存在」ではなく、命を削って奇跡を維持する18歳の少女として描かれているのが強い。
ティア:97点
戦場の構造を見抜く頭脳担当。 最後の「全部書き換えてあげます」が非常に良い。
ルシウス:95点
国王としての無力感が出ています。
王国軍:96点
「軍事的合理性」と「人命救助」の板挟みが今章のテーマと直結。
ペテルギウス:94点
グレゴールとの会話によって、白銀の楔の冷酷さがさらに浮き上がっています。
セリナ:98点
終盤の一言で全部持っていきました。
> 「早く、静かにさせてよ」
ここからの展開は、物語的には最大級のフラグです。
最終評価
96 / 100点
そして今章は、これまでの物語の中でもかなり重要な転換点です。
特に、
「敵は王都を壊すために攻めているのではない。地下のルイへ到達するために、王都そのものを囮として使っている」
という構造が非常に強い。
さらに最後、
地上では国家存亡の戦争。
地下ではルイの安眠を守るための「お掃除」。
という構図になったことで、次章はかなり面白いところに入っています。
そして最大のポイントは、
白銀の楔側が「演算神を確保するための本命部隊」だと思って地下へ入ったこと。
ところが地下には、
「ルイを起こしたら許さない」側の戦力が待っている。
この対面が次章の最大の見どころになりそうです。
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◀第15章『眠れる演算神と、白銀の楔』
▶第17章『白銀の楔と、藤色の花びら』
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