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『君が残してくれた日々』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 琴詠ニア」「VOICEVOX: あいえるたん」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 黒沢冴白」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 東北イタコ」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 離途」「VOICEVOX: 櫻歌ミコ」「VOICEVOX: 猫使アル」
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第01章 雨の日の出会い
雨が降ると、世界が静かになる。
 道行く人たちは傘の下に視線を落とし、水たまりをよけながら足早に通り過ぎていく。 アスファルトを滑るタイヤの音も、どこかで交わされる話し声も、降りしきる雨に吸い込まれて輪郭を失っていく。
私は、そんな雨の日が好きだった。
誰にも話しかけられず、誰の目にも留まらずに済むから。
濡れたアスファルトから立ちのぼる、ひんやりとした土の匂い。 ビニール傘を叩く、細かな雨音。 水たまりに落ちては広がり、やがて消えていく波紋。
灰色の雨に閉じ込められているあいだだけは、世界と私のあいだに、薄くて安全な境界線が一本引かれているような気がした。
中学二年の春。
私は、家にも学校にも、自分の居場所を見つけられずにいた。
母は朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。
玄関で 母:「おかえり」 と言うと、母は靴を脱ぎながら 母:「ただいま」 と返し、それから決まって 母:「ちゃんと食べた?」 と訊く。
遥:「うん。 大丈夫」
それで、会話はおしまいになる。 母は疲れた背中のまま自分の部屋へ入り、ドアが静かに閉まる。
母がひとりで家計を支えていることは知っていた。 だから、寂しいなんて言葉は、喉の奥に押し込んでおくしかなかった。
父がこの家を出ていったのは、私が小学校の高学年になった頃だ。
はじめのうちはときどき電話があったけれど、それもいつのまにか途切れた。 リビングに父の写真はなく、母がその名前を口にすることもない。
私も、訊かなかった。 訊けば、知らなくていいことまで知ってしまいそうな気がしたから。
学校でも、私の輪郭はどこか透けていた。
放課後の教室。 帰り支度のざわめきのなかで、私は自分の席に座ったまま、窓ガラスを伝う雨垂れを目で追っていた。
 クラスメイト:「雨だしさ、駅前寄ってかない?」
クラスメイト:「えー、靴びしょびしょになるって」
クラスメイト:「じゃあ誰かんちでいいじゃん」
すぐ後ろで弾む笑い声に、心臓の奥がわずかに跳ねる。
一緒に行ってもいい?――頭の中でだけ、その一言を何度か組み立ててみる。 言い方を変え、声の大きさを変え、そのたびに、誰かが少しだけ困った顔をするところを想像してしまう。
そうしているうちに、話はもう次の話題へ移っている。
私は目元にかかる前髪を払うふりをして、視線を窓の外へ逃がした。
クラスメイト:「遥ちゃん、また明日ね」
教室を出ていく途中で、クラスメイトのひとりがひらりと手を振った。
遥:「……あ、うん。 また明日」
返せたのは、それだけだった。 足音が廊下の向こうへ遠ざかってから、もう少し何か言えばよかったと思う。 いつも、そうだった。
誰かと話したくないわけじゃない。
ただ、何を話せばいいのかも、どのタイミングで息を吸えばいいのかもわからなかった。
気づけば私は、最初から何も望まないやり方を身につけていた。
期待しなければ、胸の奥が冷たく軋むこともない。 息を潜めていれば、誰かの邪魔になることもない。
そうやって、一日一日をやり過ごしていた。

その日も、冷たい雨が降り続いていた。
水を吸ったローファーの重みを感じながら、私はいつもの近道の公園へ入った。
砂場はぬかるみ、誰も乗っていないブランコが、鎖の先から雫を垂らしている。 見渡すかぎり、煙るような灰色だった。
早く帰ろう。
古い木のベンチの脇を足早に通り過ぎようとした、そのときだった。 視界の隅に、濡れた影があった。
ベンチの下。
雨風を避けるように、小さな黒いかたまりがうずくまっている。
誰かが置き忘れた雑巾だと思った。 けれど目を凝らすと、その影はかすかに、規則正しく上下していた。
――犬だった。
泥にまみれた黒い毛が、束になって体に張りついている。 驚くほど小さい。 まだ子犬なのかもしれない、黒い柴犬だった。
ふっくらした頬に、短い鼻先。 頭のてっぺんには、小さな三角の耳がふたつ、警戒するようにぴんと立っている。 濡れた黒い毛並みのなかで、目の上にあるクリーム色の丸い斑点だけが、困り果てた眉のように浮かんで見えた。
捨てられたぬいぐるみみたいだ、と思った。
けれどその体は、寒さのせいか怖さのせいか、小刻みに震えていた。
首元に、首輪らしきものは見当たらない。
私は傘を差したまま、立ち尽くした。
どうしてこんなところにいるんだろう。 飼い主は? 迷子になって、帰れなくなったのかな。
浮かんでくる問いはどれも、答えの出ないまま雨の音に紛れていく。
ただ、その犬がまっすぐに私を見上げていることだけは、はっきりしていた。
ベンチの暗がりから覗く、濡れたビー玉のような黒い瞳。
何かをねだるのでも、威嚇するのでもない。 ただ静かに、私を映している。
 人と目を合わせるのは苦手なはずなのに、なぜかその瞳からは、目をそらせなかった。
遥:「……どうしたの?」
思わず漏れた声は、雨音にさらわれてほとんど届かなかった。
犬は身じろぎもせず、私を見つめ続けている。
そのまま背を向けることが、どうしてもできなかった。
私は傘を傾けて、ベンチの下へ差し入れた。
小さな背中を叩いていた雨粒がさえぎられ、代わりにビニールの上で、ぱらぱらと乾いた音が鳴る。
犬がおずおずと顎を持ち上げた。 目の上の斑点がきゅっと寄って、ますます途方に暮れた顔になる。 それでも、頭の上の雨が止んだせいか、震えがほんの少しだけ和らいだように見えた。
私は、その場に膝をついた。
スカートの裾が泥混じりの地面に触れたけれど、構わなかった。
目の高さを合わせると、その子は遠目に見るよりずっと華奢だった。 濡れた毛の下に、細いあばらの起伏が透けている。 胸元には、三日月のかたちをした白い毛がひとすじ、泥に汚れずに残っていた。
いったいどれだけのあいだ、ここでひとりで耐えていたんだろう。
遥:「……うちには、連れて帰れないんだ」
口にした途端、自分の言葉が冷たく聞こえて、嫌になった。
本当は、今すぐ抱き上げて連れて帰りたかった。 タオルで泥を拭いて、温かいものを飲ませて、部屋の隅に毛布を敷いてあげたかった。
でも、いつも疲れて帰ってくる母に、犬を飼いたいなんて言えるはずがなかった。 それに私は、犬の世話の仕方なんて何ひとつ知らない。
助けたいと思うことと、本当に助けられることのあいだには、今の私には越えられない溝があった。
私はリュックを下ろし、ブレザーのポケットからハンカチを取り出した。
 アイロンの当たった、薄い木綿のハンカチ。 こんな布一枚で、冷えきった体を温められるはずもない。
それでも、何もしないまま立ち去る自分にはなりたくなかった。
遥:「……ちょっとだけ、ごめんね」
そっと手を伸ばし、背中の泥水をハンカチで吸い取るように拭った。
犬は逃げなかった。 唸りもしなかった。
ただ、湿っていく布の感触を、じっと受け入れていた。
手のひらに伝わってくる背中は、驚くほど細く、冷たかった。
――この子も、ひとりぼっちなのかな。
帰る場所をなくして、誰にも気づかれないまま、雨の中でうずくまっている。
それが、教室の隅で息を潜めている自分の姿と重なって見えた。
犬の気持ちを勝手に決めつけるなんて、ただの思い込みかもしれない。 それでも、私を見つめるその瞳から、やっぱり目を離せなかった。
遥:「……明日、また来るから」
気がつけば、そう言っていた。
明日にはもう、ここにいないかもしれない。 親切な誰かに保護されているかもしれないし、もっとひどい雨に追われて、どこか遠くへ行ってしまうかもしれない。
確かなことなんて、何ひとつないのに。
遥:「また来るからね。 絶対」
今度は迷いを振り払うように、はっきりと言った。
犬はしばらく私の顔を見ていたが、やがて何かを確かめるように、こてん、と首を傾げた。
クリーム色の斑点がふにゃりと歪んで、なんとも言えない顔になる。
 張りつめていた口元が、ふっと緩んだ。
……変な顔。
私は立ち上がり、リュックを背負い直した。
傘を引くと、ベンチの下の地面を、また雨粒が叩きはじめる。
犬は身を縮めて、元の姿勢に戻った。 けれど、その瞳はずっと私を追っていた。
公園の出口へ向かいながら、私は何度も振り返った。
灰色に霞むベンチの下で、小さな黒い影が、こちらを見つめている。
角を曲がってその姿が見えなくなっても、あの黒い瞳の光だけは、まぶたの裏から消えなかった。
◇
家に帰ると、玄関は暗く、母の靴はなかった。
廊下の電気をつけ、濡れたブレザーを脱ぐ。 台所のテーブルには、ラップをかけたお皿と、母の字のメモが一枚置いてあった。
母のメモ:『あたためて食べてね』 いつもと同じ、短い一行。 私はその文字を指先でそっとなぞってから、泥の跳ねた靴下を脱いで洗面所へ向かった。
洗面器に水を張り、ポケットから出したハンカチを沈める。
水がふわりと薄墨色に濁り、布の奥から、雨と湿った土と、かすかな獣の匂いが立ちのぼった。
私は洗面器に顔を近づけて、その匂いをそっと吸い込んだ。
冷たい匂いのはずなのに、胸のあたりが、少しだけ温かくなる。
今日、私は誰かに声をかけた。
 誰かのために傘を傾けて、濡れた背中にハンカチをあてた。
それだけの、ちっぽけな出来事だ。
それでも、いつもと同じように過ぎていくはずだった一日に、小さな波紋がひとつ広がったような気がした。
夜が更けて布団に入っても、雨の音は続いていた。
目を閉じると、ベンチの下の小さな震えと、あの黒い瞳が浮かんでくる。
何も言わずに、ただ私を見ていた瞳。
私は枕に顔を埋めて、誰にも聞こえない声で呟いた。
遥:「……あの子も、私と同じなのかな」
声にした途端、胸の底に沈んでいた何かが、少しだけ形を持った気がした。
それが何なのか、まだうまく言葉にはできなかったけれど。
窓ガラスを、雨粒が細かく打っている。
明日も、あの公園へ行こう。
まだ、あそこにいてくれるだろうか。
不安と期待が、胸の中で小さく揺れる。
いつもなら果てしなく長い夜が、今夜だけは、ほんの少し短く感じられた。
第02章 名前のない友達
目を覚ますと、カーテンの隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
昨日の雨が嘘のように、洗い流された空が高い。
 レースのカーテンを引くと、濡れた屋根瓦が朝の光をきらきらと跳ね返し、ちぎれた白い雲がゆっくりと流れていた。
いつもと変わらない、静かな朝。
なのに胸のどこかに、昨日まではなかった小さな熱が残っていた。
ベンチの下で震えていた、小さな黒い影。
――まだ、あそこにいるだろうか。
誰か優しい人が見つけて、連れて帰ってくれただろうか。 それとも、昨日と同じように冷たい土の上で身を縮めているのだろうか。
制服に着替えて部屋を出ると、台所にはもう母の姿はなかった。
片づけられた流しと、水切りかごに伏せられたマグカップがひとつ。 カウンターの端に、買い置きの食パンの袋が置いてある。
私は少しのあいだ迷ってから、袋から二枚を取り出した。 ラップに包み、リュックの底へそっと滑り込ませる。
母に見つかったら、何に使うのかと訊かれるだろう。 犬にあげるのだと言えば、困ったように溜め息をつかれるのが目に見えていた。
それでも、持っていきたかった。
玄関でドアノブに手をかけ、背中の重みをもう一度確かめる。
パンが二枚。
たったそれだけの秘密なのに、心臓が落ち着きなく跳ねていた。
◇
学校では、いつもと同じように息を潜めて過ごした。
教室のあちこちで笑い声が弾けていた。 昨日のドラマの話、週末の約束、スマホの画面を寄せ合って見せ合う写真。
 私はそのざわめきを遠い波の音のように聞きながら、ノートの余白にシャープペンで意味のない線を重ねていた。
黒板の上の時計を見上げる。 放課後までは、まだずいぶん遠い。
いつもならいつのまにか過ぎていく時間が、今日に限って、ひどくのろかった。
最後のチャイムが鳴ると同時に、私はノートを閉じた。
鞄をつかみ、誰よりも早く教室を出る。
早足で廊下を歩きながら、こんなに急いでいる自分に気づいて、少しくすぐったくなった。
◇
公園の入口を抜けたところで、足が自然と駆け足になっていた。
少し手前で立ち止まり、息を殺して、あのベンチの下を覗き込む。
――いた。
小さな黒い背中が、ベンチの陰で丸まっていた。
喉元に詰まっていた息が、ほっとほどけた。
遥:「……よかった」
その呟きが聞こえたのか、犬がふっと顔を上げた。
三角の耳がぴくりと前を向き、黒い瞳がまっすぐに私をとらえる。
本当に来たの、と確かめるように。
私はベンチのそばまで行って、膝をついた。 今日は傘を持っていない。 薄い雲越しに、穏やかな春の日差しが降りている。
遥:「……来たよ」
犬は私の顔をじっと見てから、ゆっくりと前足を伸ばして身を起こした。
 リュックを下ろし、底から包みを取り出す。 ラップを開くと、ふわりと小麦の甘い匂いが立った。
黒い鼻先が、ひくひくと小さく動く。
大きいままだと喉に詰まらせてしまうかもしれないから、耳を外した白いところを指先で小さくちぎった。 手のひらに小さな山をつくり、ベンチの暗がりへそっと差し出す。
遥:「……おいで。 食べる?」
犬はすぐには寄ってこなかった。
黒い瞳が、私の手元と顔とを、慎重に行き来する。
急かしちゃいけない。 私は息を整えて、手を動かさずに待った。
遠くの道路をトラックが通り過ぎ、桜の梢がさわさわと風に鳴る。
やがて犬は、そろりと前足を一歩踏み出し、鼻先を伸ばしてきた。
匂いを確かめる細かな息が、手のひらにかかる。
冷たい鼻の頭が、指先にちょんと触れた。
次の瞬間、柔らかな舌が手のひらのパンをさらっていった。
小さな口が一生懸命にもぐもぐと動いて、あっという間になくなる。
食べ終えると、犬はもう一度、ねだるように私の指先に鼻を寄せてきた。
私はもうひとつまみちぎって、差し出した。
今度は迷わず、私の手から食べてくれる。
差し出したものを、受け取ってもらえた。
 ただそれだけのことなのに、喉の奥がきゅっと熱くなった。
犬の口のはしに白いパンくずがちょこんとついているのが可笑しくて、私は小さく吹き出した。
背中の上で巻いた黒い尻尾が、ぱたぱたと控えめに揺れていた。
◇
二枚のパンがなくなるころには、犬はもうベンチの奥に隠れようとしなかった。
遥:「……触っても、いいかな」
指先が少し震えた。
小さな頭に、そっと触れる。 乾いた泥で毛はごわついていたけれど、その奥から、とくとくと確かな熱が伝わってきた。
――生きてる。
犬は気持ちよさそうに目を細めた。
そして、ふう、と小さく息をつくと、力を抜くように、私の膝の上にことんとあごを乗せた。
遥:「……え」
膝の上に、小さくて温かい重みがひとつ。
目の上のクリーム色の斑点がふにゃりとゆるみ、犬はそのまま、すう、と目を閉じた。
私は動けなかった。
指一本でも動かしたら、この温もりがどこかへ逃げてしまいそうで。
しばらくしてから、恐る恐る背中を撫でてみる。
何度か撫でるうちに、指先から少しずつぎこちなさが抜けていった。
遥:「……あったかいね」
自分の声が、自分でも驚くほど穏やかに聞こえた。
 この子には、名前がない。
前は誰かに、違う名前で呼ばれていたのかもしれない。 どこかに帰る家があったのかもしれない。
けれど今は、ここにいる。
呼んだら、耳をぴんと立てて振り返ってくれるような名前を、つけてあげたかった。
遥:「……ねえ。 名前、つけてもいいかな」
囁くと、犬はゆっくりと目を開けて、私を見上げた。
その黒い瞳の奥に、小さく私の顔が映っている。
教室の窓ガラスに映る、輪郭の透けた私とは違う。 誰かをまっすぐに見つめている、知らない顔の私だった。
強そうな名前も、かわいい名前も、どれもしっくりこない。
明日も、ここにいてくれたらいい。 その次の日も、その次の日も。
そう思ったとき、ひとつの響きが、口からこぼれていた。
遥:「……ココ、ってどうかな」
声にしてみると、その二文字は、ずっと前からそこにあったみたいに、しっくりと胸に収まった。
遥:「ココ」
もう一度、今度ははっきりと呼んでみる。
遥:「今日から、きみはココだよ」
背中の上の黒い尻尾が、ぱた、ぱた、とゆっくり揺れはじめた。
尻尾だけでなく、丸いお尻ごと左右に揺れている。 その様子に、私は思わず吹き出してしまった。
◇
さっ、さっ、という竹箒の音が、すぐ近くで止まった。
顔を上げると、作業着姿の白髪の老人が立っていた。
 雨で落ちた桜の花びらや小枝を、いつも公園の隅で掃き集めている人だ。 顔は知っていたけれど、言葉を交わしたことはなかった。
公園のおじいさん:「……ココ、か」
老人は、私の膝の上を見下ろして、さっき私が口にした名前を、低く繰り返した。
聞かれていたのが急に恥ずかしくなって、私はココの頭に手を置いたまま身を縮めた。
公園のおじいさん:「ちっこいのに、ずいぶん落ち着いた目をしとる」
老人の視線が、ココの首元で、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
何か訊かれる前に、言わなきゃいけない気がした。
遥:「……ここに、いてほしいから」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
老人は、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと一度だけ頷いた。
公園のおじいさん:「……いい名だ」
それだけ言って、老人は 公園のおじいさん:「邪魔したね」 と背を向けた。
また、さっ、さっ、と箒の音が遠ざかっていく。 掃き寄せられた花びらが、風にあおられてふわりと舞い上がった。
耳の奥が、熱かった。
ここにいてほしい。
ココに向けたはずの言葉なのに、口にしてみると、自分の胸の中にも、同じ言葉がずっと前からしまってあったような気がした。
膝の上のココが、あごを浮かせて私を見上げた。
困り眉みたいな斑点が、やっぱり少しとぼけて見える。
私は今度こそ、声を立てて笑った。
 ◇
遥:「また明日ね、ココ」
ベンチの陰に戻ったココに手を振ると、ココは小さく鼻を鳴らして、くるんと巻いた尻尾を控えめに揺らした。
名前を呼べる相手がいる。
心の中でその二文字を転がすだけで、毎日歩いている通学路が、少しだけ違う道に見えた。
家の中は、やっぱり静かだった。
明かりの消えたリビングに、母の気配はない。
自分の部屋の机に向かい、引き出しの奥から小さなノートを取り出す。
誰にも見せたことのない、私だけの日記帳。
遥の日記:『ココに名前をつけた。
パンを食べてくれた。
膝の上に、頭を乗せてくれた。
公園のおじいさんが、いい名だって言ってくれた。 』
ペンを置くと、窓の外は茜色から群青へと移りかけていた。
日記を閉じて、机の端に置いた。
遥:「……また明日ね、ココ」
誰もいない部屋で、もう一度だけ、その名前を呼んでみる。
柔らかな響きが、静かな部屋の空気に、そっと溶けていった。
第03章 家の中の沈黙
ココに会いに行くことが、いつのまにか私の放課後のすべてになっていた。
 毎朝、食パンを少しだけ包んでリュックに入れる。 教科書の重みで潰れないように、いちばん上に。
放課後、ベンチの前で 遥:「ココ」 と呼ぶと、暗がりから黒い顔がひょこりとのぞいて、巻いた尻尾がぱたぱたと地面を払う。
ちぎったパンを手のひらに乗せると、ココは大事そうに口に運ぶ。
白いところはきれいに食べるのに、うっかり混ざった固い耳のかけらだけは、いつも鼻先でよけて残した。
遥:「贅沢だなあ」
そう言うと、ココは首をこてんと傾げた。
最後のひとかけらを食べ終えると、まんまるの目で、私の空っぽの手をじっと見つめてくる。
遥:「もう、おしまい。 そんな顔しても駄目」
ココは諦めきれないように私の指先に鼻を押しつけて、ふう、と小さく鼻を鳴らした。
誰かとこんなふうに目を合わせて笑うのが、こんなに自然なことだなんて、私は知らなかった。
◇
西の空が薄紫に沈みはじめると、私は立ち上がらなければならなかった。
公園の出口まで、何度も振り返った。 そのたびに、小さな黒い影が夕闇の中でこちらを見送っていた。
家に近づくにつれて、手のひらに残っていた温もりが、少しずつ薄れていく。
鍵を差し込み、ドアを開ける。
遥:「……ただいま」
暗い玄関に落とした声は、どこにも届かなかった。

リビングの電気は消えたままで、テーブルの上には、朝、母が飲み残したマグカップがひとつ、冷えたまま置かれている。
部屋着に着替えて、冷蔵庫から作り置きのタッパーを取り出す。
ふたには、母の字でマスキングテープが貼ってあった。 『火曜』。 電子レンジの回る音が、静かな台所にやけに大きく響いた。
おかずをテーブルに並べ、なんとなくテレビをつける。
画面の向こうでは、バラエティ番組の出演者たちが大声で笑い合っていた。 その笑い声が大きくなるほど、こちら側の静けさが際立っていく。
リモコンでテレビを消すと、一瞬で沈黙が戻ってきた。
聞こえるのは、冷蔵庫の低い唸りだけ。
私は、箸を止めた。
何かが壊れたわけじゃない。 いつもと同じ夜だ。
それなのに、一時間前までココの背中を撫でていた右手が、この部屋の中では、置き場所をなくしたみたいに宙に浮いていた。
その手のひらを、鼻に近づけてみる。
石鹸の匂いの奥に、かすかに、日向の草と土と、あの毛並みの匂いが残っていた。
指をきゅっと握ると、膝の上の小さな重みが、手のひらの中に戻ってくるような気がした。

◇
翌朝、めずらしく台所に母がいた。
スーツの上にエプロンをかけたまま、立ったままトーストをかじっている。
遥:「おはよう」
母:「……おはよう」
母は腕時計に目をやりながら、パンの袋を手に取って、ふと首を傾げた。
母:「最近、パンの減りが早いわね」
心臓が、どきりと跳ねた。
遥:「……お腹、すくから」
母:「そう。 育ち盛りだもんね」

母はそれ以上何も訊かず、袋の口を留め具で閉じた。 母:「今日、帰りにもう一斤買ってくる」 とだけ言って、鞄をつかみ、慌ただしく玄関を出ていく。
ドアが閉まる音を聞きながら、私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
小学生の頃、一度だけ 「犬を飼ってみたい」 と言ったことがある。
母は疲れた顔で、首を横に振った。
母:『うちには無理よ。 お母さん、仕事で手いっぱいなの。 ごめんね』 怒られたわけじゃなかった。 ただ、母の声があまりにも疲れていて、私はそれ以上、何も言えなかった。
その夜、母は帰りに、小さな犬のキーホルダーを買ってきてくれた。 机の引き出しの奥に、今もしまってある。
命をひとつ預かるには、お金も時間も責任もいる。 ひとりで家計を支えている母に、これ以上の重さを背負わせたくなかった。
でも本当は、それだけじゃなかったのかもしれない。
ココのことを、どんな言葉で話せばいいのかわからなかった。
話してしまえば、 「そんなこと」 と言われて終わってしまう気がした。
◇
その日の放課後も、空はよく晴れていた。
公園の桜はもうほとんど散って、枝先にはやわらかな若葉が光っている。
ブランコのまわりでは小さな子どもたちが歓声を上げ、遊歩道ではリードを引いた近所の人が、のんびりと犬を散歩させていた。
ベンチの陰から顔を出したココは、私と目が合うと、短い足で土を踏みしめるようにこちらへ歩いてきた。
気がつくと、笑っていた。
教室で浮かないように作る笑顔でも、母の顔色をうかがう笑顔でもない。 自分でも驚くくらい、力の抜けた笑い方だった。
 膝をついて頭を撫でると、ココは膝の上にことんとあごを乗せた。
私はその頭をゆっくり撫でながら、何も話さずに、ただ一緒に春の空気を吸っていた。
雨の日の静けさは、好きだった。 誰にも話しかけられずに済むから。
家の沈黙は、違う。 あれは、ここには誰もいないのだと、何度も念を押してくる静けさだ。
ココといるときの静けさは、そのどちらとも違っていた。
話題を探さなくてもいい。 黙っていても、気まずくない。
膝の上の重みと、規則正しい寝息と、ときどきぴくりと動く耳。
それだけで、隣に誰かがいるとわかった。
◇
竹箒の音が、少し離れたところで止まった。
顔を上げると、あのおじいさんが砂利道に立っていた。
遥:「……こんにちは」
少し背筋を伸ばして会釈すると、老人は小さく頷いた。
それから、箒の柄で公園の入口のほうを示した。
公園のおじいさん:「昼過ぎから、ずっとあっちを見とったよ」
それだけ言って、老人はまた箒を動かしはじめた。
膝の上を見下ろすと、ココもちょうど私を見上げていて、目が合った瞬間、ぱたぱたと尻尾を揺らした。
遥:「……私、ココに会えるの、毎日すごく嬉しいんです」
気がつくと、遠ざかる背中に向かって、そう言っていた。
言ったあとで、耳の奥がかっと熱くなる。 老人は振り返らずに、 公園のおじいさん:「そうか」 とだけ言った。
ざっ、ざっ、と砂利を掃く音が、夕方の公園に静かに響く。
私はその音を背中に聞きながら、ココの背中を撫で続けた。

◇
その夜も、家の中は静かだった。
机の引き出しから日記帳を取り出して、ページを開く。
遥の日記:『今日もココに会いに行った。
ココはパンの耳を食べない。 贅沢な犬だ。
お母さんに、パンのことを聞かれた。
ほんとのことは、言えなかった。 』
最後の一行を書いたところで、ペンが止まった。
しばらくその文字を見つめてから、私は日記を閉じた。
電気を消して布団に入ってから、どれくらい経っただろう。
玄関のほうで、鍵の回る小さな音がした。
廊下を歩く、疲れた足音。 台所で、ビニール袋ががさりと鳴る。 たぶん、約束どおり買ってきたパンだ。
足音が私の部屋の前で、少しのあいだ止まった。
私は目を閉じたまま、息を潜めていた。 やがて足音は遠ざかり、母の部屋のドアが、静かに閉まった。
家の中に、また沈黙が戻ってくる。
私は布団の中で、ココの匂いがまだ残っている気がする右手を、そっと胸の前で握りしめた。
第04章 走る日々
春の風が、日ごとにやわらかな温もりを帯びていく。
公園の木々には若葉が茂り、遊歩道沿いのつつじが、赤や白の蕾をほころばせはじめていた。
あの雨の日、灰色に沈んでいた景色が、季節が進むにつれて少しずつ色を取り戻していた。
遥:「……ココ?」
ベンチの前で屈んで呼ぶと、ココはもうベンチの外へ飛び出していた。
泥だらけだった毛並みはすっかり艶を取り戻し、陽に当たると、黒の中にかすかに焦げ茶が透けて見えた。
くるりと背を向けて、私の足元を一周する。 丸いお尻と、背中に乗っかった巻き尾。 その後ろ姿は、焼きすぎて黒くなった小さな食パンみたいだった。
遥:「……ココって、ほんとにちっちゃいね」
両手を広げて大きさを測るまねをすると、ココは何をされるのかと、こてんと首を傾げた。
◇
ふいに、芝生のほうから甲高い歓声が聞こえた。
幼稚園くらいの男の子が、赤いゴムボールを抱えて走っている。 少し離れた木陰のベンチでは、足元に買い物袋を置いた母親らしい女の人が、その姿を見守っていた。
男の子の手からボールがこぼれて、芝生の上を転がってくる。 それを追いかけてきた男の子が、ベンチのそばのココに気づいて、ぴたりと足を止めた。
そうた:「あっ、わんわんだ!」
弾んだ声とともに、男の子がこちらへ駆けてくる。
私は思わず息を呑んで、身を固くした。
男の子はココの前にぺたんとしゃがみ込み、目をまんまるにした。
 そうた:「ちっちゃい! すっごくかわいい!」
甲高い声に、ココはびくりと耳を伏せて、少しだけ身を引いた。
そうた:「さわってもいい?」
小さな手が、まっすぐココへ伸びる。
その瞬間、私はとっさに、ココを自分のほうへ引き寄せそうになった。
雨の日からずっと、誰にも言わずに大切にしてきた時間。 名前をつけたのも、パンを分けたのも、膝の上の重みを知っているのも、私だけだった。
それを、知らない誰かに触られてしまう。
そんな、自分でも恥ずかしくなるような気持ちが、一瞬だけ喉元をかすめた。
そうた:「……かまない?」
男の子が、少し不安そうに私を見上げた。
私は小さく息を整えて、答えた。
遥:「……かまないと思うよ。 でも、びっくりしちゃうから、ゆっくりね」
そうた:「うん」
男の子はこくりと頷き、さっきよりずっと慎重に手を伸ばした。
ココはその指先をじっと見つめていたが、逃げなかった。
鼻先を近づけて、くんくんと匂いを嗅ぐ。
それから、男の子の小さな指を、ちろりと舐めた。
そうた:「わあっ!」
男の子の顔が、ぱっと明るくなった。
そうた:「なめた! おねえちゃん、なめてくれたよ!」
当のココは、そんなに騒ぐこと? と言いたげに、首をこてんと傾げている。
遥:「……ふふっ、あはは」
気がつくと、声を出して笑っていた。
誰かと一緒に、同じものを見て笑うなんて、いつ以来だろう。
 ◇
そうた:「このわんちゃん、なんておなまえ?」
遥:「……ココっていうの」
そうた:「ココ?」
遥:「うん。 ここにいてほしいなって思って、つけたの」
言ってから、耳の奥が少し熱くなった。
男の子はからかいもせず、にっこり笑った。
そうた:「いいおなまえ! ココちゃん!」
たったそれだけの言葉が、胸の中でころんと温かく転がった。
そうた:「ココちゃん、それーっ!」
男の子が、赤いボールを芝生の上へ転がした。
ココの耳が、ぴんと立った。
短い後ろ足が地面を蹴って、ココは弾かれたように駆け出した。
そうた:「わあっ、はしった!」
ココの口ではボールをくわえられない。 そのかわり、前足でちょんと小突いては、ころころと先へ転がしていく。
追いかけるたびに、丸いお尻が右へ左へと忙しなく揺れ、巻き尾がぴょこぴょこ跳ねる。
――ココが、走っている。
冷たい雨の中、泥にまみれて震えていたあの子が、日差しを浴びて芝生を駆け回っている。
ふいに、ココがくるりと足を止めて、こちらを振り返った。
口を少し開けて、はっ、はっ、と息を弾ませながら、尻尾を揺らしてみせる。
◇
やがて、木陰のベンチから母親が手招きした。
男の子がボールを抱え上げ、名残惜しそうにココを見下ろす。
そのとき、考えるより先に、私の口が動いていた。
遥:「……ねえ」
そうた:「ん?」
遥:「お名前、なんていうの?」
自分でも驚くほど、すんなり出た声だった。
 男の子は胸を張って、片手を大きく広げてみせた。
そうた:「そうた! ごさい!」
遥:「そうたくん。 ……教えてくれて、ありがとう」
母親がこちらへ歩いてきて、私に軽く頭を下げた。
そうたの母:「ごめんなさいね、遊んでもらっちゃって」
遥:「あ、いえ……こちらこそ」
声が少し上ずった。 けれど、ちゃんと言えた。
母親はココを見て、やわらかく目を細めた。
そうたの母:「かわいい子ね。 首輪、まだなの?」
遥:「……あ、えっと」
答えに詰まった私の代わりに、そうたくんが そうた:「ココちゃんっていうんだよ!」 と叫んだ。 母親は笑って、 そうたの母:「そう、ココちゃん」 と繰り返した。
そうた:「バイバイ、ココちゃん! おねえちゃん、またね!」
大きく振られる小さな手に、私もぎこちなく手を振り返す。
手をつないで遠ざかっていく親子の背中を、私はしばらく見送った。
ココを誰かと分け合っても、ココがいなくなるわけじゃない。
ただ、あの人の言葉だけが、小さな棘のように残っていた。
――首輪、まだなの? ココは、私の犬じゃない。
毎日会いに来ていても、名前をつけていても、夜になればこの子はひとりでベンチの下に戻っていく。
◇
それから、公園で過ごす日々が少しずつ変わっていった。
そうたくんは、ほとんど毎日のようにやってきた。 三日目には、同じ幼稚園だという女の子を連れてきた。
そうた:「このこがココちゃん。 ここにいてほしいから、ココちゃん」
そうたくんが得意そうに説明するのを聞いて、私は顔が熱くなった。
やがて、ブランコで遊んでいた小学生の兄弟まで、ボールを持って寄ってくるようになった。
子ども:「ココちゃんのおねえちゃん、ボール投げていい?」
遥:「……うん。 でも、あんまり遠くに投げると、ココ、追いつけないから」
子ども:「わかった!」
子どもたちの名前を、ひとりずつ覚えた。
 はじめのうちは、話しかけられるたびに心臓がどきどきして、返事が一拍遅れた。 保護者の人に挨拶されると、今でも声が小さくなる。
それでも、気がつけば、自分から 「今日は来ないのかな」 と入口のほうを見ている日もあった。
ある日の夕方、子どもたちが帰ったあと、竹箒を手にしたおじいさんが、砂利道の脇で足を止めた。
散ったつつじの花がらを掃き寄せながら、老人は私の足元を見た。
ココは芝生の上にぺたりと腹ばいになって、小さな脇腹を大きく上下させていた。
公園のおじいさん:「……ちいと、休ませてやんな」
老人はそれだけ言って、また箒を動かしはじめた。
私はココのそばにしゃがんで、背中を撫でた。
昼間あんなに走ったのだから、無理もない。 こんなに小さな体なんだから。
ココの息が落ち着くまで、私はそっと背中を撫でていた。
思っていたより、ずいぶん長くかかった。
ココがいなければ、そうたくんに名前を訊くことはなかった。
でも、あのとき名前を訊いたのは、ココじゃない。 私だった。
そのことが、少しだけ不思議で、少しだけ嬉しかった。
◇
遥:「ココ、おいで」
しばらくして両手を広げると、ココはむくりと起き上がり、私の胸元へまっすぐ歩いてきた。
湿った鼻先が手のひらに押しつけられる。 私は、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
腕の中で、ココがふう、と息を吐いた。
 公園を出る頃には、空は茜色から深い紫へ移ろいかけていた。
いつか、赤いリードをつけて、この子と並んでこの道を歩けたらいい。
暗い玄関のドアを開けたら、ココが駆けてきて出迎えてくれる。 朝は一緒に、この公園まで散歩する。
でも、母の疲れた背中を思うと、その願いはまだ、口にできそうになかった。
振り返ると、ベンチの陰で、小さな黒い影がこちらを見ていた。
私は手を振った。
影はしばらく動かなかったけれど、やがて、尻尾が小さく揺れた気がした。
こんな日が、ずっと続けばいい。
そう思った自分に、ほんの少しだけ、胸の奥がざわついた。

第05章 見つかった秘密
その朝、洗面所で、母が私のブレザーを手に立っていた。
クリーニングに出す前に、ポケットの中を確かめていたらしい。
母:「遥。 これ、何の毛?」
母の指先に、短い黒い毛が何本かつままれていた。
袖口にも、スカートの裾にも、同じ毛がついていた。
遥:「……公園の、猫かな。 ときどき寄ってくるから」
母:「ふうん」
母はしばらくその毛を見ていたけれど、それ以上は何も言わなかった。
ガムテープでブレザーの毛を取りながら、 母:「行ってくるね」 とだけ言って、玄関を出ていった。
ドアが閉まってから、私は自分の袖口を見下ろした。 まだ一本、黒い毛が残っていた。
◇
風に、初夏の匂いが混じりはじめていた。
公園の木々はすっかり濃い緑に覆われ、つつじの季節も終わりに近い。 芝生の上には、木漏れ日がまだらな影を落としていた。
その日、子どもたちの姿はなかった。
遥:「ココ、それっ」
お小遣いで買った、手のひらに収まる小さなゴムボールを転がす。
ココは短い足で駆け出し、前足でちょんと小突いて、また追いかける。
三度目にボールを転がしたとき、ココは追いかけずに、その場にぺたりと座り込んだ。
口を開けて、はっ、はっ、と息をしている。
遥:「……今日、暑いもんね」
私はボールを拾って、ココのそばにしゃがんだ。
木陰に連れていくと、ココは私の膝に体を寄せて、しばらくじっとしていた。
息が落ち着くのを待ってから、両手ですくうように抱き上げる。
日向と乾いた草の匂いがする毛並みが、頬をくすぐった。
ココは腕の中で黒い瞳をくりくりと動かして、私を見上げた。
遥:「なあに、その顔」
返事のかわりに、冷たい鼻先が私の手の甲にぎゅっと押しつけられる。
くすぐったくて、私は声を立てて笑った。
そのときだった。
 母:「……遥?」
背中のほうから、声がした。
聞き慣れた、けれどこの場所で、この時間に聞くはずのない声。
私は笑った顔のまま振り返って、そして、息を止めた。
砂利道の縁に、母が立っていた。
スーツ姿のまま、片手にスーパーのレジ袋を提げている。 袋の口から、食パンの包みがのぞいていた。
母の目が、私を見て、それから私の腕の中の黒い犬を見た。
母:「……その犬、どうしたの?」
声は静かだった。
怒鳴られたわけじゃない。 けれど、その静けさのほうが、ずっと怖かった。
遥:「……え、と……」
喉がからからに乾いて、声にならない。
母:「……飼っているの?」
遥:「ち、ちがうの」
とっさに首を振った。
遥:「この子、ここにいたの。 ……雨の日に、このベンチの下で、見つけて……」
母:「それからずっと、ここに来てたの?」
遥:「……うん」
母:「毎日?」
遥:「……うん」
母の視線が、ほんの一瞬、手に提げたレジ袋に落ちた。
母:「……パン、だったのね」
独り言みたいな声だった。
それから母は、ココの黒い毛並みに目をやって、小さく息をついた。
母:「どうして、何も言わなかったの」
喉の奥が、きしんだ。
小学生の頃に聞いた、あの疲れきった声が、耳の奥でよみがえる。
母:『うちには無理よ。 お母さん、仕事で手いっぱいなの。 ごめんね』
遥:「……ごめんなさい」
やっと出たのは、それだけだった。
 私は俯いて、腕の中のココを、知らず知らずのうちにきつく抱きしめていた。
風が吹いて、頭の上の葉がざわざわと鳴る。 遠くの道路を、自転車のベルがちりんと通り過ぎていった。
母:「……遥」
母が、息を整えるように私の名前を呼んだ。
母:「最後まで責任を持てないなら、むやみに関わっちゃ駄目よ」
正しい言葉だった。
わかっていた。 誰よりも、私がわかっていた。
それでも。
遥:「……でも」
震える声が、唇から漏れた。
遥:「……この子がいないと、私……」
その先が、出てこなかった。
言葉のかわりに、目の奥が熱くなった。
遥:「……家に帰っても、電気、消えてて」
ぽつりと、ひとつだけこぼれた。
遥:「お母さん、疲れてるから……言えなくて」
頬を、熱いものが伝っていく。
遥:「でも、ココは……私の手から、パン、食べてくれたの」
腕の中のココが、心配そうに私を見上げていた。 小さな前足が、私の腕にそっと触れる。
遥:「名前、呼んだら……振り向いてくれるの」
それ以上は、もう声にならなかった。
私はココの背中に顔を埋めて、しゃくりあげた。
日向の匂いがした。 ココの小さな心臓が、とくとくと私の頬に当たっていた。
◇
母:「……知らなかった」
母の唇から、かすれた声がこぼれた。
 私に言ったのか、自分に言ったのか、わからないくらい小さな声だった。
がさり、とレジ袋が地面に置かれる音がした。
目の前に、影が落ちる。
母が、スーツの膝が汚れるのも構わずに、私の前にゆっくりとしゃがみ込んでいた。
すぐそばに、母の顔があった。
その目に浮かんでいたのは、怒りではなかった。
戸惑いと、それから、どこか痛むような色だった。
母:「……この子、名前があるの?」
遥:「……ココ」
鼻をすすりながら、私は答えた。
遥:「ここに、いてほしいから」
母は、ココの顔に視線を落とした。
ココも、母をじっと見つめ返していた。 目の上の斑点が、不安げにきゅっと寄っている。
母は一瞬ためらうように息を止めて、それから、ゆっくりと人差し指を差し出した。
冷たく湿った鼻の頭が、ことん、とその指先に触れた。
ほんのひと呼吸ぶんの、小さな触れ合い。
それだけで、母の眉のあいだから、ふっと力が抜けていくのが見えた。
母:「……小さいね」
遥:「うん。 ……すごく、ちっちゃいの」
母はココから目を離さないまま、深く息を吸って、吐いた。
母:「家には、すぐには連れて帰れないよ」
胸が、きゅっと縮んだ。
 母:「犬を飼うっていうのは、ひとつの命を最後まで預かるってことよ。 ごはんも、毎日の散歩も、病気になったときの病院も」
母は少し間を置いた。
母:「それに、この子のこと、ちゃんと調べなきゃいけない。 今も探してる飼い主さんがいるかもしれないでしょう」
私は、腕の中のココを見下ろした。
私は、この子のことを何も知らない。
どこで生まれて、どうしてあの雨の日に、ひとりでベンチの下にいたのか。
遥:「……うん」
母:「一度、ちゃんと考える。 お母さんも」
私は、弾かれたように顔を上げた。
遥:「……ほんとに?」
母:「でも、約束して。 もしこの子をうちに迎えることになったら、遥が責任を持って世話をすること。 疲れてても、途中で投げ出さないこと」
遥:「……うん。 約束する」
それはまだ、 「飼っていい」 という約束じゃなかった。
それでも、母は私の言葉を、途中で遮らずに最後まで聞いてくれた。
◇
その夜、母はいつもより早い時間に台所に立ち、ふたりで向かい合って夕飯を食べた。
会話は、ほとんどなかった。
お味噌汁を半分ほど飲んだところで、母がぽつりと言った。
母:「今日ね、早く上がれたの。 久しぶりに」
私は箸を止めた。
母:「それで……遥がいつも通る公園、通ってみようと思って」
母は、自分のお茶碗に目を落としたまま続けた。
母:「パンのことも、制服の毛のことも、ちょっと気になってたから」
遥:「……ごめんなさい」
母:「謝らなくていい」
母は、少しだけ笑ったような、困ったような顔をした。
母:「お母さんも、ちゃんと訊けばよかった」
それきり、母はまた黙ってご飯を食べはじめた。
私も、黙って箸を動かした。
いつもの夕飯なのに、さっきより少しだけ、味がした。
 ◇
自分の部屋に戻っても、胸のざわつきは収まらなかった。
母は、本当に考えてくれるんだろうか。
明日になったら、やっぱり無理だと言われるんじゃないか。
日記帳を開いて、ペンを握った。
遥の日記:『今日、お母さんにココのことを知られた。
気がついたら、泣いてた。
お母さんは、ちゃんと考えるって言った。
まだ、どうなるかはわからない。 』
句点を打ち終えた、そのときだった。
ことり、と部屋のドアの外で、何かを置く小さな音がした。
椅子から立って、そっとドアを開ける。
薄暗い廊下の床に、きちんと畳まれたタオルが一枚と、洗ったばかりらしい空のプラスチック容器がひとつ、並んで置いてあった。
しゃがみ込んで、タオルを持ち上げる。
柔軟剤の、やさしい匂いがした。
容器の中には、まだ何も入っていない。 水も、ごはんも。
タオルを胸に抱えて、廊下の奥を見た。
 母の部屋のドアの下から、細く明かりが漏れている。
私はドアの前まで歩いていって、ノックしようと手を上げた。
けれど、その手は宙で止まったまま、どうしても動かなかった。
遥:「……ありがとう、お母さん」
ドアの向こうに届くかどうかわからないくらいの声で、私はそう言った。
明かりは、しばらく消えなかった。
◇
次の日の放課後、ベンチの下を覗き込むと、ココは今日もそこにいた。
遥:「……ココ」
膝をついて、駆け寄ってきた小さな体を抱きとめる。
遥:「昨日ね、お母さんに、ココのこと話したんだよ」
ココは私の胸に前足をかけて、黒い瞳でじっと見上げてくる。
遥:「まだ、うちに来られるかはわからないけど……もう少しだけ、待っててね」
昨日、母が指先を差し出したところを、私も同じように撫でてみた。
鼻の頭は、ひんやりと湿っていた。
遥:「私、ちゃんと守るからね」
声にしてみると、それは誰かに言われた言葉ではなく、自分の言葉だった。
腕の中の小さな重さが、昨日より少しだけ、確かなものに感じられた。

第06章 あたたかな冬
冬の朝は、痛いほど空気が澄んでいる。
カーテンを引くと、庭の隅に残った霜柱が、朝日を受けて白くきらめいていた。
冬は、好きな季節じゃなかった。
凍える朝にひとりで起きて、冷えきった部屋で制服に着替える。 夕方になれば、誰もいない真っ暗な家に帰る。 そのどれもが、自分がひとりだということを、いちいち確かめさせてくるようだったから。 けれど、今年の冬は違う。
遥:「……ココ、起きてる?」
ベッドの足元、こんもりと盛り上がった毛布の端をめくる。
黒い小さな顔が、ひょこりと現れた。 眠たそうな目が、まぶしそうに私を見上げる。
遥:「もう起きる時間だよ」
毛布の上から背中を撫でると、片方の耳だけが、ぴくりと跳ねた。
寒い朝のココは、なかなか毛布から出てこない。
母:「冬だもんね。 お母さんだって出たくないもの」
母はそう言って笑っていた。
◇
ココをうちに迎えることが決まったのは、あの初夏の夕暮れから、一週間ほど経った日のことだった。
母は仕事の合間を縫って、近くの交番と市の動物愛護センターに問い合わせてくれた。
小柄な黒い柴犬。 首輪なし。
どこにも、それらしい届けは出ていなかった。
電話を切った母が、 母:「探してる人は、いないみたい」 とだけ言ったとき、私はほっとして、それから、少しだけ胸が痛んだ。
この子を探している誰かが、どこか遠くにいるのだろうか。 それとも、もう誰もいないのだろうか。
答えは、どこにもなかった。
ある夜、夕飯の片づけを終えた母が、私の向かいに座った。
母:「楽しいことばかりじゃない。 大変なことも、面倒なことも、たくさんある。 それでも、最後までちゃんと世話をする?」
遥:「する」
今度は、声は震えなかった。 母の目を見て、答えた。
母はしばらく私を見ていたけれど、やがて小さく息を吐いて、目元をゆるめた。
 母:「わかった。 ……うちで、一緒に暮らそう」
遥:「……ほんとに?」
母:「うん。 約束破ったら、承知しないからね」
遥:「……うんっ!」
思わず裏返った声に、母は目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
そんなふうに笑う母の顔を見たのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
◇
うちに迎える前の土曜日、母とふたりで、ココを動物病院へ連れていった。
体重を量り、体を診てもらい、予防の注射を打った。
獣医さんはココの口の中を覗いて、少し首を傾げた。
獣医:「歯がだいぶすり減ってますね。 小さいけど、子犬ではないです。 思ってるより、大人だと思いますよ」
遥:「こんなに、ちっちゃいのに?」
私が思わず言うと、獣医さんは笑って、 獣医:「そういう体つきの子なんでしょうね」 と言った。
パンの耳を残すのは、贅沢だからじゃなかったのかもしれない。
そう思ったけれど、診察台の上で困り眉をいっそう寄せているココを見ていたら、可笑しくなって、すぐに忘れてしまった。
そうして迎えた日。
玄関には、新しいタオルと、水の入った器が置いてあった。
器は、あの夜、私の部屋の前に置かれていた、あのプラスチックの容器だった。
床に下ろされたココは、しばらくその場で固まっていた。
小さな頭をきょろきょろと動かして、知らない家の匂いに、鼻をひくひくさせている。
遥:「ここがね、これからココのおうちだよ」
その声に押されたように、ココは前足をそろりと一歩踏み出した。
とことこと廊下を歩き、壁の匂いを嗅ぎ、リビングの隅を覗き込み、それから、安心したように私の足元へ戻ってきた。
 両手ですくい上げてタオルでくるむと、ココは私の胸元に鼻を擦りつけて、ふう、と大きく息をつき、体の力を抜いた。
遥:「……おかえり、ココ」
言ってから、自分で少し驚いた。
ココにとって、ここは初めて来た場所だ。 帰ってきたわけじゃない。
それでも、その言葉しか出てこなかった。
その夜、私は机の引き出しの奥から、あの犬のキーホルダーを取り出して、家の鍵につけた。
◇
ココとの暮らしが始まると、家の中の音が変わった。
放課後、鍵を開けて玄関のドアを引く。
遥:「ココ、ただいま」
廊下の奥から、たたたっ、と爪が床を打つ音が近づいてくる。
角を曲がって現れたココは、私を見るなり、お尻ごと尻尾を振って飛びついてきた。
朝夕の散歩は、私の仕事になった。
ココは歩くのが好きだった。 電柱の匂いを一本ずつ嗅いで、落ち葉を踏んで、ときどき振り返って私を見る。
ただ、少し遠くまで行った日の帰り道、ココはときどき道の真ん中でぺたりと座り込んで、動かなくなった。
遥:「疲れたの? しょうがないなあ」
抱き上げると、ココは私の腕の中で満足そうに目を閉じた。
片腕にすっぽり収まるくらいの重さだった。 歩くより、抱っこされたいだけなんだと思っていた。
散歩の途中で公園に寄ると、竹箒を持ったおじいさんが、赤くなりかけた落ち葉を掃いていた。
リードをつけたココを見て、おじいさんは手を止めた。
 公園のおじいさん:「……そうか。 家の子になったか」
遥:「……はい」
老人はそれだけ言って、目を細めた。
そうたくんにも報告すると、 そうた:「ココちゃん、おうちできたの?」 と飛び跳ねて喜んでくれた。
◇
変わったのは、私だけじゃなかった。
母の忙しさは、相変わらずだった。
それでも、帰ってきた母が、そのまま部屋に閉じこもることはなくなった。
母:「ココ、ごはん食べた?」
遥:「うん、全部食べたよ。 ふやかしたほうが好きみたい」
母:「お水は?」
遥:「さっき替えた」
母:「そう。 ありがとう」
数行で終わってしまう、短いやりとり。
それでも、 「ただいま」 と 「おかえり」 さえうまく交わせなかった私たちにとっては、それが毎晩、少しずつ長くなっていった。
ある夜、遅くに母が帰ってきたとき、ココが私の足元からすっと立ち上がって、とことこ玄関へ歩いていったことがあった。
玄関の段差の前で、ココは一度だけ立ち止まり、それから、ゆっくりと前足を下ろした。
母はスーツ姿のまま、驚いたように瞬きをした。
母:「……あら。 お出迎え?」
母は少しためらってから、買い物袋を床に置き、しゃがみ込んだ。
そして、そっと手を伸ばして、ココの頭を撫でた。
母:「ただいま、ココ。 いい子にしてた?」
その声は、いつも私にかける声より、ほんの少しやわらかかった。
私はリビングのドアの陰から、その光景を見ていた。
少しだけ、ずるい、と思った。
それから、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 ◇
季節がめぐって、木枯らしが吹くようになった。
吐く息が白くなり、窓ガラスが曇りはじめた、ある日の放課後。
家に帰ると、めずらしく、もう母がリビングにいた。
テーブルの上には、包装紙にくるまれた小さな箱がひとつ。
母:「おかえり、遥」
遥:「……ただいま。 早かったんだね」
母は、少しいたずらっぽく笑った。
母:「今日、何の日か覚えてる?」
壁のカレンダーの、赤い丸のついた数字を見て、あ、と声が漏れた。
遥:「……私の、誕生日」
母:「そうよ。 おめでとう、遥」
自分の誕生日を、自分でも忘れかけていた。
母は小箱を、そっと私の前へ滑らせた。
母:「開けてごらん」
リボンをほどいて、ふたを開ける。
中に入っていたのは、小さな赤い首輪だった。
指先で触れると、やわらかな革の感触がした。 磨かれた銀色の金具が、窓から射す冬の光を、静かに跳ね返している。
母:「お店の人にココの大きさを相談して、いちばん軽くて柔らかいのを選んでもらったの。 ……合うといいんだけど」
母は、少し照れくさそうに目をそらした。
母:「遥が毎日、ちゃんとお世話してるの、見てたから」
喉の奥が、ぎゅっと熱くなった。
私は首輪を両手で包んで、胸の前で握りしめた。
遥:「……ありがとう、お母さん」
◇
遥:「ココ、おいで」
呼ぶと、ココはとことこと駆け寄ってきた。
首元に腕を回し、指が一本すっと入るくらいのゆとりを確かめながら、金具を留める。
 ぱちん、と小さな音がした。
黒い毛並みの上に、赤い輪が、冬に咲く椿のようにくっきりと映えていた。
ココは嫌がりもせず、ちょっと胸を張るようにして私を見ている。
遥:「……すごく、似合ってる」
母:「ほんとね。 黒い毛に、よく映える」
隣から覗き込んだ母が、弾んだ声で言った。
顔を上げると、すぐ隣に母の笑顔があった。
母と肩を並べて、同じものを見て笑う。
最後にそうしたのがいつだったのか、思い出せなかった。
母:「これで、正式にうちの子ね」
母がココの背中を撫でながら言った。
遥:「……うん」
それ以上は、声にならなかった。
ココは、母の手の甲と私の指先に、かわるがわる鼻先を押しつけた。
赤い首輪が、傾いた冬の陽を受けて、小さく光っていた。
◇
その夜、机に向かって日記帳を開いた。
遥の日記:『今日、十四歳になった。
お母さんが、ココに赤い首輪を買ってきてくれた。
お母さんが 「これで正式にうちの子ね」 って言った。
誕生日がこんなに嬉しかったのは、いつ以来だろう。

書き終えたところで、ぽたりと、ページに丸い染みが落ちた。
悲しい涙ではなかった。
◇
冬の夜が、静かに更けていく。
木枯らしが、かたかたと窓ガラスを揺らしている。
私は床に厚手の毛布を広げて、石油ストーブのそばにココと並んで座った。
ココは当たり前のような顔をして、私の膝にことんと頭を乗せた。
黒い毛並みの中で、真新しい赤い首輪が、ストーブの橙色の火を映している。
台所から、母がマグカップを洗う水音が聞こえてくる。
きゅっ、と蛇口が締まる音。 食器が触れ合う、かすかな響き。
前の私なら、それを、自分とは関係のない遠い音として聞き流していたと思う。
今は、その音がこの家の中にあることが、ただ嬉しかった。
遥:「……おやすみ、ココ」
ココは、まどろみの中で、一度だけ尻尾を揺らした。
窓の外では、暗闇の中を、白い雪がひとひら、ふたひらと舞いはじめていた。
膝の上の小さな体は温かく、規則正しい寝息が、ストーブの音にまじって聞こえていた。
第07章 春の異変
ふたたび、春がめぐってきた。
朝、窓を開けると、やわらかな風が頬をなでていく。 冬のあいだ裸だった木々の枝先に、生まれたばかりの若葉が光を透かしていた。
 私は三年生になっていた。
春が来るのが、楽しみだった。
――ほんの少し前までは。
遥:「ココ、朝ごはんだよ」
銀色の器を手に、リビングの隅のベッドへ声をかける。
毛布の真ん中で丸くなっていた小さな黒い影が、ゆっくりと顔をもたげた。
けれど、ココはすぐには立ち上がらなかった。
前なら、器にフードを入れる音がしただけで、弾かれたように駆けてきた。
ここ数日は、遠くから鼻先をひくつかせて、それから一歩ずつ、確かめるように歩いてくる。
今朝も、そうだった。
ふやかしたフードを、ほんの二、三粒だけ口に入れると、ココはそれ以上は食べずに、ふう、と小さく息をついて顔を上げてしまった。
遥:「……もう、おしまい?」
ココは静かな目で、私をじっと見ている。
背中に手を滑らせると、毛並みの手ざわりが、冬の頃より少し薄くなったような気がした。
気のせいだと思いたかった。
ココは出会った日から、片腕に収まるほど小さいままだ。 丸い顔も、ぴんと立った三角の耳も、背中に巻いた尻尾も、何ひとつ変わっていないように見える。
◇
前は、私が鞄を持って玄関へ向かうと、ココは廊下を駆けてきて、靴の先に体をすり寄せてきた。
最近は、毛布にあごを乗せたまま、目だけで私を追う日が増えていた。
 遥:「……ココ?」
玄関から呼ぶと、ココは前足に力を入れて起き上がろうとして、途中でやめて、また体を横たえてしまう。
靴を脱いで駆け戻り、頭を撫でる。
ココは私の手のひらに鼻を寄せて、いつものように目を細めた。
――季節の変わり目で、だるいだけ。
――暖かくなって、眠いだけ。
そう言い聞かせながら、私は教室の窓から校庭を見下ろした。
桜並木の蕾が、薄桃色にふくらんでいた。
◇
その日の夕方、私は台所に立つ母に声をかけた。
遥:「……お母さん。 ココの様子が、ちょっと変なの」
まな板を叩いていた包丁の音が、ぴたりと止まった。
遥:「ごはん、ほとんど食べなくなっちゃって。 朝もなかなか起きられないし、散歩に行っても、すぐ座り込んじゃうの」
口に出した途端、ずっと押し込めていた怖さが形になって、胸が苦しくなった。
母はエプロンで手を拭いて、私の顔を見た。
母:「わかった。 明日の朝、病院に連れていこう」
遥:「お母さん、仕事は……」
母:「半日休む」
それから母は、私の肩に手を置いた。
母:「ずっと、ひとりで心配してたの?」
私は、小さく頷いた。
◇
次の朝、母の運転する車で、動物病院へ向かった。
助手席で、毛布にくるんだココを膝に抱く。
ココは暴れもせず、腕の中でじっと丸まっていた。 ときどき顔を上げて私を見るので、そのたびに、私は笑ってみせた。
 遥:「大丈夫だよ、ココ。 すぐ終わるからね」
窓の外を、咲きはじめた桜が流れていく。
◇
待合室は、消毒液の匂いと、動物たちの気配でいっぱいだった。
飼い主の足元で、ゴールデンレトリバーが尻尾を振っている。 キャリーケースの隙間から、猫が不安そうに目を光らせている。 どこかで、子犬がきゃんきゃんと甲高く鳴いていた。
膝の上のココは、重たそうにまぶたを閉じて、かすかな寝息を立てている。
獣医:「ココちゃん、どうぞ」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
◇
ステンレスの診察台の上で、獣医さんはココの体を丁寧に診ていった。
小さな胸に聴診器をあて、口を開いて歯と歯ぐきを確かめ、目にライトを当て、足の関節をゆっくり曲げ伸ばしする。
ココは怯えもせず、されるがままになっていた。
私は台のそばで、ココの前足を握っていた。 冷たかった。
やがて獣医さんは聴診器を外して、私たちのほうへ向き直った。
獣医:「……この子は、かなりの高齢ですね」
頭の中が、真っ白になった。
獣医:「歯のすり減り方や、目の濁り、心臓の音から見ても、人間でいえば八十代か、それ以上だと思います。 食欲が落ちたり、動きが少なくなったりしているのは、年齢によるものの可能性が高いです。 念のため、血液検査もしておきましょう」
獣医さんの声が、水の底から聞こえてくるように遠かった。
パンの耳を、いつも残していたこと。
芝生で走ったあと、息が落ち着くまでに、ずいぶん長くかかったこと。
散歩の帰り道、道の真ん中で座り込んだこと。
玄関の段差の前で、一度立ち止まっていたこと。
 寒い朝、なかなか毛布から出てこなかったこと。
去年、この病院で 「思ってるより大人ですよ」 と言われて、笑って聞き流したこと。
全部、見ていたのに。
私は、この子のことを何も知らない。
どこで生まれて、誰と暮らして、どんなふうに年をとってきたのか。
私と過ごしたこの一年は、ココが生きてきた長い時間の、ほんの終わりのほうの、少しだけだったのかもしれない。
遥:「……先生」
かすれた声が出た。
遥:「ココは……また、元気になりますか。 前みたいに、走れるようになりますか」
獣医さんはすぐには答えなかった。
獣医:「少しでも楽に過ごせるように、できることは一緒に考えていきましょう」
それから、言葉を選ぶように、少し間を置いた。
獣医:「ただ……もう、長くはないかもしれません」
診察室が、しんと静まりかえった。
腕の中のココを見下ろす。
小さな胸が、かすかに上下していた。
遥:「……ココ」
呼ぶと、ココはゆっくり目を開けて、私を見上げた。
黒くて、静かな瞳。 あの雨の日から何も変わらない光だった。
◇
帰りの車の中、私は窓の外ばかり見ていた。
道路沿いの桜並木が、ゆっくりと後ろへ流れていく。 蕾がほころび、淡い色の花が、日差しの中で風に揺れていた。
 きれいだと思った。
でも、今日だけは、桜が咲いていくのが苦しかった。
膝の上のココを抱く腕に、力が入った。
遥:「……春なんて、来なければよかったのに」
声にしてから、自分の言葉にぞっとした。
赤信号で、車が止まる。
母は前を向いたまま、静かに言った。
母:「……怖いね」
遥:「……うん」
信号が青に変わるまで、母は何も言わなかった。
それから、ゆっくりと車を出した。
母:「……帰ろう。 ココのおうちに」
◇
家に帰ってから、私はココのそばを離れなかった。
リビングのいちばん暖かい場所に毛布を敷き直し、いつものフードをぬるま湯でふやかして、スプーンの先に少しだけ乗せる。
ココは舌の先をのばして、スプーンの端をほんの少し舐めただけで、すまなそうに顔をそむけてしまった。
遥:「……そっか。 無理しなくていいよ」
カーテンの隙間から、夕暮れの光が床に長く伸びていた。
毛布の中で、ココは小さく丸くなって眠っている。
その背中が静かに上下するのを、私はまばたきも惜しんで見つめていた。
◇
夜、机のスタンドだけをつけて、日記帳を開いた。
遥の日記:『ココが、ごはんを食べられなくなった。
 病院の先生に、もうおじいちゃんだと言われた。
長くないかもしれないって。
神様、どうかもう少しだけ。
もう少しだけでいいから、ココを私のそばにいさせてください。 』
最後の一行を書き終えた途端、ぽたりと涙がページに落ちた。
青いインクがにじんで、文字がかすれた。
◇
部屋のドアが、そっと開いた。
母:「……遥?」
私はあわてて日記帳を伏せ、袖で目をこすった。
母は私の顔を見て、それから足元の毛布に目を落とした。
母:「ココ、寝てる?」
遥:「うん。 さっき、やっと寝息を立てはじめたの」
母は足音を立てずに入ってきて、私の隣に腰を下ろした。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
母が手を伸ばして、眠っているココの背中を、そっと撫でた。
母:「……頑張ってるね」
ココに言ったのか、私に言ったのか、わからなかった。
母は立ち上がると、ベッドの上の毛布を一枚取ってきて、私の肩にふわりとかけた。
それから、また隣に座り直した。
私は、母の肩にそっと額を預けた。
 すう、すう、と、ココの小さな寝息が聞こえる。
ココは眠ったまま、巻いた尻尾の先を、ほんのかすかに動かした。
窓の外で、夜の風が木々を揺らしていた。
明日になれば、街の桜はまた、何事もなかったように新しい花を開くだろう。
ココの小さな温もりに手を添えたまま、私は目を閉じた。
生まれて初めて、春がめぐってくることを、怖いと思った。
第08章 最後の散歩
春の陽射しが、窓辺にやわらかな光の帯を落としていた。
レースのカーテン越しの光が、床の上に細長いひだまりをつくっている。 窓の外では、満開の桜の枝が風に揺れて、さわさわと衣擦れのような音を立てていた。
私は、毛布の上で丸くなって眠るココを、息を潜めて見つめていた。
黒い、小さな丸い体。 目を閉じていても、目の上の斑点は、少し困ったような顔をつくっている。
首元には、冬の誕生日に母がくれた赤い首輪。 すっかり馴染んだ革が、黒い毛並みの中で、今も小さく灯っていた。
ココは、もう自分で立ち上がることもできなかった。
ごはんは、ほんの数口。 器から水を飲むのもつらそうで、私はスプーンでぬるま湯をすくって、乾いた口元を数滴ずつ湿らせていた。
病院で 「長くはないかもしれない」 と言われてから、母と何度も通院した。
獣医さんに教わったとおり、やわらかいごはんを工夫し、床ずれしないように体の向きを変え、やさしくさすった。
それでも、ココの小さな体から少しずつ力がこぼれていくのを、止めることはできなかった。
 遥:「……ココ」
ココは、ゆっくりと重たそうにまぶたを開けた。
黒い瞳が、まっすぐに私をとらえる。
そして、巻いた尻尾の先が、ぱた、と一度だけ、シーツの上で揺れた。
遥:「……ココ。 お外に、行ってみようか」
もう、あの芝生を自分の足で走ることはできない。
それでも、もう一度だけ、あの公園へ行きたかった。
◇
遥:「お母さん……お願いがあるの」
台所で洗い物をしていた母が、泡を流して振り返った。
遥:「ココを、お外に連れていってあげたいの。 あの公園に」
私は自分のつま先を見つめた。
遥:「もう歩けないのは、わかってる。 でも……もう一度だけ、あそこの風を、ココに感じさせてあげたいの」
母は濡れた手をタオルで拭きながら、しばらく私の顔を見ていた。
母:「……そうだね」
母は押し入れの奥から、厚手の柔らかい毛布を出してきた。
母:「これで包んであげて。 春でも、風に当たると冷えるから」
手渡された毛布は、洗いたての日向の匂いがした。
母:「お母さんも、一緒に行こうか」
私は少し迷ってから、首を横に振った。
遥:「……ココと、ふたりで行きたいの」
母は一瞬だけ目を伏せて、それから、そっと私の肩に手を置いた。
母:「わかった。 ゆっくりね。 ココが疲れる前に、帰っておいで」
ココのそばに膝をついて、両腕で小さな体をすくい上げる。
その軽さに、息が止まりそうになった。
散歩の帰り道に抱き上げたときの、片腕にすっぽり収まるあの重さよりも、もっと軽い。
喉の奥から込み上げてくるものを、唇を引き結んで押し戻した。
 母の毛布でココをくるむ。 合わせ目から、三角の耳と、胸元の白い三日月がのぞいていた。
遥:「行こうね、ココ。 ゆっくり、行こう」
◇
外に出ると、春のやわらかな空気が街じゅうに満ちていた。
通りの桜並木は、ちょうど満開を迎えていた。 ぬるい風が吹くたびに、枝先から淡い花びらがこぼれ、雪のように宙を舞う。
毎日、鞄を背負って駆け抜けた通学路を、私は一歩ずつ踏みしめるように歩いた。
古い文房具屋の前を通りかかると、店先で鉢植えに水をやっていたおばあさんが顔を上げた。
おばあさん:「あら。 今日は抱っこでお散歩?」
遥:「……はい」
おばあさんは毛布の中のココを覗き込んで、何かを察したように目を細めた。
おばあさん:「そう。 ……いいお天気で、よかったわねえ」
私は小さく頭を下げて、また歩き出した。
通りの向こうを、自転車の男の子たちが笑い声を上げながら走り抜けていく。
どこにでもある、春の午後だった。
毛布の隙間から、ココの顔を覗き込む。
ココは目を閉じたまま、鼻先をかすかにひくつかせていた。
桜の匂い。 土の匂い。 春の街の空気を、小さな呼吸で、ちゃんと吸い込んでいた。
遥:「この道を通ってね、毎日ココに会いに行ってたんだよ」
毛布を抱き直す。
遥:「最初はね、遠くから見たら、黒い雑巾が落ちてるのかと思ったの」
風が吹いて、花びらがブレザーの肩をかすめ、ひらりと地面に落ちていった。
◇
公園に入ると、いつものベンチの下には、ぽっかりと影が落ちているだけだった。
私は、ペンキの剥げたベンチに腰を下ろした。
 膝の上に毛布を広げて、その真ん中にココをそっと寝かせる。
春の風が、黒い毛先と赤い首輪を撫でていった。
公園の向こう端で、竹箒を持ったおじいさんが手を止めて、こちらを見ていた。
おじいさんは帽子をとって、小さく頭を下げた。
そして、それ以上は近づかずに、背を向けて、ゆっくりと公園の反対側へ歩いていった。
遥:「……ココ、着いたよ」
顔を覗き込むと、ココは重いまぶたをゆっくり持ち上げた。
その瞳に、満開の桜の枝と、私の顔が映っている。
笑いかけようとした。 でも、口元が歪んで、うまく笑えなかった。
遥:「ここで、会ったんだよ」
毛布越しに、背中をそっと撫でる。
遥:「冷たい雨が降ってて……私、どうしてあげたらいいのか、全然わからなくて。 傘を傾けて、ハンカチで背中を拭くことしか、できなかったの」
涙が、頬を伝った。
遥:「……ありがとう、ココ」
声が震えて、春の風ににじんでいく。
遥:「あの雨の日に、ここにいてくれて、ありがとう」
私は膝の上のココを、そっと抱きしめた。
遥:「ココと一緒にいられて……私、すごく、幸せだよ」
ふわりと、強い風が吹いた。
満開の桜が一斉に波打ち、無数の花びらが舞い上がって、私たちのまわりを通り過ぎていく。
その中のひとひらが、ココの黒い鼻先に、ふわりと落ちた。
ココは目を細めて、困り眉をきゅっと寄せた。
 それから、残っている力を振り絞るように、私の手のひらを、ちろりと一度だけ舐めた。
かすかに湿った、温かな感触だった。
涙が、ぼろぼろとこぼれた。
私はその頭を、何度も撫でた。
いつまでも、こうしていたかった。
でも、吹き抜けた風はとどまらずに去っていき、舞い上がった花びらは、やがて地面に落ちていく。
わかっていた。
わかっていたけれど、まだ、認めたくなかった。
◇
帰り道、私は何度も振り返った。
ベンチは満開の桜の下で、春の陽を浴びていた。
遥:「……おうちに帰ろうね、ココ」
毛布の端を整えて、胸元に引き寄せる。
ココは安心しきったように、静かに目を閉じていた。
玄関のドアを開けると、母が上がり框に立って待っていた。
母:「おかえり」
遥:「……ただいま」
母は私の腕の中のココに目を落として、それから何も言わずに、私の背中を大きく撫でた。
夜、私はリビングのココのベッドのすぐ隣に、自分の布団を敷いた。
毛布にくるまって丸くなっているココと、額を寄せるようにして横になる。
 ココは、ただ静かに、浅い呼吸を繰り返していた。
遥:「……おやすみ、ココ。 明日も、一緒にいようね」
夜が明ければ、またこの子に会える。
そう信じていなければ、この夜をやり過ごせそうになかった。
明かりを落とすと、窓の外で、春の夜風が枝を鳴らす音だけが残った。
◇
夜のあいだ、私は何度も目を覚ました。
そのたびに、隣の毛布に手を伸ばした。
小さな背中が、かすかに上下している。
温もりを確かめて、息を吐いて、また浅い眠りに沈んでいった。
そして。
窓の外が、夜明け前の薄い青に変わりはじめた頃。
何かに呼ばれたような気がして、私はふっと目を覚ました。
部屋の中は、しんと静まりかえっていた。
どんなに弱っていても、耳を澄ませば聞こえていた、あの小さな寝息。
それが、聞こえなかった。
遥:「……ココ?」
薄青い光の中で、ココは毛布の上に、くるりと小さく丸くなっていた。
いつものように、ただ気持ちよく眠っているように見えた。
 手を伸ばして、小さな頭に触れる。
背中を撫でる。
ココは、まぶたを開けなかった。
遥:「……ココ。 朝だよ」
いつもなら、三角の耳がぴくりと動いた。
いつもなら、まぶしそうに目を開けて、私を見た。
いつもなら、巻いた尻尾の先が、かすかに揺れた。
何も、起こらなかった。
毛布ごと、ココを抱き上げる。
腕の内側に伝わってきたのは、昨日までの温もりではなかった。
頭の中が、真っ白になった。
喉から、何の音も出てこなかった。
ただ、その小さな体を、胸に強く抱きしめていた。
どれくらいそうしていたのか、わからない。
廊下で、床がきしむ音がした。
リビングの戸が開いて、母が立っていた。
母は、毛布を抱いて座り込んでいる私を見て、それから、私の腕の中を見た。
 母は何も言わなかった。
そばに来て膝をつき、私ごと、ココを抱きしめた。
母の腕が、小さく震えていた。
そのとき、やっと、声が出た。
遥:「……ココ」
一度出たら、もう止まらなかった。
遥:「ココ……ココ……っ」
私は母の腕の中で、ココを抱いたまま、声を上げて泣いた。
返事がないのはわかっていた。 それでも、名前を呼ぶのをやめられなかった。
母は、私の背中を撫で続けていた。
何も言わずに、ずっと。
しばらくして、私は、冷たくなったココの額に、そっと頬を寄せた。
遥:「……ありがとう、ココ」
かすれた声だった。
遥:「あなたに会えて……本当に、幸せだったよ」
カーテンの隙間から、春の風がそっと吹き込んできた。
風は、ココの黒い毛並みと、首元の赤い首輪を、かすかに揺らしていった。
窓の外が、少しずつ明るくなっていく。
鳥が鳴きはじめ、遠くで、新聞配達のバイクの音がした。
いつもと同じ朝が、来ようとしていた。
 ココのいない、はじめての朝だった。
第09章 空の下の沈黙
ココがいなくなってから、家の中は静かになった。
けれどそれは、前にこの家を覆っていた静けさとは、違っていた。
前は、誰も話さないから静かだった。
今は、誰かがいなくなったから静かだった。
朝、目を覚ます。
部屋の隅に、丸まった毛布だけが残っている。
片づけなきゃいけない、と頭のどこかではわかっていた。 それなのに、手が動かなかった。
しゃがみ込んで、毛布の端を持ち上げ、顔を埋める。
日向と乾いた草の匂いが、まだかすかに残っている気がした。
遥:「……ココ」
返事は、ない。
火葬の日のことは、よく覚えていない。
小さな白い箱になって帰ってきたココは、今、リビングの棚の上にいる。
その隣に、ココの首から外した赤い首輪が置いてある。
◇
学校には、行けなかった。
制服に袖を通そうとすると、途中で腕が止まってしまう。
 鞄を開けても、教科書を出す力が湧いてこない。
枕元のスマホが、ときどき短く震えた。
二年生の雨の日、 「また明日ね」 と手を振ってくれた子だった。 三年生でも、同じクラスになっていた。
クラスメイトのメッセージ:『大丈夫? プリント、預かっとくね』 画面を見つめたまま、私は何も返せなかった。
返さなきゃ、と思うほど、指が動かなくなった。
そのうちに画面が暗くなって、私はスマホを裏返して枕の下に押し込んだ。
ごはんを口に入れても、味がしなかった。
机の引き出しの日記帳にも、触れられなかった。
引き出しの取っ手に手をかけては、離した。
◇
夜、眠れないまま天井を見ていると、考えてしまう。
冬のあいだ、ココがなかなか毛布から出てこなかったのは、寒いからじゃなかった。
散歩の帰りに座り込んだのも、抱っこされたいからじゃなかった。
もっと早く病院に連れていっていたら。
あの最後の散歩だって、本当は、ココにとってつらかったんじゃないか。
あれは、私が行きたかっただけなんじゃないか。
答えを教えてくれる人は、どこにもいなかった。
 ◇
母は、私を一度も急かさなかった。
朝ごはんにほとんど手をつけなくても、食べなさいとは言わなかった。
学校に行けない日が続いても、理由を訊いたり、焦らせたりもしなかった。
ただ、仕事に行く前と、帰ってきたあと、私の部屋のドアを細く開けて、顔をのぞかせた。
母:「……何か、ひと口でも食べられそう?」
首を横に振ると、母は 母:「そっか」 とだけ言って、静かにドアを閉める。
しばらくすると、小さなマグカップに温かいスープを入れて持ってきてくれた。
味はまだよくわからなかったけれど、その温かさだけは、ちゃんと喉の奥へ落ちていった。
ある日の午後、ベッドの端に座ってぼんやりと窓の外を見ていると、母が入ってきて、私の隣に腰を下ろした。
しばらく、何も言わなかった。
それから、静かに言った。
母:「今はね、無理に元気にならなくていいのよ」
ぽたり、と膝の上に染みができた。
遥:「……うん」
母の手が、私の肩にそっと置かれた。
悲しみが消えたわけじゃない。 ココが戻ってくるわけでもない。
けれど、隣に誰かが座っていた。
◇
朝が来て、夜が過ぎていった。
窓から差し込む光の角度が変わり、庭の若葉が日ごとに濃くなっていく。
 ある日の午後、玄関のチャイムが鳴った。
やがて、母が部屋のドアをノックした。
母:「遥。 公園のおじいさんが、来てくださったわよ」
◇
開けた扉の前に、あのおじいさんが立っていた。
いつもの作業着ではなく、少し古びたジャンパーを着ていた。
その手に、藍色の風呂敷に包んだ、小さな包みを持っている。
遥:「……こんにちは」
頭を下げると、老人は深く一礼を返した。
公園のおじいさん:「急に、すまんね。 そうたくんのお母さんに、お宅を聞いてな」
老人は、それ以上お悔やみのようなことは言わなかった。
ただ、手の中の包みを、両手で私に差し出した。
拍子抜けするほど、軽かった。
藍色の布をほどくと、中から出てきたのは、古びた革の首輪だった。
擦り切れて、黒ずんだ茶色の革。
小さな真鍮の金具には、ところどころ緑色の錆が浮いている。
長いあいだ、誰かが使い続けてきたものだと、ひと目でわかった。
遥:「……これ、は」
公園のおじいさん:「あの子を初めて見かけた少し前に、ベンチのそばの植え込みに落ちとった」
老人は、首輪を見つめながら言った。
公園のおじいさん:「あの子のものだろうとは思ったが、確かめようがなくてな。 捨てるに捨てられんで、道具箱にしまっておいた」
老人は少し言葉を切った。
公園のおじいさん:「家の子になったと聞いたとき、渡そうかと思った。 だが、前の家の匂いのするものを持っていくのも、どうかと思ってな」
それから、私の目を見た。
 公園のおじいさん:「……遅くなった」
私は首輪を、両手で包むように握りしめた。
硬くなった革の手ざわり。 冷たい真鍮。
ここに、私の知らないココがいた。
遥:「……ありがとうございます」
深く頭を下げると、老人は小さく頷いて、もう一度母に会釈をし、ゆっくりと帰っていった。
その背中が角を曲がるまで、私は玄関に立っていた。
◇
首輪を手のひらに乗せたまま、私は縁側に出た。
空は、どこまでも澄んだ春の青だった。
薄く刷いたような白い雲がゆっくりと流れ、ぬるい風が、どこかの遅咲きの桜の花びらを、ひとひら庭先へ運んできた。
縁側に腰を下ろして、膝の上に首輪を置いた。
かつて、あの子がこれをつけて、どこかの日向を歩いていた。
遥:「……ココ」
名前は、春の風にさらわれて、青い空に溶けていった。
◇
部屋に戻って、机の前に座った。
リビングの棚から持ってきた赤い首輪を、古い首輪の隣に置く。
冬の夕方、母がくれた深い赤と、長い年月を刻んだ黒ずんだ茶色。
ふたつの首輪が、机の上に並んでいた。
ふと、古い首輪の金具の脇にぶら下がっている、小さな金属のタグに目が留まった。
 真鍮でできた、楕円形の筒のようなタグ。 表面はすっかりくすんでいたけれど、よく見ると、爪がかかるくらいの細い継ぎ目があった。
継ぎ目に爪の先をかけて、そっとひねる。
固い手ごたえのあと、古い金属が、きし、と小さく鳴って回った。
小さな筒の中に、小指の先ほどに折りたたまれた、薄い紙が入っていた。
指を伸ばして、つまみ出す。
黄ばんで、少し湿り気を吸った、今にも崩れそうな紙だった。
開こうとして、指が止まった。
ココを大事にして、この首輪をつけてあげた、誰か。
その人の言葉が、ここにあるのかもしれない。
これを読んでしまったら、私の知っているココが、知らない誰かのものになってしまうような気がした。
そんなはずはないと思っても、その気持ちは消えなかった。
もう一度、紙の端に指をかけた。
目の奥が熱くなって、視界がぼやける。
私は、紙を元どおりタグの中に戻した。
きし、と小さく鳴らして、蓋を閉める。
――まだ、読めない。
 ◇
夜になっても、私は机の前から動けなかった。
スタンドの明かりの下で、ふたつの首輪が並んでいる。
引き出しの中には、まだ開けられない日記帳がある。
タグの中には、まだ読めない手紙がある。
ドアの外で、ことりと小さな音がした。
母:「……ごはん、置いとくね」
母の声だった。 足音が、静かに遠ざかっていく。
しばらくしてからドアを開けると、廊下にお盆が置いてあった。
小さなおにぎりがふたつと、湯気の消えかけたお味噌汁。
私はそれを部屋に入れて、おにぎりをひとつだけ、少しずつ食べた。
ちゃんと、お米の味がした。
机の上の古い首輪に、そっと指で触れる。
窓の外で、春の夜風が木々を揺らしていた。
私はスタンドの明かりを消して、暗がりの中で、しばらくそのまま座っていた。
第10章 タグに残された手紙
朝、目を覚ますと、部屋のドアの外に、湯のみがひとつ置いてあった。
仕事に出る前に、母が置いていったのだろう。
陶器の縁から、細い湯気がゆらゆらと立ちのぼっていた。
 ドアを開けて、両手で湯のみを包む。 冷えていた指先に、じんわりと熱が伝わってきた。
メモも、何もなかった。
ひと口飲むと、香ばしい匂いと温かさが、喉を通って胸のほうへ落ちていった。
湯のみを、机の端に置く。
そのすぐ隣に、古い首輪があった。
金具の脇の、小さな筒のようなタグ。
その中に、まだ読めない手紙がある。
遥:「……ココ」
首輪に向かって、小さく呼んでみる。
返事はない。 古い革が、朝の光を鈍く跳ね返しているだけだった。
湯のみに、もう一度手を伸ばす。
まだ、温かかった。
何も言わずにこれを置いていった母の手を、思った。
――読もう。
私は首輪を両手で持ち上げた。
タグの細い継ぎ目に、爪の先をかける。
きし、と小さく鳴って、蓋が回った。
 遥:「……読むね、ココ」
◇
筒の中から、小指の先ほどに折りたたまれた紙を、そっとつまみ出す。
黄ばんで、薄くて、長いあいだ暗い場所にしまわれていたせいか、折り目が深く刻まれていた。
破らないように、手のひらの上で、ひとつずつ折り目をほどいていく。
かすれたインクの文字が、現れた。
名前でも、住所でもなかった。
たった一行だけ、丁寧な字で、こう書かれていた。
手紙:『この子が、誰かの笑顔になれますように』
私は、息をするのを忘れていた。
指先で、何度もその一行をなぞった。
名前も、日付も、書いた人の署名もない。
それでも、一文字ずつ、ゆっくりと書かれたのがわかる字だった。
この人は、ココのそばに、ずっとはいられなかったのかもしれない。
どうして書いたのか、私にはわからない。
わかるのは、この人がココのことを、とても大事に思っていたということだけだった。
――誰かの。
あの雨の日、傾けた傘の下で、ココが顎を持ち上げた。
次の日、冷たい鼻の頭が、私の指先にちょんと触れた。
 膝の上の、小さくて温かい重み。
お尻ごと揺れていた、巻いた尻尾。
赤い首輪をつけたココを、お母さんと並んで見て、笑った。
私は、笑っていた。
ココといるとき、私はいつも笑っていた。
ココがいなくなってから、私は、自分がココに何をしてあげられたかばかり、数えていた。
この手紙は、そんなことは何も訊いていなかった。
膝の上で、ココは安心しきって目を閉じていた。
玄関では、お尻ごと尻尾を振って、私を待っていた。
あの日々の中にいたのは、ココと、私だった。
涙が、紙の上に落ちそうになって、私は慌てて顔をそらした。
◇
遥:「……ちゃんと、なれたよ」
朝の静かな部屋で、声に出して言った。
会ったこともない、この手紙を書いた人に。
それから、ココに。
机の上には、ふたつの首輪が並んでいた。
母がくれた赤い首輪と、誰かの願いを抱えて長い時間を旅してきた、古い首輪。
 ココは、もういない。
どんなに名前を呼んでも、毛布の中から黒い顔がのぞくことはない。
それは変わらない。
それでも。
ココがいなくなっても、ココが私にくれたものまで、なくなってしまったわけじゃなかった。
ぽたぽたと、膝の上に涙が落ちた。
窓から春の風が吹き込んで、レースのカーテンをふわりとふくらませた。
◇
机の引き出しを開けて、日記帳を取り出した。
ココがいなくなってから、一度も開けなかったノート。
ページをめくると、私の不器用な字で、あの日々が並んでいた。
遥の日記:『ココに名前をつけた。 』 『ココはパンの耳を食べない。 贅沢な犬だ。 』 『今日、十四歳になった。 』
パンの耳のところで、指が止まった。
胸が、ちくりと痛んだ。
それでも、ページを閉じなかった。
 新しいページを開いて、ペンを取った。
遥の日記:『首輪のタグの中に、手紙が入っていた。
「この子が、誰かの笑顔になれますように」
って書いてあった。
誰が書いたのかは、わからない。
でも、その人に、教えてあげたい。
まだ、うまく笑える気はしない。
でも、もう一度、笑ってみようと思う。 』
ペンを置いた。
涙はまだ、ときどき頬を伝って落ちた。
◇
手のひらの紙を、元の折り目どおりに、ゆっくりと小さくたたんでいく。
それから、タグの筒の中にそっと戻して、きし、と蓋を閉めた。
書いた人の名前も、ココが前にどんな名前で呼ばれていたのかも、私は知らない。
それでいい、と思った。
古い首輪を両手で包む。
遥:「……ココ。 ちゃんと、受け取ったよ」
返ってくる足音も、寝息もない。
それでも私は、涙の跡が残る顔で、少しだけ口の端を上げてみた。
 ぎこちない笑い方だった。
ココが見たら、きっと首をこてんと傾げただろう。
◇
夕方、玄関の鍵の回る音がした。
私は部屋を出て、廊下を歩いた。
足が、少しふらついた。 何日もほとんど部屋から出ていなかったせいだ。
玄関で靴を脱いでいた母が、顔を上げた。
私がそこに立っているのを見て、驚いたように手を止めた。
遥:「……おかえり」
私が言うと、母は少しのあいだ、何も言わなかった。
それから、 母:「ただいま」 と言った。
声が、少しだけ震えていた。
遥:「お茶」
私は、言葉を探した。
遥:「……朝の、お茶。 おいしかった。 ありがとう」
母は、靴を片方脱いだまま、私を見ていた。
それから、ふっと目元をゆるめて、小さく頷いた。
母:「……うん」
母が上がり框に上がって、私の頭に、そっと手を置いた。
その手は、外の空気をまとって、少しだけ冷たかった。
私は、その手の下で、もう一度だけ、ぎこちなく笑ってみた。
 第11章 命のバトン
春の陽射しが、日ごとに暖かさを増していた。
庭の隅で、冬を越したチューリップが花びらを開きはじめている。
私は、机の上に広げたアルバムを見つめていた。
母が押し入れの奥から出してきてくれた、私が小さい頃の写真が数枚だけ入った、古いアルバムだった。
その空いたページに、スマホに残っていたココの写真を、プリントして一枚ずつ貼っていった。
芝生の上を、耳を後ろに倒して夢中で駆けている姿。
私の膝にあごを乗せて、目を細めている寝顔。
誕生日の夕方、真新しい赤い首輪をつけて、ちょっと胸を張っている顔。
母がココの首元に指を添えて、笑っている写真。 赤い首輪をつけた日に、私が撮ったものだ。
母がこんなふうに笑う顔を写真に残したのは、たぶん、これが初めてだった。
遥:「……ココ」
小さく呼んでみる。 返事はない。
それでも、写真を見ることが、前みたいにこわくはなくなっていた。
私はペンを取って、一枚の写真の下に、小さく書き添えた。
遥:『ココ。
わたしの笑顔。
だれかの、願い。

◇
窓の外は、どこまでも澄んだ春の青空だった。
――外に、出てみよう。
ふと、そう思った。
遥:「お母さん、ちょっと、公園まで行ってくる」
玄関でスニーカーの紐を結びながら声をかけると、母がリビングから顔を出した。
母:「……外、行くの?」
遥:「うん。 少しだけ、歩いてくる」
母はしばらく私の顔を見ていた。
それから、目元をゆるめた。
母:「いってらっしゃい。 気をつけてね」
遥:「うん。 いってきます」
ドアを開けると、まぶしい光と一緒に、やわらかな風が頬を撫でていった。
ひとりで外を歩くのは、ココがいなくなってから、初めてだった。
買い物袋を提げた人とすれ違う。 自転車の高校生が、笑い声を残して走り抜けていく。 文房具屋の店先には、新しい鉢植えが並んでいた。
ココを抱いて、桜を見上げながら歩いた道。
私は、自分の足で、この道を歩いていた。
◇
公園に入って、いつものベンチの前に立った。
ベンチの下には、誰もいなかった。
私は、ペンキの剥げたベンチの背に、そっと手を置いた。
遥:「……久しぶり、ココ」
返事のかわりに、頭の上で、若葉がさわさわと鳴った。
公園の向こう端で、竹箒の音が止まった。
 おじいさんが、こちらを見て、片手を軽く上げた。
私は、小さく頭を下げた。
おじいさんは頷いて、また箒を動かしはじめた。
そのとき、芝生のほうから、明るい笑い声が聞こえてきた。
小さな男の子が、赤いリードを握っていた。
その足元を、淡いクリーム色の子犬が、短い足でぽてぽてと跳ねるように歩いている。
何かの匂いを見つけるたびにぴたりと止まる子犬に、男の子は急かしもせず、しゃがみ込んで頭を撫でていた。
少し後ろで、母親らしい女の人が、目を細めてふたりを見守っている。
男の子が、ふと顔を上げた。
目が合った。
そうた:「……あっ! ココちゃんのおねえちゃん!」
そうたくんだった。
一年前より背が伸びて、ランドセルが似合いそうな顔になっていた。
子犬のリードを引いたまま、そうたくんは芝生を駆けてきた。
後ろから、お母さんが そうたの母:「そうた、走らないの」 と追いかけてくる。
そうた:「おねえちゃん、ひさしぶり!」
遥:「……うん。 久しぶり。 そうたくん、一年生になったの?」
そうた:「うん! いちねんにくみ!」
そうたくんは胸を張ってから、きょろきょろとあたりを見回した。
そうた:「ねえ、ココちゃんは?」
追いついたお母さんが、はっとしたように息を呑むのがわかった。
 何か言いかけたお母さんより先に、私は、しゃがんでそうたくんと目の高さを合わせた。
遥:「ココはね」
喉の奥が、きゅっと狭くなった。
遥:「……もう、いないの。 おじいちゃんだったから、お空に行っちゃったの」
そうたくんは、しばらく黙って私の顔を見ていた。
そうた:「……そっか」
小さな声だった。
それから、そうたくんは手を伸ばして、私の頭を、ぽん、ぽん、と二回撫でた。
お母さんが自分にしてくれるのを、まねしたような手つきだった。
私は、ただ 遥:「……ありがとう」 と笑った。
足元で、子犬が私の靴の匂いをくんくんと嗅いでいた。
遥:「この子、そうたくんの犬?」
そうた:「うん! ソラっていうの」
そうたくんは、少し得意そうに言った。
そうた:「おそらみたいにひろいところで、いっぱいはしれますようにって。 ぼくが、つけたの」
私は、そうたくんの顔を見つめた。
一年前、このベンチの前で、私はこの子に、ココの名前のことを話した。
遥:「さわってもいい?」
気がつくと、私のほうが、一年前のそうたくんと同じことを訊いていた。
そうた:「いいよ! でもね、びっくりしちゃうから、ゆっくりね」
そうたくんが、私の言った言葉をそのまま返してきて、私は思わず笑ってしまった。
手のひらを差し出すと、ソラは鼻先をひくひくさせて匂いを確かめ、それから、ちろりと私の指を舐めた。
小さくて、温かくて、少しくすぐったかった。
そうた:「なめた! おねえちゃん、なめてくれたよ!」
そうたくんが、一年前と同じように叫んだ。
 ◇
手を振って帰っていくそうたくんとソラを、私はベンチのそばで見送った。
そうたくんがリードを持ち直し、ソラは弾むような足取りで、その足元に寄り添って歩いていく。
小さな尻尾が、楽しそうに揺れていた。
ソラが振り返って、そうたくんを見上げた。
そうたくんが、何か言って笑った。
私は、引き出しの中の小さなタグのことを思った。
涙は、出なかった。
◇
公園の出口へ向かう坂道を下りていくと、向こうから、見慣れた人影が歩いてきた。
母だった。
薄手のカーディガンを羽織って、きょろきょろとあたりを見回している。
目が合うと、母はほっとしたように眉を下げて、足を速めた。
それから、何でもないふうを装って、私の隣に並んだ。
母:「……どうだった?」
遥:「外の風、気持ちよかった」
母は、黙って頷いた。
並んで歩きながら、私は、母の手を見た。
指先が、少し荒れていた。
私はその手に、そっと自分の手を重ねた。
 母が、驚いたようにこちらを向く。
私は恥ずかしさをこらえて、その手を、ぎゅっと握った。
遥:「公園でね、そうたくんに会ったの」
母:「そう」
遥:「子犬を飼ってた。 ソラっていうんだって。 ……自分で、名前をつけたんだって」
母は、私の顔を見た。
何か言おうとして、やめたようだった。
それから前を向いて、握った私の手を、少しだけ強く握り返した。
私たちは、それ以上何も話さずに、春の並木道をゆっくりと歩いた。
◇
家に帰ると、枕元のスマホを手に取った。
ずっと返せずにいた、メッセージの画面を開く。
クラスメイトのメッセージ:『大丈夫? プリント、預かっとくね』 日付は、もう何週間も前だった。
何度か書いては消して、それから、短く打った。
遥のメッセージ:『返事、遅くなってごめんね。 ありがとう。 明日、行けたら行きます』
送信のボタンを押す指が、少し震えた。
しばらくして、スマホが短く震えた。
クラスメイトのメッセージ:『おかえり! 待ってる』
私はその一行を、しばらく見つめていた。
◇
机の前に座って、もう一度アルバムを開いた。
最後のページは、まだ真っ白だった。
このページに、いつか何かを貼る日が来るだろうか。
 まだ知らない誰かと、並んで撮った写真とか。
あの雨の日、傘を傾けたのは、私だった。
次に誰かの隣で傘を傾けるのも、たぶん、私だ。
アルバムを閉じて、本棚のいちばん手の届きやすい場所に立てた。
窓を開けると、春の風が頬を撫で、髪を揺らしていった。
――明日は、学校へ行ってみよう。
きっと、少し足がすくむ。
教室のドアの前で、立ち止まってしまうかもしれない。
それでも、行ってみよう。
自分の足で。
第12章 風の匂い
高校二年生の春が来ていた。
美術室の大きな窓から、午後の光が差し込んでいる。
机の上の画用紙に、窓枠の影が斜めに落ちていた。
今回の課題は、 「思い出」 だった。
先生がそう言ったとき、描くものは、すぐに決まった。
けれど、真っ白な画用紙の前で、私はしばらく鉛筆を持ったまま動けなかった。
 画用紙の上には今、やわらかな春の青空と、若葉の茂る公園の緑がある。
そしてその真ん中に、小さな黒い犬の後ろ姿。
短い足。 丸い背中と、丸いお尻。 背中の上に、くるんと乗った巻き尾。
その子は、少しだけ顔を上げて、空を見上げている。
顔は、描かなかった。
忘れたからじゃない。
黒い丸い瞳も、とぼけた困り眉も、目を閉じればすぐに浮かんでくる。
だからこそ、描けなかった。
どんなに上手に描いても、紙の上の顔は、きっとあの子の顔にはならない。
あの子の顔は、私の中にあるままにしておきたかった。
クラスメイト:「遥、それ、犬?」
隣の席から、声がした。
パレットを持ったクラスメイトが、私の画用紙を覗き込んでいた。
遥:「うん。 中学のとき、うちにいた犬。 ……ココっていうの」
クラスメイト:「ココちゃん。 かわいい。 後ろ姿なのに、なんか、こっち向いてるみたいに見える」
遥:「……ありがとう」
ココのことを、こんなふうに誰かに話すのは、まだ少しだけ胸が痛む。
それでも、声は震えなかった。
クラスメイト:「なんで顔描かないの?」
遥:「なんでだろう」
少し考えてから、私は言った。
遥:「たぶん、覚えてるから、かな」
クラスメイトは不思議そうに首を傾げてから、 クラスメイト:「なんかわかる気がする」 と笑って、自分の画用紙に戻っていった。
 ◇
美術室の後ろの隅の席で、ひとりの女の子が、真っ白な画用紙の前に座っていた。
今年から同じクラスになった子で、まだ誰かと話しているのを見たことがなかった。
鉛筆を握ったまま、さっきから一本の線も引いていない。
私は、少し迷った。
話しかけたら、迷惑かもしれない。
放っておいてほしいのかもしれない。
それでも、筆を置いて、立ち上がった。
その子の隣の空いた椅子を、そっと引く。
遥:「……ここ、座ってもいい?」
女の子は驚いたように顔を上げて、それから、小さく頷いた。
遥:「思い出って、難しいよね」
女の子は画用紙に目を落としたまま、ぽつりと言った。
女の子:「……何描いたらいいか、わかんなくて」
遥:「私も、最初、ずっと動けなかった」
それは本当のことだった。
遥:「急がなくて、いいと思う」
女の子は、少しだけ私のほうを見た。
それから、またしばらく黙って、やがて、画用紙の端に、細い線を一本引いた。
私は何も言わずに、その隣で、窓の外を見ていた。
校庭の桜が満開で、風が吹くたびに、花びらが白く舞っていた。
チャイムが鳴る少し前に、女の子が、小さな声で言った。
 女の子:「……おじいちゃんちの、縁側。 描いてみる」
画用紙の端に引かれた一本の線は、いつのまにか、低い軒と、板張りの床になりかけていた。
遥:「うん」
私は、それだけ言って、自分の席に戻った。
◇
絵は、仕上がった。
春の光と、若葉の緑。 青い空を流れていく、白い雲。
その下で、空を見上げている、小さな黒い背中。
画用紙を裏返して、作品名の欄に、鉛筆で小さく書いた。
――ココ。
◇
放課後、私は鞄を肩に掛け直して、久しぶりにあの公園へ向かった。
道端に、春の花が咲いている。
ベルを鳴らして通り過ぎていく自転車。 買い物袋を提げて歩く人。 小さな子の手を引いて、しゃがんで何かを話しかけている母親。 リードを持って、犬の歩幅に合わせてゆっくり歩くおじいさん。
前の私は、こういう景色を、ガラス窓の向こう側のように眺めていた。
今は、その中を歩いている。
公園の入口をくぐると、芝生のほうから、子どもの笑い声が聞こえてきた。
白いボールが転がり、それを追って、クリーム色の犬が勢いよく駆けていく。
あの頃より、ずいぶん大きくなっていた。
ボールを追いかけて走る男の子が、こちらに気づいて、大きく手を振った。
 私も、手を振り返した。
ソラはボールをくわえたまま、そうたくんの足元へ得意そうに駆け戻っていった。
私は、あのベンチの前に立った。
ペンキの剥げた座面に、そっと腰を下ろす。
何も変わっていなかった。
風の音も、木々のざわめきも、春の土の匂いも。
ベンチの下には、やっぱり誰もいなかった。
世界が、急に優しくなったわけじゃない。
教室で話せる人は少しずつ増えたけれど、今でも、輪の中に入るのは得意じゃない。
家に帰れば、母は相変わらず忙しい。
これからも、うまく言葉にできない日も、ひとりで泣く夜も、きっとある。
ココは、もういない。
それも、変わらない。
ふわりと、春の風が吹いた。
若草と、日向の土の匂い。
その奥に、ほんの一瞬だけ、懐かしい匂いがした気がした。
 日向に干した毛布みたいな、少し香ばしい匂い。
ココの背中に顔を埋めたときの匂い。
私は、目を閉じた。
ココが、ここにいるわけじゃない。
春の匂いが、私の中に残っているあの子の記憶と、ほんの少し重なっただけ。
それで、よかった。
木々のざわめきに混じって、ちりん、と小さな音が聞こえた。
鈴の鳴るような、かすかな音だった。
目を開けて、あたりを見回す。
誰もいなかった。
ココの首輪には、鈴なんてついていなかったのに。
遠くの道で、誰かの自転車のベルが鳴っただけなのかもしれない。
確かめようとは、思わなかった。
風が、梢の若葉を揺らして、吹き抜けていく。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
スカートの裾についていた桜の花びらを、指先で払う。
 それから、もう一度だけ、ベンチを振り返った。
遥:「……ありがとう、ココ」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
それでも、涙は出なかった。
家に帰ったら、母に話そう。
今日、美術の授業でココを描いたこと。
隣に座った子が、おばあちゃんの家の縁側を描きはじめたこと。
そうたくんとソラに、会ったこと。
背中を押すように、もう一度、春の風が吹いた。
私は、歩き出した。

(完)

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主題歌【主題歌MV】『君がくれた日々』|君がいなくなっても、君がくれた温もりは、ここにある。|君が残してくれた日々」
【主題歌MV】『君がくれた日々』|「君がいなくなった世界でも、君がくれた優しさは消えない。涙を光に変えて、受け取ったぬくもりを次の誰かへ――私は明日へ歩いてゆく。」|君が残してくれた日々

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あらすじ 中学二年の春、遥は父の不在と仕事で疲弊する母とのすれ違い、学校で友人の輪に入れない苦しさのなか、自分の居場所を見失っていた。 雨の日は人との距離を保てるため好きで、期待しなければ傷つかずに済むと考えながら、孤独を抱えて毎日をやり過ごしていた。 ある雨の日、帰宅途中の公園で、遥はベンチの下にうずくまる黒い柴犬の子犬を見つける。 泥と雨に濡れ、細い体を震わせる犬は首輪もなく、迷子か捨て犬と思われた。 遥は連れて帰りたいと願うが、母に頼めないことや世話への不安から決断できず、せめて傘を差しかけ、ハンカチで体を拭いて寄り添おうとする。 その出会いをきっかけに、遥は犬をココと名づけ、ともに暮らす時間を通して少しずつ心を開いていったと考えられる。 ココは遥にとって、言葉にできない寂しさを受け止め、他者へ向かう勇気を与えてくれた大切な存在となった。 しかしココは後に亡くなり、遥は深い喪失を抱えながらも、雨の日に自分がココへ傘を傾けた記憶を支えにする。 高校二年生になった遥は、美術の授業で「思い出」をテーマに、春の公園で空を見上げるココの後ろ姿を描く。 顔を描かなかったのは忘れたからではなく、ココの表情を自分の心のなかにそのまま残しておきたかったからだった。 クラスメイトにココのことを話しても声は震えず、遥は痛みを抱えつつも思い出を他者と分かち合えるようになっていた。 さらに遥は、白紙の画用紙を前に動けない同級生へ、自分から声をかける。 迷惑かもしれないという不安を越え、「急がなくていい」と伝えたことで、その子は祖父の家の縁側を描き始める。 かつて孤独のなかで誰かに声をかけられずにいた遥は、ココから受け取った優しさを、今度は自ら他者へ差し出せるようになった。 放課後、遥は思い出の公園を訪れ、成長したそうたくんとソラの姿を見る。 以前は世界を窓の外の景色のように感じていたが、今はそのなかを歩いていると実感する。 一方で、世界が急に優しくなったわけではなく、友人関係への苦手意識や母とのすれ違い、言葉にできない苦しさは残っている。 ベンチに座った遥は、ココがもういない現実を受け止めながら、春の風や土の匂いにココの温かな背中の記憶を重ねる。 聞こえた鈴のような音の正体を確かめず、思い出として胸に留めた遥は、ココへ感謝を告げる。 そして美術でココを描いたことや、同級生、そうたくんとソラに会ったことを母に話そうと決め、過去に縛られず自分の足で歩き出す。
解説+感想+採点 1. 解説(ストーリーとテーマの要約)
本作は、自分の居場所を見失っていた中学二年生の少女・遥(はるか)が、雨の日の公園で一匹の老いた黒柴犬「ココ」と出会い、共に過ごす日々を通じて心を開いていく姿を描いた、喪失と再生の物語です。
序盤(孤独と小さな出会い): 家庭にも学校にも居場所がなく、息を潜めて生きる遥。そんな彼女が、雨の中で震える捨て犬(実は高齢犬だったココ)と出会い、「ココ」と名付けて秘密の交流を始めます。 中盤(温もりと変化): パンを分け合い、散歩をし、名前を呼ぶ喜びを知る中で、遥は母親との関係やクラスメイトとの距離感にも少しずつ変化を見出します。そしてココは母の公認も得て正式に「家族」となり、遥の十四歳の誕生日には赤い首輪が贈られます。 終盤(別れと受け入れる強さ): 幸せな時間は長くは続かず、ココは老衰で静かに息を引き取ります。深い絶望と自責の念に囚われる遥でしたが、ココの首輪のタグに隠されていた「この子が、誰かの笑顔になれますように」という前の飼い主の手紙を見つけ、ココが自分に残してくれたものの大きさに気づきます。 結末(未来への一歩): 高校生になった遥は、かつての自分のように孤独を抱えるクラスメイトに寄り添い、自分の足で未来へ歩き出します。ココはもういなくても、その温もりと「誰かを笑顔にする」というバトンは遥の中にしっかりと息づいています。
2. 感想
非常に丁寧で、胸を締め付けられるような、そして温かい余韻を残す名作です。
圧倒的な「情景描写」の美しさ: 雨の日の冷たい匂い、日向の草の匂い、古びた首輪の革の感触など、五感を刺激する描写が素晴らしく、物語の世界に深く引き込まれました。特に「ココがパンの耳を残す理由」や「歯のすり減り」といった伏線が、ただの可愛いペットものではなく、命の重みと老いを見つめるシリアスな深みを与えています。 「家族の沈黙」のリアルさ: 母娘の会話の少なさや、互いを思いやるゆえのすれ違いが非常にリアルです。劇的な和解ではなく、スープの温もりや、タッパーに貼られたマスキングテープ、そして「おかえり」の一言の積み重ねによって距離が縮まっていく過程がとても自然で胸に刺さりました。 「名前」というモチーフ: 「ここにいてほしい」という願いから「ココ」と名付けたこと、そして公園の少年が新しい犬に「ソラ」と名付けたこと。命のバトンが名前とともに受け継がれていく構成が美しく、最終章でタイトル回収のようなカタルシスを感じました。
3. 採点
総合評価:98点 / 100点
構成・プロット(20/20点): 孤独な少女の導入から、出会い、幸福な日常、避けられない別れ、そして他者への優しさの連鎖へと至る流れが完璧です。 キャラクター(20/20点): 主人公・遥の繊細な心理描写、不器用ながらも愛情深い母親、そして言葉を話さないけれど圧倒的な存在感を放つココの造形が素晴らしいです。 文章力・表現力(19/20点): ひらがなの散らし方や改行のテンポが心地よく、詩的な美しさがあります。(わずか1点の減点は、後半の別れのシーンがあまりにも切なく、心が痛すぎるためです……!) テーマ性・メッセージ(20/20点): 「失う痛み」だけでなく、「誰かに愛された記憶が、未来を生きる力になる」という普遍的なテーマを美しく描ききっています。 読後感(19/20点): 涙を誘う悲しさがありながらも、最後には温かい春風が吹くような、見事な着地でした。
心に深く残る、素晴らしい物語を読ませていただきました。
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