第1章:「戦術士、詩集に逃げる。恋と椅子の硬さに悩む」 「……また、戦術書?」
月光が差し込む書庫の窓辺で、セリナ・ノクティアがユグ・サリオンの背後から声をかけた。 彼女の声は柔らかく、けれどどこかくすぐるような響きを持っている。
「これは戦術書じゃない。詩集だよ。戦術詩集だがね」
ユグは本から目を離さず、ページをめくる手を止めなかった。 その横顔は真剣そのものだが、耳がほんのり赤い。
「詩と戦術を混ぜるなんて、あなたくらいよ。恋の駆け引きも布陣で考えてそう」
「恋は戦より複雑だ。敵は予測できるが、君の笑顔は予測不能だ」
セリナはくすくすと笑った。 「それ、褒めてるの? 皮肉ってるの?」
「どちらでもない。ただの観察結果だ」
「ふふ、じゃあ私は“予測不能な微笑み”として、戦術書に載せておいて。 “敵軍の士気を乱す魔導姫の笑顔”って」
「……それは兵士の心を乱すだけでなく、戦術士の集中も乱す」
ユグはようやく本を閉じた。 その表紙には、古代語で『六星の残火』と刻まれている。
「ねえ、ユグ。あなた、本当に戦いたくないんでしょう?」
セリナの声が、ふと静かになった。 彼女はユグの隣に腰を下ろし、月光の中で彼の横顔を見つめる。
「戦いたくないよ。勝ちたいだけだ。できれば、誰も死なずに」
「それって、魔法みたいな理想ね」
「魔法よりも難しい。魔法は代償を払えば叶うが、理想は代償を払っても叶わないことがある」
セリナはしばらく黙っていた。 そして、そっとユグの肩に頭を預けた。
「……あなたの理想、好きよ。叶わなくても、好き」
ユグは驚いたように目を見開いたが、すぐに視線を逸らした。 「……君は、時々、爆撃より破壊力がある」
「それ、褒めてるの? 皮肉ってるの?」
「どちらでもない。ただの観察結果だ」
「またそれ! 新しい言い回し、探してよ」
「じゃあ……“君の言葉は、戦術士の心に直撃する魔導弾”」
「うん、それはちょっと嬉しい」
そのとき、書庫の扉が静かに開いた。 黒衣の影術士――リュミナ・ヴァルティアが、無言で二人を見つめていた。
「……戦術会議の時間です、ユグ様。セリナ殿も、そろそろ巫女の儀式の準備を」
彼女の声は冷たくはないが、感情の起伏を感じさせない。 月光に照らされた瞳は、どこか寂しげだった。
「ありがとう、リュミナ。すぐ行く」
ユグが立ち上がると、セリナもゆっくりと立ち上がった。 その瞬間、リュミナの視線がセリナに向けられる。
「……あなたの笑顔は、確かに予測不能ですね」
「え? それ、褒めてるの? 皮肉ってるの?」
「どちらでもありません。ただの観察結果です」
ユグが思わず吹き出した。 「流行ってるのか、その言い回し」
「ええ、あなたの影響です。戦術士の癖は、部下に伝染しますから」
セリナは笑いながら、ユグの袖を引いた。 「じゃあ、行きましょう。予測不能な笑顔と、理想主義の戦術士と、感情を隠す影術士で」
「……戦術的には最悪の組み合わせだ」
「でも、物語的には最高よ」
ユグは小さく笑った。 その笑顔は、戦場では決して見せない、静かな安らぎの色をしていた。
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