第8話:屋上でリンネがケーキを奪う理由(と僕の赤面)
討伐任務から数日後の夕暮れ。港町エルネアの屋上に立つと、潮風が頬を撫で、瓦屋根の上を赤い光が滑っていく。遠くには船の灯りが瞬き、港のざわめきが小さく響いていた。 アリアは屋上の縁に腰を下ろし、指先をとんとんと叩いていた。任務の場面が頭をよぎる。魔獣の牙、仲間の声、そして自分の魔法が守れた瞬間。まだ胸の奥に余韻が残っている。
(……無事に終わった。それでも、次はどうなるか分からない。慎重に、冷静に……)
そんな思考を巡らせていると、屋上のドアが勢いよく開いた。 「アリア! 景色どう?」 リンネが元気いっぱいに飛び出してきた瞬間、強風が吹き抜け、彼女の帽子がふわりと宙に舞った。
「……飛んだぞ」 「えっ、ちょっと待って!」 リンネが慌てて追いかけるが、風に乗った帽子は屋根の上を転がっていく。アリアはため息をつきながら立ち上がり、指先をとんとんと叩いて集中すると、素早く手を伸ばした。
だが、帽子は彼の手をすり抜け、リンネの手に収まる。 「やった! 私の勝ち!」 「……勝負だったのか?」 「うん! 帽子キャッチ選手権!」 「そんな競技、聞いたことない」
二人は屋根の上で帽子を奪い合い、まるで子供のように笑い合った。潮風が強く吹き、夕暮れの空が二人の影を長く伸ばす。 アリアはふと、心が軽くなっていることに気づいた。リンネの存在が、任務の緊張を少しずつ溶かしていく。
(……やっぱり、彼女といると落ち着く)
指先のとんとんが、いつの間にか止まっていた。
夕暮れの屋上から降りた二人は、港町の通りを歩き、小さな雑貨屋に入った。木の看板には「生活の友」と書かれていて、店内には手袋や古いオルゴール、妙に派手な柄のマグカップなどが並んでいる。潮風に混じって、木材と香草の匂いが漂っていた。
「わぁ、見てアリア! このマグカップ、魚の顔が三つ並んでる!」 リンネが嬉しそうに持ち上げる。 「……なんで魚が三つも。飲み物より魚の顔が主役だろ」アリアは眉をひそめる。 「でもアリアに似合うと思うんだよね!」 「……僕の顔は魚じゃない」 「えへへ、でも真面目に飲んでる姿が想像できるんだよ。魚に囲まれて!」
アリアは心の中で(……囲まれたくない)と突っ込みながら、指先をとんとんと叩いた。リンネはそんな彼の反応を楽しんでいるようだった。
店主の老婦人が近づいてきて微笑む。 「若い二人さん、仲がいいねぇ。お揃いで何か買うのかい?」 「えっ!? い、いえ、その……」リンネが慌てて手を振る。 「……お揃いの魚カップは遠慮したい」アリアが冷静に返す。 「ふふ、照れてるねぇ」と店主は笑って奥へ戻っていった。
リンネは少し赤くなりながら、棚の手袋を手に取った。 「これ、どうかな……アリアに似合うと思う?」 「……普通の手袋だろ」 「でも、アリアが寒そうにしてるときに渡したら、きっと嬉しいかなって」 彼女の声は少し小さく、真剣さが混じっていた。アリアはその意図に気づかず、ただ「まあ、悪くない」と答えた。
(……リンネはいつも僕に合わせてくれる。気づかないうちに支えられてるのかもしれない)
雑貨屋の温かな空気の中、二人のやり取りは小さな笑いと、ほんの少しの照れを含んで続いていった。
港町の公園は夕方になると屋台が並び、甘い匂いが漂う。アリアとリンネは並んで歩き、揚げパンを買った。砂糖がたっぷりまぶされ、手に持つだけで指先が甘くなる。
「アリア、はい、“あーん”!」 リンネが揚げパンを差し出す。 「……いや、自分で食べるから」 「だーめ! これは友情の儀式!」 「……儀式の定義が雑すぎる」
アリアは渋々口を開け、一口かじった。砂糖が口に広がり、思わず顔をしかめる。 「……甘すぎる」 「えへへ、アリアの顔が“砂糖ショック”になってる!」 「そんな顔、存在しない」
そのとき、リンネが勢い余ってスプーンを落とした。風に乗って飛び、子供の帽子に突き刺さる。 「えっ!? スプーンが冒険に出た!」 「……ただの事故だろ」 「でも、帽子の勇者になったんだよ!」 「……勇者の定義も雑すぎる」
二人は笑いながら揚げパンを食べ続けた。だが、アリアの心には少し重いものがあった。 「……僕は、魔法を使うとき、まだ怖いんだ。昔の暴走が頭をよぎる」 指先をとんとんと叩きながら、言葉を絞り出す。 「でも、仲間がいると……少しだけ安心できる」
リンネは揚げパンを握りしめ、真剣な顔で頷いた。 「アリアが怖いなら、私が隣で笑ってるから。……それで少しでも軽くなればいいな」 彼女の声は明るいが、胸の奥ではざわついていた。片想いの気持ちが、励ましの言葉に混ざってしまう。
アリアはその意図に気づかず、ただ「ありがとう」と小さく呟いた。 公園の夕暮れは、甘さと温かさに包まれていた。
夜の港町。屋上に戻ると、星空が広がっていた。潮風は昼よりも冷たく、街の灯りが遠くで瞬いている。アリアは屋根の縁に座り、指先をとんとんと叩いていた。隣にはリンネが座り、静かに夜空を見上げている。
「……アリア、考え事?」 「……ああ。少しだけ」 アリアは息を吐き、夜空を見つめた。 「僕は……魔法を使うとき、まだ怖いんだ。昔の暴走が頭をよぎる。感情を込めれば強くなるかもしれない。でも、それがまた暴走につながるんじゃないかって……」
言葉は短いが、胸の奥から絞り出すようなものだった。 リンネは黙って聞いていた。彼女の横顔は真剣で、星の光に照らされている。
「でも、仲間がいると……少しだけ希望も見える。感情を魔法に込めることが、怖さじゃなくて力になるかもしれないって」
アリアは指先をとんとんと叩きながら、夜空に視線を向け続けた。 リンネは小さく頷き、言葉を選ぶように口を開いた。 「アリアが怖いなら、私が隣で支えるよ。……不器用でも、私なりに」 その声は真摯で、片想いの気持ちを隠しながらも、行動で支えたいという意志が滲んでいた。
沈黙が少し続いた。だが、重さは不思議と心地よい。 最後にリンネが小さく笑って言った。 「でも、もし暴走したら……私が水ぶっかけて止めるから!」 「……それは魔法じゃなくて消火活動だろ」 二人は思わず笑い合った。夜風がその笑い声をさらい、星空に溶けていった。
夜の港町は静かで、屋上から降りた二人はそれぞれの寝床へ戻る前に、路地で立ち止まった。潮風がまだ少し冷たく、街灯の下で影が並ぶ。
「今日は……なんだか笑いすぎたね」リンネが帽子を直しながら言う。 「……そうだな。帽子キャッチ選手権から揚げパン勇者まで、全部お前の発想だ」アリアは小さく苦笑する。 「えへへ、でもアリアが笑ってくれると、私も嬉しいんだ」 リンネの声は明るいが、胸の奥では片想いのざわめきが消えない。彼女はそれを隠すように笑顔を保った。
アリアは指先をとんとんと叩きながら、心の中で呟いた。 (……リンネの存在が、気づかぬうちに僕を支えている。彼女が隣にいるだけで、少しずつ前に進める気がする)
「じゃあ、また明日ね!」リンネが手を振る。 「……ああ。おやすみ」アリアも短く返す。
夜風が二人の間を抜け、安心感とすれ違いの余韻を残していった。リンネの片想いは続いているが、アリアはまだその気持ちに気づかない。 遠くで港の灯りが揺れ、次の物語の予兆を示すように瞬いていた。
(……アイリスの体調も、気にしておくべきかもしれない)
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