第1章「泥濘の聖別、あるいは「グランプリの資格」なき者たち」
梅雨前線が列島を覆い、鳴門の研究室の窓ガラスには大粒の雨が打ち付けていた。 ホワイトボードには、上半期の総決算たる『宝塚記念(G1)』の出走表が美しくマッピングされている。今年の舞台は阪神競馬場、芝2200m。
「いや〜っ! 教授、今年の宝塚記念、またややこしいことになってますやん!」
若葉が湿気で少し広がった髪をかきむしりながら、分厚いデータファイルを机に叩きつけた。
「週末の阪神はずっと雨予報。馬場は重から不良のドロドロ確実ですわ。おまけに出走メンバーはG1馬だらけで、ウチの脳内演算(マナ)はとっくにショート寸前! 脳みそが沸騰して『クソゲーだよ』って投げ出したくなりますわ!」
「おや、若葉さん。それじゃまるで、現代日本に転生してスマホのパズルゲームの難易度にキレて、一日中部屋に引きこもっているフリーレンみたいですね」
佐倉助手が楽しげにクスリと笑う。それを聞いた若葉が「あ!」とポンと手を叩いた。
「それ、ウチも思っててん! もしフリーレンが現代日本におったら、絶対スマホのゲーム廃人になって、ガチャで爆死して寝込んでますわ!」
「いや、僕は意外とYouTubeでひたすら猫動画を無心で眺めてる派だと思いますよ。1000年後の流行も見届けるために、SNSのアカウントなんか作っちゃったりして」
「甘いわね、二人とも」
神宮寺教授が、グラスのアイスコーヒーをゆっくりと揺らし、氷が溶ける涼やかな音を響かせた。
「彼女の本質は『効率の悪い収集癖』よ。現代日本なら間違いなく、誰も見向きもしない地方競馬の過去50年分のニッチな斤量データや、JRAの古い機関誌を古本屋や博物館で漁る『データ廃人』になっているわ。……ちょうど、今年の宝塚記念の『非根幹距離における泥臭い重馬場実績』を執念深く漁る、私のようにね」
「げぇっ、一番恐ろしい廃人がここにいた……」
若葉が引き気味に呟くのを無視して、神宮寺は冷徹な視線をホワイトボードに向けた。
「大衆は『雨のグランプリ=荒れる』という安易な思考(罠)に逃げ込み、適性のない馬にまで無駄な資金(マナ)をばら撒くわ。でもね、若葉。阪神2200mという内回りのコースは、直線が短くゴール前に急坂が待ち構える、おまけに泥濘と化した『消耗戦の迷宮(ダンジョン)』よ。一瞬の華やかな切れ味(スピード魔法)ではなく、最後まで地泥を這って泥臭く脚を使い続ける『絶対的な持続力』こそが唯一の生存条件。まずは、この過酷な泥濘を歩く資格を持たない不純物を、一般攻撃魔法(ゾルトラーク)で一掃するわ」
佐倉助手がタブレットをスワイプし、メインモニターに「消去(カット)」のリストを不気味に赤く点滅させた。
「ええ。実績と適性という物理的障壁を越えられない馬たちですね。ミミックに騙される未熟な冒険者はここで退場です」
神宮寺の赤いマーカーが、迷いなくホワイトボードを切り裂く。
「まず、シュガークン【3番】、ミクニインスパイア【4番】、ファミリータイム【7番】、マイネルエンペラー【12番】。彼らは重賞での実績や、オープンクラスでの蓄積が圧倒的に不足しているわ。G1という深淵(アビス)で勝ち負けするレベルには達していない。次に、長距離特化でスピード不足のスティンガーグラス【14番】と、8歳で近走大敗続きのミステリーウェイ【18番】。論外ね」
「あ、ちょっと待ってください!」若葉が慌てて手を挙げる。「マイユニバース【15番】はどうですか!? 追い切りデータで【S評価】出てますよ! 魔力バリバリの仕上がりちゃいますの!?」
「浅いわね、若葉」神宮寺が冷たく切り捨てる。
「確かに最終の栗東CWで6ハロン78.6秒という驚異的な時計(マナ出力)を出しているわ。でも、彼はG2を1勝したのみで、菊花賞では13着に惨敗している。いくら調教という名の安全な演習で魔力を高めても、G1の激流を生き抜く『格と経験値』がなければ、本番のプレッシャーで自壊するだけよ。情けは無用、消しなさい」
若葉がゴクリと息を呑む。「うわぁ……調教S評価の馬までバッサリ。でもこれで18頭から一気に7頭も消えましたわ! 霧が晴れて、迷宮のルートがめっちゃクリアになりました!」
「これが『論理の聖別』よ。さあ、ここからが本当の宝塚記念の解剖学(アナトミー)の始まりよ。佐倉くん、次の術式を展開しなさい」
第2章:武豊の「本気(マジック)」と、極限の戦闘態勢
「さあ、ノイズは消え去ったわ。ここからは、梅雨のデバフ(雨馬場)を味方につけ、この迷宮を制圧する『真の勇者』を炙り出すわよ」
神宮寺教授は持っていた赤いマーカーを一度置き、満足げに腕を組んだ。
佐倉助手がキーボードを叩き、最新の雨雲レーダーの推移をモニターに投影する。
「今週末の阪神競馬場周辺は、雨が残って馬場が劇的に渋る可能性が極めて高いです。つまり、全体の時計が掛かる非常にタフな消耗戦になり、各馬の『先行力』と『パワー』の要求値が跳ね上がりますね」
「その通りよ。そして、この水属性の最悪なデバフ(不良馬場)を最も歓迎し、肉体・精神ともに極限の戦闘態勢に入っている個体が1頭いるわ」
神宮寺は、メイショウタバル【16番】の名前を、ホワイトボードが凹むほどの力で力強く二重丸で囲んだ。
「最終追い切りは栗東CWで文句なしの【S評価】。不良馬場をものともしない、力強く圧倒的なフットワークよ。父ゴールドシップ譲りの破格のパワーが、この雨で完全覚醒しているわ。だが、真に恐ろしいのはそこじゃない。陣営と鞍上の『絶対的な勝負気配(インテンション)』よ」
「えっと……レジェンド、武豊騎手の連続騎乗のことですか?」
若葉が身を乗り出して、神宮寺のノートを覗き込む。
「そうよ。佐倉くん、松本オーナーと武豊騎手のデータ(術式)を展開して」
「はい」佐倉が手元のタブレットを操作する。「過去1年、松本オーナーの所有馬に武豊騎手が出走した際の連対率は、驚異の44.7%。他のジョッキーが乗った場合の約3倍という異常な数値を叩き出しています。さらに武騎手は、他の有力馬からの騎乗依頼を断ってまで、このメイショウタバルを自らの相棒に選びました。管理する石橋守調教師は、武騎手の古くからの兄弟子……。この陣営の揺るぎない結束力は、見ていて本当に熱いものがありますね」
それを聞いた若葉が、感極まったように拳を握りしめた。
「うわぁ……それって完全に『勇者ヒンメルのパーティ』やないですか! 信頼の絆で結ばれた最強のギルド! 結局、ヒンメルの凄さって圧倒的な強さそのものじゃなくて、仲間を一つにまとめて、全員のポテンシャルを120%引き出す『圧倒的な人格とリーダー力』ですもんね。このパーティ内で一番代替不可能だったのは間違いなくヒンメルですし、彼がおらんかったら魔王討伐なんて絶対成功してへんでしょうし!」
「ええ、いい着眼点よ若葉。このメイショウタバルというパーティにおいて、武豊という存在はまさにその『ヒンメル』よ」
神宮寺の瞳が、メガネの奥で妖しく光る。
「逃げか、さもなくば後方一気か。極端な魔法しか使えない、精神的にも非常に不器用な馬だけれど、雨の阪神2200mという特殊なダンジョンで、武豊が腹を括って『大逃げ』の戦術(魔法)を展開すれば、誰も彼の後ろに鈴をつけに行くことすらできないわ。大衆が彼の気性のムラっぽさを嫌ってオッズを落としてくれるなら、これこそが今回、私たちが手にする最大の『お宝』よ」
第3章:グランプリの血脈と、最内のパラドックス
「次は、大衆が本命に推すであろう、このダンジョンの最深部に鎮座する『魔王クラス』の評価よ。佐倉くん、客観的データ(ログ)を提示しなさい」
「はい。過去の宝塚記念において、複勝率ベースで圧倒的な信頼度を誇るのが『4歳・5歳馬』、そして『前走G1組』という物理的実績です。その筆頭となるのが、大阪杯と天皇賞(春)を連勝してここへ殴り込んできた、現在の古馬戦線のトップメタ、クロワデュノール【5番】ですね」
「クロワデュノールの地力には、逆らうだけ論理の無駄ね」神宮寺が深く頷く。
「中間の調整も抜かりなく【A評価】。先行してどこまでもバテずに長く脚を使える彼のスタイル(術式)は、阪神内回りの理(ハック)に完全に適合しているわ。そしてもう一頭、牝馬ながら不気味な魔力を放っているのがレガレイラ【17番】よ」
「あ! 有馬記念馬のレガレイラ! 鞍上はC.ルメール騎手ですやん!」若葉が身を乗り出して食いつく。
「その通り。ノーザンファーム×ルメールという、この世界における最強のマスターとサーヴァントのタッグね。有馬記念で牡馬を一蹴したあの走りで、グランプリの格は完全に証明されているわ。道悪も苦にしない力強い走法だし、外枠から揉まれずに自分のタイミングで魔力を解放できるこの配置は、彼女にとってむしろ好都合。絶対に外せないわね」
若葉が感嘆の息を漏らしながら、ボードの馬名を眺めた。
「クロワデュノールにレガレイラ……。実績も中身も完璧すぎて、一緒に旅するならこの2頭しかおらんってレベルの安心感ですわ。フリーレンのパーティで言うなら、生活面が完璧に安心できるフェルンと旅するようなもんです。絶対にストレスがない!」
「おや、若葉さんはフェルン派ですか」佐倉助手がコーヒーのおかわりを注ぎながら笑う。
「僕は気楽に旅ができそうなシュタルク派ですね。なんだかんだで頼りになりますし。ちなみに教授なら、誰をパーティーに選びますか?」
「愚問ね、佐倉くん。私は迷わずフリーレンよ。彼女の持つ膨大な『歴史のデータ(魔法)』と、その圧倒的な出力があれば、あらゆる不確定要素を事前に排除できる。旅の気楽さや生活の安心感なんていう非論理的な感情で仲間を選ぶなんて、全滅の確率を上げるだけよ。……競馬も同じ、私が信じるのは感情ではなく、積み上げられた『固有の結界(コース適性)』だけよ」
神宮寺はそう言って、コースの立体図の最内を指ししめした。
「例えば、この阪神2200mにおいて、過去10年で最も高い3着内率を叩き出している最強の聖域――それが『1枠』を引き当てた2頭、ダノンデサイル【1番】とミュージアムマイル【2番】よ」
「1枠の最内ですか! でも教授、今回の泥ドロ馬場やったら、内側って一番馬場が悪くて走りづらいんちゃいます?」若葉が疑問を投げかける。
「それが『最内のパラドックス』よ、若葉。確かに大阪杯(6着)の敗戦から巻き返しを狙うダービー馬ダノンデサイルにとって、荒れた最内は一見すると罠に見える。でも、百戦錬磨の戸崎騎手が、最内でじっと魔力(スタミナ)を1ミリも漏らさずに温存し、最後の直線で『荒れた内側を嫌って全員が外へ広がった瞬間の最短ルート』を突き抜けることができれば……。グランプリの舞台で、すべての魔王を内側から一撃で両断するだけのポテンシャルは十分にあるわ」
第4章:最終構築図(リペア・ストラクチャ)
夕闇が迫り、雨足はさらに強まっていた。研究室の中は、モニターの光と神宮寺のマーカーの音だけが支配している。
「すべての欺瞞(ノイズ)は消え去ったわ。雨の阪神、内回りの持続力、陣営の思惑……大衆が見落とした真理の断片を繋ぎ合わせ、今ここに、上半期を締めくくる冷酷な『最強の投資陣形』を構築するわよ」
神宮寺教授はホワイトボードの中央に、カツカツと小気味よい音を響かせながら、最終的な買い目を美しく書き込んでいった。
【宝塚記念 最終馬券構成:リペア・ストラクチャ】
◆ 1列目(本命軸・絶対的中心):
メイショウタバル【16番】(武豊・雨馬場の単騎逃げ/S評価) クロワデュノール【5番】(北村友・G1連勝の絶対王者)
◆ 2列目(相手本線・逆転候補):
レガレイラ【17番】(ルメール・有馬記念馬の底力) ダノンデサイル【1番】(戸崎・絶好の最内枠からの強襲)
◆ 3列目(広域捕捉のヒモ穴):
2列目の2頭 ミュージアムマイル【2番】(レーン・内枠の恩恵) コスモキュランダ【9番】(横山武・持続力勝負の申し子) ビザンチンドリーム【6番】(西村淳・海外帰りの地力) シンエンペラー【11番】(坂井・タフな馬場での浮上)
「これが私たちの答え、真理の術式よ。武豊のメイショウタバルが雨の馬場で展開のすべてを支配し、クロワデュノールが王者の盾として中央に君臨する。この2頭を中心軸(マスター)に据え、ルメールのレガレイラや、最内から一撃を狙うダノンデサイルを絡める。大衆が名前や表面的なデータだけで盲信する不純物たちのマナ(資金)を、私たちはこの美しいストラクチャで冷酷に刈り取るのよ」
若葉が感嘆の息を漏らし、びっしりと書き込まれたノートを胸に抱きしめた。
「……完璧すぎますわ、教授! 梅雨のデバフから陣営の人間関係、コース適性まで、バラバラやったパズルのピースが全部一本の線で繋がりました! あ〜あ、フリーレンの世界の魔法を1つだけもらえるなら、ウチは迷わず『宝塚記念の勝ち馬がわかる魔法』が欲しかったですけど、教授の脳内演算があれば魔法なんていりませんな!」
「浅いわね若葉。そんな因果律を歪める魔法、ゼーリエが許すはずがないわ」
神宮寺教授が呆れたようにため息をつく。
「もし1つだけ魔法をもらえるなら、実生活において一番便利でお金を稼げる(損失を減らせる)のは『服の汚れをきれいにする魔法』一択よ。これさえあれば、クリーニング代という名の余計な固定資産の損失(デバフ)を生涯完全にゼロに抑え込める。地味だけど、これほど現代社会で実用的な魔法はないわ。……まあ、競馬で言うなら、今日のこの重馬場の泥汚れを一切気にせず、涼しい顔で激走できる『道悪の絶対魔法(適性)』を持ったメイショウタバルを軸に選ぶようなものね」
「なるほど、教授の魔法選びまでデータ至上主義やった……!」
若葉が笑うと、佐倉助手が優しく微笑みながら、二人のデスクに新しく淹れた温かいお茶を置いた。
「投資とは、不確実性という名の泥濘(ぬかるみ)に、論理という名の確固たる足場を築く行為よ」
神宮寺教授はマーカーを置き、グラスに残ったアイスコーヒーを静かに飲み干した。
「さあ、上半期を締めくくる阪神2200mの迷宮で、真のグランプリホースが誰なのか……私たちの論理が美しく証明される瞬間を、静かに待ちましょう」
冷たい雨音だけが、週末の決戦を待ちわびるように、研究室の窓を激しく叩き続けていた。
第5章:若葉の疑念
若葉が何か重大なバグを見つけたように、手元のノートを指さして大きな声をあげた。
「教授! この買い方って3連複のフォーメーションやと思うんですけど、もし1列目に置いたメイショウタバルとクロワデュノールが、2頭揃って3着以内に入ったら……これ、馬券飛んでまう(外れる)んちゃいますの!? 本当にそれでいいんですか!?」
「ふふ……ふふふっ、あははははっ!」
鳴門の研究室に、神宮寺教授の珍しく堪えきれないような、それでいて極めて楽しげな笑い声が響き渡った。
「よくそこに気付いたわね。素晴らしいわ、若葉。そこにある『歪み』に自力で気づけるなら、あなたももう立派な一級魔法使い(アナリスト)の資格があるわ」
神宮寺はフレンチプレスをコトと置き、不敵な笑みを浮かべてホワイトボードを指差した。
「まさにあなたの言う通りよ。この3連複フォーメーションは、1列目のメイショウタバルとクロワデュノールが『両方とも3着以内に来たらハズレ(紙くず)』になる。大衆のギャンブラーが見たら『軸にした2頭が両方来て外れるなんてアホか!』って激怒する、一見すると致命的な欠陥ストラクチャね」
若葉が目を丸くして身を乗り出す。 「そやろっ! 1列目同士の決着を補完する買い目がどこにも入ってませんやん! 教授、いくらなんでもこれは術式(フォーメーション)の組み間違いですか!?」
「いいえ、意図的な『切断』よ」
佐倉助手がタブレットの画面を切り替え、独自の展開シミュレーション図をメインモニターに投影した。彼の口元にも、教授と同質の微かな笑みが浮かんでいる。
「考えてみてください、若葉さん。もし一級魔法使い試験を僕たちが受けるとしたら、どんな戦術を取りますか? 僕はフェルンタイプで堅実に突破したいですが、教授がここで仕掛けたのは、完全に『ラントの頭脳戦』です。ラントは『自分が死ぬリスク』を排除するために、最初から本体を試験場に赴かせず、完璧な分身だけで試験を突破した。このフォーメーションも同じ、無駄なリスク(資金の無駄打ち)を完全に排除するための割り切りなんです」
「ラントの分身魔法……!? どういうことです、佐倉くん」
「いい? 若葉」神宮寺教授がマーカーを握り、ボード上のタバルとクロワデュノールの馬名の間を「/」の線で鋭く分断した。
「雨の阪神2200mという過酷な泥濘の迷宮で、メイショウタバルが『大逃げの絶対魔法』を完遂させて馬券内に粘り込む世界線……それは後続の馬たちが道悪に足を取られ、追撃の詠唱を諦めるほどのタフなハイペースの消耗戦になった時だけよ。 逆に、王道を行く絶対王者クロワデュノールが『圧倒的な格』で前を綺麗にねじ伏せる世界線では、暴走したタバルは直線の急坂を迎える前にとっくに捕まり、馬群の底へ沈没(ガス欠)しているはずだわ」
若葉が「あ……!」と声を上げ、自分のノートを凝視する。
「極悪馬場における『暴走する逃げ馬』と『王道の実力馬』の好走条件は、論理的に完全に相反する(カニバリズムを起こす)のよ。どちらかの魔法が完璧に決まれば、もう片方は必ず致命傷を負って消える。これが競馬という戦域を支配する物理法則よ」
「なるほど……! 2頭が仲良く手を繋いでゴールする世界線は、論理的に極めて発生しにくい! だから『両方とも無事に来る世界線への保険(買い目)』に大事なマナ(資金)を割くのは、ただの無駄撃ちっちゅうことですね!」
「その通りよ」
神宮寺教授はグラスの氷をカランと満足げに鳴らした。
「もし万が一、私のシミュレーションを越えてタバルとクロワが両方来てしまったら? その時は、私の論理(魔法)が自然の神秘に敗れたと潔く負けを認めるわ。大衆のように『もしも』の恐怖に怯えて買い目を無駄に広げ、ガミるリスクを高めるくらいなら、その資金を『どちらかが綺麗に飛んで配当が跳ね上がる、美味しい並行世界』に全振りする。これが投資という名の戦いよ」
若葉が横で「ウチはシュタルク寄りのビビりなんで、こっそり100円だけその『もしも』を買い足しておきます……!」と小声で呟きながら、こっそりノートの端にメモを書き足した。
第6章:若葉の夢馬券
「ふふっ……佐倉くん。ちょっと若葉のスマホの購入画面(詠唱履歴)をハックして、そこのメインモニターに出してみてもちょうだい」
神宮寺教授の冷徹で意地悪なオーダーに、佐倉助手が「了解です」とキーボードを数回叩いた。
すると、メインモニターの端に、若葉が教授の目を盗んでこっそり裏で仕込んでいた「夢の100円馬券(ロマン・ストラクチャ)」の全貌が、鮮やかに映し出された。
【若葉の夢馬券:3連単フォーメーション】
1着:【15】マイユニバース(大魔導士・横山典弘の魔法陣) 2着:【16】メイショウタバル、 【5】クロワデュノール 3着:【16】、 【5】、 【17】レガレイラ
「ああっ! ちょっと佐倉くん! ウチの極秘術式を勝手に覗き見らんといてくださいよ!」
若葉が顔を真っ赤にしてタブレットを隠そうとするが、時すでに遅し。神宮寺が氷の浮かんだグラスを片手に、呆れたような、けれどどこか楽しげな視線をその買い目に向けた。
「……なるほど。私が第1章で『G1の格がない』と真っ先に一般攻撃魔法(ゾルトラーク)で切り捨てたマイユニバースの単勝頭固定。しかも2着3着には、私が第5章で『絶対に共存できない』と論理的に分断したメイショウタバルとクロワデュノールを、仲良く並べているわね。私の論理(ロジック)に対する、完全な反逆じゃない」
若葉は観念したようにバッと立ち上がり、関西弁で熱弁を振るい始めた。
「だって、夢があるじゃないですか! 教授は『格がない』ってバッサリいきましたけど、マイユニバースの最終追い切りは文句なしの【S評価】(超魔力状態)やったんですよ! しかも鞍上は、競馬界が誇る生きる伝説、大魔導士・横山典弘ジョッキー(ノリさん)ですやん! 雨のドロドロ馬場で、みんなが前で泥まみれになって必死に消耗戦(デスマッチ)をやってるその後ろで、ノリさんがポツンと最後方でフフッと笑いながら魔力を溜めて……。最後の直線、全馬がバテたところで、大外から一撃必殺の『超弩級ストライク魔法』をぶっ放す! そんで、前で潰れかけてるタバルとクロワをまとめて撫で斬りにして1着ゴール! オッズは軽く100万馬券、いや1000万馬券超え! これぞ穴党の見る最高の夢、ロマンの極致ですわ! 1000年後の競馬史にウチの名が刻まれますわ!」
「……横山典弘騎手の後方待機からの大外一気が決まり、なおかつ先行して完全に潰れ合うはずのタバルとクロワが、泥馬場で奇跡的に粘って2着・3着に残る。若葉さん、その3つの事象が同時に発生する確率は、僕たちの演算では『0.00001%』を下回ります」
佐倉助手が眼鏡のブリッジを押し上げながら、冷静かつ残酷なツッコミを入れる。
「それって、ヒンメルたちが『1000年後にフリーレンが一人ぼっちにならないように』って、全国にくだらないポーズの銅像を建てまくったくらいの天文学的な自己満足ですよ」
「ええんよ、0パーセントやないんやから! 宝くじ買うよりは遥かに確率高い、ウチだけの特別な魔法陣(フォーメーション)ですー!」
神宮寺教授は、声を荒らげるどころか、肩を揺らしてクスクスと嬉しそうに笑い出した。
「ふふっ……『論理で切られたS評価の伏兵』と『大魔導士の奇策』、そして『相反する2頭の共存』。すべてのパラドックスをごちゃ混ぜにした、あまりにも愚かで、美しく、欲深い夢ね。でもね、若葉。フリーレンが『かき氷を作る魔法』や『花畑を出す魔法』のようなくだらない魔法を愛したように、100円というささやかなマナ(代価)を支払って、週末までその壮大な夢の世界に浸れるなら、それは極めて健全なエンターテインメントよ」
教授は静かに立ち上がり、ブラインド越しに見える雨上がりの鳴門の空を見つめた。
「大衆が何となく新聞の印通りに買う100円と、あなたが『私の論理の死角』を突こうとして必死に編み出した100円の夢馬券。その価値は全く違うわ。もし日曜日の阪神競馬場で、その『大魔導士の奇跡』が起きてしまったら……その時は、研究室の晩ご飯は若葉の奢りで、特上の焼肉フルコースをご馳走になるわよ」
「望むところですわ! 帯封(100万)獲ったら、叙々苑でもどこでも連れてったりますからね!」
ガッツポーズをする若葉の横で、佐倉助手が「じゃあ、僕は今からシャトーブリアンを予約しておきますね」と、静かに微笑んだ。
窓の外では、いつの間にか雨が上がり、雲の隙間から初夏の鮮やかな光が、ホワイトボードの最終構築図(リペア・ストラクチャ)を静かに照らし始めていた。
(宝塚記念編・完)
|