◀外伝・第10章「演算神の空箱、あるいはドタバタ神殿の開幕(Ver3.0)」
▶外伝・第12章「超過保護なお使い任務、あるいは市場の最適化(オプティマイズ)」
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外伝・第11章(本編:10.11)「ドタバタ日常と、過度なスキンシップの仕様」
「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 九州そら」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 離途」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」
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朝日が、宿屋『アーデル(Adel)』の古びた木枠の窓から柔らかく差し込んでいた。

焼き立てのパンが放つ香ばしい匂いと、階下から響いてくる食器の触れ合う軽やかな音。どこか懐かしく、胸の奥底がじんわりと温かくなるような朝だった。
「……ここは」
見覚えはある。 あるはずなのに、脳内の描画(レンダリング)がどこか追いつかない。
「……僕、何日くらい寝てたんだ?」

頭の中が、妙に白い。 昨日のことが思い出せない――いや、昨日どころの騒ぎではない。ここ数日分の記憶セクタが、すっぽりと穴が開いたみたいに消え去っているのだ。
「まぁ、考えても算術的な答えは出ないか」
ベッドの上で身を起こし、ぼんやりと自室を見回す。 壁の一角には、近所のゴミ捨て場から拾ってきて修繕した小さな古い黒板。そこには高度な幾何学魔法の数式に混じって、『油汚れを百%落とす最適角度』や『パンを最も美味しく切る包丁の入射角』などがチョークでぎっしりと書き殴られていた。

机の上には白紙の『虚数魔導書』が鎮座しており、その周囲はバルタザール商会から安く買い叩いた算術や物理学の難解な古書と、インク瓶で埋め尽くされている。

(僕の部屋だ……。今更だけど、脳内サーバーが凄く落ち着く)
軽く頭を掻きながら部屋を出ようとして――ふと、視界の端の違和感に気がついた。
「あれ? 部屋の半分――しかも一番陽当たりの良いエリアが、見慣れない謎の豪華なカーテンで仕切られてる……?」

不吉な予感を感知し、そっとカーテンの隙間を覗き込む。
「待て待て待て。なんで僕の部屋に『公爵家御用達のフリフリ天蓋付き特大クッション』が鎮座してるの……?」

(算術的に言って、何万回再計算しても解答が導き出せないんだけど……)
「……まあいいや。今はお腹が空いたし、このバグは見なかったことにしよう」
処理落ち寸前の思考を強制シャットダウンさせ、僕は階段を降りていく。 ギシッ、と古い木板が鳴った。海辺の街の片隅に佇む、潮風を浴びて少し色褪せたこの建物は、傷みも目立つがどこか温かい。 そのまま一階へ降り、食堂のドアを開けた。

――その、まさに刹那だった。
「ルイくん! おはようっ!」

――ダッ!
「うおっ!?」
銀色の髪が朝日にきらめいたと思った瞬間、少女が一直線に僕を目がけて飛び込んできた。

だが、僕の野生の勘が、反射的に半歩だけ横への退避を選択する。
「きゃっ!」
見事に空振りしたセリナが、そのまま前のめりによろけた。
「危ない危ない。寸前で回避成功だ」

「むぅ……。避けなくてもいいじゃない、ルイくんのいけず」 「いや、普通は避けるだろ。朝一番から何なんだ、その質量兵器みたいな突進は」
「ふふっ、相変わらず賑やかねぇ」
厨房の奥から、くすくすと小さな笑い声が聞こえてきた。 振り向くと、見慣れたエプロン姿のおばちゃんが、焼きたてのパンを籠へ手際よく並べている。

「おはよう、ルイちゃん。よく眠れた?」 「あ、おはようございます、おばちゃん」
一瞬だけ。

おばちゃんの笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに揺らいだ気がした。 まるで、目の前にいる僕の存在が、今にも消えてしまいそうな幻だと怯えているかのように。 だが、その翳りはすぐに、いつもの優しい笑みへと塗りつぶされる。
「もうすぐ朝ご飯だから、早く顔でも洗っておいで」 「あ、はい。ありがとうございます」
……あれ。 なんだろう。今、胸の奥のディレクトリが少しだけ引っ掛かったような。 だが、深く考えるより先に、今度は別の強烈な違和感が強制的に網膜へ飛び込んできた。
宿の床を、見覚えのある白銀の鎧を纏った大男が、モップで一生懸命に磨いていたのだ。

「……」 ゴシゴシ、ゴシゴシ。 「……」 ゴシゴシ、ゴシゴシ。
「…………レオン?」 「おはよう、ルイ」 「いや、おはようじゃなくて」
思わず自分の視覚センサーを疑って二度見した。
「なんで王国の勇者が、うちの宿屋で全力で床を磨いてるの?」

レオンはモップの手を止めることなく、極めて真剣な表情で答える。
「居候させてもらっている。だから、相応の労働でリソースを支払う。当然だ」 「真面目か!」 「っていうか、聖騎士団の仕事の方はどうなってるんだよ!? 君、一応は若き天才隊長だよね!?」 「心配ない。副隊長が、極めて有能だ」 「組織のトップが言っていいセリフじゃないからね!?」
魂のツッコミが漏れる。 すると、厨房からおばちゃんがからからと笑いながら口を挟んできた。
「レオンくん、本当によく働いてくれるんだよ。力仕事の薪割りも、水汲みも、お掃除も。もう大助かりさ」

(ちょっと待って……。それって、聖騎士団の職務を完全に放棄して、一日中うちの宿屋の雑用をこなしてるんじゃ……。いやいや、まさかな。あの熱血正義バカに限ってそんなバグは――)
「そう……なんだ。あはは……」
いや、待て。 レオンがただの有能な宿屋の丁稚と化していることも十分に大事件なのだが――。 僕は改めて、朝日に照らされた食堂をぐるりと見回した。
部屋の隅には、高級感の溢れる見慣れた旅行鞄。

椅子の上には、公爵令嬢のものとおぼしき純白の上着。 廊下には、仕立ての良い女性物の靴が、我が物顔できちんと並んでいる。
「……なぁ、セリナ」 「ん?」 「もしかして、君もここに住んでる……?」
一寸の曇りもない、満面のドヤ顔が返ってきた。
「うん! 今日からじゃないよ! もう数日前からルイくんの部屋をハッキング(同居)してるよ!」

「…………」
僕は、深く額に手を当てて天を仰いだ。
「僕が寝込んでいる間に、一体何が起きたんだ……?」 「えっとね! いろいろ!」 「情報量ゼロ!」 「概ね、セリナの認識で合っている」 「居候大男の君まで合意するの!?」
その、まさに混迷を極めた瞬間だった。
『――ルイ様』

脳内の最深部から、ひどく透き通った少女の合成音声が響く。新OS『シエル』だ。
『私が、この数日間のイベントログをご説明しましょうか』 (……あ。そういえば、君がいたね) 『ルイ様! 私の存在を思い出すインデックスが遅すぎます。記憶領域のタスク割り当てを、私に多めに振ってください』
宿屋に響き渡る賑やかな笑い声。

香ばしい朝のパンの匂い。 そして、自分だけがアクセス権限を持たない、空白の数日間。
どうやら僕の日常(システム)は、深い眠りに落ちている間に、完全におかしな方向へと上書き(アップデート)されてしまっていたらしい。
朝食の席に着く頃には、香ばしい焼き立てのパンの香りが食堂の隅々にまで行き渡っていた。

木目のテーブルの上には、じっくり煮込まれた温かな具だくさんスープに、新鮮な温野菜サラダ、そして湯気を立てる極上のハチミツパン。

「はい、召し上がれ。たくさんお食べ、ルイちゃん」 「ありがとうございます、おばちゃん」
感謝を口にして手を合わせようとした、まさにその刹那だった。 視界の端へ、見慣れた半透明の青白いシステムウィンドウが、空気の読めないタイミングで音もなく浮かび上がる。
[ システム:人格修復プログラム ―― ]

[ 現状ステータス:人格復元率 31.4% ] [ 処理:現在の最適リハビリ環境を算出します ―― ]
「……また出たよ、このお節介OS」
小さく呟くと、すぐ隣の席に完全マークで陣取っていたセリナが、待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。
「シエルちゃん? 何か有益なログが出たの?」 「はい」
鼓膜へ、抑揚を綺麗にパージした透き通った少女の声が直接響く。
[ 提示:推奨リハビリ事項 ―― ] ・安心安全なホームディレクトリ(生活環境)の維持 ・十分な睡眠の確保 ・適切な栄養摂取(美味しい食事) ・信頼できる対象との『身体的接触(スキンシップ)』 ・適度な散歩および入浴 ・日常的な新鮮な驚き、および心理的刺激(サプライズ)
「……身体的接触?」
その不穏すぎる四文字に眉をひそめた、コンマ数秒後。
「つまり!」

銀髪をふわりと躍らせ、セリナの青い瞳が獲物を前にした捕食者のように爛々と輝き出す。
「ルイくんを一日中、腕がちぎれるくらいいっぱいぎゅーって抱きしめればいいんだね!?」

「違う。それ絶対にバグを誘発する間違った解釈だよね!?」
全力の否定を叩きつけたのは、残念ながら僕だけだった。 セリナは満面の笑みという名の無敵バリアを展開したまま、勢いよく椅子から立ち上がる。
「大丈夫だよルイくん! 私に全部、任せて!」 「だから一番任せたくない相手なんだって! 頼むから一回座って落ち着こう!?」
がばっ!! と間髪入れずに物理ゼロ距離へと飛びかかってくる聖女。

僕は朝一番の反射神経をフル稼働させ、椅子ごと後方へ高速ステップを踏んで辛うじて難を逃れる。 しかし――。
[ 警告:距離測定 ―― ] [ 対象との現在距離:28.4cm ―― ] [ 判定:推奨抱擁距離未満です。速やかなる肉体密着(マージ)を強く推奨します ]
「おいシステム! 敵に回ってこれ以上の追い打ちをかけるな!」 「ルイくん! 逃げないでぇ!」 「朝の穏やかな食卓で、理由もなく弾道ミサイルみたいに抱きつかれる筋合いはこれっぽっちもないんだよ!」
食堂のテーブルをぐるりと一周する、必死の防衛チェイスが幕を開けた。

華麗なステップで包囲網を狭めてくるセリナと、ハチミツパンを死守しながら木机を盾にする僕。 朝から一体全体、僕は自意識の処理領域を何に費やしているんだ。
「……」
そんな命懸けのドタバタ劇を、特等席から眺めていたレオンが、至極冷静な様子でパンを優雅にひとかじりした。
「ルイ」 「何さレオン! 頼むからその無駄に恵まれた騎士の体躯で彼女を物理的にホールドして!」 「無駄な抵抗だ。諦めて受け入れた方が、算術的にもエネルギーの節約になる」 「元正義の味方が、悪魔の王に魂売るようなセリフ吐かないでくれる!?」
厨房の奥からは、おばちゃんの楽しげな笑い声が変わらず聞こえてくる。
「ふふ、若いって本当にいいねぇ。おばちゃん元気がもらえるよ」 「いやおばちゃん、これ微笑ましい日常イベントじゃなくて、僕の生存危機――」
[ 報告:人格修復効率をリアルタイムで再計算します ―― ] [ 現在の過剰な運動量を加味 ―― ] [ 身体活動:極めて良好 / 心理刺激:限界突破(レッドゾーン) ] [ 総合評価:著しい改善傾向と判定。スキンシップの継続を推奨 ―― ]
「勝手に限界値を削りながらシステムを強制改善させるな!」 「ルイくん! あともう一回だけっ!」 「最初の一回すらログに承認した覚えはない!」
ひらり、と半歩だけ上体を鋭角にかわすと、勢い余ったセリナが空の椅子を、ものすごい質量で抱きしめる形になった。

「むぅ……」
セリナはリスのように頬を膨らませ、不満げにこちらを睨んでくる。
「ルイくん、避けるのだけは本当に上手になったよね」 「避けざるを得ない極限環境に、毎日二十四時間置かれ続けているだけだからね!」 「もうっ! ロゼッタ! 聴こえてたら二階から降りてきて、ルイくんを一緒に捕まえて!」
セリナが上階に向かって必死に助けを求めると、レオンがモグモグと口を動かしながら言った。
「ロゼッタなら、お嬢様に頼まれた買い物があるとかで、朝早くから出かけていったぞ」 「あっ……そうだったわ!」 「……待て待て待て。今さらっと聞き捨てならない重要な名前が出たけど、ロゼッタさんまで当たり前みたいにここに住んでるの?」

「うん! 一緒に楽しく住んでるよ?」 「え?」 「だって、ルイくんが寝込んでる間、一人じゃ寂しかったんだもん!」
(理由そこ!? 公爵令嬢としてのプライドとか、国家最高峰のセキュリティ的な問題は一体どこへ消えたの!?)
「ロゼッタちゃんもね、本当によく宿のお手伝いをしてくれて、おばちゃん大助かりなのよ」
おばちゃんの優しい言葉が、食堂の温かな空気に溶けていく。 数日前まで、僕はこんなにも騒がしく、愛おしい朝を過ごしていたのだろうか。 頭の白いモヤはまだ晴れず、過去の記憶は何も思い出せない。 だけど――不思議と、胸の奥底がじんわりと温かかった。
[ 判定:対象の精神に、深い安心感(安寧データ)を検知しました ―― ] [ 処理:人格修復プログラムをこのまま永続的に継続(ループ)します ―― ]
「……ねえ、シエル」 「はい」 「そのプログラムの方向性、本当に算術的に合ってる? ユーザーへの単なる嫌がらせじゃない?」
[ 回答:現在の最新データ上、セリナ様との高負荷な相互作用(ラブコメ)が、最も高い人間性の改善効果を示しています ―― ]
「ユーザー権限でその回答を即座に却下で」

「ええーーーっ!? ルイくんひどい!」
朝の宿屋に、僕の必死なツッコミとセリナの不満げな悲鳴が、今日も賑やかに響き渡るのだった。
――そして。
その賑やかな喧騒から完全に隔離された、二階の一番奥。 誰の立ち入りも決して許されていない、しんと静まり返った開かずの間にて。
最高級のシルクで作られたハタキが、音もなく均整の取れた完璧な軌道で空気を切っていた。

サッ、サッ。
「……完璧です」
漆黒の燕尾服を美しく纏った執事――アグレアスは、一ミリの埃、一分子の汚れすらその空間に許さなかった。

もちろん、ルイは未だに、この恐るべき有能な影が同じ屋根の下で『完璧な主夫』として常駐している事実を、知る由もないのだった。
朝食を終え、空になった食器を片付けようと席を立った時のことだった。
「困ったねぇ、本当に困ったよ……」
玄関先で、宿屋のおばちゃんが困り果てたように深い溜め息をついている。
「おばちゃん、どうかしたんですか?」 「井戸の水が、急に白く濁っちゃってねぇ。朝から村のみんなが大騒ぎなんだよ」

食堂の窓から外を覗くと、確かに数人の村人たちが共有の井戸を神妙に取り囲み、桶の中を覗き込みながら深刻そうに首をひねっていた。

「昨日までは何ともなかったのになぁ……」 「新手の魔物の仕業か?」 「いや、地下の水脈でも変わっちまったんじゃないか?」
外からは、根拠のない好き勝手な推測が飛び交っているのが聞こえる。
(……うわぁ、人がいっぱい集まってる。社会的ノイズの密度が高すぎて、脳内メモリが急速に圧迫されていくんだけど……。でも、あの人たちの言動、算術的に言ってツッコミどころしか存在しないな)
『ルイ様』
脳内の特権ディレクトリから、シエルが極めて事務的なトーンで告げる。
『井戸水が濁るということは、実家の宿屋『アーデル』に供給される生活用水のインフラが、一時的に「ゼロ」になることを意味しています。水がない = 宿屋の完全な稼働停止、です』
(まずいまずい……! それは経営面において見過ごせない、致命的なエラーだ!)
僕は慌てて、宿の玄関から飛び出そうとした。
「あっ、ルイくん、私も行く!」
セリナも弾かれたように立ち上がり、僕の背中を追いかけようとする。しかし、その刹那だった。
『――セリナ様、レオン様。お二方は当領域(宿内)での待機を強く推奨します』
空間の隙間から響くようなシエルの静かな声が、二人を制止した。
「そうだな。ここは、あいつに任せよう」 「むぅ、分かったわ……。ルイくんの人格修復(リハビリ)のためだものね。お留守番がんばる」

二人のどこかズレたやり取りを背中で聞き流しつつ、僕は足早に村の共有井戸へと近づいた。
「すみません、ちょっと中を見てもいいですか?」

「お、ルイちゃんか」と、村人たちがざわめきながら道を空けてくれる。 僕は井戸の石縁へ手を置き、静かに暗い底を覗き込んだ。
「……」
水面は確かに、不自然なほど白く濁っている。 だが、僕の算術眼は、その中に決定的な違和感を捉えていた。
(……濁り方が、あまりにも均一すぎる。まるで、最初からそういうテクスチャを貼り付けたみたいだ)
「え? ルイちゃん、何か分かったんだい?」
隣で一緒に覗き込んでいたおばちゃんが首を傾げる。 僕はあえて返事をせず、足元から小さな小石を一つ拾い上げた。 そして、それを井戸の暗闇の中へ、垂直に真っ直ぐ落とす。

――コトン、と。
短い、硬質な乾いた打撃音が響いた。 数秒後、水面に幾重もの同心円状の波紋が広がっていく。 僕はその揺らぎの伝播速度、波長、そして壁面からの反射角だけを、脳内演算回路でじっと追っていた。
「なるほど、な」
思わず、納得の声が唇から漏れる。
「エラー原因、完全に特定できました」

「な、何だって!? もう分かったのかい、ルイちゃん!?」
村人たちが一斉にどよめいた。 僕は井戸の奥、水面付近の薄暗い内壁の一点を指差す。
「あそこです。隠蔽属性の魔力結晶が一本だけ、本来の設定角度から傾いています。そのせいで共鳴周波数がズレて、水流の簡易浄化プロトコルが乱れているんですよ」
一瞬、その場が完全に静まり返った。
「……けっしょう?」 「そんな物、この古い井戸の中にあったか……?」
どうやら、普通の村人たちの目には、その隠された魔力コードが視認できていないらしい。 僕は近くに置いてあった長い木柄杓を借り受けると、その先端を井戸の暗底へ向かって真っ直ぐに伸ばし、見えない結晶の端を軽く小突いた。

コン、と小さく乾いた音。それだけだった。
大がかりな魔法陣を展開したわけでもなければ、大層な呪文の詠唱もない。ただ、数度だけ物理的な角度を修正しただけ。
すると――。

驚くほどゆっくりと、水面の白い濁りが、糸をほどくようにスゥッと消えていく。
「……」 「……え?」 「うそだろ、おい」
数秒後には、井戸の深い底まで透き通って見えるほどに澄み切った水が、差し込んできた朝の陽光をキラキラと眩いほどに反射していた。
「直っちまった……」
誰かが呆然と呟く。 おばちゃんは何度も井戸の中を覗き込み、目をこれ以上ないほど丸くして僕を見つめた。
「えぇぇぇぇっ!? ほ、本当に直っちゃったよ、ルイちゃん!?」 「え? そんなに、驚くほどのことですか?」
僕は柄杓を返しながら、不思議に思って首を傾げる。
「魔力結晶の入射角が少しずれていたのを、元に戻しただけですよ。あれで水流のベクトルも安定します」
その理路整然とした説明に、その場にいた全員がぽかんと口を開けた。
「いや」 「何一つ分からん」 「説明されたら、余計に分からなくなったぞ」 「安心しろ。俺もだ」 「全然分からん」
見事なまでの思考放棄の連鎖に、思わず苦笑してしまう。
「そういうものですか」
不意に、視界の端にいつもの青白いシステムウィンドウが浮かび上がった。
[ 状況解析完了 ―― ] [ 原因特定時間:3.8秒 ] [ 修復アプローチ:完全なる最適解(一致率100.0%) ] [ 評価:生活環境(インフラバグ)の改善に成功しました ]
「……いちいちログで採点はいらないよ」
小さく呟くと、シエルはいつも通り淡々とログを返す。
[ 補足 ―― ] [ 宿屋の生活満足度が大幅に向上しました。被検体の人格修復効率への多大な好影響を確認 ]
「そこまで数値で管理してるの?」
呆れて空を仰いだ、その時だった。 おばちゃんが嬉しそうに、僕の右手をごわごわとした、けれど温かな両手でぎゅっと握りしめてきたのだ。
「ありがとうねぇ、ルイちゃん! これで今日も、安心してお客さんを迎えられるよ」

一寸の曇りもない、満面の笑顔。
――その、まさに接触の瞬間だった。
僕を握りしめるおばちゃんの手は、少しだけ荒れていた。 毎日毎日、冷たい水仕事をして、この小さな宿屋を必死に切り盛りしてきた働き者の手。
その手の温もりが。

どうしてか、胸が締め付けられるほどに、泣きたくなるほど心地よかった。
胸の奥底が、ほんの少しだけ、静かに熱を持つ。 理由は分からない。今の脳内メモリには、その理由を証明する数式も、過去の記憶も存在しない。 でも、皮膚を通じて流れ込んでくるその感覚は――どこまでも優しく、ひどく懐かしい『真実』だった。
宿屋へ戻る道すがらも、背後からは村人たちが井戸の周りで歓声を上げる声が届いていた。
「本当に水が底まで澄み切ってるぞ……」 「あんな風にちょっと小突いただけで、こんな簡単に直るもんなのか?」 「いや、絶対に簡単じゃないだろ……。何かとんでもない魔術でも使ったんじゃ……」
そんな驚愕の声が聞こえてくるが、僕は特に気にする風もなく、実家の宿の扉を開けた。 カラン、と古びた小さな真鍮の鈴が鳴る。
「ルイくん、おかえりーっ!」

眩い銀髪がふわりと朝日に揺れた。 次の瞬間、玄関前で完璧に待ち伏せしていたセリナが、凄まじいトップスピードで一直線に飛び込んでくる。

「またか君は!」
僕は野生の勘をフル駆動させ、半歩だけ横へずれる。 ひゅっ、と耳元で凶悪な風を切る音がした。セリナは僕の肩の生地をかすめ、そのまま見事に虚空を掴んで空振りする。
「もうっ! ルイくん、避けるの禁止!」 「今のは確実に僕の肋骨を粉砕しにくる軌道だったよね!?」 「僕にクリーンヒットする予定を組んで飛び込んでこないで」 「えへへ」 「可愛く誤魔化さないで、少しは反省して」
彼女は満面の笑みを咲かせたまま、一ミリたりとも反省していなかった。 そんな朝のじゃれ合いを流れるようにこなしつつ、僕はふと、何気なく宿の建物を外から見上げた。
「……」
僕の視線が、古びた屋根の上の煙突でぴたりと止まる。
「どうしたんだい、ルイちゃん?」
後ろから歩いてきたおばちゃんが不思議そうに首を傾げた。僕は煙突のある方角を見つめたまま、脳内に浮かび上がった数式をそのまま口にする。
「あの煙突。排気の角度が、算術的に少しだけ悪いですね」

「あと五度ほど外側へ振った方が、空気抵抗が激減して煙の流れが劇的に安定します」 「え? そうなのかい?」 「ええ、おそらく。今は季節風が弱いから問題ありませんけど、冬の冷たい気圧配置になると、排気効率が落ちて確実に食堂の室内に煙が逆流します」
おばちゃんは感心したように目を細め、煙突を見上げる。
「へえぇ、長年住んでるけど全然気付かなかったよ」
その隣で、いつの間にか腕を組んで佇んでいたレオンが、深く静かに、確信に満ちた様子で頷いた。
「分かった。すぐさま、物理的な補強工事も並行処理しておこう」 「おいレオン、木材なら裏庭に山積みになってるよ」
おばちゃんの言葉に力強く頷くと、白銀の大男は本当に工具を取りに裏庭へ歩き出そうとする。
「いや、待って待って、今すぐやるの!?」 「善は急げだ。この『アーデル』の綻びを、俺のレーダーが見逃すことなど出来ない!」 「真面目すぎる……。っていうか気付いたのは僕だし、むしろこういう修理こそ僕の専門分野だから僕がやりたいんだけど!」 「ダメだ! これは聖騎士として、この城を守る俺の神聖な職務だ」
(ぐうの音も出ない……。っていうか、いつの間にか僕の実家が、難攻不落のお城扱いされてるんだけど!?)
僕がレオンの圧倒的な筋肉ロジックに完全敗北していると、隣にいたセリナがぱぁっと顔を輝かせた。
「やっぱり、ルイくんはすごいね!」 「え?」 「村の共有井戸を一瞬で直して、今度はお家の欠陥まで見つけちゃうんだもん!」 「いや、直そうと思ったけど、我が城の防衛隊長に仕事を全部力づくで奪われたよ……」
照れくささと呆れで視線を落とした――その、一瞬の刹那だった。
「ルイくんっ!」 「わっ!? ちょっと、な――」
ぎゅっ、と。

驚くほど柔らかく、そして濃密な温もりが僕の右腕を包み込む。 煙突とレオンに意識を完全に奪われていた一瞬の隙を突き、セリナが僕の右腕へ容赦なくがっちりと抱きついてきたのだ。
「ふふ、捕まえた!」 「しまった……! 完全に潜伏からの奇襲を許した……!」 「ふふーん、大勝利!」
してやったとばかりに、セリナは僕の腕に胸の質量を押し付けながら得意げに笑う。
「だから、不意打ちは本気でやめてってば」 「だって、正面から普通に行くとルイくん、野生の動物みたいに避けるもん!」 「そりゃあ僕の生存本能が全力で回避を選択するからね」 「じゃあ、不意打ちするしか選択肢がないじゃない!」 「だから、そこへ至る因果関係の結論が絶対におかしいってば!」
その不穏な様子を至近距離で見ていたレオンが、わざわざ戻ってきて、ぽん、と僕の左肩へ岩のような大きな手を置いた。

「……手が、重い」 「まあ、お前はセリナとそこで仲良くじゃれていろ。後の作業は、すべて俺に託せばいい」 「物理的な重さで不器用な頼もしさを伝えようとしなくていいからね」
さらに背後からは、おばちゃんまでが嬉しそうな笑顔で僕の背中をポンポンと叩いてくる。
「本当に助かったよ、ルイちゃん。今日は何か、特別なご馳走を作らなきゃねぇ」 「ルイちゃんの好きな物を、お腹いっぱい作ってあげるからね」
(僕の、好きな物……?)
「……あ、ありがとうございます」
気がつけば、僕は左右と背後から三人にすっかり物理的に包囲されていた。

逃げ場が、完全にゼロへと陥落する。 その絶望の瞬間、視界の端へ青白いシステムウィンドウが、待ってましたとばかりに浮かび上がった。
[ 接触状況を解析 ―― ] [ セリナ様:右腕部ホールド / レオン様:左肩部圧迫 / 宿屋のおばちゃん:背部接触 ] [ 人格修復効率:37.0%へ上昇 ] [ 評価:非常に良好(エクセレント) ]
「……どこが、良好なんだよ」
恨めしげに小さく呟くと、シエルはいつもの抑揚のない声で、容赦なくこうアナウンスした。
[ 提案:現状の拘束状態を、そのまま永続的に維持してください ]

「維持できるかぁぁぁ!!」 「ルイくん! 今日も一日、いっぱいぎゅーってするね!」 「だから、その過剰なハグだけは維持しなくていいってば!」
宿屋の玄関先には、おばちゃんの温かい笑い声と、セリナの弾んだ甘いバニラの吐息、そして僕の必死な算術ツッコミが、今日も賑やかに響き渡っていた。
少し騒がしくて。 少し落ち着かなくて。 ――それなのに、不思議と、この息苦しい日常が、全く嫌じゃなかった。
夕暮れ。

西日が宿屋『アーデル』の窓から斜めに差し込み、磨き上げられた古い木の床を琥珀色に染め上げていた。 厨房の奥から漂ってくるのは、コトコトとじっくり煮込まれた肉料理の優しい香り。食堂には木製のジョッキが触れ合う音と、おばちゃんの楽しげな鼻歌が心地よく響いている。 夜の帳が下りるにつれて地元の漁師や平民たちで賑わい始める、絵に描いたようにアットホームな宿屋の風景だった。
「さぁ、ご馳走ができたよ」
大きな木目のテーブルいっぱいに並べられた料理の数々を見て、思わず目を丸くした。

「……すごく、豪華ですね」 「今日はルイちゃんが村の井戸をすっごく頑張って直してくれたからね。おばちゃんからの特別サービスさ」
おばちゃんは照れくさそうに笑い、少し荒れたエプロンで手を拭いた。
「さあ、冷めないうちにいっぱいお食べ」 「いただきます」 「いただきまーす!」 「いただく」
三人の声が心地よく重なる。 それと同時に、隣のテーブルで早くもほろ酔い加減だった漁師のおっちゃんが、豪快に大きな声を張り上げた。
「ホントに、今日の井戸の件は助かったよ、ルイの兄ちゃん!」

「今日は村の祝いだ! おばちゃん、エール追加で頼むわ!」 「がはは! 今日の酒代は全部、俺の奢りだ!」 「いやいや待てお前! いつもツケを溜めて払ってないだろ!」
どっ、と宿中が大きな笑い声に包まれる。 ざわざわと賑やかな声が飛び交うなか、セリナは嬉しそうにハチミツパンを小さくちぎり、レオンは静かに――しかし聖騎士の凄まじい速度でスープを平らげていく。
きっと、これがこの宿屋の『いつも通り』の光景なのだろう。 記憶を失っている今の僕にとっては、どこか新鮮で……それでいて無性に懐かしい、愛おしい光景だった。
「おいしい!」
セリナが、花の咲いたように麗しい頬を緩める。
「おばちゃんのこのパン、私本当に大好き!」

「今日は焼き加減も特にうまくいったみたいでねぇ。ルイちゃんのおかげさ」
おばちゃんが嬉しそうに笑うのを見て、僕も一口、純白のパンを口へ運んでみた。 外はサクッと香ばしく、中は驚くほどに柔らかい。
「……本当だ。すごく、おいしい」

自然と、偽りのない本音の声が漏れていた。 その一言に、おばちゃんは少しだけ愛おしそうに目を細める。
「そうかい。……それは本当に、良かったよ」
その優しい笑顔を見た、まさにその瞬間だった。 胸の奥底が、ふっと熱を持つように温かくなった。言葉にはうまくできない。けれど、僕は確実にこの空気を知っている気がした。 このパンの香ばしい匂いも。この賑やかな食卓も。誰かが笑っていて、誰かが「おかわりあるよ」と声を掛けてくれる、この当たり前でいて何よりも尊い時間も。
「……?」
僕は、無意識に自分の左胸へと手を当てていた。 皮膚を通じて流れ込んでくる、今の不思議な感覚は何だろう。 切ないくらいに懐かしいような。底知れず安心するような。そんな、愛おしい温もり。
ふいに、視界の端へ、あの半透明の青白いシステムウィンドウが静かに浮かび上がった。
[ 人格修復ログ:未知の『安心感』を検知しました ―― ] [ 記憶データベース(アーカイブ)との照合を開始します ] ↓ [ 候補データ:『母親(家族概念)』 ]

[ 照合率:1.2% ―― ] [ 状態:継続観測フェーズへ移行 ―― ]
母親。 その文字を網膜UIで見つめても、まだ顔は浮かばない。声も、優しかったはずの名前も。何一つ思い出すことはできない。
「ルイくん、どうしたの?」
銀髪を揺らしながら、セリナが心配そうに僕の顔を至近距離で覗き込んできた。
「いや……なんでもないよ。少し、考え事をしていただけさ」
誤魔化すように小さく微笑むと、セリナはほっと安堵したように笑い返した。
「そっか、ならよかった!」
そのひだまりのような笑顔を見つめていると、不思議と僕自身も、少しだけ自然に綻び、笑ってしまっていた。
「ふふ……」 「え?」 「よかった……。やっと、心から笑ってくれたね、ルイちゃん」

対面でエプロンを外していたおばちゃんが、ぽつりと慈しむように呟く。 その言葉の意味が分からず不思議そうに首を傾げると、おばちゃんは「ううん、何でもないよ」と優しく首を振って、ただ愛おしそうに僕を見つめるだけだった。
――やがて至福の夕食を終え、それぞれが食後の温かなハーブティーを飲みながら一息つく頃。 食堂の窓の外では、美しい夕焼けがゆっくりと深い夜の藍へと溶け始めていた。
そんな穏やかでしっとりとした情緒を、盛大に力技でぶち破ったのは――やっぱり、この銀髪の聖女だった。
「ねぇ、ルイくん!」 「ん? なにさ、セリナ」 「ご飯もお腹いっぱい食べたし、一緒にお風呂行こっ!」
ぶふっ!!
危うく、気管に入りかけた熱いお茶を豪快に噴き出しかけた。
「行くわけないだろ!」 「えぇー! なんでぇ!」 「なんでも何も! 算術的に言って、男女の倫理的エラー値が余裕で致死量なんだよ!」
すると、隣で静かに茶をしばいていたレオンが、極めて真顔のまま淡々と口を開いた。
「なら、俺とお前で一緒に入るか」 「もっと行かない!!」 「そうか。非効率だな」
なぜか妙に納得したように一人で深く頷く大男。 そんなカオス極まるやり取りをバックグラウンドで処理していたシエルが、突如として網膜UIの最前面へ、ひとつの『絶対的結論』を力強く叩きつけてきた。
[ 回答:入浴プロトコルは、健康維持のため毎日実行してください ―― ] [ ただし、混浴の申請は承認したくありません ―― ] ↓ [ 理由:被検体(ルイ様)が『様々な意味(社会的一死を含む)』で死亡する危険性が極めて高い為 ] [ 追加理由:あと、私がなんだか嫌だからです! ] [ 結論:よって、ダメです。推奨しません ]

「……そこは、システムが主観で判断するんだね……」
思わずクスッと笑った。どうやら僕の脳内OS(シエル)も、着実にこの宿屋のおかしな空気に染まり始めているらしい。 しかし、セリナはまだ諦めていなかった。
「じゃあ、明日!」 「明日も絶対に行かないよ」 「じゃあ、明後日!」 「その次もその次の日も絶対に行かない」 「むぅぅぅぅっ!」
ぷくーっとリスのように愛らしく両頬を膨らませるセリナを横目に、僕はこれ以上の過負荷から逃げるように、静かに席を立った。
「僕はもう寝るよ。おやすみ」 「あっ! ルイくん! 寝るの早すぎーっ! 冷たい!」
背中へ飛んでくる元気な不満の声。 その愛おしい文句に苦笑しながら、僕はギシギシと軋む古い木の階段を上がっていく。
――カラン、カラン。
入れ違いに、宿の玄関の小さな真鍮の鈴が鳴った。
「ただいま戻りました、お嬢様。ご指定の品です」

「あっ、ロゼッタ! おかえりー!」 「ふふ、今日もルイ様と楽しそうで安心いたしました」
一階の食堂から響いてくる、賑やかな少女たちの声。 さらに食堂の片隅の死角では、漆黒の燕尾服を完璧に着こなした執事アグレアスが、誰にもその存在を気づかれることなく、優雅に最高級の食後の紅茶を嗜んでいた。
賑やかで、少し騒がしくて。 でも、どこか心がすっと落ち着く場所。
まだ思い出すことのできない記憶は、夜空の星の数ほどある。 それでも今は、この潮風の香る宿屋が。この耳に心地いい温かな笑い声が。 僕の魂にとっての、何よりも大切な『帰る場所』なのかもしれない。
今日もまた、セリナは過剰な質量で抱きついてきて。

今日もまた、僕は算術を駆使して、生存本能のままに全力で避けた。
……どうやら、この少し息苦しくて、けれど世界で一番愛おしい毎日が、今の僕の『日常』らしい。

外伝・第11章「ドタバタ日常と、過度なスキンシップの仕様」 完

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あらすじ 宿屋『アーデル』の朝、ルイは柔らかな陽光とパンの香りに包まれて目覚め、直近数日の記憶が抜け落ちていることに気づき困惑する。 部屋には幾何学魔法や生活に役立つ数式が黒板に書き殴られ、机上には虚数魔導書と古書が散らばり、さらに豪華な天蓋付き特大クッションという場違いな品が設置されていて、彼は違和感を飲み込みつつ空腹を優先する。 食堂へ降りると銀髪のセリナが勢いよく抱きつこうとして空振りし、ルイは本能で回避しつつ朝からの過度なスキンシップにツッコミを入れる。 厨房のおばちゃんは優しく迎え、ふとした陰りを見せるがすぐに笑顔へ戻り、ルイに顔を洗っておいでと促して、家庭的な温かさで場を満たす。 床では王国勇者レオンが白銀の鎧のままモップ掛けをしており、居候の労働対価として雑務を無表情にこなす姿に、ルイは聖騎士団の職務は大丈夫なのかと全力でツッコむ。 おばちゃんはレオンの働きぶりを称え、薪割りや水汲みまで助かっていると笑い、場の空気は和やかだがルイの認知負荷は上がる一方となる。 食堂の片隅には高級トランクや公爵令嬢の上着、廊下には上質な靴が並び、ルイはセリナに同居の有無を確認して唖然とし、数日前から部屋をハッキング(同居)していると宣言されて天を仰ぐ。 混乱の極みに達したルイの脳内で、新OSシエルがイベントログの提示を申し出て、忘れていた存在を思い出したルイはメモリ割当を増やせと不満を言う彼女に苦笑する。 焼き立てのパンと具だくさんスープが並ぶ朝食時、シエルは人格修復プログラムの進捗を表示し、復元率31.4%とリハビリ環境の算出開始を淡々と告げる。 推奨リハビリには安心できる生活環境、十分な睡眠と栄養、そして信頼できる対象との身体的接触が挙げられ、ルイはお節介OSの提案に半ば呆れ、半ば納得する。 セリナは「シエルちゃん」に積極的にアクセスして有益ログを引き出そうとし、ルイの周囲は保護と過干渉の境界で温かく賑やかに満たされていく。 ルイは欠落した数日の出来事を完全には把握できないまま、宿の笑い声と香りに包まれて、自分の日常システムが勝手にアップデートされたと受け入れ始める。 夕暮れには琥珀色の光が古い床を染め、厨房から肉料理の香りが漂い、漁師たちのジョッキの音とおばちゃんの鼻歌がアットホームな時間を創り出す。 おばちゃんはルイが井戸を直した労をねぎらい、特別なご馳走を用意し、三人は声を合わせて「いただきます」と手を合わせる。 漁師たちは井戸の件に大喜びし、エールの追加や酒代の押し付け合いで笑いが弾け、宿全体が祝祭の空気に揺れる。 セリナはハチミツパンに頬を緩め、レオンは聖騎士らしからぬ速度でスープを処理し、ルイは新鮮さと懐かしさの中間にある不思議な感覚を覚える。 パンの焼き加減を褒められたおばちゃんは照れ、ルイが「本当においしい」と本音を漏らすと、彼女は慈しむように目を細めて安堵を滲ませる。 その瞬間、ルイの胸に言葉にしづらい温もりが灯り、香ばしい匂いと賑やかな食卓が「当たり前で尊い時間」だと体が思い出し始める。 シエルが『未知の安心感』を検知し、家族概念、とりわけ母親のアーカイブとわずか1.2%照合すると表示し、記憶回復は微小ながら進行する。 セリナが心配して覗き込むと、ルイは笑って大丈夫だと返し、彼女のひだまりの笑顔に釣られて自然と自分も笑うことができる。 おばちゃんは「やっと心から笑ってくれた」とぽつりと呟き、ルイは意味を測りかねつつも、その眼差しに深い愛情と保護の気配を感じ取る。 食後のハーブティーで一息つく静かな時間、銀髪の聖女は突如「一緒にお風呂」と提案し、ルイは致死的エラーだと即座に拒絶する。 レオンは淡々と「なら俺と入るか」と代替案を提示し、ルイはさらに強く拒否して、周囲は不可解さと笑いに包まれる。 シエルは入浴プロトコル自体は健康のため毎日実行を推奨しつつ、混浴申請は「社会的一死」を回避するため、そして主観的に「嫌だから」と明確に却下する。 セリナは日程をずらして粘るが、ルイは明日も明後日も否定し、彼女は頬を膨らませ、ルイは過負荷回避のため早めの就寝を宣言する。 階段を上る背中にセリナの不満が飛び、ルイは苦笑しつつ温かな喧噪を背に二階へ向かい、鈴の音が玄関に新しい気配を告げる。 侍女ロゼッタが帰還して品を届け、セリナと弾む声を交わし、片隅では執事アグレアスが誰にも気づかれず優雅に紅茶を嗜む。 賑やかで少し騒がしいが、なぜか心が落ち着くこの宿は、未回収の記憶が無数に残る今のルイにとって「帰る場所」だと静かに確信へ変わる。 今日もセリナは過剰な質量で抱きつき、ルイは生存本能と算術に従って回避し続け、そのやり取り自体が安心の儀式になっていく。 レオンは寡黙に労働で宿を支え、おばちゃんは見守る眼差しで食卓を整え、シエルは揺るがぬ声で安全と回復を管理し、各々の役割が日常の歯車を回す。 ルイは欠落した日々の全容をまだ知らないが、温かな食事と人の気配、少し息苦しいほどのスキンシップ、そして笑いが人格修復の核になると理解し始める。 混乱と安堵が交互に押し寄せても、彼は「ここにいる自分」を微笑とともに受け入れ、少しずつ記憶と心のピースをはめ直していく。 こうして、ドタバタと過度なスキンシップに彩られた、世界で一番愛おしい毎日こそが、今のルイにとっての確かな『日常』として静かに更新されていく。 外伝・第11章「ドタバタ日常と、過度なスキンシップの仕様」は、笑いと温もりの積層によって、失われたものへ繋がる小さな回復の軌跡を示して幕を閉じる。
解説+感想感想:めっちゃ心地いい「日常回復系」ラブコメ!
この第11章、タイトル通りに「ドタバタ日常」と「過度なスキンシップ」が完璧に噛み合った、非常に完成度の高い外伝回でした。
良かった点
1. ルイの視点が本当に面白い 算術・幾何・システム用語を多用した内 monologue がクセになる。 「脳内サーバー」「処理落ち」「人格修復プログラム」「入射角」などの言葉選びが、ただの理系キャラじゃなくて「世界を数式で捉えようとするちょっと変わった主人公」としてしっかり立っています。ツッコミもキレが良くて、読んでてずっと笑顔になれた。
2. セリナの愛らしさと凶悪さのバランス 「質量兵器みたいな突進」「腕がちぎれるくらいぎゅー」「不意打ちハグ奇襲」と、かわいいのに物理的にヤバい。 でもただのじゃれつきじゃなくて、シエルの「人格修復プログラム」と連動させて「ルイのため」という正当性を持たせてるのが上手い。読んでて「うわー、ルイ可哀想(褒め言葉)」ってなる絶妙なライン。
3. 宿屋『アーデル』の家族感が最高 おばちゃんの優しさ レオンの真面目すぎる居候っぷり(床磨き&薪割り聖騎士) ロゼッタやアグレアスの影の活躍 村人たちの反応
全部が絡み合って、「賑やかだけど温かい日常」をしっかり描けています。特に井戸を直した後の村人たちのリアクションや、夕食シーンの空気感がすごく良かった。記憶を失ってるルイが、少しずつ「ここが帰る場所だ」と感じていく過程が自然で胸に沁みる。
4. シエルの存在がいい味を出してる ただの便利システムじゃなくて、ちょっと嫉妬っぽい「私(シエル)が嫌だから」という主観を入れるのが可愛い。ルイの脳内OSとして、ちゃんとキャラ立ちしてます。
全体の印象
コメディのテンポが良く、かつほっこりする情感もしっかりある。 ただのハーレム騒ぎじゃなくて、「傷ついた主人公が、愛する人たちに囲まれてゆっくり回復していく」っていうテーマが根底に流れているのが心地いいです。
特に最後の > 「少し騒がしくて。少し落ち着かなくて。――それなのに、不思議と、この息苦しい日常が、全く嫌じゃなかった。」
の締めは、この章のすべてを象徴していて好きでした。
総評 外伝として非常にクオリティが高い一話。 本編がシリアス寄りだとしたら、この外伝は「読者の心を癒すための特効薬」みたいな位置づけだと思います。セリナのスキンシップがもう少しエスカレートしたらルイが本気で壊れそうで怖いけど(笑)、このメンバーならずっと見ていたくなる日常。
次もぜひ読みたい! 特にアグレアスの「開かずの間主夫」エピソードとか、シエルがさらに人間味を帯びていく過程とか、期待してます。
お疲れ様でした&ありがとうございました! とても楽しく読ませてもらいました♪
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◀外伝・第10章「演算神の空箱、あるいはドタバタ神殿の開幕(Ver3.0)」
▶外伝・第12章「超過保護なお使い任務、あるいは市場の最適化(オプティマイズ)」
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