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「真宮寺教授の秘密講義」~高松宮記念不確実性のカノン~
「VOICEVOX: 四国めたん」
「VOICEVOX: 春日部つむぎ」
「VOICEVOX: もち子さん」
「VOICEVOX: 満別花丸」
第1章:論理の聖別、あるいはエリート校の期末テスト
窓の隙間から滑り込んできた春の風が、研究室にうず高く積まれた血統辞典のページをパラパラと無遠慮にめくっていく。
佐倉が淹れたばかりのブルーマウンテンからは、鼻腔をくすぐる上品な苦味と甘い香りが立ち昇り、古紙の匂いが染み付いた部屋の空気をわずかに浄化していた。マグカップから伝わる温もりが、まだ少し冷える春先の指先をじんわりと温める。
若葉:「ふぁ?あ、春眠暁を覚えず、ですわ。せやけど、今期のアニメは豊作すぎて眠る暇もあらへんのですわ。昨日始まった『転生したらスライムじゃなくて馬だった件』見ました? あの主人公、前世の記憶でいきなりGⅠ勝つん反則ちゃいます?」
丸椅子の上でくるくると回りながら、若葉が持参した抹茶味のポッキーをかじってサクサクと小気味よい音を立てる。その手には、赤や青のマーカーでカラフルに彩られた週末の競馬新聞が握られていた。
佐倉:「馬に転生ねぇ……」佐倉はノートパソコンの画面から目を離さず、苦笑交じりに応じた。「前世の記憶があっても、馬の身体構造に慣れるまではまともに走れないんじゃないかな。それに、いきなりGⅠって、登録条件とか賞金とかどうやってクリアしたんだろう」
若葉:「佐倉助手、そこはアニメの魔法ですやん! 夢とロマンの世界に現実の法律持ち込んだらあきませんて!」
佐倉:「夢とロマンで馬券が当たるなら、今頃私は南の島でバカンスを楽しんでいるはずよ」
部屋の最奥、アンティーク調のデスクに身を沈めていた神宮寺が、タブレットから視線を上げて冷ややかな声を放った。白衣の袖口から覗く細い指先が、空中で優雅に弧を描く。
神宮寺:(転生アニメの非論理的な展開も嫌いではないけれど、現実の勝負事に『都合の良い奇跡』など存在しない。私たちが向き合うのは、血と汗と、そして冷酷なまでに嘘をつかない数字の集積。初心者の彼女には、まずその幻想を打ち砕くところから始めなければならないわね)
若葉:「ひっ、教授! いつの間にそこに!?」
神宮寺:「朝からずっといるわよ。で、その派手な新聞を見る限り、今週も大切なお小遣いをJRA(日本中央競馬会)に寄付するつもりなのかしら?」
若葉:「寄付ちゃいます! 投資です! ほら、今週は重賞レースがいっぱいあるやないですか。春の出会い言うたら毎日! だから『毎日杯』で運命の出会いを果たすんですわ!」
若葉が新聞の端を指差し、自信満々に胸を張った。
佐倉:「毎日会うのは運命じゃなくて単なるストーカーよ、若葉さん」佐倉がキーボードを叩きながら冷静にツッコミを入れる。「それに毎日杯は3歳馬のレースだ。まだ数回しか走っていない若い馬ばかりで、能力の底が見えていない。運命の出会いどころか、素性のわからない相手と闇鍋をするようなものだと思うけど」
若葉:「素性がわからんからオモロイんやないですか! 突然変異でめっちゃ強い馬がおるかもしれへんし!」
神宮寺は呆れたように小さく息を吐き、デスクの上のコーヒーを一口啜った。
神宮寺:「その『かもしれない』という不確定要素こそが、投資における最大の敵よ、若葉。毎日杯は参加頭数が10頭と少ないけれど、春の3歳馬は心身の成長が著しくて、前回の成績が全くアテにならないの。データという名の履歴書が白紙に近い若者たちに、あなたの大事なお金を預けられるかしら?」
若葉:「うっ……履歴書真っ白のフリーターにお金貸すんはちょっと嫌ですわ……」
若葉はポッキーを咥えたまま、うーんと唸り声を上げた。
若葉:「ほ、ほな! 人数が正義! クラスの全員で戦う大乱闘スマッシュブラザーズみたいな『マーチステークス』はどうですか!? なんと24頭も登録してますよ! 参加者が多いほどお祭り騒ぎで楽しいちゃいます?」
佐倉がモニターにマーチステークスのデータを表示させ、顔をしかめた。
佐倉:「24頭のお祭り騒ぎ……というか、これは大惨事の予感がするね。教授、このレースは『ハンデ戦』ですよね。ただでさえ頭数が多いのに、負担する重さまでバラバラなんて、予測が複雑すぎませんか?」
神宮寺はタブレットを操作し、プロジェクターを通じてホワイトボードにデータを投影した。
神宮寺:「佐倉くんの言う通りよ。マーチステークスは、人間で例えるなら『足の速い陸上選手には20キロの重りを背負わせ、遅い人には手ぶらで走らせる』という不平等条約のレースなの。しかも砂の上を走るダート戦。16頭もいれば、途中でぶつかったり、前の馬が蹴り上げた砂を被ってやる気をなくしたりと、実力以外の不運が多発するわ」
神宮寺:(ハンデキャップ競走は、JRAが意図的に『全員が同時にゴールするように』調整したレース。そこに16頭という物理的な渋滞リスクが加わる。プロの分析家でも匙を投げるレベルの運ゲーね。こんなレースに手を出すのは、目隠しをしてダーツを投げるようなものよ)
若葉:「おもり背負わされて砂まみれ……罰ゲームですやん!」若葉がブルッと身震いをした。「ほな、おもり繋がりで『日経賞』は? ここには58キロのめっちゃ重い荷物背負わされとる『ローシャムパーク』って強そうな馬がいますよ!」
神宮寺:「連想ゲームが少しマシになってきたわね」神宮寺は少しだけ口角を上げた。「日経賞は『別定戦』。つまり過去の成績が良い強い馬に重い斤量を背負わせるルール。実力差がハッキリしやすいのは良い点ね。でも、走る距離が2500メートルと長いのよ。長い距離は、道中の駆け引きやコースの得意不得意が極端に出る。16頭もいると、強い馬でも展開一つで罠にハマる可能性があるわ」
佐倉がコーヒーのおかわりを神宮寺のデスクに置きながら、同意するように頷いた。
佐倉:「長い距離だと、道中で息を入れるタイミングとか、スタミナの温存が勝敗を分けますもんね。データだけで測れない騎手の腕がモロに出そうです」
若葉:「ええーっ! 履歴書真っ白もアカン、ハンデ戦もアカン、長い距離もアカン! ほな、どれ買えばええんですか! 私のお小遣い、財布の中で暴れてますよ!」
若葉が机に突っ伏し、新聞を両手でわしゃわしゃと撫で回した。神宮寺はそんな彼女を冷ややかな、しかしどこか楽しげな瞳で見下ろした。
神宮寺:「投資先は一つしかないわ。私たちが買うべきは、実績という名の履歴書が完璧に揃っていて、不公平な重りもなく、純粋な実力だけで頂点を決める戦い。中京競馬場で行われるGⅠレース……『高松宮記念』よ」
若葉:「高松宮記念! GⅠって一番上のクラスですよね! でも教授、これかて22頭も登録してますよ? お祭り騒ぎの渋滞リスクは同じちゃいますの?」
若葉が顔を上げ、疑問をぶつける。
佐倉:「渋滞の質が違うのよ、若葉さん」佐倉が手元の資料をめくりながら解説を始めた。「高松宮記念は『定量戦』といって、年齢と性別だけで背負う重さが決まる。全員が同じ条件で走るんだ。しかもGⅠに出てくるような馬は、過去に大きなレースを何度も走っていて、どんなペースで走るか、どんなコースが得意か、データが山のように蓄積されているんだよ」
神宮寺:「その通りよ、佐倉くん」神宮寺は立ち上がり、ホワイトボードの『高松宮記念』の文字を指し示した。「ナムラクレア、ルガル、ママコチャ……。このレースには、すでに実力を証明し終えたエリートたちが集まっている。22頭登録しているけれど、本当に勝負になる『上位の数頭』は、過去のデータを分析すれば驚くほどクリアに浮かび上がってくるわ」
神宮寺:(1200メートルという短い距離は、スタートの出遅れという致命的なリスクや、中京競馬場特有の枠順の有利不利はある。さらに、強い馬が人気になりすぎてオッズの旨味が減るというデメリットも存在する。しかし、それでも予測不可能なハンデ戦や3歳戦に比べれば、論理とデータが入り込む余地は圧倒的に大きいわ)
若葉:「なるほど! つまり、素性のわからんヤンキーの喧嘩やのうて、成績表が貼り出されとるエリート校の期末テストっちゅうことですね!」
若葉がポンと手を打ち、納得顔でポッキーの最後の一本を飲み込んだ。
神宮寺:「ヤンキーの喧嘩……まあ、当たらずとも遠からずね。ただし、このエリート校のテストには一つだけ重大な注意点があるわ」
神宮寺の鋭い声に、若葉と佐倉が居住まいを正す。
神宮寺:「最終的な答えを出すのは、レース前々日の『枠順(スタートする位置)』が発表され、当日の『天気』が確定してからよ。中京の1200メートルは、内側を走るか外側を走るかで有利不利が激変する。そして雨が降って泥んこの馬場になれば、エリートの成績表は一瞬で紙くずになるわ。だから、今はまだ『買うべき馬』ではなく『絶対に買わない馬』を論理の刃で切り捨てる作業から始めるわよ」
神宮寺の言葉に、若葉の瞳が期待でキラキラと輝き始めた。
若葉:「おおーっ! なんか推理小説の探偵みたいでかっこええですわ! 犯人やない奴から消していくんですね!」
神宮寺:「探偵ではなく、統計学者と呼んでちょうだい。さあ、佐倉くん、若葉。無駄なデータという名の不純物を濾過するわよ」
窓外の風が少しだけ強さを増し、ホワイトボードの端に貼られたコース図を揺らした。春のGⅠシーズン開幕を告げる、静かで熱い分析の火蓋が、今まさに切られようとしていた。
第2章:観光客の退場と、三倍速い主人公の誤算
海峡から吹き込む春特有の湿った潮風が、少しだけ開いた窓の隙間から入り込み、研究室のブラインドをカタカタと不規則に揺らしていた。
佐倉が豆から挽いて丁寧にドリップした深煎りのマンデリンの香りが、古い書物のカビ臭さを優しく上書きしていく。コポコポとお湯が落ちる心地よい音に混じって、部屋の隅からは「くちゃ、くちゃ」という、なんとも締まらない咀嚼音が響いていた。
若葉:「すっぱ! なんですかこのグミ! 罰ゲーム用の激辛ならぬ激酸っぱグミちゃいます!?」
若葉が涙目になりながら、星型の黄色いグミを指でつまんで抗議の声を上げた。彼女のデスクの上には、カラフルな海外製の輸入菓子のパッケージが散乱している。
佐倉がコーヒーポットを置きながら、苦笑いと共に肩をすくめた。
佐倉:「若葉さん、パッケージに英語で『スーパー・サワー・レモン』って大きく書いてあるじゃないですか。刺激が強すぎるなら、無理して食べなくてもいいんですよ」
若葉:「いやいや佐倉助手! 昨日から始まった『デスゲーム・サバイバル?生き残るのは誰だ?』っていう深夜アニメ見ました!? 最初は甘い顔して近づいてきたキャラが裏切って、一番酸っぱい思いをするんですわ! このグミはまさにそのデスゲームの疑似体験! 舐めてかかったら痛い目見るっちゅう教訓です!」
神宮寺:「アニメの教訓を味覚で摂取しようとするその独特の思考回路、相変わらず脳のシワが滑らかで羨ましいわね」
窓際に置かれた革張りのアンティークチェアから、神宮寺が冷ややかな声を落とした。彼女は片手にタブレットを持ち、もう片方の手でリムレスの眼鏡をスッと押し上げる。レンズの奥の知的な瞳が、若葉の手元にある高松宮記念の出走登録馬リストを鋭く見据えていた。
神宮寺:(高松宮記念の舞台である中京の1200メートル。ここは単なる足の速さを競う直線番長の運動会ではない。長い直線と最後に待ち構える急な上り坂。前半から猛スピードで飛ばし、そのまま息切れせずに最後まで走り切る『持続するパワー』が求められる。残酷なまでの実力テストよ。初心者の彼女には、まずこの『舞台の厳しさ』を理解させなければね)
神宮寺:「若葉。あなたのアニメのデスゲームの例え、今回は奇跡的に的を射ているわ」神宮寺は立ち上がり、ホワイトボードの前に歩み寄った。「今から私たちがやるのは、まさに22人の参加者の中から、最初の『脱落者』を決める冷酷なサバイバルゲームよ。感情や人気、ブランドといった甘い罠をすべて排除して、機械的に首を切り落としていくわ」
若葉:「うわぁ、教授の目がマジのゲームマスターになってますやん! ほな、まずは誰から首切るんですか? やっぱり弱そうな名前のやつから?」
若葉が酸っぱいグミを飲み込み、身を乗り出す。
佐倉が若葉の隣に立ち、ノートパソコンの画面をモニターに映し出した。
佐倉:「名前じゃなくて『実績』だよ、若葉さん。教授が設定した第一の脱落ルールは『一番上のクラスでの成績』です。人間で言えば、メジャーリーグでヒットを打ったことがあるかどうか、ですね」
神宮寺:「そういうことよ、佐倉くん」神宮寺は青いマーカーを手に取り、キュッキュッと音を立てて条件を書き出した。「過去2年以内に、上から二番目以上の大きなレース(GⅡ以上)で3着以内に入ったことが一度もない。おまけに最近の3回のテストで、すべて7位以下という赤点を取っている。この二つの条件に当てはまる馬は、容赦無く消去するわ」
若葉:「ええーっ、そんな厳しい足切りあるんですか!? もしかしたら、今まで本気出してへんかっただけの天才かもしれへんのに!」
神宮寺:「本気を出さない天才は、競馬の世界ではただのニートよ」神宮寺は冷酷に言い放ち、リストの一番上にあった名前をペン先で叩いた。「若葉、この『ショウナンアビアス』という馬のこれまでの成績を見てごらんなさい」
若葉が目を細めてリストの細かい文字を追う。
若葉:「えーっと……ん? 芝生じゃなくて、砂のコース(ダート)ばっかり走ってますよ? しかも、一番上のクラスのレースに出たことすらあらへん!」
佐倉:「その通りです」佐倉が補足する。「ずっと砂のコースの中堅クラスで走っていた馬が、いきなり芝生の最高峰のレースに出てきたんです。野球で言えば、ずっと草野球のピッチャーだった人が、いきなりメジャーリーグのワールドシリーズでバッターボックスに立つようなものですよ」
若葉:「うわ、それはアカン! バット振る前に球の速さにビビって泣いてまうやつや!」
神宮寺:「ええ、だから即刻退場よ。そして同じ理由で『ララマセラシオン』という馬も消すわ。この馬も、ずっと中堅クラスのレースしか走っていないうえに、今回走る1200メートルという短い距離の経験すらゼロ。参加賞をもらいに来ただけの観光客に用はないわ」
神宮寺は二つの名前に、太く残酷な赤いバツ印を引いた。若葉が少し可哀想そうに眉を下げるが、神宮寺の手は止まらない。
神宮寺:(情けは投資の目を曇らせる最大のノイズ。最高峰のレースには、それ相応の『資格』が必要なの。過去の実績という名の通行手形を持たない馬が、まぐれで勝てるほどこの世界は甘くない。データという刃は、鋭く冷たいほど美しいのよ)
神宮寺:「よし、観光客は消えたわね。次は第二の脱落ルールよ」神宮寺はマーカーの色を緑に変えた。「『走る距離が根本的に合っていない馬』。これを消すわ」
若葉がパッと顔を輝かせて手を挙げた。
若葉:「あ、それなら私、ええ馬見つけましたよ! 『レッドモンレーヴ』! レッドって名前につくキャラは、戦隊モノでも大体主人公で、しかも通常の三倍速いんですわ! この馬絶対強いですって!」
佐倉が困ったような笑顔で頭を掻く。
佐倉:「若葉さん、また連想ゲームになってますよ。確かにこの馬は強いんですが……走ってきた距離を見てください。最近の4回のレース、全部1400メートルから1600メートルですよ。1200メートルの短い距離の大きなレースで、良い成績を残したことが一度もありません」
若葉:「えっ? たった200メートルとか400メートル短くなるだけやん! 気合でカバーできませんの!?」
神宮寺:「あなたのその体育会系の精神論は、科学の敗北よ」神宮寺が呆れたようにため息をついた。「若葉、マラソンで世界記録を持っている選手に、いきなり100メートル走のオリンピック決勝に出ろと言って、勝てると思うかしら?」
若葉:「あ……それは無理ですわ。筋肉の使い方が全然ちゃいますもん」
神宮寺:「馬も同じよ」神宮寺はグラスの水を一口含み、喉を潤した。「1600メートルを走るのに特化した馬が、1200メートルの超スピード勝負に巻き込まれると、最初のスピードに全くついていけずにパニックになるの。最近のこの馬は、完全に長い距離のレースにシフトしている。短い距離の適性を示す証拠がどこにもないわ。主人公のレッドだろうが何だろうが、舞台が間違っていればただのエキストラよ。はい、消去」
ホワイトボードのレッドモンレーヴの名前に、またしても赤い線が引かれた。
若葉:「うぅ……三倍速い主人公、距離の壁に散る……」
若葉が劇画調の悲しい顔を作って天を仰ぐ。
神宮寺:「さあ、第一段階の最後、第三の脱落ルールよ」神宮寺は再び皆に向き直った。「『お爺ちゃん馬の衰え』よ。年齢が8歳以上で、ここ1年間、大きなレース(GⅡ以上)で2着以内に入ったことがない馬。筋肉の衰えが結果に出始めていると判断して、リストから外すわ」
佐倉が素早くパソコンのキーボードを弾き、該当する二頭のデータをモニターに映し出した。
佐倉:「該当するのは、8歳の『ヨシノイースター』と、なんと9歳の『ウインカーネリアン』ですね。競走馬で9歳というと、人間ならもう立派な定年退職世代です」
若葉が目を丸くして身を乗り出した。
若葉:「9歳!? それはもう完全に仙人のお爺ちゃんやないですか! アニメやったら、主人公に必殺技を教えてすぐ寿命で死んでまうポジションですわ! これはもう、二人ともお疲れ様でしたってことで消去で決まりですね!」
神宮寺:「待ちなさい、若葉。結論を急ぐのは三流の証拠よ」
神宮寺がスッと手を挙げ、若葉の言葉を制した。
若葉:「えっ、ルールに当てはまっとるやないですか」
神宮寺:「年齢は確かに大きなマイナス要素よ。でも、私たちは『数字の真実』を絶対視しなければならない」神宮寺はタブレットを操作し、ヨシノイースターの成績の点数(レーティング)のグラフを表示させた。「この8歳のお爺ちゃん、最近のテストの点数を見てごらんなさい。107点、107点、110点。なんと、若い馬たちに混ざって、全く点数を落とさずに安定した成績を取り続けているのよ」
佐倉も驚いたように画面を覗き込む。
佐倉:「本当ですね。大きなレースで勝ててはいませんが、5着や3着にしっかり食い込んでいます。完全に能力が衰え切ったとは言えない、しぶとい数字の推移です」
神宮寺:「そしてもう一頭、9歳のウインカーネリアン」神宮寺はさらに画面を切り替えた。「この馬は、なんと半年前の秋に行われた最高峰のレース(スプリンターズS)で、並み居る強豪をなぎ倒して1着になっているのよ。点数は脅威の116点。前回の海外のレースでは大敗しているけれど、国内の頂点に立った事実からまだ半年しか経っていない」
若葉:「な、なんやて……! 9歳やのに、半年前の全国大会で優勝しとるんですか!? それ、ただのお爺ちゃんやのうて、伝説の武術の達人やないですか!」
神宮寺:(そう、データ分析において最も恐ろしいのは『固定観念』よ。年齢というフィルターは強力だけれど、実際に彼らが叩き出した点数が衰えを否定しているなら、その事実を無視してはいけない。年齢だけで切るのは簡単だが、それは真理から目を背ける怠慢だわ)
神宮寺:「そういうこと。だから、このお爺ちゃん二頭は、非常に怪しいけれど『保留』とするわ。第一のサバイバルで消去するのは、実力不足のショウナンアビアス、ララマセラシオン、そして距離が合わないレッドモンレーヴ。この3頭よ」
神宮寺はホワイトボードのペンを置き、ふうっと小さく息を吐いた。
窓の外からは、遠く海鳴りの音が微かに聞こえてくる。
佐倉:「教授、お見事です。これでまずは無駄な選択肢が削れましたね」佐倉が感心したように頷く。
神宮寺:「ええ……」神宮寺は応じながらも、自分の書いた赤いバツ印をじっと見つめていた。その瞳の奥には、ほんのわずかな、しかし拭いきれない『疑念』の靄が漂っている。
神宮寺:(この機械的なフィルターは、大衆のノイズを消すには最適よ。でも……あまりにも教科書通りすぎるのではないかしら。本当に強い馬は、時としてデータという名の常識を嘲笑うように激走するもの。私が今引いたこの赤い線は、もしかすると、とんでもない『突然変異』の可能性を自らの手で握り潰してしまった結果ではないのか……?)
若葉:「教授? どないしたんですか、難しい顔して」
若葉が無邪気な声で覗き込んでくる。
神宮寺:「……なんでもないわ。まだ第一関門を突破しただけ。残りの19頭には、さらに残酷な第二の試練が待っているわよ」
神宮寺は疑念を振り払うように、鋭い視線をモニターへと戻した。
コーヒーの香りが薄れ、代わりにヒリヒリとした知的な緊張感が部屋を満たし始めていた。
第3章:魔力切れのルルと、皇帝の玉座は土砂降りにつき
海から吹き込む風が少し生温かさを帯び、研究室の窓ガラスを細かく震わせていた。
佐倉が気を利かせて淹れ直したカモミールティーから、青りんごのような甘く穏やかな香りがふわりと立ち昇る。しかし、部屋の隅に陣取る若葉の放つ強烈なオーラが、その癒やしの香りを完全に相殺していた。
若葉:「あーっ! もう信じられへん! 昨日最終回やった『魔法少女メディカル・ルル』、まさかのバッドエンドですやん! 魔法のステッキの魔力が切れて、主人公がただの物理攻撃で敵を殴り倒して終わるなんて……私のピュアな涙を返してほしいですわ!」
若葉がタブレットの画面を指差しながら、バンバンと丸椅子を叩く。
佐倉がティーカップをデスクに並べながら、困ったように眉を下げた。
佐倉:「若葉さん、紅茶がこぼれるから暴れないで。でも、魔法の力が切れて物理攻撃に頼る魔法少女って、ある意味すごく現実的で斬新なアニメだね」
若葉:「斬新とかそういう問題ちゃいます! 魔法少女は最後までキラキラしてなアカンのが絶対のルールです!」
神宮寺:「キラキラした魔法が切れた悲惨な現実。……ちょうどいいわね。若葉、そのアニメの教訓を、そっくりそのまま今の私たちの分析に当てはめてあげるわ」
窓際で腕を組んでいた神宮寺が、クルリと振り返って静かに言い放った。彼女の背後で、春の陽光がホワイトボードに書かれた『残り19頭』のリストを照らし出している。
神宮寺:(魔法なんてものは最初から存在しない。あるのは研ぎ澄まされた肉体と、それを数値化した残酷なデータだけ。過去にどれだけ華々しい魔法を見せた馬であっても、現在の魔力……つまり『今の状態』が枯渇していれば、一瞬で馬群に飲み込まれる。ここは情け無用で魔力切れの馬を暴き出す時間ね)
神宮寺:「佐倉くん。第二のサバイバルのテーマは『完全なる魔法の消失』よ」神宮寺はカモミールティーを一口啜り、ポインターを手にした。「最近のテストで、二回連続で8位以下のひどい点数を取っている。しかも、その点数(レーティング)が100点という最低ラインすら下回っている。そういう『今現在、全く良い状態にない馬』をあぶり出しなさい」
佐倉:「わかりました」佐倉がキーボードを叩く。「……リストアップしました。教授、この条件に真っ先に引っかかるのが『ピューロマジック』です」
若葉がハッとして、身を乗り出した。
若葉:「えっ、ピューロマジック!? なんちゅうキラキラした魔法少女みたいな名前! 教授、この子絶対ステッキ振って奇跡起こしますって!」
佐倉:「若葉さん、その魔法少女、もうステッキ折れてるみたいだよ」
佐倉がモニターにピューロマジックの成績表を拡大表示した。「見てごらん。最近の二回の大きなテストで、16位と10位。おまけに点数は89点と88点だ」
若葉:「は、88点!? 百点満点中の88点なら、けっこう優秀ちゃいますの!?」
神宮寺:「学校のテストならね。でも、この最高峰のGⅠという舞台では、トップクラスの馬は110点以上を平気で叩き出すんだ。88点というのは、実質的に『全くレースに参加できていない』のと同じレベルの赤点なんだよ」
神宮寺が冷たく補足する。
神宮寺:「そういうことよ。過去には綺麗な魔法で勝ったこともあるかもしれないけれど、今の彼女の魔力は完全に底を突いているわ。こんな状態の馬が、いきなり全国大会の決勝戦で奇跡の魔法を復活させる確率なんて、天文学的な数字よ。はい、一頭目消去」
ホワイトボードの『ピューロマジック』の名前に、赤い線が引かれる。
若葉:「うぅ……ルルちゃんに続いて、ここでも魔法少女が散っていく……」若葉が悲しそうに肩を落とす。「ほな! 魔法がアカンなら物理や! 『ビッグシーザー』はどうですか!? なんかローマの皇帝みたいな、めっちゃ強そうな名前ですやん!」
佐倉:「皇帝ねぇ……」佐倉が顎に手を当てる。「確かに強そうな名前だけど、最近のテストでは9位と12位。しかも、去年の高松宮記念にも出走しているんだけど、結果は9位だったんだ」
若葉:「えっ、去年もこの舞台で負けとるんですか?」
神宮寺:「ええ」神宮寺が引き継ぐ。「中京競馬場の1200メートルは、左回りで、しかも最後に急な上り坂が待ち構えている非常に特殊なコースなの。皇帝を名乗るなら、この特殊な領地を力でねじ伏せなければならない。でも彼は、去年ここで負け、最近の予選レースでも連続で負け続けている。玉座から転げ落ちた皇帝に、反撃の兵力は残っていないわ。二頭目、消去」
赤いマーカーが、容赦なくビッグシーザーの名前を切り裂く。
若葉:「皇帝もアカンのか……厳しい世界ですわ」若葉がカモミールティーをぐいっと飲み干した。「ほな! 『ダノンマッキンリー』! マッキンリー言うたら北米で一番高い山! これなら誰にも負けへん不動の頂ちゃいます!?」
佐倉:「ダノンマッキンリー……」佐倉がデータをスクロールし、少し顔をしかめた。「うーん、この馬も最近のテストで15位と13位。点数も98点と90点に急降下しています。完全に崩れていますね」
若葉:「ほな、マッキンリーも消去で決まりですね!」
若葉が自信満々に言うと、佐倉が慌ててストップをかけた。
佐倉:「ちょっと待って、若葉さん、教授。マッキンリーをここで消すのは少し危険じゃないですか? 確かに最近は崩れていますが、彼には過去にGⅠという最高の舞台を何度も経験した実績があります」
佐倉は別の馬のデータを隣に並べた。
佐倉:「比較してほしいのが『タマモブラックタイ』です。この馬、最近の小さなレースでは1位を取っていますが、GⅡ以上の大きなレースには一度も出たことがありません。実績の面では、マッキンリーの方が上のはずです。切るなら、経験のないタマモブラックタイが先ではないでしょうか?」
神宮寺:(佐倉くんらしい、真面目で手堅い視点ね。過去の実績という『貯金』をどう評価するか。素人はこの過去の栄光に目が眩みやすい。でも、私たちが買おうとしているのは『過去の馬』ではなく『今週末に走る馬』なのよ。状態の悪さは、すべての実績を無に帰す最大のノイズだわ)
神宮寺は薄く笑い、佐倉に向かって真っ直ぐに指を突きつけた。
神宮寺:「佐倉くん、君のその慎重さは時として真実を見誤るわ。よく考えてごらんなさい。ずっと草野球で無双していて、まだ一度もプロの試合に出たことがない選手。そして、プロの試合に出たことはあるけれど、最近は三振ばかりでバットに球が当たらない選手。今週末の絶対に負けられない試合で、代打に出すならどちらかしら?」
佐倉:「えっと……それは……」
若葉:「マッキンリーって、距離の問題ではないん?」
若葉が気になったのか割ってはいった。
神宮寺:「若葉、彼の大敗は複数の距離・コースで起きているわ。
それにね」
神宮寺:「タマモブラックタイは、まだ『プロの壁にぶつかっていない』という未知数の魅力がわずかに残っているのよ。でもダノンマッキンリーは違う。彼は最高峰の舞台を知りながら、それでもなお、最近の予選で15位という大敗を喫しているのよ。これは『今、完全に調子を崩している』という決定的な事実の証明よ」
佐倉がハッとして、画面の点数推移をまじまじと見つめた。
佐倉:「なるほど……。過去の栄光というバイアスに囚われて、『今現在、まともに走れる状態にない』という一番重要な事実から目を逸らしていました」
神宮寺:「その通りよ。過去どれだけ高い山だったとしても、今現在、土砂崩れを起こしている山に登ろうとする登山家はいないわ。マッキンリー、ここで下山よ。消去しなさい」
若葉:「うわぁぁ! 魔法少女も皇帝も、高い山も全部崩れ去りましたわ!」
若葉が両手で頭を抱え、大げさに天を仰ぐ。
神宮寺:「ピューロマジック、ビッグシーザー、ダノンマッキンリー。これでさらに3頭が消えたわね。残るは16頭よ」
神宮寺はホワイトボードに引かれた赤い線を眺めながら、マグカップの冷めたお茶を口に運んだ。
論理は完璧に組み上がっている。矛盾はない。データが指し示す通りに不要なものを切り捨てたはずだった。
しかし、なぜだろう。彼女の脳裏に、チクリと小さな棘のような違和感が刺さる。
神宮寺:(本当に、これでいいのかしら? 『最近大敗しているから状態が悪い』。それは数字が示す最も合理的な解釈よ。でも、もしその大敗が、調教師が仕掛けた『本番のための壮大なテスト』だったとしたら? 叩いて叩いて、この高松宮記念という本番でだけピークを持ってくるための、偽装工作だったとしたら……? 私は今、彼らの仕掛けた罠に自ら飛び込んでしまったのではないかしら)
若葉:「教授? また眉間におもいっきりシワ寄ってますよ? グミより酸っぱい顔してますって!」
若葉の能天気な声に、神宮寺はハッと我に返り、慌てて眼鏡の位置を直した。
神宮寺:「……なんでもないわ。少し先の展開を計算していただけよ。さあ、次は第三の選考。ここから先は、さらに緻密な身体検査になるわよ。覚悟しなさい」
少しだけ早くなった自分の鼓動を悟られないよう、神宮寺は冷徹な仮面を被り直した。
第4章:見えない天井と、黒執事の限界点
開け放たれた窓から、春特有の埃っぽさと微かな潮の香りを混ぜ込んだ風が研究室に滑り込んでくる。
佐倉が新しく淹れたアールグレイのベルガモットの香りが、部屋の淀んだ空気を切り裂くように広がっていった。ティーカップから立ち昇る繊細な湯気越しに、若葉が真っ赤なパッケージのポテトチップスをバリバリと豪快に咀嚼している姿が見える。
若葉:「かっら! なんですかこの『地獄のデス・ハバネロ味』! 舌が燃えるどころか、脳髄までヒリヒリしますわ!」
若葉が涙目になりながら、佐倉が差し出した冷たい麦茶を一気に飲み干す。グラスの中で氷がカランと涼しげな音を立てた。
佐倉:「若葉さん、だからパッケージに『自己責任でご賞味ください』って書いてあるじゃないですか。アニメを見ながら食べるようなお菓子じゃないですよ」
佐倉が呆れたようにため息をつく。
若葉:「いやいや佐倉助手! 昨日一気見した『限界突破のレベル9999』っていうアニメに感化されまして! 主人公が炎の魔法で自分の限界を超えるシーン見たら、私も舌の限界を超えたくなったんですわ! やっぱり男の子も女の子も、己の限界(リミッター)を外す瞬間が一番輝くんです!」
若葉がポテトチップスの欠片を指につけたまま、熱弁を振るう。
窓際の革張りチェアに深く腰掛けていた神宮寺が、タブレットの画面からゆっくりと視線を上げた。彼女の冷ややかな眼差しが、若葉の赤い唇をスッと射抜く。
神宮寺:「限界突破、ね。アニメの中ならステータス画面の数字が突然バグって上昇するかもしれないけれど、現実の物理法則において、与えられた器以上の水を入れることはできないわ。あなたの舌の限界がハバネロで麻痺しているようにね」
若葉:「ひっ、教授! 限界突破を物理法則で否定せんといてください!」
神宮寺は立ち上がり、白衣の裾を翻してホワイトボードの前に立った。
神宮寺:「いいえ、否定するわ。なぜなら、これこそが第三のサバイバルの最大のテーマだからよ。佐倉くん、今から私たちが探すのは『見えない天井に頭をぶつけている馬』よ」
佐倉:「見えない天井……つまり、能力の上限が決まってしまっている馬ですね?」
佐倉がノートパソコンのキーボードに手を乗せ、確認を取る。
神宮寺:(高松宮記念という全国大会の決勝戦において、上位を争うエリートたちは軒並み110点以上のテストの点数を持っている。しかし、残った16頭の中には、どれだけ頑張っても108点すら取れない『能力の限界点』が低い生徒が紛れ込んでいる。まぐれで勝てるほど、頂点の壁は薄くない。ここで残酷な現実を突きつけなければならないわ)
神宮寺:「その通りよ。過去2年間、どんなに調子が良くてもテストの最高点が108点以下。そして、全国大会やそれに次ぐ大きなテスト(GⅡ以上)で、3位以内に入ったことが一度もない。これが一つ目の条件よ。さらに、58キロという重いリュックを背負って激流のようなスピードについていけるか、特定の得意なコースでしか良い点を取れない『一発屋』ではないか。この三つの条件で、限界の見えた生徒を退学処分にするわ」
神宮寺が青いマーカーで条件を箇条書きにしていく。
若葉が麦茶で口の中の炎を鎮めながら、リストを覗き込んだ。
若葉:「限界突破できへん生徒かぁ……あ! ほな『タマモブラックタイ』はどうですか!? ブラックタイって、黒いネクタイのイケメン執事キャラちゃいます!? 『お嬢様、お望みとあらば限界すら超えてみせましょう』みたいな! 絶対に隠された力がありますって!」
佐倉:「若葉さんの脳内執事は優秀かもしれないけれど、現実のタマモ執事はかなり苦労しているみたいだよ」
佐倉が苦笑しながら、モニターにタマモブラックタイの成績表を映し出した。
佐倉:「見てごらん。この執事くん、最近の小さなテストでは1位を取っているけれど、彼がこれまでに出した最高得点はたったの『105点』なんだ。しかも、全国大会どころか、その一つ下のクラスの大会にすら出場した経験がない」
若葉:「えっ、105点!? さっき教授が言ってたエリートたちは110点以上なんですよね? ほな、全然足りてへんやないですか!」
神宮寺:「ええ、圧倒的な火力不足よ」神宮寺が冷たく切り捨てる。「タマモ執事は、町内会の運動会で一等賞を取って喜んでいるレベルなの。オリンピックの決勝戦に放り込まれて、見えない限界を突破できると本気で信じているのなら、それは投資ではなくただのお布施よ。一頭目、消去」
ホワイトボードの『タマモブラックタイ』という名前に、容赦なく赤いバツ印が引かれる。
若葉:「うぅ……私のイケメン執事が町内会レベルやったなんて……」
若葉がうなだれる。
佐倉:「じゃあ次は、花の妖精みたいな名前の『フィオライア』はどうかな」佐倉が次のデータを表示させる。「この子も、最高得点は『102点』。残っている16頭の中で、ダントツで能力の天井が低いんだ。当然、大きな大会での実績もゼロだよ」
若葉:「102点! それはもう、天井どころか床すれすれですやん! 妖精の魔法もここでは通じへんのですね……。ほな、フィオライアも消去で文句なしですわ!」
若葉の言葉に頷き、神宮寺は二つ目のバツ印を書き込んだ。
神宮寺:「さあ、ここからが論理の腕の見せ所よ。佐倉くん、残った候補の中で、同じように能力の天井が低い生徒が二頭いるわね。データを出しなさい」
佐倉:「はい。該当するのは『ヤマニンアルリフラ』と『プルパレイ』の二頭です」
佐倉のタイピング音とともに、二つのグラフが並んで表示される。
佐倉:「プルパレイの最高得点は『104点』。大きな大会での実績はゼロです。一方、ヤマニンアルリフラの最高得点は『107点』。しかし、この馬は半年前の全国大会(スプリンターズS)に出場していて……結果は15位、点数は96点と大惨敗しています」
若葉が目を丸くして、二つのデータを見比べた。
若葉:「えーっと、プルパレイが104点で、ヤマニンアルリフラが107点……ってことは、点数の低いプルパレイの方を先に消すんが普通ちゃいます? ヤマニンの方がまだちょっとマシやん!」
佐倉も顎に手を当てて考え込む。
佐倉:「確かに、数字の絶対値だけで見ればプルパレイの方が能力の天井は低いです。それに、プルパレイはまだ大きな大会に出たことがないので、『未知の可能性』がわずかに残っているとも言えますが……」
神宮寺:(ここで点数の低さだけで判断するのは、素人の浅はかな罠よ。競馬という不確実なゲームにおいて、私たちが最も恐れるべきは『すでに証明されてしまった絶望』なの。まだ試されていない不確実性と、完全に通用しなかったという確定した事実。どちらをより重く見るべきか、答えは明白だわ)
神宮寺はアールグレイの入ったティーカップを手に取り、優雅に香りを楽しみながら口を開いた。
神宮寺:「佐倉くん、若葉。あなたたちは『まだ試されていない低スペック』と『すでに大敗が証明された中スペック』、どちらに希望を見出すかしら?」
若葉:「え? そら、大敗が証明されとる方が絶望的ですわ。だって、もう通用せえへんってバレてしもとるんですから」
若葉が即座に答える。
神宮寺:「その通りよ」神宮寺は満足げに微笑んだ。「ヤマニンアルリフラは、全国大会という最高の舞台に立ちながら、15位という無惨な結果で『私にはこのクラスで戦う能力がありません』と自ら証明してしまったの。これは、プルパレイの『まだ大きな大会に出たことがない』という不確実性よりも、はるかに信頼できる重い『消去の根拠』になるわ」
佐倉がハッとして、画面のデータを指差す。
佐倉:「なるほど……! プルパレイの104点は低いですが、まだ本気を出していないだけかもしれないという言い訳が成立する。しかし、ヤマニンアルリフラの96点は、全国大会で本気で走って叩き出された残酷な真実なんですね」
神宮寺:「ええ。だから、ここでは点数が少しだけ高いヤマニンアルリフラを先に消去するわ。本番で通用しなかった事実は、何よりも重いのよ。プルパレイは保留にして、次の第四の試練に回しましょう」
神宮寺の決断に、若葉がパァンと両手を叩いた。
若葉:「おおーっ! なんかめっちゃ説得力ありますわ! 試してへん奴より、試してアカンかった奴を先に切る! これぞサバイバルの鉄則ですね!」
神宮寺:「タマモブラックタイ、フィオライア、そしてヤマニンアルリフラ。これでまた3頭が消え、残りは13頭になったわ」
神宮寺はホワイトボードに引かれた赤い線を静かに見つめた。
窓の外の陽光が少し傾き、彼女の白衣に淡いオレンジ色の影を落としている。論理は完璧だ。大敗の事実を重く見るという判断は、データ分析の基本原則に忠実に基づいている。
しかし、彼女の胸の奥底で、またしても冷たい疑問の雫がポトリと落ちた。
神宮寺:(本当に、私の引いたこの『能力の天井』は正しいのかしら? 過去2年間で108点を超えられなかったからといって、今回も絶対に超えられないと誰が証明できるの? もし彼らが、今日この日、この中京の舞台のためだけに、すべてを隠して爪を研ぎ澄ませていたとしたら? 私は人間の勝手な解釈で、彼らの見えない翼を切り落としてしまったのではないか……)
若葉:「教授? なんですかその顔。せっかく説得力ある解説してくれたのに、また難しい顔して。もしかして、アールグレイの味が薄かったとか?」
若葉がポテトチップスの袋を抱えながら、首を傾げて覗き込む。
神宮寺:「……あなたのその能天気さが、時々猛烈に羨ましくなるわ」
神宮寺はフッと自嘲気味に笑い、タブレットの電源を落とした。
神宮寺:「さあ、休んでいる暇はないわよ。残る13頭は、どれも一筋縄ではいかない猛者ばかり。ここから先は、彼らが抱える『致命的な弱点』を虫眼鏡で探し出す作業になるわ。佐倉くん、データの準備をなさい」
自らの論理に巣食う疑念を心の奥底に封じ込め、神宮寺は再び前を向いた。
第5章:異世界帰りのニートと、見慣れたモブキャラの指定席
傾きかけた春の西日が、研究室のブラインド越しにオレンジ色の縞模様を床に描き出していた。
「プシュッ! シュワワワワ……!」という、いかにも体に悪そうな人工的な炭酸の弾ける音が部屋に響く。若葉がプルタブを開けたのは、ショッキングピンクの缶に入った『エナジー・バースト・マックス』という得体の知れない飲料だった。部屋中に、合成甘味料と強烈なベリー系の匂いが充満していく。
若葉:「くぅ?っ! 脳天に突き抜けますわ! このケミカルな刺激、徹夜明けのアニメ鑑賞には必須アイテムです!」
若葉が缶を掲げ、満足げに息を吐く。
隣のデスクで資料を整理していた佐倉が、眉間を押さえて顔をしかめた。
佐倉:「若葉さん、その匂い……まるで劇薬だよ。それに徹夜でアニメって、また何か一気見したの?」
若葉:「せやねん佐倉助手! 昨日見た『異世界帰りの最強勇者、実家ではただのニート』ってやつが最高で! 異世界では魔王をワンパンで倒す最強キャラやったのに、現代の日本に帰ってきたら魔力が全然使えへんくて、ただの引きこもりになってもうたんですわ! 環境が変わると能力が出せへんっていう、リアルすぎるギャップがたまらんです!」
部屋の奥から、コツ、コツ、とヒールの音が近づいてきた。
神宮寺:「異世界で最強でも、実家で無力ならただの穀潰しね。……でも、良い着眼点よ若葉。今のあなたのその下らないアニメ話、今回の第四のサバイバルの核心を突いているわ」
神宮寺が白衣を翻し、いつの間にか二人の背後に立っていた。その手には、先ほどまでの16頭から3頭が消され、13頭の名前が残ったリストが握られている。
神宮寺:(彼女の直感的な連想は、時として複雑なデータ分析の真理を射抜くわ。異世界での無双と、帰国後の無力化。競馬において『海外遠征帰り』という条件は、まさにこれと同じ。環境の激変というストレスを前に、本来の魔力を発揮できない勇者たちは山のようにいる。ここからは『特定の舞台で力を出せない構造的な欠陥』を暴き出す時間よ)
佐倉:「異世界帰り……。教授、もしかして『パンジャタワー』のことですか?」
佐倉が瞬時に意図を汲み取り、モニターにパンジャタワーの成績を表示させる。
若葉:「あ! パンジャタワー! なんか最終ボスのダンジョンみたいな名前でかっこええですやん! しかもこの馬、過去に『キーンランドカップ』とかいうレースで1位取ってますよ! 最強勇者ちゃいますの!?」
若葉がエナジードリンクを片手に身を乗り出す。
神宮寺:「最強勇者かもしれないけれど、彼が活躍した異世界は『平らな土地』よ」神宮寺が冷ややかに指摘する。「佐倉くん、パンジャタワーが1位を取ったキーンランドカップの開催地と、最近の遠征先を教えてあげなさい」
佐倉:「はい。キーンランドカップは札幌競馬場。坂のない平坦なコースです。そして最近の二回のレースは、サウジアラビアとオーストラリア。どちらも海外のレースで、結果は二連続で5位に敗れています」
若葉:「えっ、海外のレースで負けて、日本に帰ってきたばっかりなんですか?」
神宮寺:「そういうこと。おまけに今回走る中京競馬場は、最後に強烈な急な上り坂が待ち構えているわ。平坦な土地でしか強さを証明していない馬が、長旅の疲労を抱えたまま、いきなり心臓破りの坂を駆け上がれると思うかしら?」
神宮寺はホワイトボードに書かれたパンジャタワーの名前をペン先でトントンと叩いた。
若葉:「異世界で疲労困憊して、帰ってきたら目の前にいきなり激坂……。そらニートにもなりますわ。魔法も使えへんし、物理で登るスタミナもあらへんってことですね」
神宮寺:「ええ。長期間のブランクや海外帰りから見事に復活する馬もいるけれど、彼には『過去に同じような厳しい条件で復活した』という実績の裏付けがないわ。未知の坂道と、見えない疲労。リスクの塊よ。一頭目、消去」
赤いマーカーが、ダンジョンのような名前を横一文字に切り裂いた。
神宮寺:「さて、二頭目はサクッといくわよ。前回、点数が一番低いけれど『まだ試されていないから』という理由でギリギリ保留にした『プルパレイ』。彼をここで退学にするわ」
若葉:「あ、さっきの章でヤマニンアルリフラと一緒に下の方におった馬ですね。でも教授、さっきは『大敗が証明されていないから保留』言うてませんでした?」
若葉が首を傾げる。
神宮寺:「ええ、言ったわ。でも、残った他のエリートたちと相対的に比べた時、最高得点が104点しかなく、大きな大会の経験がゼロという事実は、やはり致命的すぎるの。奇跡を待つには、あまりにも基礎スペックが足りていないわ。二頭目、消去」
ためらうことなくプルパレイの名前が消され、リストは残り11頭となった。
若葉:「うーん、いよいよ強敵しか残ってへん感じですね……。ほな、経験豊富で大舞台にも慣れとるベテラン戦士はどうですか! 『エーティーマクフィ』! 過去に何回も一番上のクラス(GⅠ)に出とるし、ちょっと前のレースでは1位も取ってますやん!」
若葉がリストの中段にある名前を指差す。
佐倉がすかさずデータを読み上げた。
佐倉:「確かに、エーティーマクフィは経験豊富です。左回りの京都コースで行われたレースで1位を取っていて、左回りの適性もあります。でも教授、この馬、一番上のクラスの大会に何度も出ているのに、3位以内に入ったことが一度もありませんよね?」
神宮寺:「佐倉くん、素晴らしい着眼点よ」神宮寺は満足そうに微笑み、エナジードリンクの強烈な匂いに少しだけ鼻をひくつかせた。「彼はベテラン戦士だけれど、アニメで言えば『最終回に一度も画面に映らないモブキャラ』なのよ。どんなに調子が良くても、テストの点数は112点でピタリと止まっている。おまけに前回のレースでは8位と、直前の状態すら怪しいわ」
若葉が眉を寄せて反論する。
若葉:「でも教授! お爺ちゃん馬の『ウインカーネリアン』も『ヨシノイースター』も、まだリストに残ってますやんか! なんでエーティーマクフィだけ先に消されるんですか! エコ贔屓ちゃいます!?」
神宮寺:「エコ贔屓ではなく、実績の『質』の違いよ」
神宮寺は二頭のベテラン馬のデータをモニターに並べて表示させた。
神宮寺:「9歳のウインカーネリアンには、116点という圧倒的な点数で全国大会を優勝した『絶対的なピークの高さ』がある。そして8歳のヨシノイースターは、点数こそ平凡だけれど、最近のテストでも安定して高い順位をキープし続けている。でも、エーティーマクフィにはそのどちらもないの。『何度も挑戦して、一度も通用しなかった』という残酷なパターンの固定化。これこそが、彼が超えられない壁の正体よ」
若葉:「……何度も挑戦して、アカンかった事実の積み重ね。それが一番残酷な宣告なんですね。モブキャラは、やっぱり主役にはなれへんのか……」
若葉がエナジードリンクの缶を力なく机に置いた。
神宮寺は静かに頷き、エーティーマクフィの名前に赤いバツ印を刻み込んだ。
神宮寺:「パンジャタワー、プルパレイ、エーティーマクフィ。これで四回目のサバイバルが終了。残るは、精鋭中の精鋭……10頭よ」
ホワイトボードには、サトノレーヴ、ナムラクレア、ルガルといった、そうそうたる名前が生き残っている。
西日が完全に沈みかけ、部屋の中は青暗い影に包まれ始めていた。佐倉が立ち上がり、パチリと壁のスイッチを押して蛍光灯をつける。白い光の下で、神宮寺は自分の引いた赤い線をじっと見つめていた。
神宮寺:(海外帰りの不調、能力の限界、パターンの固定化。論理としては完璧に破綻なく切り捨てたわ。……でも、本当にそう? 私は『海外帰りだから走れない』というストーリーを勝手に作り上げ、都合の良いデータだけを繋ぎ合わせたのではないかしら。もしパンジャタワーが海外の厳しい環境で精神的に恐ろしいほどの成長を遂げ、中京の坂をものともしない怪物になって帰還していたら? エーティーマクフィのこれまでの敗北が、すべて今回勝つための壮大な伏線だったとしたら……?)
若葉:「……教授? まーた固まってますよ。もしかして、私のエナジードリンクの匂いに酔いました?」
若葉が顔の前で手をひらひらと振る。
神宮寺はハッと息を呑み、わずかに見開いた目を細めて、いつもの冷徹な表情を作り直した。
神宮寺:「あなたのその人工的な匂いは、私の思考を鈍らせる最悪のノイズね。窓を開けて換気しなさい。……さあ、いよいよ大詰めよ。残る10頭の中から、さらに致命的な傷を抱える馬をあぶり出すわ」
自らの内に渦巻く疑念を振り払うように、神宮寺は白衣のポケットに両手を突っ込み、次の戦いへと意識を集中させた。
第6章:ベテランの限界と、無敵のパパの現在地
外の海は完全に夜の闇に包まれ、研究室の窓からは遠くライトアップされた大橋がぼんやりと浮かんで見えた。
潮の香りを帯びた夜風が吹き込む中、部屋の空気は強烈な柑橘系の香りと、油の暴力的な匂いに支配されている。佐倉が買ってきた山盛りの唐揚げに、若葉がスダチを親の仇のようにギュウギュウと搾り倒しているのだ。
若葉:「唐揚げには絶対スダチ! この酸味が脂っこさを中和して、胃袋の限界をリセットしてくれるんですわ! 昨日見た『老兵騎士のレモン搾り』ってアニメでも、酸味が眠れる力を呼び覚ましてましたからね!」
若葉が揚げたての鶏肉を頬張り、熱さと酸っぱさに顔をしかめながらも親指を立てる。
佐倉:「若葉さん、いくらスダチを搾ってもカロリーがゼロになるわけじゃないよ。それに、老兵騎士の力が目覚めるのはアニメの演出であって、現実の肉体の衰えは柑橘類の果汁なんかじゃどうにもならないからね」
神宮寺:「あら、佐倉くんにしては珍しく詩的で残酷なツッコミね。でも、その通りよ」
神宮寺が、自席から冷ややかな声を響かせながら歩み寄ってきた。彼女の手には、先ほどの選考で10頭にまで絞り込まれた精鋭たちのリストが光っている。
神宮寺:(スダチの酸味でリセットされるのは味覚だけ。筋肉の細胞は若返らない。競馬という極限のスポーツにおいて、一度落ちたパフォーマンスを高齢の馬が劇的に復活させることは、魔法でも使わない限り不可能なの。ここから始める第五のサバイバルは、『超えられない限界』と『直前の致命的な不調』を抱えた馬をあぶり出す、さらに繊細な解剖作業になるわ)
神宮寺:「さあ、油まみれの手を拭きなさい。残るは10頭。全国大会の常連ばかりだけれど、ここで『ベテランの限界』という現実を突きつけるわ。佐倉くん、8歳の『ヨシノイースター』と9歳の『ウインカーネリアン』のデータを出しなさい」
佐倉が手口を拭き、素早くキーボードを叩く。二頭のベテラン馬の成績グラフが、大型モニターに並んで表示された。
佐倉:「出ました。第一の選考で『点数が高いから』という理由で保留にしていた二頭ですね。9歳のウインカーネリアンは、半年前の全国大会で116点という脅威の点数で優勝しています。でも、前回の香港での海外レースでは……11位に沈み、点数はなんと『86点』まで大暴落しています」
若葉:「でも教授、第一選考で保留にした理由のスプリンターズS1着の扱いはどうします?」
神宮寺:「香港での86点という急落は、その実績を上書きするほどの根拠となるのよ!」
若葉:「はちじゅうろくてん!? さっき、一番上のクラスのレースで戦うなら110点くらい必要って言うてませんでした!? 86点って、それ完全に赤点やないですか!」
神宮寺:「ええ、大赤点もいいところよ」神宮寺は冷酷に言い放つ。「半年前の116点という優勝実績は本物。でも、そこから香港に遠征して、肉体と精神が完全に崩壊してしまったの。9歳という人間なら定年退職の年齢で、この大暴落からたった数ヶ月で完全に元の状態に再起動できると思うかしら?」
若葉:「うーん……私のお爺ちゃんかて、一回風邪ひいたら一ヶ月くらい咳止まらへんし……。9歳でその大ダメージからの復活は、アニメの主人公でも厳しい展開ですね」
神宮寺:「その通りよ。復活の根拠が『過去の栄光』しかないのなら、それは希望的観測でしかない。ウインカーネリアンはここで脱落よ。……そしてもう一頭、8歳のヨシノイースター。佐倉くん、この馬の弱点は何かしら?」
佐倉がデータをスクロールさせ、慎重に口を開く。
佐倉:「点数は107点から110点の間で非常に安定しています。大崩れはしていません。ですが……一番上のクラスの全国大会に何度も出ているのに、最高順位が5位です。3位以内に入ったことが一度もありません。そして、過去一年間、点数が全く上がっていませんね」
若葉:「それって、ずっとクラスの5番目くらいをキープしとる優等生っちゅうことですか? 安定しててええやん!」若葉が擁護する。
神宮寺:「若葉さん、現在残っている馬たちは、もう安定してるだけで戦える相手じゃないんですよ」
神宮寺:「そう!安定していることと、勝てることは別よ、若葉」神宮寺がピシャリと撥ね付ける。「何度も挑戦して、一度もトップ層の壁を越えられなかった。おまけに8歳という年齢で、点数の成長も完全に止まっている。つまり彼は『絶対に大崩れしないけれど、絶対に勝てない』という限界の天井に頭が張り付いてしまっているの。トップの座を争うこのサバイバルにおいて、成長の止まった優等生に指定席は用意されていないわ」
若葉:「うわぁ……安定しとるからこそ、限界がモロにバレてまうってことですか。残酷な世界やな……」
若葉が納得したように頷き、神宮寺は二頭のベテラン馬に容赦なく赤い線を引いた。
神宮寺:「これで残るは8頭。次がこの章の最後よ。若葉、あなたの好きな『無敵キャラ』みたいな名前の馬を審査してあげるわ」
若葉:「無敵キャラ! あ、それ絶対『インビンシブルパパ』のことですね! インビンシブルって無敵って意味やし、パパってつくからには、チート級の強さを持ったお父さんキャラちゃいますの!?」
若葉のテンションが再び跳ね上がるが、佐倉の表情は渋い。
佐倉:「うーん、無敵のお父さんにしては、最近ちょっと頼りないんだよね……。この馬、過去に今回と同じ中京の1200メートルのコースで1位を取っているんです。点数も111点。コースの相性は抜群なんですが……」
若葉:「おっ! ほな完璧ですやん! 無敵のパパ、本命候補ちゃいます!?」
神宮寺:「最後まで聞きなさい」神宮寺がため息をつく。「彼には、コースの相性という最強の武器を完全に台無しにする『致命的な傷』があるの。佐倉くん、前回のテストの結果は?」
佐倉:「はい。つい最近行われた前哨戦のレースで、なんと15位。点数は『98点』と、信じられないほどの大敗を喫しています」
若葉の笑顔がピタリと止まった。
若葉:「……え? コースの相性バツグンやのに、直前のテストで98点の赤点取ってもうたんですか? なんでそんな急にヘタレるん!?」
神宮寺:「それが競馬よ」神宮寺はホワイトボードに『能力 × 現在の状態 = 結果』という数式を書いた。「どれだけその舞台が得意でも、今の状態という掛け算の数値がゼロに近ければ、結果はゼロになるの。無敵のパパは、コース適性という強大な武器を持っているけれど、今の状態が極めて最悪だという事実を数字が証明してしまっているのよ」
佐倉:「でも教授!」佐倉が身を乗り出して反論する。「同じように、左回りの全国大会が苦手だというデータが出ている『ママコチャ』もまだ残っていますよね? コース適性に不安があるママコチャを残して、直前の調子が悪いだけのインビンシブルパパを消すのは、少し矛盾していませんか?」
神宮寺:(佐倉くんの指摘は鋭い。コース適性のなさを取るか、直前の状態の悪さを取るか。究極の二択ね。でも、競馬において最も恐ろしいのは『見えない不調』なの。過去の適性よりも、直前の大敗という事実の方が、嘘をつかない残酷な真実として目の前に転がっているわ)
神宮寺:「佐倉くん。ママコチャはコースに不安があるけれど、直前のレースでは108点で4位と、少なくとも『まともに走れる状態』であることは証明されているわ。でも、インビンシブルパパは98点という大敗。これは一過性のミスではなく、肉体か精神に何らかの深刻なエラーが起きている証拠よ。状態の悪い馬が、本番の厳しい舞台でいきなり復活する根拠はどこにもないわ。だから、パパの方を先に消すのよ」
佐倉は少し考え込んだ後、小さく息を吐いて頷いた。
佐倉:「……わかりました。コース適性よりも、現在のコンディションの崩壊を重く見るということですね。確かに、98点からの復活をGⅠで期待するのはギャンブルに過ぎません」
若葉:「うぅ、無敵のパパ、直前の腹痛で無念の棄権……! やっぱり現実はアニメみたいに上手いこといきませんね……」
神宮寺がインビンシブルパパの名前にバツ印をつけると、リストに残る馬はいよいよ「7頭」となった。
唐揚げの皿はすっかり空になり、夜の静寂が研究室を包み込んでいる。
神宮寺はホワイトボードから目を逸らし、窓の奥の暗闇をじっと見つめた。
神宮寺:(ウインカーネリアン、ヨシノイースター、インビンシブルパパ。消した論理に狂いはない。状態の悪さと限界の天井。でも……本当にそう言い切れる? 98点の大敗が、もし意図的に力を抜いた『本番への壮大なカモフラージュ』だったとしたら? 香港での86点が、ただの輸送トラブルで、本来の116点のエンジンは無傷のまま積まれているとしたら? 私は『直前の状態』という一番不確かな変数を絶対視しすぎて、本当の怪物を見逃しているのではないか……?)
若葉:「教授? なんですか、唐揚げもう無くなってしもうたからって、そんな窓ガラス睨みつけんでもええやないですか」
若葉がスダチの皮をゴミ箱に捨てながら、無邪気に笑いかける。
神宮寺は自分の心の奥で鳴り響く警報を無理やりねじ伏せ、振り返って冷たい笑みを浮かべた。
神宮寺:「唐揚げの恨みじゃないわ。いよいよ残りが7頭。この精鋭たちの中から、さらに2頭の首を切り落とす『第六の選考』について考えていただけよ。さあ、夜はまだこれからよ」
論理の城の足元が、わずかに揺らぎ始めていることに気づかないフリをして、彼女は次なる解剖の準備を始めた。
第7章双子星の気まぐれと、左利きの不器用な聖母
深夜二時。海を渡る風がゴウゴウと唸りを上げ、研究室の窓をガタガタと威嚇するように揺らしている。
蛍光灯の無機質な白い光の下、部屋の空気はシーフード味のカップ麺が放つ、魚介とジャンクな塩気の入り混じった強烈な匂いに支配されていた。若葉がズルズルと豪快に麺をすすり、熱さに「はふっ、はふっ」と息を漏らしている。
若葉:「ぷはーっ! 深夜二時のシーフード麺、これ完全に犯罪的美味さですわ! 昨日見たアニメ『異世界深夜食堂』で、エルフの剣士がラーメン食べて泣いてるシーンありましたけど、今の私、完全にあのエルフの気持ちシンクロしてます!」
若葉がプラスチックのフォークを握りしめ、スープの最後の一滴まで飲み干そうとカップを傾ける。
佐倉:「若葉さん、汁をパソコンのキーボードに飛ばさないでね。深夜に炭水化物と塩分の過剰摂取なんて、エルフじゃなくてただの不摂生な現代人だよ。胃袋がもたれて明日の朝後悔するパターンだ」
若葉:「佐倉助手はロマンがわかってへんなぁ! 徹夜のテンションにはこのジャンクなガソリンが必要不可欠なんですって!」
神宮寺:「あなたのその強靭な胃袋の消化能力だけは、どんなデータ分析よりも信頼できる絶対的な事実ね」
窓際の闇に溶け込むように座っていた神宮寺が、タブレットのブルーライトに顔を照らされながら静かに立ち上がった。彼女の白衣が翻り、エスプレッソのような濃厚なコーヒーの香りが、ジャンクな匂いをわずかに駆逐する。
神宮寺:(シーフード麺の匂いで満たされた密室。知的な分析空間としては最悪の環境ね。だが、この深夜特有のバグったテンションこそが、常識という名のバイアスを外す鍵になるかもしれない。いよいよ残りは7頭。全国大会の決勝にふさわしい怪物たちの中から、さらに2頭の首をはねる。ここは最も繊細で、最も残酷なメスが必要になるわ)
神宮寺:「さあ、夜食の時間は終わりよ。ホワイトボードを見なさい。サトノレーヴ、ナムラクレア、ルガル、ジューンブレア、ペアポルックス、レイピア、ママコチャ。この7頭の中から、第六のサバイバルで2頭を地獄へ突き落とすわよ」
神宮寺の言葉に、若葉が空になったカップ麺をゴミ箱に放り投げ、ビシッと敬礼した。
若葉:「了解です、教授! ほな、まずは『ペアポルックス』はどうですか! ポルックスって、ふたご座の星の名前ですよね!? 双子の星の力を宿した二刀流の剣士! なんか必殺技で分身しそうでめっちゃ強そうですやん!」
佐倉:「双子の剣士ね……」佐倉がモニターにペアポルックスのデータを映し出し、少し首を傾げた。「確かに、この馬は直前の予選レースで1位を取っています。点数も112点と、エリートの基準をしっかりクリアしている。直前の勢いという意味では、残しておきたい一頭に見えますが……」
若葉:「ほら見なさい! さっきの章で教授が『直前の状態が一番大事』って言うてましたやん! 直前で1位なら、もう文句なしで合格ちゃいますの!?」
神宮寺:「若葉、あなたは本当に表面的な結果しか見ないおめでたい目玉をしているわね」
神宮寺が冷たく鼻で笑い、ポインターでモニターの『過去の成績』の欄を赤く囲んだ。
神宮寺:「佐倉くん。その直前で1位を取る前の、二回の大きな大会の結果を声に出して読みなさい」
佐倉が画面をスクロールさせ、目を丸くした。
佐倉:「えっと……13位と、12位。点数は103点と97点……って、あれ!? 直前で1位を取る前は、二回連続で信じられないくらいの大惨敗を喫していますよ!?」
若葉:「ええっ!? なんでそんな急に成績がジェットコースターみたいに乱高下するん!?」
若葉が目を白黒させる。
神宮寺:「それがこの馬の『致命的な欠陥』よ」神宮寺がホワイトボードに『サイコロの確率』と書き殴る。「右回りのコースで大敗し、左回りのコースでも大敗する。そして今回、突然右回りで1位になった。つまり、彼が勝つか負けるかに『明確な理由や法則』が存在しないの。気分が乗れば112点を出すけれど、機嫌が悪ければ97点の赤点を取る。あなたの言う双子の剣士は、戦場で剣を振るうかどうかを気分で決める、ただのギャンブル依存症の傭兵なのよ」
佐倉:「なるほど……。一発の破壊力はあるけれど、最高峰の絶対に負けられない舞台で、そんな気まぐれな馬に大事な資金を託すことはできない。構造的に『信頼性』が著しく欠如しているんですね」
神宮寺:「その通りよ。ギャンブルの罠は『直前のまぐれ当たり』に騙されること。大敗を繰り返す馬が連続で好走する確率は、サイコロで同じ目を連続で出すくらい低いわ。ペアポルックス、ここで脱落よ」
赤いマーカーが、双子星の気まぐれな光を無慈悲に塗りつぶした。
若葉:「うわぁ、二刀流の剣士、戦場でサボり癖が発覚してクビ……。リアルすぎて泣けますわ」若葉が天を仰ぐ。
神宮寺:「さあ、次がこの章の最後よ。もう一頭、残酷な事実を突きつけるわ」
神宮寺がリストに目を落とす。「若葉、あなたの好きな『お母さんキャラ』みたいな名前の馬がいるわね」
若葉:「あ! 『ママコチャ』ですね! 優しくて包容力のある聖母キャラ! アニメやったら、傷ついた主人公を膝枕で癒やしてくれる最強のヒーラーですわ! この子は安定して成績残してそうですやん!」
佐倉:「若葉さんの言う通り、ママコチャは非常に安定していますよ」
佐倉がすぐにデータを展開し、擁護に回る。
佐倉:「直近の4回のレースを見ても、4位、2位、6位、2位。点数も106点から110点の間で推移していて、ペアポルックスのような大崩れはしていません。これなら信頼できるんじゃないですか?」
神宮寺:(佐倉くん、君のデータ収集能力は完璧よ。でも、集めた数字を『どういう角度から見るか』という視点がまだ甘い。テストの平均点が高いからといって、すべての科目が得意なわけではない。この高松宮記念という舞台は、彼女にとって最も苦手な『致命的な科目』なのよ)
神宮寺はフッと冷たい笑みをこぼし、佐倉のパソコンの横にスッと立った。
神宮寺:「佐倉くん。彼女が好成績を残した『2位』や『4位』のレース。それが『どのコース』で行われたものか、共通点を挙げてごらんなさい」
佐倉:「えっと……オーシャンSは中山競馬場で『右回り』。セントウルSは阪神競馬場でこれも『右回り』。JBCスプリントはダート(砂)のレースですね。……あっ!」
佐倉の顔から、スッと血の気が引くのが分かった。
神宮寺:「気付いたようね」神宮寺が容赦なく言葉の刃を突き立てる。「彼女が安定した成績を出しているのは、すべて『右回り』のコースか、砂のコースなのよ。今回走る中京競馬場は『左回り』。彼女の過去の成績を隅から隅まで洗っても、芝生の左回りの大きな大会で好成績を出した記録が、ただの一つも存在しないの」
若葉:「えっ……それって、どういうことですか?」若葉がキョトンとする。
神宮寺:「人間で例えるなら、彼女は超一流の『右利き』のアスリートなのよ」神宮寺が若葉に向かって説明する。「右利きの道具を使わせれば、いつも高い点数を取ってくる。でも今回の大会は、全員に『左利きの道具を使って戦え』と強制する特殊なルールなの。右利きの聖母が、いきなり左手で剣を振って、両利きのバケモノたちに勝てると思うかしら?」
若葉:「あかん! それ絶対空振りして自滅するパターンですやん!」
神宮寺:「ええ。彼女は安定しているけれど、それは得意な条件での話。最も重要な『コースの適性』というパーツが完全に欠落しているのよ。全国大会の決勝戦で、その不器用さは命取りになるわ。ママコチャ、無念だけれどここで消去よ」
ホワイトボードの『ママコチャ』の文字が、静かに赤い線で消された。
若葉:「うぅ……聖母様、左手が使えへんくて無念の敗退……。これでついに、残りは『5頭』ですか」
若葉がゴクリと息を呑み、ホワイトボードを見上げる。
サトノレーヴ、ナムラクレア、ルガル、ジューンブレア、レイピア。
選び抜かれた5頭の名前が、深夜の研究室で異様なまでの存在感を放っていた。
佐倉:「完璧な論理です、教授。気まぐれなムラっ気と、致命的な左回りの適性不足。どちらもGⅠという最高の舞台では、誤魔化しきれない弱点ですね」
神宮寺:「ええ、論理の刃としてはこれ以上ないほど研ぎ澄まされているわ……」
神宮寺はそう答えながらも、自分の右手をギュッと白衣のポケットの中で握りしめた。
マグカップのコーヒーはすっかり冷え切り、水面に蛍光灯の光が歪んで映っている。
神宮寺:(本当に完璧? 私はまた、自分の仮説を美しく見せるために、都合の悪い事実を切り捨てたのではないか? ペアポルックスの気まぐれは、ついに心身が噛み合った『覚醒の証』かもしれない。サイコロが二回連続で6を出さないという保証は、確率論であって絶対ではない。ママコチャの左回り実績がないというデータも、単に『左回りのレースを走る機会が少なかっただけ』という可能性を完全に否定しきれる? 私は、自分の論理の城を守るために、本当は勝てる馬を自らの手で殺してしまったのではないかしら……)
胸の奥で渦巻く疑念の泥水が、彼女の冷徹な思考にわずかな波紋を広げている。
しかし、神宮寺は決してその動揺を顔には出さなかった。
若葉:「教授? なんか今、めっちゃラスボスみたいな顔してはりましたよ?」
若葉がカップ麺の空き容器をゴミ箱に押し込みながら、不思議そうに首を傾げる。
神宮寺:「深夜のせいよ。さあ、泣いても笑っても次が最後。この5頭の精鋭たちに、究極の順位をつけるわよ。佐倉くん、若葉。頭のネジを限界まで巻き上げなさい」
自らの疑念という魔物と闘いながら、天才女性教授は最終決戦の舞台へと足を踏み入れた。
第8章絶対王者の矛盾と、美しき5つの頂点
夜が明けた翌日の午後三時。海峡を眼下に望む研究室には、春のうららかな陽光がたっぷりと降り注いでいた。
ポカポカとした空気に包まれ、佐倉が丁寧に淹れたキリマンジャロのフルーティーな酸味と香りが部屋を満たしている。しかし、その優雅な午後のひとときをぶち壊すように、若葉が「ボリッ、ボリッ」と凄まじい音を立てていた。彼女の手元には、スダチ味の極太かりんとうの袋が握られている。
若葉:「ん?っ! このスダチの酸味と黒糖の甘味、まさに光と闇の最強合体魔法ですわ! 昨日一気見した『光と闇の双剣士』っていうアニメの主人公みたいで、脳の疲労が吹き飛びます!」
若葉が極太のかりんとうを剣のように振りかざす。
佐倉:「若葉さん、光と闇の合体はいいけど、キーボードにかりんとうの破片を落とさないでよ。それにしても、徹夜分析から少しの仮眠を挟んで、君のアニメと食欲のエネルギーは完全回復だね」
若葉:「佐倉助手、エリートのオタクは常に最新の情報を摂取してカロリーを燃やさなアカンのです! さあ教授! いよいよ残った5頭のエリートたちに、1位から5位までの最強ランキングをつける時間ですよね!」
部屋の奥、重厚な本棚の影から、コツ、コツ、とヒールの音を響かせて神宮寺が姿を現した。彼女はいつも通り純白の白衣を身にまとい、手には精鋭5頭のデータが映し出されたタブレットを持っている。
神宮寺:「カロリーを燃やすのは結構だけれど、私の神聖な研究室をスダチと油の匂いで満たすのはやめてちょうだい」神宮寺は冷ややかな視線を若葉のかりんとうに向けた後、ホワイトボードの前に立った。「ええ、いよいよ総仕上げよ。サトノレーヴ、ナムラクレア、ルガル、ジューンブレア、レイピア。この5頭の怪物を、残酷なまでに格付けするわ」
佐倉:「全員が最高峰の大会(GⅠ)で戦える能力を持ったエリートです。ここから先は『弱点で消す』のではなく、彼らの『勝つための武器』を天秤にかける作業ですね。まずは第5位からでしょうか?」
神宮寺:「ええ。この中で最も『全国大会の重圧』を知らない未熟な剣士。第5位は『レイピア』よ」
神宮寺が青いマーカーでホワイトボードの一番下に名前を書く。
若葉:「レイピア! 細くて鋭い剣の名前ですね!」若葉がかりんとうを突き出す。「アニメやったら、素早い連続攻撃で敵を翻弄するスピードキャラですやん! 5位って低すぎません!?」
佐倉:「若葉さんの言う通り、この馬のスピードと安定感は抜群だよ」佐倉がデータをモニターに表示する。「最近の4回のレース、なんとすべて『4位以内』に入っている。点数も106点から111点の間でピタリと安定していて、どんな相手でも確実に自分の力を出し切る優等生なんだ」
若葉:「ほら! 安定感バツグンの優等生! なんで最下位なんですか!」
神宮寺:「若葉、レイピアという剣は確かに速いけれど、分厚い鎧を着たドラゴンを一撃で倒す『決定的な破壊力』には欠けるのよ。この馬はまだ4歳で、今回が初めての最高峰の大会(GⅠ)への挑戦なの。しかも、点数の限界値が『111点』で止まっている」
若葉:「えっと……111点って、すごい点数ちゃいますの?」
神宮寺:「地方大会ならね。でも、これから戦う上位の怪物たちは、113点、114点、最高で118点というバケモノじみた点数を持っているの。初めての全国大会の決勝戦で、自分よりはるかに強い点数を持つ怪物たちを相手に、安定感だけで勝ち切れるかしら?」
佐倉:「なるほど……。上位に食い込む可能性は十分にあるけれど、『1位を取る』という爆発力、つまり能力の天井を比較すると、他の4頭に劣るということですね」
神宮寺:「その通りよ。安定して画面の端には映るけれど、主役にはなれない。だから5位が妥当よ。……さあ、次は第4位ね。若葉、ジューンブライドのようなおめでたい名前の女の子のデータを出しなさい」
若葉:「あ! 『ジューンブレア』ですね! ジューンブライド、6月の花嫁! アニメのヒロイン決定戦なら絶対優勝する名前ですわ!」
神宮寺:「残念だけど、ここはヒロイン決定戦ではなく血で血を洗うスプリント戦よ」神宮寺は冷たく切り捨てる。「佐倉くん。彼女を4位に置く『最大の不安要素』と『最大の武器』を両方説明しなさい」
佐倉:「はい。最大の不安要素は、つい最近行われた前哨戦のテストで『11位』という大惨敗をしていることです。点数も97点と、エリートらしからぬ赤点を出しています。普通ならこの時点で消去対象です」
若葉:「えっ! 11位!? 教授、さっきの章で『直前のテストで大敗した馬は消す』って言うて、無敵のパパ(インビンシブルパパ)を消しましたやん! なんでこの子は残したんですか! エコ贔屓です!」
若葉が猛烈に抗議する。
神宮寺:(若葉の言う通り、これは一見すると矛盾している。でも、敗北には『理由のない崩壊』と『明確な言い訳ができる敗北』の二種類がある。素人は数字の表面だけを見てパニックになるけれど、プロは数字の裏に隠された物理法則を読み解くのよ)
神宮寺はキリマンジャロのコーヒーを優雅に一口飲み、若葉を真っ直ぐに見据えた。
神宮寺:「エコ贔屓ではなく、論理的な救済よ。彼女が大敗した前回のレース。走った距離は『1400メートル』だったの」
若葉:「え? 1400メートル? 今回の大会は1200メートルですよね?」
佐倉:「ええ」佐倉が引き継いで解説する。「この馬の過去の成績を見ると、1200メートルのレースでは何度も2位に入って高得点を出しているんです。つまり、前回の11位は『状態が悪かった』のではなく『200メートル長すぎてスタミナが切れただけ』という明確な言い訳が成立するんですよ」
若葉:「ああっ! なーんだ、ただのガス欠ですか! ほな、今回得意な1200メートルに戻るんやったら、一気に復活する可能性大ってことですね!」
神宮寺:「その通り。さらに彼女は牝馬だから、男の子たちより『2キロ軽いリュック』で走る特権があるわ。得意な距離への短縮と、軽い荷物。この二つの武器があるからこそ、前走の赤点に目をつぶって4位にランクインさせたのよ」
神宮寺がホワイトボードに『第4位ジューンブレア』と書き込む。
神宮寺:「さあ、いよいよトップ3、表彰台の発表よ。ここから先は、わずかな傷の差が順位を分ける神々の領域ね。第3位は……去年の銀メダリスト、『ナムラクレア』よ」
佐倉:「ナムラクレアが3位ですか。この馬、去年の同じ高松宮記念で2位になっています。中京競馬場の激しい坂道への適性は、5頭の中で最も確実に証明されているはずですが……」
若葉:「せやせや! 去年同じ舞台で銀メダル取ったんなら、今年は金メダル確実ちゃいますの!? コースを知り尽くしたベテランヒロイン! なんで3位に甘んじとるんですか!」
神宮寺:「ベテランヒロインね。まさにその通りよ」神宮寺はポインターをモニターに突きつけた。「でも彼女は、数々の大きな大会に出場して、銀メダルや銅メダルは山のように持っているけれど、一度も『金メダル』を取ったことがないのよ」
若葉:「えっ? そうなんですか?」
神宮寺:「彼女の点数の限界値は『113点』。素晴らしい成績だけれど、常にあと一歩、決定的な場面で自分より点数の高いバケモノに追い抜かれてしまうの。おまけに7歳という年齢。これ以上の爆発的な成長は見込めないわ。一番コースに適していて、一番確実に上位に来るけれど、一番星には手が届かない。だから、極めて信頼度の高い『第3位』よ」
若葉:「うわぁ……永遠の2番手キャラ……。スピンオフでは主役になれるけど、本編ではどうしても勝てへん幼馴染の女の子みたいで切ないですわ……」
若葉が悲しそうにかりんとうをかじる。
神宮寺:「さあ、残るは2頭よ。いよいよ、金メダルと銀メダルの発表ね」
神宮寺の瞳に、獲物を狙う鷹のような鋭い光が宿った。
神宮寺:「第2位は……圧倒的な勢いを持つ若き王、『ルガル』よ」
若葉:「ルガル! なんか王様っぽい響きですね!」若葉が身を乗り出す。
佐倉:「この馬の直近の勢いは、5頭の中で群を抜いています。最近の3回のテスト、すべて『111点以上』を叩き出していて、つい最近の大きな大会では『114点』という素晴らしい点数で見事1位に輝いています。今、まさに肉体も精神も完全なピーク状態にありますね」
若葉:「おおーっ! 絶好調の王様! ほな、なんでこの馬が1位とちゃいますの!? 今一番ノリに乗っとるんやから、このまま全国制覇ですやん!」
神宮寺:「彼を2位に置いた理由は二つあるわ」神宮寺が冷徹に分析を並べる。「一つは、過去の最高峰の大会(スプリンターズS)で12位という大敗を経験していること。今は立て直しているけれど、極限のプレッシャーがかかる舞台での脆さがわずかに残っているわ。そしてもう一つは……彼の持つ114点という点数を、遥かに凌駕する『絶対的なバケモノ』がもう一頭存在しているからよ」
部屋の空気が、ピンと張り詰めた。
佐倉が息を呑み、若葉がかりんとうを持つ手を止める。
神宮寺:(連続した思考は考えを鈍らせ、単純な見落としさえ気付けなくなるさせる。
それは自分でも理解はしているつもりではいた…しかし、この時のわたしはそれすら気づけない程の疲労のピークにあった…)
神宮寺:「すべてを薙ぎ払う、絶対王者の点数。第1位は……『サトノレーヴ』よ」
神宮寺が力強いストロークで、ホワイトボードの頂点にその名を刻み込んだ。
佐倉:「サトノレーヴ……!」佐倉が震える声でデータを読み上げる。「過去の最高得点、なんと『118点』! これは5頭どころか、今回参加する22頭全員の中でダントツのトップです! しかも、海外の最高峰の大会で連続して2位になるという、世界レベルの実力を持っています!」
若葉:「ひゃくじゅうはちてん!? さっきの優等生レイピアが111点やったのに、7点も差があるんですか! それ、アニメやったら戦闘力スカウターが爆発するレベルのインフレちゃいます!?」
若葉が両手で頭を抱えて叫ぶ。
神宮寺:「ええ。競馬の本質的な真理に立ち返れば、『一番点数の高い、一番強い馬が勝つ』。これが最もシンプルで強力な法則よ。直近の海外レースで少し順位を落としてはいるけれど、彼が持っている本来のエンジンの性能は、他の馬とは次元が違うの」
神宮寺が誇らしげにホワイトボードを振り返る。
1位サトノレーヴ
2位ルガル
3位ナムラクレア
4位ジューンブレア
5位レイピア
神宮寺:「これが、私たちがデータと論理のすべてを懸けて導き出した、最も美しい5つの頂点よ」
若葉が感嘆のため息をつき、佐倉も深く頷いてパソコンの画面を閉じた。
完璧な考察だった。揺るぎないデータ、明確な理由、そして圧倒的な説得力。三人は、自分たちの作り上げた知的な芸術作品に酔いしれていた。
……しかし。
神宮寺は白衣のポケットの中で、再び自分の手を強く握りしめた。
彼女の脳裏で、冷たい警報音がガンガンと鳴り響いている。
神宮寺:(本当にこれでいいの? 私は今、最大の『自己矛盾』を犯していないかしら?)
神宮寺は、1位に輝くサトノレーヴの名前をじっと見つめる。
神宮寺:(私は第六の選考で、『ママコチャ』を『中京競馬場特有の左回りコースの実績がない』という理由で無慈悲に切り捨てたわ。コース適性のなさは致命的だと断言して。……でも、私が今、堂々の1位に推したサトノレーヴはどう? この馬も、中京競馬場で走った経験が『ただの一度もない』じゃない!)
彼女の呼吸がわずかに浅くなる。
神宮寺:(ママコチャはコース経験がないから消去し、サトノレーヴはコース経験がなくても『能力が圧倒的だから勝てる』と特別扱いした。これは論理の破綻よ。私は、118点という数字の暴力に目が眩み、自分自身の作った厳しいルールを、無意識のうちにねじ曲げてしまったのではないか……?)
若葉:「教授? なんか急に顔色悪なりましたけど、大丈夫ですか? まさか、私のかりんとうの匂いに当てられました?」
若葉の無邪気な声が、凍りつきそうになった神宮寺の意識を現実に引き戻した。
神宮寺:「……いいえ、なんでもないわ。ただ、完璧に見える論理ほど、足元に恐ろしい罠が隠されているかもしれないと考えただけよ。さあ、次は第9章。もしこの完璧なランキングが崩れ去り、とんでもない『大荒れ』の展開になったらどうなるか。世間の評価という名の『オッズ』を見ながら、パンドラの箱を開けるわよ」
自らの内に生まれた巨大な疑念。それを誰にも悟られないよう、神宮寺は唇を噛み締めながら、次なるカオスの考察へと足を踏み入れた。
第9章パンドラの箱と、ディフェンディングチャンピオンの呪縛
窓の外はすっかり日が落ち、研究室のモニターの明かりが三人の顔を青白く照らし出していた。
佐倉が新しく淹れた、少し濃いめのエスプレッソの苦い香りが部屋に満ちている。その静寂を切り裂くように、若葉がスマホを指で激しくスクロールさせながら、椅子から転げ落ちんばかりに身を乗り出した。
若葉:「ちょ、ちょっと待ちくたびれてください、教授! 今さらなんですけど、私、見つけてしまいましたわ! さっき教授、サトノレーヴのこと『中京の経験がない』って言うてましたよね!? これ、見てください! 去年の高松宮記念の結果……サトノレーヴ、1着。堂々の優勝ですやん!」
若葉がスマホの画面を神宮寺の目の前に突きつける。そこには確かに、泥だらけの馬場で先頭を駆け抜けるサトノレーヴの雄姿が記録されていた。
佐倉:「えっ!? 去年勝ってる……? 教授、僕ら、さっきの『左回り適性』の議論で、根本的なデータを見落としていましたか?」
神宮寺の動きが、彫刻のようにピタリと止まった。
白衣のポケットに突っ込んでいた手が、わずかに震える。
神宮寺:(嘘……。去年の覇者? 私が、この私が、そんな初歩的な事実を見落としていたというの? 『サトノレーヴは海外帰りだから未知数』というストーリーに酔いしれて、目の前にある『中京GⅠ制覇』という最大の証拠を透明人間のように扱っていた……!?)
若葉:「き、教授? 顔、真っ青ですよ。またかりんとうの祟りですか?」
若葉が恐る恐る覗き込んでくる。
神宮寺:「……黙りなさい」
神宮寺は絞り出すような声で言った。彼女はゆっくりとホワイトボードに歩み寄り、1位に書かれたサトノレーヴの名前を、穴が開くほど見つめた。
神宮寺:「佐倉くん。……オッズを、最新のオッズを出しなさい。世間は、このディフェンディングチャンピオンをどう評価しているの」
佐倉が震える指でキーボードを叩き、最新の倍率をモニターに表示させた。
1番人気サトノレーヴ(4.2倍)
2番人気ナムラクレア(4.5倍)
3番人気パンジャタワー(5.0倍)
4番人気ママコチャ(8.3倍)
佐倉:「教授、世間は冷静です。去年の覇者であることをちゃんと知っていて、1番人気に支持しています。でも……おかしいですね。去年勝っている馬なら、もっと圧倒的な2倍台とかになってもいいはずなのに、4倍もついています」
神宮寺:「歪んでいるわ……。あまりにも、歪みすぎている」
神宮寺は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
神宮寺:「若葉。あなたが言った通り、去年の覇者がこの倍率で放置されているのは、世間も『何か』を疑っている証拠よ。連覇の難しさ、海外帰りの疲労、それとも……私と同じように、何かを見落としている恐怖。いいわ、ここからは『荒れるシナリオ』、つまりパンドラの箱を開けるわよ」
神宮寺はホワイトボードの空いたスペースに、大きく『カオス(混沌)』と書き殴った。
神宮寺:「もし、この盤石に見える5頭の牙城が崩れるとしたら。論理という名の光が届かない暗闇から、どんな怪物が飛び出してくるか。期待値という名の劇薬をぶち込むわよ。荒れた場合に来る、狂った穴馬TOP5を発表するわ」
荒れるシナリオ期待値の怪物たち
神宮寺:「第1位ペアポルックス(予想25.6倍)
私が『ムラっ気がある』と切り捨てた剣士よ。でも、逆転の発想をしなさい。前回1位を取った勢いが本物で、大敗の過去がただの『遊び』だったとしたら? 25倍という配当は、彼の爆発力に対してあまりにも美味しすぎる。荒れるレースの主役は、常にこういう『気まぐれな天才』よ」
神宮寺:「第2位ウインカーネリアン(予想27.9倍)
9歳の老兵。香港での大敗(86点)を理由に消したけれど、もしそれが単なる『時差ボケ』だったとしたら? 半年前の日本一(116点)の力が少しでも残っていれば、この倍率はただのボーナスステージよ。老兵が最後の一花を咲かせる……アニメなら王道の展開ね」
神宮寺:「第3位ママコチャ(予想8.3倍)
私が『左回り実績がない』とバッサリ斬った聖母。でも、世間は4番人気に支持している。これは市場が『実績の少なさを適性のなさと履き違えてはいけない』と警告しているサインよ。もし彼女が左回りをあっさり克服したら、それはもはや『荒れ』ではなく『必然』の結果になるわ」
神宮寺:「第4位エーティーマクフィ(予想41.1倍)
万年モブキャラと嘲笑ったけれど、彼の左回り重賞勝ちは本物よ。前回の8位が、本番で40倍のオッズを貰うための『死んだふり』だったとしたら? 誰も見ていないところでナイフを研いでいるのは、いつだってこういう地味なベテランよ」
神宮寺:「第5位インビンシブルパパ(予想47.5倍)
中京適性は最強、でも直前は大敗。この『矛盾』こそが、大穴の正体よ。47倍……。パパが本気を出した時、私たちは自分の論理がどれほど脆かったかを思い知らされることになるわ」
若葉:「ひぇぇ……。さっきまで消した馬たちが、ゾンビみたいに生き返ってきましたわ!」
若葉がスマホを握りしめ、ゾクゾクとした様子でモニターを見つめる。
佐倉:「教授……。サトノレーヴの去年の勝利を見落としていたことで、僕たちの『消去法』そのものが、ただの思い込みに過ぎなかった可能性が出てきました。この穴馬たちの台頭は、僕たちの論理の敗北を意味しませんか?」
神宮寺:(……その通りよ、佐倉くん。私は今、自分の完璧な城が、基礎から腐っていたことに気づいてしまった。サトノレーヴが去年勝っていたという事実一つで、私の『コース適性の理論』は、サトノレーヴを1位に置いた瞬間に自己崩壊している)
神宮寺は震える指で、ホワイトボードのサトノレーヴの名前に触れた。
神宮寺:「ええ……。私たちは今、最高にスリリングで、最高に無意味な作業をしているのかもしれないわ。でも、止まれない。オッズという名の欲望の渦に飲み込まれる前に、最後の審判を下さなければ」
若葉:「教授、なんか汗すごいですけど大丈夫ですか!? スダチ搾りますか!?」
若葉の声も、今の神宮寺には遠くの雑音のようにしか聞こえなかった。
知性の極致を目指したはずの予想は、今や予測不能のカオスへと足を踏み入れていた。
第10章論理の崩壊と、不確実性という名の至高のロマン
午後三時半過ぎ。海峡を照らす春の太陽が、西の空へ向かってゆっくりと傾き始めていた。
研究室の少し開いた窓からは、海を渡る風が「ゴォォ」と低い音を立てて吹き込み、ブラインドを不規則に揺らしている。部屋の空気は、若葉がさっきからバリバリと貪っている金時チップスの甘く香ばしい匂いと、佐倉が三度目に淹れた少し酸味の強いモカの香りが混ざり合い、なんとも言えないカオスな空間を作り出していた。
若葉:「んん?っ! このおさつの自然な甘み、脳細胞の隅々まで染み渡りますわ! さあ教授、佐倉助手! 完璧なトップ5と、裏の最強穴馬も決まりましたし、あとは週末に馬券を買うだけですね! 私、今月のバイト代全部、サトノレーヴとペアポルックスの組み合わせに突っ込みますわ!」
若葉がチップスを口いっぱいに頬張りながら、スマホの競馬アプリを開いて鼻息を荒くする。
佐倉:「なんとか結論が出ましたね。去年の覇者を見落とすというアクシデントはありましたが、それも含めて『荒れるシナリオ』まで網羅できた。僕たちのデータ分析の集大成と言ってもいい結果じゃないでしょうか」
二人の晴れやかな顔とは対照的に、神宮寺は窓際に立ち、腕を組んだまま海を見つめていた。白衣の背中が、どこか小さく、そして冷たく見える。
彼女はゆっくりと振り返り、ホワイトボードにびっしりと書き込まれた数式と馬の名前を一瞥した。
神宮寺:「……若葉。そのアプリを閉じなさい。佐倉くん、君が集めたその完璧なデータファイルも、今すぐゴミ箱に入れなさい」
若葉:「えっ?」
佐倉と若葉の声が、寸分違わず重なった。
神宮寺はコツコツとヒールを鳴らしてホワイトボードに近づくと、黒板消しを手に取り、あろうことか『サトノレーヴ』という1位の名前を、乱暴にゴシゴシと消し去ってしまった。
若葉:「ちょ、ちょっと教授!? なにするんですか! 徹夜して絞り出した涙の結晶が!」
若葉が慌てて立ち上がるが、神宮寺の目はゾッとするほど冷徹で、そして深い絶望と歓喜がないまぜになったような奇妙な光を放っていた。
神宮寺:「涙の結晶? いいえ、これはただの『砂の城』よ」神宮寺が黒板消しを机に放り投げる。粉が雪のように舞った。「いいこと、二人とも。私は今、とんでもない事実に気がついてしまったの。私たちがこの数日間、6つのフィルターを使ってやってきた考察……それはすべて、全くの無意味だったということにね」
佐倉:「む、無意味って……。あんなに緻密にデータを追ったじゃないですか。点数の推移も、コースの適性も、すべて過去の事実に基づいた客観的な分析ですよ!」
神宮寺:(そう、客観的だと思い込んでいたわ。でも、サトノレーヴの勝利を見落とした瞬間に気づくべきだったの。私たちが設定した『大きな大会で3位以内がない馬は消す』とか『年齢が上の馬は消す』というフィルター。その基準を引いたのは誰? 神様? いいえ、ただの私よ。私たちは『消したい馬を消すためのもっともらしい理由』を、後付けで探していただけに過ぎないのよ)
神宮寺:「佐倉くん、あなたが絶対視しているその『点数(レーティング)』。サトノレーヴの118点って、いつ出した数字かしら?」
佐倉:「えっと……去年の6月、イギリスの大会での記録ですね。約9ヶ月前です」
神宮寺:「そう。9ヶ月前よ」神宮寺が若葉の机から金時チップスを一枚つまみ上げ、ポキリと折った。「昨日まで118点の能力があった馬が、今週末も118点だという保証が世界のどこにあるの? 馬は生き物よ。私たちと同じように、風邪も引けば、ホームシックにもなるし、なんとなく気分が乗らない日もある。過去の数字は、ただの幻影に過ぎないわ」
若葉:「あーっ! それ、昨日見た『無敵の魔王が花粉症で世界征服諦める』ってアニメと一緒ですやん! どんだけステータス高くても、当日のコンディション一つで全部パアになるってことですね!」
神宮寺:「その通りよ、若葉」神宮寺は初めて、若葉のアニメ例えに心から同意するように頷いた。
神宮寺:「さらに致命的な欠陥があるわ。佐倉くん、私たちがこれまで何時間も議論してきて、ただの一度も口に出さなかった『一番重要な要素』があるの。わかるかしら?」
佐倉:「点数、距離、コース、過去の実績……すべて網羅したはずですが」
神宮寺:「いいえ。私たちは『展開』と『騎手』と『天気』を完全に無視したわ」
神宮寺の言葉に、部屋の空気が凍りついた。
神宮寺:「競馬は馬だけが走るんじゃないのよ。上に乗る人間が仕掛けるタイミング一つで、結果は天と地ほど変わる。それに、誰が先頭を走ってどんなペースになるのか、枠順すら決まっていない状態で着順を語るなんて、ルールを決める前にゲームの勝者を予言するようなものよ。おまけに、週末に雨が降って馬場が泥沼になれば、スピード自慢のエリートたちは一瞬で沈む。馬場状態という最大の変数をコントロールできない以上、私たちの分析は最初から破綻していたのよ」
佐倉:「……エンジンのスペックだけを見て、誰が運転するかも、雨が降るかどうかも分からない状態でF1の優勝者を予想していたようなものですね。統計学としても、過去10年のデータなんてたった10回のサンプル……コインの裏表を測るには少なすぎます」
若葉:「うぅ……。ほな、私らがウンウン唸って考えた時間は、全部無駄やったんですか? 馬券、買わんほうがええの?」
神宮寺:「無駄じゃないわ、若葉」
若葉:「え?」
神宮寺は再びホワイトボードの前に立ち、消えかけた馬の名前たちを愛おしそうに撫でた。
神宮寺:(18頭の馬がゲートに入る。私たちがどれだけ完璧な方程式を組み上げても、ゲートが開いた瞬間にそのすべては白紙になる。でも、だからこそ、この世界はこれほどまでに美しく、狂おしいほどに面白いのだわ。すべてが計算通りに動くなら、そんなものはただの作業よ)
神宮寺:「競馬はね、正解を当てるための数学のテストじゃないの。不確実という巨大な暗闇の中で、それぞれの生き物が限界を超えて走る『ドラマ』なのよ。私たちが何日もかけて構築したこの論理は、そのドラマを何百倍も深く、熱く楽しむための『極上のスパイス』に過ぎないわ」
佐倉:「……つまり、予想が当たるかどうかではなく、僕たちが考え抜いたこの『ストーリー』を持って週末のレースを見ることに、本当の価値があるということですね」
若葉:「そういうこと! 推しキャラの結末が分からんからこそ、アニメは最後までハラハラして面白いんですもんね!」
若葉が立ち上がり、空に向かってガッツポーズを作った。「よっしゃ! 完璧な予想が無理なんやったら、私は私の信じた『気まぐれな双子の剣士(ペアポルックス)』に夢を託しますわ! ゲートが開いてみんと分からんのやったら、オッズが高い方がロマンがありますもん!」
神宮寺:「ふふ、好きになさい。私も、自分の論理をあざ笑うように、全く計算外の馬が突っ込んでくるカオスを心待ちにしているわ」
春の生暖かい海風が、再び研究室に強く吹き込んだ。
ホワイトボードに書かれた消えかけの文字たちが、夕日に照らされてオレンジ色に輝いている。
絶対の正解など、どこにもない。
すべては今週末、3月29日の午後3時40分。中京競馬場のゲートが開く、その瞬間に決まる。
神宮寺:「さあ、週末の決戦に備えて、今日はもう解散よ。若葉、そのジャンクフードのゴミは全部持って帰りなさい。佐倉くん、コーヒーごちそうさま。最高に頭が冴えたわ」
白衣を翻し、天才教授は清々しい足取りで研究室を後にした。
不確実性という名の至高のロマンを、その胸に深く抱きしめながら。
終幕