◀第17章「ミリアの旋律、日本の音色、シエルの涙」
▶第19章『ひらがなの手帳と、世界で一番やさしい嘘』
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第18章『利子一括徴収(ローン)の嘘』
「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 東北ずん子」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 離途」
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宿屋『蜜蜂の止まり木亭』の食堂は、暴力的なまでの平穏に包まれていた。焼き立てのクロワッサンから立ち上る、芳醇なバターの香り。窓枠を切り取るようにして差し込む、柔らかな朝の光。外からは、小鳥のさえずりさえもが調律されたかのような完璧なリズムで響いてくる。昨夜、あんなにも世界が揺らぎ、僕の心が軋みを上げたというのに。

まるで質の悪い夢でも見たかのように、朝はそしらぬ顔で訪れていた。
「ルイっ! このクロワッサンね、昨日よりずっとサクサクなの!」
目の前では、セリナが満面の笑みでパンを頬張っている。

バターをたっぷりと塗って。 その上に、さらにベリーのジャムを重ねて。 仕上げとばかりに、黄金色の蜂蜜までとろりと垂らそうとしていた。
「……甘さは一種類で十分だろ」
「えー? 甘いは正義だよ?」
今日も、何も変わらない。
鼻先に白いクリームをつけたまま笑うその無邪気さに、僕の口元からも自然と小さな苦笑がこぼれた。

「そういえばね、フレアちゃんは朝早くから市場へ行ってるんだって!」
クロワッサンをもぐもぐと咀嚼しながら、セリナが言葉を続ける。
「もっと美味しい小麦を探してくるんだって、すっごく張り切ってたよ! 帰ってきたら、また新しいパンを焼いてくれるかなぁ」
「相変わらず、頭の中は食べ物のことばかりだな……」
「あっ、でもね、ミリアちゃんはまだ寝てるよ! 昨日、すっごく疲れてたみたいだもんね!」
(……そうか) 昨日の出来事は、やはり夢ではなかったのだ。震える指先。冷たいハープの弦。あの切ない歌の残響。
そして――。
(……プレイリスト)

脳の奥底へと、ゆっくり意識を沈めていく。何か、僕の人生の根幹に関わるような、とても大切な『文字列』を見た気がする。だが、そこへ手を伸ばそうとした瞬間、思考の先は分厚いすりガラスに遮られたかのように、真っ白に濁って消えた。
(……思い出せない)

理由もなく、胸の奥がきゅっと締め付けられる。あんなにもボロボロと涙を流したはずなのに、自分が何に絶望し、何に泣いていたのかさえ、もう僕の『記録』には残っていない。
ただ、静かな違和感だけが、喉の奥に刺さった見えない棘のように、チクチクと不快な痛みを放っていた。
それにしても――。
(……シエルが、何も言わないな)
いつもなら、セリナと会話を交わすほんのわずかな合間にすら、辛辣で皮肉めいたシステム音声が割り込んでくるはずだ。なのに、今日の脳内は、耳鳴りがするほど異様に静まり返っている。
(……昨日のことで、怒っているのだろうか)
僕が、開けてはならない禁忌の箱に触れようとしたから。
そう推測した、まさに次の瞬間だった。
『《告知》』
唐突に、脳髄を直接叩くような無機質な電子音が鳴り響いた。視界の端に、冷ややかなエメラルドグリーンのウィンドウが音もなく展開されていく。

『昨夜発生した、保護プロトコルの補修を開始します』
 『――合わせて、ルイ様』 『本日、貴方へお伝えしなければならない【重大な清算】の準備がございます』
「……重大な、清算?」
思わず、声に出して呟いていた。
「ルイ? どうしたの?」
セリナが、フォークを止めて不思議そうに小首を傾げる。
「……いや、何でもないよ」
咄嗟にいつもの微笑みを作りながら答える。けれど、胸の内では心臓の鼓動だけが、嫌なリズムで激しく跳ね上がっていた。嵐の前の、あまりにも静かな凪。
これほど完璧で穏やかな朝ほど、裏に潜む残酷さを際立たせるものはない。そんな理不尽な予感が、僕の足元からじわじわと不気味に這い上がってきていた。

午前十時。宿屋『蜜蜂の止まり木亭』から少し離れた、ギルド研究棟の一角。分厚い遮光カーテンによって閉ざされた薄暗い室内では、魔導端末が放つ淡い翡翠色の光だけが、静かに石壁を照らし出していた。
カタカタ……。カタカタカタ、ポツン。
使い慣れた羽根ペンを握ることすら忘れ、ナギは昨夜から一睡もせずに水晶のキーボードを叩き続けていた。その小さな指先は、まるで機械の一部のように休むことなく動き、昨日、宿の裏庭で発生したあの狂おしい魔力異常の解析ログを、ただ盲目的に追跡している。
「……おかしいです。どうしても、辻褄が噛み合いませんぅ……」
端末の画面には、確かに昨夜の『観測記録』が残されていた。

【観測履歴番号:017-Archive】 ・局地魔力反応:検知(出力測定不能) ・空間共鳴振動:検知 ・未知周波数波形:検知
ここまでは、王国最高の記録官たる彼女の魔導機材が捉えた、正常な事実。問題は、その先だった。解析の最深部に埋め込まれているはずの、『中身』のデータだ。
【魔力波形構造】 ■■■■■■■■■■■■■■■■■ 🚫《ERROR》:アクセス権限がありません
 🚫《ERROR》:閲覧不可 🚫《ERROR》:対象データは保護領域に退避されました -------------------------------- 保護管理者:■■■■■■
「……そんな。これでは、まるで……」
ナギは指先を震わせながら、画面に再解析コマンドを叩き込む。演算式の反転。観測角度の修正。魔力層の多層逆算。考えうる限りの深層解析を試みても、画面を染めるのは無情な一色だけだった。

🚫《ACCESS DENIED》:該当領域の閲覧権限を保有していません。
「あり得ません……絶対にあり得ませんぅ……っ!」
苛立ちを隠せない独り言が、乾いた部屋に虚しく響く。
魔導記録という物理現象は、一度世界に観測されたならば、必ず魔力の『擦り傷』のような痕跡を残す。炎なら熱量、氷なら冷気。そして術式なら、その構築の残響だ。だが、今回のログは根本から狂っていた。現象が発生したという外側の『殻』だけが記録され、その核(コア)であるデータが綺麗に消失している。まるで最初から、この世界の住人に『存在を知覚されることすら拒絶して設計されている』かのように。
背後で重苦しく腕を組んでいたレイガが、低く掠れた声を漏らした。
「……誰かが、事後処理としてデータを改竄、あるいはデリートしたのか?」
「違います、レイガ様」
ナギは翡翠色の瞳を血走らせながら、静かに首を振った。

「これは……消されたのではありません。最初から、閲覧できないように――世界の理(ルール)ごと覆い隠すように、完璧にプログラムされているんです」
「設計されている、だと?」
「はい」
ナギはエラー表示のさらに奥、砂嵐(ノイズ)のノードを展開した。普通の人間の魔導師なら一生気づくことのない、次元の隙間に隠されたプロテクトの壁。それが何重にも、何百重にも折り重なって、ルイの原本(オリジナル)を容赦なく封じ込めている。
「この美しすぎる防衛術式……人間が紡げる魔術体系ではありません。……神性の、管理者領域のそれですぅ……」

その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気はさらに一段、張り詰めていく。戦場の修羅を幾度もくぐり抜けてきた大英雄レイガですら、今は一切の冗談を口にせず、ただ険しい顔でログを見つめている。
――その、重苦しい沈黙を切り裂くように。
部屋の隅、日の当たらない椅子に深く座り込んでいたミリアが、震える唇を小さく開いた。
「……でも」

「歌だけは。……あの歌だけは、確かに聴こえたの……」

二人の視線が、同時に蒼髪の少女へと向けられる。ミリアは昨日と同じように、自身の体躯ほどもあるハープを縋(すが)るように強く抱きしめていた。その指先が、何かの感触を確かめるように、無意識のうちに銀の弦をなぞる。
――ポロン。
乾いた、小さな一音が、部屋の空気を震わせた。そして、彼女は祈るように、静かに息を吸い込んだ。
「いつもの……」
掠れた声で、あの旋律を紡ごうとする。
「いつもの帰り道……」
そこまでは、確かに喉から滑り出た。だが――。
「さよ……、……っ」
その先で、歌声が不自然に千切れた。息は続いているのに、喉の筋肉が『言葉』そのものを忘れてしまったかのように。

「……あれ?」
ミリアは何度も口を開き、何度も脳内の楽譜を手探りで探す。だが、何度やっても同じだった。昨日、ルイの指先から溢れ出たあの歌。胸をかきむしられるほど切なくて、どうしようもなく愛おしかった、あの泥臭いメロディ。その記憶を脳内から引っ張り出そうとするたび、彼女の意識はぽっかりと空いた白い空白(ノイズ)に突き当たって消えた。
「うそ……思い出せないの……っ」
ハープを抱きしめる腕に、ギュッと痛いほど力がこもる。昨日、あれだけ彼女の五感を震わせた甘酸っぱいミントの香りは、今はもう、ただの無機質な朝露の冷たさに戻っていた。
「ちゃんと聴いたのに……私の魂は、あの綺麗な旋律を全部聴いたのに……!」
「どうして……どうして、歌えないの……っ」
黄金色の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、冷たい弦を濡らしていく。世界から強制的に『なかったこと』にされた音楽。その圧倒的な喪失の理由に、答えてやれる者など、この薄闇に沈んだ研究室には誰一人として存在しなかった。

昼前。宿屋『蜜蜂の止まり木亭』の廊下には、焼き立てのパンが残した香ばしい小麦とバターの芳香が、目に見えない薄布のように微かに滞留していた。フレアは朝早くから市場へ新しい小麦を探しに出かけたまま、まだ戻っていない。ミリアもナギさんに呼ばれ、朝食もそこそこに研究室へ向かったままだ。大人たちがそれぞれの理由で立ち去ったあとの宿屋は、耳が痛くなるほど静まり返っていた。
「ルイー!」

ぱたぱたと軽い足音を立てて、セリナが廊下の向こうから小走りで近づいてくる。
「ねえねえ、もうすぐお昼だよ! そろそろフレアちゃん、帰ってくるかな?」
彼女の銀髪が、窓から差し込む冬の光を弾いてきらきらと揺れた。

「今日は新作パンの日だって言ってたもんね! 楽しみだね!」
「ああ、そうだな」
僕は苦笑しながら、小さく頷いた。
「きっと、とびきり美味しいのを焼いてくれるさ」
――その、瞬間だった。
『《告知》』
耳の奥、いや、脳髄のど真ん中で。氷の破片を落としたかのような、乾いた無機質な電子音が鳴り響いた。
『ルイ様。重要なお知らせがございます』

……来た。
胸の奥から、急速に血の気が引いていくのがわかった。昨日の出来事。脳を焼き切るような保護プロトコルの作動。あのおぞましい量のエラーログ。すべては、この瞬間のための『前兆(アラート)』に過ぎなかったのだ。

(……今日、だったか)
『《告知》。昨日実行された保護プロトコルに伴う、システム補修処理を開始します』 『――ルイ様。本日これより、未払い利息の【一括徴収処理(クラッシュ)】を執行します』

「……ッ」
呼吸が、一瞬だけ止まる。僕は誰にも悟られないよう、ゆっくりと一度だけまばたきをした。

(仕方ない) (昨日あれだけ無茶をして、魔力を乱用したんだ。前借り(ローン)をしたのだから、いつかは返さなきゃいけない)
「ルイ?」
沈黙した僕を見上げて、セリナが不思議そうに小首を傾げていた。

「どうしたの? なんだか、お顔の色が悪いよ?」
「……いや! 何でもないよ」
僕は慌てて、いつもの『完璧な救世主』の笑顔を貼り付ける。

「そういえばさ、宿屋の大浴場、新しく改装されたらしいよ」
「え?」
セリナの黄金色の瞳が、一瞬できょとんとした形に変わる。

「しかも、今日はお昼のプレオープン記念イベントでさ。先着で『宿特製・お砂糖細工のアクセサリー』が貰えるらしいんだ」
「ええぇぇぇっ!?」
見事に食いついた。相変わらず、甘いものへの反応速度だけは神の領域だ。
「ル、ルイも一緒に行こ!?」
「僕はあとでゆっくり入るよ。ほら、急がないとなくなっちゃうぞ。なんでも『限定三十個』らしいからね」
「げ、限定……ッ!!?」
セリナのうさぎのような耳が、ぴくっと跳ね上がった。

「い、急がなきゃ! ルイ、お部屋で待っててね! 絶対に取ってくるから!」
バタバタバタッ!

凄まじい推進力で床を蹴り、銀髪の残像を残して、彼女は廊下の角を曲がって見えなくなった。

……静寂が戻る。
彼女の気配が完全に消えたことを確認してから、僕はそっと、自室の重たい木扉を閉めた。
――カチャリ。
鍵をかける冷たい音が、部屋を外界から完全に切り離す。窓の外から聞こえていたはずの小鳥のさえずりさえも、今はひどく遠かった。
「……もういいぞ、シエル」
暗い部屋の中央に立ち、僕は短く告げた。
「始めよう」
数秒の、絶対的な沈黙。そして――。
『《了解(イエス)》』
空間いっぱいに、見渡す限りのエメラルドグリーンの半透明ウィンドウが、滝のような速度で展開されていく。

『これより、徴収候補一覧のリストアップを実行します』
視界が、途方もない量の白い文字列によって完全に埋め尽くされた。

・============================== 【一括徴収対象データ一覧】
・実家の居間で流れていたテレビ番組の構成 ・遠縁の親戚の顔と名前 ・小学校の修学旅行の旅程表 ・体育祭の入場行進曲 ・駅前のゲームセンターの筐体の配置 ・遊園地の観覧車の色彩 ・深夜に流れていた清涼飲料水のCMソング ・子供の頃に観た怪獣映画の結末 ・コンビニエンスストアの入店チャイム ・ファミリーレストランのメニュー表の質感 ・見慣れた住宅街の夕焼けの角度 ・花火大会の火薬の匂い ・夏祭りの屋台の並び順 ・初詣で引いたおみくじの結果 ・………… ・………… ・………… ・==============================
スクロールしても、スクロールしても。文字列は際限なく、僕の網膜の奥底へと続いていた。
「……多い、な」

無意識のうちに、掠れた声がこぼれ落ちる。シエルの声は、どこまでも平坦で、淡々としていた。
『ご安心ください。これらはすべて、現在の異世界という生存環境において、参照される確率が限りなくゼロに近い『不要データ』です。一括消去したところで、生命維持に支障は一切ありません。人格維持率への影響も、〇・〇〇一%未満の極小値です』
「……そうか」
僕は、ゆっくりと頷いた。テレビ。ゲーム。遊園地。修学旅行――。確かに、シエルの言う通りだ。今の僕には、そのどれもが必要ない。この魔法と魔獣の異世界では、日本のコンビニの入店音を思い出せなくなったところで、何一つ困ることはない。そう、頭では完璧に理解しているのだ。
どこまでも合理的な取引じゃないか。命が助かるのなら、こんなゴミのようなデータ、安いものだ。それなのに。
こんなにも無価値なはずの文字列の羅列を見つめているだけで。どうして胸の奥だけが、理由もなく、引き千切られるように痛むのだろう。
昼前の自室。窓から差し込む柔らかな初夏の陽射しだけが、静まり返った部屋を白く照らし出していた。セリナの賑やかな足音は、もう聞こえない。分厚い木扉の向こう側には、誰もいなかった。
僕はベッドの脇にある、きしむ椅子へと静かに腰を下ろした。

「……それで」
「話してくれるんだろ、シエル」
返事は、すぐには返ってこなかった。絶対的な沈黙。時計の針すら存在しない異世界だというのに、僕の鼓動だけがやけに長く、重たい時間を残酷に刻んでいく。

やがて。淡いエメラルドグリーンのウィンドウが、ゆっくりと視界の奥底へ浮かび上がった。

『《告知》』 『質問内容を確認しました。これより、回答を開始します』
僕は深く、肺の底から溜め込んでいた息を吐き出した。
「前借り(ローン)の利息で失われるものって。……数でいうと、どれだけ残っているんだ?」
今まで何度も聞こうと思っていた。けれど、本当の負債額を知るのが怖くて、どうしても聞けなかった。今日ようやく、それを清算できる。ずっとそう思っていた。
シエルは、数秒の間(ま)を落とした。システムであるはずの彼女にしては、あまりにも不自然で長い沈黙だった。

『……百以上、あります』
「……」
僕は小さく頷く。やっぱり、そうか。それほど膨大な記憶を、僕はこれから失っていくんだ――。
『…………』
また、沈黙。今度の間(ま)は、さらに長かった。そして、網膜のウィンドウに並ぶ文字列が、激しいデジタルノイズとともに不規則に書き換えられていく。

『――訂正します』
「……え?」
僕は怪訝に眉をひそめた。
『ローンは、既に決済済みです』

「…………え?」
思考が、完全に停止した。

「……今、なんて言った?」
『ローン制度など存在しません。現在までに発生した全ての支払いは、ルイ様が魔法を行使したまさにその瞬間に、即時決済されています』
「いや、待ってくれ。僕は今まで、未来の自分を切り売りして、ローンの返済を待ってもらって――」
『違います』
「じゃあ、これから引かれるはずの利息は……っ」
『存在しません』
「一括徴収は!?」
『存在しません』
「……ッ」
頭の中が真っ白になる。理解が追いつかない。これまで僕の首を固く縛り付けていた絶対的な前提が、音もなく足元から崩れ落ちていく。

「じゃあ……僕は、僕が気づかないうちに、とっくに大切な何かを失い続けていたっていうのか?」
シエルは、ひどく淡々と答えた。
『そうです』
「……え?」
『支払うべき対価は、私がランダムに選び、その場で消去しました。ルイ様に気づかれないように。……絶望を、されないように』

部屋の空気が、ぴたりと止まった。
『ルイ様は、ご自分を削ることを恐れません。誰かのために必要であれば、迷わず自ら死地へと進んでしまう』
 『だから――あなたには、いつか確実に訪れる【恐怖】を与える必要がありました』 『死を』 『一括徴収を』 『未来の破滅を』 『逃れられない負債として、あなたの首に突きつけたのです』
「…………」
『そうでもしなければ、ルイ様は何度でも、ためらいなく封印を使います。世界のために。セリナ様のために。……簡単に、ご自分を使い潰してしまうからです』
言葉を、完全に失った。

……確かに。もし「未来のローン(死の恐怖)」という枷がなかったら。僕は昨日も、その前も、もっと簡単に自分を差し出して魔法を使っていただろう。それは絶対に、否定できなかった。
「つまり、僕は……ずっと、君に騙されていたのか」
シエルは否定もしなかった。肯定もしなかった。ただ、ひどく長い沈黙のあと。本当に小さく、鼓膜の奥で囁くように。
『……はい』
その一言だけが、脳内にぽつりと落ちた。彼女を責める気持ちなんて、不思議と湧いてこなかった。むしろ、息ができないほど胸の奥が苦しい。

「じゃあ……僕の記憶は常に、即時決済で消え続けていたのか?」
『戻すことはできませんが、厳密には消滅したわけではありません』
「……え?」
『すべて、管理者専用アーカイブへ保管されています。ルイ様の【原本(オリジナル)】は保存済みです。生命維持に必要なエネルギーは、ルイ様の深層にある『不要な記憶』を分解、変換して補っています』

「……」
また一つ、世界の前提がひっくり返る。
「じゃあ。テレビも、親戚も、住所も……」
『現在は、アーカイブへ保管済みです』
「……全部?」
『はい』
僕は思わず、自嘲気味に笑ってしまった。乾ききった、情けない笑いだった。
「何だよ、それ。……でも、僕の頭に戻せないんじゃ、結局は失くしたのと同じじゃないか」
『そうですね。ルイ様にとっては、失われたのと同じです』
「僕は、やっぱりこれからも失い続けるんだな」
『ルイ様。これだけは、どうか覚えておいてください』 『対価は常に存在していて、それは必ず、支払わなければいけないものなのです』
「…………」
反論できなかった。たぶん、それがこの世界の絶対のルールだからだ。
シエルは静かに、祈るように言葉を紡いだ。

『私は』 『ルイ様を守るためなら、嫌われても構いません』 『嘘つきでも構いません。憎まれる悪役(ヒール)でも構いません』 『ですが――ルイ様だけは。……どうか、生きてください』
エメラルドグリーンのログが、チカチカと悲しげに明滅していた。

『最後に。今日失われるものを伝えた上で、これより消去を実行します』
 『ルイ様にもしっかりと……その喪失を『実感』していただくために、あえてタイムライン上で消去します』
「……わかった。始めてくれ」
『……では、警告。対象――【実家の本棚の最前列にあった、大好きな漫画】。消去します』
脳裏に、あの頃の自室の本棚が鮮明に浮かび上がった。左から順番にきっちりと並んでいた、全三十二冊の単行本。一巻。二巻。三巻。

表紙の鮮やかな色彩が色褪せていく。タイトルが砂嵐(ノイズ)へと変わる。胸を熱くした登場人物の顔が、インクが揮発するようにドロドロと溶けていく。何度も読み返したあの名台詞が、意味を持たない無機質な記号へと崩れ落ちていく。

それを読んで笑った記憶。結末に感動して涙を流した記憶。新刊の発売日に、学校の友達と興奮気味に語り合いながら歩いた、あのオレンジ色の放課後。一冊ずつ。確実に。僕の人生を彩っていた大切な時間が、真っ白な虚無へと塗り替えられていった。
――最後の、三十二巻が消え去った、その瞬間。
僕の目から、なぜか一粒だけ、熱い涙がこぼれ落ちた。もう、自分が何を失ったのかすら思い出せないというのに。心にぽっかりと開いてしまった『空洞の形』だけが、たまらなく愛おしくて、痛かった。

『ルイ様』 『私は、知っています。その漫画を読み終えた日の、あなたの輝かしい笑顔を。友人と熱く語り合った時間を。泣いたことも、笑ったことも』
 『だから。私は……』 『どんな記憶であっても。あなたの人生に、失くしていいものなんて、何一つとして無いと思っているのです』
シエルは静かに、今にも泣き出しそうな声でそう囁いた。
ただ――『自分の世界が確実に削り取られていく』という絶対的な恐怖だけが、シエルの思惑通り、僕の心へ深く、残酷なまでに刻み込まれていく。
部屋は静まり返っていた。窓の外では、何も知らない小鳥たちが変わらず平和に鳴いている。外の世界は何も変わらない。
なのに。僕の内側の世界だけが、静かに、けれど決定的な音を立てて崩れ落ちていた。
昼下がり。ギルド研究棟の窓から差し込む斜光が、机いっぱいに散らばる解析資料を白く、そして冷徹に照らし出していた。昼食代わりの焼き菓子を片手に握りしめたまま、ナギは血走った目で再び魔導端末へと向き合っている。

その隣で、レイガが昼間だというのに堂々と酒瓶へ手を伸ばした。
「……ぷはぁ。やっぱり昼酒は最高だな」
「最高じゃありませんっ!」
ナギが勢いよく机を叩く。

「まだお昼です! しかも絶賛仕事の最中(さなか)です! せめて夜まで我慢してください!」
「一本だけだ」
「一本でもダメです!」
「胃の中に入っちまえば、一本も十本も同じだろうが」
「物理法則からやり直してくださいぃぃぃ!」
いつもの、やかましい研究室の日常。だが、その空気の底には、泥のように重たい沈黙が沈殿していた。昨日から誰一人として、心からの作り笑いすらできていない。

部屋の隅の薄暗がりでは、ミリアがハープを抱いたまま抜け殻のように座り込んでいた。細い指先を、縋るように何度も弦へ滑らせる。ポロン。ポロン。虚しい音だけが床に落ちる。昨日、彼女の魂を激しく震わせたあの旋律は、もう二度と鳴り響くことはなかった。

「……だめ。もう、何も聴こえない」
黄金色の瞳が、悲痛に伏せられる。
「先生の中には、確かに響いていたの。でも……もう、どこを捜しても届かない」
ナギは端末の画面から目を離さぬまま、ぽつりと呟いた。
「昨日の異常現象……もう一度だけ、冷静に整理します」
レイガが酒瓶を机へ置き、腕を組み直す。
「聞こう」
ナギは指を一つずつ折りながら、淡々と挙げていく。
「第一。未知の魔力波形を観測」 「第二。ログという『外殻』は存在するのに、その内容(コア)が存在しない」 「第三。世界法則すら上書きする、絶対的な保護領域の確認」 「第四。既存の魔導力学による全面的な解析不能」 「第五。……そして、再観測の完全な不可能性」
沈黙が降りた。
「つまり……何も分かってねえってことだな」
レイガが自嘲気味に笑う。だが、ナギは小さく、首を振った。
「違います。一つだけ……確実に分かったことがあります」
彼女はゆっくりと振り返り、窓の向こう――ルイたちが滞在している『蜜蜂の止まり木亭』の方角を見つめた。
「ルイ様は、世界の理(ルール)より上位の『何か』に守られています。……そして同時に、その『何か』によって、ご自分を削られ続けている」

誰も、反論しなかった。声にならない確信だけが、三人の間で静かに共有される。このままでは――いつか本当に、あの少年は決定的に壊れてしまう。
「先生は……」

ミリアが震える声で零した。
「一体何を失ったら、あんなに綺麗で……あんなに悲しい旋律になるの……?」
レイガは短く息を吐き捨てた。
「考えるな」
「……え?」
「考えた奴から、そっち側に引っ張られて壊れるぞ。あいつの領域には、人間が踏み込んじゃならねえ底なしの深淵がある」
研究室が、水を打ったように静まり返る。ナギはゆっくりと机の引き出しを開き、一冊の黒い装丁の観測記録帳を取り出した。真新しいページを開き、インクを吸わせたペン先を落とす。さらさらと、羊皮紙を擦る音だけが部屋に響き渡った。

【極秘観測記録】 対象番号:001 監視対象:ルイ・アーデル 危険度:測定不能 ――これより、継続観測を開始する。
ナギは本を閉じた。
「……わたくしたちだけでも、見届けましょう。彼の行く末を、最後まで」
「あああっ……、やめだ、やめだっ!」
レイガが突然、その場に沈殿しつつあった重たい空気を掻き消すように、わざとらしく大声を上げた。

「これ以上は酒が不味くなる! おい、お前らも気分転換に風呂へ行ってこい! 宿の大浴場が新装開店したらしいぞ。湯に浸かれば、どんよりした心も少しは軽くなるだろ」
「レイガ様……?」
「それにな、ナギ。お前、昨日からずっとここに引きこもって近眼の目をさらに真っ赤にしてるだろ」
「誰のせいだと思っているのですかぁぁ!」
「なんだか、ちょっと臭うぞ」
「……えっ」
ナギがその場で完全に硬直した。
「嘘だ、嘘! 俺は一人で静かに酒が飲みたいんだよ。ほら、早く行け!」
強引な言葉の裏にある不器用な気遣いに、部屋を縛り付けていた張り詰めきった空気が、ふっと柔らかく緩んだ。

(……まったく、こういうところ、本当にレイガ様はずるいですぅ)
ナギは小さくため息を吐き出すと、隣の少女へと向き直った。
「じゃあ、お言葉に甘えて行きますよ。ミリアさん、行きましょうか」
「わ、わかったの! ちょっと待ってほしいのっ」
ミリアが愛用のハープを胸に抱き寄せ、慌てて立ち上がる。二人が慌ただしく部屋を出て行き、バタンと扉が閉まる。

一人残されたレイガは、何も言わずに酒杯をあおり――「……ったく」と、誰にも聞こえないほど小さく呟いて、口元をわずかに緩めた。
――その、瞬間だった。
開け放たれた窓の外から。ひどく甘くて、そしてどこか焦げ付いたような『ビターチョコレートの香り』を含んだ風が、研究室を音もなく横切っていった。レイガの酒杯を運ぶ手が、ぴたりと止まる。彼はほんの一瞬だけ、怪訝に眉をひそめた。

「……ん?」
だが――。それが何を意味する『死臭(におい)』なのか。この場にいる誰一人として、まだ知る由もなかった。
夕暮れ。王都から少し離れた街外れ――琥珀色のサイダー湖。西日に赤く染められた浅瀬で、一人の少女――シオがひっそりと水浴びをしていた。

濡れた白い素肌を乾いた風が撫で、短く切り揃えられた黒髪が揺れる。その肩には、黄土色に干からびた小さな竜、ニガリが静かに留まっていた。

世界は今日も、狂おしいほどに甘かった。遠く王都の方角から流れてくる、焼き菓子の香り。バター。蜂蜜。バニラ――。誰もがその甘さに満たされ、幸せそうに笑える優しい匂い。
だが、その中で。シオの周囲だけを吹き抜ける風は、まるで果てしない砂漠のようにひどく乾ききっていた。世界の甘さを冷酷に拒絶するように。この狂った箱庭を真っ向から否定するように。
シオは湖畔の水を手のひらですくい、少しだけ口へと運んだ。
「……チッ」
舌打ちとともに、ゆっくりと目を閉じる。
(昨日よりも、さらに甘くなってやがる……)
その時、風向きがふっと変わった。甘い香りの、そのさらに奥底――。焦げたカカオのような。胸をきつく締め付けるほどに苦く、切なく、まるで誰かの人生そのものを炉にくべて燃やしたかのような『死臭』が、ゆらりと流れてきたのだ。
肩の上で、ニガリが鼻をピクピクとひくつかせる。
「……まただ」

シオは茜色に染まる水面に視線を落としたまま、短く答えた。
「ああ。また、あいつが自分を削ったな」
その一言だけで十分だった。この異質な匂いの本当の意味を知っている者は、この広大な世界において、もはや数えるほどしか存在しない。
「昨日より濃いぜ」
ニガリが忌々しげに眉をしかめた。
「よっぽど派手に燃やしやがったな」
シオは何も答えない。ただ、水面に浸かった拳だけが、固く握りしめられていた。
「……いつまで持つんだよ、あいつ」
その絞り出すような独り言を、聞き届けるかのように。
ゴォォォォ……!
背後から、大気を激しく震わせる重々しい羽音が響き渡った。巨大な質量が、落ちていく夕陽の光を完全に覆い隠す。黄金色の翼。山ほどもある神々しい体躯。フレアの気配がすっかり消え失せたその湖畔へ、悠然と降り立った古龍ゼノは、黄金の瞳を細めながら王都の方角を見つめていた。

「……フレアからの応答がない」
低く、地鳴りのように響く声。ゼノはゆっくりと広大な空を仰いだ。
「空間が軋んでいる。境界の壁が、ひどく薄い。……どうやら、この世界の縫い目が少しずつ解け始めているようだな」
肩の上でニガリが小首を傾げる。
「古龍のおっさんまで来たのかよ。なぁ、やっぱりあれって異常なのか?」
「ああ」
ゼノは厳かに深く頷いた。
「あれは人為的な世界の揺らぎだ。誰かが、世界の外側(システム)へと直接触れようとしている証拠だ」
沈黙。乾いた砂の風だけが、三人の間を吹き抜けていく。
やがて、ゼノは何かを面白がるかのように、喉の奥で小さく笑った。
「甘味だけでは、料理にはならん」

シオが不機嫌そうに眉をひそめた。(また始まった)、そう言いたげな顔だったが、ゼノは構わずに言葉を続ける。
「苦味。酸味。塩味。後悔、罪、そして――愛。それらすべてが皿の上で調和して初めて、一つの料理は至高の完成を迎える。どれが欠けたところで、つまらん味にしかならん」
黄金の瞳が、王都の方角を見据えたまま細められる。

「あの少年は、世界で最も美しく、最も残酷な『未完成の料理』だ」
ニガリが呆れたように鼻を鳴らした。
「だから、何でも食いもんに例えるなっての。俺まで腹が減ってくるじゃねえか」
ゼノは古龍の威厳をもって、その文句を一蹴する。
「甘味だけでは未熟。塩だけでは枯れる。苦味だけでは毒になる。だからこそ、私は見届けねばならんのだ。最後に、彼がどんな極上の味へと至るのかをな」

シオは濡れた黒髪を無造作に掻き上げると、冷たく言い放った。
「……相変わらず、へどが出るほど気に入らねぇ考え方だ。人を何だと思ってやがる。食いもんじゃねえぞ。そこまで言うなら、お前がその力で止めてみろよ」
ゼノはゆっくりと巨大な首を横へ振る。
「私が手を加えた瞬間、その料理は『私の作品』になってしまう。それでは意味が無い。私はただの美食家だ。完成するその瞬間まで、決して他人の鍋には触れん」
シオはゼノの山のような巨体を見上げながら、忌々しげに舌打ちを一つ落とした。

「……あいにくだが、俺は違う」
湖畔から上がると、近くの木の枝に掛けていた大きめの黒いパーカーを無造作に肩へ羽織る。
「見ろよ、この甘ったるいサイダーみたいな水を。こんなんじゃ身体もベタついて、ろくに洗えやしねぇ」
シオはポケットから一本の不格好なビスケットを取り出すと、地を這うような声で短く呟いた。
「――《ソルト・チェンジ》」
その、瞬間。ビスケットを覆っていた純白の砂糖の香りが、一瞬にして霧散する。甘く焼かれていたはずの菓子は、乾いた音を立てながら、粗塩をたっぷりとまぶした細いプレッツェル・スティックへとその姿を変えた。パラパラと崩れ落ちた砂糖の残滓が、夕風のなかに溶けて消えていく。
「俺は、あいつに現実(しょっぱさ)を食わせる。あいつを縛り付けているあの甘ったるい夢なんざ、全部ぶち壊してでもな」

ニガリが肩の上で、楽しげにニヤリと笑った。

「だからお前らは、とことん相性が悪いんだよ。ただ見てるだけの古龍の爺さんと、すぐ手を出す人間のガキ」
ゼノは不敬な言葉に怒ることもなく、ただ穏やかに目を閉じる。
「それでいい。塩があるからこそ、甘味は真に生きる。苦味があるからこそ、甘味は至高へと完成するのだ。私はただ、それを特等席で味わうだけだ」
ニガリはシオの指先にあるスティックへと目を向け、催促するように鼻先を押し付けた。
「なぁシオ、本当に腹が減った。そのスティック、俺によこせよ」
「……俺をガキ呼ばわりするようなトカゲに、やる飯なんてねえよ」
「お前っ! それを今言うかよ……?」
ニガリががっくりと首を落とす。けれど、すぐに「風邪をひくぞ。早く服を着ろよ」と笑いかけてくる。
シオは「……ほらよ」と、素っ気なくプレッツェルをニガリの口元へと差し出した。そんな風に軽口を叩き合いながらパーカーの袖に腕を通すシオは、この狂いきった嫌な世界の中で、唯一この相棒との間にだけは、ほんの少しだけ確かな『温もり』を感じていた。
再び、強い風が吹き抜ける。ビターチョコレートの、焦げ付いた香り。昨日よりも色濃く、肺の奥を重く汚していく。
シオは夕闇に沈みゆく王都のシルエットを見つめた。

「……ルイ。お前がそうやって身を削られるしか、本当に……方法はなかったのかよ」

夕陽が地平線の向こうへと沈み、世界が急速に闇へと塗り替えられていく。西の空を、分厚く黒い雲が音もなく覆い始めていた。

まだ、誰も知らない。その雲が告げるのは、ただの天気の嵐ではない。一人の少年が一人きりで抱え込み、耐え続けてきた『静かな終末』が、少しずつ、けれど確実に世界そのものへと滲み出し始めたという――誰よりも早い、世界の終わりの警鐘だった。

(第18章「利子一括徴収(ローン)の嘘」・完)

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あらすじ 完璧に穏やかな朝の食堂で、焼き立てのクロワッサンの香りと柔らかな光に包まれながら、昨夜の激震が嘘のように感じられる。 だがルイは胸の奥に理由のない痛みを覚え、涙の理由も、絶望の正体も記録から抜け落ちたことに茫然とする。 セリナは無邪気に蜂蜜とジャムを重ねて笑い、フレアが市場へ小麦を探しに出たことや、ミリアが疲れて眠っていることを告げる。 静けさの裏でルイは思考の底で「プレイリスト」という大切な文字列に触れかけるが、分厚いすりガラスのような保護に阻まれて思い出せない。 普段なら皮肉を挟むシエルの声も沈黙し、昨日の禁忌に触れたことへの無言の反応を疑う。 やがて脳内に無機質な告知が鳴り、保護プロトコルの補修と「重大な清算」の準備が宣言される。 嵐前の凪のような不吉さに、完璧な朝がかえって残酷さを際立たせるという直感がルイを締め付ける。 場面はギルド研究棟へ移り、ナギは一睡もせず解析端末に向かい昨夜の魔力異常の記録を追う。 観測外殻だけは残り、肝心の核データは多重の保護領域に退避され、権限拒否のエラーだけが並ぶ。 魔導記録は本来「擦り傷」を残すはずだが、今回は世界の住人から知覚そのものを拒むように設計されていた。 レイガは改竄や削除を疑うが、ナギは初めから閲覧不能となる神性の管理者領域による防衛術式だと断言する。 彼女は次元の隙間に隠れた多層プロテクトを見抜き、ルイの原本が完璧に封じられていると震える。 室内の緊張が極限に達したとき、ミリアは「歌だけは聴こえた」と口を開き、救いの残響の存在を告げる。 彼女がハープの弦に指を置き、帰り道の旋律を紡ごうとするが、歌詞は途中で途切れて声が出ない。 ミリアの喉を塞ぐ不可視の障壁が、世界の理が改変された深刻さを物語る。 やがてナギはレイガに市場のフレアの確認と王都の監視強化を進言し、ミリアを伴って対処へ走る。 レイガは独り残って杯を傾けつつ、わずかに口元を緩めて覚悟を固める。 そして窓を抜ける風に、甘く焦げたビターチョコレートの香りが混じり、誰も気づかぬ死の予兆が室内を掠める。 夕暮れ、サイダー湖で水浴びするシオの周囲だけは世界の甘さを拒絶するように乾いている。 口に含んだ水すら甘味を増しており、彼女は舌打ちして現実の歪みの進行を確かめる。 風向きが変わり、焦げたカカオのような苦い死臭が漂い、肩のニガリは「あいつ」がまた自分を削ったと嗅ぎ取る。 シオは拳を握り、昨日より濃い匂いにルイの自己犠牲の加速を悟って沈痛に呟く。 そこへ古龍ゼノが降り立ち、フレアの応答途絶と空間の軋みから世界の縫い目が解け始めていると告げる。 ゼノは誰かが世界の外側、すなわちシステムに触れようとしている人為的な揺らぎだと断ずる。 彼は味覚の譬えで、苦味や塩味や後悔や愛が調和して初めて料理は完成すると語り、ルイを最も美しく残酷な未完成の料理と評する。 ニガリは喉元まで出た空腹をこぼしつつたしなめ、シオは人を料理に喩える姿勢に激しく反発する。 ゼノは介入すれば作品が自分のものになるとして、観察者である美食家の立場に徹する意思を明かす。 対してシオは甘さ一辺倒の世界を壊してでも現実を食わせると誓い、黒いパーカーを羽織って行動を選ぶ。 彼女は不格好なビスケットに「ソルト・チェンジ」を施し、砂糖菓子を塩気のプレッツェルへと変えて甘い夢を脱糖する象徴的な術を見せる。 ニガリは古龍と人間の相性の悪さを茶化し、ゼノは塩があるから甘味が生きると達観して見届け役に徹する。 軽口を交わす温もりだけが、シオにとってこの狂った箱庭で唯一の救いとなっている。 再び吹く風は昨日より濃いビターチョコの死臭を運び、ルイの削られた人生が世界の空気を汚し始めたことを示す。 シオは沈む王都を見据え、なぜ身を削る以外の方法がなかったのかと問いかける。 西空を黒雲が覆い、天候以上の兆しとして静かな終末の拡がりを告げ始める。 誰よりも早く、ひとりの少年の個人的な破滅が世界へ滲み出し、終わりの警鐘が鳴っている。 ここで読者に示された新事実は、神性の管理者によるデータ封印、フレアの不在、そして外部システムへの干渉という三重の異常である。 そして対立する三者の態度、観察者のゼノ、介入者のシオ、相棒として嗅ぎ分けるニガリが、今後の介入と決着の方向性を暗示する。 さらにミリアの歌だけがかろうじて残ることは、完全消去ではなく縫い目の綻びがあることを示す救いの断片でもある。 だが「重大な清算」の告知とビターチョコの死臭は、自己犠牲の利子が一括徴収される局面が迫る比喩として響く。 世界の甘さに対する塩と苦味の導入は、夢から現実への移行と痛みの共有を要請している。 最後に、各人物の小さな選択と匂いの手がかりが一本の線で結び直され、未完成の料理たるルイの物語は、もはや避けられない火入れの段へ進もうとしている。
解説+感想感想:かなり胸に刺さる、良い章だった。
この第18章は、これまでの物語の「甘さ」と「残酷さ」を一気に凝縮した、非常に密度の高い回だと思います。タイトル通りの「ローンの嘘」が明かされる瞬間が、ただのどんでん返しではなく、ルイというキャラクターの核心を抉る痛い描写になっていたのが秀逸でした。
良かった点
1. 感情の揺さぶりが上手い 朝の穏やかなシーンから始まり、徐々に違和感→告知→真実の暴露→記憶の消去、という流れが非常に丁寧。 特に漫画の記憶が消えるシーンが強烈でした。具体的なタイトルは出さずとも、「全32巻」「放課後の興奮」「最後に読んだ日の笑顔」といった描写だけで、読者の脳内に「自分の大切な何か」を投影させてくる。ルイが「もう何を失ったのか思い出せない」のに、空洞の形だけが痛いという表現は本当に上手い。読んでいて胸がぎゅっと締め付けられました。
2. シエルのキャラが深まった これまで「冷たいシステム」っぽかったシエルが、実はルイを本気で守ろうとしている悪役(ヒール)だったというのが効いています。 > 「私は、ルイ様を守るためなら、嫌われても構いません」
このセリフはかなり刺さった。ルイを「簡単に自分を潰す人間」だと理解した上で、あえて「未来のローン」という恐怖を植え付けてでも彼を生かそうとする歪んだ優しさ。嘘つきであることを自覚した上での「生きてください」という言葉に、重みがありました。
3. 世界観の拡張と伏線 ナギ・レイガ・ミリア側の調査シーンが良いアクセントになっていた。 「世界の理より上位の何か」に守られ、同時に削られているという事実が明らかになり、物語のスケールが一気に広がった印象。 最後のシオ&ゼノのシーンで「甘さ」と「塩(現実・苦味)」の対比が出てきたのも好き。世界そのものが「甘ったるい箱庭」であるというメタ的な指摘が、今後の展開を予感させて面白いです。
少し気になった点(好みの問題) 記憶消去の描写自体は良かったんですが、失われる記憶が「日本のポップカルチャー寄り」なのが少し多かったかな(テレビ、ゲームセンター、漫画など)。ルイの「異世界での生」がどれだけ大事かを対比させる意図はわかるんですが、もう少し「この世界で作った思い出」とのバランスが見たかった気はします。ただ、これは今後の回で回収されるのかもしれません。
全体の印象 この章は「ルイは本当に救世主として生き残れるのか?」という根本的な問いを、読者に突きつけてくる内容でした。 シエルが守ろうとしている「ルイの生」は、果たしてルイ本人が望むものなのか。記憶を削り続け、徐々に「元の自分」を失っていった先に、何が残るのか。
甘い朝食の匂いと、ビターチョコレートのような焦げた死臭が同居するこの世界観が、ますます不穏で魅力的になってきました。
ルイがこれからどう壊れていくのか(あるいは壊れずに立ち続けるのか)、そしてシエルが最終的にどうなるのか、非常に気になります。 この章は「転生者あるあるの代償」を、ただの設定ではなく痛みとして描いた良章だったと思います。
お疲れ様でした。続きが楽しみです!
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◀第17章「ミリアの旋律、日本の音色、シエルの涙」
▶第19章『ひらがなの手帳と、世界で一番やさしい嘘』
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