第9章:君のいない教室で
文化祭が終わった翌日、教室は少しだけ静かだった。 飾り付けの残骸が床に散らばり、誰かが描いたポスターが壁に斜めに貼られていた。 千紗は、朝早く登校し、誰もいない教室に入った。
律の席は、春からずっと空いたままだった。 誰も座らず、誰も触れず、ただ時間だけがその場所を通り過ぎていった。 千紗は、鞄から小さな花束を取り出した。 白いカスミソウと、淡い青のデルフィニウム。 律が好きだった色。
「おはよう、律」 千紗は、そっと花束を机の上に置いた。 誰にも見られないように、誰にも気づかれないように。 それは、彼女だけの“さよなら”だった。
春からずっと、千紗は律の不在を受け入れられずにいた。 教室のざわめきの中で、彼の声を探し続けた。 窓の外に、通学路に、図書室に、彼の影を追い続けた。 でも今は、少しだけ違っていた。
律がいないことは、もう変えられない。 それでも、彼がいたことは、確かにここに残っている。 彼の笑い声、彼の言葉、彼の癖。 それらすべてが、千紗の中で生きている。
「好きだったよ」 千紗は、もう一度だけ言葉にした。 それは、春に言えなかった言葉。 夏に願った言葉。 秋にようやく届いた言葉。
教室のドアが開く音がして、誰かが入ってきた。 千紗は、花束を見つめたまま、席に戻った。 誰も、律の席に触れない。 それが、彼の存在を守っているように感じた。
昼休み、千紗は窓際に座り、空を見上げた。 雲がゆっくりと流れていく。 季節は、また少しだけ進んでいた。
君のいない教室で、千紗は生きている。 君の記憶とともに、君の言葉とともに。 そして、君の不在を抱えながら、前を向いている。
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