猫でも書ける短編小説
▶第5章 見つかった秘密
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音声 「VOICEVOX:四国めたん」 制作動画 YMM4Lite フリーBGM BGM:ベートーヴェン:ピアノソナタ 第8番ハ短調 Op.13 「悲愴」 第2楽章 背景 フリーAI画像 イラスト:意識低い系デブ猫
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第1章 雨の日の出会い
雨が降ると、世界が静かになる。 誰もが家に閉じこもり、傘の下に隠れて、足早に通り過ぎていく。 そんな日が、私は好きだった。 誰にも話しかけられないし、誰にも見られない。 濡れたアスファルトの匂いと、ぽつぽつと傘を叩く音だけが、私の世界を満たしてくれる。
中学二年の春。 私は、家でも学校でも、居場所を見つけられずにいた。 母は朝早くに出て、夜遅くに帰ってくる。 「おかえり」と言っても、返事は曖昧で、すぐに部屋にこもってしまう。 父のことは、もう思い出せない。 写真もないし、話題にもならない。 私は、ただ静かに、誰にも迷惑をかけないように生きていた。
その日も、雨だった。 学校からの帰り道、傘をさして、いつものように公園を通り抜けようとした。 誰もいないはずのベンチの下に、何かがいた。 小さな、濡れた塊。 近づくと、それは犬だった。
痩せていて、毛は泥で汚れていて、震えていた。 目だけが、まっすぐに私を見ていた。 その目に、私は立ち止まった。
「……どうしたの?」
声をかけても、犬は動かない。 ただ、じっと私を見ていた。 その瞳は、何かを訴えているようで、でも何も言わない。 私も、何も言えなかった。
傘をそっと差し出すと、犬は少しだけ顔を上げた。 雨が当たらなくなったせいか、震えが少しだけ収まった気がした。 私はしゃがみ込んで、犬と同じ目線になった。
「……うちには、連れて帰れないんだ」
それが、最初に言った言葉だった。 本当は、連れて帰りたかった。 でも、母が許すはずがない。 それに、私には犬を飼う知識も、力も、何もなかった。
それでも、何かをしてあげたくて、私はリュックサックの中を探った。 ポケットに入れていたハンカチを取り出して、そっと犬の背中にかけた。 濡れていて、あまり意味はなかったかもしれない。 でも、何かをしてあげたかった。
「明日、また来るから」
そう言って、私は立ち上がった。 犬は、またじっと私を見ていた。 その目が、少しだけ柔らかくなった気がした。
帰り道、私は何度も振り返った。 ベンチの下の犬は、動かずに、ただそこにいた。 雨は止む気配もなく、空は灰色のままだった。
家に帰ると、母はまだいなかった。 部屋の電気をつけて、制服を脱いで、濡れたハンカチを洗った。 犬の匂いが、少しだけ残っていた。 それが、なぜか嬉しかった。
布団に入っても、犬の目が頭から離れなかった。 あの静かな瞳。 何も言わないけれど、何かを伝えようとしていた。
私は、枕に顔を埋めて、そっと呟いた。
「この子も、私と同じで、ひとりぼっちだ」
その言葉が、胸の奥に沈んでいった。 誰にも言えなかった気持ちが、初めて形になった気がした。 雨の音が、遠くで続いていた。
そして私は、明日が少しだけ待ち遠しくなった。
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第2章 名前のない友達
朝、目が覚めると、胸の奥が少しだけ温かかった。 昨日の雨の中で出会ったあの犬のことが、夢のように思い出された。 でも、夢じゃない。 濡れたハンカチも、犬の瞳も、ちゃんと現実だった。
学校では、いつも通り誰とも話さなかった。 教室のざわめきの中で、私は自分の席に座り、窓の外ばかり見ていた。 雨は止んで、空は薄曇り。 あの子は、まだあの場所にいるだろうか。 そればかりが気になって、授業の内容は頭に入らなかった。
放課後、私は急いで公園へ向かった。 リュックサックの中には、朝こっそり持ち出したパンが入っている。 母が買ってきた食パンを、二枚だけ。 怒られるかもしれないけど、あの子に食べさせたかった。
公園に着くと、昨日と同じベンチの下に、あの犬はいた。 少しだけ丸まって、でも昨日よりも穏やかな顔をしていた。 私の姿を見つけると、耳がぴくりと動いた。
「……来たよ」
そう言ってしゃがみ込むと、犬はゆっくりと顔を上げた。 私はリュックからパンを取り出し、ちぎって差し出した。 犬は警戒しながらも、そっと近づいてきて、私の手からパンを食べた。
その瞬間、胸がぎゅっとなった。 誰かに必要とされるって、こんな気持ちなんだ。 私の手を、誰かが受け入れてくれる。 それだけで、涙が出そうになった。
「名前、つけてもいい?」
犬は答えないけれど、じっと私を見ていた。 その瞳は、昨日よりも少しだけ柔らかくて、あたたかかった。
「……ココ、ってどうかな」
“ここにいてほしい” そんな気持ちを込めて、私はそう言った。 この子が、どこにも行かずに、私のそばにいてくれたら。 そんな願いを、名前に込めた。
「ココ。今日から、君はココだよ」
犬は、パンを食べ終えると、私の膝に顔を乗せた。 その重みが、なんだか嬉しくて、私はそっと頭を撫でた。
そのとき、背後から声がした。
「いい名前だな」
振り返ると、近所の老人が立っていた。 公園の掃除をしている人で、何度か見かけたことがある。 でも、話したことはなかった。
「ココか。ここにいてほしい……か。いい意味だ」
老人はそう言って、にこりと笑った。 私は、少しだけ恥ずかしくなって、うつむいた。 でも、心の中は、ぽっと灯りがともったようだった。
誰かが、私の言葉を受け止めてくれた。 誰かが、私の気持ちを「いい」と言ってくれた。 それが、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。
ココは、私の膝の上で目を閉じていた。 安心しているように見えた。 私も、少しだけ安心していた。
帰り道、私はココに「また明日ね」と言った。 ココは、小さく尻尾を振った。 その動きが、私の胸に優しく響いた。
家に帰ると、母はまだ仕事中だった。 静かな部屋で、私は今日のことを思い出しながら、日記を書いた。
「ココに名前をつけた。パンを食べてくれた。 おじいさんが、いい名前だって言ってくれた。 なんだか、今日は少しだけ、誰かと繋がれた気がした。」
ページを閉じると、心が少しだけ軽くなった。 ココの瞳も、老人の言葉も、私の中に残っていた。
そして私は、明日がもっと楽しみになった。
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第3章 家の中の沈黙
ココと過ごす時間が、私の中で少しずつ特別なものになっていった。 公園で会うたびに、ココは尻尾を振ってくれるようになった。 パンを食べるときのくちゃくちゃという音も、私の耳に心地よく響いた。 誰かと一緒にいることが、こんなにも安心できるなんて、知らなかった。
でも、家に帰ると、その温かさはすぐに冷えてしまう。 玄関を開けると、部屋の空気がひんやりしていて、母の気配はない。 リビングの電気は消えていて、キッチンには洗い物が残ったまま。 母はいつも仕事で忙しくて、帰ってくるのは夜遅くだ。
「ただいま」と言っても、返事はない。 それが当たり前になっていた。 私の声は、壁に吸い込まれていくみたいだった。
夕食は、冷蔵庫にあるものを適当に温めて済ませる。 テレビの音だけが部屋に響いていて、私はそれをBGMみたいに聞き流す。 母が帰ってくる頃には、私はもう布団の中にいる。 顔を合わせても、会話はほとんどない。
「学校、どうだった?」 たまにそう聞かれても、「ふつう」としか答えられない。 それ以上、話が続くことはない。 母も、私も、何かを話すことに慣れていなかった。
そんな日々の中で、私はココのことを誰にも言えずにいた。 「犬なんて飼えない」 母が昔そう言っていたのを、私は覚えていた。 だから、ココの存在は、私だけの秘密だった。
放課後、公園でココに会って、パンを分けて、頭を撫でて。 その時間だけが、私の心を満たしてくれた。 帰り道、ココの匂いが手に残っていて、それを嗅ぐと、少しだけ笑顔になれた。
ある夜、布団に入ってから、私はそっと呟いた。
「ココの匂い、まだ残ってる……」
その言葉が、胸の奥にじんわりと広がった。 誰にも言えないけれど、誰かと繋がっている気がした。 それだけで、孤独が少しだけ薄れていくようだった。
次の日も、私はココに会いに行った。 公園のベンチの下で、ココは待っていてくれた。 私の姿を見つけると、立ち上がって、尻尾を振った。
「おはよう、ココ」
そう言うと、ココは小さく吠えた。 まるで返事をしてくれたみたいで、私は思わず笑った。
その笑顔を、誰かに見られていた。 公園の隅にいた老人が、私に近づいてきた。
「今日も会いに来たんだな」 「はい……」
私は少しだけ恥ずかしくなって、うつむいた。 でも、老人は優しく笑って言った。
「ココも、君に会えるのが嬉しいんだろうな」
その言葉が、心にすっと染み込んだ。 誰かが、私とココの関係を認めてくれた。 それだけで、世界が少しだけ優しくなった気がした。
家に帰ると、母はまだ仕事中だった。 私は、今日のことを日記に書いた。
「ココの匂いが、私の手に残ってる。 それだけで、心があたたかくなる。 おじいさんが、ココのことを褒めてくれた。 誰かに見てもらえるって、嬉しい。」
ページを閉じると、静かな部屋の中で、私はそっと微笑んだ。 ココは、私の孤独を埋めてくれる存在になっていた。 誰にも言えないけれど、確かに心に根を下ろしていた。
そして私は、明日もまた、ココに会えることを願いながら、眠りについた。
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第4章 走る日々
春の風が、少しずつ冷たさを手放していく。 公園の木々が芽吹き始め、空の色も柔らかくなってきた。 私は、放課後になると自然と足が公園へ向かうようになっていた。 誰かに呼ばれているわけじゃない。 でも、そこに行けば、私を待っていてくれる存在がいる。 それだけで、心が軽くなる。
ココは、日に日に元気になっていった。 最初はベンチの下から出てこなかったのに、今では私の姿を見つけると、ぴょんと跳ねるように駆け寄ってくる。 尻尾をぶんぶん振って、私の足元に顔をすり寄せる。 その仕草が、なんとも言えず愛おしかった。
「今日も元気だね、ココ」
そう言いながら、私はリュックからパンの袋を取り出す。 母には言えないままだけど、こっそりと少しずつ持ち出している。 ココは、ちぎったパンを嬉しそうに食べる。 その姿を見ているだけで、胸がぽかぽかと温かくなる。
ある日、公園の隅で遊んでいた小さな男の子が、ココに気づいて近づいてきた。 「わんちゃん、かわいいね」 そう言って、そっと手を伸ばす。 ココは少し警戒しながらも、男の子の手を舐めた。
私は、少しだけ緊張していた。 誰かとココを共有するのが、怖かった。 でも、男の子の笑顔を見て、少しだけ安心した。
「名前、あるの?」 「……ココっていうの。ここにいてほしいって意味で」
男の子は「いい名前だね」と言って、また笑った。 その笑顔が、なんだか嬉しくて、私は初めて自分から誰かに話しかけた気がした。
それから、少しずつ公園での時間が広がっていった。 ココと走ったり、ボールを投げたり。 他の子どもたちも興味を持って、少しずつ輪ができていった。 私は、いつの間にか笑っていた。 声を出して、笑っていた。
「ココ、すごいね。みんなと仲良くできるなんて」
ココは、私の言葉に応えるように、尻尾を振った。 その動きが、まるで「君もだよ」と言っているようで、胸がじんとした。
家では相変わらず母との会話は少なかったけれど、私は日記を書くようになった。 誰にも見せない、私だけのノート。 そこには、ココとの日々が綴られていく。
「今日はココが尻尾をいっぱい振った。 男の子がココに触って、笑ってくれた。 私も、少しだけ笑えた。 ココがいると、世界が優しくなる気がする。」
ページを閉じると、心が静かに満たされていく。 誰かに話せなくても、書くことで気持ちが整理される。 そして、ココの存在が、私の中でどんどん大きくなっていった。
ある夕方、公園のベンチに座っていると、あの老人がまた声をかけてきた。
「ココ、元気になったな」 「はい。すごく、元気です」
私は、自然に笑っていた。 老人は、私の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「君も、いい顔になった。ココのおかげだな」
その言葉に、胸がきゅっとなった。 誰かに、私の変化を気づいてもらえた。 それが、こんなにも嬉しいなんて。
「……ココがいてくれて、本当に良かったです」
そう言うと、ココが私の膝に顔を乗せた。 その重みが、私を支えてくれているようで、涙が少しだけ滲んだ。
帰り道、私は空を見上げた。 夕焼けが広がっていて、雲が金色に染まっていた。 ココと並んで歩くその時間が、ずっと続けばいいのに。 そんなことを、ふと思った。
でも、どこかでわかっていた。 この時間が、永遠じゃないこと。 ココが、いつかいなくなるかもしれないこと。 それでも、今は考えたくなかった。
私は、ココの頭を撫でながら、そっと呟いた。
「明日も、走ろうね」
ココは、静かに尻尾を振った。 その動きが、私の心に優しく響いた。
そして私は、明日がまた楽しみになった。
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あらすじ
「VOICEVOX: 四国めたん」雨が降ると世界が静まり、誰にも話しかけられず見られもしないことに安心を覚える中学二年の「私」は、家でも学校でも居場所を見つけられず、朝早く出て夜遅く帰る母とほとんど会話がなく父の記憶もないまま、迷惑をかけないよう静かに生きていたが、公園のベンチの下で震える痩せた野良犬と出会い、傘を差し出して寄り添いながらも家に連れて帰れない現実に胸を締めつけられつつ、濡れたハンカチを掛けて「明日また来る」と告げ、その瞳の静かな訴えに自分の孤独を重ねた。 翌朝、現実感を確かめるように学校をやり過ごし、放課後にパンを忍ばせて公園へ急ぎ、ベンチの下の犬にちぎったパンを差し出すと、警戒しつつも私の手から食べてくれて、誰かに必要とされる感覚に胸がぎゅっとなり、私は「ここにいてほしい」という願いを込めて犬に「ココ」と名を与え、膝に顔を乗せてくれたその重みに涙がにじむ。 背後から公園の掃除をする老人に「いい名前だな」と声をかけられ、私の言葉が受け止められた喜びが心に灯をともすとともに、家に戻れば母は不在で冷たい空気と洗い物の残るキッチンが迎え、日記に「誰かと繋がれた気がした」と書きつけて、明日への小さな期待を抱く。 それからの日々、放課後の公園でココは尻尾を振って駆け寄り、私の足元に顔をすり寄せ、パンをくちゃくちゃ食べる音が心地よく、私は誰かと一緒にいる安心を知る一方、家に戻ると「ただいま」は壁に吸い込まれ、母との会話は「ふつう」で止まり、ココの存在は「犬は飼えない」という母の過去の言葉ゆえに私だけの秘密として胸にしまわれる。 ココの匂いが手に残ることさえ支えとなり、翌日も公園で「おはよう」と声をかけると小さく吠えてくれて、老人は「ココも君に会えるのが嬉しい」と認めてくれ、私は日記に「見てもらえるって嬉しい」と記し、静かな部屋でそっと微笑む。 春が進むにつれて公園の木々は芽吹き、空の色も柔らかく、ココはベンチの下から躍るように飛び出し、私がこっそり持ち出したパンを嬉しそうに食べ、ある日には小さな男の子が近づいて手を差し出し、ココは警戒しながらも舐め、私は「ココっていうの」と初めて自分から誰かに名を伝える。 「いい名前だね」と笑う子どもの表情に安心し、やがて公園ではボール遊びや追いかけっこが生まれ、他の子どもたちとも小さな輪ができ、私は声を出して笑う自分に気づき、老人から「君もいい顔になった」と言われて、ココが私を変えた事実を胸で噛みしめる。 夕焼けの下でココが膝に顔を乗せる重みは支えそのもので、私は「明日も走ろうね」と撫でながら願い、永遠ではない予感をどこかで知りつつも、今だけは考えたくないと空の金色を見上げる。 家に戻れば沈黙は変わらず、冷蔵庫の残り物を温め、テレビの音だけがBGMのように流れ、母が帰る頃には私は眠りに入って会話は途切れ、たまの「学校、どうだった?」にも「ふつう」としか返せない自分の不器用さを自覚するが、日記には丁寧に今日の温度を記すことで、自分の内側を保つ術を覚えていく。 やがて私の生活の支点は放課後の公園に移り、ココと過ごす短い時間が一日の中心となり、秘密であることの罪悪感と守りたいという切実さが同居し、手に残る匂いや毛の手触りが、言葉を持たない安堵の証として日々をつないだ。 ココにパンをちぎって渡す仕草は私のための儀式となり、受け取られる行為が私を肯定し、名前で呼び合うことが関係を確かなものにして、孤独の輪郭が少しずつ和らいでいく一方で、母には言えない壁の存在が、静かな緊張として背景に残り続ける。 老人の何気ない承認は、家庭でも学校でも得られなかった「見守り」の代わりとなり、第三者の穏やかな眼差しが私の行いを正す鏡になって、私とココの時間にささやかな社会性を与え、私は世界と細い糸でつながっている実感を手に入れた。 ココにふれることで私の表情は自然に緩み、頬の筋肉が笑うことを思い出し、声が笑いに変わるたび、忘れていた身体の使い方を取り戻し、私は心と体の両方で生き返っていくように感じた。 それでも夜になると部屋の冷たさが戻り、枕に顔を埋めて「この子も私と同じでひとりぼっちだ」と呟いた初日の言葉が内側に沈み、私が彼女を必要とするように、彼女もまた私を必要としているのではないかという対等な想像が、翌日を待ち遠しくさせた。 公園での小さな輪は、私にとって危うさと希望の両方であり、誰かと共有する不安を抱えながらも、笑顔が連鎖する場に自分が立てる喜びが勝り、私は「独りだけの秘密」から「誰かに見える関係」へと半歩進み、世界への信頼を少しずつ積み重ねる。 同時に、母の不在と仕事の忙しさが変わらない現実は、私の沈黙を深くし、会話が育たない家の空気が、ココの存在を告げる勇気を奪い、秘密が大切さの証であると同時に、脆さの根でもあることを感じ始める。 私の日記は薄い線で日々を縫い止め、「パンを食べた音」「尻尾の振れ方」「老人の一言」といった具体の記述が、感情を確かな形に変え、読み返せば温度がよみがえる小さな記憶装置となって、孤独に絡め取られない拠り所になった。 季節が進むごとに、ココの体つきは少しふっくらし、毛並みは泥のくすみを脱いで光を帯び、視線の硬さがほどけて「信じる」色が混じり、私の呼びかけに反応して耳がぴくりと動くその一瞬に、関係の深まりが可視化される。 走る日々の中で、私は他者との距離の取り方を学び、ココが子どもの手を舐める前に一拍おく警戒や、私の膝に顔を乗せる重さを調整する仕草から、相手を尊重する応答のリズムを感じ取り、言葉を使わないコミュニケーションの豊かさに気づく。 老人の「君もいい顔になった」は、変化の証明書のように心に残り、私は自分の小さな成長を外から言語化してもらうことで、自覚と誇りを手にし、涙がにじむほどの安堵とともに、変わることを恐れなくていいという許しを得た。 夕焼けの金色は、終わりと継続の両方を示す合図となり、私は「明日も走ろうね」と繰り返すことで関係を明日に延長し、ココの静かな尻尾の返事は約束そのもので、永遠ではない現実を薄く包む布のように、一日一日を丁寧に結び直す。 家では、母の「学校、どうだった?」が定型文のまま漂い、私は「ふつう」と返すことで衝突も親密も避け、互いに踏み込みを恐れる沈黙の規則が守られ、私はその内側で密やかに強くなる必要があると悟る。 そして、密やかな強さはココと過ごす時間に養われ、私は与えることと受け取ることの均衡を知り、パンという小さな資源を分け合う行為が、私の存在価値を日常の中で確かめる儀式となって、孤独の質を変えていく。 公園の子どもたちの輪は、私にとって未知の社会の縮図で、挨拶を返す、名を呼ぶ、順番を待つといった基礎の営みが、ココを介して自然に身につき、教室では学べなかった「関わりの練習」が、夕暮れの光の中で繰り返される。 日記の行間には、言えなかった言葉が静かに並び、私は書くことで自分の気持ちを初めて「見える」形にし、誰にも見せない秘密のノートが、誰にも壊せない私の内的な家となって、心の温度を一定に保つ役割を果たす。 私はときどき、ココを家に連れて帰る想像をしては打ち消し、母の「犬は飼えない」が胸に刺さったまま、現実の線引きを守る苦さを飲み込み、だからこそ公園という第三の場所が、私たちにとって唯一の自由で安全な領域となった。 ココの名には「ここにいてほしい」という祈りが織り込まれ、その願いは日ごとに重みを増し、名を呼ぶ瞬間ごとに私は世界に小さな旗を立てるような確かさを得て、見失いがちな自分の位置を回復する。 やがて私は、ココが私を待っているという事実が、朝起き上がる力に変わるのを感じ、授業に集中できなくても放課後に向けて歩き続ける理由が明確で、目的を持つことが一日の輪郭をくっきりさせる効果を持つと知る。 手に残る匂い、濡れた毛の感触、耳の動き、くちゃくちゃという咀嚼音、そうした細部が私の感覚を現在に留め、不安が過去や未来へと暴走しそうになるたび、私は触覚と聴覚の小さな錨で今に止まり直す。 ココの変化に合わせて私もまた変わり、走る速度や休む間合いを共鳴させ、相手に合わせることが自分を失うことではなく、二人の間に心地よいテンポを作る共同作業だと理解し、調和の感覚を体で覚える。 私にとって老人は、正しさを押しつけず見守る大人の希少な姿で、彼のにこりとした笑みは承認の静かな形式であり、余白のある関わりが子どもの心をほどくことを、私は実感をもって学んでいく。 こうして、雨の日の出会いから始まった物語は、秘密と承認、孤独とつながり、沈黙と笑いの間を行き来しながら、私の世界に少しずつ色を戻し、私は「また明日」という言葉で日々を継ぎ足し、走る足音の先に希望のかすかな輪郭を見つけるのだった。
解説+感想とても静かで、でも心の奥が温かくなるような、優しくて切ない物語でした。 中学二年生の「私」の孤独が、雨の音に守られるように描かれている冒頭から、もう胸がぎゅっと締めつけられました。 家でも学校でも「ふつう」でしかない自分を、誰にも邪魔されない雨の静けさに預けて安心する感覚……すごくわかるし、すごく痛い。 そこに突然現れる、震える野良犬。 「ココ」という名前をつける瞬間の、「ここにいてほしい」という願いが、もう名前そのものに全部詰まっているのが本当に美しいです。 この物語のすごいところは、変化が派手じゃないのに、確実に「私」を変えていく過程が丁寧に積み重ねられていること。 パンをちぎって手から食べさせてくれるようになったこと 膝に顔を乗せてくれる重み 尻尾を振って駆け寄ってくる姿 子どもたちと小さな輪ができる 老人の「いい名前だな」「君もいい顔になった」という一言どれも小さな出来事なのに、それが積み重なるたびに「私」の表情が緩み、声に出して笑えるようになり、日記に書く文字が少しずつ温度を帯びていく。 言葉にしない承認や、触覚を通したつながりが、こんなにも人を生き返らせるんだなと、読んでいて何度も涙腺が緩みました。 特に好きだったのは、ココとの関係が一方的な救済ではなく、お互いがお互いを必要としているという対等さが静かに浮かび上がってくるところ。 「この子も私と同じでひとりぼっちだ」と感じた初日の言葉が、ずっと内側に沈んでいて、それが「信じる」色に変わっていく視線や耳の動きに現れる描写が、すごく繊細で好きです。 一方で、家の中の冷たさ、母との「ふつう」の会話、犬を飼えないという壁がずっと変わらないのもリアルで残酷。 ココとの時間が「第三の場所」として輝くからこそ、家と学校の沈黙が余計に際立つ。 そのバランスが絶妙で、救いがあるのに完全なハッピーエンドではない、でも希望の輪郭が確かに見える終わり方が、すごく心に残りました。 最後の「また明日」という言葉で日々を継ぎ足していく姿に、「生きるって、こういう小さな約束を繰り返すことなのかもしれない」と思わせてくれる力があって、読み終わったあと、なんだか自分も少しだけ息がしやすくなった気がします。 書いてくれた人、本当にありがとう。 この物語、ココと「私」の時間が、誰かの心のどこかでそっと続いていくことを願っています。 また雨の日に、ベンチの下を覗きたくなりました。
▶第5章 見つかった秘密
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