猫でも書ける短編小説
◀第8章:新しい朝が来ても
▶律の物語《君がいた世界》
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音声 VOICEVOX:四国めたん様 制作動画 YMM4Lite フリー素材 横顔女の子イラスト:ShinLena様 フリーBGM BGM:ベートーヴェン:ピアノソナタ 第8番ハ短調 Op.13 「悲愴」 第2楽章 背景 フリーAI画像
素材ありがとうございます。
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第9章:君のいない教室で
文化祭が終わった翌日、教室は少しだけ静かだった。 飾り付けの残骸が床に散らばり、誰かが描いたポスターが壁に斜めに貼られていた。 千紗は、朝早く登校し、誰もいない教室に入った。
律の席は、春からずっと空いたままだった。 誰も座らず、誰も触れず、ただ時間だけがその場所を通り過ぎていった。 千紗は、鞄から小さな花束を取り出した。 白いカスミソウと、淡い青のデルフィニウム。 律が好きだった色。
「おはよう、律」 千紗は、そっと花束を机の上に置いた。 誰にも見られないように、誰にも気づかれないように。 それは、彼女だけの“さよなら”だった。
春からずっと、千紗は律の不在を受け入れられずにいた。 教室のざわめきの中で、彼の声を探し続けた。 窓の外に、通学路に、図書室に、彼の影を追い続けた。 でも今は、少しだけ違っていた。
律がいないことは、もう変えられない。 それでも、彼がいたことは、確かにここに残っている。 彼の笑い声、彼の言葉、彼の癖。 それらすべてが、千紗の中で生きている。
「好きだったよ」 千紗は、もう一度だけ言葉にした。 それは、春に言えなかった言葉。 夏に願った言葉。 秋にようやく届いた言葉。
教室のドアが開く音がして、誰かが入ってきた。 千紗は、花束を見つめたまま、席に戻った。 誰も、律の席に触れない。 それが、彼の存在を守っているように感じた。
昼休み、千紗は窓際に座り、空を見上げた。 雲がゆっくりと流れていく。 季節は、また少しだけ進んでいた。
君のいない教室で、千紗は生きている。 君の記憶とともに、君の言葉とともに。 そして、君の不在を抱えながら、前を向いている。
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第10章:君のいない世界で生きる
冬の朝は、空気が澄んでいて、吐く息が白く浮かんだ。 千紗は、マフラーをきゅっと巻き直しながら、通学路を歩いていた。 あの日と同じ道。 律と並んで歩いた、あの坂道。
季節は一巡し、また冬が来た。 でも、去年とは違う。 隣に律はいない。 それでも、千紗は歩いている。
教室に入ると、窓際の席に朝日が差し込んでいた。 律の席は、もう誰も見ないふりをしている。 けれど千紗は、毎朝そこに「おはよう」と心の中で声をかけていた。
彼がいないことに、慣れたわけじゃない。 ただ、彼がいたことを忘れないようにしているだけ。 それが、千紗にできる唯一のことだった。
放課後、千紗は図書室に立ち寄った。 律が最後に読んでいた本は、今も同じ場所にあった。 ページをめくると、彼の指が触れた気がした。 でも、それはもう記憶の中の感触だった。
「律、元気にしてる?」 誰もいない窓辺で、千紗はそっと呟いた。 返事はない。 でも、風がカーテンを揺らして、まるで彼が笑っているように思えた。
千紗は、もう泣かない。 涙は、春に置いてきた。 夏に願って、秋に言葉にして、冬にようやく受け入れた。
「好きだったよ」 その言葉は、もう何度も繰り返した。 届かなくてもいい。 でも、心にはちゃんと残っている。
君のいない世界は、やっぱり少し寂しい。 でも、君がいた世界を知っているから、私は前を向ける。
千紗は、空を見上げた。 雲ひとつない冬の空。 その青さは、律の目の色に似ていた。
「ありがとう、律」 そう言って、千紗は歩き出した。 君のいない世界で、君と過ごした記憶を胸に抱いて。
そして、これからの自分の物語を、少しずつ紡いでいく。
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あらすじ
VOICEVOX:四国めたん文化祭の翌日、飾りの残骸が残る静かな教室で千紗は早朝に登校し、春から空いたままの律の席に、彼の好きだった白いカスミソウと青いデルフィニウムの小さな花束をそっと置き、誰にも見られない自分だけの別れを告げる。 けれども、彼女はなお教室のざわめきや窓の外、図書室に律の気配を探し続けてきたが、今はもう彼がいない事実は変えられないと認め、しかし彼がいた証は確かに残っていると感じている。 彼の笑い声や言葉、癖が自分の中で生き続けていると自覚し、春に言えず夏に願い秋にようやく届いた「好きだったよ」という言葉を小さく重ねる。 やがて扉の開く音で誰かが入ってくると、千紗は席に戻り、誰も触れない律の席が彼の存在を守るように思えたまま、昼休みに流れる雲を見上げて季節が少しずつ進んでいくのを受け止める。 そして、君のいない教室で彼の記憶とことばを抱えつつ、痛みを携えながらも前を向いて生きていく決意が静かに確かになる。 冬の澄んだ朝、吐く息の白さに包まれながら千紗は律と並んで歩いた坂道を一人で辿り、季節が一巡しても去年とは違い隣に彼がいない現実とともに歩き続ける。 教室では朝日が差す窓際の律の席に心の中で「おはよう」と告げ、慣れてはいないが忘れないための小さな儀式を続けることだけが自分にできる唯一の行為だと受け入れる。 放課後に立ち寄った図書室で彼が最後に読んだ本を開くと指先の記憶が微かに蘇るが、それがもう触れられない感触だと知り、誰もいない窓辺で「律、元気にしてる?」と呟けば返事はないものの、揺れるカーテンに彼の笑みを重ねて静かな温もりを感じる。 春に涙を置き、夏に願い、秋に言葉にし、冬についに喪失を受け入れた彼女は、何度も繰り返した「好きだったよ」の言葉が届かなくても心に確かに残ることで自分を支える。 君のいない世界は少し寂しいが、君がいた世界を知っているからこそ前を向けると確信し、雲ひとつない青空に律の瞳の色を見出して「ありがとう、律」と告げ、記憶を胸に君のいない世界で歩み出す。 こうして千紗は、律がいた時間の重みを糧に、喪失と愛情を抱えたまま、これからの自分の物語を少しずつ紡いでいく。
解説+感想とても静かで、でも芯の通った、痛みをちゃんと抱きしめながら前に進もうとする千紗の姿が胸に残ります。 この文章を読んで一番強く感じたのは、「喪失をなかったことにしない」という姿勢の美しさです。 律の席に花を置く行為も、毎朝心の中で「おはよう」と言う儀式も、図書室で本を開いて呟く一言も、どれも「忘れようとしない」ための、むしろ「忘れないことを選んでいる」ための小さな抵抗のように見えました。 それでいて、どこか諦めではなく、受け入れの先にたどり着いた柔らかさがある。 「君のいない世界は少し寂しいが、君がいた世界を知っているからこそ前を向けると確信し」という一文が特に刺さりました。 喪失をゼロに戻すのではなく、「君がいた」という事実を肯定したまま生きていく――その覚悟が、すごく大人で、すごく優しくて、少しだけ救いでもある気がします。 花の色(白と青)の選択も、季節が一巡する時間の流れも、カーテンの揺れに笑みを重ねる瞬間も、すべてが千紗の内面をそっと映し出していて、読んでいて情景が静かに立ち上がってくるのがすごかったです。 特に冬の坂道を一人で歩く場面と、最後に青空に律の瞳の色を見出すところは、痛みと感謝が同時に胸に広がるような感覚になりました。 全体を通して、泣けるというより「静かに胸が締め付けられる」ような読後感です。 千紗がこれからどんな色を自分の物語に足していくのか、遠くからそっと見守りたくなるような、そんな余韻が残りました。 すごく丁寧に、でも決して甘くならずに書かれた喪失と再生の物語だと思います。 読ませてくれてありがとう。 心に残る一篇でした。
律の物語《君がいた世界》
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