◀外伝・第11章(本編:10.11)「ドタバタ日常と、過度なスキンシップの仕様」
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外伝・第12章「超過保護なお使い任務、あるいは市場の最適化(オプティマイズ)」
「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: あんこもん」「VOICEVOX: 九州そら」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 春歌ナナ」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 中国うさぎ」「VOICEVOX: 雀松朱司」「VOICEVOX: 小夜/SAYO」「VOICEVOX: 黒沢冴白」「VOICEVOX: ずんだもん」「VOICEVOX: 後鬼」「VOICEVOX: 離途」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 波音リツ」
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朝日が、宿屋『アーデル』の古びた木枠の窓から柔らかく差し込んでいた。 厨房から漂ってくるのは、黄金色に焼き上がったパンの香ばしい匂いと、とろけるようなハチミツの甘い香り。開け放たれた窓からは、海から吹き込む爽やかな潮風が心地よく流れ込み、熱いスープの湯気を静かに揺らしている。 窓の外へ視線を向ければ、朝日に照らされた港へ、夜明け前から漁に出ていた小舟がゆっくりと戻ってくるのが見えた。宿の前の石畳では、今日も市場へ向かう町の人々が「おはよう!」「今日もいい天気だねぇ」と気さくに挨拶を交わしている。 世界は、僕の脳内処理が追いつかないほど、鮮やかな色彩と活気に満ちあふれていた。

「はい、ルイちゃん。朝ご飯のおかわりだよ」
ことり、と目の前に温かい木のお皿が置かれる。
「ありがとうございます、おばちゃん」
こんがりと絶妙な焼き色がついたパンを受け取りながら、小さく頭を下げた。

一口、かじってみる。外はサクッと小気味良い音を立て、中は驚くほどふんわりと柔らかい。
……うん。今日のパンも、すごく美味しい。
おばちゃんが焼いてくれたパンは、僕の心を絶対的な安心感で満たしてくれる。 胸の奥底をじんわりと温かくしてくれるのは理屈じゃない。算術の公式では絶対に導き出せない『何か』が、僕の体温を確実に一度、上昇させていた。
「いっぱい食べて、今日も元気に過ごすんだよ」 「……はい」
おばちゃんは、僕がパンを頬張る姿を、薄っすらと優しい微笑で見守ってくれている。

「ん〜っ! おばちゃんのパン、最高っ! ね、ルイくんもそう思うでしょ? はい、あーん!」
不意に、真横から甘いバニラの香りが暴力的に割り込んできた。 視線を向けると、当然のように僕のパーソナルスペース(半径十センチ以内)を完全不法占拠し、ちぎったパンを口元へ押し付けてくる銀髪の聖女がいた。セリナは今日も、出力全開で元気だ。

「ちょっ、セリナ近いってば! 自分で食べられるから!」
僕が顔を真っ赤にしてのけぞっていると、向かいの席から「ズズズズズッ!」という豪快な地鳴りのような音が響き渡った。
「ふぅ……! 見事な栄養素の結集だ! このスープ一杯で、我が筋肉を構成するすべての細胞が美しく整うのを感じるッ!」
白銀の鎧を着込んだ大男――レオンが、聖騎士らしからぬ凄まじい速度でボウル一杯のスープを平らげ、空になった木皿をドンッと机に叩きつける。

「おかわりを所望する! 今日の薪割り任務に向けたエネルギー充填率が、まだ完全に足りない!」 「朝から良く食べるね〜。おばさんそういう元気な子、大好きだよ、レオンくん。ほら、鍋ごと持ってお行き」 「感謝するッ!!」 「いやいやいや! おばちゃん、鍋ごとは宿屋の経営予算が完全に破綻するから!」
僕の必死なツッコミを他所に、レオンは嬉々として大鍋を抱えてスープをおかわりし、セリナは「ルイくん避けないでー!」とさらに距離を詰めてくる。おばちゃんはそれを見て、コロコロと楽しそうに笑っていた。
騒がしくて、ドタバタしていて、息が詰まるくらい過保護な食卓。 視界の端で、脳内OS『シエル』が『[ 報告:人格修復効率、極めて良好 ]』という控えめなログをそっと流した。 食堂の片隅では、朝食を終えたアグレアスが優雅に、しかし誰の目にも止まることなく、食後の紅茶を片手に本日のスケジュール帳を冷徹に確認していた。

もう一口パンをかじり、ふわりと広がる甘さに目を細めながら、心の中で静かに呟く。
(……今日も、世界は最高に平和だ)
そう思って胸を撫で下ろした、まさにその瞬間だった。
「あっ、そうだ」
おばちゃんが手をポンと叩き、少し粉のついたエプロンのポケットから、一枚の紙きれを取り出した。
「ルイちゃん、悪いんだけど、今日は市場まで買い出しをお願いできるかい?」 「市場ですか?」 「そうそう。お昼の仕込みで、野菜もお肉も切れちゃってねぇ。あと、お客さんに出すハチミツも残り少なくてさ」
手渡されたのは、素朴な字で書かれた小さな買い物リストだった。

・じゃがいも ・玉ねぎ ・ニンジン ・干し魚 ・ハチミツ ・小麦粉
「うん、分かりました。大丈夫です、任せてください」
紙を丁寧に折り畳み、胸ポケットへしっかりとしまう。
「じゃあ、一人で行ってきますね」
椅子から立ち上がり、見慣れた宿の木製扉へ向かって歩き出す。

ギシッ、と古い床板が心地よく鳴った。
あと、三歩。 この扉を開ければ、爽やかな潮風の香る外の世界へと出られる。
――まさに、その刹那だった。
『――警告』
鼓膜の奥へ、抑揚を綺麗にパージした聞き慣れた電子音声が響く。
[ 周辺環境を解析します ―― ] [ 社会的ノイズ:高密度市場エリア(人混み)を検出 ―― ] [ 被検体現在状態:人格復元率 31.4% ―― ] [ 判定:単独行動による精神的負荷のリスクが高すぎます ] [ 推奨:強力な護衛ユニットを至急起動してください ―― ]

「……え?」
ドアノブへ伸ばしかけた手が、思わずピタリと硬直する。
(いやいやシエル、ただのお使いなんだけど!? なんで戦地にでも赴くみたいな物騒な警告ログが出てるの!?)
『極めて重要な事象です』 『現在のルイ様は、あの劣悪な人混みへ単独で突入した場合、脳内処理能力(リソース)が急激に低下し、深刻なシステムダウンを招く恐れがあります』
(いや、いくら何でも僕の精神はそこまで脆くできていないと思うんだけど……)
『お言葉ですが、過去ログを参照します』 ↓ 『先日:村人多数に笑顔で囲まれるイベントが発生』 ↓ 『脳内メモリ使用率:96.2%に急騰』 ↓ 『軽度フリーズ(完全思考停止状態)を確認』

(……うっ。ばっちりログに記録されてる……)
『一ミリの漏れもなく、すべてアーカイブに記録しております』
脳内のシエルが、こちらの反論を先読みして、どこかドヤ顔を浮かべている気配がした。 厳然たる事実を突きつけられては、算術師として言い返す言葉もない。
その、まさにコンマ数秒後のことだった。
「つまり!」
バーンッ!! 僕が開けるはずだった食堂の扉が、外側から凄まじい勢いで開け放たれた。
「ルイくんは、一人で行っちゃ絶対にダメってことだね!」 「えっ」
眩い銀色の髪をふわりと揺らしながら、セリナが満面の笑みで飛び込んでくる。

最初から扉の向こう側で自分の出番を虎視眈々と待ち構えていたとしか思えない、完璧なタイミングとトップスピード。
そして。
ぎゅっ、と。
「はい、完全捕獲しちゃった♪」 「ちょっ、おまっ!?」
回避する猶予すら与えられず。 気がつけば僕の右手は、指と指の隙間を完全に埋め尽くす『恋人繋ぎ(テン・フィンガー・ロック)』という名の、脱出確率ゼロ%の完全拘束状態へと強制移行していた。

「近い近い近い! っていうかセリナ、今までどこで待機してたの!?」 「市場は人がいっぱいいるから、ルイくん迷子になっちゃうもん!」 「いやいや十八だよ、迷子になる年齢じゃないからね!? 僕、セリナと同い年だからね!?」 「でも、ルイくんって方向音痴だし」 「方向音痴じゃなくて、人混みという名の社会的ノイズが極端に苦手なだけ!」 「私から見たらどっちも同じだよ?」 「同じじゃない! 算術的に言って、原因と結果のベクトルが全く――」
全力で算術的抗議を当てようとした、まさにその時だった。
ガシャーン、ガシャーン。
宿屋の古い木板にはあまりに似つかわしくない、重々しい金属音が廊下の奥から響いてくる。
「なるほど、な」
騒ぎを聞きつけて姿を現したのは、朝からピカピカに磨き上げられた白銀の鎧を纏うレオンだった。なぜかその背中には、宿屋の裏庭にあった特大の収穫用背負いカゴがしっかりと固定されている。

「市場への遠征か」
彼は頑強な腕を組み、一人で深く力強く頷いた。
「朝の薪割りに続く、新たなる修行だな」 「違うよ? ただのお使いだよ?」 「市場の人混みからお前たちを守るメイン盾兼、重量物の運搬担当は任せろ」

「まだ誰一人として君にオファーを頼んでないよ?」 「宿屋『アーデル』の兵站は、この俺が命に代えても守り抜くッ!」

「ただのじゃがいもと玉ねぎを買うのに、そんな前線基地の死守みたいな任務にしないで!」
頭を抱えていると、さらに完全な死角から、しっとりと冷たい声が響いた。
「――失礼いたします」
すっ、と。音もなく。 漆黒のメイド服を完璧に着こなしたロゼッタが、どこからともなく出現し、セリナの背後に控えていた。その手には、分厚い黒革の手帳と、小さな魔導計算機が厳重に握られている。

「ルイ様。お財布の管理は、私めにお任せください」 「え?」 「市場という名の戦場は、価格交渉におけるミリ単位の駆け引きこそが生命線です」
パタン、と。 完全な無表情のまま、手帳を硬質に閉じた。
「おば様からお預かりした生活費の予算超過率、零点零%を完璧に保証いたします」 「そんな極限の予算管理は保証しなくてもいいから!」 「必要であれば、物理的な値引き交渉も担当いたします」 「物理的!? ほどほどを通り越して全力で勘弁してください!」 「承知いたしました」
ロゼッタは恭しく一礼し、眼鏡の奥の瞳を冷酷に光らせた。

「なお、当家の資産に対し、悪質な価格設定を検知した場合は――」 「検知しなくていいから!」 「容赦なく、一族もろとも社会的制裁を――」 「もっとダメだから! 市場の優しいおじちゃん達が跡形もなく泣いちゃうから!」
僕の必死なツッコミ連打に、宿屋中がどっと温かな笑いに包まれる。 厨房の奥からは、おばちゃんが口元をエプロンで押さえながら楽しそうに笑っていた。
「ふふふっ。ルイちゃん、本当は一人で静かに行くつもりだったのにねぇ」 「……その、予定だったんですけど」
改めて、自分の周囲を隙なく取り囲む面々を見回した。
右を見る。 僕の右腕を絶対に離すまいとロックしている、満面の笑みのセリナ。 左を見る。 無駄にフルアーマーの重装備で背負いカゴを背負い、気合いに満ちあふれているレオン。 後ろを見る。

黒革の手帳をシャープに構え、すでに市場の物価指数を冷徹にスキャンし始めているロゼッタ。
(……明らかに、お使いに必要なリソースの適正値を大幅に超過してるんだけど)
『報告』
不意に、脳内の網膜UIへシエルが静かに――けれどどこか満足げにログを表示した。
[ お使いパーティー編成完了 ―― ] [ 被検体:中央配置(絶対保護対象) ] [ セリナ様:右側近接護衛ユニット ] [ レオン様:前衛盾 兼 荷物運搬ユニット ] [ ロゼッタ様:会計 兼 資産防衛ユニット ] [ 総合評価:市場での安全性、97.8%向上 ]

「……護衛っていうか、これ」
小さく深い溜め息をつき、宿屋の天井を仰いだ。
「完全に、僕が重犯罪者並みの監視対象になってるんだけど」 「違うよ、ルイくん?」
セリナがにこっと、初夏の花が咲き誇るような笑顔を向けてくる。
「監視じゃなくて、過・保・護・対・象、だよ♪」

「都合良く言い方を変えただけで、物理的な拘束力は全く同じだよね!?」 「さぁ、ルイくん!」
セリナは固く繋いだ手をぶんぶんと嬉しそうに揺らした。
「みんなで楽しく、はじめてのお使いに行こう!」 「……はいはい。分かりましたよ」
結局、僕の右手は市場に着くまで――いや、おそらく買い出しを終えて帰ってくるまで、解放される未来は存在しなかった。
宿屋の重厚な木扉が、ギィと音を立てて開く。 朝の眩い陽射しと、港町特有の活気に満ちた潮風が、お使い一行を優しく出迎えてくれた。

テーブル席から見送っていた常連の漁師のおっちゃんが、湯気の立つエールのジョッキを片手に豪快に笑い飛ばす。
「がっはっは! 若旦那、今日はずいぶんと物々しい新婚夫婦の朝のお買い物だな!」 「違います!!」 「お似合いだぞ、若旦那ーっ!」
市場へと続く白茶の石畳に、朝から元気な笑い声が響き渡る。

その隣では、セリナだけが満開の笑顔で、小さく「うん♪」と至福の肯定を込めて嬉しそうに頷いていた。
「だから、そこは僕のツッコミに同期して、全力で否定してよ……」
和やかな空気の片隅で、アグレアスもまた静かに、外出の準備を完璧に整え終えていた。

潮風に運ばれて優しく消えていく、僕のささやかなツッコミと共に。 今日もまた少し騒がしくて、息苦しくて――けれど、どこまでも温かい新しい一日が始まるのだった。
宿屋『アーデル』を出て十五分ほど。 石畳の坂道を下ると、潮の香りが一気に濃くなった。朝日に照らされた港には大小様々な漁船がひしめき合い、漁師たちの威勢の良い掛け声が爽やかな潮風に乗って響き渡っている。
「よいしょー!」 「今朝は文句なしの大漁だぞ!」 「兄ちゃん、その網をこっちへ回してくれ!」
白い海鳥が空を悠然と旋回し、市場へ向かう人々の笑い声が交差する。

港市場の全体が、まるで一つの巨大な生命体のように力強く活気づいていた。
「……やっぱり、すごく賑やかだなぁ」
眩い色彩の波に圧倒されながら、思わず小さく呟く。
『周辺環境、解析完了』
不意に、脳内の網膜UIにシエルのログが静かに展開された。
[ 周辺人口密度:通常の宿屋周辺比 482% ―― ] [ 音声入力情報量:913%増加 ―― ] [ 警告:被検体ストレス指数、緩やかに上昇中(レッドゾーン接近) ―― ]

(やっぱりバチバチに計測してたんだね……)
『もちろんです、ルイ様。本来であれば即座にこの座標からの退避を推奨する重篤なエラー値ですが』 『現在、右腕へダイレクトに伝達されているセリナ様の体温データが、ルイ様の精神安定へ多大に寄与しています』
(……そこ、僕のバイタルデータ経由で勝手に計測してるの?)
[ 接触温度:摂氏36.6度(最適平穏値) ] [ 安心度:極めて高 ] [ 処理:現状のホールド状態の維持を推奨 ―― ]

「ふふっ♪」
僕が脳内でシエルと密な会話を交わしていることなど露知らず、隣のセリナはがっちりと恋人繋ぎをした手を、嬉しそうにぶんぶんと振っている。
「市場って本当に久しぶりだね、ルイくん!」 「僕はそもそも、ここが久しぶりかどうかの記憶すら思い出せないんだけどね」 「じゃあ、今日の景色は全部、ルイくんにとって新鮮ってことだよ!」 「そのポジティブな解釈は、ちょっと前向きすぎない?」 「前向きは最高の仕様だもん♪」
そう言って、セリナはさらに細い指をごきげんにぎゅっと絡めてくる。

(ちょっと待って。今、あまりに自然に恋人繋ぎを受け入れてるけど、冷静に考えてこれって――)
『ルイ様。お言葉ですが、当領域においてはこれが「普通」の初期設定です』
(ダメだ。深く考えると脳内処理がオーバーヒートする。今すぐ止めよう……)
「……って、ちょ、ちょっとセリナ。心なしか僕の手を握る圧が強くなってない?」 「え? 気のせいだよっ!」 「いや、絶対十ニュートンくらい締め付け圧力が増してるんだけど!?」 「にゅーとんって何?」 「えっと、それは……」
(この世界の物理法則で説明するのが極めて面倒くさい)
『数値を補足します』
[ 現在のホールド圧:推定 46.8 N ―― ] [ 前回比:+ 9.4 N(締め付け率上昇) ―― ]

(ほら見ろ、やっぱり物理的に増えてるじゃないか!) 『私の演算結果に、一ミリの嘘偽りもございません』
「ルイくん、どうしたの?」 「……いや。なんでも、全く何でもないよ」
脳内でシエルと大真面目に物理演算をしていることを説明するのも大変なので、僕は曖昧に笑ってその場を誤魔化した。
その少し前方を歩く、我が家のお使い前衛部隊。 ガシャン、ガシャン。白銀の鎧を朝日に眩しく輝かせるレオンは、なぜか頭の上へ大きなカボチャを器用に直載せし、その両脇にはネギやダイコンを親の仇のように抱え、さらに背中には空の特大カゴまで背負っていた。

「……ねえ、レオン」 「何だ、ルイ」 「僕たち、まだ市場の入り口で何も買ってないよね?」 「ああ、厳然たる事実だな」 「じゃあなんで、既に最大積載状態なの?」 「荷物は、いつ増えても完璧に対応できるよう事前準備しておくべきだ」 「それ、聖騎士の戦術じゃなくて物流倉庫の発想なんだよ……」 「聖騎士とは、常に最悪の事態に備える者だからな」 「そこだけ無駄に格好いいシリアス声で言うのやめてくれる!?」
得意げに頑強な胸を張るレオン。その拍子に、右脇に抱えていたダイコンが一本、つるりと滑り落ちそうになる。 だが、それが市場の石畳に接触するコンマ数秒前。 路地の影から音もなく伸びた漆黒の手が、誰の目にも止まらぬ神速でダイコンを空中でキャッチし、背中のカゴの中へ芸術的な放物線を描いてストンと収めた。
――二人が通り過ぎた遥か後方の死角で、燕尾服の執事(アグレアス)が、積載エラーを起こした落とし物を素早く無音で処理し続けていることなど、このポンコツ聖騎士は知る由もない。

すると、通りすがりのおばあさんがからからと笑いながら声を掛けてきた。
「あらあら、お兄さんすごい力持ちだねぇ。引越しでもするのかい?」 「当然だ、おばあさん」
レオンはこれ以上ないほど誇らしげだった。
「宿屋『アーデル』の兵站は、この俺が命に代えても守り抜くッ!」 「だから! ただの今日の晩ご飯のお使いだからね!?」
その大仰すぎるやり取りを見ていた市場の人々が、どっと楽しそうに笑う。
市場の最深部へ入ると、一気に熱気と賑わいが増した。 瑞々しい朝採れ野菜。色鮮やかな果物。網の上で香ばしく焼かれた新鮮な魚に、胃袋を刺激するスパイスの香り。あちこちから、嗅覚を暴力的に誘惑する美味しそうな匂いが漂ってくる。
「わぁ……!」
セリナは青い瞳を夜空の星のようにキラキラと輝かせた。
「ルイくん見て! ここにあるもの、全部食べてみたい!」

「全部は物理的に胃袋の容量が足りないから無理だよ」 「じゃあ、半分!」 「半分でも余裕でキャパオーバーだから無理」 「じゃあ、三分の一!」 「分量の問題じゃないからね!?」
そんなやり取りを繰り広げていると。
「おっ!」
恰幅の良い野菜屋のおじさんが、こちらへ元気に太い手を振ってきた。
「ルイの兄ちゃんじゃないか! 元気にしてたか!」 「あ、こんにちは、おじさん」 「なんだなんだ、今日は可愛い彼女さんと一緒にお買い物デートか! ごちそうさまだねぇ!」 「いや、彼女じゃ――」 「はいっ、そうですっ!」
僕が否定するより早く、セリナが満面の笑みで出力最大の肯定を返してしまった。
「違いますおじさん!」 「ははは! 息ぴったりだな、若旦那!」
周囲の商人たちからどっと笑いが巻き起こる。

僕の顔面は、みるみるうちに限界まで朱く染まっていった。
「お、おじさん、からかわないでください……」 「おっ、照れてる照れてる!」 「だから違いますってば!」 「いやいや、若いねぇ。ごちそうさまだよ」
おじさんは豪快に笑うと、店先に並んでいた小さなガラスの小瓶を一つ、レオンの背負うカゴへぽんと放り込んでくれた。

「ほら、新物のハチミツだ。本日の一番搾りだよ」 「え?」 「お使いのご褒美だ」 「そんな、悪いですよ。ちゃんと代金を――」 「いいんだよ。こんな可愛い彼女さんを連れて歩いてる、初々しい記念さ」 「だから違います!」 「わぁっ、ありがとうございますっ♪」
僕の真横で、セリナはちゃっかりと深々と頭を下げていた。
「ちょっと、受け取っちゃダメだってばセリナ!」 「えへへ、おじさんありがとう!」
完全敗北だった。算術の公式を何万回組み立てても、この「生温かい勘違いのノイズ」をデバッグすることは不可能だ。
その微笑ましい一方。 僕たちから少し離れた露店エリアでは。
カチ。カチ。カチ、カチ。
暗殺メイドのロゼッタが、魔導計算機を片手に、黙々と市場全体を冷徹な視線で見渡していた。

「周辺の野菜価格」 カチ。 「昨日比、一律据え置き」 カチ。 「鮮魚および魚介類」 カチ。 「前日比、二・一%の上昇」 カチ。 「ハチミツの相場」 カチ。 「適正価格内。異常なし」
「……ねえ、ロゼッタさん。君は一体さっきから何をしてるの?」 「市場全体の物価指数の把握です、ルイ様」 「いや、晩ご飯の買い物に、そこまで全品調べる必要ある?」 「当然、ございます」
ロゼッタは一ミリの揺らぎもない無表情で頷き、手元の黒革の手帳を恭しく掲げた。
「おばちゃん様からお預かりした、神聖なる生活費です。一銭たりとも無駄を出すわけにはまいりません」 「いや、おばちゃんもそこまで責任重大なタスクとして君に財布を預けてないと思うよ?」 「いいえ、極めて重大です」
きっぱりと断言する経済暗殺メイド。 すると、そんな彼女の底知れないオーラに気づかない、調子の良さそうな果物屋の商人がすり寄ってきた。
「そこの綺麗なお嬢ちゃん、この真っ赤なリンゴはどうだい? 今朝採れたてで、最高に新鮮だよ!」 「……通常流通価格の一・二倍の設定ですが」 「あ、あれ? ……そ、そりゃあ、観光客向けの特別価格ってやつさ!」
ロゼッタの端正な美貌が、一ミリの容赦もなく絶対零度へと凍りついた。

パタン、と。 黒革の手帳が、冷徹に閉じられた。
「現在の需要と供給、およびリンゴの糖度の予測推移を再計算しました」
背筋に這い寄るような、静かな絶対零度の声。
「現在価格は、当市場の平均相場より三・四%高額です」 「え? あ、あんた何言って――」 「よって、二・八%のお値引きを要求いたします」 「い、いやいやお嬢ちゃん、そりゃ商売として無茶だって――」 「要求を拒否された場合」
すっ、と一歩、有無を言わせぬプレッシャーを放って前へ。
「当店舗を悪質マルウェアとして市場組合へ公式な改善提案を、並びに物理的制裁を――」
 「ロゼッタさんストップ! ストップ!!」
慌てて、今にも血の雨が降りそうな二人の間に命懸けで割って入った。
「普通に、平和にお買い物しよう!? 君、ただの買い出しなのに国家規模の最高財務監査局みたいになってるから!」 「……チッ。――承知いたしました、ルイ様」

ロゼッタは隠す気のない微かな舌打ちを漏らし、スカートの奥でチャキッと不穏に鳴り響いた金属音をすっと隠して、手帳を懐へとしまった。 果物屋の商人は額から冷や汗を滝のように流しながら、引き攣った顔で苦笑する。
「あ、兄ちゃん……連れのお嬢ちゃん達、いろいろ大変だなぁ……」 「……本当に。胃のキャパシティが足りません」
思わず、遥か遠い世界を見るような目になる。
「すみません、おじさん。このリンゴを五つほど、そのお値段で頂けますか?」 「えっ。いや、これ、さっきも言った通り観光客向けのぼったくり価格だよ? 本当にいいのかい?」

「――ご安心を。このリンゴの含有糖度と品質は、その提示価格であっても十分に市場の適正値に見合っておりますよ」
ふわり、と。 一陣の心地よい風のように、漆黒の燕尾服を纏った紳士が現れた。誰の目にも止まらぬほど自然な所作で深く一礼すると、呆然とする商人の掌に、釣り銭不要の硬貨を素早く握らせていた。

「そ、そう言って頂けると果物屋冥利に尽きるねぇ……って、あれ? 今の目の保養みたいな紳士はどこへ?」
商人がパチパチと瞬きをした時には、すでにアグレアスの姿は幻のように路地の影へと溶け、完全に消えていた。 過保護なパーティーが撒き散らす騒動は、今日も影の超有能執事によって、バックグラウンドで完璧に処理され続けているのだった。
――その、直後のことだった。
市場の最深部のほうから、何やらひどく困り果てたような声が風に乗って聞こえてきた。
「困ったなぁ、本当に困ったよ……」 「また今朝も大量に魚が余りそうだ。このままじゃ今日も大赤字だぜ……」

自然と、その切実な声のする方向へ視線を向けていた。
(……何だろう)
胸の奥底で、何かが静かに引っ掛かる。 シエルから下された命令ではない。セリナから頼まれた義務でもない。 ただ、目の前に「困っている人間がいる」という事実だけが――僕の脳内で、ゆっくりと、まるで錆びついた運命の歯車が噛み合って回るように、新しい演算を静かに紡ぎ始めていた。

市場の奥。 潮風が少しだけ強く吹き込む魚屋通りでは、いつもの威勢のいい掛け声とは裏腹に、一人の魚屋の店主が頑強な腕を組んで頭を抱えていた。
「はぁ……。今日も厳しいなぁ……」
木箱いっぱいに並べられた、水揚げされたばかりの瑞々しい魚たち。 朝一番は飛ぶように売れる。だが、昼を過ぎる頃には客足が完全に途絶え、売れ残った鮮魚は刻一刻と鮮度を落としていってしまうのだ。
「今朝もまた大量に余りそうだなぁ……」 「親方」
隣にいた若い店員が、申し訳なさそうに声を掛ける。
「また、最後は投げ売りで処理ですか?」 「いや……」
魚屋の親方は重たく首を振った。
「安売りしても時間的に間に合わねぇ。……結局、最後は捨てる魚が出ちまうんだ」
その切実な呟きを聞きつけ、僕は自然と足を止めていた。
「ルイくん、どうしたの?」
繋いだ右手の先で、セリナが不思議そうに振り返る。

僕は並べられた木箱と、そこに眩く光る魚の鱗を、静かに、けれど冷徹に眺めた。
(……朝の客足の波形) (直射日光の入光角) (潮風の流速と湿度) (夕方の仕事帰りの町民の平均歩行速度)
市場をただ歩きながら、脳内サーバーへ無意識に蓄積していた環境データが、頭の中でパズルのピースのようにカチリと美しく組み上がっていく。

『ルイ様。最適化の解析補助を開始します』
脳内の最特権ディレクトリから、シエルのひどく透き通った電子音声が響き渡った。

[ 状況:市場人流データ取得完了 ―― ] [ 漁船入港時刻データ照合 ―― ] [ 購買行動パターンおよび滞在時間解析 ―― ] [ 演算処理:市場流通オプティマイズを開始します ―― ]

「……」
小さく、けれど確信に満ちた様子で深く頷いた。
「おじさん。……午後二時、正確には百四十分後になったら」 「え?」
魚屋の親方が不意に声をかけられ、きょとんと顔を上げる。僕は一番手前の木箱を指差した。
「この列の魚だけ、二割だけ値段を下げてください」 「二割? でも、そんな全部を安売りしちまったら、うちの儲けが……」 「全部じゃないです。午後二時の時点で、最も鮮度の低下速度が加速し始める、この種類の魚だけをピンポイントで処理するんです」
その場にしゃがみ込み、木箱の中の魚の配置を少しだけ入れ替えた。

大きな魚を中央の目立つ位置へ、小ぶりな魚をその端へ。さらに木箱の傾斜角度も、数度だけ微妙に変える。
「あとは、太陽の入光角を逆算すると、午後からはこの位置へ日除けのシートを設置してください。それから……どうしても鮮度が落ち始めた個体は、その場で香ばしく焼き上げるんです。ただ廃棄するくらいなら、一口サイズの『試食用』として周囲に配ってください。それが最高の宣伝になります」 「え……? こ、これだけの微調整で本当にいいのかい?」 「はい。午後三時を過ぎると、お仕事帰りの主婦層や買い出し客の流入が増えます。その人たちは『安くて新鮮な今日の夕飯のメイン』を探しているんです。……全部の価格帯が高いとただ通り過ぎてしまいますが、一種類でも目立つ安値があると『せっかくだから他も買って帰ろう』という購買心理が動きます。焼き魚の香ばしい匂いも、強力な誘導として客足を引き寄せてくれますから」
魚屋の親方は、あまりの論理的威圧感に目を丸くして固まっていた。
「……商売って、そんなもんなのか?」 「算術的には、売れ残りの在庫をゼロにして、トータルの純利益を十二%引き上げる確率が極めて高いです」

照れくさそうに微笑んだ、まさにその時だった。
「――さらに補足を付け加えるなら、試食用の魚は事前に骨を取り除いておくと、幼子を連れた母親層の滞在時間がさらに延びますよ」 「え?」
ふわり、と。背後からどこか気品のある冷たい風が吹いた。 どこからともなく現れた燕尾服の紳士(アグレアス)が、魚屋の耳元で完璧なマーケティング助言を囁いたコンマ一秒後――彼はすでに一切の気配すら残さず、路地の影へと溶けるように消えていた。

「な、なんだったんだ今のめちゃくちゃ目の保養になる紳士は……!? ……まあいいや兄ちゃん! 試すだけ試してみるよ、ありがとう!」 「はい。お役に立てれば幸いです」
軽く頭を下げる様子を見て、隣にいたセリナが愛おしそうに青い瞳を細めた。
「ルイくん。また困ってる人を放っておけなかったね。本当に優しいなぁ」 「……そうかな。ただ困っている状況を見ると、脳内で勝手に最適化の計算式が走っちゃうんだよね」
「よし! 理由はさっぱり分からねぇが、俺は兄ちゃんの算術を信じるぜ!」

前衛重装兵のレオンが、力強く指を差した。
「うーん……今日は全然、客の動線がこちらに寄らねぇなぁ……」
少し離れた広場の一角で、移動屋台のおじさんが腕を組んで深いため息を漏らしている。
「パン、すっごく美味しそうな匂いがしてるのにね。不思議」
セリナが可愛らしく首を傾げる。僕はその移動屋台の周囲の環境データを、じっと観察し始めた。 広場の幾何学的形状。風の通り道。市場を流れる人間の動線。
「……」
その場にしゃがみ込み、石畳の上に転がっていた小さな小枝を拾うと、簡単な幾何学模様を描き始めた。

「ここが、広場の中心座標」 小枝で、線を一本。 「ここが、海からの潮風の流路」 さらにもう一本。 「そして、人間の最大流通は、ここからこの角度で流入します」 さらにもう一本、石畳に鋭い線が刻まれた。
レオンが白銀の兜の奥から、真剣そのものの眼差しで石畳の線を覗き込んできた。
「……なるほど。地形で優位に立つための、高度な軍事作戦図か」 「違うよ。ただのお使いの寄り道だよ」 「敵軍の侵攻経路と、それに対する我が重装陣形の配置図だな?」 「だから屋台の位置調整の話だからね!?」
苦笑しながら、手にした小枝の先端を移動屋台のほうへと向けた。
「おじさん。屋台の向きを、あと『五度』だけ西へ向けてみてください」 「五度? たったそれだけで、何かが変わるのかい?」 「はい、劇的に変わります。午後になると海風の流れが変化します。五度だけ傾けることで、焼き立てパンの香ばしい匂いが広場全体へ効率的に広がるんです。さっきの魚屋さんが始める試食の匂いとの相乗効果で、広場にいる人たちの食欲をダイレクトに直撃しますから」
「あははっ!」
真横でその熱弁を聞いていたセリナが、たまらず吹き出した。
「な、何さ、セリナ」 「ううん、ルイくんがすごく真面目な顔で『美味しそうな匂いパッチ作戦』を説明してるのが、可笑しくて可愛くて。……うん、そういう算術バカなところ、私本当に大好き」
「……っ」
愛の告白をサラッと放った直後、セリナは僕の右腕にさらに力強く抱きついてきた。

「ちょっ、セリナ、近い! 物理的な圧が近いってば!」 「ふふ、嬉しくなると強制的に距離が縮まる初期仕様だから♪」 「その心臓に危険すぎるバグ仕様、至急アップデートで修正できないの!?」
『却下します』
脳内の最特権ディレクトリから、シエルが髪の毛一筋ほどの遅滞もなく即答した。

[ 判定:セリナ様との高頻度な肉体接触は、被検体の人格修復へ絶大な好影響を与えています ―― ] [ 結論:現状の密着状態を強く推奨します ―― ]

(おいシステム! シエルまで完全にセリナの共犯になってるじゃないか……!?)
「よし! 理由はさっぱり分からねぇが、俺は兄ちゃんの算術を信じるぜ!」
屋台のおじさんが威勢よく腕まくりをし、近所の男たちと協力して、大きな移動屋台をゆっくりと回転させた。
ぎぃ……、と硬い車輪が鳴る。ほんの少し。ミリ単位の完璧な角度調整。
「はい、これでバッチリです!」 「ありがとうな、ルイちゃん! 当たったら大儲けものだ!」
――そして、数時間後。
午後の陽射しが斜めに傾き、海からの爽やかな風へと向きが変わった、まさにその頃だった。 先ほど角度を修正した移動屋台から立ち上る、焼き立てパンの香ばしく甘い匂いが、まるで誘導線を描くかのように、一気に広場全体へと美しく広がっていったのだ。
「わぁ、すごくいい匂い! お腹空いてきちゃった!」 「ねえ、今日のオヤツはあのパンにしようよ、ちょっと寄っていこう!」
匂いに誘われ、足を止める人々が一人、また一人。 気がつけば屋台の前には、広場を幾重にも折れ曲がるほどの長蛇の行列が出来上がっていた。

そして、潮風が吹き抜ける魚屋通りでも、全く同じ奇跡が巻き起こっていた。
「おっ、ラッキー! この魚、午後二時からピンポイントで二割も安くなってるぞ!」 「夕飯のメインにちょうどいいじゃない! ほら見て、この試食の焼き魚、骨が綺麗に抜いてあって子供でも食べやすいわ!」 「今のうちに今日の取り分を確保しとこう!」
夕暮れ前。魚屋の店先に並んでいた大量の木箱からは、あれほど処理に頭を抱えていた売れ残りの魚が、一匹残らず消え、完全に空っぽの状態になっていた。

「……売り切れた……」
魚屋の親方は、空の木箱をただ呆然と見つめている。
「本当に……たった一匹すら残さず、全部……っ」
親方の信じられないものを見るような視線は、遠くの人混みの中で、銀髪の麗しい少女に嬉しそうに右腕を引かれながら、「もう! 試食用のハチミツは買い出しリストに載ってないよ!」と顔を真っ赤にして困ったように笑う一人の少年に向けられていた。
「……あの子、一体何者なんだ……?」
市場の人々は、まだ誰も知らない。 この"世界の綻びを、ただ数式の微調整だけで少しだけ直してしまう少年"の存在が、やがてこの港町全体を、どこまでも優しく、温かく変えていくことになるのを――。
市場でのお使いも、残すところあと僅か。 夕闇が静かに近づき始めた広場には、昼間以上にたくさんの人々が集い、小さな子どもたちが元気いっぱいに走り回っていた。
大道芸人が奏でる、愉快なアコーディオンの演奏。 屋台から漂ってくる、甘い焼き菓子の香ばしい香り。 爽やかな潮風に揺れる、色とりどりの万国旗。 港町特有の穏やかな笑い声が、市場の全体を優しく包み込んでいる。
「……本当に、賑やかだね」
何気なくそう呟くと、隣で右腕にしっかりと腕を絡めていたセリナが、嬉しそうに何度も頷いた。
「うん! この町の人たち、みんなとっても楽しそう!」
――その、まさに平和を絵に描いたような瞬間だった。
「うぅ……っ、ぐずっ……」
広場の賑やかな片隅から、小さな、しかし切ない泣き声が漏れ聞こえてきた。 視線を向けると、五歳くらいの小さな男の子が石畳の上にぽつんとしゃがみ込み、目を真っ赤に腫らしながら、何かを両手で強く握りしめている。
「どうしたの? 迷子になっちゃった?」
セリナがその場に優しくしゃがみ込み、柔らかな声を掛ける。 男の子は涙を小さな手で拭いながら、おずおずと掌を差し出した。
そこにあったのは、木で作られた素朴な小さな風車のおもちゃだった。

けれどその羽根は力なくぐったりと垂れ下がり、吹いてくる潮風をまったく受け止めていない。
「……こわれちゃったの」 「お父さんに、今日買ってもらったばかりなのに……」 「風がいっぱい吹いても、全然まわらないんだ……っ」
セリナはどこか困ったように、木製の風車をじっと眺めた。
「うーん……羽の付け根が折れちゃったのかな?」 「いえ。構造上、破損はしていませんね」
すっ、と。音もなく。 完全な死角に控えていたロゼッタが、一ミリの揺らぎもない無表情のまま一歩前へ出た。眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ鋭利なサーチライトのように、おもちゃの構造を冷徹にスキャンする。
「風車の回転主軸となる中心木材が、海辺の湿気と経年劣化による応力で『一・二ミリ』ほど右側へ湾曲しています。それが原因で回転軌道に深刻な摩擦が発生している状態かと」 「一・二ミリの曲がりを、コンマ一秒の目視で特定したの!?」
思わず驚愕していると、ロゼッタは黒革の手帳の裏から、まるで手品のように『新品のピカピカな風車』をサッと取り出した。

「お坊ちゃん。泣かないでください。代わりにこちらの最新モデルを――」
論理的で、最も短い解決策だ。 だが、男の子は健気に首を横に振った。
「やだ……。このおもちゃ、お父さんが、ぼくに選んで買ってくれた風車がいいの……っ」
「……」
ロゼッタは差し出した手をピタリと止め、ほんの少しだけ切れ長の目を細めた。そして、何事もなかったかのように無言のまま手帳の裏へそれをスッと戻し、静かに一歩、元の死角へと引き下がる。
(……そうだよね。お父さんがくれたものの代わりなんて、この世界のどこにも存在しないんだ)
男の子のすぐ隣に、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「ねえ、ちょっとだけ、その風車を僕に見せてもらってもいいかい?」
男の子は涙を流したまま、こくりと頷く。 受け取った木製の風車を手に取り、ゆっくりと羽根を指先で回してみた。ロゼッタの超精密な解析通り、中心の主軸がほんの一・二ミリだけ歪んで、物理的な摩擦を起こしている。
「フッ、ならば俺の出番だな! 任せろ!」
背後にそびえ立つレオンが、ガシャガシャと鎧を鳴らし、腰の工具袋から小さな木槌を自信満々に取り出した。
「……ねえレオン。君、なんで聖騎士の装備に木槌が含まれてるの?」 「宿屋『アーデル』の緊急修繕用だ、ルイ」 「実に便利だけど、普通は戦闘用のポーチに常備するものじゃないよね?」 「当然だ。いつどこで、我が宿屋の防衛壁が物理的に崩落するか分からんからな」 「聖騎士という国家最高戦力の定義が、僕の脳内で崩壊してきたよ……」
深く苦笑しながら、レオンからその使い込まれた木槌を受け取った。

石畳の上へ風車をそっと置き、ミリ単位の打撃角度を脳内で一瞬で計算してから――。
コン、と。
ほんの小さく、不整合の起点となっている一箇所だけを正確に叩く。 続いて、羽根の受風角度を指先で数度だけ丁寧に整えた。
「よし。これで……」
タイミングを計ったかのように、海からふわりと、心地よい潮風が吹き抜けた。
くる。 くるくるくる……!
今まで止まっていた風車が、カラカラと軽やかな音を立てながら、まるで命を吹き返して喜んでいるかのように、勢いよく回り始めたのだ。

「あっ!」
男の子の丸い瞳が、驚愕でさらに大きく見開かれる。
「まわった! ぼくの風車がまわったよ!」 「すごい! ルイくん、一瞬で直しちゃった!」
風車は夕暮れの潮風を完璧に受け止め、どこまでも嬉しそうに、くるくると楽しそうな音を奏でて回り続けている。
「ありがとう、お兄ちゃん! 大好き!」
男の子は満面の笑みで、直ったばかりの風車を宝物のようにぎゅっと抱きしめた。 そのひだまりのような笑顔を見つめていた僕も、気づけば自然と、口元が少しだけ緩んでいた。
「うん。……本当によかった」
その口からこぼれ落ちた一言は、驚くほど自然な本音だった。 システムのエラーログに従って無理に笑おうとしたわけでもない。セリナを喜ばせようと計算したわけでもない。 ただ、目の前で壊れて困っていた小さな日常を、ほんの少しだけ直した。その結果として、目の前の子どもが世界で一番嬉しそうに笑ってくれた。 たった、それだけのことなのに。
『――報告』
脳内の特権ディレクトリへ、シエルのどこか穏やかな電子音声が静かに響き渡った。
[ 人格修復ログ ―― ] [ 検出項目:Connection(地域との繋がり) ―― ] [ 宿屋外部ディレクトリ(町の人々)との相互作用を確認 ] [ 市場住民との信頼関係の構築を検出 ―― ] [ 判定:被検体の感情応答に明らかな改善を確認。笑顔の自然発生を検出しました ] [ 人格復元率:31.4% → 31.8%(システム更新完了) ]

(……上がった、のか)
夕暮れの石畳の上で、思わず足を止めていた。
(たった、零点四%の微増。……でも、ちゃんと。僕の心は、戻ってきているんだ)
『はい』
シエルの返答は、いつもの無機質な合成音声とは裏腹に、どこか優しく響いた。
『ルイ様の『家』は、あの宿屋『アーデル』だけではありません。この町で誰かと優しく関わること。誰かの小さな困りごとを解決してあげること。その一歩一歩のすべてが、ルイ様の人格復元へと確実に繋がっています』 『Louis-Adel.cfg(ルイ様の魂)は、不特定多数の"人との繋がり"によって、今まさに再構築されているのです』
静かに、茜色に染まり始めた市場を見渡した。 さっきの魚屋の親方が空の木箱を前に笑っている。位置を直した屋台のおじさんが元気に手を振っている。風車を直してもらった男の子が、くるくると回るそれを追いかけて元気に走り回っている。
爽やかな潮風が、冷え切っていた僕の頬を優しく撫でていった。

(……なるほど、な)
僕が算術で、この町をほんの少しだけ住みやすくする。 すると、その結果として、町のみんなが笑ってくれる。 そして、その温かな笑顔が、今度は僕の心を、少しだけ元の『人間』の形へと戻してくれるんだ。
胸の奥底が、ぽうっとロウソクの火が灯ったように温かくなる。 その様子をじっと見つめていたセリナは、余計な言葉は何も言わず、そっと僕の右手を握りしめてきた。
今度は、骨をミシミシいわせるような万力じみた力ではない。 ただ優しく。僕の冷たい手を、自身のぬくもりで包み込むように。
僕は、その優しさを振り払おうとはしなかった。 むしろ、皮膚を通じて直接流れ込んでくるその温もりが、ひどく心地よかったのだ。
――その、まさに心が静かに通じ合った刹那だった。 僕のすぐ背後から、すぅ、と静かな衣擦れの音が響いた。
「……お坊ちゃん」
ロゼッタが、男の子の目の前へ歩み寄る。 彼女はしゃがみ込むと、無表情のまま、男の子の手にある風車の羽根へそっと指先を触れた。
「え?」
かすかな魔力の光が爆ぜる。 それは、最上位のメイドだけが扱える『耐久力強化』の付与魔法だった。
「これで、もう二度と折れることはありません。……大切になさってくださいね」 「うんっ! ありがとう、お姉ちゃん!」
ロゼッタは小さく会釈をして立ち上がり、再び僕の後ろへと静かに控えた。

その横顔は相変わらず冷徹に見えたが、眼鏡の奥の瞳だけは、どこか満足げに和らいでいる。
(……そっか。ロゼッタさんも、本当はすごく優しいんだ)
『記録』
シエルが小さく呟き、脳内にログが走る。
[ 追加ログ ―― ] [ セリナ様との接触。安心度:上昇 ] [ ロゼッタ様の隠しパラメータ(優しさ)を検出 ] [ 推奨:現状維持 ]

(……シエル) 『はい?』 (たまに思うんだけどさ。君って、本当にAIなのかな?)
ほんの一瞬、脳内に奇妙な沈黙が流れた。
そして。
『…………』 『ノーコメントです』
そのあまりにも人間くさい返答に、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ」
僕の小さな笑い声が、夕暮れの市場へ静かに溶けて消えていった。

夕暮れ。 西の空はゆっくりと茜色へ染まり、海の向こうへ沈み始めた太陽が、港町全体をセピア色の光で包み込んでいた。 市場の喧騒も少しずつ落ち着き始め、人々はそれぞれ今日の買い物を抱えながら家路についている。
「よし」
レオンが背負った大きな籠を、位置を直すように軽く持ち上げた。 中にはジャガイモ、玉ねぎ、ニンジン、干し魚、小麦粉。そして、おまけでもらった小瓶のハチミツ。 おばちゃんに頼まれていた食材は、見事に全部揃っていた。
「任務完了だ」

「うん、これなら今日の夕飯の仕込みも大丈夫そうだね」 「宿屋のみんな、きっと喜ぶよ!」
セリナが隣で嬉しそうに弾む。 ちなみに、僕の右手は相変わらず彼女による『恋人繋ぎ』で完全に拘束されたままだ。
「……セリナ、そろそろ手を離してもいい?」 「ダメ」 「即答だ」 「宿屋に帰るまでが遠足の仕様です♪」 「仕様なんだ……」

『確認』
脳内へ、シエルが淡々とログを表示した。
[ 接触プロトコル ―― ] [ 被検体の現在の精神安定率:良好 ] [ 推奨:セリナ様との密着状態を維持してください ]
(最近、シエルも彼女を止める気ないよね) 『被検体の人格修復を最優先事項として処理しています』 (便利な言葉だなぁ)

思わず苦笑が漏れた、その時だった。
「おーい! 兄ちゃん!」
後ろから元気な声が飛んできた。 振り返ると、昼間に立ち寄った魚屋のおじさんが、エプロン姿のまま大きく手を振って走ってくる。その手には、紐で縛られた大きな紙包みがあった。
「今日は助かったよ! これ、持っていきな!」 「え?」 「兄ちゃんが言ってくれた通りにしたら、売れ残るはずだった魚が夕方までに全部なくなったんだよ! おかげで今日は、久しぶりの完売だ! これは俺の気持ち、そのお礼さ!」
おじさんは息を切らしながらも満面の笑みを浮かべ、紙に包まれた上等な干物を僕の胸元へ押し付けてくる。

「え、でも……受け取れません。僕はただ、少しお話をしただけですから」
慌てて首を振る僕の隣で、セリナが小さく微笑んだ。
「もらってあげたら? おじさんの感謝の気持ちなんだから」 「……ありがとうございます」
少しだけ頬を染めながらその温かい紙包みを受け取ると、魚屋のおじさんは満足そうに笑って市場の奥へと戻っていった。
さらに帰り道を歩き始めると、今度は屋台のパン屋のおばさんが駆け寄ってくる。
「兄ちゃん! これ、持っていきな!」
手渡された紙袋には、焼きたてのクッキーが隙間なく詰められていた。

「今日は大繁盛だったよ! 匂いの話、本当に当たったねぇ! うちの旦那なんて、今でも『五度だ、五度だ!』って大騒ぎさ!」
その言葉に、片付けをしていた周りの商人たちからも一斉に笑い声が沸き起こる。
「ははは! 風向き博士!」 「五度の兄ちゃん、また明日も教えてくれよ!」 「そ、そんな大げさな……偶然ですよ」
耳まで赤くして首を振る僕に、商人たちは口々に言葉を重ねた。
「偶然であんな大行列が起きるか!」 「また頼むぞ、ルイちゃん!」 「今度はうちの店も見てくれよ!」

一人、また一人。僕を見る人たちの笑顔が増えていく。 気付けば市場の出口を抜けるまで、たくさんの人が僕たちに向かって手を振ってくれていた。
「また来なねぇ!」
その温かい声が、海からの潮風に乗って、茜色の夕焼け空へとゆっくり溶けていく。 僕は石畳の坂道で、ふと足を止めた。
胸の奥が、じんわりと温かい。 何だろう、この感覚は。 懐かしいような、初めて知るような――今の僕には、まだ名前すら登録されていない感情。
でも――決して嫌じゃない。むしろ、とても心地よかった。

『解析』
シエルが、静かに脳内へログを展開する。
[ 感情解析 ―― ] [ 検出概念:安心感 / 帰属意識 ] [ 地域コミュニティとの安全な接続を確認 ] [ 状態:極めて良好 ]

(……そうか)
夕暮れの市場をゆっくりと振り返った。 魚屋、八百屋、パン屋の屋台。港と、潮風と、夕焼け。そして、みんなの笑顔。
(僕には、まだ思い出せないことがたくさんある。失った記憶も、知らない過去も、きっと星の数ほどあるけれど)
そっと自分の胸に手を当てる。心音は、とても穏やかなリズムを刻んでいた。
(宿屋の部屋だけじゃない。この市場も、港も、この町のみんなも……少しずつ、本当に少しずつだけど、僕をこの世界へ受け入れてくれている。だったら――ここも、僕の『帰る場所』なんだ)

その瞬間、ふわりと、拘束された右手に新しい温もりが伝わってきた。 さっきまでの万力のようなホールドとは違う。僕の指先を、大切に、優しく包み込むような握り方。
「ルイくん。今日、楽しかった?」
隣に立つセリナの顔を見る。それから、市場で笑った人たちや、風車を喜んだ男の子の姿を思い浮かべた。
「……うん」
たった一言。それだけだった。 けれどセリナは、まるで自分のことのように嬉しそうに、弾むような笑顔を咲かせた。
「そっか。よかった!」
その純粋な笑顔を見ていると、不思議と僕の口元も緩んでしまう。
「でも、手のホールド圧だけは、今日一日で確実に上がってるよね」 「えへへ。気付いちゃった?」

『測定結果』
シエルが即座に追記ログを叩き出す。
[ 対象:セリナ様 ―― ] [ ホールド圧:初期値比 +11.3 N ] [ 原因推測:被検体が他者と交流したことへの『嫉妬』、および『独占欲』の上昇 ]

(細かい数値は測らなくていいんだけど……) 『システムとして必要なデータです』 (シエル、絶対この状況楽しんでるよね?) 『…………ノーコメントです』

一拍置いたその返答に、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ」 「あ、また笑った! 今日は特別によく笑ってる気がする♪」 「そうかな。理由は分からないけど」 「じゃあ、帰ろっ! 帰ったら、今日こそ一緒にお風呂いこ!」 「また、それ!?」
『[ 警告:ダメです!断固として推奨しません! ]』
シエルまで脳内で赤いアラートを出して必死に拒絶している。

「それよりセリナ、僕の部屋じゃなくて、他の空いてる部屋に引っ越さないの?」 「引っ越さない!」 「ルイ、そこは諦めろ。俺も最善を尽くしたが、無駄だった」 「ロゼッタさんも何とか言ってやってくださいよ!」 「……私にそのような目線を向けられましても。メイドたるもの、お嬢様の決定には逆らえません」

わちゃわちゃと賑やかに騒ぎながら、僕たちは並んで歩き出す。 夕暮れに染まる石畳の坂道。その先には、温かな灯りをともした宿屋『アーデル』が待っていた。
窓から漏れる優しい明かりと、焼きたてのパンの香り。
「おかえり」

まだ扉を開けてもいないし、誰にもそう言われていないのに。 その灯りを見た瞬間、なぜだか心の中でそんな声が聞こえた気がした。
古びたドアの前まで来ると、風が吹いてカランっ、と真鍮の鈴が音を立てて鳴る。 開かれた扉の隙間から、漆黒の燕尾服の影――アグレアスが、誰にも気づかれることなく、夕暮れの風に乗って一足先に宿の中へ消えていった。

そして今日もまた、少し騒がしくて、少し息苦しくて――けれど、胸の奥がほんの少しだけ満たされる温かい一日が、静かに幕を閉じるのだった。
 外伝・第12章「超過保護なお使い任務、あるいは市場の最適化(オプティマイズ)」 完

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あらすじ 朝日が差し込む宿屋『アーデル』で、香ばしいパンとハチミツの香り、潮風と湯気が混じる穏やかな朝に、港の小舟が戻り町人が挨拶を交わす活気が広がる。 おばちゃんの焼いたパンに安心を得るルイは、理屈では測れない温もりに体温が上がるのを感じながら、お代わりを勧められて素直に頷く。 セリナは甘い香りとともにパーソナルスペースを侵食し、ちぎったパンを「はい、あーん!」と迫ってルイを赤面させる。 白銀の鎧のレオンは豪快にスープを平らげ「筋肉が整う」と絶賛し、鍋ごとおかわりをもらう騒動を起こして食卓はさらに賑やかになる。 アグレアスは片隅で気づかれぬ優雅さでスケジュールを確認し、シエルは「人格修復効率、極めて良好」と静かに報告して過保護な温度感を補足する。 ルイは世界の平和を噛みしめるが、おばちゃんから市場への買い出しを頼まれ、素朴な買い物リストを受け取り一人で行くと告げる。 扉へ向かった瞬間、シエルが人混みという社会的ノイズと人格復元率31.4%を理由に単独行動の高リスクを警告し、強力な護衛の起動を推奨する。 過去ログには村人に囲まれたイベントで思考停止した記録が残っており、ルイは反論できずに固まる。 そこへセリナが扉を勢いよく開けて登場し、「一人で行っちゃダメ」と満面の笑みでルイの右手を恋人繋ぎで完全拘束する。 「宿屋に帰るまでが遠足の仕様」と宣言したセリナに、シエルも接触維持を推奨し、ルイは半ば諦めて市場へ向かう。 市場では、昼間の助言で売り切れた魚屋のおじさんが上等な干物をお礼に渡し、セリナの一言でルイは感謝を受け入れる。 パン屋のおばさんも焼きたてクッキーを渡し、匂いと風向きの工夫が的中したと笑い、周囲の商人たちが「五度の兄ちゃん」と持ち上げる。 商人たちは「偶然じゃない」と口々に感謝し、また見てほしいと頼み、手を振る町の人々に見送られて市場を後にする。 夕暮れの潮風の中、胸の奥が温まり、名前のない懐かしく心地よい感覚が芽生え、コミュニティへの接続が安全で極めて良好とシエルが解析する。 港、屋台、夕焼け、笑顔の風景を振り返り、失った記憶は多いが、少しずつ町に受け入れられていると確信して「ここも帰る場所」と胸に手を当てる。 その時、セリナの握り方は優しく変わり、「今日、楽しかった?」の問いに、ルイは「うん」と短く答え、彼女は弾む笑顔を見せる。 ルイは「手のホールド圧が上がってる」と茶化し、シエルは+11.3Nの増加と嫉妬・独占欲の上昇を推測し、ノーコメントで茶目っ気を滲ませる。 笑いがこぼれる空気のなか、セリナは「今日はよく笑ってる」と嬉しがり、帰ったら一緒に風呂と言い出し、シエルは全力で赤アラートを出す。 ルイが「別室に引っ越さないの?」と問えばセリナは即答で拒否し、レオンは「諦めろ」と肩をすくめ、ロゼッタはメイドとして逆らえないと受け流す。 わちゃわちゃと冗談と掛け合いを続けながら、夕暮れの石畳を並んで歩き、宿屋『アーデル』の灯りとパンの香りが帰路を迎える。 まだ扉も開けていないのに「おかえり」という声が心に響き、真鍮の鈴が風に鳴って、アグレアスの燕尾服の影が誰にも気づかれず先に中へ消える。 少し騒がしく息苦しいほど過保護なのに、胸の奥が満たされる温かな一日が静かに幕を閉じ、ルイの人格修復は確実に進んでいる。 この一日は、買い出しという小さな任務を通じて、市場の最適化に関するルイの直観的な助言が成果を生み、町との信頼回路が強化された。 具体的には、風向きと匂いの拡散を活用する配置・温度・角度の微調整が購買行動を刺激し、売上と来客動線の改善に直結した。 セリナという「超過保護」な護衛は、過剰さと優しさを同居させ、ルイの負荷を下げながら社会接続を段階的に広げる安全策として機能した。 シエルは保護閾値を厳密にモニタリングしつつ、密着の情緒的効能を肯定する設計を採用し、数値と感情の両面から回復を最適化した。 レオンの豪快さとおばちゃんの包容、アグレアスの不可視の支え、ロゼッタの忠節は、異なる形のケアが同じ帰属性を強化する多層的な環境を作る。 その総和として、宿も市場も港も「帰る場所」と認知され、ルイの世界モデルは安全・信頼・喜びの重み付けを増やして更新された。 最後に、夕焼けと潮風、灯りと鈴の音が、その日得た小さな成功と穏やかな安堵を閉じ印にし、明日も続く日常への期待をそっと灯した。
解説+感想 感想
全体を通して、ルイの「算術的・システム的な思考」と、周囲のキャラクターたちの圧倒的な「過保護・マイペースさ」のギャップが非常にコミカルで魅力的に描かれており、読んでいて自然と笑顔になれるエピソードでした!
💡 ここが良かった・印象に残ったポイント
キャラクターの個性と役割分担の妙 セリナの直球でぐいぐい引っ張っていくヒロイン力(物理的な拘束も含めて!)と、ルイのツッコミのキレが最高に軽快です。 レオンの脳筋かつ真面目すぎる「聖騎士の兵站防衛」というボケと、ロゼッタの冷徹な経済監査(からの物騒な脅し)という属性の尖り具合が絶妙で、パーティーとしてのバランスが抜群でした。 そして何より、裏で完璧にすべてのフォローをこなすアグレアスの圧倒的な有能執事ぶりが、良いスパイスになっていてクスッと笑えます。
ルイの「心の再生」の描き方 最初は「人混みによるストレスやエラー」として世界を捉えていたルイが、市場の人々との触れ合いや、風車を直して喜ぶ男の子の笑顔を通じて、少しずつ「人間らしい温もりや繋がり(Connection)」を取り戻していく過程がとても丁寧で心温まりました。 AIであるシエルのログを介して、ルイのメンタル回復率(0.4%の微増など)が数値化される設定も、この作品ならではの独特の味わい深さが出ていて大好きです。
温かい「日常」の空気感 事件を解決するような大冒険ではない、「市場へのお使い」という極めて日常的なイベントでありながら、人々の温かさや町の活気が鮮やかに描写されており、読後感が非常に心地よかったです。
賑やかで少し息苦しいけれど、どこまでも優しく温かい「宿屋アーデル」の日常と、ルイたちの絆が深まる様子をたっぷり堪能できる素敵な外伝でした!
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◀外伝・第11章(本編:10.11)「ドタバタ日常と、過度なスキンシップの仕様」
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