「……ん、……んんっ……。あたしの身体、誰かが夜中に勝手に“漬物石セット(特大)”と交換していった……?」
重たい瞼をこじ開けると、今日も変わらず世界を沈め続ける灰色の雨のカーテンが視界を遮った。背中には岩棚のゴツゴツした感触。冷たさが皮膚に刺さる。
 (右足さーん? 本日も元気に“開店”できますかー?)
脳内でノックしてみるが、返事はゼロ。ACアダプターで縛り上げられた右足は、機能的には完全に閉店ガラガラだ。
(じゃあ左腕さーん? ……起きてくださーい)
あの崖で、ハルくんを繋ぎ止めるためにガムテープとゴムパッキンで固定された左腕は、鬱血と神経圧迫のダブルコンボで完全に“マシュマロぬいぐるみ”状態。指一本、ピクリとも動かない。
「……起きたか、なぎさ。寝言で“パフェ三つ”とか言うな。うるさい」
すぐ横で、りんちゃんが岩に背を預けて座っていた。防滴ジャケットの袖は昨日の救助で引き裂かれ、細い腕が寒さで小刻みに震えている。
「りんちゃん、おはよう……。袖がないよぉ。あたしの“モフモフ要塞”の材料にしすぎちゃった?」
「……お前を繋ぎ止めるためのコストだ。安いものだ」
そっけなく言いながら、りんちゃんは西の“黒い壁”による磁気異常で狂い続ける方位計を睨んでいた。
「……あたしたちは、詰んでいる」
彼女が顎で示した先は、広大な“泥の海”。茶褐色の泥濘が世界を覆い、街の破片がポカリと浮かんでは沈んでいく。
「……僕の計算によれば、徒歩での移動成功率はゼロです。負傷者二名を抱えた状態では、一メートル進む間に全員が泥の肥やしになる確率が九九・九%に達します」
岩棚の隅で、泥まみれのハルくんが白紙ノートを膝に置き、淡々と言った。
「りんちゃん、あたし今なら高級な“座り心地のいい置物”として高値で売れる自信があるよ。でもね、自力では一ミリも動けないの」
「……置物の価値は知らんが、その重さは今、わたしの筋肉が一番よく理解している」
りんちゃんが、あたしの濡れた髪を無造作にかき上げた。その指先が耳に触れ、胸の奥がドクンと跳ねる。彼女の視線は、泥の海の向こう――霧に霞む巨大な塔「図書館」へ向けられていた。
「……ハル、そのノートに記録しておけ。わたしたちは今から、計算を力ずくで書き換える」
「……さて。置物としての自覚があるなら、大人しくわたしの指示に従え」
りんちゃんは、岩棚に散乱した瓦礫を足で小突いた。ビルの外壁だったアルミ板、錆びたパイプ、昨日の激闘で散らばった“世界の残りカス”だ。
「……りんさん、無駄なエネルギー消費は推奨しません」
ハルくんが白紙ノートを膝に置き、指先でトントンと叩く。そのノートは、昨日あたしが「未来を書くんだよぉ!」と手渡したものだ。
「僕たちの合計体重は約百四十キログラム。この泥の粘性抵抗を考えれば、単なる板に乗せて引く場合、泥の底に“アンカー”として沈む未来しか見えません」
「ハルくん! りんちゃんが“トナカイりんちゃん”になったら、あたしはソリの上でサンタさんになれる……!」
「なぎさ、サンタはプレゼントを配るものだ。お前はただの“重たい荷物”だろうが」
りんちゃんのツッコミを浴びながら、彼女は泥の中からホーロー製の大きな看板『24時間営業・駅前パーキング』を引き抜いた。
 「ハル。この看板の曲面を見ろ。縁の反り返りを利用すれば、接地面に空気の層を巻き込める。摩擦係数を“物理的に”下げられる」
次いで、台車の残骸からキャスターをもぎ取る。「これを“キール(竜骨)”にして泥の表面を切り裂いて進む」
「……なるほど。流体力学的アプローチですか」
ハルくんの目が鋭くなる。白紙ノートに計算が走る。「泥の粘性を三〇%カット。……修正します。成功確率は三・五%まで上昇しました」
「三・五パーセント!? ほぼあたしのパフェの“当たり付き”と同じくらいの高確率だよぉ!!」
「……お前のパフェの確率は知らないが、三・五あれば十分だ。足りない分は、わたしの筋力で補填する」
りんちゃんが、袖のないジャケットの襟を正して不敵に笑った。
「……ハル、その座標で固定しろ。なぎさ、お前は右手でガムテープを供給。……いいな?」
岩棚の上が“秘密の工房”に変わる。りんちゃんはキャスターの泥をこそぎ落とし、看板の四隅に配置していく。
「了解だよぉ! あたしの“粘着力担当大臣”としての手腕、見せてあげるんだから!」
あたしは動かない左腕を膝に乗せ、右手一本でガムテープの端を探る。指先が冷え、なかなか剥がれない。
「よし、それなら禁断の“なぎさ式・噛み切り術”、発動!」
前歯でテープを噛み切る。あの吹雪の夜、オフィスで作った“モフモフ要塞”以来の秘技だ。
「……手を使え。……っ、指に貼るな。看板に貼れ」
りんちゃんの指先があたしの唇にかすかに触れ、雨の冷たさとは違う熱が走った。
作業中、あたしが少し姿勢を変えた瞬間だった。感覚のない左腕が遠心力で「だらん」と外側へ投げ出され、岩の角に当たりそうになる。
「ひゃっ……!」
あたしは慌てて右手を伸ばし、自分の肉体なのに他人の忘れ物みたいに重たい左腕を掴んで、膝の上に力任せに押さえつけた。
「……なぎさ、動くな。右足の止血帯も緩んでるぞ」
りんちゃんが作業を中断し、あたしの膝を自分の身体で支え、ACアダプターのコードを引き絞った。
 「ひぅっ……!」
りんちゃんの濡れた黒髪から滴る雨粒が、あたしの足首に落ちる。彼女の吐息が膝裏に触れ、そこだけが火傷しそうに熱い。
「……いた、かった……?」
「ううん。りんちゃんが触ってくれると、そこだけ“人生のセーブポイント”に戻ったみたいに安心するよ」
「……意味の分からんことを言うな。よし。これで外れないはずだ」
ハルの計算、あたしの補助、りんちゃんの技術。バラバラだったガラクタが、一つの“意志”を持った形――ソリへと生まれ変わる。
「できた……。あたしたちの、鋼の揺りかご」
それは、終末の世界で生まれた、不格好で最高に頼もしい“戦友”だった。
「よし、名付けて『なぎさ・ハル専用・泥濘突破エクスプレス・デラックスパフェ盛り号』、完成だよぉ!」
岩棚に鎮座した“それ”は、見た目こそ「未来のゴミ」だが、今のあたしたちには銀河鉄道の列車より輝いて見えた。
「……名前が長すぎる。却下だ。ハル、乗り込め」
りんちゃんは牽引用のナイロンロープを肩から脇の下へ、タスキのように何度も巻き付けていく。袖のないジャケットから覗く白い肩にロープが食い込み、呼吸のたびに「キュウ……」と嫌な音が鳴った。
「……りんさん、再確認させてください。僕となぎささんの合計体重は約九十キロ。引く側には統計学的限界を上回る過負荷が――」
「ハルくん、その“僕を捨ててね算数”、もう落第点だよぉ!」
あたしはりんちゃんの手を借りてソリにどっかり腰を下ろした。
「重いってことは、それだけ“生きてる中身が詰まってる”ってことなんだよ。りんちゃんは今、世界で一番価値のある資産を運ぼうとしてるんだから!」
「……ハル、計算はもういい」
りんちゃんがロープを強く引いた。
「わたしがお前を引くのは……“直したい”からだ。この、壊れかけの状況をな」
「……ハルくん。ほら、ノート。これからのことは全部ハルくんが書くんだよ。ハルくんが書かないと、あたしたちの頑張り、全部雨に流されて“なかったこと”になっちゃうんだよ?」
ハルくんはハッとしたように目を見開いた。震える手でペンを握り直し、白紙のページの左上に『Day 1』と書き込んだ。
 (統計学的に、明日――Day 2が来る確率は限りなく低い。けれど、この一文字を記すことが、僕なりの計算への反逆だ)
ハルくんの瞳に、静かな熱が灯る。
「……記録、します。りんさんの筋肉の収縮と、なぎささんの……根拠のない信頼を」
「あはは! 根拠はあるよ! あたしのワクワクセンサーがビンビンだもん!」
あたしたち三人を乗せた“鋼の揺りかご”が、ゆっくりと絶望の泥濘を滑り始めた。
「……っ……、……く……っ!」
りんちゃんの喉から、押し殺したような低い声が漏れた。彼女の足は脛の半ばまで茶褐色の粘土質に飲み込まれている。肩に食い込むロープが、細い身体を弓のようにしならせていた。
 看板ソリが、泥の表面張力に逆らうようにズルリ……と数センチ動く。
「いけいけー! りんちゃんエンジン、フルスロットルだよぉ! あたしの脳内実況によれば、今のりんちゃんは馬力にしてポニー三頭分! 超高級スポーツカー並みの爆音だよ!」
あたしは動かない左腕を右手で抱えながら、必死に声を張り上げた。
聞こえるのは「ズズズ……」という泥を切り裂く音と、りんちゃんの荒い呼吸だけ。でも、そうでも言わないと、彼女の背中にかかっている“重さ”の現実に押し潰されそうだった。
ふと、あたしが実況を止めた。
その瞬間、降り続く雨の重たい音だけが、三人を飲み込もうとする深い沈黙のように響いた。
(あ……怖い。喋ってないと、この雨音に全部消されちゃう……)
だから、あたしはまた喋り出す。
「りんちゃん、見て! 前の方、霧がちょっと薄れてきた! あそこにある大きな影、もみじちゃんが言ってた“図書館”じゃない!?」
 りんちゃんが泥まみれの顔を上げ、鋭い瞳で遠くのシルエットを射抜いた。
「……肩たたきは……一回でいい。……その代わり……パフェの……デカ盛りを……作れ……」
「えっ、りんちゃん今パフェって言った!? わーい! パフェ派への寝返り記念日だぁ!!」
「……うるさい……、……引くぞ……っ!」
りんちゃんが再び地面を強く蹴る。ハルくんのノートには、りんちゃんの呼吸、あたしの実況、三人の軌跡が刻まれていく。
雨はまだ止まない。西の黒い雲も、まだあたしたちを狙っている。
でも、あたしたちはもう「一個体」だ。
運ぶ者、記録する者、そして笑う者。三人の絆という名のソリは、沈みゆく世界を切り裂いて、希望の拠点へとひた走る。
あたしの胸の奥は、これまでで一番熱かった。
第28章完了
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