猫でも書ける短編小説
◀第19章 封印の調律とふたりの未来
▶第26章 街での邂逅と創造主の気配
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第20章 古竜の目覚めと命令
世界の底には、眠る者がいる。 風も届かず、光も差さず、時間さえ遠慮して流れる場所。 そこに、竜族の長老《ヴェルザ=グラウス》は横たわっていた。
彼の鱗は星の記憶を刻み、瞳は千の文明を見届けてきた。 その巨体は山脈のように静かで、周囲の空間は彼の呼吸に合わせて膨らんだり縮んだりしていた。
だが、その眠りは、ある日ふわりと破られた。
「……フレイムの気配が、消えたか」
ヴェルザの声は、地鳴りのように洞窟を震わせる。 炎哭の洞にいた熾天竜王フレイム──竜族の三傑のひとり。 その存在が、まるでパンの耳のように、ふいに欠け落ちた。
「これは……天地が逆さになるほどの異変だな。いや、パンが空を飛ぶほどか」
竜族の若き調査官《グリュード》が、慌てて飛来する。 まだ鱗の色も浅く、翼の膜も若々しい。 だが、フレイムの弟子として育った彼の忠誠心は、誰よりも深い。
「長老、何事でしょうか。空間が……焦げたような匂いがします」
「焦げたのではない。焼き直されたのだ。しかも、ふわふわに」
「ふわふわ……?」
「……気にするな。問題は、フレイムの魔力が完全に消えたことだ」
ヴェルザは、首を持ち上げながら、洞窟の奥にある魔力の泉を見つめた。 そこには、かつてフレイムが残した炎の残滓が、微かに揺れていた。 だが今は、それすらも消えかけている。
「グリュード。お前に命じる。炎哭の洞へ向かい、フレイムの痕跡を調査せよ」
「はっ。ですが、もし人間が関与していたら……」
「その時は、報告せよ。判断は我が下す。だが、もしフレイムが“消された”のなら──」
ヴェルザの瞳が、深紅に染まる。 その色は、かつて世界を焼き尽くした竜の怒りの色。
「我らが眠る理由は、もはやない」
グリュードは、背筋を伸ばし、翼を広げた。 その姿は、まだ未熟ながらも、使命に燃える若竜の誇りに満ちていた。
「了解しました。フレイムは我が友。必ず真実を掴んで参ります」
「……気をつけろ。この世界は、時にふわふわの皮を被った刃を持つ」
その言葉に、グリュードは一瞬だけ首を傾げたが、すぐに飛び立った。 空を裂くように、若竜の翼が風を切る。
ヴェルザは、再び静寂の中に身を沈めながら、ぽつりと呟いた。
「フレイムよ……お前が消えるなど、パンが空を飛ぶよりもありえぬことだ。だが、今の空気は……甘い」
その言葉に、洞窟の奥で眠っていた炎の精霊の残滓が、微かに揺れた。 まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
ヴェルザは、目を閉じた。 だがその眠りは、もはや穏やかなものではなかった。
世界が、ふわふわと揺れ始めている。 そしてその揺らぎは、竜族の均衡をも崩そうとしていた。
遠く、王都の魔力塔が微かに震え始める。 人間たちもまた、この異変に気づき始めていた。
だが、彼らはまだ知らない。 この世界の炎が、誰の手によって包まれたのかを。
そして、ふわふわの魔力が、どれほどの力を秘めているのかを。
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第21章 王都の異変と英雄の出陣
王都セリオスの空は、いつもより静かだった。 魔力塔の頂に立つ観測士たちは、風の流れと魔力の波形を読み取るのが日課だ。 だがこの日、彼らは眉をひそめていた。
「……炎哭の洞周辺の魔力が、完全に消失しています」 「消失? 減衰じゃなくて?」 「はい。まるで、そこだけ世界から切り取られたような……」 「……パンの耳だけ残して、真ん中がふわっと消えた感じですね」 「例えが朝食すぎる」
報告はすぐに王国魔導院へと届き、緊急会議が開かれた。 そして、ひとりの男がその報告書を静かに読み終え、立ち上がった。
大英雄《レイガ=ヴァンデル》。 かつて熾天竜王フレイムに挑み、敗北した男。 その傷は、肉体にも心にも深く刻まれていた。
「……フレイムの名が出た以上、俺が行くしかないな」
彼は、剣の手入れをしていた。 その刃には、竜の炎に焼かれた痕が残っている。 それは、敗北の証であり、誓いの印でもあった。
十年前。 若き英雄だった彼は、仲間と共に炎哭の洞へ挑んだ。 目的は、暴走する竜王フレイムの封印。 だが、結果は惨敗だった。
仲間は半数が命を落とし、レイガ自身も片腕を焼かれた。 その時の記憶は、今も夢に現れる。
「炎ではなかった。あれは、意思だった。世界を焼き尽くす意志そのもの」
レイガは、騎士団本部に向かい、調査部隊の編成を申し出た。 集まったのは、王国騎士団の精鋭たち。 魔導士、斥候、治癒士――いずれも百戦錬磨の者ばかり。
「諸君。今回の任務は、炎哭の洞周辺の魔力異常の調査だ。だが、ただの調査ではない」
レイガの声は、静かに、だが確かに響いた。
「そこには、かつて俺が敗れた竜王がいた。今、その気配が消えた。これは、偶然ではない」
騎士たちの表情が引き締まる。 誰もが、フレイムの名を知っていた。 それは、伝説であり、災厄であり、英雄譚の中でも語られる存在。
「俺は、あの時逃げた。仲間を守るために。だが、今度は逃げない。この国を守るために、俺は行く」
その言葉に、誰もが黙って頷いた。 それは、命を預けるに足る覚悟だった。
出陣の準備が整うと、レイガは魔導院から渡された魔力観測器を手に取った。 それは、空間の魔力の流れを視覚化する装置であり、同時に“異常”を記録するためのものだった。
「……炎の気配が、完全に途絶えている。まるで、誰かが包み込んだように」
レイガは、ふと空を見上げた。 そこには、雲ひとつない青空が広がっていた。 だが、その空気は、どこか甘かった。
「……パンでも焼いてるのか?」
誰かがそう呟いたが、レイガは首を振った。
「違う。これは、魔力の香りだ。何かが、炎を包み込んだ。優しく、だが確かに」
その言葉に、魔導士のひとりが首を傾げた。
「包み込む魔力……そんなものが存在するのですか?」
「俺は、かつて炎に焼かれた。だが、今の空気は、あの時とは違う。これは、癒しの気配だ」
レイガは、馬に乗りながら、部隊に指示を出した。
「全員、準備を整えろ。炎哭の洞へ向かう。だが、油断するな。これは、ただの調査ではない。これは――再戦だ」
その言葉に、騎士たちは剣を握り直した。 誰もが、これがただの任務ではないことを理解していた。
そして、王都の門が開かれた。 レイガ率いる調査部隊は、炎哭の洞へ向けて出発した。
その背中には、過去の傷と、未来への誓いが刻まれていた。
──炎は消えた。だが、英雄の意志は、まだ燃えている。
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第22章 炎哭の洞の近郊での遭遇
炎哭の洞の周辺は、いつもなら熱気と焦げた岩の匂いに満ちている。 だが今、風は妙に軽く、空気はどこか甘かった。 若竜《グリュード》は、空を旋回しながら鼻先をくすぐる香りに首を傾げた。
「……これは、パンの匂いか?」
竜族にとってパンは人間の食べ物。 それが、炎の聖域に漂っているなど、ありえない。 しかも、ただのパンではない。ふわふわで、ほんのりシナモンが香る。
「フレイム……まさか、お前、パンに転生したのか?」
冗談のつもりだった。だが、笑えなかった。 炎哭の洞の魔力は、完全に消えていた。 フレイムの気配も、炎精霊の残滓も、何もかもが“包まれて”いた。
グリュードは、地上に目を向けた。 そこに、動く影があった。
「……人間?」
王国の調査部隊だった。 騎士団の旗を掲げ、魔導士と斥候を伴って進軍している。 その中心に立つ男――《レイガ=ヴァンデル》。 かつてフレイムと戦い、命からがら生還した英雄。
グリュードの瞳が、怒りに染まった。
「貴様……フレイムを殺したのか?」
咆哮とともに、グリュードは急降下した。 地面が震え、熱風が巻き起こる。
レイガは、即座に剣を抜いた。 その動きは、迷いがなかった。
「……竜か。しかも、フレイムの眷属か」
グリュードは、地面に着地すると同時に、炎を纏った。 その姿は、若竜とは思えぬ威圧感を放っていた。
「人間よ。答えろ。フレイムはどこだ。なぜ、奴の気配が消えた」
レイガは、剣を構えながら答えた。
「我々も、それを調査している。だが、殺してなどいない」
「信じられるか。お前は、かつてフレイムに挑み、敗れた。今度は、罠を仕掛けたのか?」
グリュードの炎が、地面を焦がす。 騎士たちが後退し、魔導士が遮断陣を展開する。
「落ち着け。俺たちは敵ではない」
「ならば、なぜフレイムが消えた。なぜ、炎が……甘くなった」
レイガは、ふと空を見上げた。 そこには、ふわりと漂うパンの香り。
「……それは、俺にも分からん。だが、確かに何かが起きている」
グリュードは、牙を剥いた。
「ならば、力で答えろ。お前の剣が、真実を語るかどうか」
咆哮とともに、グリュードが突進する。 炎の槍が、空間を裂く。
レイガは、剣で受け止めながら叫んだ。
「全員、戦闘体制! 魔力障壁を展開しろ!」
騎士たちが陣形を整え、魔導士が支援魔法を発動する。 治癒士が後方に下がり、斥候が周囲の地形を確認する。
グリュードの炎が、遮断陣を突き破る。 その力は、竜王に匹敵するほどだった。
「フレイムの友か……ならば、あの力も継いでいるのか」
レイガは、剣に魔力を込めた。 その刃が、青白く輝く。
「俺は、逃げない。今度こそ、守る」
剣と炎がぶつかり、空間が震える。 その衝撃は、遠くの街にも届くほどだった。
──そして、戦いは始まった。
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第23章 英雄と竜の激突
炎哭の洞の近郊。 焦げた岩肌が広がる荒野に、熱風が巻き起こる。 その中心で、竜と人間が対峙していた。
若竜《グリュード》の瞳は怒りに燃えていた。 その炎は、ただの熱ではない。 友を失った悲しみと、真実を求める焦燥が混ざった、感情の炎だった。
「人間よ……フレイムを殺したのか」
大英雄《レイガ=ヴァンデル》は、剣を構えたまま静かに答えた。
「殺してなどいない。だが、奴の気配が消えたのは事実だ。俺たちは、それを調べに来た」
「調べる? 貴様らが焼き払った後でか?」
グリュードの咆哮が空を裂く。 炎が翼から噴き出し、地面を焦がす。
「フレイムは、我が友だ。奴が消えた理由を、貴様の血で聞き出してやる!」
その瞬間、グリュードが突進した。 炎の槍が空間を貫き、遮断陣を突き破る。
「全員、戦闘体制! 魔力障壁を展開しろ!」
レイガの号令に、騎士団が動く。 魔導士が支援魔法を展開し、治癒士が後方に下がる。 斥候が周囲の地形を確認し、罠の設置を始める。
グリュードの炎が、前衛の盾を溶かす。 その威力は、竜王に匹敵するほどだった。
「フレイムの眷属か……いや、これはもう、竜王級だ」
レイガは、剣に魔力を込めた。 その刃が、青白く輝く。
「俺は、逃げない。今度こそ、守る」
剣と炎がぶつかり、空間が震える。 衝撃波が周囲の岩を砕き、熱風が騎士たちを吹き飛ばす。
「くっ……このままでは、持たない!」
魔導士が叫ぶ。 レイガは、即座に判断を下す。
「魔力ブーストを三重に重ねろ! 巻物を使え! 惜しむな!」
伝説級の巻物が展開され、空間に魔法陣が浮かぶ。 雷、氷、風――あらゆる属性がグリュードに向けて放たれる。
だが、グリュードはそれをすべて焼き払った。 炎が、属性の壁を超えて暴れ回る。
「フレイムを……返せ!」
レイガは、最後の巻物を手に取った。 それは、かつて竜王との戦いで使えなかった“封炎の剣”の巻物。
「今度こそ、届いてくれ……!」
魔力が剣に宿り、刃が紅蓮に染まる。 レイガは、全力で跳躍し、グリュードの胸元へ一撃を放った。
その刃が、炎を裂いた。
グリュードの動きが、一瞬止まる。 炎が揺らぎ、空間が静寂に包まれる。
「今だ! 全員、撤退!」
レイガの叫びに、騎士団が動く。 速度強化の魔法が全員にかけられ、煙幕と魅惑魔法が辺り一面に展開される。
斥候が罠をばらまき、治癒士が負傷者を回収する。 騎士たちは、全力で撤退を開始した。
グリュードは、炎の中で膝をついた。 だが、その瞳はまだ燃えていた。
「逃げるか……人間。だが、痕跡は残った。フレイムの香りが……甘い」
グリュードは、ふわりと漂うパンの香りに気づいた。 それは、炎の中にあるはずのない、優しい匂いだった。
「この香り……フレイムの魔力が、包まれている……?」
若竜は、空を見上げた。 そこには、遠くに広がる街の影。
「……あの街に、何かがある」
そして、グリュードは翼を広げた。 炎を纏いながら、空へと舞い上がる。
──戦いは終わった。だが、追跡は始まった。
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第24章 撤退と煙の中の逃走
空気が焼けていた。 剣と炎がぶつかり合った余波は、地面を軋ませ、空間を歪ませる。 騎士たちの陣形は崩れかけ、魔導士の魔力は限界に近づいていた。
「魔力障壁、あと十秒で崩壊します!」 「巻物、残り三枚! うち二枚は魅惑系です!」
レイガ=ヴァンデルは、剣を地面に突き立てたまま、冷静に状況を見渡していた。 若竜《グリュード》の炎は、竜王級の威力を持ち、遮断陣を焼き切るほどだった。
「……これ以上は持たん。撤退だ」
その言葉に、騎士たちが一瞬だけ動揺した。 だが、レイガの声には迷いがなかった。
「全員、速度強化の魔法を受けろ。煙幕と魅惑魔法を展開。罠をばらまけ。全力で逃げるぞ」
魔導士が巻物を展開し、空間に魔法陣が浮かぶ。 煙幕が辺りを覆い、魅惑の光が空気を歪ませる。 斥候が罠をばらまき、治癒士が負傷者を抱えて後方へ下がる。
煙幕魔法は、ただの視界遮断ではない。 空気の粒子に幻影を織り込み、敵の感覚を撹乱する。 魅惑魔法は、音と匂いを操り、敵の注意を逸らす。 この日、空には焼きたてのパンの香りが漂った。
「……パンか。今度はバター付きか?」
レイガが呟くと、魔導士が小声で答えた。
「香りの魔力波形を調整しました。今回は“朝の幸せ”をテーマにしています」
「なるほど。敵が朝食を探しに行ってくれるといいな」
グリュードは、煙の中で膝をついていた。 レイガの一撃が、確かに届いた。 だが、その瞳はまだ燃えていた。
「逃げるか……人間。だが、痕跡は残った。フレイムの香りが……甘い」
その言葉に、レイガはふと空を見上げた。 煙の向こうに、街の影が見えた。
「……あの街まで逃げ切れ。そこまで持てば、体制を立て直せる」
騎士たちは、速度強化の魔法を受けて走り出す。 煙幕が視界を遮り、魅惑魔法が敵の感覚を狂わせる。 罠が爆ぜ、地面が揺れ、炎が一瞬だけ後退する。
グリュードは、煙の中で立ち上がった。 その姿は、炎を纏いながらも、静かだった。
「……フレイム。お前は、どこへ行った」
彼は、空気の中に漂う甘い香りに気づいた。 それは、炎の中にあるはずのない、優しい匂いだった。
「この香り……パン? いや、魔力だ。包まれている。誰かが、奴を……」
グリュードは、空を見上げた。 そこには、遠くに広がる街の影。
「……あの街に、何かがある」
彼は、翼を広げた。 炎を纏いながら、空へと舞い上がる。
一方、レイガたちは街の外れに辿り着いていた。 騎士たちは息を切らし、魔導士は魔力枯渇で膝をついていた。
「負傷者、五名。魔力枯渇者、三名。巻物の残数、ゼロ」
レイガは、剣を地面に突き立てたまま、静かに頷いた。
「……全員、生きて帰れた。それだけで十分だ」
治癒士が魔力回復の薬を配り、斥候が周囲の警戒を続ける。 だが、空には、まだ竜の影があった。
「来るか。やはり、追ってきたか」
レイガは、剣を握り直した。 だが、今は戦う気力は残っていない。
「この街に、何かがある。竜が追ってくる理由が、ここにある」
魔導士が、魔力観測器を取り出す。 その針が、微かに震えていた。
「……魔力の波形が、異常です。甘い……いや、柔らかい?」
「柔らかい魔力? それは、魔力か?」
「わかりません。ですが、空間が包まれているような感覚があります。まるで、毛布の中にいるような」
レイガは、ふと過去の記憶を思い出した。 フレイムの炎に焼かれた時、感じたのは“拒絶”だった。 だが、今感じるのは“受容”だった。
「……誰かが、フレイムを包み込んだ。炎を、ふわふわにした」
その言葉に、騎士たちが首を傾げる。
「ふわふわの炎って、どういう意味ですか?」
「俺にも分からん。だが、確かに世界が変わっている。炎が、優しくなっている」
そして、レイガは街の門を見つめた。 その先に、答えがある。 そして、竜もまた――その答えを求めていた。
──戦いは終わった。だが、物語はまだ、始まったばかりだ。
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第25章 追跡の先にある街
街の空気は、どこかおかしかった。 焦げた岩地を抜けてたどり着いた王国の辺境都市《ミルヴァ》は、戦場の余熱とは無縁の穏やかさに包まれていた。 だが、レイガ=ヴァンデルの鼻は、戦士としての勘よりも先に、朝食の記憶を呼び起こしていた。
「……この香り、バターと蜂蜜……いや、魔力だな。たぶん」
騎士団の面々も、街の門をくぐるなり、顔をしかめたり、ほころばせたりしていた。 空気が柔らかい。魔力が、まるで湯気のように漂っている。 魔導士が魔力観測器を取り出すと、針がくるくると回り、ついには止まった。
「……観測不能です。波形が、毛布みたいに丸まってます」
「毛布の魔力って、どういう意味だ?」
「包まれてるんです。外からの干渉を全部吸収して、内側だけでぬくぬくしてる感じです」
レイガは、剣を腰に収めながら、街の中心を見つめた。 そこには、魔力塔でも神殿でもない、ただの広場があった。 だが、空気の密度が違う。 まるで、誰かがそこに“魔力の巣”を編んでいるようだった。
「……この街に、何かがある。いや、誰かがいる」
一方、空の上では、若竜《グリュード》が旋回していた。 翼の膜に風が絡みつき、炎の粒子が空気に溶けていく。 だが、彼の鼻先にも、甘い香りが届いていた。
「……パンの匂い。いや、違う。これは、フレイムの魔力……包まれてる」
彼は、街の上空で静止し、眼下の広場を見下ろした。 そこに、フレイムの残滓があった。 だが、それは怒りでも熱でもなく、まるで“眠っている”ようだった。
「人間よ……この街に、フレイムの気配がある。答えろ」
その声は、雷鳴のように街に響いた。 市民たちは驚き、騎士たちは剣を構えた。 だが、レイガは一歩前に出て、剣を抜かなかった。
「俺たちは、何もしていない。だが、確かにここに何かがある」
「ならば、見せてもらおう。この街に、何があるのかを」
グリュードは、ゆっくりと降下を始める。 その姿は、怒りではなく、確かめようとする意志に満ちていた。
レイガは、剣を収めた。 今は、戦う時ではない。
「……この街に、答えがある。俺たちも、それを探す」
魔導士が再び観測器を調整し、今度は“香り”の魔力を測定し始めた。 結果は、驚くべきものだった。
「……魔力の粒子が、香りに変換されています。これは、嗅覚魔力干渉です」
「つまり、魔力が鼻に話しかけてるってことか?」
「ええ。しかも、優しく。『おはよう』って言ってるような波形です」
グリュードは、地面に降り立ち、広場の中心に歩み寄った。 そこには、何もない。 だが、空気が違う。 炎の気配が、まるで毛布にくるまれているように、静かに息づいていた。
「フレイム……お前、ここにいるのか?」
彼は、地面に爪を立て、そっと触れた。 すると、微かな震えが指先に伝わった。 それは、怒りでも悲しみでもない。 ただ、温かかった。
「……これは、誰かの魔力。包み込む力。炎を、ふわふわにする力」
レイガは、グリュードの背後に立ち、静かに言った。
「俺たちも、それを感じている。この街には、炎を優しくする何かがある」
「それが、フレイムを消したのか?」
「いや。消したんじゃない。眠らせたんだ。まるで、焼きたてのパンを布で包むように」
グリュードは、しばらく黙っていた。 そして、ふと空を見上げた。
「……この空気、悪くないな。怒りが、少しだけ溶ける」
レイガは、微笑んだ。
「それが、この街の魔力だ。ふわふわで、ちょっと甘い。だが、芯はある」
そして、ふたりは並んで広場を見つめた。 その中心には、まだ誰もいない。 だが、魔力は確かに息づいていた。
──次に出会う者が、すべてを変える。
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第26章 街での邂逅と創造主の気配
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