第10話:再会のコトネ、昔の僕を知る瞳
港町エルネアの学院の朝は、いつもざわめきに満ちている。講義室の窓から差し込む光は鴨居を柔らかく照らし、廊下では魔導器具が「カチ、カチ」と規則正しい音を立てていた。学生たちの声が重なり、今日もまた新しい研究や議論が始まる予感を漂わせている。
アリアは廊下の隅で立ち止まり、指先をとんとんと叩いていた。昨日までの残滓汚染の調査が頭をよぎり、学院の穏やかな空気との落差に少し戸惑う。 (……ここでは、まだ世界の危機は遠い話題のようだ)
そのとき——。 「おっはよー! 今日も研究日和!」 元気すぎる声とともに、研究用の荷物を抱えた少女が廊下に飛び込んできた。コトネだった。両腕に抱えた荷物は明らかに過積載で、魔導書、試験管、謎の金属パーツがぎっしり詰まっている。
第一印象は「元気すぎる研究者」。周囲の学生たちが一斉に振り返り、彼女の勢いに押されるように道を空けた。 アリアは遠くからその様子を見て、胸の奥に微かな動揺を覚えた。幼少期、自分も「神童」と呼ばれ、学院の廊下を注目の視線の中で歩いたことがある。だが今は違う。彼は静かに、目立たぬように過ごしている。 (……あの頃の僕と、今の僕。何が変わったんだろう)
コトネは荷物を机に置こうとしたが、バランスを崩して中身が散乱した。床に転がったのは——小さな奇妙な発明品。見た目はネズミ型の金属人形で、突然「ピィー!」と鳴いて走り出した。 「ちょ、待って! それはまだ試作段階!」 学生たちが慌てて追いかけ、廊下は一瞬で小さな騒動に。ネズミ型発明品は机の下に潜り込み、クロスが偶然通りかかって「おっと! 新しいペットか?」と笑う。リンネは「危ないから止めて!」と必死に声を上げ、アイリスは「かわいい〜!」と拍手している。
アリアは思わず心の中で突っ込んだ。 (……学院の朝から、こんな騒ぎになるのか。やっぱり彼女は元気すぎる)
騒動の中心に立つコトネは、慌てながらも笑顔を絶やさない。その姿に、アリアは幼少期の自分との対比を強く意識した。正確さを追い求めていた昔と、今の自分。そして、目の前の彼女はその両方を揺さぶる存在になる予感がした。
廊下の騒ぎが収まった頃、コトネはようやく荷物を片付け、ふとアリアの姿に気づいた。目を丸くして駆け寄ると、勢いそのままに声を上げる。 「アリア! やっぱり本物だ! 昔の“神童”がここにいるなんて!」
周囲の学生たちがざわめく。アリアは思わず指先をとんとんと叩き、視線を逸らした。 「……その呼び方はやめてくれ。今はただの学生だ」 「えー? 昔のアリアは詩のように正確だったんだよ。魔法陣の線一本に無駄がなくて、私なんか“定規で引いたの?”って思ったくらい!」 「……定規は使ってない」アリアが小さく返すと、コトネは満足げに頷いた。
リンネが心配そうに近づき、アリアの袖を軽く引いた。 「アリア、大丈夫?」 「……問題ない」 だが内心では、過去を突きつけられたような居心地の悪さが広がっていた。
クロスが場を和ませようと笑いながら割り込む。 「おーい、コトネちゃん! 専門用語ばっかり飛ばすと、俺の脳がショートするぞ!」 「えっ、じゃあ“多重干渉結界の位相差”って言ったら——」 「ストップ! 俺の脳が煙を吐く!」クロスが大げさに頭を抱え、周囲が笑いに包まれる。
アイリスも興味津々で近づき、コトネの荷物を覗き込む。 「ねえねえ、その試験管、飲んだら甘いの?」 「飲んじゃダメ! それは残滓反応液!」 「……お菓子じゃないのか」アイリスが肩を落とし、リンネが「当たり前でしょ!」と突っ込む。
笑いの中に微妙な緊張が残る。コトネの言葉は挑発にも聞こえ、アリアの胸に小さな火花を灯していた。 (……彼女は昔の僕を知っている。今の僕をどう見るんだろう)
学院の研究室。机の上には魔導器具と結界装置が並び、学生たちのざわめきが遠くに響いていた。アリアとコトネは並んで立ち、実験の準備を整えていた。テーマは「小さな多重結界」と「感情の揺らぎ」。まさに理論と感情の融合を試す場だった。
「じゃあ、まずは私の方法から!」コトネが胸を張る。 彼女は機械的な理論を展開し、結界陣を正確に描いていく。線は寸分の狂いもなく、幼少期のアリアを思わせる精密さだった。 「ほら、これが“正確さの美学”!」 「……宣伝文句みたいだな」アリアが小さく突っ込む。
次にアリアが結界を構築する。指先をとんとんと叩きながら、彼は感情を少しだけ込める。線はわずかに揺らぎ、だがその揺らぎが光を柔らかく広げた。 「……これは、昔の僕にはできなかった方法だ」 コトネは目を丸くし、思わず声を上げる。 「えっ……揺らぎが安定してる!? 理論的には不安定になるはずなのに……!」
そのとき、机の下から「ニャー」と声がした。コトネのポケットから小さな猫が飛び出したのだ。 「えっ!? なんで!? さっきまで試験管しか入れてなかったのに!」 「……ポケットから猫が出る研究者って初めて見た」アリアが冷静に突っ込む。 リンネが慌てて猫を抱き上げ、クロスは「新しい召喚魔法か?」と笑い、アイリスは「かわいい〜!」と拍手していた。
小さな騒動の後、結界の実験は続いた。コトネは最初「ライバルめ!」と唇を尖らせたが、次第に表情が変わっていく。 「……面白い。アリア、あなたの方法は理論じゃ説明できない。でも確かに力になってる」 その声には、ライバル心だけでなく敬意が混ざっていた。
研究室の光の中で、過去と現在のアリアが並び立つような瞬間だった。
研究室の騒ぎが落ち着いた後、アリアとコトネは廊下の片隅に並んで座っていた。夜の学院は静かで、窓から差し込む月明かりが床に淡い模様を描いている。周囲のざわめきが消え、二人だけの空気が広がった。
「……アリア、昔の君は本当に完璧だった。線一本の狂いもなくて、私なんか“追いつけない”って思ってた」 コトネの声は少し柔らかく、挑発ではなく回想の響きを帯びていた。
アリアは指先をとんとんと叩き、視線を落とす。 「……完璧じゃなかった。母の指導は厳しくて、魔力を暴走させたこともある。あのときの恐怖は、今でも消えない」 言葉は短いが、胸の奥から絞り出すようなものだった。
コトネは黙って聞いていた。彼女の胸には複雑な感情が渦巻いていた。ライバル心、憧れ、そして今のアリアへの興味。 (……私が追いかけてきたのは、昔の“神童”だけじゃない。今の彼も、違う意味で面白い)
ふと、アリアの指先のとんとんをコトネが無意識に真似した。二人の指が同じリズムを刻み、短い共有の時間が生まれる。アリアは驚いて顔を上げ、コトネは照れ隠しのように笑った。 「……あ、つい真似しちゃった。研究者の癖がうつるのかな?」 「……癖まで研究対象にするな」アリアが小さく返すと、二人の間にわずかな笑いが生まれた。
重い話の後でも、コトネの不器用な一言が空気を少し和らげる。月明かりの下で、二人の距離はほんの少し縮まった。
研究室を後にしたアリアとコトネに、リンネやクロス、アイリスが合流した。学院の中庭は夕暮れに染まり、学生たちの笑い声が遠くから響いている。緊張していた空気は少しずつ和やかさを取り戻していた。
「いやー、今日の実験は見応えあったな!」クロスが豪快に笑う。 「猫まで出てきたしね……」リンネが苦笑しながらアリアを見やる。 「……あれは予定外だった」アリアが小さく返すと、アイリスは「かわいかったからいいじゃん!」と無邪気に笑った。
コトネは荷物を抱え直しながら、まだ研究者としての好奇心を隠しきれない眼差しをしていた。彼女の瞳には、ライバル心と同時に尊敬の色が混じっている。 (……昔のアリアは正確さの象徴。今のアリアは揺らぎを抱えながらも強さを見せる。その両方を見られるのは、やっぱり面白い)
一方、アリアは心の中で静かに整理していた。 (……昔の僕は正確だった。今の僕は……まだ途上だ。でも、それでいいのかもしれない) 指先をとんとんと叩きながら、少しだけ肩の力が抜けていくのを感じた。
そのとき、コトネが「あっ!」と声を上げた。 「忘れ物! 研究室にノート置いてきちゃった!」 慌てて走り出すコトネの背中を見て、クロスが「おっちょこちょいだなぁ」と笑い、リンネも「ほんと元気すぎる」と呟いた。アリアは小さくため息をつきながらも、口元にわずかな笑みを浮かべた。 学院の夕暮れは、過去と現在をつなぐ余韻を残しながら静かに広がっていた。新しい関係の芽生えと、次なる競争と友情の深化を予感させる時間だった。
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