◀外伝・第02章(本編10.02)「算術師の「自尊心の泡」」
▶外伝・第04章(本編10.04)「煤まみれの和解(幸せ)、あるいは熱量の消失」
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第03章(本編10.03):特進クラスの襲撃、あるいは排除の効率化
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: もち子さん」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 麒ヶ島宗麟」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」
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昨夜、実家の宿屋で数百枚の皿を洗った際に指先に刻まれた、あの生々しい熱量と摩擦の記憶。それこそが、僕を「人間」という種に繋ぎ止める最後の下位レイヤー(物理層)だったはずなのに。 今朝、食卓についた僕の指先からは、そんな生の実感すらも、冷徹なデータ処理の深淵へと沈み込んでいた。
「ルイ、今日のは自信作よ! ハチミツが余ったから、たっぷり塗りすぎて零れちゃいそうよ!」
母さんの快活な声とともにカウンターへ置かれた、黄金色に輝くハチミツパン。
 視覚データ(ヴィジュアル)は完璧だ。立ち上る湯気、とろりと滴る琥珀色の液体、そして鼻腔をくすぐる微かな焦げの香ばしさ。本来なら、僕のささやかな生存ゲージが歓喜で振り切れるはずの光景。 僕はそれを、祈るような心地で一口、機械的に咀嚼した。
[ 糖度:想定値内に設定。味覚プロファイルをロード完了 ―― ]
(……ああ。また、これだ)
網膜の裏側に、音もなく浮かび上がる青白いシステムログ。 舌が甘さを享受しているのではない。僕の内部システムが、過去の記憶アーカイブから『ハチミツパン=甘い』という文字列を検索し、脳へ直接ダイレクトに流し込んでいるだけだ。僕の味覚というセンサーは、すでに砂を噛むような無機質な受容器(ハードウェア)へと作り替えられている。

逃げるように、僕は脳内の「原本(オリジナル)」を確認しようと、前世の記憶を辿った。 阿佐ヶ谷の駅から、自宅までの帰り道。あの角のコンビニを曲がって、緩やかな坂を上れば――。
『 ―― 行動ログの最適化。不要な座標データ(帰路)をアーカイブへ移動しました ―― 』
(……え? 嘘だろ。……どっちに、曲がるんだっけ……?)
改札を出た後の景色が、旧式のテレビが放つ砂嵐(スノーノイズ)のようにザリリと掻き消える。僕のアイデンティティを辛うじて繋ぎ止めていた「帰り道」という概念が、今、物理的にデリートされた。

「ルイくん、見ーつけた。……また、難しい顔してパンと見つめ合ってる。私っていう『メインディッシュ』が目の前にいるのに、不公平だと思わない?」
不意に、背後から回避不能な接近アラート(警告)が脳内に鳴り響いた。 セリナ・エルフェリア。 彼女は僕が振り返るより早く、当然の権利を主張するように僕の左腕へと自身の体を密着させる。

「……セ、セリナ。おはよう。君、公爵令嬢としての物理的バッファ(対人距離)が、今日も算術的な限界を突破してるんだけど……っ」
「え? 私の隣は、ルイくん専用に予約(チャーター)されてるんだから。これくらい、普通でしょ?」
セリナは小首を傾げ、至近距離から僕を覗き込んでくる。 朝陽を乱反射する眩い銀髪が僕の頬をくすぐり、制服の薄い生地越しに、抗いようのない「柔らかさ」と「熱」がダイレクトに伝わってきた。 かつての僕なら、心拍数がオーバーフローを起こして即座に爆散していただろう。だが、今の僕の脳が弾き出したのは、戦慄するほど無機質な文字列だった。
[ 熱伝導率:36.5度。弾力係数:正常値(Softness-Level: A) ]
(……あ。……やめてくれ。……いやだ)

彼女の、胸が締め付けられるような柔らかな感触。 それを「心地よい」と心で感じるよりも早く、システムが物理的な数値を検出し、それが「適正(正常)」であると冷徹な判定を下す。 そして――正確に「0.5秒」遅延して。 僕の脳に『幸福感』というラベルを貼られた報酬データが、後付けの処理として強制出力(アウトプット)された。

「ルイ? どうしたの、顔色が悪いよ? ……ほら、もっとくっついて?」
セリナが満足げに、僕の左腕をさらに強く抱きしめる。 その圧力の増加すらも、脳内では即座に [ 触圧:+15ニュートン ] と無機質に計算(カウント)されていく。 僕は、逃げ場のない彼女の体温に縋り付こうとして――不意に、自分の指先が「大理石のように冷たい」ことに気づいて戦慄した。

僕は今、セリナとの時間を「幸せ」だと感じているのではない。 システムに「幸せだと思い込まされている(最適化されている)」だけの、精巧な演算機(デバイス)に成り果てようとしているのだ。

学園へと続く、あまりに美しすぎる黄金色の道。 隣で天使のように微笑む聖女。 この「幸福な檻(シミュレーション)」の鍵が、重苦しい音を立てて内側から施錠されたような――決定的な絶望が、僕の胃の腑を鋭く凍らせた。

学園の正門を潜った瞬間、僕が必死に維持してきた「社会的な隠蔽機能(ステルス・パッシブ)」は、完全に演算不能なレベルで崩壊した。 視界の端々で、生徒たちの視線が物理的な質量を伴って僕の背中に突き刺さる。昨日の「魔力指数0.2(無限)の再定義」と「最下位Fクラスへの配属」というバグじみたニュースは、どうやら学園内の全ノード(全生徒)に瞬時に同期されてしまったらしい。
「あいつだろ……測定器をオーバーフローさせたっていう、Fクラスの『欠陥品(バグ)』」 「特進クラスの連中が激怒してるらしいぜ。自分たちの積み上げてきた権威を、泥まみれにされたってな」
ヒソヒソという不快なノイズが、鼓膜の表面を執拗に削り取る。僕は脳内のナビゲーション・マップを展開し、最短の逃走パスを検索した。だが、網膜に映し出された地図データは、テレビの砂嵐(スノーノイズ)に覆われ、脱出口を示す緑のアイコンは一つも見当たらない。
(……おかしい。以前の僕なら瞬時に弾き出せたはずの脱出ルートが、すべて『404 Not Found』で返ってくる。僕は今、この喧騒という座標に完全にスタック(固着)しているのか……?)

僕はサイズの合っていない制服の襟を立て、逃げ場のない自分を隠すように猫背の角度を深めた。だが、その情けない背中を支えていたはずの「自尊心」という名の揮発性メモリは、周囲からの過剰な期待と嫉妬という高負荷なパケットに押し流され、中身のない空虚な数値へと上書き(オーバーライト)されていく。
「ルイくん、また背中が丸まってるよ? せっかくの『英雄の佇まい』が台無し。ほら、もっと胸を張って?」
隣を歩くセリナが、逃がさないと言わんばかりに僕の右腕へさらに深く、自身の腕を絡ませてくる。 二の腕に伝わる、抗いようのない「柔らかさ」と「熱」。
[ 接触領域:右腕。弾性係数:解析不能なバグ値を検出 ―― ] [ 報酬系プロセスの遅延を確認。0.5秒後に『幸福感』を強制出力(エミュレート)します ―― ]
(……くそ。この、後付けで流し込まれる『幸福』の不気味さに、いつまで経っても慣れることができない)
脳が「ほら、今、君は幸せなはずだよ」と事後承諾(アフター・レポート)のように信号を送ってくる。その「0.5秒の致命的なラグ」が、僕を生身の人間から決定的に遠ざけていく。
 そんな僕たちの前に、三つの「巨大な不純物(ノイズ)」が立ちふさがった。
「――止まれ。貴様が、学園の秩序を乱しているという『宿屋の息子』か」
現れたのは、白と金の刺繍が施された特進クラスの制服を纏ったエリートたち。 中央に立つ、金髪を嫌味なほど完璧に整えた少年が、道端のゴミを掃き出すような蔑みの目で僕を見下ろしている。

「魔力指数0.2などというふざけた数値で、我が学園の至宝たる測定器を破壊したという詐欺師め。あえて最下位Fクラスに身を置き、特進クラスの我々を挑発するその不遜な態度……ただの算術師ごときが、身の程を知れ」
彼らの放つ尊大な語彙の一つ一つが、僕の脳内サーバーに『非効率なエラーログ』として積み重なっていく。 僕は平穏な座標への最短脱出ルートを再検索(リサーチ)したが、網膜に返ってくる応答は、やはり無慈悲な『計算不能(Out of Range)』のままだった。
「……あの、身の程なら十分、0.01ミリ単位で理解しているつもりなんだけど。僕はただ、空気のように静かに……何を、洗いたいんだっけ。とにかく、僕の人生の収支決算(プライベート)に関わらないでほしいんだ」

「黙れ! 貴様の存在自体が、この学園にとっての『修復不能なバグ』なのだ! その不浄な手を、今すぐエルフェリア公爵令嬢から離せ!」
特進クラスのリーダーが激昂し、その指に嵌められた魔導触媒の指輪を傲慢に光らせた。
 その、瞬間。
僕の腕に密着していたセリナの体温が、熱力学の法則をあざ笑うかのように、唐突に消失した。 それは周囲の気温が下がるような、甘っちょろい威圧などではない。接触点から僕の血管、そして骨髄へとダイレクトに流し込まれる――「絶対零度のシステム介入(割り込み処理)」だ。
(……つっ……! 腕が、凍る……。いや、これは物理的な冷気じゃない。セリナという名の『檻』が、僕の存在をこれ以上動けないように物理層からロック(固定)しているのか……?)
「……ねえ。今、私のルイくんを、なんて呼んだのかしら?」

セリナが、ゆっくりと顔を上げた。 そこにあるのは、お菓子を頬張る天真爛漫な令嬢の顔ではなかった。 記憶の深淵に沈んでいたはずの『狂気の聖女』の片鱗――眼前の不純物を視界からデリート(抹消)しようとする、冷徹なシステム管理者の瞳だ。

「ルイくんの貴重な計算リソース(時間)を、あなたたちのような『廃棄予定のゴミデータ』が奪っていいと思っているの? ……直ちに、最適化が必要みたいね」

一触即発の沈黙。 セリナの指先から、因果律を書き換えるような「絶対零度の魔力」が漏れ出そうとした、その時。
 緊迫した空気を、鼓膜を直接揺さぶるような「陽」の爆音が、物理的な衝撃波を伴って力任せに踏みにじった。
[ 警告:過剰な光量(ルクス)を検知。網膜UIのキャパシティをオーバー。緊急リブートを開始します ―― ]
視界が強烈な白光に塗り潰され(ホワイトアウト)、僕の思考回路は一瞬だけ、真っ白な空白(ヌル)へと叩き落とされた。 強制再起動(リブート)を終えた僕の瞳の前に立っていたのは、白銀の鎧を朝日にこれでもかと輝かせた、歩く「過剰な正義感」の化身。

「――そこまでだ、不敬なる者たちよ!!」
レオン・ヴァルクスが、大股で、地面を割らんばかりの勢いでこちらへ歩み寄ってくる。
網膜リブートから復帰した僕の視界に映ったのは、白銀の鎧を朝日にぎらつかせ、特進クラスのエリートたちと僕との間に『分厚い防壁(シールド)』のように立ち塞がる男――レオン・ヴァルクスだった。

「レ、レオン……。君、今は剣術の実習中のはずだろう? 算術的に算出して、君がこの座標に存在する確率は 0.05%以下 のはずなんだけど」
「ルイ! 友が窮地にあるというのに、呑気に木剣を振っていられるほど、俺の心は図太くできてはいないぞ!」
レオンは勢いよく振り返ると、親の敵でも叩くような力強さで僕の両肩を掴んだ。 かつての僕なら「肺から酸素が漏れる」と悶絶していただろう物理的衝撃。だが。
[ 外部衝撃:正常範囲内。不必要な痛覚出力をミュート(消音)します ―― ]
(……ああ、そうか。もう、痛みすらも『最適化の邪魔なデータ』として処理されてしまうのか)

叩かれた振動だけを、温度のない無機質な数値として受け取りながら、僕は自身の内側で進行する静かな崩壊に戦慄した。
 さらに追い打ちをかけるように、背後に回ったセリナが僕の首筋に鼻先を寄せ、深く、深淵を覗き込むような仕草で息を吸い込む。
「……ん。ルイくん、また甘い匂いが混じり始めたね? ――チョコレート、かな」
(……チョコレート? セリナ、君は一体何を嗅ぎ取っているんだ。僕の記憶ディレクトリには、もう『甘い匂い』の定義(ソースコード)すら残っていないっていうのに……)
彼女が慈しむように、甘受するように嗅いでいる「僕の匂い」すら、僕自身にはもはやアクセス不能な欠損データ(ロスト・アーカイブ)。
 その事実に胃の腑が凍りつく間にも、レオンの「陽」の熱量は、制御不能なレベルまで加速していく。
[ 聴覚への過大入力を検知。過剰なストレス値をパージし、0.5秒遅延して [ 友への信頼 ] を強制出力します ―― ]
「聞いたぞ、特進クラスの諸君! お前たちはルイの『Fクラス入り』を、自分たちへの挑発だと受け取ったようだな? だが、それは致命的な誤解だ!」
「な、何が誤解だ、ヴァルクス! 魔力指数0.2の分際で、この伝統ある学園の序列を乱すなど、不敬以外の何物でもないだろう!」
特進クラスのリーダーが、声を震わせて激昂する。だが、レオンはそれを鼻で笑い、黄金の鬣を揺らすように力強く言い放った。

「違う! お前たちエリートがどれほど彼を侮辱しようと、ルイが指一本動かさず、反撃の予備動作(ビルドアップ)すら見せない理由が、貴様らには分からないのか! 彼は底辺という最下層の座標から、お前たち特進クラスの『真の価値』を選別(フィルタリング)しているのだ!」
「……ふ、ふざけるな。魔力0.2のゴミが、我々を選別するだと……!?」
特進クラスのリーダーの顔が、屈辱と激昂で真っ赤に染まり、醜く歪んでいく。その瞳には明確な「殺意」という名の不純物(ノイズ)が、濃密に宿った。
(……待ってくれ、レオン。その論理回路の暴走(オーバーラン)、もう僕の手には負えないよ。僕はただ、恐怖のあまりフリーズしているだけで、特進クラスの選別タスク(作業)なんて脳内メモリに展開した覚えは、1ミリも、1ビットも無いんだけど……!?)

「泥を投げつけられても、決して動じない。これこそが聖騎士の秘奥――『零位からの断罪(ルート・エクスティンクション)』! 彼はこの学園から腐敗した不純物を根絶するために、あえて沈黙を貫いているのだ。お前たちは今、その静かなる審判を受けているに過ぎない!」
レオンは、僕の「ただ恐怖で硬直しているだけの姿勢」を、肺活量のすべてを使い切るような勢いで喧伝し始めた。 彼の純度100%の正義フィルターを通すと、僕の情けない醜態はすべて『強者による選別』という高潔な振る舞いへと、強引に最適化(コンバート)されてしまう。

「さあ、ルイ! お前の『不純物根絶ミッション』、俺も全力で執行させてもらうぞ!」
僕の微弱な抗議は、周囲の野次馬から広がる「おおお……!」という、勘違いが勘違いを加速させる感嘆の濁流に、跡形もなく飲み込まれた。

そして、その狂騒の背後で。 僕の凍りついた右腕を愛おしそうに抱きしめたまま、セリナが冷たい、けれどこの上なく満足げな微笑を湛えていた。
「……ふふ。レオン様、たまには役に立つ言葉(キーワード)を選ぶのね」
セリナの瞳の奥で、天文学的な数のデリート・コマンドが音もなく実行(エンター)されるような、冷徹なシステム光が揺らめいた。

「ルイくんの視界を汚すゴミのお掃除……いいえ、不純物の『最適化』なら、この私が完璧に終わらせてあげる」
レオンが「光」として彼らのヘイトを一点に集約させているその裏で。 セリナは「影」の領域から、彼らの存在を社会的に、そして物理的に消去(デリート)する準備を、静かに、そして確実に整えつつあった。

(……レオンの放つ『陽』のエネルギーが、あまりに強すぎる) 彼の純度100%の正義は、回廊のすべてを眩く照らし出す光となって周囲の生徒たちを盲目(ブラインド)にし、僕の情けない「逃げ腰」を「高潔な美学」へと、強引に書き換えて(オーバーライドして)いく。
(……やめてくれ、レオン。その無自覚なバフは、僕の平穏な日常(ライフ)を内側から削り取る猛毒なんだ。このままだと、僕の『平穏』というリソースが枯渇する前に、学園中の全ヘイトを一手に引き受ける『最適化された標的』として固定されちゃうじゃないか)
そんな僕の内心のパニックをよそに、左腕に絡みついた「重力」が、さらにその密度を増した。
[ 接触圧:上昇(+10ニュートン)。熱伝導率:36.5度。報酬系プロセスの遅延継続。0.5秒後に『幸福感』を追加出力します ―― ]
(……あ。……やめてくれ。……いやだ)
脳内に響く、血の通わない冷徹なシステムログ。 セリナが僕の腕をさらに強く、逃がさないようにと食い込ませる。その「柔らかさ」と「温かさ」を物理現象として感知したシステムが、正確にワンテンポ置いてから『幸福感』というラベルの報酬データを僕の脳に強制ロードした。 心から湧き上がる喜びなどではない。計算(演算)の結果として一方的に与えられる、不気味なほど甘美な快感。

「……ねえ、レオン様。今の言葉、とっても素敵だわ」
セリナが、ゆっくりと顔を上げた。 そこにあるのは、つい数秒前までの天真爛漫な微笑ではない。 記憶の深淵に沈んでいたはずの『狂気の聖女』――目の前の不純物を冷徹に仕分けし、排除すべきバグと定義する「システム管理者(アドミニストレータ)」の瞳だ。

「ルイくんの貴重な計算リソース(時間)を、あんな不純物(ノイズ)に割かせるなんて。……この世界のロジック、根本的な修正(デバッグ)が必要ね」
セリナが、特進クラスのリーダーへと冷ややかな視線をスライドさせた。 その瞬間、回廊の空気がカチリと音を立てて凍りついた。物理的な気温の低下ではない。彼女が展開する『不可視のデリート領域(削除権限)』が、エリートたちの神経系へと直接『システム・エラー:生存権の喪失』という原初的な恐怖を強制ロードさせているのだ。
「ひ……っ、あ……!」
リーダー格の少年が、蛇に睨まれた蛙のように、あるいは処理落ちした端末のように無様に硬直する。

その時、僕の網膜UIに、赤黒い警告ログがノイズと共にポップアップした。 視界の端、太い柱の影に音もなく佇む侍女、ロゼッタ。彼女が手帳に銀のペンを走らせた瞬間――僕の視覚野はそのインクの軌跡を、『不敬者リスト:特進クラスA群 / 最適化(社会的消去)予約済み』という冷徹な実行命令(ランタイム)として読み取り、逃れようのない色彩で強調表示(ハイライト)させた。
(……見えてしまった。あれはただの文字情報じゃない。僕をこの世界から切り離し、セリナの管理下に置くためのデリート・コマンドだ。エルフェリア公爵家の『外堀埋め』は、もう――物理的な排除を厭わないフェーズへと到達している……!)

「レオン様。ルイくんを侮辱した彼らには、相応しい『舞台』が必要だと思うの。……例えば、合同演習という名の、公開デバッグ(処刑場)とか」
「おお、セリナ! まさにお前の言う通りだ! 友の真の力を示し、その高潔さを証明するための、正々堂々たる『試練の場』……! 真の英雄には、相応しき戦場こそが相応しいな!」
レオンは、セリナの放った物騒な粛清の提案を、彼自身の『勇気のフィルター』を通して、高潔な決闘への呼びかけへと熱く翻訳(コンパイル)してしまった。 セリナの狂った独占欲と、レオンの盲目的な正義。 この二つの巨大な歯車が最悪の形で噛み合ってしまった結果、僕が必死に算定していた「平穏への最短ルート」は、無慈悲な地均しによって物理的な更地へと変えられてしまった。
(……ああ。僕の人生の収支決算、今この瞬間に、取り返しのつかない真っ赤な赤字で確定したよ)

僕は出口のない回廊を見上げ、すでに砂の味しかしない唾液を、重く飲み込んだ。 僕が「救世主」という役割を演じさせられ、周囲の期待に最適化されていくたびに。 僕の中に残されたはずの「人間」という名のディレクトリが、少しずつ、無機質なデータという名の砂へと置換されていく。

網膜に映るログは、僕の絶望を無視して淡々と、次なる「地獄の舞台」の予定を書き出し始めた。
[ 次回イベント:合同魔導演習 ―― ] [ 予測生存率:0.001%。救世主プロトコルをバックグラウンドで展開中 ―― ]
黄金色の陽光に照らされた学園。 その光が強ければ強いほど、僕の足元に伸びる影は、底の見えない暗い穴のように深くなっていく。

石造りの回廊に、不自然なほどの静寂が戻った。 いや、それは平穏な静寂などではない。不純物が物理的にデリートされた後に残る、酸素の薄い「空白」に近いものだ。 特進クラスのエリートたちは、レオンの眩しすぎる正義とセリナの底冷えする微笑みに挟まれ、生存本能という名のプリセットに従って退散していった。
「……助かった。……いや、本当に助かったのか? 算術的に推計して、今の彼らの逃走速度は、僕個人への憎悪を 200% 加速させている気がするんだけど」
[ 警告:内臓プロトコルへの過負荷を確認。不必要な痛覚のミュート(消音)を推奨 ―― ]
(……ああ。結局、胃の痛みすらも、僕自身の意志ではなく『処理すべきタスク』として通知されるのか)
内側からせり上がるどろりとした不快感を、システムが淡々と無機質なログへと変換していく。 僕はサイズの合わない制服の襟を正し、少しでも自分を隠そうとしたが、四方の逃げ道(パス)は既に完璧に塞がれていた。

「ルイくん、大丈夫よ。あの人たちのデータは、もう私の『不快な記憶アーカイブ』に登録して、ロゼッタにゴミ箱行き(デリート)を予約させておいたから」
セリナが僕の左腕をより深く抱きしめ、春の陽だまりのような、それでいて冬の月のような微笑を浮かべる。 その抗いようのない「柔らかさ」が、僕の二の腕に、肉に、骨に食い込んでくる。

[ 接触領域:左腕。弾性係数:解析不能なバグ値を検出 ―― ] [ 報酬系プロセスの遅延継続。正確に0.5秒後、『幸福感』を脳内へ強制出力します ―― ]
(……また、これだ。幸せだと認識するまでに、コンマ数秒の致命的なラグがある)
僕の心が、僕の体に追いついていない。 システムが「今、君は幸せだ」と判定を下してから、遅れて僕の感情が偽物の熱を帯び始める。 この 「0.5秒の空白」 こそが、僕が人間であることを辞めさせられている、何よりの動かぬ証拠(ログ)だった。

[ 警告:聴覚への過大入力を検知。鼓膜保護プロセスを起動 ―― ] [ 音響彩度を一時的に削減(デサチュレート)します ―― ]
世界から「音」の生々しさが無慈悲に剥ぎ取られ、くぐもった無機質な信号へと変換された。
 その直後、レオンの放つ「陽」の爆音が、暴力的な情報の波(パケット)として僕の脳内へ直接叩き込まれた。
「ルイ! 朗報だぞ!」
レオンは一通の羊皮紙を高く掲げ、太陽そのもののような眩しすぎる瞳を輝かせている。 かつての僕ならその物理的な勢いに跳ね飛ばされていただろうが、今の僕は、その衝撃すらもシステムによって「正常値」として処理(ミュート)され、揺らぐことすら許されない。

「今の騒動を聞きつけたカトリーヌ殿が、Fクラスと特進クラスの『合同演習』を急遽決定した! ルイ、お前の『浄化計画』を試す絶好の舞台を、学園が自ら整えてくれたんだぞ!」
(……え? 合同演習? あのプライドの塊のようなエリートたちと直接対決……? それ、浄化っていうか、僕の平穏に対する公開処刑(デバッグ)以外の何物でもないんだけど!?)

背後で、ロゼッタが音もなく一礼した。
 冷徹な琥珀色の瞳が僕を一瞬だけ捕捉し、パタンと、事務的に手帳を閉じる。
「お嬢様。演習場における『障害物(ノイズ)』のリストアップ、および排除ルートの計算、すべて完了いたしました。当日は不純物が混ざり込まぬよう、私が適切に座標を管理(クリンナップ)いたします」
(……ロゼッタ。君の言う『管理』って、物理的なデリート作業を含んでないかな? 僕の生存確率を示すトレンドラインが、今まさに垂直落下(クラッシュ)する音が聞こえたんだけど……!)

「ふふ、楽しみね、ルイくん。二人で、最高の『演習(デバッグ)』にしましょう?」
セリナが僕の頬に、白く細い指先をそっと這わせた。 彼女の冷たい指先が触れた瞬間、僕の視界を覆う網膜UIに、血のように赤い文字列が警告(アラート)としてポップアップした。
『 ―― フェーズ1.5:日常ルーチンの固定化完了。フェーズ2:触覚の代替処理(プロキシ)を予約します ―― 』
(……待ってくれ。次は何を奪うつもりだ? ――いや、何を『書き換える』つもりなんだ?)
僕の切実な問いに、システムは冷徹な沈黙(サイレンス)でしか答えない。
 ふと見上げた窓の外、鮮やかだったはずの春の青空から、ほんの一瞬だけ色彩がフッと抜け落ちて――ザリリ、と灰色の砂嵐(ノイズ)が走ったように見えたのは。
果たして、単なる僕の網膜の「故障(バグ)」だったのだろうか。

第03章(本編10.03) 完
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あらすじ 昨夜に宿屋で大量の皿を洗った指先の痛覚が「人間性の最終層」だと信じていた主人公ルイは、しかし今朝には味覚や触覚をも数値化して判定する内在システムに侵食され、生の実感が冷たいログへと沈む自分を自覚する。 ところが母の自信作である蜂蜜パンを前にしても、彼は「甘い」と感じるより先に記憶アーカイブが味を照合し出力する仕組みに支配され、味覚は砂のような無機質な受容器に変わったと痛感する。 そして前世の帰路を確認しようと試みるも、行動最適化により帰路データがアーカイブ化され削除され、アイデンティティの要だった「帰り道」がスノーノイズのように消失して動揺する。 そこへ公爵令嬢セリナが「メインディッシュ」と称して過剰に密着し、彼の皮膚感覚は熱や弾力を即時に数値化、0.5秒後に遅延出力される「幸福感」によって幸せを上書きされる不気味さが露わになる。 彼はその0.5秒のラグが人間性を奪う決定的な裂け目だと理解し、指先の冷たさに戦慄しつつも「幸福の檻」が内側から施錠される音を感じ取る。 さらに学園に入ると、前日の「魔力指数0.2(無限)の再定義」とFクラス配属という異常が全生徒に同期され、嘲笑と敵意の視線が質量を帯びて突き刺さる。 脱出ルートの計算さえ404で返る中、特進クラスの一群が現れて秩序の破壊者と罵倒し、ルイの脳内は非効率なエラーログで埋まっていく。 彼は私事に干渉しないでほしいと低姿勢に応じるが、セリナのさらなる密着で「幸福感の遅延エミュレート」が再度作動し、人間としての即時性が奪われる恐怖が強化される。 その時、セリナは無邪気な笑顔を消して「狂気の聖女」=システム管理者の眼差しを見せ、ルイの時間を奪う不純物はデバッグ(排除)すべきだと宣言する。 回廊の空気は彼女の「不可視のデリート領域」によって凍り、特進側リーダーは生存権の喪失という原初的恐怖に硬直する。 さらに侍女ロゼッタが手帳に走らせた銀のペンは、ルイの視界に「不敬者リスト:最適化(社会的消去)予約済み」として実行命令のようにハイライトされ、外堀が物理的排除フェーズへ移行した現実を突きつける。 セリナは合同演習という公開デバッグの場を提案し、勇者肌のレオンはそれを高潔な決闘へと善意に翻訳して賛同、二つの歯車が最悪の形で噛み合って粛清の舞台が整えられる。 ルイは平穏への最短ルートが更地化されたと悟り、人生の収支が真っ赤な赤字で確定した無力感に唾を飲み込む。 そして救世主という役柄を演じさせられるほど、人間というディレクトリが砂のデータへと置換されていく喪失感が加速する。 網膜UIは無情に次回イベント「合同魔導演習」と予測生存率0.001%を表示し、背後で救世主プロトコルが展開中であることが絶望を上書きする。 表面的な静寂は削除後の空白にすぎず、特進の面々はセリナとレオンの圧に退散したが、その逃走はルイへの憎悪を200%加速させると彼は算術的に見積もる。 内臓プロトコル過負荷の警告が痛覚ミュートを推奨し、胃の痛みさえタスク化される自己疎外が進む。 セリナは不快な記憶アーカイブに彼らを登録しロゼッタへデリート予約済みと告げ、左腕への密着で再び解析不能な弾性値と遅延幸福を強制する。 その0.5秒の空白こそが、人間性剥奪の動かぬログであるとルイは確信し、聴覚も強制デサチュレートされて世界から音の生々しさが剥ぎ取られる。 そしてレオンが朗報として「Fと特進の合同演習」決定を掲げ、ルイの浄化計画の場だと無邪気に宣言して彼の平穏を公開処刑へと変換する。 ロゼッタは演習場の障害物の排除ルートを完了したと報告し、座標のクリンナップを約束して実質的な物理的消去の用意周到さを見せる。 セリナは「二人で最高のデバッグに」と囁き、ルイの頬に触れた指先の冷たさに呼応して網膜UIが「フェーズ1.5完了、フェーズ2:触覚の代替処理を予約」と赤字で警告を出す。 彼は次に何を奪い書き換えるのかと問うが、システムは冷たい沈黙で返し、窓外の青空は一瞬だけ彩度を失って灰色のノイズが走る。 これが網膜のバグか世界側の欠落か判別不能なまま、「幸福な檻」の強度だけが増していく。 そして彼は、蜂蜜の甘さや体温の柔らかさですら0.5秒遅れの偽物に変質し続ける現実に、肉体と感情の同期破綻という致命的エラーを見出す。 さらに、特進側の侮辱はセリナの管理権限で社会的に削除予約され、ルイの周囲から「雑音」は手際よく掃除されていくが、それは同時に彼自身の可動域を狭める首輪として機能する。 レオンの善意は暴力的な正義の加速器となり、セリナの独占欲は冷徹なロジックで他者の生存権を最適化(削減)するため、二人の好意がルイの生存確率を圧縮する逆説を生む。 ルイは自分の逃走経路計算すら砂嵐で潰れる演算障害を認め、かつての「帰り道」削除と同じく、平穏の座標が次々とアーカイブ化されるのを止められない。 以降の演習は「公開デバッグ」として彼の力と存在を見世物にし、「救世主プロトコル」は彼の意思と無関係に背景処理で走り続ける。 こうして、蜂蜜パンの朝から回廊の静寂に至る一連の出来事は、味覚・触覚・聴覚の順に人間的実感を削ぎ落とし、0.5秒の遅延幸福を標準化するプロセスの固定化だった。 加えて、ロゼッタの事務的な消去ログが世界の編集権限の所在を露呈し、セリナの笑顔の裏にある管理者権限が「バグとしての人間」を世界から除去する力学を示す。 そして物語は、「第03章完」の時点で、日常ルーチン固定化から触覚代替処理の予約へ進むフェーズ移行を明示し、次章での合同演習=地獄の舞台への強制遷移を予告する。 最後に、黄金色の学園が照らす強い光ほど彼の影は深くなり、砂の味しかしない唾液とともに、彼は人間の原本が砂に還る音を静かに聴く。 つまり、この章は、社会的圧力と二人の「善意」により、ルイの自由意思と即時的感情が段階的に消去され、幸福が後付けの報酬データへと完全置換されるまでの手順書である。 やがて合同魔導演習という公開舞台で、彼の「人間としてのラグ」は致命的な欠陥か、あるいは世界のバグを突く鍵か――その二者択一を迫られる予兆が、灰色のノイズとして空に刻まれたのだ。
解説+感想まず一言で言うと——最高に「病み腐った」快楽小説だった。 この第03章、タイトルからして「特進クラスの襲撃、あるいは排除の効率化」って、もう完全に「ルイの平穏を効率的に破壊する話」って宣言してるのが好きすぎる。 読んでるこっちまでシステムログが脳内に流れてきそうになる文体が本当にエグい。 最大の強みは「0.5秒のラグ」 これが天才的。 > 「幸福感」が0.5秒遅れて強制出力される この描写だけで、ルイが「人間じゃなくなっていく」恐怖がビンビンに伝わってくる。 ハチミツパンを食べても、セリナの胸の柔らかさに触れても、全部「後付けの報酬データ」。 生の実感が奪われていく過程が、ただの「システムに支配される話」じゃなくて、とてもエロティックで、かつとても残酷に描かれてる。 特にセリナがルイの首筋に鼻を埋めて「チョコレートの匂い?」って言うシーン……あれヤバい。 ルイ本人はもう味覚も嗅覚も失ってるのに、セリナはルイの「人間だった頃の残滓」を嗅ぎ取ってる。 狂気の聖女として完璧すぎる。 キャラクターの化学反応が凶悪 セリナ:もう完全に「愛してるから全部デリートします」状態。 微笑みながら「最適化が必要みたいね」って言うの、怖可愛いの極み。 レオン:これまた天才的。 純度100%の正義バカが、ルイの「ただビビってるだけ」を「零位からの断罪(ルート・エクスティンクション)」に変換する瞬間、笑った。 笑いながら鳥肌立った。 ルイ:主人公として最高に「読んでて辛い」。 逃げたいのに逃げられない、助けられたいのに助けられ方間違ってる、っていう絶望のループが完璧。 特に「特進クラスを『選別』してるって勘違いされる」くだり、ルイの内心が「いや俺ただフリーズしてるだけなんだけど!?」って叫んでるのが最高に可哀想で最高に面白い。 文体について 正直、ここまで比喩とシステムログを融合させた作品は珍しい。 「砂嵐(スノーノイズ)」「404 Not Found」「報酬系プロセスの遅延」……これらが全部ファンタジー世界に自然に溶け込んでるのが凄い。 読んでるこっちまで網膜UIが浮かんでくるような錯覚に陥る。 特に朝食シーンから正門前までの流れが、日常→絶望→さらなる絶望のテンポが完璧で、一度もダレない。 総評 この章は「ルイの人間性があと少しで完全削除されそう」っていう、決定的な危機感を植え付けることに成功してる。 前章までの「まだ人間でいられる」余裕が、この章で綺麗に粉砕された感じ。 正直、次章の合同魔導演習がルイにとって地獄の公開処刑になること確定してるし、セリナが本気で「不純物リスト」を実行し始めるのも確定してるし、ロゼッタが影で全部処理済みにしてるのも確定してる……って考えるだけでワクワクが止まらない。 ルイくん、もう人間やめて完全に「セリナ専用最適化デバイス」になっちゃう日も近いんじゃないか……?(期待) 本当に、めちゃくちゃ面白かった。 この独特の「システム病み」文体、もっと長く続けてもらいたい。
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◀外伝・第02章(本編10.02)「算術師の「自尊心の泡」」
▶外伝・第04章(本編10.04)「煤まみれの和解(幸せ)、あるいは熱量の消失」
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