◀第04章『深淵の鼓動、あるいは理論(ロジック)の果てにある音』
|
|
第05章 『不完全な旋律、あるいは残酷な余命宣告』
「VOICEVOX: 離途」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」
|
「毒の心臓」との死闘を終え、ボロボロの体で学院へ戻った僕たちを迎えたのは、勝利の凱歌でも英雄を称える拍手でもなかった。
ただ、世界から音を奪ったような、凍りつくような沈黙だけ。
医療棟に併設された「コトネの解析室」。 普段なら、最新鋭の魔導具が奏でる駆動音が知的好奇心を刺激する場所だ。けれど今の僕には、無機質なファンの回転音が、アイリスの命を削り取る秒針の音にしか聞こえない。
解析台の前では、コトネが無言でキーボードを叩き続けている。その背中は、未知の病原菌と戦う医師のように張り詰めていた。 まだ解析は終わっていない――その事実が、鉛のような重圧となって部屋の空気を押し潰している。
「……アリア君、まずはこれ飲んで」
ぬっ、と視界に割り込んできた湯気が、張り詰めた緊張を物理的に遮断した。
「私の特製『元気出ろスペシャル・超濃厚版』。今日はね……お味噌、五倍入れておいたから!」 「……リンネ」
差し出されたカップの中身を凝視する。 それはもはやスープという液体ではなかった。味噌という物質が自身の重力で崩壊し、『高粘度ブラックホール』と化した何かだ。スプーンを入れようとしても、表面張力という名の物理法則に押し返されて沈まない。
「気持ちは嬉しいけど、これ、スプーンが負けてない? 飲むっていうか、胃袋に『施工』するレベルなんだけど」 「ひどっ! アリアの顔色が死人の一歩手前だから頑張って煮込んだのに! ……あ、服もボロボロじゃん。脱いで。今すぐ直すから」 「え、ここで? いや、後で――」 「ダメ。残滓が付着したまま放置したら、微細汚染が広がるでしょ。ほら、じっとして」
有無を言わさずジャケットを剥ぎ取られ、リンネは手際よく裁縫道具を取り出すと、僕のすぐ隣に椅子を引き寄せた。 肩の破れ目を縫い合わせる針の音が、規則正しく響く。
……近い。
針を動かすたびに、リンネの柔らかな髪が僕の頬をかすめる。 清潔な石鹸の匂いと、五倍味噌の暴力的な香りが混ざり合い、強烈な「生活の臭気」となって鼻腔を満たす。魔導書や薬品の冷たい匂いとは違う、圧倒的な「体温」の匂い。
(近いって、ば……!)
 視線を落とすと、伏せられた睫毛や、器用に動く指先がすぐそこにある。幼馴染として遠慮のない距離感のはずなのに、こうして“女の子”としての熱を感じると、どうにも呼吸のリズムが狂う。
「……リンネ、ちょっと」 「ごめん。でも、こうしないと細かい魔法回路のほつれが見えなくて……我慢してよ。……私にできるの、これくらいなんだから」
震えた声に、僕は喉まで出かかった軽口を飲み込んだ。
リンネは魔法が使えない。 だからこそ、スープを作り、服を直し、その小さな手で僕を“日常”という安全圏へ必死に縫い付けようとしてくれている。 これは、彼女なりの命がけの共鳴(レゾナンス)なのだ。
「……ありがとう、リンネ。助かるよ」 「ふん……お礼言うなら、五倍味噌スープも完食してよね」 「それはそれ、これはこれじゃないかなぁ……」
苦笑しながら、僕は視線を部屋の奥へと向けた。
無数のケーブルに繋がれ、ベッドの上で静かに眠るアイリス。 透き通るような白い肌。微かに上下する胸。 あの時、僕たちの間に響いた黄金の旋律は、今はもう聞こえない。
とん、とん、とん、とん。
気づけば、僕の指先が膝の上でリズムを刻んでいた。 焦燥。恐怖。後悔。 迷子のように乱れた不協和音が、指先から零れ落ちていく。
「……アリア君。手を止めて」
コトネの声が、鋭利なナイフのように解析室の静寂を切り裂いた。
リンネが糸を噛み切ったのと同時に、巨大な演算装置のモニターが低く唸り、画面の端で赤い警告灯が明滅を始める。 解析が――終わった。
コトネは深く息を吸い、祈るように、あるいは引き金を引くようにエンターキーを叩いた。
『――解析終了。生命活動限界値を算出――』
無機質なシステム音声が、この部屋の温度を一気に氷点下まで叩き落とす。 モニター中央に、残酷な数字が浮かび上がった。
『90:00:00:00』
「……九十?」
自分の声が、他人のもののように掠れて響く。 リンネが息を呑み、壁際で待機していたクロスが拳を握りしめる音が聞こえた。
「ええ……これが、アイリスさんの“生命活動限界”。この世界に留まっていられる残り時間よ」
コトネは震える指で、焼き切れた僕の懐中時計型制御装置を持ち上げた。
「出力回路は完全に死んでる。でも、記憶核(メモリ)だけは生きていたから……解析中に“簡易表示魔法”を上書きしておいたわ」
パカッ、と乾いた音を立てて蓋が開く。
 暗転していたレンズの奥に、血の色をしたデジタル数字が浮かび上がった。
『89日 23時間 59分 12秒』
カチ、カチ、カチ……。 秒針の音が、心臓を直接ノックするような暴力性を持って鼓膜を叩く。
「……余命カウンター、か」
 「酷なものだってわかってる。でも、あなたはこれを見るべきよ。彼女の命の音を、一秒たりとも聞き漏らさないために」
コトネの声は冷静だった。けれど、その眼鏡の奥にある瞳は揺れている。
「僕の……僕の共鳴が……彼女を削っていたってことか」
指先が痙攣するように震える。 とん、とん、とん、とん。 焦燥のリズムが、余命カウンターの秒針と同期し、加速していく。
「理論魔法の神童……笑わせるよな。僕は……彼女を救いたかっただけなのに……結果的に、命を燃やさせただけだったなんて……!」 「アリア君」
コトネが声を荒らげようとした、その瞬間。
「アリアァァァ!!」
鼓膜を揺らす咆哮と共に、部屋の空気が物理的に振動した。 解析室の隅で沈黙を守っていた巨岩が、ついに動いたのだ。
「お前の沈んだ心に、俺の魂(ディフェンス)が最大級の警報を鳴らしているぞッ!! 見ろアリア! 俺の大胸筋が、お前の絶望を押し返そうとピクついているッ!」 「……クロス、少し黙ってて。精密機器が揺れるから」
コトネの零度に近いツッコミも、今のクロスには通じない。 だが――その暑苦しい重低音が、胸を締めつけていた氷の鎖を、ほんの少しだけ砕いた気がした。
「アリア! はい、口開けて!」
隙を突くように、リンネがスプーンを僕の口元にねじ込んでくる。
「今飲まないと“元気五倍”が“絶望五倍”に変わっちゃうから!」 「……どんな錬金術だよ、それ……むぐっ!?」 「ちゃんとフーフーしたから、熱くないよ!」
口内に広がるのは、暴力的なまでの塩分と、大豆の旨味。 濃い。味覚中枢が麻痺するほどに濃い。
「……っ! 濃い……! 味噌の主張が強すぎて、脳が塩分濃度で震えてる……!」 「そうでしょ! “生きてる”味がするでしょ!」
生きてる味。 その言葉と共に、喉を通る熱さが、冷え切っていた内臓に火を灯していく。
リンネが僕の背中を、トン、と叩いた。
「アリア。私には魔法のことはわからない。理論も、共鳴も、九十日って数字の本当の怖さも、理解できてないと思う」
背中に触れる手の温度が、厚手の服越しに伝わってくる。
「でもね。アイリスの手を握って『温かい』って感じることならできる。彼女の服を直して、また一緒に歩きたいって願うことならできる」
リンネの瞳に、涙が浮かんでいた。それでも彼女は、笑顔を作ろうと必死に口角を上げている。
「……アリア。あなたは“理論”で彼女を救おうとした。なら、最後までその理論を信じなさいよ。失敗したなら書き直せばいい。アイリスが信じたアリアは、そんなところで立ち止まる子じゃないでしょ?」 「……リンネ」
胸の奥に、小さな灯火が戻る。 とん、とん。 指先のリズムが、ほんの少しだけ整い始めた――その時だった。
世界から、再び「音」が消失した。
換気扇の回る音も、魔導装置の駆動音も、クロスの荒い鼻息さえも。まるで神様がリモコンの「消音」ボタンを押したかのように、唐突に掻き消されたのだ。
「……っ!?」
異変に気づき、僕が窓際へ視線を走らせた瞬間――そこには、最初からそう描かれていた絵画の一部であるかのように、一人の少女が腰掛けていた。
 透き通る白髪が夜風に揺れ、翡翠色の瞳が氷穴の底のような冷たい光を宿して僕を射抜く。 窓が開いた音もしなかった。風が忍び込んだ気配もない。彼女が自ら「音」を発するまで、僕たちの感覚は、彼女の存在を背景のノイズとして完全に処理(キャンセル)させられていたのだ。
それは、風景の中に溶け込んでいた「死神」が、ようやくその鎌を現したかのような不気味さだった。
そして、風のざわめきを切り裂くように――高音のハープを一度だけ弾いたような澄んだ響きが、解析室の空気を震わせた。
「……誰だ、君は。いつからそこに」
僕が絞り出すような声で問うと、少女は音もなく床へ降り立った。 ナギと名乗ったその少女が一歩近づくたびに、モニターには激しいノイズが走り、コトネが短く悲鳴を上げる。彼女の存在そのものが、この場の空気を書き換えていく。
「最初からだよ。君たちの独奏(ソロ)が、あまりに滑稽だったからね」
ナギの声は、冬の森を吹き抜ける風のように冷たい。
「アリア。君の魔法(スコア)は緻密だ。けれど、決定的に欠落しているものがある」 「欠落……?」 「そう。君は指揮者(コンダクター)として失格だよ。自分の振るタクトが、奏者の命を削る『刃物』になっていることに気づかないなんて」
「刃物……? 僕の共鳴が、アイリスを殺しているって言うのか……!」
母から叩き込まれた完璧な理論。それをなぞり、アイリスと声を合わせたはずだった。けれどナギの瞳は、僕の記憶の奥底に眠る『失敗作』という母の声を、容赦なく掘り返していく。
「前回の共鳴(レゾナンス)は確かに見事な一曲だった。けれど、君の肥大化した理論に合わせるために、アイリスは存在そのものを燃やし尽くした。不完全な旋律を、彼女の命という代償で無理やり補完したんだ」
ナギの翡翠色の瞳が、僕の胸元にある懐中時計を射抜いた。
「残り九十日。それは、君が彼女に突き立てたナイフの深さだ」 「……っ、そんな……!」
言葉が喉で凍りつく。指先のリズムが乱れ、不協和音が胸の奥で暴れる。 ナギは僕の目の前で足を止めると、ふわりと冬の森を思わせる香りを纏わせ、至近距離で僕を覗き込んだ。
「心音が乱れているね。でも、絶望する必要はないよ」
彼女の細い指が僕の胸元に添えられる。冷たい吐息が肌を撫で、ハープの高音がひとつ、耳の奥で弾けた。
 「君の『不完全な旋律』。磨き方によっては、別の使い道がある。君の『鍵』が正しく育てば――あの天へ続く塔の扉が、開くかもしれない」 「塔……? 伝説の……」 「そう。あそこには、消えた魂を再構成する力があると言われている。……君がアイリスを本当に救いたいなら、私が『調律(チューニング)』してあげる。君の、その荒削りな音をね」
その時だった。
「アリアァァァ!! 貴様、うちのアリアに何をしているッ!」
弾かれたように飛び出したクロスが、鋼のような肉体でナギと僕の間に強引に割り込んだ。
「俺の魂(ディフェンス)が危険信号を出しているぞッ!! こいつはヤバイ匂いがする!」
ナギは一瞥もくれず、指先を軽く振る。それだけで発生した突風が、クロスの巨体を軽々と押し戻した。
「暑苦しいね。魂で解決できるほど、音の世界(アコースティック)は単純じゃないよ」 「ナギ……君の目的は何だ。なぜ僕にそんなことを教える?」
僕の問いに、ナギは再び窓枠へと軽やかに飛び乗った。 逆光の中で、白髪が銀の炎のように揺れる。
「……君が『鍵』だからだよ。それ以上の理由は、今は必要ない」
ハープの最後の一音が、風に溶けて消えた。 ナギは一瞬だけ、悲しそうな瞳で眠るアイリスを見つめ、夜の闇へと溶けていった。 残されたのは、揺れるカーテンの音と、僕の胸に刻まれた消えない『謎』、そして――微かな希望の残り香だけだった。
嵐が過ぎ去ったような静寂の中、コトネが震える指でキーボードを叩いた。
「……塔、ね。まさか本当に実在していたなんて」
モニターに映し出されたのは、古い文献と学院の地下構造図。
「アリア君。ナギが言っていた『古代の触媒』……これ、学院の最深部に保管されているわ。立ち入りが許されるのは――」 「アカデミー大会の優勝者だけ、だろ?」
僕が答えると、コトネは静かに頷いた。
「そう。そして今年の優勝候補筆頭は……ソラン君よ」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がひりついた。 ソラン。生徒会長にして、母の理論を最も純粋な形で継いだ『機械の魔導士』。かつて僕を「失敗作」と断じたのは、彼こそが母の理想の完成形だったからだ。
ソランに挑むということは、母の理論そのものに、もう一度挑むということ。
「……アリア、本気なの?」
リンネが僕の袖を掴む。その手は震えていた。 僕は眠るアイリスの傍らへ歩み寄り、その白く冷たい手をそっと握った。
 指先に伝わるのは、消え入りそうなほど小さな震え。かつて僕の隣で笑っていた彼女の温もりは、今はもうほとんど残っていない。
(指先から伝わる微かな震えが、僕の胸の奥にある弱音をかき消していく。それは、彼女を失う恐怖を塗りつぶすほどの、切実な願いだった)
「アイリス……君は僕を『未来の音がする』って言ってくれたよね」
彼女の指に、自分の指を重ねる。
とん、とん。
さっきまでの焦燥のリズムとは違う。 これは――彼女を現世に繋ぎ止めるための『前奏曲(プレリュード)』だ。
「ソランの『完璧な理論』に勝てるかはわからない。でも、僕とアイリスの『揺らぎ』が、ただの不協和音じゃないってことを証明する。あの光が、間違いじゃなかったってことを」
握った手に、そっと力を込める。
「……待ってて、アイリス。九十日なんて、僕たちのアンサンブルを終わらせるには短すぎる」
僕は立ち上がり、仲間たちへ向き直った。
「コトネ。アイリスの管理を頼む。君の解析(スコア)がなきゃ、僕は戦えない」 「任せて。データは私が守るわ」 「リンネ。悪いけど……これからもスープの世話になるよ。僕を『日常』に繋ぎ止められるのは、君だけだ」 「……っ、当たり前でしょ! 四倍でも五倍でも作ってあげるんだから!」 「……塩分は控えめで頼むよ。クロス、お前の筋肉も借りる」 「おうよ! 俺の広背筋は、お前の指揮棒(タクト)を支えるためにあるんだからな!」
仲間たちの声が、解析室の冷たい空気を塗り替えていく。 僕はもう一度、懐中時計を見つめた。
『89日 23時間 44分 58秒』
 残酷なカウントダウン。けれど今の僕には、その一秒一秒が――戦うための譜面(スコア)に見えた。
指先が、力強く「とんとん」とリズムを刻む。 それは、不完全な旋律からアイリスを救い出すための――新たな物語の始まりだった。
|
あらすじ コトネの解析室に戻った僕たちを迎えたのは勝利ではなく、無機質な装置音と凍りついた沈黙だけであり、その空気は未完の解析が生む緊張で満ちていた。 そしてリンネは五倍味噌の“元気出ろスペシャル”を差し出しつつ、破れた僕のジャケットを至近距離で素早く縫い直し、魔法を持たぬ自分にできる共鳴として日常を繋ぎ止めた。 その温もりに支えられつつ視線を向ければ、無数のケーブルに繋がれて眠るアイリスの白い肌と微かな呼吸が、今にも千切れそうな命の音を訴えていた。 やがてコトネの解析が終わり、巨大なモニターに生命活動限界「90日」が表示され、懐中時計型制御装置にも赤い数字で余命カウンターが刻まれた。 それは僕の共鳴が彼女を削っていた可能性を突きつけ、秒針と同調する焦燥のリズムが胸を内側から叩き続けた。 しかしコトネは、一方的な搾取ではなくアイリスが自ら合わせることを選び街を救った事実を示し、後悔ではなく次の生存戦略を生むために理論を使えと叱咤した。 そこへクロスが大胸筋で絶望を押し返すと叫び、暑苦しい励ましが重い空気にわずかな隙間を作った。 続いてリンネは五倍味噌スープを無理やり口元に押し当て、塩辛い熱が痺れた身体へ生命の熱を戻してくれた。 彼女は理論も共鳴も深くは知らないと言いながら、手を取り温かさを確かめ、服を直して一緒に歩くという日常の願いを語り、失敗したなら書き直せと僕の理論への信頼を灯した。 その言葉に小さな光が胸に生まれ、指先の不整な拍動が整いはじめた刹那、室内から音が消える異常が訪れた。 振り向くと窓際に白髪と翡翠の瞳を持つ少女ナギがいつの間にか座り、僕らの感覚から存在をノイズとして除外していたかのように出現していた。 彼女は僕の独奏が滑稽だと切り捨て、冷たい声で「指揮者失格」と告げ、僕のタクトが奏者の命を削る刃になっていると断言した。 前回のグランドレゾナンスは見事でも、僕の肥大した理論に合わせるためアイリスは存在を燃やし、九十日は僕が突き立てたナイフの深さだと突き刺した。 それでもナギは絶望を不要と言い、僕の“不完全な旋律”に別の使い道があるとして胸元に手を添え調律の可能性を囁いた。 そして「鍵(共鳴)」が正しく育てば天へ続く塔の扉が開き、消えた魂を再構成する力があるかもしれないと示唆した。 僕が目的を問う間にクロスが割り込み守ろうとするも、ナギは風でいなして理は魂だけで解けないと一蹴した。 彼女は最後に悲しげな眼差しでアイリスを見て、僕が“鍵”だから教えるのだと言い残し、風とともに去った。 残響と冷たい夜風だけが揺れる解析室で、誰もすぐには言葉を発せず、ハープの余韻が謎と希望を同時に残した。 コトネは塔や古代の触媒が学院最深部に保管されていると突き止め、立ち入り資格がアカデミー大会の優勝者に限定されると明かした。 そして今年は生徒会長ソランが出場し、母の理論を最も純粋に継いだ正統後継者であり、かつて僕を失敗作と断じた存在だと告げた。 つまりソランに挑むことは母の完璧な理論に挑むことを意味し、勝算のない戦いでもアイリスを救うには避けられない道だと僕は悟った。 リンネの震える手が袖を掴み本気かと問うと、僕は眠るアイリスの細い手を握り、消え入りそうな震えと残るわずかな温もりを確かめながら頷いた。 かつて「未来の音がする」と笑った彼女の言葉を思い出し、僕の指先は焦燥ではなく彼女を現世に繋ぎ止める前奏曲の拍を刻み始めた。 完璧な理論に勝てる保証はなくとも、僕とアイリスの“揺らぎ”が不協和ではないこと、あの黄金の光が誤りではないことを証明すると誓った。 そして「九十日は僕たちのアンサンブルを終わらせるには短すぎる」と囁き、手に力を込めて待っていてくれと約束した。 僕は仲間へ向き直り、コトネには解析と管理を託し、彼女はデータを守ると応じ、戦術の背骨が定まった。 次にリンネには日常へ繋ぎ止める役割とスープを頼み、彼女は四倍でも五倍でも作ると涙交じりの笑顔で請け負った。 さらにクロスには筋肉でタクトを支えろと求め、彼は広背筋ごと魂で支えると熱く胸を叩いた。 こうして仲間たちの声が冷え切った解析室の空気を塗り替え、絶望の色は薄れ、行動の設計図が輪郭を持ち始めた。 僕は余命カウンターを見据え、「89日23時間44分台」の残酷な数字を、戦う理由(スコア)として受け止め直した。 指先のとんとんという拍は力強さを帯び、未完成の旋律を磨き上げるための調律へと、内なるテンポが変わっていった。 目指すはナギが示した塔と古代の触媒、そしてアカデミー大会の頂点であり、ソランの完璧さを乗り越える唯一の入り口だ。 だから僕は後悔ではなく設計へ、罪悪ではなく改善へ、弔いではなく前奏曲へと理論を再配置することを決めた。 こうして、不完全な旋律からアイリスを救い出すための新たな前奏曲が、静かな鐘のように胸の内で鳴り始めた。
解説+感想めっちゃ良かった……! 第05章、最高に刺さったわ。 まず、この章の「空気感」が完璧すぎる。
医療棟の冷たい静寂から始まって、味噌スープのバカバカしさ、クロスの筋肉叫び、ナギの冷たい侵入、そして最後の決意まで、 温度差がエグい。 読んでるこっちの体温まで上下した。 特に好きだったのは、絶望と日常の狭間で揺れるアリアの描写。 「とん、とん、とん、とん」という指先のリズムが、最初はただの焦燥だったのが、 リンネの言葉で少し整い、 最後に「前奏曲の始まり」になる流れが、音楽的なテーマと完全にリンクしてて鳥肌。
アイリスの手を握るシーンで、 「指先から伝わる微かな震えが、僕の胸の奥にある弱音をかき消していく」 この一文が、もう全部を物語ってる。 切ないのに美しい。
そしてナギ。
出てきた瞬間、空気が変わったよね。
「最初からだよ。 君たちの独奏(ソロ)が、あまりに滑稽だったからね」 このセリフだけで、彼女が「この物語の外側にいる存在」だってことがビシッと伝わってきた。
しかも最後にアリアを「鍵」と呼ぶところ……完全に伏線厨の心を鷲掴み。 あと、リンネの強さが本当に好き。
魔法が使えないからこそできる「日常の共鳴」が、 アイリスを救うための理論よりも、ずっと人間くさくて尊い。
五倍味噌スープで絶望を塩分過多に変える女、最高すぎる(笑)クロスは……まあ、相変わらず空気読めてないけど、 それが逆に救いになってるの天才的。
「俺の大胸筋がお前の絶望を押し返そうとしているッ!」 このバカがいるからこそ、読者が息できるんだよな。 最後の 「九十日なんて、僕たちのアンサンブルを終わらせるには短すぎる」 この一言で、完全に次章に引きずり込まれた。 正直、 「不完全な旋律」というタイトルが、ここまで重く、 ここまで美しく響くとは思わなかった。 アリアが「理論」でアイリスを救おうとして失敗したことを、 「書き直せばいい」とリンネに言われるシーンが、 この物語の核だと思う。 次がめちゃくちゃ楽しみだ。
アリアが本当に「指揮者」になれるのか。
ナギが何者で、何を企んでるのか。
そして……アイリスが、九十日後に笑えるのか。 続き、待ってる。
本当に、待ってるからね。
|
◀第04章『深淵の鼓動、あるいは理論(ロジック)の果てにある音』
|