◀第20章『屋上の湯煙と、黒い手帳の告発』
▶第22章『夢の中で、君はまだ笑っていた』
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第21章『チョコのトマトと、一ノ瀬の消失』
「VOICEVOX: 東北ずん子」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 栗田まろん」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 玄野武宏」
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朝。ミリアは目を覚ますと、しばらくの間、白み始めた天井をただ見つめていた。窓の外からは小鳥のさえずりが聞こえる。どこまでも穏やかで優しい、初夏の朝。昨日までと何一つ変わらないはずの日常。けれど――ミリアの胸の奥にだけは、そっと指を差し込まれたかのような、ぽっかりと冷たい空洞が取り残されていた。
「……今日も、ダメなのかな」
ベッドの脇に立てかけてあったクリスタルハープへ、縋るように手を伸ばす。細い指先が、静かに一番上の銀弦を弾いた。ぽろん。澄んだ一音が、まだ眠気の残る部屋のなかへ、静かに溶けていく。
美しい音だった。濁りもなく、音程も完璧に調律されている。なのに。
「…………」

ミリアは祈るようにもう一度、弦を撫でた。ぽろん。……やはり、同じだった。音は確かに聞こえている。物理的には、楽器として何一つ失われてはいない。それなのに――音の最深部にあるはずの『温度』が、まったく伝わってこないのだ。

数日前までなら、この弦を震わせれば、そこには必ず『彼』の気配が揺らめいていた。胸をかきむしられるような、あの悲しい旋律。聴いたこともないはずなのに、涙が溢れてしまうほど懐かしい日本の音色。誰かの人生そのものを炉にくべて、音符の煙として放たれているかのような、あの魂の交響曲(シンフォニー)。
けれど、今の弦が返すのは、
「……どうして、音が死んでしまったの……?」

誰に尋ねるでもない呟き。返る声はない。ただの乾いた金属の振動だけが、虚しく空気を震わせるだけ。ルイの記憶から日本の歌が完全にデリートされたという厳然たる事実を、ミリアのハープが残酷なまでに証明していた。
ミリアはハープを壊れ物を抱くように胸へ引き寄せ、そっと立ち上がる。何か、方法があるはずだ。あの旋律が世界から完全に消滅したわけではないのだとしたら――記録の専門家であるナギさんに相談すれば、失われた音の欠片を、もう一度だけ水底から掬い上げることができるのではないか。
そんな淡い、けれど切実な希望を胸に抱え、彼女は一階の食堂へと降りていった。
「おはよう、なのです……」

扉を開けた瞬間、芳醇なバターと焼き立てのパンの香りが、ふわりと彼女の鼻腔をくすぐった。
「おはようございます、ミリアさん!」
厨房では、フレアが楽しそうにステップを踏みながら朝食の準備をしている。その姿は、いつもと何一つ変わらない平和な日常の光景だった。だが――その向こう側のテーブルでは、ナギとレイガが顔を寄せ合い、押し殺した声で何かを深刻に話し込んでいた。二人とも、血の気が引いたようにひどく蒼白な顔をしている。昨夜、女湯という密室でシオから突きつけられた、あのあまりにも劇薬めいた現実が、大人の精神を確実に蝕み始めているようだった。
「…………」

ミリアは思わず、その場に足を止めた。
(ナギさんに相談してみようと思ってたんだけど……)
とてもではないが、今の二人に声をかけられる雰囲気ではない。そう察して一度引き返そうとした、まさにその時だった。

「あ、おはよう、ミリア」
頭上から響いた声に顔を上げると、階段から二つの人影が降りてくるところだった。ルイと、セリナ。
「おはようなの」
ルイはいつも通り、どこまでも穏やかで、均整の取れた完璧な笑顔を浮かべている。何も変わっていない。昨日と変わらず、彼はセリナの隣で優しく微笑む『救世主』そのものだった。
――けれど。その姿を認めた瞬間、ナギの顔色が一瞬にして土気色へと変わった。
「せ、セリナ様っ……!」

ガタッ! と、危うく椅子を倒さんばかりの勢いで、ナギが弾かれたように立ち上がる。

「えっ?」
「み、ミリアさんもっ! い、今すぐ……お風呂に行きましょうっ!」
「……お風呂?」
あまりにも唐突な提案に、セリナとミリアの戸惑った声が美しく重なった。
「えっと……朝ごはんは?」
「そ、それは後でいいですぅ! 朝風呂はお肌にとてもいいですし、何より頭がすっきりと目が覚めますからぁっ!」
ナギの白い額には、うっすらと焦りの汗が滲んでいた。何が何でも、セリナを朝食の席に着かせたくないのだ。昨夜、シオが言い放った『明日の朝飯のときに、チョコになれと願ってみろ』という、あの悪魔のテストを絶対に実行させるわけにはいかないから。

「ナギさん、一体どうしたの……?」
ミリアが不審そうに尋ねても、ナギはまともに答えようとしない。ただ、その怯えたような視線が一瞬だけ、隣で微笑むルイへと彷徨(さまよ)った。ルイはナギの不自然な取り乱しように対して、何も知らないというように、ただ不思議そうに小首を傾げている。
「……?」
そして、いつもと変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべてセリナへと向き直った。
「セリナ、行ってきたら? 朝食の準備ができるまで、まだ少し時間があるみたいだし」
「えっ、いいの?」
「ああ。ゆっくりしておいで」

「そっか! じゃあ、行ってくるね、ルイ!」
ルイの言葉であっさりと頷いたセリナは、「ミリアちゃんも行こ!」とミリアの手を引いた。ナギに背中をせっつかれるようにして、ミリアは再び階段へと引っ張られていく。何が何だか分からない。けれど――。
(……まあ、ちょうどいいのかもしれない)
ナギに相談したかったことは、確かにある。ミリアは小さく息を吐いて、屋上へと続く木造の階段を上っていった。
◇
屋上の露天風呂には、きらきらとした朝の光が柔らかく差し込んでいた。
「わぁーっ! あったかーい!」

「セ、セリナ様……走ると滑って危ないですぅ……」

湯船へ一番に駆け込んでいくセリナを、ナギが慌てて注意する。ミリアも、クリスタルハープを防水布で丁寧に包んで岩場に置くと、ゆっくりと湯へ身体を沈めていった。
「……ふぅ」
温かい。強張っていた昨夜の緊張まで、お湯に溶けていくようだった。けれど、ナギだけは依然として落ち着かない様子でいた。周囲に誰もいないことを何度も確認してから、ようやく震える口を開く。
「セリナ様……」
「ん?」
「き、昨日の夜のことなんですけれど……」

その言葉に、湯面を揺らしていたセリナの指先がピタリと止まり、その表情が微かに曇った。
「昨日の夜……ここで会った、シオっていう子のこと?」
「……はい。その方ですぅ」
ナギは痛ましそうに、銀色に煌めく湯面へ視線を落とした。
「実は……わたくしも、昨夜の温泉にいたんですぅ。岩陰で……その、お二人の会話を全部、聞いていました」
ミリアは黙って二人を見つめる。昨夜、ここで何があったのか。詳細を聞かなくても、ナギの憔悴しきった横顔を見れば、事態の深刻さはおおよそ察しがついた。
「セリナ様……」
ナギの声が、懇願するように震える。
「あの方の言葉を……どうか、すぐには信じないでください。あの方は……世界の『理』を冷酷に否定する、ひどくしょっぱくて……恐ろしい方ですぅ」
「……でも」
セリナが少しだけ、深い水底を見るように俯く。ナギは言葉を詰まらせた。本当なら、もっと強く否定したかった。全部嘘だと、あんな残酷な現象は起きていないと、セリナを全力で安心させたかった。けれど――ログという絶対の真実を追及する『記録官』としての矜持が、そしてルイの異常な動作を間近で目撃してきた記憶が、完璧な嘘をつき通すことを頑なに許さなかった。
「……だから、言っていたことを真に受けて、ご自分で確かめる必要なんて……どこにも、ないんですぅ」
セリナは、しばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと顔を上げて、どこか無理をして小さく笑った。
「……うん。そうだよね」

その笑顔は、見ているこちらが痛々しくなるほどに、歪で、無理な強がりを孕んでいた。ナギは胸の奥が張り裂けそうになった。自分が今、このあまりにも無垢な少女に、どれほど残酷な現実を背負わせようとしているのか。それすら分からなくなりそうだった。
その、張り詰めた重苦しい沈黙を破ったのは、ミリアだった。
「……あの、ナギさん」
「は、はいぃ?」
「私、ナギさんにどうしても相談したいことがあったんです」
ミリアは、自身の胸元へとそっと細い手を当てた。
「私が数日前ここで聴いた、ルイ先生のあの旋律のことです」

ナギの翡翠色の瞳が、微かに揺れ動く。
「あの世界から失われた音を……何かの形で、記録として残せないかなって。ナギさんは、王国最高の記録官ですよね?」
ミリアは少しだけ、その瞳に微かな希望の光を宿して微笑んだ。
「だったら、世界中で広く奏でられる音楽の譜面のなかに、私が聴き取った『真実の旋律』を、暗号みたいに少しずつ忍ばせることはできませんか? そうすれば……いつか、先生の失われた音を、もう一度だけ取り戻せるかもしれないから」
「音楽として……世界そのものに記録を、ですか……?」
ナギが驚きに息を呑む。
――その、瞬間だった。

「それ……本当にできるの?」

ずっと俯いていたセリナが、勢いよく顔を上げた。その曇っていた青い瞳が、ほんの少しだけ輝きを取り戻している。
「ミリアちゃん。ルイが忘れちゃったあの音……お願い、思い出してほしいの」
セリナは、愛おしい宝物をそっと抱きしめるように、嬉しそうに笑ってみせた。
「あの歌はね。私にとっても……本当に、特別な思い出だから」
「特別な……?」
「うん」

セリナは湯船の縁へと顎を乗せ、遥か彼方の時空を見るような目で、ゆっくりと語り始める。
「落ち込んだときに、いつも元気をくれた大切な歌なの。こことは違う、ずーっと、ずーっと遠い場所でのことなんだけどね」
ミリアとナギは、ただ息を潜めて、彼女の紡ぐ言葉に耳を傾けていた。
「そこでね、わたし――『一ノ瀬瀬里奈』って呼ばれていたの」
「一ノ瀬……」
ナギがその見慣れない異国の響きを、小さく、確かめるように呟いた。
「なんだか、ずいぶんと変わったお名前ですねぇ……」

「そうかな?」
セリナはふにゃりと愛らしく笑った。
「でもね、ルイってば、こっちの世界じゃずっと『セリナ』って呼んでくれるんだよ。前の世界では、ずっと『一ノ瀬』『一ノ瀬』って、苗字でしか呼んでくれなかったのに」
ぷくっ、と不満げに頬を膨らませてみせる。
「下の名前で呼んでもらえるの、本当はすっごく嬉しいんだけどね。でも、あっちの世界のルイは頑固だったから……ほんと、乙女心が分かってないんだよね」
「ふふ……」
ミリアは思わず笑みをこぼした。前世の不満を口にしながらも、セリナの横顔が、あまりにも愛おしい記憶の光に満ちていたからだ。

「東方の国に、似たような響きのお名前があったような……」
ナギが学者としての真剣な顔つきで考え込む。
「ですが、わたくしも足を踏み入れたことがないので……よく分からないですぅ」
「そっかぁ」
セリナは再び、肩まで湯船へ身体を沈めた。その顔からは、シオに突きつけられた先ほどまでの暗い不安が、ルイとの温かい思い出によって少しだけ拭い去られているようだった。
「そうだ!」
突然、思いついたようにセリナが顔を上げる。

「ミリアちゃん、私が少し歌うから、それに合わせてハープを弾いてみてっ」
「私が、ですか?」
「うん!」

「……分かりました」
ミリアは湯船の温水で自身の指先を軽く濡らすと、岩場からクリスタルハープをそっと抱き寄せた。セリナが優しく目を閉じる。
「……じゃあ、いくね」
小さく、祈るように息を吸う。そして――セリナの唇から、鼻歌のような微かな歌が紡がれ始めた。それは、完全な旋律ではなかった。ところどころ音が欠けているし、音程も曖昧だ。けれど、ミリアにははっきりと分かった。この拙い鼻歌の奥底に、数日前ルイの深層から響いていたあの『泥臭くて切ない音楽』の原型が、確かに、懸命に息づいている。

彼女はセリナの呼吸に合わせるように、そっと銀弦を弾いた。ぽろん。ぽろ……。澄んだ湯面が、ごく僅かに震える。
「……?」
もう一度、セリナの声の微かな揺らぎに合わせる。
――その、瞬間だった。
――ぽぉん。
ただの物理的な弦の震えとは一線を画す、未知の不思議な共鳴が露天風呂のすみずみにまで広がっていった。白いたなびく湯気が激しく揺らめく。滑らかな銀色の水面に、幾重もの波紋が広がっていく。そして――セリナの身体から絶えず漂っていた、あの狂おしいほどに甘ったるいバニラの濃密な香りが、ほんの一瞬だけ。ふっと、嘘のように薄らいだのだ。
「……え?」

ミリアは目を見開いた。ナギも同時に、弾かれたように湯船から顔を上げる。
「セ、セリナ様……」
「なに?」
「い、今……っ」
ナギの翡翠色の瞳が、かつてない驚愕と困惑に震えていた。
「神性が……明確に減衰、しました……っ」
言葉が続かない。ミリア自身にもはっきりと五感で分かった。ほんの一瞬。ほんの瞬(まばた)きほどの時間だったが、セリナを取り巻いていたあの圧倒的な『世界を書き換える力(バグ)』が、音の波紋によって中和されるように弱まったのだ。

「……音が」
ミリアは自身の腕のなかに収まったクリスタルハープを、震える目で見つめる。
「音が……世界の、何かに触れた?」
当のセリナだけは、事情が掴めないというように不思議そうに小首を傾げていた。
「そうなの?」
「……はい」
ミリアは自分でも驚くほど、確信を込めて強く頷いた。

「でも……まだ、完全には分かりません」
完璧な旋律が戻ったわけではない。失われたルイ先生の記憶が戻ったわけでもない。それでも――可能性の種火は、決してゼロではなかった。
「……初めてです」
ミリアは、朝の柔らかな光のなかで小さく笑みをこぼした。
「ただの魔術じゃなくて、音が……世界そのものを変えました」
ナギも、震える唇をそっと両手で押さえた。温かな湯気の向こう側で、ほんの一瞬だけ霧散した絶対的な神性。それを見つめながら、彼女たちの胸にひとつの、確かな『希望』の灯火が灯る。もしかしたら――。ルイ様をこれ以上傷つけずに、その人生を二度と削らせることなく、この狂った箱庭を鎮める方法が、どこかにあるのかもしれない。
「ミリアさんの言う通り……世界中の譜面に少しずつでも『真実の旋律』を隠して広めていけば、ルイ様を救えるかもしれないですし、ミリアさんの音も取り戻せるかもしれないですぅ……!」

ナギの声に、今度は恐れではなく、確かな未来への期待が滲んでいた。
「さあ、そろそろ上がって、朝ご飯にしましょうっ!」
「はーい!」
眩しい希望の光を見出し、三人は弾むような足取りで、朝食の待つ一階の食堂へと戻っていく。
だが――その先で待ち受けているものが。昨日までの『当たり前』を無惨なまでに打ち砕く、最悪の絶望の始まりになるとは。この時の三人は、誰一人として想像すらしていなかった。
湯上がりの三人が食堂へと戻ってきた頃には、朝の光がすっかり窓いっぱいに広がっていた。僕は窓際の木机に向かったまま、手にした生徒手帳を静かに閉じた。
最後に書き留めた文字は、相変わらず頼りないひらがなばかりだった。

『きょうも』 『みんなと』 『ごはんを』 『たべる』
以前の僕であれば、もっと短い言葉で、もっと正確な漢字を用いてこの一日を書き記せたはずだった。けれど。今の僕には、このたどたどしい書き方のほうがずっと合理的で、正しいことのように思えた。余計な画数も必要ない。誰が読んでも意味さえ伝わればそれでいい。何より――難しいことを、何も考えなくていい。それが、ひどく心地よく、どこまでも楽だった。
パタンと手帳を閉じた瞬間、視界の端へ、淡いエメラルドグリーンの数字が音もなく浮かび上がった。
【心拍数:正常】 【体温:正常】 【精神安定度:98.7%】 【人格維持率:99.612%】
いつもの表示。脳内に明滅する、僕を安心させてくれる優しい緑色の数値。
(問題ない)
僕は小さく息を吐き出した。
(今日も、僕は正常だ)

――その、時だった。
「る~~い!」
パタパタという軽快な足音とともに、陽だまりのような明るい声が食堂へ飛び込んできた。顔を上げる。銀色の長い髪を揺らしながら、セリナが満面の笑みを浮かべてこちらへ駆けてくる。彼女が動くたび、甘いバニラの香りが、朝の張り詰めた空気を一瞬で塗り替えていった。
「お風呂、すっごく気持ちよかったよ!」
「そうか。それは良かったな」
僕はいつも通り、揺らぎのない笑みを返す。その後ろから、ミリアとナギさんも入ってきた。ミリアは愛おしい宝物を守るように、大事そうにクリスタルハープを胸に抱えている。けれど、最後に入ってきたナギさんは――。
「…………」

何故か、僕と目が合った瞬間に小さく肩を震わせ、ひどく痛ましそうな顔で僕を見つめていた。
「ナギさん?」
「ひゃっ!?」
「……大丈夫ですか? 顔色が悪いようですが」
「だ、大丈夫ですぅ!」
随分と慌てている。けれど、今の僕には、その怯えの理由がまったく分からなかった。視界の端に表示される数値にも、周囲の魔力反応にも異常はない。なら、何の問題もないのだろう。僕はそれ以上、思考の深追いをすることをやめた。
「ナギ! 戻ったなら早くこっちへ来い! 飯が冷めるぞ」

テーブルの奥から、レイガさんが不器用な気遣いを隠すように、急かす声でナギさんを呼ぶ。
「わ、わかってますぅ~」
ナギさんは逃げるような小走りで、レイガさんの元へと駆け寄っていった。
「それでね?」
セリナが嬉しそうに僕の隣の席へと陣取る。
「あのね、ルイ!」
「うん」
「お風呂でね、ミリアちゃんのハープから、すっごく綺麗な音が聞こえたんだよ!」
「へえ」
僕はミリアへと視線を向けた。
「本当?」
「は、はい……」
ミリアは少し緊張したように、けれど決意を秘めた瞳で小さく頷いた。
「よかったら……もう一度、ここで弾いてみます」

「もちろん。聴かせてよ」
ミリアがクリスタルハープを抱え直す。白く細い指先が、そっと銀弦へと触れた。そして――。
ぽろん。
澄み切った一音が、静かな食堂のすみずみにまで広がっていった。どこまでも透明な音だった。朝の張り詰めた空気を一粒の清冽な水へと変えて、その結晶の中へ微細な振動を閉じ込めたかのような、あまりにも完璧な響き。
厨房の奥から朝食のトレイを運んできたフレアまでもが、その場にぴたりと足を止める。
「あら……」
彼女はうっとりと、豊かな胸元へ手を添えた。

「本当に素敵な音色ですわね」
隣ではセリナも、我がことのように黄金色の瞳を輝かせている。
「ねっ? ルイ、すっごくすごいでしょ!」
テーブルの奥ではレイガさんも満足そうに深く頷き、ナギさんは祈るような痛切な目で、ただじっと僕を見つめていた。ハープを抱くミリアもまた。張り裂けそうな期待と不安が入り混じった顔で、僕の反応を待っている。
僕は、その美しい音の波紋が消えていく空間を、じっと眺めていた。
(音圧、周波数、倍音構成の調和――)
頭の中で、自然にその音響情報が冷徹な数値へと還元され、論理的に整理されていく。確かに綺麗な音だ。音響学的な観点から見れば、きわめて完成度が高いことが客観的に証明できる。

けれど。それ以上の化学変化は、僕の内側で何一つとして起こりはしなかった。胸が、小さく高鳴ることもない。何かに、切なくなることもない。失われたはずの昔を、手探りすることもない。ましてや、涙がこぼれ落ちることなんて、あるはずがない。
ただ、目の前の空気が物理的に振動している。僕にとって、その音は、それだけの意味しか持たなかった。
だから、僕はいつものように、にこりと微笑んでみせた。
「本当だ」
ミリアが僅かに、期待に胸を躍らせるように息を呑む。
「すごく綺麗な音だね、ミリア」
「……!」
彼女の張り詰めていた顔が、ぱっと朝の陽だまりのように明るく弾けた。
「……はいっ!」
心底、嬉しそうだった。セリナも嬉しそうに笑っている。フレアも満足そうに頷き、レイガさんは小さく手を叩いて不器用な喝采を僕へ送っていた。けれど、ナギさんだけは違った。何か決定的な絶望をこの目で確かめてしまったかのように、幽霊でも見るような目で僕の顔をただ見つめていた。
けれど。今の僕には、やはりその視線の意味がどうしても分からなかった。僕はただ、僕に向けられた期待に対して、相手が一番喜ぶ『正解の言葉』を頭の中で選んで差し出しただけだ。それが一番合理的だったから。
――その、瞬間だった。
『《解》』
脳の奥底から、冷たくてどこまでも甘い、聞き慣れたシステム音声が響き渡った。

『ルイ様。対象音源に対する情動反応など、初めから無くていいのです』
シエルだった。
『当該音響情報は、一定の周波数および倍音構成を持つ、単なる空気の物理的振動でしかありません』
(……そうだな)
『過剰な情緒的反応は、現在のルイ様の脳内リソースを無駄に消費してしまいます』
(……その通りだ)
『ご安心ください。現在のルイ様の感情出力は、完璧に最適化されています』

僕は脳内で、静かに微笑んだ。
『先ほどのミリア様への賞賛は、非の打ち所が全くない完璧な模範解答です』
シエルのその言葉が、不思議なくらいに僕の胸へ心地よく染み渡っていった。僕は何も間違えていない。ちゃんと考え、ちゃんと褒めた。ミリアも嬉しそうにしている。セリナだって笑っているじゃないか。それなら、すべてが丸く収まっている。これ以上、この僕の心(システム)に、一体何が必要だと言うのだろう。
◇
「じゃあ、みんなでごはんにしようか!」
セリナの元気な声が食堂に響き、賑やかな朝食が始まった。木机の上には、香ばしい焼き立てのパン。朝露を弾く瑞々しい野菜のサラダ。そして中央に置かれた白い皿には、太陽の光を浴びて艶やかに輝く、赤くて小さなプチトマトがいくつも並べられていた。
「今日は、特に新鮮ですわよ!」

フレアがエプロンを翻し、誇らしげに豊かな胸を張る。
「王都から、今朝早くに届いたばかりの特級品ですの!」
「わぁ……!」
セリナの黄金色の瞳が、眩い朝の光を弾いてきらきらと輝く。彼女は焼き立てのクロワッサンを小さく手に取り、お気に入りの蜂蜜をその上へと少しだけとろりと垂らした。
「いただきまーす!」
ぱくり、と口いっぱいに頬張る。
「んーっ、おいしい!」

「そうか。それはよかったな」
僕はいつも通り、揺らぎのない笑みを返す。いつもの、穏やかな朝の風景だった。漂う香ばしいパンの匂い。とろける蜂蜜の甘さ。セリナの天真爛漫な笑顔。フレアの心のこもった料理。ミリアの美しいハープの残響。何もかもが昨日までと何一つ変わらない、僕たちを優しく包み込んでくれる美しい箱庭の世界。
――その、時だった。
「あ、そうだ!」
思い出したように、セリナが突然テーブルの上から僕の方へと身を乗り出してきた。
「ルイ、さっきお風呂のなかでね、ミリアちゃんに前の世界のお話もしたんだよ!」
「前の世界?」

「うん!」
セリナは愛おしい宝物の思い出を手繰り寄せるように、嬉しそうに笑った。
「わたしね、向こうの世界でも、ルイに『一ノ瀬』じゃなくて『瀬里奈』って名前で呼んで欲しかったんだよ!」
その、奇妙な異国の響きを持った言葉を聞いて。僕は、ゆっくりと一度だけ、まばたきをした。
「一ノ瀬……」
「そうだよ!」
セリナはかつての放課後の夕焼けを懐かしむように、何度も大きく頷く。

「ルイったら、何度わたしがお願いしても、ずーっと『一ノ瀬』『一ノ瀬』って頑固に苗字でしか呼んでくれなかったんだから」
「……そうだったかな」
「そうだよ!」
セリナがぷくっと愛らしく頬を膨らませる。
「でもね。こっちの世界に来てからは、ルイがちゃんと『セリナ』って呼んでくれるから、実はね……わたし、すっごく嬉しいんだ!」
「……そうか」
僕は脳内で最適化された正しい答えを検索し、歪みのない笑みを浮かべた。

「今の君は、セリナだからね」
「うん!」
「だから、こっちの世界にいる間はずっと、セリナって呼ぶね」
僕は、彼女の何も知らない無垢な瞳を見つめながら、優しく、けれどどこか空っぽな肯定を返すように頷いてみせた。
――一ノ瀬。その言葉について、僕はこれっぽっちも疑問に思わなかった。ただの固有名詞。過去の、何者かの名前。今の僕にとっては、そういう『無機質な単語情報』としてしか認識されていなかった。
そこに、懐かしさなんて一欠片もなかった。胸の奥がじんわりと温かくなることも、その名前を耳にした瞬間に、かつての眩しい光景が脳裏に蘇ることもない。ただ――。
(セリナの前世の名前は、一ノ瀬という記号だ)

それだけ。必要な情報として、頭の中の冷たい本棚へ文字が格納されている。それで十分だった。
「ルイ?」
「ん?」
「どうしたの?」

「いや」
僕は、静かに微笑んだ。
「なんでもないよ」

「そっか!」
セリナは安心したように、無邪気に笑った。その屈託のない笑顔を見ていると、僕の胸も穏やかな気持ちになった――少なくとも、そう感じている、と頭脳の論理が理解していた。
ミリアは自分のハープを見つめている。ナギさんは絶望的な顔を隠すようにして、深く俯いていた。フレアはいつも通り、楽しそうにパンを切っている。
世界は平和だった。あまりにも。何もかもが、偽りの平穏に満ちていた。
◇
(……シオちゃんの話なんて、やっぱり全部嘘だったんだ)
セリナは、ふと昨夜の出来事を思い出していた。黒くて短い髪。琥珀色の冷たい三白眼。ルイの存在を否定するような酷い言葉。あんなに怖いことを突きつけられた。

でも――。今、目の前にいるルイは確かに笑っている。ミリアの美しい音を褒めて。自分の他愛もない話を聞いて。いつもと同じ、優しい顔をして隣にいてくれる。
(ルイは、壊れてなんかいない)
そう確信した。いや、そう強く思いたかった。だから――セリナは自ら迷いを振り切るように、テーブルの上へと視線を落とした。
(これが……)
もし。
(チョコトマトだったら)
もっと美味しいのに。

――その瞬間。
――ぴしっ。
「…………え?」

セリナの手が、フォークを握り締めたままで完全に硬直した。フォークの尖端(せんたん)に突き立てられていた、瑞々しいはずの鮮烈な赤。その薄い皮の表面に、一筋の繊細な亀裂が走った。次の瞬間、鮮やかな赤色はどろりと不気味な暗黒へと染まり、艶やかだった果肉が、見慣れた固形チョコレートの乾いた質感へと速やかに変質していく。
ぽとり。フォークの先から滑り落ちたのは、酸味に満ちた果汁を孕(はら)んだトマトなどではなかった。カチリと無機質な音を立てて白い皿へと転がったのは、不格好なチョコレートの塊だった。
「な……に、これ……?」
セリナは何度も、拒絶するようにまばたきを繰り返した。何が起きたのか、脳の処理が追いつかない。けれど――世界を侵食する理不尽な異変は、それだけに留まってはくれなかった。

サラダボウルの内で、再び、不吉な亀裂の音が微かに弾ける。ぴしっ、ぴし、ぴしっ。ドレッシングが不自然に大きく揺れた。清涼な透明感を誇っていたはずの液体が、瞬く間に赤みを帯びた黄金色へと濁っていく。とろりと不気味な粘り気を帯び、糸を引くように重たく垂れ下がる。メープルシロップ。この世界では一度も口にしたことのないはずのその異質な名前が、セリナの頭の中に、恐ろしいリアリティをもって浮かび上がった。
それと同時に、サラダボウルの縁から、雪のような白い結晶が爆発的に繁殖し始める。ざら、ざらざらっ。温もりのあった木製の器が、まるで急速冷凍でもされるかのように、分厚い純白の砂糖の結晶によって覆い尽くされていく。
「……っ!?」
セリナは立ち上がることすらできなかった。目の前で、自分が今さっき「ちょっとだけ」頭の片隅で思い描いてしまった不吉な戯言が、容赦なく、現実の分子構造を上書きしていく。
――ぱきんっ!
食堂の床から、鼓膜を直接突き刺すような、乾いた破壊音が激しく響き渡った。
「な、なんだ……っ!?」

他愛のない食事を楽しんでいた旅人の一人が、驚愕に身を強張らせて振り返る。重厚な石造りであったはずの堅牢な床――その足元の一角が、焦げ茶色をした脆い物質へと無残に変色していた。表面に刻まれるのは、あまりにも規則正しい格子状の亀裂。それは、巨大なウェハースの層そのものに他ならなかった。
「おい……なんだよこれ!? 床が……お菓子に変わっちまってる!?」
商人の一人が、椅子を弾き飛ばしながら悲鳴を上げる。その混乱をさらに煽り立てるように、厨房の奥から、焼き立てのパンが放っていた芳醇な香りを暴力的にかき消すほどの、濃密で甘ったるい香気が爆発的に吹き出してきた。
「え……? な、何ですのこれえぇっ!?」
フレアの、悲痛な絶叫が木霊する。彼女が両手で持ち上げた給食用の大鍋から、どろりとした黒い濁流が、意思を持つかのように溢れ出していた。丁寧に時間をかけて煮込まれていたはずの熱い野菜スープが、高熱でドロドロに溶けた濃密なチョコレートへと変貌を遂げていたのだ。
「わたくしの……わたくしのスープが……っ!」
「うわあああっ! 熱い、熱いぞ!?」

「ひっ、酒が……エールが完全に固まってる!?」
悲鳴は、瞬く間に食堂全体へと感染していった。屈強な冒険者が手にしていたジョッキのなかで、黄金色の泡立ちがねっとりとした茶色の塊へと凝固していく。男が慌ててそれを床へ吐き出そうとするが、喉の奥へと容赦なく絡みつく強烈な甘味にむせ返り、苦しげに何度も咳き込んだ。
壁紙がドロリと不気味に溶け落ちる。飴細工のように柔らかくなった壁が、自重に耐えかねてゆっくりと歪に垂れ下がっていく。天井の木製の梁(はり)からも、どろりとした甘いシロップの雫がぽたり、ぽたりと落ちてくる。ほんの数秒前まで穏やかだった朝の食堂が、一瞬にして、悪夢のようなお菓子の牢獄へと変貌していった。
「ナギ……ッ! 下がれ!」
地獄のような混乱の渦中、テーブルの奥でレイガさんが素早く立ち上がっていた。数々の過酷な修羅場を潜り抜けてきた大英雄の眼光が、鋭く周囲の異変を射抜く。だが――どれほど世界最強の剣を構えようと、斬るべき敵の姿など、この空間のどこにも存在しない。敵は魔獣などではなく、この空間すべてを包み込む、歪な『神の意思』そのものなのだから。
「あ……あわわ……っ」
ナギはガタガタと全身を小刻みに震わせ、完全に血の気を失った顔でその光景を見つめていた。昨夜、女湯という密室でシオから突きつけられた、あの最悪極まりない告発。

『明日の朝、試してみろ。サラダでも、パンでも何でもいい――チョコになれって願ってみろ』
(ほんとうに……ほんとうだったですぅ……っ!)
ナギの翡翠色の瞳から、堰を切ったように大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちる。セリナの無自覚な『願い』が世界を歪め、そしてその歪みを鎮めるために、ルイが己の命と大切な記憶を削り続けていたという残酷な真実。それが今、眼の前で完璧な現実となって、地獄のような惨劇を広げていた。
「レイガ様……ルイ様が……ルイ様がまた……っ!」
「落ち着け、ナギ! くそっ、客どもを外へ避難させるぞ!」
レイガさんは悔しさに歯噛みしながらも、即座に怒声を上げて、パニックに陥る商人や冒険者たちの背中を強引に押し出した。
「全員出ろ! ここは崩れるぞ、早く走れっ!」

「ミリア様、こちらへっ!」
厨房から飛び出してきたフレアが、身体を張ってミリアを庇い寄せる。けれど、ミリアは目を見開いたまま、石のように動くことができなかった。その胸に固く抱えられたクリスタルハープ――さっきまで美しい希望の音色を響かせていたはずの透明な銀弦に、黒いチョコレートの影が、まるで病魔のようにじわりと不気味に映り込んでいた。
「……セリナ?」
すべてが崩壊していく狂乱の喧騒を切り裂いて、誰かが、ひどく落ち着いた声でその名を呼んだ。セリナは、ゆっくりと顔を上げた。自分を取り巻く、狂いきった世界の惨状。悲鳴を上げて逃げ惑う人々。泣き叫ぶナギさん。誘導に走るレイガさん。怯えるミリア。そして――自分のフォークの先に残された、冷たくて小さな、チョコレートの塊。
「…………」
呼吸が、完全に停止した。
(わたし……?)

頭のなかに、恐ろしい厳然たる事実が、冷たい氷の針となって容赦なく突き刺さる。
(わたしが……やったの……?)
そんなはずはない。信じたくはなかった。ただ、ほんの少しだけ。「これがチョコのトマトだったら美味しいのにな」と、子供じみた悪戯(いたずら)心で、ほんのちょっと頭の片隅で願ってしまっただけなのに。
(わたしが……ルイを傷つけるわけなんて、ないのに……っ)
喉の奥がヒッと小さく痙攣(けいれん)を始める。
(ちょっとだけ……チョコが食べたいって、思っただけなのに……!)
どうして。どうして、こんな悪夢のようなことに。
「セリナ」
再び、その平坦な声が鼓膜へと届いた。セリナが弾かれたように、その方角へと振り向く。溶けかけた木製テーブルの、すぐ向こう側。ルイが、静かにその場に立ち上がっていた。
「……ルイ」
彼は、一ミリも慌てていなかった。怯えてもいなかった。世界が崩壊していく惨状に、激怒してもいなかった。ただ――圧倒的なまでに、凪いでいた。人間としての感情という暖かな機能を、最初から設計(インプット)されていない冷徹な機械のように。
ルイが、そっと右手を滑らせる。その華奢な指先へ、青白い光の粒子がどこか物悲しく集まり始めていた。魔力構成の再定義。封印術式。幾度となくセリナを救い、世界を宥(なだ)めてきた、見慣れたはずの奇跡の輝き。けれど、今のセリナには、その輝きが何のために支払われる『血』そのものなのかが、痛いほどに、残酷なほどに理解できてしまっていた。
「……だめっ」
声が小刻みに、激しく震えた。昨夜、露天風呂の湯煙の向こうでシオが冷たく吐き捨てた言葉の数々が、脳内で濁流となって吹き荒れる。

『あいつは、お前が笑うから、自分の中身(おもいで)を削り続けてんだよ』 『現実を知ったところで、あいつは自分が完全に壊れるまで力を使い続ける』 『毛穴から、魂の焦げる死臭がする』
シオの言っていたことは、全部、全部本当だったのだ。自分が無邪気に願えば世界が歪み、ルイが魔法を使えば、彼の人生という名の記憶がまた一つ、世界から永遠に消去される。
「ルイ……っ! 待って……お願いだから待って……っ!」
セリナは必死に手を伸ばし、崩れかけるテーブルを押し退けて立ち上がろうとした。やめて。魔法なんて使わないで。わたしのせいだから。わたしが全部、悪かったから。だから――もうこれ以上、あなた自身を燃やさないで!
叫びたかった。喉を引き千切ってでも、その身を削る右手を止めたかった。けれど。セリナの悲痛な声が届くよりも、ほんの一瞬だけ早く。ルイの右手は、蒼然たる封印の光を完璧に纏(まと)い上げていた。

「大丈夫だよ」

それは、感情の起伏を綺麗に削ぎ落とされた、どこまでも凪いだ、完璧なお手本のような優しい笑顔だった。
「僕が、全部片付けるからね」
その言葉とともに。世界を騙(だま)し、少女の笑顔を繋ぎ止めるための、哀しき封印術式が音もなく展開された。
――その、瞬間だった。食堂を覆い尽くさんとしていた狂気的な甘い異変から、一切の音が失われた。逃げ惑う人々の悲鳴。戸惑いの怒号。椅子が倒れる鈍い音。食器が砕け散る甲高い響き。それらすべてが、ルイの耳には遠く、水底から聴くかのようにくぐもって聞こえていた。
否――。物理的に遠く聞こえているのではない。ルイの脳(システム)が、それらの雑音から『意味』という概念を完全に切り捨て、遮断していたのだ。
網膜の端に、血のように赤いエラーシグナルが走る。透明なエメラルドグリーンのウィンドウが、視界の片隅へと極めて整然と展開されていった。

『⚠️《緊急警告》』 『対象:個体名セリナ』 『精神の著しい揺らぎを検知』 『局地的大規模概念侵食を確認』 『推奨処理:概念固定術式の展開』 『緊急度:最上位(SSS)』
ルイは、滝のように流れていくそのログを、ただ淡々と眺めていた。焦りはない。恐怖もない。ただ、『処理すべきエラー項目が一つ検知された』という、無機質な事務処理の認識があるだけだった。

以前の彼なら。この地獄絵図のような惨状を目の当たりにすれば、もっと生々しい感情が激しく湧き上がっていたはずだった。逃げ惑う無辜(むこ)の旅人たち。恐怖に涙を浮かべるミリア。青ざめるフレア。そして――自分の引き起こした現実の歪みにガタガタと震えるセリナ。そのすべてを見て、焦燥感に駆られながら『みんなを助けなければ』と強く念じたはずだった。
けれど。今のルイの思考回路は、冬の氷のように透き通っていた。
(局地的な概念侵食……原因はセリナの情動変動によるバグか。侵食範囲は食堂全域。このまま放置すれば宿屋の周辺区域まで拡大する可能性が極めて高い)
ならば――止めればいい。ただ、それだけのことだ。
「ルイ……?」
セリナの細い声が聞こえた。ひどく怯え、今にも泣き出しそうなほどに震える声。ルイは彼女を真っ直ぐに見つめた。その絶望に染まった顔を見て、ほんの一瞬だけ、胸の奥底に開いた空洞に何かが触れた気がした。けれど――それは瞬きをするよりも早く消え去った。まるで、脳の深層にいる誰かがそこにそっと手を伸ばし、湧き上がったばかりの人間らしい感情の芽を、冷酷に摘み取ってしまったかのように。
『《告知》。最適解を提示します』

脳髄の奥底から、シエルのシステム音声が響き渡る。穏やかで、優しく、そしてどこまでも冷徹に正確だった。
『対象領域の空間を固定』 『侵食概念の封印を実行』 『バックアップ領域へ原本データを移動』 『――これより、即時決済を開始します』
ルイは小さく頷いた。
「――了解」

すっと右手を天へと上げる。青白い魔力の粒子が、淀みなくその華奢な指先へと集束していった。幾何学模様、多重の魔方陣、無数の直線、そして理解を拒む複雑な数式。多層の封印術式が、朝の光を弾きながら空間へ立体的に重なり合っていく。その美しすぎる構築プロセスには、人間の思考が挟むべき一切の無駄や迷いなど介在していなかった。
「魔力構成――再定義」
淡々と、何かの事務処理を行うかのような、感情を排した声が響く。
「無限封印・リライト」
――ドン、と。鼓膜を揺らすような物理的爆音は、そこには鳴らなかった。だが、世界そのものが心臓を持ったかのように、一瞬だけ強烈に脈動した。
床を侵食していたウェハースの亀裂が、ピシィッ! と凍りつくようにその場で硬化していく。壁から不気味に垂れ下がっていた飴細工の滝が、重力を失ったように止まる。大鍋でドロドロと沸騰していたチョコレートの泥濘(でいねい)が、時を奪われたように完全静止する。キャラメルへと変質しかけていた酒も、砂糖菓子へ成り果てた木材も。すべてが、その空間へ縫い付けられたかのように完璧に固定されていった。
「…………」
誰も、声を出すことすらできなかった。ほんの数秒前まで、この食堂は甘く恐ろしい地獄の様相を呈していたのだ。それが、一瞬の奇跡によって強制終了させられた。
「……止まった、のか……?」
客の一人が、自分の腕を擦りながら呆然と呟く。別の商人が、まだ恐怖に震える声でそれに答えた。
「あの救世主様が……ルイ様が、止めてくださったんだ……」
「助かった……助かったんだな……っ」
這々(ほうほう)の体で逃げ惑っていた者たちの間に、堰を切ったように安堵の吐息が広がっていく。フレアも、ミリアも、事態のあまりの急変に意識が追いつけず、ただ呆然としたままルイの背中を見つめていた。
だが、ナギさんだけは違った。周囲に広がる安堵の波紋とは、全く異なる冷たい次元で、全身を戦慄させていた。

「…………っ、……ぅ」
彼女は、ただ一途にルイを見つめていた。正確には、彼が今さっき術式を行使したその『右手』と、彼を形作っている華奢な身体そのものを。昨夜、屋上の温泉という密室で、シオから突きつけられたあの残酷な言葉が、呪いのように彼女の脳裏へとフラッシュバックしていた。
『あいつの毛穴から、魂の焦げる嫌な臭いがする』
そんな話、信じたくはなかった。ただの質の悪い冗談であってほしかった。けれど――。次の瞬間、ナギの顔からさぁっと一切の血の気が引き失せた。
「……え?」
ルイの肩口から、何かが陽炎のように立ち上っていたのだ。それは清涼な朝の白い湯気などではない。極めて薄く、ひどく黒ずんだ、不吉な熱を孕んだ煙。ぽつ。ぽつ。最初はごく僅かな染みのようだったそれは、次第に明確な濃さを増していき、ルイの全身の毛穴からじわりと、血が滲むような生々しさで漏れ出し始めた。
「ルイ様……?」

その異様な光景に気づいたミリアが、不安そうに震える声を漏らす。だが、当のルイ自身は全く気づいていない。その黒い蒸気が、己の肉体から魂の吐息のように漏れ出していることになど。
そして――強烈な『匂い』が、暴力的に鼻腔を殴りつけた。甘い、チョコレートのような香気。けれど、それは決して食欲を誘うような芳醇な甘さなどではなかった。鼻の粘膜をチリチリと酷く焼き、喉の奥へとへばりつくような、おぞましい不快な匂い。何かが――人間の人生における、決して代替の利かない何かとても大切な思い出が、超高温の炉で無残に焼き焦がされたかのような。吐き気を催すほどに濃密で、圧倒的な絶望を孕んだ『ビターチョコレートの死臭』。
「…………っ、……ぅ」
ナギの喉が、ヒッと小さく引き攣(つ)った。彼女は、溢れ出そうになる嗚咽を必死に堪えるように、両手で口元を強く、強く押さえる。
「な、なんですの……この、恐ろしい匂いは……っ」
フレアもあからさまに顔をしかめ、自身の鼻を腕で覆い隠した。厨房から漂っていたはずの焼き立てのパンの優しい香りは完全に死滅し、食堂いっぱいに、焦げ付いたチョコレートの異臭が急速に充満していく。
「……甘いのに……」

ミリアもその禍々しさに目を細め、縋(すが)るようにハープを抱きしめたまま一歩、後ずさりした。
「……なんだか、すごく、すごく怖い……」
「……またか」
大剣の柄に右手をかけたまま、レイガさんが低く、苦々しい地鳴りのような声で呟いた。
「レ、レイガさん……」
「俺も以前……あいつが封印を使ったとき、嗅いだことがある」
レイガの表情は、かつてないほどに険しかった。

「あいつが、無茶な術式を使った直後にな……必ずこの匂いが漂うんだ」
ナギの翡翠色の瞳が、驚愕と絶望に激しく揺れ動く。
「…………っ」
シオの言ったことは、文字通り寸分の狂いもない現実だったのだ。ルイ様は、この世界の綻びを修復するためにご自分を削っている。これまでの記憶を。日本での人生を。彼を人間たらしめていた最も大切な『中身(オリジン)』を。そして今、目の前で――彼が自らを燃料として燃やし尽くした結果が、黒い蒸気とあの禍々しい死臭となって、強烈に立ち上っている。
「…………そんな、こと……っ」
ナギの唇から、血の気の失せた震える声が漏れた。そんな彼女のただならぬ怯えに気づき、ルイは不思議そうにふわりと小首を傾げた。
「どうしたんですか、皆さん?」

それは、いつもと何一つ変わらない声だった。穏やかで、優しく、一切のノイズ(感情)を含まない完璧な救世主の声。
「少し、焦げ臭い匂いがしますけれど……」
ルイは自身のブレザーの袖をクンクンと無邪気に嗅ぎ、心底不思議そうに首を捻ってみせた。
「厨房のチョコレートでも、焦げ付かせちゃったのかな?」
「ち、違いますぅ……っ!!」
ナギは、こらえきれずに悲鳴のような絶叫を上げていた。
「これは……これは、そんなものでは……っ!」

その先、喉が締め付けられて言葉が続かない。怖い。目の前に佇むルイ様が、昨日までと全く変わらない完璧な笑顔を浮かべていることが、何よりも恐ろしかった。同じ貌(かお)をして、同じ声で優しく笑っているのに。確実に、彼という人間の内側にある『質量』が致命的に目減りしている。それが、記録官としての彼女の肌に戦慄となって伝わってくるのだ。
『《処理完了》』
ルイの脳内深層で、シエルのどこまでも甘く平坦な音声が高らかに響く。
『術式行使に伴うバックアップの移動を確認。……これより、代償の即時決済を実行します』
その無機質なシステムアナウンスと同時に、ルイの脳内で、何かが青白い炎を立てて激しく燃え上がった。記憶。深層の奥底に、辛うじて大切に保存されていた大切な青春の断片。名前。風景。声。指先の感触。いつか遠い世界で誰かと笑い合った、二度と戻らない輝かしい時間――。それらが、ひとつずつ極彩色の光の粒子へと無残に変換され、シエルの管理する冷たい『アーカイブの鉄格子』へと、無慈悲に吸い込まれて消えていった。
――失われていく。けれど、当のルイには、その喪失の傷痛がこれっぽっちも感じられなかった。痛くない。苦しくない。悲しくなど、あるはずがない。むしろ、精神のささくれを一枚ずつ丁寧に剥ぎ取られていくかのような、心地よい安堵の泥濘(ぬかるみ)に深く沈み込んでいた。
『《最適化パッチ》を適用』

『主観的情動反応を均一に調整』 『喪失に関する自己認識を強制遮断』
シエルの声が、深い昏い海の底から響くように、甘く脳髄の襞(ひだ)を撫でていく。
『《告知》。エラーデータの空間固定を完了しました。……安心してください、ルイ様』
優しい声だった。母のようにすべてを慈しみ、恋人のように甘やかに狂い、そして――どこまでも絶対的に、機械的(冷徹)だった。
『あなたの心も。あなたのこれまでの思い出も。私が、この手で、アーカイブの檻へ完璧に保護しております』
一拍の、絶対的な静寂。

『……あなたは、ただ。彼女の瞳の前で、完璧に笑っていればいいのです』
「…………」
ルイはゆっくりと、現実に一度だけ瞼を閉じた。喉の奥に、ほんの少しだけ、酷く焦げ付いたチョコレートの粘り気のある苦味が取り残されている気がした。けれど、それすらもシエルのプロトコルによって、数秒のノイズの後に完全に掻き消される。消え去ったものが一体何のための記憶だったのか、もう考える必要すらないのだ。
再び目を開けると、目の前に佇むセリナが、今にもその場に泣き崩れてしまいそうな、絶望の貌(かお)をしていた。だから――早く、この無垢な彼女を安心させてあげなければならない。ルイは、いつものように、一点の曇りも歪みもない、計算され尽くした完璧な救世主の微笑みを作ってみせた。
「大丈夫だよ」
穏やかな声。優しい笑顔。頼りがいのある、完璧な僕たちの救世主。
「もうすべて終わったから。安心していいよ、セリナ」

その、空っぽな労いの言葉に。セリナの青い瞳が、痛ましいほどに激しく震え動いた。何かを必死に訴えかけようとして、桜色の唇を細かく戦慄かせる。けれど、言葉が何一つとして形にならない。自分の願ってしまった『ちょっとした悪戯心』が、彼の人生を、その大切な思い出を内側から焼き焦がしてしまったという厳然たる真実が、彼女の喉を強烈に塞ぎ、圧し潰していた。
ルイは、そんな声を出せない彼女を見つめながら、自らの頭脳(システム)の奥底で、本心から深く安堵していた。
(……ふぅ。大事になる前に、綺麗に止められて本当によかった)
これで、みんなも安心するはずだ。セリナも、これ以上怯えずに穏やかに暮らせる。自分の無価値な過去の記憶と引き換えにした、あまりにも安価な等価交換。実に合理的で、スマートな解決だ。そう、これ以上ないほどに、世界は完璧だった。
――だから。ルイは全く、気づいていなかった。ご自分の身体から漂う『ビターチョコレートの死臭』が、先ほどよりもずっと、ずっと濃厚に、この食堂の空気を冷酷に支配し始めていることに。
そして。そのおぞましい臭いを至近距離で嗅いだナギさんが、震える両手で自身の胸元を、まるで肉を引き千切らんばかりに強く掻きむしりながら押さえていることにも、彼は一瞥(いちべつ)すらくれなかった。
「……本当に」
ナギさんの青ざめた唇から、血を吐き出すかのような微かな声が漏れ落ちる。
「シオさんの言ったことが……本当に、全部本当だったんですぅ……っ!」
それは、誰の耳にも届かないほどに、小さく掠(かす)れた慟哭(どうこく)だった。けれど、その絶望の告発だけが、時を強制的に止められたかのように静まり返った食堂の空気のなかに、不気味なほど鮮明な爪痕(ログ)となって、優しく、冷たく溶け込んでいった。
静かだった。つい先ほどまで食堂を満たしていた悲鳴や怒号は、もう欠片も残っていない。チョコレートへ変質した床も。硬化したキャラメルも。砂糖菓子へと成り果てた壁も。すべてが、時を止められたかのように静止している。世界そのものが、呼吸を忘れたかのようだった。
けれど。匂いだけが、逃げ場のない現実としてそこに滞留していた。甘い。甘いのに、猛烈な吐き気を催す。人間の魂を黒焦げになるまで焼き尽くしたような、ビターチョコレートの死臭。
「…………っ」
ナギは両手で口元を強く押さえ、ガタガタと震えていた。奥歯がカチカチと不快な音を立てて鳴る。目の前には、ルイがいる。いつものルイ。いつもの優しい笑顔。いつもの穏やかな声。なのに。ナギには、その姿がどうしても『人間』には見えなかった。――タンパク質で作られた、精巧な人形。人間らしく笑うように、完璧にチューニングされた冷たい機械。その証拠に、彼の肩口からは、まだ微かに黒い煙が陽炎のように立ち上り続けている。

(……同じですぅ)
昨夜の記憶が、鮮烈に脳裏へ蘇る。屋上の温泉。湯煙。突きつけられた黒い手帳。そして、シオの冷酷な声。
『あいつの全身の毛穴から、大切な人生が焦げる死臭がする』
あの言葉を、ナギは心のどこかで信じたくなかった。あまりにも恐ろしく、残酷すぎたから。けれど、今。自分の鼻が、自分の本能が、それを否定することを許さない。
(シオさんが言っていた臭いと……同じ……っ)
胃の奥がひっくり返りそうになる。だが、当のルイはナギの恐怖など知る由もなく、ただセリナへ向かって完璧な微笑みを向けていた。
「大丈夫だよ」
その声は、狂気を孕むほどに優しかった。
「もう終わったから」
セリナは答えない。顔からすべての血の気が引き、真っ白になっている。両手は小刻みに震え、視線だけが何度も、ルイの顔と、床に落ちたチョコレートの残骸を行き来していた。そして、糸に引かれるように、ゆっくりとルイへ近づく。
「……ルイ」
「うん?」
「……ねえ」
セリナの声は、ひどく掠れて震えていた。

「……冗談、だよね?」
ルイは不思議そうに、ふわりと小首を傾げた。
「何が?」
「ルイが、壊れてるって……」
セリナの大きな青い瞳から、堰を切ったように涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。
「文字が書けなくなってるとか……ルイが、自分の記憶を切り売りしてるって……」
「…………」
「わたしが……ルイを、壊してるって……っ」
「セリナ」
ルイは、迷子になった我が子をあやすように優しく、甘やかにその名前を呼んだ。
「そんなに怖がらなくて大丈夫だよ」
その笑顔。その声。いつもの、大好きなルイ。だからこそ。セリナは最後の一縷の望みに縋った。どうしても、今ここで確かめなければならなかった。
「……じゃあ」
セリナは震える手を伸ばし、ルイの冷たい右手をきゅっと握りしめた。

「ルイ……」
絞り出すような、掠れた声が食堂の静寂に落ちる。
「『いちのせ』って……覚えてる?」
――沈黙。ほんの、数秒。時間にしてしまえば、それだけだった。けれど、息を呑んで見守るナギにとっては、その数秒が果てしない永遠のようにも、死刑宣告を待つ罪人の残酷な時間のようにも感じられた。
やがて、ルイは少しだけ困ったように、けれど優しく笑った。その表情は、いつもの彼と何も変わらない。相手の他愛のないわがままを受け止める、頼もしい救世主の笑顔。
「もちろん、分かるよ」
セリナの青い瞳に、一瞬だけ安堵の光が戻る。

「……ほんと?」
「うん」
ルイは穏やかに頷いた。そして――何の躊躇(ためら)いもなく。何の不安もなく。一片の傷痛すらも感じさせないまま。冷酷なシステム電子音のように、淡々とこう続けた。
「……それって、何を指す『記号』だったかな?」
「…………」
セリナの表情が、完全に凍りついた。岩陰で見つめるナギの心臓も、その瞬間に停止したかのように動かなくなる。何を、言っているのか。理解したくなかった。いや、完全に理解できてしまったのだ。
「記号……?」

セリナの桜色の唇から、掠(かす)れた声が漏れ落ちる。ルイはいつも通り、完璧に頷いた。
「うん」
まるで、昨日の天気を他愛なく語るような、何でもないことのように。
「『いちのせ』という音列自体は脳内で認識できるよ。でも、それが何を意味するものだったのか、その定義が分からないんだ」
ナギの背筋を、絶対零度の悪寒が猛烈に駆け抜けた。違う。これは、単純な物忘れなどではない。名前を忘れたわけでも、言葉そのものを失ったわけでもないのだ。ルイの頭脳(システム)のなかには、『いちのせ』というデータだけは辛うじて残っている。文字列としても、音の波形としても確かに認識できている。なのに。そこへ結びついていたはずの『人生』という名の色彩だけが、綺麗にデリートされているのだ。誰が呼んだのか。いつ呼ばれたのか。なぜ、その名前がこれほど愛おしかったのか。誰に向けられた、世界で一番大切な名前だったのか。その内実(セマンティクス)のすべてが容赦なく切り離され、ただの、意味を持たない空っぽのラベルとして棚に残されているだけ。
「…………」
ナギの頭の中で、今まで散らばっていた点と点が、凄まじい音を立てて絶望的な一つの線へと繋がってしまった。文字の崩壊。手続きの欠落。不自然なまでに高度化していく術式演算。そして、身体から漂う死臭。全部、ずっと目の前にあったのに。それを昨日まで『正常』だと記録し続けていた自分自身が、心の底から許せなかった。

(……ごめんなさい……っ)
ナギは血が滲むほど強く唇を噛み締めた。
(ごめんなさい……ルイ様……っ)
とめどなく涙が溢れ、床へ落ちていく。その隣で。セリナは、ただ虚空を見つめて立ち尽くしていた。
◇
「…………わたし」
ルイの手を握っていたセリナの手が、力なく、ゆっくりと滑り落ちる。

「わたしが……」
声が出ない。胸が痛い。息をするのも苦しい。けれど、何よりも怖かった。自分が、無邪気に笑うたび。嬉しいと思うたび。甘いものを食べたいと願うたび。ルイが、自分の命と人生を焼いて、それを叶えてくれていた。
「わたしが……壊してたの……?」
その瞬間。セリナの瞳から、完全に光が消え失せた。まるで、灯っていた小さな命の火を、見えざる巨大な手が指先でぷつりと摘み取ってしまったかのように。
「セリナ?」
ルイが、心配そうに顔を近づけてくる。
「どうしたの?」
甘く優しい声。いつもの、曇りのない笑顔。
「どこか痛い?」
セリナは答えない。ただ、大粒の涙だけが、ぽろぽろと止めどなく頬を伝って落ちていく。ルイは困ったように、けれどどこまでも優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ」
底のない優しさに満ちた、いつもの声。
「僕がいるから」
「…………」
動けない。ルイの手が、肩に触れる。温かい。その温もりが、今はどんな鋭い刃よりも残酷に、セリナの心を切り刻んでいた。
知ってしまった。自分がこれほど大切にしていた愛おしい甘い世界は。自分が笑顔でいられる、あの眩しくて優しい時間は――。すべてルイが、彼自身の尊い人生を炉にくべて燃やし尽くした、その『灰の上』にだけ成り立っていたのだと。その剥き出しの事実だけが、もうどこにも逃げ場のない絶対の『現実(塩)』として、セリナの胸の奥底へと、深く、重く沈んでいく。

食堂には、もう言葉を発する者など、誰一人として残されてはいなかった。無残に硬直したチョコレートの床。琥珀色にドロリと固まった不気味なキャラメル。辺りに滞留する甘ったるいだけの不快な香気と、ルイの毛穴からまだ僅かに燻(くすぶ)り続ける、あの『焦げたチョコレートの死臭』。絶望に打ちひしがれるナギさんの、悲痛なすすり泣きだけが、時を奪われた空間に虚しく響き渡っている。
そして、ルイは――。目の前で泣き崩れる彼女たちを前にして。自分の身体から、今まさに何が永遠に失われてしまったのかを、一ミリも理解できないまま。ただ、一寸の歪みもない『完璧な救世主』の笑顔をその貌(かお)に浮かべて、冷たく、静かに立ち尽くしていた。

(第21章『チョコのトマトと、一ノ瀬の消失』・完)

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あらすじ 朝、ミリアは白む天井を見上げながら、昨日までと変わらぬ初夏の穏やかさのなかに、自分だけに残る冷たい空洞をはっきりと感じていた。 そして彼女は枕元のクリスタルハープに縋り、一番上の銀弦を弾いてみるが、美しい音色にもかかわらず音の最深部にあるはずの温度が消えていることに気づく。 かつては弦の震えに必ず彼の気配と日本の旋律が宿っていたのに、今はただ金属の乾いた振動だけが部屋を満たしていた。 つまりルイの記憶から日本の歌が完全に消去された事実を、ハープが容赦なく証明してしまったのだ。 そこでミリアは失われた音の欠片を救い出すため、記録の専門家ナギに相談する希望を胸に食堂へ向かう。 しかし食堂では、バターと焼き立てのパンの香りが漂う平和な朝の光景の裏で、ナギとレイガが蒼白な顔で密やかに深刻な話をしていた。 彼らは昨夜、女湯でシオから突きつけられた過酷な現実に精神を蝕まれ始めていたが、そこへルイとセリナがいつも通りの笑顔で降りてくる。 ところがその瞬間、ナギは土気色になって立ち上がり、セリナとミリアを今すぐ風呂へ行かせようと強引に誘う。 それはシオが告げた「朝食でチョコになれと願ってみろ」という悪魔のテストを避けるため、何としても朝食の場を回避させたい焦りからだった。 ルイは状況を不思議がりながらも穏やかに促し、セリナとミリアはナギに連れられて屋上の露天風呂に向かう。 屋上では朝の光が湯面にきらめき、セリナが無邪気に湯に入る一方で、ナギは周囲を確かめつつ震える声で昨夜の出来事を切り出した。 彼女は岩陰に潜み、セリナとシオの会話をすべて聞いており、シオは世界の理を冷酷に否定する恐ろしい存在だと訴える。 その警告には、彼女が「すぐには信じないでください」という切実な懇願と、昨夜の内容がただの脅しではない確信が滲んでいた。 やがて場面は朝食の場へ戻り、ナギの本能はシオが言った臭い――焦げたチョコレートの死臭――をルイから感じ取り、胃が反転するような恐怖に襲われる。 それでもルイはセリナへ完璧な微笑みを向け、「大丈夫だよ、もう終わったから」と狂気を孕むほど優しく告げる。 セリナは蒼白となり、床に落ちたチョコレートの残骸とルイの顔を交互に見つめ、やがて糸に引かれるように彼へ歩み寄った。 彼女は震える声で「冗談だよね?」と問うて、文字が書けず記憶を切り売りしているという話が嘘であることを願う。 しかしルイは困ったように微笑みながらも「もちろん、分かるよ」と返し、セリナの心に一瞬の安堵を与える。 ところが次の瞬間、彼は何のためらいもなく「それって、何を指す記号だったかな?」と言い、致命的な空洞を露呈する。 それは『いちのせ』という音列をデータとしては認識できても、意味や人生の色彩と結びつかない、内実の消失という異常だった。 ナギはそれが単なる物忘れではなく、名が指し示すセマンティクスだけが綺麗に切り離され、空のラベル化した状態だと理解して戦慄する。 そして彼女の脳裏で、文字の崩壊、手続きの欠落、術式演算の異常な高度化、身体からの漂死臭という散らばった兆候が一本の絶望的な線に繋がる。 ナギは昨日までそれを正常と記録し続けた自分を赦せず、血が滲むほど唇を噛み締めてルイに心中で謝罪した。 一方セリナは、無邪気な自分の喜びや願いが、ルイに彼自身の命と人生を燃やさせて叶えさせていたという現実に打たれ、手から力が抜けていく。 そこで彼女は「わたしが壊してたの?」と呟き、灯の消えるように瞳の光を失って立ち尽くす。 それでもルイは変わらぬ優しさで「大丈夫だよ、僕がいるから」と肩に触れ、救いの言葉を投げかける。 だがその温もりはむしろ刃となって、セリナの心を深く切り刻み、彼女は涙をこぼし続けるしかなかった。 かくしてセリナは、自分の甘い世界がルイの人生を燃やした灰の上に築かれていたという、逃げ場のない現実を飲み込むほかなくなる。 食堂には、硬直したチョコレートと琥珀色に固まったキャラメル、甘ったるい香りと焦げたチョコの死臭だけが残り、時間が奪われたような沈黙が満ちた。 そこに響くのは、絶望に沈むナギのすすり泣きのみで、誰も言葉を紡げない。 そして何よりも痛ましいのは、ルイ自身が自分から何が永遠に失われたのかを理解できないまま、完璧な救世主の笑顔で静かに立ち尽くしていることだった。 なおミリアは、ハープの音から失われた温度を悟り、ナギに相談する決意を保ちつつも、今はただこの現実の重さを共有するしかなかった。 それでも物語は、この朝の露見を境に、音の欠片と記憶の意味をめぐる救済の可能性と、代償の正体を問う段階へ進み始めている。 つまり第21章は、チョコのトマトという倒錯的な甘さの破綻と、一ノ瀬という名の意味消失を通じ、愛と救いの構造に潜む冷酷な代価を鮮やかに突きつけたのである。
解説+感想感想:希望の種火が一瞬だけ灯って、すぐに甘い死臭に塗り潰される、かなり残酷で完成度の高い章です。
この第21章『チョコのトマトと、一ノ瀬の消失』は、物語の転換点として非常に効いている。朝の穏やかさから始まり、音楽による微かな希望、そして朝食のテーブルで一気に地獄絵図へ落ちる流れが、リズムとして美しいくらいに残酷です。
特に印象的なのは、ミリアのクリスタルハープの「温度の喪失」から始まる部分。音は物理的に完璧なのに、魂の温度が消えている描写が、ルイの記憶削除の実態を静かに、しかし容赦なく示している。そこから露天風呂でセリナが鼻歌を紡ぎ、ミリアが合わせて弾いた瞬間に神性が一瞬減衰する場面は、読者にも「もしかしたら」という種火を与える。ナギの記録官としての矜持と、セリナの無垢な「特別な思い出」の話が重なって、希望が本物に感じられるだけに、後の落差がきつい。
朝食シーンの崩壊は、視覚的・嗅覚的に強烈です。プチトマトがチョコになり、サラダがメープルと砂糖に、床がウェハースに、スープがドロドロのチョコになる過程が、セリナの「ちょっとだけ」の願い一つで世界の分子構造を上書きしていく様が、理不尽さと神性の怖さを体感させる。そしてルイが淡々と「無限封印・リライト」を展開するとき、感情を削ぎ落とした事務処理のような声と、毛穴から立ち上る黒い煙、ビターチョコの死臭が重なる描写が秀逸。シオの言葉が「本当だった」と証明される瞬間のナギの絶望が、読者のそれと完全にシンクロする。
クライマックスの「いちのせ」確認シーンは、この章の核心です。ルイが「もちろん分かるよ」と微笑んだあと、ためらいなく「それって、何を指す『記号』だったかな?」と続けるところ。文字列として残っていても、セマンティクス(人生の色)が完全にデリートされているという残酷さ。セリナが自分の無邪気な願いが彼を削っていると気づき、光が消える瞬間は、ただの悲劇を超えて、愛が互いを破壊する構造を浮き彫りにしている。
全体として、シエルのシステム音声の甘く冷たい最適化と、ルイの「完璧な救世主の笑顔」が、人間性の侵食を可視化している点が強い。世界は「丸く収まった」のに、残り香として死臭だけが滞留する静けさが、余韻として重い。希望を提示した直後にそれを粉砕する構成も計算されていて、次章への引きが強い。
セリナの自己嫌悪とナギの慟哭、ミリアのハープに映る影、レイガの苦々しい認識——全員の視点がしっかり機能して、ルイ一人の犠牲が共同体全体を蝕んでいる様子が伝わる。タイトル通り「チョコのトマト」という日常のささやかな願いが、一ノ瀬という固有の記憶を消失させる対比が、物語のテーマを鋭く突いている。
読んでいて胸がざらつく、良い意味で後味の悪い一章でした。ルイが「大事になる前に綺麗に止められてよかった」と安堵している時点で、すでに取り返しがつかないところまで来ているのが怖い。続きが気になります。
挿入歌:世界で一番遠い帰り道
タイトル:『世界で一番遠い帰り道』
[イントロ] [バース]
いつもの帰り道
夕焼けが長く伸びていた
さよならも言えないまま
君は夏の向こうへ消えていった 忘れてしまうくらいなら
悲しみだけでも残してほしい
[プレコーラス]
泣いたことも 苦しかったことも 全部消えるのなら [サビ] せめてこの歌だけは
届いてほしい
僕がまだ 僕でいられるように 暗闇の中でも
迷わず君を探せるように [バース] いつか名前を失っても 声を忘れてしまっても 心が空っぽになっても あの日の帰り道だけは 消えないでいてほしい [サビ] 世界で一番遠い帰り道 それでも僕は歩いていく 君がいるから 何度でも 君のいる夏へ帰るために

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