第7章
今までの考察への疑念と競馬の本質的不確実性
翌朝の月曜日。海から吹き込む春の冷たい潮風が、大学の窓ガラスをガタガタと揺らしていた。昨夜のピザの凶暴な残り香と、佐倉が新しく挽いたマンデリンの深く苦い香りが混ざり合い、研究室には独特の生活臭が漂っている。ゴミ袋の口をキュッと力強く結びながら、若葉が大きく背伸びをした。
「あー、やっと片付きましたわ! そういや昨日の夜、ピザ食べながら見とったタイムリープもののアニメ、衝撃の最終回でしたよ! 主人公が過去のデータを全部暗記して完璧な計画立てたのに、当日の風の向きがちょっと違っただけで、結局ヒロイン助けられへんかったんです!」
ドリッパーにお湯を注ぐ手を止め、佐倉が怪訝な顔で振り返る。
「せっかく過去をやり直したのに失敗したの? なんだかスッキリしないアニメだね。全部のパターンを分析したなら、普通はハッピーエンドになるはずなのに」
窓際で腕を組み、冷たい海風を頬に受けていた神宮寺が、ふいに静かな、しかし鋭い声を室内に響かせた。
「スッキリしない? いいえ、佐倉くん。それこそが『世界の真理』よ。若葉、あなたのアニメの話は、私たちが昨日一晩かけて築き上げたこの競馬予測の城が、いかに脆い砂上の楼閣であるかを完璧に証明しているわ」
「えっ? 私のアニメがですか?」
神宮寺はコツコツとヒールを鳴らしてホワイトボードの前に立ち、昨日書き殴った『過去9年間の絶対データ』という文字を、黒板消しで半分だけ消し去った。チョークの粉が、朝日に照らされて雪のように舞い散る。
「私たちが絶対視したデータ。例えば『7歳以上の馬は3着内率0%』というルール。佐倉くん、統計学において『9回』というサンプル数は、法則と呼ぶに足る数字かしら?」
「……いえ、少なすぎます。最低でも30以上のサンプルがないと。9回なんて、ただの『小さな偏り』の可能性が高いです」
「その通りよ。9回失敗したからといって、次も失敗するとは限らない。過去の7歳馬たちが負けたのは『7歳だから』なのか、それとも『たった弱い馬が集まっていたから』なのか。因果関係を証明せずにフィルターとして使うのは、論理の飛躍よ」
「ええっ!? ほな、昨日私たちがやった消去法、全部ただの『こじつけ』やったっちゅうことですか!? でも、点数(レーティング)の比較は完璧でしたやん!」
「その点数にも、恐ろしい罠があるんだ。点数はあくまで『過去の記録』に過ぎない。ジューンテイクが点数を出したのは右回りの2200メートル。今回は、左回りの2000メートル。条件が全く違う」
「寿司職人が『俺は世界一美味いマグロを握れる!』と言ったからといって、最高に美味しいショートケーキを焼ける保証はどこにもないのよ。私たちは無意識のうちに自分に都合の良いデータばかりを強調した……典型的な『確証バイアス』ね」
「うわぁぁ! ほな、昨日の苦労は全部水の泡ですか!? サイコロ振って決めるんと同じやないですか!」
「サイコロとは違うわ。競馬は再現実験ではないの。馬は生き物よ。前日の睡眠、輸送ストレス、気温、そして馬に乗る人間のその瞬間の心理状態。昨日あなたがアニメで見た『少しの風向きの違い』が、競馬では無数に発生するのよ」
「太陽が昨日まで東から昇ったからといって、明日も昇るとは限らない。競馬において、同じ条件のレースは二度と存在しない。だから、過去のデータは未来を完璧には予測できない」
「それが真実よ。昨日私たちが分析したのは、結果を構成する要素のほんの一部。残りの要素は、ゲートが開くまで誰にも分からないブラックボックスよ。完璧な正解なんて存在しない」
「……完璧な予想なんて、最初から無理やったんですね。なんか、虚しいですわ……」
「虚しい? 何を言っているの、若葉。すべてが計算通りに進むなら、そんなものはただの作業よ。不確実という名の巨大な暗闇があるからこそ、私たちは論理という名の小さな松明を掲げて、その闇に足を踏み入れるのよ」
「不確実性を受け入れた上で、それでも『今この時点で最も合理的な仮説』を立てて勝負する。それが競馬予想の本質な文化なんですね」
「ほな、教授! 結局のところ、私らはこの馬券を、買うんですか!? 買わへんのですか!?」
「愚問ね。私たちが磨き上げた、愛すべき『欠陥だらけの仮説』よ。身銭を切って確かめない理由がないわ」
春の陽光が差し込む研究室に、三人の明るい笑い声が響き渡った。不確実性という至高のスパイスを味わい尽くすために、彼女たちは今日、戦場へと向かう。