第1章
論理と砂上の楼閣、あるいはスプリングSの憂鬱
「——というわけで、今週の『買うべきレース』は金鯱賞。スプリングステークスは視界から完全に消去しなさい」
窓際に置かれたアンティークのデスク。うず高く積まれた海外の競馬論文と血統辞典の山から、神宮寺はタブレットを片手に顔を上げた。白衣の袖口がノートパソコンのキーボードを軽く叩く。
「ええーっ! 教授、スプリングSやらへんのですか!?」
部屋の空気を震わせたのは、今年からこの研究室に配属された新入生の若葉だった。彼女の手には、赤ペンでぐちゃぐちゃに書き込みがされたスポーツ新聞が握りしめられている。
「若葉さん、落ち着いて。新聞のインクが手に移ってますよ」
傍らでコーヒーメーカーの準備をしていた佐倉が、苦笑混じりにたしなめる。
「だって佐倉助手! スプリングS言うたら、皐月賞への切符をかけた若駒たちの熱き戦いやないですか! 未完の大器がここで覚醒して——」
「覚醒、ね」 神宮寺は冷たく言い放った。 「若葉、その『未完』という言葉が、いかに馬券購入者にとって致命的な毒か理解しているかしら?」
「毒、ですか?」
「そう、猛毒よ」 神宮寺はタブレットの画面を大型モニターに転送した。 「スプリングSに出走する3歳馬のキャリアは、せいぜい3戦から6戦。データと呼ぶにはあまりにもサンプル数が貧弱すぎるの。コース適性、距離適性、さらには当日のテンション。すべてが『未知数』という名のブラックボックスに入っているわ」
佐倉がコーヒーを二人の前にコトッと置きながら補足する。
「確かに、3歳の春は馬体も急成長する時期ですからね。前走からプラス10キロ、なんて馬がゴロゴロいます」
「その通りよ、佐倉くん」 神宮寺はコーヒーの香りを嗅ぎ、満足そうに頷いた。 「成長なのか、ただの太め残りなのか。そんな不確定要素に自分のお金を賭けるなんて、分析家としては自殺行為ね。おまけに17頭の多頭数。予測のつかない波乱が起きる構造が完璧に出来上がっているわ」
若葉はまだ少し納得がいかない様子で、新聞のスプリングSの欄を名残惜しそうに撫でた。
「うーん……でも、なんかロマンがない気ぃしますわ。数字ばっかりで……」
神宮寺は眼鏡のブリッジをスッと押し上げた。レンズの奥で、彼女の瞳が鋭く光る。
「ロマンで飯が食えるなら、世界中の詩人は大富豪になっているはずよ。私たちは夢を買うのではない。データという名の『期待値』を刈り取るの。いいわね?」
「……はい、教授」
「よし。では、さっそく金鯱賞の分析に入るわよ。まずは『絶対に買ってはいけない馬』の選別からね」