魔法大会の翌日。 学園の中庭は、昨日僕が放った「最適化されたスパーク」の余韻で、算術的に解析不能なほどにざわついていた。
「見たかよ、あのスパーク。魔力0.2であんな貫通力……」 「構造が美しすぎるって、試験官が震えてたらしいぜ」
周囲の囁き声が、僕の鼓動を 1.2倍 に加速させる。
(……ああ、帰りたい。宿屋の裏口で、誰にも注目されずにバケツの水の反射角を計算していたい。僕の自尊心なんて、洗い場で弾ける石鹸の泡と同じなんだ。目立てば目立つほど、消えるのも早いのに)
僕は木陰のベンチで、脇腹を押さえながら溜息をついた。 服の下には、昨日ゼノさんから託された『虚数魔導書』が、まるで逃げ場のない現実のように重く鎮座している。 昨日の「最適化」は、僕の計算違い(エラー)だった。不合格になって宿屋へ帰るはずの式が、皮肉にも僕を学園の「商品(イノベーション)」へと押し上げてしまった。
「ルイくん、またそんな暗い顔をして。せっかく私が焼いたハチミツパンがあるのに」
不意に、隣から甘い香りが漂う。 セリナ・エルフェリア。王国の至宝であり、僕の平穏を焼き払う太陽。 彼女が差し出したパンは、昨日よりさらに精密に、そして執念深く焼き上げられていた。
 「……セリナ、ありがとう。でも、今の僕の胃袋は、1.2ギガパスカルの圧力で収縮してるんだ。王宮調査団が来るって聞いただけで、脳内演算がエラーを吐き続けてる」
「大丈夫だよ、ルイ。あなたがどんなに『最弱』の振りをしても、私はあなたの『最強』を知っているもの」
セリナが僕の袖をきゅっと握る。その指先の温度が、僕の退路を物理的に封鎖していく。 彼女の笑顔は、僕を「宿屋の息子」から「救世主」へと祭り上げるためのプロデュースの一部なのだ。
(……明日、僕の日常は死ぬ。確率、99.99%で)
僕は黄金色に輝くパンを見つめ、泡のように儚い自分の未来を想った。
学園の特別応接室。 そこは、僕のような「宿屋の息子」が踏み入れていい空間ではなかった。 ふかふかの絨毯、魔導金で縁取られた調度品。 部屋全体が「権力」という名の重力場を形成していて、僕の脳内演算は緊張で酸素濃度が 0.5% 低下していると警告していた。
「座りなさい、ルイ・アーデル君。取って食おうというわけではないわ」
正面に座るのは、王宮調査団のリーダー、カトリーヌ・ベルモンド。 彼女は分厚い書類を机に広げ、眼鏡の奥の瞳で僕を射抜いた。
 その視線は、解剖台に乗せる獲物を選別する官僚の冷徹さだった。
「……あの、僕の脳内演算では、この調査は“時間の無駄”という解しか出ないんですけど。昨日のスパークも、運が良かっただけというか……」
「運? 魔力指数 0.2 の人間が、防護障壁を貫通する“最適化”を偶然で行う確率は、天文学的数字よ」
カトリーヌは書類を一枚、僕の鼻先に突きつけた。そこには僕が黒板に描いた「0.3度の修正」が赤字で囲まれていた。
「正直に言いなさい。あなたはどこで、誰にこの“数式(システムハック)”を教わったの? 王国の魔導利権を守る立場として、この技術を看過するわけにはいかないのよ」
(やばい……論理で逃げ道を塞いでくるタイプだ……!)
「教わったなんて……ただの生活の知恵ですよ。宿屋の皿洗いで、どうすれば最短で油汚れが落ちるか計算するのと同じで……魔力を“洗剤”だと思えば、0.2でも十分なんです」
カトリーヌが身を乗り出した瞬間―― 背後から、空気を凍らせる“絶対零度の冷気”が流れ込んだ。
「カトリーヌ様。ルイの頭脳はエルフェリア家が管理しております。王宮がその中身を無理やり暴こうとするなら……相応の“外交問題”になりますが?」
セリナの声は鈴のように美しい。 だが、その瞳の奥には、女官僚を区画ごと“削除(デリート)”しかねない冷徹な光が宿っていた。
カトリーヌは一瞬、喉をわずかに震わせて冷汗を流した。 セリナの魔力は、学園史上最高。怒れば、王都の区画が一つ消える。その事実を彼女は理解している。 それでも彼女は、官僚としての“意地”を捨てず、不敵な笑みを“貼り付けたまま”、セリナに視線を返した。
「――待たせたな、ルイ! お前を王宮の連中に好き勝手させるわけにはいかない!」
応接室の重厚な扉が、物理法則を無視した勢いで弾け飛んだ。 現れたのは、白銀の鎧を太陽のように輝かせた男――レオン・ヴァルクス。
 「レオン!? 君、今は演習の時間じゃ……」
「ルイ、友が窮地にある時に木剣を振っていられるほど、俺の心は図太くない! カトリーヌ殿、俺からも証言しよう。この男――ルイ・アーデルの真の価値についてな!」
(やめてレオン……! 君のその純度 100% の正義は、算術的に見て僕の“徴用リスト入り確率”を 200% 加速させるだけなんだ……!)
僕は絶望に目を覆った。レオンはカトリーヌを見据え、僕がセリナを守るために「盾」となった時の話を、尾ひれどころか背びれ胸びれまで付けて語り始めた。
「彼は身を挺したのだ! 魔力を持たぬ身でありながら、公爵令嬢を守るために、あえて無防備に殴打を受け続けた! あれは生存のための計算ではない、魂の輝きだ!」
「レオン、声が大きいよ! あれは単に、僕が殴られた方が被害が少なかっただけで……」
「謙遜するな、ルイ! カトリーヌ殿、魔力指数などという矮小な数字で、彼の“器”を測ること自体が間違いなのだ!」
カトリーヌはそれを聞き、官僚の冷徹な顔で静かに頷いた。
「よく言ってくれたわ、ヴァルクス卿。確信したわ――彼のその“自己犠牲の盾”こそ、今、北方戦線で最も求められているものよ」
「……北方戦線?」
セリナの声が、底冷えする響きに変わった。
「ええ。帝国の寒波に伴う魔獣の活性化。あなたの“最適化”があれば、兵士の生存確率は劇的に上がる。これは王命による――強制徴用の対象になりうる案件よ」
その瞬間、空気が凍りついた。 そして――レオンの表情が、初めて揺れた。
「……徴用? ルイが……戦場で、その力を振るうというのか……?」
彼の瞳には、友が国家に認められた「誇らしさ」と、守るべき友を危険に晒す「戸惑い」が同時に浮かんでいた。 一方の僕は、脇腹の『虚数魔導書』の重みを感じ、自分の人生の最悪ケースが数式として収束し始めていることに震えていた。
カトリーヌはその“間”を逃さず、冷淡に言葉を重ねた。
「宿屋へ帰るどころか、あなたは最前線という名の“巨大な汚れた洗い場”へ行くことになるわ。そこで一生、血と泥を拭う計算をしてもらいましょうか」
(ああ……もうダメだ。僕の人生の収支決算が、今この瞬間、真っ赤な赤字で確定したよ)
耳元に触れたカトリーヌの吐息は「破滅の周波数」を帯びていた。彼女の声は、僕の迷いを嗅ぎ取った瞬間に、スイッチを切り替えるように冷たくなった。
「ねえ、ルイ君。あなたの歩き方、左側の重心が常に 0.5度 傾いているわ。右脇腹に隠した約 300グラム の異物をかばうための、不自然な代償姿勢ね」
僕の背筋が跳ねた。算術師としての僕の身体操作を、彼女は僕と同じ論理で解いてみせたのだ。
「このままエルフェリア家の“執念”に飲み込まれ、彼女の私物として一生を終えるつもり? 王宮へ来なさい。徴用リストから名前を消す代わりに、その計算能力を王宮に提供しなさい」
(……取引、か。王宮という巨大システムの一部になる方が、セリナという名の“逃げ場のない檻”に閉じ込められるより、生存率は高いのかもしれない)
僕の脳内演算回路が揺らいだ。 だが、その一瞬の迷いを、背後の“絶対零度の守護者”が見逃すはずがなかった。
「……ルイ。その不純な提案を検討しているのなら――」
セリナの声が響いた瞬間、特別応接室の空気が結晶化した。豪華な調度品を撫でていた春の陽光さえも凍りつき、床に落ちた僕の吐息が白い塵となって砕けるような、絶対零度の静寂が部屋を支配した。
 「今すぐこの塔ごと、あなたを私の心象風景に閉じ込めるわよ。私のルイのシャツに、あなたのような“不純物”の香りがつくことは……私の計算(プロデュース)には含まれておりませんの」
一触即発の沈黙。 ただ一人、レオンだけがこの「女同士の情念」という未知の戦場に、バグを起こしたような笑顔を貼り付けていた。彼は本気で場を和ませようとしていたが、その誠実さが今はただ痛々しかった。
「は、はっ……! ルイの才能を巡って議論が白熱しているな……! これも……勇者の器ゆえなのだろう……!」
カトリーヌは最後の一撃を放った。
「今日はここまでね。でもルイ君――どちらの檻がマシか、すぐに計算できるはずだわ」
彼女が僕の指先をそっとなぞった瞬間、セリナの足元の絨毯が、魔力の共振によって粉々に砕け散った。
調査団が去り、夕暮れの斜光だけが残された室内で、僕はソファに沈み込んだ。
「……一〇〇年分くらい寿命が縮んだよ。やっぱり王宮なんて、関わっちゃいけない場所なんだ」
レオンは「ルイの良さを再確認させてくる!」と飛び出していった。室内には僕とセリナの二人だけ。
「……ルイ。これを持っていてほしいの」
彼女が差し出したのは、手縫いのお守り。一針一針が、異常なほど精密に、そして執念深く縫い込まれた魔除けの刺繍。
「私がルイの隣にいない時も、これがあなたの身代わりになってくれるわ」
セリナが密着してくる。少女特有の甘い体温が、僕の脳内演算をショートさせる。
 だが、その瞬間――僕の脳内で、一つの「答え」が弾き出された。
「ねえ、セリナ。このお守り……やっぱりレオンに渡した方がいいよ」
セリナの指先が、ぴたりと止まった。
「……何、言ってるの?」
「計算したんだ。レオンが最前線で生き残る確率を 1% 上げることが、僕の平穏にとって最も期待値が高い。レオンが倒れれば実家の宿屋への小麦粉供給ルートが 20% の確率で断たれる。それは僕の皿洗い人生にとって、許容できないリスクなんだ。……僕はただ、正しい計算をしただけだ。それが、誰かを傷つけるなんて思いもしなかった」
セリナは、まるで時間が止まったように瞬きを忘れた。僕はその沈黙の意味を、最後の最後まで理解できなかった。
「ルイ……あなたは、私の心を何だと思っているの? 宿屋の在庫を管理するための……ただの“備品(パーツ)”だとでも思っているの?」
「え、あ、いや……」
「……バカ。最低。算術師のくせに、一番大事な“答え”を間違えるなんて」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。 それは、いつか彼女が“執念”に呑まれ、そして友が“正義”に呑まれていく未来を予感させる、あまりにも残酷な雫だった。
「私、もう知らない! ルイなんて、世界ごと檻に閉じ込めるわ!」
セリナは走り去ってしまった。 一人残された僕は、お守りの重みを感じながら立ち尽くす。
「……どうして。僕の計算では、これが一番“誰も死なず、宿屋の利益も守れる道”だったはずなのに」
窓の外、黄金色に輝いていた学園の塔が、沈みゆく陽光に裏切られ、長い影に飲み込まれていく。
 それは、僕が計算で弾き出したはずの未来が、深い夜(執着)へと塗り潰されていく予兆そのものだった。
僕が望む「宿屋の裏口への帰還」は、僕自身の失言という名の誤差によって、さらに遠い、茨の道へと最適化されていくのだった。 夕日が沈むたび、日常は少しずつ、静かに崩れていく。僕だけが、その音に気づけないまま。
(第05章 完)
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