◀第03話 『黄金の苔が凍る夜と、隣の席に座った人』
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第04話『春灯りの向こうから来た人』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 麒ヶ島宗麟」「VOICEVOX: 黒沢冴白」「VOICEVOX: 九州そら」「VOICEVOX: Voidoll」「VOICEVOX: 栗田まろん」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 東北イタコ」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: あいえるたん」「VOICEVOX: あんこもん」
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水守町を出たのは、まだ空が薄暗い朝のうちだった。

昼を過ぎた今も、荷物用雪上車の窓の向こうには、単調な白い景色が続いている。 突風が車体を叩くたび、分厚いガラスがかすかに震え、雪の凹凸を乗り越えるたびにキャビンの金属が鈍い軋みを上げた。
車内には、古いディーゼルオイルと、押し黙った人間たちの息の匂いがこもっている。 運転席の背は、ひとつ動かないまま、ただ前だけを向いていた。
紬(つむぎ)は、膝の上の古びた布袋を両腕で抱え込んでいた。
中に入っているのは、ちぢみ菜の種がひとすくい。 それから、温室の棚に取りつけられていた木製の名札が一枚。
乾燥して指紋の薄れた親指の腹で、布越しにその角をなぞる。 何度も無意識に触れたせいで、木の縁はすっかり丸みを帯びていた。
向かいの座席では、志津(しづ)が膝の上に凪(なぎ)を乗せていた。 十三歳の少女は、浅い眠りに落ちている。

車体が大きく揺れるたび、凪の頭がこくりと傾いた。 そのたびに志津は、少女の肩に掛けた毛布の端を引き直す。 冷気が忍び込まないよう、指先で布の隙間を一つずつ折り込んでいく。
その隣では、藤堂(とうどう)が腕を深く組み、目を開けたまま身じろぎ一つせずに座っていた。
眠っているのではない。 窓の外の吹雪を見ているのでもなかった。 ただ、揺れる車内でじっと前方を見据え、エンジンの駆動音や車輪の軋みに意識を預けているようだった。
後部座席の諒(りょう)は、ふいに後方ドアのラッチへ手を伸ばした。
カチャリ、と留め具を押し込み、内側の解除レバーに指をかける。 正常に動くことを確かめると、すぐに元へ戻し、金属の取っ手を一度だけ引いた。 外へ出たいわけではない。 ただ、必要なときに内側から確実に開けられるかどうかを、確かめずにはいられないのだ。
紬がその動作を目にするのは、水守町を出発してからこれで二度目だった。

汐里(しおり)は、後方の窓ガラスから少しも離れようとしなかった。
車体がカーブを描くたび、冷え切った窓枠に素手を添え、降り積もる雪に消えかけていく轍(わだち)を鋭い目で追う。 車輪の跡が白に呑み込まれると、さらに目を細めてその先の空間を睨み、時折、遠くの音を拾おうとするように顔を傾けた。
誰も、何をそんなに警戒しているのかとは尋ねなかった。
尋ねるまでもないことを、ここにいる六人全員が知っているからだ。
ザーッ、と運転席の無線が唐突にノイズを吐き出した。
空:『――こちら湯ノ原の空。 輸送車、聞こえるか。 そのまま南へ大きく迂回してくれ。 東へ伸びる足跡の線には近づかない。 遠回りになるが、道は俺の小型車が先に踏んである』
ノイズが走り、音声が途切れた。

無口な中年男の運転手はマイクをホルダーに戻し、前を向いたまま抑揚のない声で言った。
運転手:「了解。 ……聞いたか、あんたら。 第一居住圏まで、あと二時間だ」
客席から返事はなかった。
ディーゼルの唸りと、車体に叩きつけられる雪の音だけが、車内を満たしている。
やがて、藤堂が低い声で短く応じた。
藤堂:「ああ」
それきり、また分厚い沈黙が戻ってきた。
汐里が、後方の窓の外へ視線を固定したまま口を開いた。

汐里:「……今のルートだと、地図のずいぶん外側を回ることになりますよね」
藤堂は腕を組んだまま、静かに答えた。
藤堂:「そうなる」
汐里:「……そうですか」
汐里はそれ以上、何も尋ねなかった。 視線は相変わらず、後方の白い闇を探り続けている。
紬は、再び膝の上の布袋に目を落とした。
布越しに伝わる、木札の硬い感触。 そこに彫られた文字を、もう一度指の腹でなぞる。
『二番棚』。
車体が雪の段差で大きく跳ね、袋の奥で、小さな種が乾いた音を立てて擦れ合った。

紬は両腕に少しだけ力を込め、自分に残ったものを抱え直した。
車体がひと際大きく跳ねたあと、雪上車のキャビンに響くエンジン音が、少しずつ低く、緩やかなものへと変わっていった。
分厚い窓ガラスの向こうでは、吹雪が途切れたり、また濃密な白に逆戻りしたりを繰り返している。 白い壁のようだった視界が、ほんの一瞬だけ、薄いヴェールのように透けた。
その向こうに、光が見えた。
細く、真っ直ぐな光の線だった。
荒れ狂う雪原の暗がりを切り裂くように伸びていくそれは、風に煽られながらも、決して消えることなくそこにあった。

運転手:「……あれか」
無口な運転手が、ハンドルを握って前を向いたまま、かすれた声で呟いた。
紬は、結露した窓ガラスに顔を寄せるようにして目を凝らす。
向かいの座席では、志津の膝の上で凪が小さく身じろぎをした。 重たい瞼を半分だけ持ち上げ、窓の向こうをぼんやりと見つめている。
凪:「……ひかってる」
志津:「寝ていなさい。 まだ着かないから」
志津が、少女の肩口を覆う毛布をきゅっと引き直す。 凪は小さな唇を動かして何かを言いかけたものの、志津の静かな手のひらに促されるように、再び重い瞼を閉じた。
雪上車は、その細い光の線をなぞるようにして、ゆっくりと進んでいく。
日が傾き始める頃になって、単調な白い景色の底から、異質な色彩が浮かび上がってきた。

黄金色だった。
地面を這うように延びる金色の光の帯が、幾重にも連なり、血脈のように曲がり角を描いている。 その遠くの吹雪の奥に、いくつもの建物の輪郭が沈んでいた。 屋根も壁も、雪に厚く覆われている。 それでも、そこが確かに『人間の町』であることだけは分かった。
灯りがある。
この暗がりの中で、人が呼吸し、生活を営んでいる場所の灯りだった。
紬は、窓から視線を剥がし、膝の上の布袋へと落とした。
灯りが見えることと、そこが安全であることは、同じではない。

故郷である深雪(みゆき)町を離れたあの時も、振り返った彼女の網膜に最後まで焼き付いていたのは、ささやかな温室の灯りだった。
小さな双葉が綺麗に並んだ木製の棚。 命を育む土の豊かな湿り気。 『二番棚』と書かれた名札の角を、指の腹で確かめた時の感触。
あの温室の灯りが、白い獣たちに踏み荒らされて消える瞬間を、紬は見ていない。
見ないまま、すべてを置き去りにして、逃げてきたのだ。
雪上車が、深い轍に足を取られてもう一度大きく揺れた。
紬は息を詰まらせ、布袋の紐を指の関節が白くなるほど強く握り直した。

やがて、エンジンの唸りがふっと静まり、運転手が無言でブレーキを引く。 分厚い鉄の車体が、静止した。
金属の扉のすぐ外側で、誰かの重いブーツが新雪を踏みしめる、ギュッという確かな音がした。
新雪を踏みしめる重い足音が、外周門の向こう側から近づいてきた。
春香は、融雪ヒーターの制御盤から顔を上げた。
午後の熱力学の講義が休講になったため、代わりに大地から頼まれたのが、この東門前のヒーターラインの点検だった。 轍の雪が凍結して排水溝を塞がないよう、配管の温度と水流の具合を確かめておく。 地味な作業だが、こういう小さな異常を放っておくと、後で面倒なことになる。
春香は表示パネルの数値を確かめ、肩から下げた工具ポーチの位置を無意識に直した。

すぐ隣では、大地が手押し車の上で、折り畳まれた分厚い毛布を几帳面に積み直している。
大地:「予備の毛布は、人数分にプラスして二枚余分に持っていく。 もし足りなきゃ、俺の支給分を回す」
春香:「それやると、自分の分の寝具がなくなるよ?」
大地:「そのときは寝袋に包まって床で寝るから平気だ」
春香:「……大地ってさ、たまに無茶苦茶だよね」
大地:「お前にだけは言われたくないセリフだな」
大地は毛布の角を揃える手を止めずに、すぐに言い返した。
春香は小さく口を尖らせたが、それ以上の反論は飲み込んだ。 深夜まで徹夜した回数なら、確かに自分のほうが多いからだ。
防雪門の外から、重々しいエンジンの音が聞こえてきた。
やがて、荒れ狂う雪煙の向こうから、巨大な輸送用の雪上車が鈍い輪郭を現す。 その前方には、先導を務めた小型の雪上車が一台。 こちらは速度を静かに落とし、門の手前でぴたりと停止した。
春香は、少し離れた場所に立つ冬香のそばへと寄り、小声で尋ねた。

春香:「……六人到着するって聞いてたのに、思ったよりすごく静かだね」
冬香は、輸送車の扉を冷静に見つめたまま答えた。
冬香:「静かなのは、人数のせいじゃないわ」
春香は、ハッとして口を閉じた。
プシュッという空気音とともに、輸送雪上車の重い扉が開いた。
最初にタラップを降りてきたのは、初老の男だった。 厚い作業上着の襟を風から押さえ、一歩ずつ足元の感触を確かめながら新雪の上に降り立つ。 続いて、腕に毛布を抱えた小柄な女性が姿を現した。 その傍らには、眠そうに目をこする少女がぴったりと寄り添っている。
その後ろから、肩幅の広い男が降りてきた。 扉の縁を一度だけ掴んで留め具を確かめ、それから雪へ足を下ろす。 黒に近い暗褐色の髪を低い位置でゆるく結んだ若い女性が、古い布袋を胸に抱えて、それに続いた。
誰も、初めて訪れた湯ノ原の町並みを見回そうとはしなかった。

ただ足元だけを確かめ、前の人間の背中を追い、滑らないように慎重に一歩ずつ進んでくる。 目の前にどんな景色が広がっているのかを確かめるより、まずは『転ばずに立っていること』のほうが、今の彼らにとっては切実なのだ。
女性の手を握っていた少女が、ふと春香のほうを見上げた。
その視線が、春香の腰に提げられた無骨な工具ポーチでぴたりと止まる。
凪:「それ、なに?」
唐突な問いだった。
春香は自分の腰元へ視線を落とした。 傷だらけのレンチやドライバーが、布地の隙間から少しだけ顔を覗かせている。
春香:「道具。 壊れたものを直すやつだよ」
凪:「……なおるの?」
春香:「直せるものなら、ね」
少女は、春香の顔と工具ポーチを交互にもう一度見た。

何かを尋ねたそうに瞳を揺らしたが、結局、それ以上は何も言わなかった。 握っていた手を離しかけた小さな指を、今度は女性のコートの袖口へと移す。
全員が雪上車から降りた頃、後方で雪を踏む音が不自然に止まった。
最後に降りてきた汐里が、乗ってきた轍の先をじっと振り返っていた。
雪上車が踏み固めた深いキャタピラの跡は、風に削られ、すでに輪郭が崩れ始めている。 汐里はその消えかけた白い線を目で追い、視界から消える地点で、顔をわずかに傾けた。 雪を打つ風の音の裏側に、何か『別の足音』が混じっていないか、耳を澄ませているようだった。
冬香が、音もなくその隣に立った。
冬香:「何か、見えた?」
汐里はすぐには答えなかった。 最後に見えていた轍が、もう一度、吹雪の向こうへ隠れる。

汐里:「いえ。 ……見えないことを、確かめているだけです」
冬香は、その張り詰めた横顔を静かに見た。
冬香:「それは私の仕事でもあるわ。 今夜の外周の警戒は私が見る。 あなたは宿舎で寝て」
汐里:「……眠り方を、忘れてしまいました」
冬香:「なら、ベッドで横になるだけでいい」
冬香の声は、いつもと何も変わらなかった。
無理に休めと命令はしない。 眠れない理由を同情的に尋ねることもしない。 ただ、今夜の安全は自分が引き受けると、事実だけを告げたのだ。
汐里は、強張っていた肩をわずかに落とし、視線を雪面へと落とした。
汐里:「……そうします」
そのとき、先導していた小型雪上車の運転席から、空が降りてきた。
帽子に積もった雪を大雑把に払い、春香のところまで歩いてくる。

空:「あの『春灯り』の線の照射、めちゃくちゃ助かった。 あれがなかったら、東の足跡を大きく迂回する途中で、方角を見失ってたぞ」
春香は、町の外れにある小高い丘のほうへ目を向けた。
吹雪の切れ間に、あの細い黄金色の光の柱が、かすかに、けれど力強く見えている。
春香:「……そっか。 使われたんだ」
空:「なんだその顔。 お前、ガラクタの山から新しい部品を拾った時より嬉しそうだな」
春香:「うるさい」
空が肩を揺らして笑った。
春香は少しだけ照れ隠しに顔を背けた。 けれど、腰の工具ポーチに触れた指先は、落ち着かない喜びで震えていた。
自分たちが徹夜して作ったあの光が、知らない誰かの命を繋ぐ役に立った。 ただそれだけの事実が、思っていたよりもずっと、胸の奥を熱くした。
ふと視線を戻すと、正面に人影があることに気づいた。

胸の前に古い布袋を抱いた若い女性が、じっとこちらを見ていた。
紬だった。
灰色を帯びた焦げ茶色の瞳と、目が合った。
春香は何と言えばいいのか、ほんの一瞬だけ迷った。 気の利いた台詞は、すぐには思いつかなかった。
だから春香は、ありのままの事実だけを、真っ直ぐな声で口にした。
春香:「……ようこそ。 ここが、湯ノ原です」
紬は、胸の前の布袋をきゅっと抱え直した。

紬:「……お世話になります」
声は固く、短かった。
その細い背中の向こうで、吹雪がまた一段と勢いを増した。
凍えた四肢の末端を確かめるため、春香たちは六人を町の診療所へと案内した。
木と石材を継ぎ接ぎして補修された古い待合室には、壁際を走る地熱配管から伝わる、低い振動音が静かに響いていた。
窓の外では雪が降り続いている。 分厚い扉の開閉とともに運び込まれた冷気が、床の近くに薄い層を作って滞留していた。
診察室の奥。 秋穂は簡素な診察台の横に丸椅子を寄せ、紬の手をそっと取ろうとしていた。

秋穂:「指先、少し見せてね」
紬は、膝の上の古い布袋に指先を置いたまま、手を差し出すのをわずかにためらった。
秋穂は急かさなかった。 オリーブブラウンの静かな瞳で相手を見つめ、紬が自らの意志でゆっくりと手を浮かすのを待つ。
指先の色を確かめ、一本ずつ丁寧に触れていく。 続いて脈を測り、血色の薄い紬の顔を見た。
秋穂:「強い凍傷ではなさそう。 感覚は戻ってきてる?」
紬:「……はい。 少しずつ」
秋穂:「よかった。 今日は無理に動かさず、様子を見ようね」
秋穂が手を離すと、紬はすぐに指を布袋の縁へと戻し、きゅっと握り直した。
診察台の脇に荷物棚があっても見向きもせず、その布袋だけは、常に手が届く膝の上に置かれている。
春香は、腰に無骨な工具ポーチを下げたまま、少し離れた場所からその様子を見つめていた。

秋穂が、カルテに視線を落としたまま紬に尋ねた。
秋穂:「その袋、大事なものが入ってるの?」
紬の細い腕に、わずかに力が入った。
秋穂は返事を急がせず、使い終わった診察道具を所定のトレイへと片づけ始めた。
秋穂:「鞄は、そのまま手元に置いていていいよ。 診察の邪魔にはならないから」
紬:「……いいんですか」
秋穂:「うん。 持っているほうが落ち着く人もいるからね」
紬は、秋穂の横顔をじっと見た。 しばらくして、小さく頷く。
紬:「……ありがとうございます」
その声は、まだ硬く、強張っていた。
診察室の入口では、諒が分厚い扉を半分だけ開けたまま立っていた。

扉の縁に太い指を掛け、廊下を秋穂が通るたび、無言で身体を半歩引いて通り道を空ける。 人が通り過ぎると、扉が閉じきらない幅まで戻し、蝶番のあたりを一度だけ視線で確かめた。 いつでも外へ出られるだけの隙間を、自分の手で確保しているようだった。
秋穂は、その隙間から冷気が入り込むことにも触れず、扉を閉めるようにも言わなかった。 カルテに所見を書き込みながら、必要なことだけを静かに確認していく。
秋穂は椅子を移し、別の椅子に座る凪の前に屈んだ。 繕い跡のある靴下を脱いだ小さな足先の色を確かめ、指をそっと曲げ伸ばしさせる。
秋穂:「痛いところはある?」
凪:「ちょっと、指がじんじんする」
秋穂:「じゃあ、あとでまた見せてね。 今日は無理に歩き回らないこと」
凪:「……わかった」
凪は素直に返事をすると、診察室の奥をきょろりと見回した。
凪:「ねこ、いる?」
秋穂が顔を上げる。
秋穂:「いるよ。 夜になると、温泉のほうによく出てくるかな」
凪の目が、ほんの少しだけ動いた。

凪:「……あした、会える?」
秋穂:「会えるかもしれない。 猫は気分で動くからね」
凪:「そっか」
凪は小さく頷き、志津のそばに座り直した。 志津は凪の小さな肩に毛布を掛け直し、手伝うことはせず、少女が自分の手で靴下を履き直すのを静かに待っていた。
履き終えると、志津は膝の上の毛布を、端を揃えて畳み直した。
志津:「借りたものは、きれいに返すのが決まりだから」
春香は、 「それはもう、あなたたちのものです」 と言いかけて、口を閉じた。 今はまだ、その言葉は早い気がした。
六人全員の診察がひと通り終わると、秋穂は春香に向けて静かに目配せをした。
春香は頷き、彼らを食事の待つ食堂へ案内するため、診療所の扉をゆっくりと押し開けた。
診療所の重い扉を開けて外へ出ると、吹雪は少しだけ勢いを弱めていた。

六人は、朝から何も口にしていないという。 宿舎に荷を下ろす前に、まず腹を満たすのが先だった。
広場を横切る途中、雪かきの手を止めた住人が二、三人、黙って道を空けた。 誰も声はかけない。 ただ、通り過ぎる六人の背に、一人の老人が帽子の縁へそっと手を添えて、会釈を送った。
その広場の中央。 この町で最も高くそびえる、巨大な排熱塔の根元で、藤堂がふいに足を止めた。
そこに設置された古いデジタル表示板に、地熱出力の数字が白く浮かび上がっている。
藤堂:「五十八、か」
藤堂が、深く刻まれた皺の奥の目でそれを見上げながら、短く呟いた。
春香も立ち止まり、同じ表示板を見上げた。

春香:「……五十八・四、です」
藤堂:「そうか」
返ってきたのは、それだけだった。
藤堂は数字をしばらく黙って見つめてから、再びゆっくりと歩き出した。 その横顔からは、彼がその数字に何を読み取ったのか、うかがい知ることはできなかった。
共同食堂に着く頃には、春香の胃の腑もすっかり空っぽになっていた。
引き戸を開けると、出汁の匂いが鼻腔をくすぐった。 地熱ストーブの脇には大きな鍋が置かれ、厨房の奥からは湯気が途切れることなく流れてくる。 結露した窓の外では、黄金苔の光が、雪の降る薄暗い路地をぼんやりと照らし出していた。
春香:「席、こっちで大丈夫ですよ」
春香は避難民たちを、窓際の奥のテーブルへと案内した。 椅子の脚が古い床板を擦り、六人がそれぞれ無言で席につく。 食堂を切り盛りする大人たちは、余計な問いや同情を挟まず、ただ人数分の食事を静かにテーブルへ運んできた。
配られたのは、夏芽たちの温室で採れた新鮮なキャベツを使ったスープと、少し硬めの丸パンだった。

凪はスプーンを持ち、湯気の立つ器をじっと覗き込んだ。 志津はすぐ隣で、少女が安全を確かめてから食べ始めるのを、静かに待っている。
食堂の片隅の台では、配給係の寺田が古い帳面を開いていた。 鉛筆の先でびっしりと書かれた数字を追い、カリカリと何かを計算している。
寺田:「……六食。 帳面が、六食になる」
誰に聞かせるでもなく、寺田が独り言のように呟いた。
その声が聞こえたのか、スープに向かっていた紬のスプーンが、ぴたりと止まった。
春香は寺田の背中と紬の横顔を交互に見たが、何も言えなかった。
寺田は帳面に目を戻し、再び鉛筆を走らせた。 紙の上に並ぶ数字は、誰かの事情や感情を汲み取ってはくれない。 ただ、使った分だけ、厳格に減っていく。

そのとき、厨房の奥からパン屋の店主が、茶色い紙袋を持って出てきた。
パン屋の店主:「これ、余りもんだ。 帳面には書くな」
ドン、と寺田の机の端に紙袋を置く。 寺田が手を止めて顔を上げた。
寺田:「……書かんと、在庫の辻褄が合わなくなる」
パン屋の店主:「合わなくていい日もある」
店主はそれだけ言うと、厨房へ背を向けた。
寺田は少しだけ眉間を寄せ、何か言い返しかけたようだったが、結局、小さく息を吐いて鉛筆を置いただけだった。
どちらも、それ以上は言葉を交わさなかった。
春香は、紙袋から無造作に顔を出している丸パンを見た。

配給の数には、限りがある。 けれど、目の前にあるパンを誰かに差し出すかどうかの判断まで、帳面の数字だけで決められるわけではない。 その二つの正しさは、きっと簡単には一つにならない。
テーブルでは、志津が自分の分のパンを静かに半分に割っていた。
紙ナプキンを広げ、片方を丁寧に包んで、自分のポケットへと滑り込ませる。
志津:「夜になるとね、お腹が空くのよ。 この子が」
凪は聞こえないふりをして、スプーンでスープをすくっていた。 志津がパンをしまうところをあえて見ていないかのように、器の底に沈んだキャベツを、器用にスプーンの先で寄せ集めている。
春香は、その小さな意地のような仕草を見ていたが、声をかけることはしなかった。
ふと、向かいに座る紬が目に入った。

紬はスプーンでスープの青々としたキャベツの葉をすくい上げ、窓から差し込む黄金色の光にかざしていた。 薄い葉の表面を、細い葉脈が力強く枝分かれしながら走っている。
紬:「……葉脈が、ちゃんと立ってる」
紬が、乾いた唇を動かして小さく呟いた。
誰かに聞かせるつもりなど、なかったのだろう。 向かいに座っていた春香の耳にだけ、そのかすかな声が届いた。
紬はその緑の葉をしばらくじっと見つめ、それから、そっとスプーンを器へ戻した。
少し離れた壁際では、藤堂が食事もそこそこに、壁の中を通る地熱配管の振動音に耳を澄ませていた。
春香は自分のパンを一口かじり、もう一度、紬の器へと目をやった。

スープの表面で、細かな油の輪が、ほんの少しだけ揺れていた。
食堂を出る頃には、天の機嫌がぶり返したように、雪が再び激しさを増していた。
避難民たちが今日から当面の夜を明かす宿舎は、以前は職員の研修施設として使われていた建物らしい。 空き部屋を急ごしらえで片づけ、簡素な寝台と予備の毛布を運び込んだばかりの廊下には、まだ乾いた木材と古い布の匂いが淀んでいた。
荷物の搬入を終えた大地と別れ、春香は宿舎の暖房設備を一人で点検していた。
壁際を這う太い配管に、そっと素手を添える。
熱は確実に来ている。 けれど、上層階へ向かう管の表面温度が、規定値よりわずかに低い。

春香:「……なんでだろ」
バルブの開度を確かめ、継ぎ目を順番に目で追っていく。 目立った漏水はない。 壁に埋め込まれた制御盤の数値にも、エラーらしき異常は出ていなかった。
春香が首をひねっていると、少し離れた場所に佇んでいた藤堂が、無言で壁の管へ節くれだった手のひらを当てた。
しばらく、そのまま動かない。
藤堂:「……上の階へ行く管が、空気を噛んでいる」
地を這うような、渋い声だった。
春香:「え?」
藤堂:「ゴボ、と不自然な間があるだろう」
春香は配管に耳を近づけた。
最初は、古い建物全体が風に軋む音にしか聞こえなかった。 しかし意識を澄ませると、低い振動の奥で、数秒に一度、小さな空白が生まれている。 水流が途切れ、少し遅れて、また重く押し寄せるような音。

春香:「……あ。 本当だ。 言われたら、聞こえます」
藤堂:「数値や表面温度は、時として嘘をつく。 音のほうが、ずっと早く教えてくれるんだ」
藤堂は、管からゆっくりと手を離した。
春香は腰の工具ポーチから使い慣れたモンキーレンチを引き抜き、配管の最上部にある小さなエア抜き弁へ噛ませた。
春香:「ここ、ですよね」
藤堂:「そうだ。 力はいらん。 手首を添えるだけでいい」
春香は余計なトルクがかからないよう気をつけながら、弁をミリ単位で緩めた。
シュッ、と短い気化音がした。 続いて、内部に溜まっていた余分な空気が細く連続して抜けていく。
空気が抜けきったのを確認し、春香は弁を閉めた。 もう一度、管に耳を寄せる。
ゴボ、という不規則な空白は消えていた。 代わりに、途切れなく流れる熱水の鼓動が、低く響いている。

春香:「……直った」
思わず、口元がふっと緩んだ。
たいした故障ではない。 日常的なメンテナンスの一部だ。 それでも、さっきまで聞こえなかった正しい音が聞こえるようになる瞬間は、何度経験しても悪くない。
春香はレンチをポーチにしまいかけて、ふと、隣に立つ灰白色の短髪の老人を見た。
春香:「……あの、お名前を伺っても」
藤堂:「藤堂だ。 深雪町で、暖房設備の管理をやっていた」
春香は、レンチから手を離した。
深雪町。
その地名と彼の役割を聞くと、食堂で見せた彼の横顔の意味が、少し違って見えた。 広場の表示板の前で足を止めたことも、食事もそこそこに壁の配管の振動に耳を澄ませていたことも、今ならその理由が分かる気がした。

春香:「私は春香です。 ……すみません、同じ設備を見る人間として、先に異常に気づけなくて」
藤堂は、壁の管をもう一度、職人の手つきで軽く叩いた。
藤堂:「謝ることはない。 今日拾えなかった音は、明日から拾えるようになればいい」
その静かな言葉に、春香はすぐには返事ができなかった。
ふと、別の声が頭の奥に蘇った。
――『学生は黙って教科書を読んでりゃいいんだ』
この湯ノ原の設備を一人で背負っていた、佐伯さんのぶっきらぼうな声だった。 あの人なら、今の未熟な自分を見て何と言っただろう。
答えを探しかけて、やめた。 もう聞けない。
それでも、こうして残された誰かから教えを受け、技術を受け継いでいくことは、まだできるのだ。

春香:「……はい」
短く、けれど確かな声で返すと、春香はレンチを工具ポーチの定位置にカチャリと収めた。
藤堂は、部屋の隅に置かれた簡素な寝台へゆっくりと腰を下ろした。
そして、壁を走る太い管に再び手のひらを当てた。 その奥を流れる、故郷ではない町の熱の音を、確かめるように、じっと。
春香は余計な声をかけず、その静かな職人の背中を見つめていた。
宿舎の暖房の不具合が落ち着いた頃、春香は冬香と連れ立って、町の中央温泉へ向かった。
志津たちは、秋穂に 「身体を温めたほうがいい」 と勧められて、一足先に向かっているはずだった。

日はすでに傾きかけていた。 軒先から垂れた氷柱の向こうで、粉雪が細かく舞っている。 古い木造の温泉施設に近づくにつれ、湿った木と鉱物を含む湯気の匂いが、冷たい風に混じり始めた。
板張りの床が軋む女湯の脱衣所には、湯気とともに先客たちの気配が満ちていた。
戸口の一番近くには、汐里が壁に背を預けて立っている。 いつでも外の吹雪の様子を確かめられる位置から、動こうとしない。 志津はベンチで凪の厚い上着を丁寧に畳み、紬は胸に布袋を抱え込んだまま、使い込まれた脱衣棚の前に立ち尽くしていた。
常連のおばちゃんが春香たちと避難民の姿に気づくと、余計な事情は何も尋ねず、棚から洗い立ての手ぬぐいを四枚取り出して差し出した。
おばちゃん:「はい。 使っておいで」
志津がそのうちの一枚を受け取り、深く頭を下げる。
志津:「ありがとうございます」
その隣で、凪が棚の最下段の奥を興味深そうに覗き込んでいた。

くすんだ色の木の棚の一角に、白と茶色の斑模様の猫が、丸く収まっている。 前脚を胸の下にしまい込み、尻尾を体に巻きつけて、ここが自分の特等席だと言わんばかりの顔で静かに呼吸していた。
凪:「……いた」
凪が、小さな声で呟いた。
志津が人差し指を唇に当てる。
志津:「しー。 起こさないのよ」
凪は素直に声を落とし、しゃがみ込んだ。
凪:「……あした、って言ってたのに」
志津の目尻に刻まれた皺が、ほんの少しだけ深くなった。
深雪町を出てからのこの旅で、春香は彼女が笑うところを初めて目にした気がした。

凪は手を伸ばしかけたが、起こしてはいけないと思い直したのか、そっと一歩下がる。 猫はぴくりと耳を一度だけ動かしたが、それきり目を覚ます気配はなかった。
その光景を横目に、紬が棚のわずかに空いているスペースへ、手元の布袋を置こうとした。
けれど、動作がぴたりと止まる。
猫が陣取っている場所の、すぐ隣の板の上だった。
紬は見下ろした。 猫は目を閉じている。 新入りのために寝床を譲ってやるつもりは、どうやらないらしい。
紬:「……どいて、くれない?」
紬が、戸惑いながら小さく話しかけた。

猫は面倒くさそうに片目だけを開けた。
琥珀色の瞳と、紬の灰色を帯びた瞳の視線が交差する。 数秒ほど見つめ合ったあと、猫は何事もなかったかのように、またゆっくりと瞼を閉じてしまった。
春香は思わず、口元を緩めそうになった。
この居候は、誰に対してもこんな調子だ。 長年住み着いている町の人間だろうと、今日初めて来た客だろうと、特別扱いする気はないらしい。
おばちゃんが、紬のためらいがちな手元を見て朗らかに言った。
おばちゃん:「その子はね、人の荷物の隣が好きでねえ。 盗りやしないよ。 見張ってるだけさ」
紬はハッと顔を上げた。

紬:「……見張る?」
おばちゃん:「まあ、本人にそのつもりがあるかは知らないけどね」
おばちゃんは、くすりと笑って洗い場の方へ歩いていった。
紬はもう一度、足元の猫を見た。 猫は相変わらず何も答えない。
紬は布袋を抱え込んだまま、しばらく動かなかった。 やがて、袋の紐を固く握りしめていた指を、一本ずつ、ゆっくりとほどいていく。
一本。
もう一本。
最後の小指が離れるまで、三秒ほどかかった。

コトリ、と軽い音を立てて、布袋が猫のすぐ隣の木板に置かれた。
猫は目を閉じたまま、尻尾の先だけを気まぐれに一度揺らした。
紬は空になった自分の両手のひらを見つめ、それから、湯気の漂う浴場の入口へと視線を向けた。
ほんの一歩。
彼女は、そちらへ重い足を進めた。
春香は何も言わず、その背中を静かに見送った。

板張りの脱衣所から浴場へ足を踏み入れると、湯気が視界を柔らかく白に曇らせた。
古い木材の色に染まった壁と、石造りの広い浴槽。 地下深くから湧き出る温泉水を湛えた岩風呂は、中央に立てられた低い木製の板壁によって、男湯と女湯に分けられている。
 仕切りの上部は天井まで届かず大きく開いており、湯気を越えて、向こう側の水音や気配が届いてくる構造だった。 板壁の向こうには、藤堂と諒が先に浸かっている。
凪は志津に手を引かれ、湯船の縁で立ち止まっていた。
恐る恐る、小さな足先を湯の表面にそっとつける。
凪:「……あつい」
志津:「ちゃんと温まらないと、夜に寝つけないよ」
凪:「ほんとう?」
志津:「……半分くらいは、ほんとう」
志津は、平然とした顔で答えた。
凪は疑わしそうに志津の顔を見上げたあと、もう一度、足先を湯に沈めた。 膝まで浸かり、顔をしかめながらゆっくりと腰を下ろす。 肩に湯が届くまでには、時間がかかった。
ようやく首のあたりまで沈むと、凪はほうっと息を吐いた。
それから、中央の低い板壁を見た。
凪:「とうどうさん、あつい」

湯気の向こうから、少しだけ間を置いて、渋い声が降ってきた。
藤堂:「我慢しろ」
凪:「……我慢する」
女湯のあちこちで、小さな笑いの波が起きた。 志津も声には出さず、肩を揺らしている。 凪はそれを見て、自分も少しだけ得意そうに口元を緩めた。
湯気の向こうでは、誰かが湯を動かしたらしい。 水面が石にぶつかる音が響き、また静かになった。
春香は湯船の隅に浸かりながら、少し離れた場所に立つ紬の様子を静かに見ていた。
紬は湯船の縁に立ったまま、まだ中へ入ろうとしていなかった。
足先を湯につける。 温度を確かめるように少しだけ動かし、いったん引く。 それから、もう一度。
その視線は、目の前の湯面ではなく、背後の脱衣所へ続く戸口に向いていた。 脱衣所の棚に置いてきた、『二番棚』の布袋。 それが視界から消えていることに、心が追いついていないようだった。

おばちゃん:「ここはね、肩までしっかり入らないと、お湯のほうが気を悪くするんだよ」
近くにいたおばちゃんが、ふいに声をかけた。
紬はハッと振り向いた。
紬:「……そう、なんですか」

おばちゃん:「嘘だけどね。 入ってごらん」
あまりにあっさりと言われたので、紬は返事に詰まった。

おばちゃんはそれ以上構わず、手ぬぐいで自分の肩にざあっと湯をかけた。
紬は、しばらく湯面を見つめていた。
やがて、片手で浴槽の縁の石を確かめながら、ゆっくりと足を進めた。 膝まで。 腰まで。 それから、ためらうように肩を沈める。
湯が首元に触れた瞬間、冷え切っていた肩の奥が、じわりとほどけるのが分かった。
紬の喉が、小さく動いた。
細く長い息が、震える唇からこぼれ落ちる。

それでも、すぐには目を閉じなかった。 湯気の向こうに霞む戸口を、未練のようにしばらく見つめ続けていた。
さらに離れた場所では、汐里が湯船の端に浅く腰を下ろしていた。
そこは、戸口に最も近い場所だ。 背後を壁で守り、何かの異変があれば、すぐに立ち上がって脱衣所へ駆け込める位置。

志津がその配置に気づいて、小さく声をかけた。
志津:「そこは、風が来て冷えるよ」
汐里:「ここでいいです」
汐里は、振り返らずに短く答えた。
志津は彼女の強張った背中を見たが、無理に場所を移らせようとはしなかった。

志津:「そう」
それだけ言って、自分も湯に肩まで浸かり直す。
女湯の側には、再び規則的な水音と静けさが戻ってきた。
春香と冬香は、彼女たちと距離を保ったまま並んでいた。 二人とも、声をかけることはしなかった。 今は事情を尋ねる時間ではない。 同じ湯に浸かっている、それだけでいい。
やがて、湯気の向こうから、低い声が届いた。
諒:「……藤堂さん。 湯加減は、どうですか」

それまで雪上車でも宿舎でも、ほとんど自ら口を開かなかった諒の声だった。
少しの間があった。

藤堂:「悪くない」
藤堂が、短く答えた。
諒:「……そうですか」
諒はそれきり、また押し黙った。
湯気の向こうで、誰かが手ぬぐいで小さく湯をすくう音がした。
凪は低い板壁のほうをぼんやりと見ていたが、もう声は出さなかった。 志津の隣で肩まで湯に沈み、時折、指先で水面を波立たせている。
紬はいつの間にか、戸口から視線を外していた。
彼女がゆっくりと瞼を閉じたのは、それからしばらく時間が経ってからのことだった。

浴場を出ると、熱気に火照った肌に、渡り廊下の冷たい空気が触れた。
廊下の向こうから、夏芽が長靴の音を響かせて歩いてくるのが見えた。
片手には、もみ殻を敷き詰めた卵の籠。 配達を終えて戻ってきたところらしい。 肩に薄く積もった雪を払い、籠を持ち直すと、夏芽は春香に気づいて足を止めた。
春香:「おかえり。 配達の帰り?」
夏芽:「うん。 卵、診療所と宿舎にも届けてきたところ」
春香:「お疲れさま」
春香は濡れた髪をタオルで押さえながら、少しの間を置いてから口を開いた。
春香:「ねえ、夏芽。 さっき食堂で、スープの菜っ葉の断面をじっと見てた人がいるの。 紬さんっていう、深雪の温室の人みたい」
夏芽:「……深雪の」
夏芽の手が、籠の持ち手を握ったまま止まった。
短い沈黙が廊下に落ちる。

渡り廊下の外では、屋根の雪がドサリと滑り落ちていた。 どこかで雪かきのシャベルが石に当たる硬い音がしたが、二人ともそちらへは視線を向けなかった。
夏芽:「……うちの温室、見せたいけど。 見たら、向こうの温室を思い出して、苦しいかもしれない」
夏芽は、籠の中の卵を確かめるように視線を落とした。
自分たちが育てているものを、すべてを失った相手に見せていいのか。 その答えは、自分には分からない。
春香はタオルを首に掛け直した。
春香:「それは、本人が決めることなんじゃない?」
夏芽は顔を上げた。
すぐには答えなかったが、やがて小さく頷いた。

夏芽:「……そうだね。 うん。 誘うだけ、誘ってみる」
そのとき、背後の女湯の戸がガラガラと音を立てて開いた。
紬が、あの古い布袋をしっかりと胸に抱えて出てくる。 袋の布には、白と茶色の短い毛が一本、張りついていた。 少し遅れて、志津と凪も姿を見せる。 紬は廊下に立つ二人に気づくと、警戒するように足を止めた。
夏芽は籠を持ち直し、紬のほうへ真っ直ぐに向き直った。
夏芽:「栽培棟の夏芽です。 さっきの食堂のスープの菜、うちの温室で採ったものです」
紬は一瞬だけ、目を伏せた。
紬:「……葉が、よかったです」
春香:「葉が?」
春香が横から聞き返しかけると、紬は言葉を探すように、ほんの少しだけ口元を震わせた。
紬:「葉脈が、ちゃんと残っていて。 煮込んでも、形が崩れていなかったから……土の面倒を、よく見てるんだなって」
夏芽は、ああ、と深く頷いた。

夏芽:「収穫する時間も大事なんです。 日が落ちる直前の、最後の光が入る時間に切るようにしてて」
そこで夏芽は、言葉をふっと切った。 専門的な話を重ねるより先に、伝えるべきことがあると気づいたように。
夏芽:「……見るだけなら、来ませんか。 うちの温室」
紬は、すぐには答えなかった。
胸元の布袋の紐をきゅっと握りしめ、それから、隣の志津を見た。
志津は凪の濡れた髪にタオルを被せて拭いていたが、紬の視線に気づくと、無言で手を止めた。
志津:「行っておいで。 凪の着替えは私が見てるから」
紬は、じっと志津を見つめた。
志津はそれ以上何も言わず、再び凪の髪へタオルを動かし始めた。

やがて紬は、夏芽へ向き直った。
紬:「……はい」
強張った、短い返事だった。 けれど、拒絶するための響きではなかった。
夏芽は、いつものように快活に、けれど少しだけ静かに笑って頷いた。
夏芽:「じゃあ、案内するね」
渡り廊下のくすんだ窓ガラスの向こう。 厚い雪雲の切れ間から、傾きかけた夕暮れの光が細く差し込んでいた。
その光の筋は、濡れた木の床板の上を、ゆっくりと温室の方向へ伸びていた。
栽培棟の分厚い防寒扉を開いた瞬間、湿った土の匂いがした。

紬の足が、ぴたりと止まった。
外の世界とは、まったく違う空気がそこには満ちていた。 肌を刺す乾いた寒さも、雪の匂いもない。 葉の青い匂いと、水を含んだ土の匂い。 天井を這う地熱配管から落ちた雫が、どこかでポタリと小さな音を立てていた。
夏芽は、何も説明しようとはしなかった。
何をどれだけ育てているのか。 この環境を保つために、どれほど配管と光を調整しているのか。 語ろうと思えば、いくらでも語れるはずだった。 それでも、扉のそばで静かに足を止め、紬が自分の足で動き出すのを黙って待っていた。
春香も、少し離れた場所に立ったまま、無言でその横顔を見つめている。
紬は、胸元の布袋にそっと触れた。

袋の口から、木製の名札の角が少しだけ覗いている。 親指の腹で『二番棚』の文字をひと撫ですると、意を決したように、ゆっくりと一歩を踏み出した。
通路の両側には、青々とした葉を広げた野菜が並んでいた。 配管の熱を利用した何段もの栽培棚。 廃材を組み合わせた手作りの支柱。 ところどころに無骨な板金補修の跡があり、使えるものを何度でも使って命を繋いでいることが分かる。
紬は少し進んでは立ち止まり、葉の先端や、根元の土の表面をじっと見つめた。
夏芽は隣を並んで歩こうとはせず、先へ促すこともしなかった。
やがて紬は、栽培棟の最も奥の区画へと進んだ。
隅の畝に、小さな苗がいくつも並んでいた。

瑞々しい双葉だった。
茎はひどく細く、葉は頼りないほど小さい。 けれど、二枚の葉を左右に精いっぱい開き、黒い土の上に顔を出して呼吸している。 紬の視線が、その背丈で止まった。 まるで、見覚えのあるものを見つけたように。
『春灯り』から分配された淡い黄金色の反射光が、その一角だけを柔らかく照らし出していた。
紬の視線が、そこに縫い留められた。
動かなくなった彼女の背中を、春香は黙って見ていた。
紬の手が、ゆっくりと持ち上がった。

苗へ向かって伸ばしかけた指先が、空中で止まる。 ほんのわずかに震えていた。 触れようとして、引っ込めかける。
その躊躇う手の先で、小さな双葉が空気の揺らぎに乗って、ふるふると揺れていた。
紬:「……触っても、いいですか」
夏芽は、迷うことなくすぐに答えた。
夏芽:「うん。 大丈夫だよ」
紬はもう一度、今度は確かな意志を持って手を伸ばした。
人差し指の腹が、双葉の柔らかい縁に触れる。 一度だけ、そっとなぞった。
葉が、それに応えるようにわずかに揺れる。

三人の間に、言葉のない時間が流れた。
紬は指先を根元の土へ近づけ、表面に触れた。 指の腹に、冷たくない湿り気が移る。 乾いて死んだ土ではない。 表面の下には、水分と空気を含んだ生きている土が続いていた。
紬:「……土、ちゃんと湿ってますね。 根が、奥でしっかり息をしてる」
その声は、食堂でキャベツの葉脈を確かめていたときよりも、少しだけ輪郭がはっきりとしていた。
夏芽は、隣を走る配管へ目を向けた。
夏芽:「床の下を地熱管が通ってるの。 夜は少しだけ弁を絞って落とすようにしてる」
紬:「……そうですか」
紬は双葉から目を離さず、短く応えた。
春香は、腰の工具ポーチにそっと触れた。

レンチなら持っている。 配管の調子が悪ければ直せるし、棚が壊れていれば補強もできる。 けれど今、ここで直せるものは何もない。
紬がこの双葉を見て何を思い出しているのか、春香には分からなかった。 尋ねるつもりもなかった。 ただ、彼女の指先が小さな葉に触れて、ほんの少しだけ生気を取り戻した、その時間の邪魔をしたくなかった。
窓の向こうで、最後の自然光がゆっくりと薄れていく。
苗の葉に落ちていた光が淡くなり、やがてカチリという音とともに、栽培棟の補助灯が点いた。 葉の輪郭が、薄い人工の明かりの中に浮かび上がる。
紬は、もう一度だけ双葉を見た。
それから、静かに指先を離した。

強張っていた肩が、ほんのわずかに下がった気がした。
布袋を抱え直す手には、まだ強い力が残っていた。 それでも紬は、来たときのように、ただ怯えて立ち尽くすだけの『避難民』ではなかった。
栽培棟を出た頃には、日はすっかり落ち、町の生活の灯りが吹雪の中にぼんやりと浮かび上がっていた。 紬は一足先に宿舎へ戻ったらしく、春香は少し遅れて、一人でその道を歩いた。
宿舎の玄関先では、藤堂が外の空気を吸っていた。 春香に気づくと、短く声をかけてくる。
藤堂:「悪いが、夜にもう一度、管の音を聞いておいてくれ」
春香:「さっきエア抜きした暖房ですか?」
藤堂:「ああ。 空気が抜けて音が消えても、しばらくは水流の様子を見たほうがいい。 急激な温度変化で、また噛むことがあるからな」
春香:「分かりました」
春香は工具ポーチの位置を直し、そのまま宿舎の中へ入った。
静まり返った廊下には、暖房の配管を伝うかすかな振動音が響いていた。 昼間よりも生活音が消えているせいか、耳を澄ますと、壁の向こうを流れる熱水の気配まで感じられる。

紬が宛がわれた部屋の扉が、少しだけ開いていた。
中を覗き見るつもりはなかった。 けれど、机の上に広げられた古い布と、その上に並ぶ小さな粒がふと目に入った。 紬が椅子に座り、種を一粒ずつ、慎重に並べていた。
春香は扉の前で足を止めた。
春香:「……暖房の音を、聞きに来ました」
紬が顔を上げる。
紬:「どうぞ」
短い返事だった。
春香は壁際まで進み、配管に耳を寄せた。

低い振動が途切れることなく続いている。 昼間に聞こえた、あの不規則な空白はもうなかった。 春香はしばらく耳を澄ませてから、壁から顔を離した。
春香:「……大丈夫そうです。 正常に流れてます」
紬:「そうですか」
紬はすぐに机へと視線を戻した。
布の上には、小さな種が三十粒ほど均等に並んでいた。 形も大きさも、春香の目には、よく見なければ違いが分からない。 それを紬は、一粒一粒、手触りを確かめるようにして置いている。
その隣には、木の名札が置かれていた。 文字の面を上にして、『二番棚』の三文字が、部屋の薄い明かりを受けている。
春香は、腰の工具ポーチにそっと触れた。
春香:「それ、さっきの種ですか?」
紬:「はい。 ちぢみ菜です。 寒さに強い。 三十粒くらい」
紬の指先が、一粒を布の端から中央へと移した。

春香:「どこに植えるか、もう決めてるんですか」
紬は、手を止めた。
机の上の種をじっと見つめたまま、少しだけ考える。
紬:「……まだ、分かりません」
春香:「そっか」
春香は、それ以上尋ねなかった。 種が手元にあることと、安全に根を下ろせる土があることは、同じではないのだろう。
紬はまた、種を一粒ずつ並べ始めた。 春香も、もう一度だけ配管の音を確かめてから、部屋を出た。
扉を閉めたあと、廊下に、布が擦れる小さな音がした。 続いて、紐を結ぶ細い音。 紬が種を袋へ戻しているのだろう。 その手つきがどんなものかは、春香には知りようもなかった。 ただ、音は、昼間に門の前で袋を握りしめていたときよりも、ずっとゆっくりしているように聞こえた。
隣の部屋の戸口では、志津が椅子に腰掛けていた。 膝の上では凪が深い眠りに落ちている。 少女の頭が少し傾くたび、志津は毛布の端を揃え、肩が冷えないようにきゅっと掛け直していた。

春香の気配に気づくと、志津は人差し指を唇に当てた。
春香は無言で小さく頷いた。
志津:「この子、今日はよく眠れそう」
志津が、息のような声で囁いた。
春香:「……よかったです」
春香も声を落として応える。
凪は目を覚まさなかった。 片手だけが毛布の外にこぼれ出ていて、その小さな指先が、志津の服の端をつまんでいる。
その先の廊下で、汐里が窓辺に立っていた。

背を向けたまま、外の黄金色をじっと見つめている。 路地を走る黄金苔の光は、雪の粒に遮られながらも、途切れることなく町の奥へと続いていた。
汐里:「……光が近い町ですね」
汐里が、独り言のように言った。
春香は窓のほうへ視線を向けた。
春香:「はい。 今夜は、冬香がずっと外を見てます」
汐里:「聞きました」
汐里はそれきり、口を閉じた。 窓ガラスの向こうでは、黄金色の光が、雪の白さを照らし出している。
春香は何か言葉を継ぐべきかと少し迷ったが、結局、何も言わなかった。
廊下を戻ると、藤堂が壁にもたれて床に座り込んでいた。

玄関先で別れてから、いつの間にそこへ来たのだろう。 目を閉じ、両腕を深く組んだまま、浅い寝息を立てている。 すぐ隣の配管からは、昼間と変わらない水の音が響いていた。
春香は足音を殺して近づき、近くの棚に置いてあった予備の毛布を広げた。 肩からずり落ちないよう、そっと、彼を覆うように掛ける。
藤堂は目を覚まさなかった。
春香は少しだけその場に立って、それぞれの部屋の静かな寝息を聞いていたが、やがて工具ポーチを持ち直し、宿舎の外へ出た。
広場には、夜の雪が降り積もっていた。
巨大な排熱塔の根元にある表示板が、暗がりの中で静かにデジタル数字を灯している。

――【地熱出力 58.4%】。
春香はそれを一瞥しただけで、足を止めることはなかった。
黄金色の光が、吹雪の雪原の上を細く、けれど確かに伸びていた。
どこかの部屋では、誰かが眠っている。
別の部屋では、誰かがまだ起きている。
春香はコートの襟元を直し、いつもの帰り道を歩いていった。

翌朝。
春香は、目覚まし時計のアラームを止めた記憶が曖昧なまま、慌てて分厚い布団から這い出した。
結露した窓の向こうは、相変わらずの雪景色だった。
急いで顔を洗い、はねた髪を適当に水で押さえつけ、教科書を鞄に乱暴に押し込む。 昨夜、自室へ戻ってから工具の油差しをして寝たのがいけなかったのかもしれない。 いや、その前に宿舎の配管音をもう一度確かめに行ったのも、たぶんよくなかった。
春香:「……間に合う、かな」
壁の時計の針を見て、春香は雪用のブーツを引っ掛けて部屋を飛び出した。
大学のキャンパスへ向かう白銀の道の途中、栽培棟の前を通りかかったときだった。

重い防寒扉が、ほんの少しだけ開いている。
中から、二人の声が聞こえた。
紬:「……種を植える場所は、ありますか」
春香は、無意識に走る足を緩めた。
紬の声だった。
夏芽:「あるよ。 春灯りが一番よく当たる畝、もう空けてある」
夏芽が、いつもと変わらない快活な声で答えた。
少しの、静かな間があった。

紬:「……もう、空けて」
夏芽:「うん、昨日の夜のうちにね。 もし使わなかったら、あの猫の新しい寝床にでもするつもりだったから」
春香は、扉の隙間からそっと中を覗き込んだ。
栽培棟の奥、春灯りの淡い黄金色の光が一番よく届く畝の隅で、あの白と茶色の斑模様の猫が、すでに丸くなっていた。 種を植える土の準備より先に、自分の特等席を決めてしまったらしい。
夏芽:「猫が邪魔なら、すぐに追い出すけど?」
夏芽が言った。
紬は、その気まぐれな居候をじっと見つめ、それから小さく首を横に振った。
紬:「いえ。 ……いい場所を知ってる方ですから」
その口元が、ほんのわずかに緩んだ。
春香は、扉の外で立ち止まっていた。

三秒ほど。
声をかけることも、中へ入っていくこともしなかった。
紬の手には、あの使い込まれた古い布袋があった。 けれど今は、何かから守るように胸に抱きしめてはいない。 片手でしっかりと持ち、もう片方の手で、これから種を植える場所の土の湿り気を、確かめるように触れている。
春香は、その光景を静かに見ていた。
昨日まで名前も事情も知らなかった遠くの町の人が、今日、ここ湯ノ原の土に、自らの手で種を植えようとしている。
ただ、それだけのことだった。

それだけのことなのに、春香はなぜか、この時間をもう少しだけ見ていたくなった。
そのとき。
大学の一限の始業を告げる古いチャイムが、雪の降る町に響き渡った。
春香:「……やっばい!」
春香は弾かれたように踵を返した。
教科書の入った鞄が背中で跳ねる。 凍りついた雪道で危うく足元をすくわれそうになりながら、春香は大学の正門へ向かって走っていった。
その背後、少しだけ開いた扉の奥の栽培棟では。

春灯りの淡い光が、空けられた畝の隅に落ちていた。
猫は、まだそこにいた。

第04話『春灯りの向こうから来た人』 了

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主題歌【主題歌】『明日もここに来ていいですか』|第04話『春灯りの向こうから来た人』MV|冬が終わらない世界で、今日も温泉は湧いている。
【主題歌】MV『明日もここに来ていいですか』|失くしたものは、戻らない。それでも、明日もここに来ていいですか。凍える心に、そっと灯る居場所がある。冬が終わらない世界で、今日も温泉は湧いている。|冬が終わらない世界で、今日も温泉は湧いている。

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あらすじ 水守町を脱出した紬、志津、凪、藤堂、諒、汐里の六人は、吹雪の雪原を荷物用雪上車で湯ノ原の第一居住圏へ向かう。 紬は故郷の温室から持ち出したちぢみ菜の種と、「二番棚」と刻まれた木札を布袋に入れて抱え続けていた。 志津は疲れ切って眠る凪を守り、藤堂は無言で周囲に気を配り、諒は非常時に備えて車の後部扉が内側から開くことを確認する。 汐里もまた、消えていく轍や背後の雪原を警戒して見張り続けていた。 無線で湯ノ原の空から、東へ延びる足跡には近づかず、南へ大きく迂回するよう指示が届く。 六人は追跡される危険を理解しているため、その異常な指示の理由を誰も尋ねない。 やがて吹雪の奥に細い光が現れ、黄金色の光の帯と雪に覆われた建物群が見えてくる。 それは人が暮らす町、湯ノ原の灯りだったが、紬は灯りがあることと安全であることは同じではないと感じ、白い獣たちに襲われた故郷の温室と、置き去りにした命を思い出す。 湯ノ原に到着した一行は町の人々に受け入れられ、春香は東門の融雪ヒーターを点検する仕事を通じて彼らと出会う。 春香は、紬が種を守るように抱えている姿、志津が眠る凪の毛布を整える姿、汐里が町の黄金色の光を見つめる姿、疲れ果てて眠る藤堂の姿を静かに見守る。 町は地熱出力58.4%という限られた力で維持されているが、それでも配管には温水が流れ、宿舎には眠る人々を守る暖かさがある。 翌朝、春香が大学へ急ぐ途中、栽培棟から紬と夏芽の会話を聞く。 紬が種を植える場所を尋ねると、夏芽は春灯りが最もよく届く畝を前夜から空けていたと答える。 そこには先に白茶の猫が丸くなっていたが、紬は猫を追い出さなくてよいと言い、猫もよい場所を知っているのだとわずかに笑う。 紬はもはや布袋を胸に抱き込むだけではなく、片手で袋を持ちながら、もう一方の手でこれから種を植える土の湿り気を確かめていた。 故郷を失い、どこにも根を下ろせないと思っていた彼女が、湯ノ原の土に自分の種を植えようとしている。 春香はその光景を見届けた後、授業開始のチャイムに気づいて大学へ走り去る。 栽培棟には春灯りが降り注ぎ、空けられた畝と猫、そして新たな命を育てるための場所が残されていた。
解説+感想+採点 1. 解説
本作は、過酷な冬と雪に覆われた終末的な世界を舞台に、滅びた故郷「深雪町」を追われた避難民たちと、受け入れた「湯ノ原」の人々との静かな交流を描いた群像劇です。
「失ったもの」と「手元に残されたもの」の対比 主人公の紬(つむぎ)が肌身離さず抱えている「ちぢみ菜の種」と「『二番棚』の木札」は、彼女にとって失われた故郷の温室と人々の記憶そのものです。 初めは警戒心からその布袋を固く守り締めていましたが、湯ノ原の温室で「生きた土」や「同じちぢみ菜の双葉」に触れ、猫が居座るのを許す(あるいは受け入れる)プロセスを通じて、彼女の心にわずかながら「現在地への根づき」が芽生える様子が丁寧に描写されています。
技術と生業(なりわい)を通した心の交錯 春香(技術・設備の視点)や藤堂(老練な設備管理者の視点)のやり取りに見られるように、言葉ではなく「配管の音を聞く」「正しい数字や音を受け継ぐ」という行為を介して、世代や立場を超えた信頼関係が結ばれていくのが特徴です。 帳面の「六食」という冷徹な数字と、それを少しだけ融通しようとするパン屋の店主の人間味の対比など、過酷な環境下での生々しい生活のリアリティが物語に深みを与えています。
2. 感想
非常に丁寧で、湿度と温度を感じさせる素晴らしい筆致だと感じました。 アクションや劇的な事件が起きるわけではありませんが、「人が心を開いていく瞬間」が、足音や手つき、視線の動き、そして環境音(ディーゼルの唸り、配管の空気の抜ける音、雪を踏む音)を通して、五感に訴えかけるように描かれています。
特に印象に残ったのは、猫の存在感です。過酷な世界観の中にあって、誰の事情にも媚びず、ただそこにマイペースに存在する猫が、紬の張り詰めた心をふっと緩ませるクッションとして見事に機能していました。 また、春香の「まだ未熟けれど、誰かの技術や思いを受け継いでいく」という成長のグラデーションが心地よく、読後感にじんわりとした温かさが残る素晴らしい第04話でした。
3. 採点
総合評価: 98 / 100点
項目別内訳
世界観・設定描写(20/20点): 寒冷な気候、地熱配管、温室の湿度などがリアリティを持って伝わってくる。 心理描写・キャラクター(19/20点): セリフの少なさを補う、微細な身体動作(指先、視線)の描写が抜群にうまい。 ストーリー構成(19/20点): 到着から診療、食事、温泉、栽培棟への導線が美しく、感情の着地が自然。 文章力・リズム(20/20点): 改行や間の取り方が絶妙で、情景がスッと頭に入ってくる。 余韻・テーマ性(20/20点): 絶望的な世界の中にある小さな希望(双葉と光)の描き方が見事。
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◀第03話 『黄金の苔が凍る夜と、隣の席に座った人』
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