◀第21章『チョコのトマトと、一ノ瀬の消失』
▶第23章『もう一度、夢の中で待っていて』
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第22章『夢の中で、君はまだ笑っていた』
「VOICEVOX: 玄野武宏」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 雀松朱司」
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惨劇の爪痕が残る食堂は、水を打ったように静まり返っていた。 硬化したチョコレートの床。 飴細工へと退化した壁。 そこに滞留する、焦げ付いたビターチョコレートの死臭。 そのあまりにも異常な光景を、逃げ遅れた旅人や冒険者たちが、遠巻きに息を潜めて見つめている。 救世主による奇跡的な『鎮圧』に安堵しつつも、誰一人として不用意に近づこうとはしない。

彼らのような普通の人々には、到底理解できないのだ。 穏やかで完璧な微笑みを浮かべる少年と、その足元でガタガタと震え続ける少女が放つ、あまりにも異質で残酷な温度差の正体が。
セリナ:「はっ……ひゅっ……ぁ……っ」
セリナの呼吸は、すでに限界まで浅く、速くなっていた。 どれほど空気を吸い込んでも、肺が酸素の受け入れを拒絶する。 自分が無邪気に笑うたび、嬉しいと願うたびに、目の前にいる大好きな人が『人生』を薪(まき)のように燃やしてそれを叶えていた。 その厳然たる事実が、罪悪感という名の冷たい呪いとなって、彼女の細い喉を容赦なく締め上げている。
セリナ:「……ルイ」
掠(かす)れた声で、壊れた人形のようにその名前を呼ぶ。
セリナ:「ルイ……っ」
ルイ:「……いるよ」
ルイは平坦な声で答えた。 セリナのすぐ隣に膝をつき、彼女の震える両手を自らの掌(てのひら)で優しく包み込んでいる。 セリナの指先は、ルイの手を痛いほど強く握りしめていた。 まるで、ほんの少しでも力を抜いてしまえば、目の前にいる彼が砂の彫刻のようにサラサラと崩れ去ってしまうとでも恐れているかのように。

ルイ:「ここに、ちゃんといるよ」
セリナ:「……ほんと?」
ルイ:「うん、ほんとだよ」
セリナ:「……もう、いなくならない?」
ルイは、一瞬だけ言葉を失った。 自分の中身(オリジン)が確実に削り取られ、目減りしていることを、彼自身がシステムとして誰よりも論理的に理解しているからだ。 それでも――。
ルイ:「ならないさ」
できる限りすべてのノイズを排した、迷いのない完璧な声で断言した。
ルイ:「だから、落ち着いて」
セリナ:「……うん」
けれど――セリナの華奢な身体は、まだ小刻みに震え続けていた。 頷いてはいる。 言葉も届いている。 大好きなルイがここにいることも、頭では分かっている。 それなのに、心が――彼女の人間としての防衛機能が、突きつけられた絶望的な現実にまったく追いついていなかった。
シエル:『――緊急通信を、直接脳内へ接続します』
唐突に。 少し離れた場所で呆然と立ち尽くしていたナギの頭脳(システム)の中へ、冷たく甘いシステム音声が、冷酷なまでに鮮明に響き渡った。

シエル:『記録官ナギ。 聞こえますか』
ナギ:「……え?」
ナギがビクッとその華奢な肩を跳ねさせ、弾かれたように顔を上げる。
ナギ:「今、わたくしの頭の中から直接、声が……」
シエル:『説明はすべて後回しです』
シエルの声には、有無を言わさぬ上位管理者の絶対的な威圧感が孕(はら)んでいた。
シエル:『これよりセリナの精神状態を、あなたの持つスキルで客観的に評価してください』
ナギは一瞬だけ激しい戸惑いを見せたが、すぐに膝をつくセリナへと鋭い視線を向けた。 そして――王国最高の記録官としての冷徹な観察眼が、その深刻極まりない状態を正確に捉え、彼女の表情をさらに強張らせていく。
ナギ:「……これは」
シエル:『迅速な判断を』
ナギ:「…………っ」
ナギは血が滲むほどに唇を噛み締めた。 完全に血の気が引き失せた真っ白な顔。 焦点の合わない、虚空を彷徨う青い瞳。 痛いほどに強く握り締められたルイの右手。 そして、過呼吸気味に何度も何度も、壊れたようにルイの名前を確かめる震える声。

ナギ:「……極度の、深刻な精神的混乱(パニック)状態ですぅ」
シエル:『そのまま覚醒状態を継続した場合の危険性は』
ナギ:「このまま無理に意識を維持させ続ければ……」
ナギは、最悪の判決を宣告するかのように、悲痛な言葉を絞り出した。
ナギ:「突きつけられた真実の重みに魂が耐えきれず、自分で自分を永久に追い詰め続けます。 最悪の場合、彼女の精神そのものが、内側から完全に破綻しますぅ……!」
その絶望的な宣告に、ルイの浮かべていた完璧な笑顔が僅かに歪み、ピクリと凍りついた表情が動いた。
ルイ:「……どういうことだ、それは?」
シエル:『ルイ様!』
ルイ:「シエル、今はセリナを――」
シエル:『私のアナウンスを聞いてください』
珍しいことだった。 脳内に響くシエルの声は、システムとしての枠組みを完全に踏み越えた、剥き出しの強い切迫感を帯びていたのだ。
シエル:『現在のセリナは、ご自身の引き起こした大規模エラーと、突発的な罪悪感の処理がまったく追いついていません。 この不安定な覚醒状態のまま外界からの刺激を受け続ければ、再び精神負荷が安全閾値を超え、存在そのものの自己崩壊(ロスト)に至る可能性が極めて高いと判断します』
ルイは冷たく、黙り込んだ。

シエル:『一時的な睡眠による、意識の強制シャットダウン(避難)が必要です』
そのシエルの冷徹な宣告とほぼ同時に、ナギがその身に宿る震えを振り払うように、ゆっくりと立ち上がった。
ナギ:「……わたくしなら」
ナギは、すがるような悲痛な目でルイを見つめる。
ナギ:「魔術の行使で、セリナさんを安全に眠らせることができますぅ……!」
空気が、完全に凍りついた。 ナギがそっと右手を掲げる。 その指先へ、精神を鎮めるための淡い翠(みどり)色の魔力粒子が、蛍の光のように集まり始めていた。
ルイ:「待って」
ルイの静かな、けれど有無を言わさぬ鋭い声が、重苦しい食堂の空気を冷酷に切り裂いた。 ナギの掲げた右手が、ビクリと恐怖に止まる。

ナギ:「……ルイ様?」
ルイ:「何をする気だ」
ナギ:「だから……精神の崩壊を防ぐために、少しだけ深く眠っていただくだけですぅ……っ」
ルイ:「魔法を使うんだろ」
ナギ:「はい……っ」
ルイ:「セリナに?」
ナギ:「……はい」
ルイは、自らの膝元にいるセリナの前へと、ほんの数センチだけその身体を滑らせた。 ――それは、明確な『庇(かば)う』ための動作だった。 ナギは、彼のその無意識の肉体の反応を目撃し、驚愕に息を呑んだ。
ナギ:「こ、攻撃の術式じゃないですよぅっ……!?」
ルイ:「分かっている」
ナギ:「分かっているなら……っ!」
ルイ:「……ああ、分かっているさ」
けれど――ルイの凪いだ声には、頭での論理的な理解とは真逆の、ドロドロとした本能的な拒絶が色濃く滲み出ていた。 魔法を。 セリナに。 強制的に、眠らせる。 理屈では、完全に理解できているのだ。 それが今、この状況において最も合理的かつ必要不可欠な緊急措置であることも。 ナギがセリナを傷つける意図など一欠片も持っていないことも、頭の中の冷徹な論理演算は、すべて満点(正解)だと弾き出している。
それなのに。 得体の知れない魔法の光が、自分の大好きなセリナへと向けられるその光景――。 それに対してだけは、ルイの奥底に辛うじて削り残されていた『人間としての本能(オリジナル)』が、冷徹なシステムのリソースを力ずくで飛び越えて、激しい恐怖と、狂気的なまでの警戒を抱いていた。
シエル:『――ルイ様!』
ルイ:「……」
シエル:『ナギを拒絶することは、セリナを守ることと同義ではありません』
ルイ:「……分かっている」
シエル:『現在、セリナに最も必要なのは、覚醒の維持ではなく、深層意識の休息です』
シエルの理路整然とした説得に、ルイは一度だけ深く目を閉じ、そして腕のなかに収まったセリナを見下ろした。

セリナ:「……ルイ」
また、消え入りそうな細い声で名前を呼ばれた。
ルイ:「ここにいるよ」
セリナ:「……ほんとに?」
ルイ:「いるさ」
セリナの細い指に、また少しだけ痛いほどの力がこもる。
セリナ:「……どこにも、行かない?」
ルイは――今度は、もう一瞬の迷いすら見せなかった。
ルイ:「どこにも行かないよ」
その、確かな体温を含んだ声に、セリナがゆっくりと瞼(まぶた)を閉じる。 しかし、それは眠りに就いたわけではなかった。 もう、目を開けて目の前の無惨な現実を見つめていること自体が、彼女の魂にとって痛くて、あまりにも苦しいのだ。

ルイ:「……ナギさん」
ルイが、そっとその名を呼んだ。
ナギ:「はいっ……!」
ルイ:「……頼む」
ナギは小さく、けれど固い決意を込めて力強く頷いた。
ナギ:「分かりましたぅ……!」
そして――ゆっくりと、セリナの白い額へと、そっと指先を伸ばす。 指先に集束していた淡い翠(みどり)色の魔力光が、夜の蛍のように少しずつ、優しく広がっていった。 強くはない。 眩しくもない。 ただ、夜の静寂に差し込む月明かりのような、ひどく穏やかで温かい光。
ナギ:「大丈夫ですよぅ……」
ナギが、幼子をあやす母親のように、優しく、慈しむように囁いた。

ナギ:「少しだけ……何も考えずに、眠ってください」
セリナはナギの声には反応しなかった。 それでも、ルイの服の袖を掴むその小さな手だけは、決して離そうとはしなかった。
セリナ:「……ルイ」
ルイ:「いるよ」
セリナ:「……ここ?」
ルイ:「ここだ」
セリナ:「……ほんと?」
ルイ:「ほんとだよ」
その、静かでどこか頼りない反復を聞き届けて。 セリナの強張っていたはずの表情が、ほんの少しだけ、頑なな氷が融けるように優しく緩んだ。 それと同時に、ナギの紡ぐ翠の魔法が、彼女の混濁した意識へとゆっくりと降り注いでいく。
セリナ:「…………」
セリナの呼吸が、一度だけ深く、ゆっくりと行われた。 吸って。 吐く。 また――吸って。 吐く。 少しずつ、先ほどまで悲鳴のように速かった歪な呼吸が、穏やかな寝息へと変わっていく。 小刻みに震えていた華奢な肩も、やがて完全に凪いでいった。
ナギ:「……眠りましたぅ」
ナギが、安堵の混じった小さな声で告げた。 ルイはまともな返事をしなかった。 ただ、セリナの小さな手を温めるように握り締めたまま、その安らかな寝顔をじっと見つめていた。 眠っている。 さっきまで、世界そのものが壊れてしまうのではないかと思うほど激しく取り乱していたというのに、今はただ、穏やかな静寂のなかにいた。

シエル:『睡眠状態への移行を確認しました』
シエルの声が、脳内で淡々と、極めて事務的に告げる。
シエル:『対象の生命活動、および精神波形ともに、完全な安定領域へと回帰しました』
ルイ:「……そっか」
ルイは小さく脳内で呟き、ようやく、肺の底に溜まっていた重苦しい息をゆっくりと吐き出した。
ルイ:「……本当によかった」
――その、時だった。 完全に深い眠りに落ちているはずの、セリナの桜色の唇が、微かに動きを見せた。
セリナ:「……ん……」
ルイが、弾かれたように顔を上げる。

ルイ:「セリナ?」
返事はない。 けれど、セリナの細い眉が、ほんの少しだけ悲しげにピクリと動いた。 何かを見ているのだ。 何かを、誰も触れることのできない深い夢の底で、懸命に思い出している。
そして――。 まどろみのヴェールに包まれたなかで、セリナの意識は、ゆっくりと暗闇の底から浮上し、その瞳を開いた。 ――そこにあったのは。 あのお菓子に侵食された、異世界の宿屋の天井などではなかった。 オレンジ色の鮮やかな夕陽に染まる、大きな黒板。 主を失って綺麗に並んだ、古い木製の机と椅子。 遠くの窓の向こうからかすかに聞こえてくる、吹奏楽部のたどたどしいトランペットの残響。
それは――彼女がずっと焦がれ、忘れるはずのなかった、日本の『教室』の風景だった。
ゆっくりと目を覚ますと、そこには見慣れた、少し黄ばんだ白い天井があった。 鼓膜を揺らすのは、どこか懐かしい同年代の話し声。 パイプ椅子が床を擦る乾いた音。 そして窓の外から穏やかに響いてくる、初夏の朝の鳥たちのさえずり。

瀬里奈:「……ん」
瀬里奈は、小さくまばたきを繰り返した。 何度か不機嫌そうに手で目を擦り、それから――。
瀬里奈:「あれ……?」
まだ半分ほど泥に沈んだような意識のまま、おもむろに辺りを見回した。 そこは、見慣れた高校の教室だった。 長年使い込まれて傷のついた木目の机、チョークの粉がうっすらと残る黒板、壁にピンで留められた時間割の掲示物。 そして窓から斜めに差し込む、瑞々しくまばゆい朝の光。 そのすべてが、どういうわけか、途方もなく遠い過去の幻灯のようにも、妙に生々しい現実のようにも感じられた。
友人:「瀬里奈ー。 何ぼーっとしてんのよ、もうすぐホームルーム始まるよ」
背後から気安い声を掛けられ、振り返ると、顔馴染みのクラスメイトが不思議そうに小首を傾げていた。
瀬里奈:「え……?」
友人:「もうすぐ予鈴が鳴るってば」
瀬里奈:「あ……そっか」
瀬里奈が教室の壁に掛けられた時計を見上げると、そこには確かに、いつもと何一つ変わらない時間が平然と刻まれていた。 なぜだか、胸の奥で小さく息を吐き出し、ひどく安心している自分がいる。 さっきまで、自分が一体何をそんなに怯えていたのかは、もう自分でも思い出せない。 ただ、自分が今この場所にいて、当たり前の日常のなかに収まっているという事実だけで、心のざらつきが少しずつほどけていくような気がした。

友人:「ねえ、今日、お昼に購買行く?」
瀬里奈:「購買……?」
友人:「忘れたの? 期間限定のあれ、今日から発売でしょ」
その単語を耳にした瞬間、瀬里奈のなかの別のスイッチが、カチリと音を立てて鮮烈に切り替わった。
瀬里奈:「……え?」
友人:「え、じゃなくてさ」
瀬里奈:「今日からだったっけ!?」
友人:「だから、そう言ってるじゃん」
次の瞬間、瀬里奈は自分の椅子から弾かれたように立ち上がっていた。
瀬里奈:「行くっ!」
友人:「え、今から!? ホームルーム始まるよ!?」
瀬里奈:「売り切れる!」
友人:「まだ一時間目始まってすらいないってば!」
瀬里奈:「だから、今行かなきゃダメなの!」
通学鞄を机の上へと放り出すようにして、瀬里奈は教室の引き戸へと向かって全力で駆け出した。
友人:「ちょっと、瀬里奈ってば!」
背後から呆れたような友人の声が飛んできたが、もう足を止めることはできなかった。 期間限定、本日発売――つまり、それは全校生徒を巻き込んだ苛烈な生存競争の始まりを意味する。 売り切れという絶対の悲劇だけは、何があっても回避しなければならなかった。

瀬里奈:「急げ……っ!」
リノリウムの廊下を力強く蹴り、木造の階段を二段飛ばしで飛び降りるように駆け抜ける。 買い食いへ急ぐ他の生徒たちの波を華麗にかわし、瀬里奈は激しく息を切らしながら購買部の前にたどり着いた。
瀬里奈:「……っ」
そこで、彼女は思わず足を止めた。 すでに、人だかりの群れができている。 想像していたよりも、ずっと分厚い壁だった。
瀬里奈:「うそ……」
小さな人混みのなかで、誰もが同じ狙いの品をギラついた目で見つめていた。 新商品、期間限定――すなわち、それは一歩も退けぬ戦争に他ならない。
瀬里奈:「負けないんだから……っ」
誰にともなく小さく呟くと、瀬里奈は群れの隙間を縫うようにして、鋭くその身を滑り込ませた。

瀬里奈:「あった……!」
見つけた。 陳列棚の一番奥。 お目当てのパッケージが、まだ辛うじて生き残っている。 瀬里奈は勝利を確信して、迷うことなくその右手を伸ばした。
――その、瞬間だった。
瀬里奈:「……あ」
まったく同じタイミングで、隣からも同じお菓子へと真っ直ぐに伸びてくる、白い端正な手があった。 瀬里奈の動きがピタリと止まり、相手の指先も空中で硬直する。 棚の奥を確認する。 残されていたのは、文字通り『最後の一個』だった。
瀬里奈は不満をその瞳に宿したまま、ゆっくりと隣の顔を見上げた。

瀬里奈:「……あ」
そこに立っていたのは、ルイだった。 見慣れた、どこか眠たげで、少しだけぼんやりとしているようにも見える横顔。 けれど、その瞳の焦点だけは、目の前の最後のお菓子をしっかりと捉えている。
瀬里奈は、反射的に口を開いていた。
瀬里奈:「これ、私が……ずっと先に欲しかったんだけど!」
勢いで言ってしまってから、一瞬だけ 「しまった」 と後悔が過(よぎ)った。 けれど、もう遅い。 ルイは商品と瀬里奈の顔を交互に見比べ、それから、ほんの僅かに困ったように眉を下げた。
ルイ:「……」
瀬里奈:(どうしよう、頑固なルイのことだから、譲ってくれないかも……っ)
瀬里奈が心臓を不快に跳ねさせながら返答を待っていると、ルイは小さく、諦めたように息を吐き出した。

ルイ:「……じゃあ、どうぞ」
瀬里奈:「……え?」
ルイ:「欲しいんでしょ」
瀬里奈:「いや、でも……」
ルイ:「僕も、ちょっと食べてみたかったけどさ」
ルイは、あまりにもあっさりとそう言った。 特別に悔しがる素振りも見せず、ただ淡々と自らの手を引いていく。 瀬里奈は、その予想外の引き際の綺麗さに、一瞬だけ言葉を失ってしまった。 ルイ自身も確かに欲しそうにしていたというのに、その諦め方は驚くほどに潔(いさぎよ)かった。
ルイ:「……早く取らないと、後ろの人が取っちゃうよ」
瀬里奈:「あ、うん……っ!」
慌てて陳列棚へと手を伸ばし、最後の一個を死守した瀬里奈は、胸の内に生まれた気まずさと気恥ずかしさが入り交じった声で、小さくお礼を言った。
瀬里奈:「ありがと……!」
ルイ:「ううん」
それだけ短く言い残すと、ルイは未練を見せることもなく、別の棚へとあっさりと去っていく。 瀬里奈はその頼りない後ろ姿をほんの少しだけ見つめ、それから、すぐに合流してきた友人のもとへと駆け戻った。
友人:「買えた!?」
瀬里奈:「買えた!」
友人:「やったじゃん、本当に最後の一個だったよ!」
瀬里奈:「危なかったぁ……!」
勝ち取ったお菓子を掲げながら、友人と他愛のない笑い声を上げる。 その頃には、ルイの姿はもう廊下の人混みに溶けて消えていた。 それで、すべて終わりだったはずだった。 少なくとも、その瞬間の瀬里奈にとっては――期間限定のお菓子を勝ち取れた、ただそれだけの、ごくありふれた平穏な朝のひとコマに過ぎなかったのだから。

――その、はずだった。
◇
昼休み。 高校の教室は、朝の張り詰めた静けさが嘘のように、溢れんばかりの活気と雑音に満ちていた。 昨日テレビでやっていたバラエティの話題、週末の買い物の予定、うざったい教師への文句、そしてクラスの誰と誰が付き合い始めたらしいという、他愛のない噂話。 あちこちから、どうでもいい日常の欠片が途切れなく聞こえてくる。
瀬里奈は友人たちと他愛のない会話を転がしながら、ふと、何気なく窓際の席へと視線を向けた。 そこに、ルイがいた。 ぽつんと一人、窓際の席に腰掛け、持参した簡素な弁当を黙々と口へ運んでいる。 特別に珍しい光景ではない。 ルイは学校ではいつもあんな調子だった。 完全に孤立しているわけではないし、誰かに話しかけられればちゃんと微笑んで返すけれど、気がつくといつも、ひとり静かな場所に身を置いていた。
男子:「おい、お前さっき購買で最後の一個、女子に取られてたな」
少し離れた通路から、クラスメイトの男子が軽い調子でルイに声をかけた。 ルイは箸を止め、不思議そうに小首を傾げる。

ルイ:「……何が?」
男子:「限定のお菓子。 最後の一個だよ」
ルイ:「ああ」
男子:「瀬里奈にすんなり譲ってただろ」
その名前に、瀬里奈の耳がぴくりと反応した。
ルイ:「……見てたのかよ」
男子:「見てたって。 お前、欲しそうだったのに簡単に譲るなよなー」
ルイ:「別に、そこまでして食べたいわけじゃなかったし」
男子:「いやいや、男ならそこは意地でも死守しろよ。 ダサいぞ」
からかうような、楽しげな笑い声が周囲に広がる。 ルイも、困ったように小さく笑った。
ルイ:「僕が並ぶの遅かっただけだからさ」
男子:「優等生ぶっちゃってさ。 まあいいや、午後からの小テスト頑張れよ」
ルイ:「……何をだよ」
からかい半分に笑いながら、男子たちはその場を去っていく。 瀬里奈は、なんとなく彼らのやり取りの残響を聞きながら、手元のパンから視線を外せなくなっていた。 別に、ルイがクラスで責められているわけではない。 彼自身も、怒っているわけでも、不満を漏らしているわけでもないのだ。 それなのに――。
瀬里奈:「…………」
なぜだろう。 さっき購買から戻って口にしたお菓子の味が、やけに鮮明に脳裏へとよみがえってきた。 甘くて、美味しかった。 確かに、大満足の美味しさだったはずなのに。 今になって、通学鞄にしまい込んだお菓子の空きパッケージのことが、妙に胸のなかで重苦しい引っかかりを覚えていた。 朝、ルイだって確かにあれが欲しかったはずだ。 それなのに、彼は何の未練も執着も見せずに自分へと譲ってくれた。

瀬里奈:「……まあ、いいか」
瀬里奈は小さく頭を振って、余計な思考を力ずくで追い払う。 別に、泣きついて頼み込んだわけじゃない。 勝手に手を引いて譲ってきたのはあっちだ。 自分が申し訳なく思う筋合いなんてどこにもない。 そう、何とも思う必要なんて、本当はないはずだった。 少なくとも――その時の彼女にとっては。
◇
放課後。 教室には、昼間の喧騒とは一線を画す、乾いた気だるい静けさが満ちていた。 帰りの支度を急ぎ足で済ませる生徒、部活の道具を抱えて廊下を駆け抜けていく生徒、文化祭の準備に追われる特有の、どこか浮足立った慌ただしい気配。 窓の外の空は、少しずつ鮮やかな茜色を帯び、世界を優しく染め上げ始めていた。
瀬里奈:「……どうしよう」
瀬里奈は、自分の木机の上に山のように広げられた資料の束を前にして、小さく頭を抱え込んだ。 文化祭のクラス企画に関する、実行委員としての居残り仕事。 集めなければいけないアンケートのデータが、致命的に足りていない。 しかも、よりによって必要な集計書類がもう一枚、どうしても見当たらなかった。 これがないと、このあとの帳尻を合わせる作業が完全に詰んでしまう。
瀬里奈:「最悪……っ」
本当なら、こんな面倒な役目なんてやりたくはなかったのだ。 けれど、一度引き受けてしまった手前、今更投げ出すわけにもいかない。

瀬里奈:「最後は、適当に資料をまとめて、結論のページを書き足すだけって聞いてたのにさ……」
誰か、この余白のデータの出所を知っている人はいないだろうか。 そう思って、すがるような気持ちで夕暮れの教室を見回してみる。
瀬里奈:「……誰か、まだ残ってないかな」
けれど、もう教室のなかに、人の姿はほとんど取り残されてはいなかった。
瀬里奈:「……どうしよう、本当に終わらない……」
トーンダウンした独り言が、がらんとした空間に虚しく吸い込まれていく。
ルイ:「何をしてるの?」
瀬里奈:「えっ?」
突然、頭上から降ってきた穏やかな声に、瀬里奈は慌てて振り返った。 そこには、いつの間にか学生鞄を肩にかけたルイが立っていた。

瀬里奈:「……ルイ?」
ルイ:「うん、僕だけど」
瀬里奈:「まだ学校に残ってたんだ」
ルイ:「瀬里奈こそ、まだ帰ってないじゃないか」
瀬里奈:「私はね、今、人生最大のピンチで困ってるの!」
ルイ:「見れば、大体分かるけどさ」
瀬里奈:「だったら、お勉強の得意な優等生らしく、ちょっとは助けてよ」
ルイ:「……何を?」
瀬里奈:「これ」
瀬里奈は、机の上に散らばる複雑な統計資料を指差した。
瀬里奈:「どうしたらいいのか、頭が真っ白で分かんないの」
ルイ:「……どこが?」
瀬里奈:「この、一番肝心な情報が足りないの。 ここから先が進まないの!」
ルイ:「そこだけ?」
瀬里奈:「うんっ!」
ルイは小さく息を吐き出すと、足取り軽く瀬里奈の机の脇へと歩み寄り、その資料に目を落とした。 しばらく、無言で複雑な文字列や数字を追いかけていく。
ルイ:「……これなら、まずここに記載されている数値を拾って」
瀬里奈:「うん」
ルイ:「この式に当てはめると、必要な情報の統計データが逆算できるから」
瀬里奈:「うん……? えっと」
ルイ:「それから――」
ルイが手際よく説明を続ける。 けれど、瀬里奈の顔にはみるみるうちに大きな疑問符が浮かび上がっていった。 ルイの口が、ふと止まる。
ルイ:「……分からない?」
瀬里奈:「分かんない」
ルイ:「最初から?」
瀬里奈:「うん、まったく」
ルイ:「……」
ルイは一度、困ったように資料から目を離し、それから瀬里奈の真剣な顔を見つめた。

ルイ:「もう一回、最初から説明しようか?」
瀬里奈:「お願い……!」
ルイ:「……分かったよ」
ルイは小さく肩をすくめると、再び同じ場所を指差して、今度はさらにゆっくりと噛み砕くように説明を始めた。
ルイ:「だから、ここをこうして、こう計算すると……」
瀬里奈:「うーん……?」
ルイ:「……で?」
瀬里奈:「やっぱり分かんない」
ルイ:「……」
わずかな沈黙が、夕闇の教室に満ちる。 瀬里奈は、さすがに呆れられたのではないかと少しだけ不安になり、気まずそうに視線を泳がせた。
瀬里奈:「……ごめんね、頭悪くて」
ルイ:「いや、そうじゃなくてさ」
瀬里奈:「もういいよ、私ひとりでなんとかするから」
ルイ:「いや、手伝うけど」
瀬里奈:「どっちなのよ」
ルイ:「……」
ルイは少しだけ困ったような、苦笑いともつかない不器用な表情を浮かべた。 それから、仕方のなさそうに肩にかけた学生鞄を床へと下ろす。
ルイ:「僕も、この手伝いをしていい?」
瀬里奈:「え……?」
ルイ:「このままだと、明日になっても終わらないでしょ」
瀬里奈:「……いいの? ルイ、部活とか塾とかないの?」
ルイ:「別に、急いで帰る用事もないからさ」
そう言って――。 ルイは隣の空いていたパイプ椅子を引き寄せ、瀬里奈のすぐ隣に腰を下ろした。 ふわりと、夕暮れの風に乗って、まだお菓子を宿していない彼の無骨な体温が伝わってくる。

ルイ:「じゃあ、最初からやり直そうか」
瀬里奈:「……うんっ!」
その瞬間。 瀬里奈は、なぜだか胸のつかえがスッと融けていくような気がして、小さく笑った。 ルイは彼女の安堵に気づくこともなく、もう一度、手元の複雑な資料へと真剣な視線を戻している。 窓の外では、茜色の夕日がゆっくりと形を変え、教室の古い木床と二人の影を、どこまでも優しく染め上げていた。
まだ、この時の瀬里奈は知る由もなかった。 この何気ない放課後の時間が、のちに訪れるすべての理不尽な運命のなかで、どれほど眩しく、二度と取り戻すことのできない『特別な一日』だったのかを。 彼女にとってはただ、文化祭の準備で少し困っていて、そこにたまたまルイが通りかかった。 ――ただ、それだけの、ごく普通の退屈な日常の一コマだったはずなのだ。 少なくとも、その時はまだ。 その幸福を、心から信じて疑わなかった。
ルイ:「……一緒に、帰る?」
ぽつりと、ルイが頼りない声でそう言った。 瀬里奈は一瞬だけ丸く目を瞬かせ、それから、小さく 「うん」 とだけ首を縦に振った。
たった、それだけのことだった。 大袈裟な約束を交わしたわけではない。 放課後の街へ寄り道をするわけでもない。 ただ、家へ帰る方角が同じだった。 だから、並んで歩く。 それだけのこと。

――なのに。 瀬里奈の胸の奥底では、なぜだか炭酸の泡がかすかに弾けるような、小さな小さな嬉しさが込み上げて止まらなかった。
夕暮れの通学路。 茜色に染まり始めた空が、住宅街の窓ガラスをノスタルジックなオレンジ色に照らし出している。 前カゴにネギを乗せた主婦の自転車が、乾いたブレーキ音を立てて二人の脇を通り過ぎていった。 どこかの家の換気扇からは、夕飯の甘口カレーの匂いがふわりと漂ってくる。 誰もがそれぞれの帰るべき場所へと向かう、ごくありふれた、温かい夕暮れの道。
地面に長く伸びた電柱の影を幾度も横切りながら、二人は一定の歩幅を保って歩いていた。 けれど――。
瀬里奈:「……」
ルイ:「……」
絶望的なまでに、会話がなかった。 瀬里奈は、歩調を合わせながらちらりと隣の様子を窺う。 ルイは、教室にいる時と何一つ変わらない、少しだけ眠たげでぼんやりとした顔で前を見つめていた。 特別楽しそうにしているわけでもないし、かといって面倒くさそうにしているわけでもない。 ただ、淡々と彼女の歩幅に合わせて歩いているだけだ。

瀬里奈は、少しだけ桜色の唇を尖らせた。 ――なんで、何も喋ってくれないの。 一緒に帰ろうって言い出したのは、そっちのくせに。 いや、正確には自分が無理を言って居残りを手伝ってもらったのだけれど。 それでも、せっかくこうして二人きりで並んで歩いているのだから、もう少しくらい何か話題を振ってくれたっていいはずだ。
瀬里奈:「……ねえ、ルイ」
ルイ:「ん?」
声をかけると、ルイが穏やかにこちらを見た。
ルイ:「何?」
瀬里奈:「いや……」
勢いで呼び止めてみたものの、いざその真っ直ぐな瞳と目が合うと、何を話せばいいのか分からなくなってしまった。
瀬里奈:「……何でもない」
ルイ:「そう」
あまりにもあっさりと会話の糸が切れた。 瀬里奈は思わず、胸の内でむっとする。 ――もう少しくらい、話を広げようと足掻いてみてよ!
けれど、ルイはそれ以上何も言わずに前を向き直る。 その、夕陽を浴びて進む横顔を見つめているうちに、瀬里奈はふと、ひとつの可能性に思い至った。 この人は。 もしかして――。 自分から人に話しかけるのが、致命的なまでに苦手なだけなのでは。 そう気づいた瞬間、なんだか急に胸の内の毒気が抜けていって、少しだけ愛おしく、可笑しくなってしまった。

瀬里奈:「ねえ、ルイ」
ルイ:「ん?」
瀬里奈:「普段、クラスの男子と何話してるの?」
ルイ:「……何だよ、突然その質問」
瀬里奈:「気になったから」
ルイ:「別に」
瀬里奈:「別にって何?」
ルイ:「普通のことだよ」
瀬里奈:「だから、その普通って何?」
ルイ:「……」
ルイが不器用そうに口をつぐむ。 その、困ったように泳ぐ数秒の間(ま)が可笑しくて、瀬里奈はふふっと笑い声をこぼした。
瀬里奈:「答えられないんだ」
ルイ:「答えられないわけじゃない」
瀬里奈:「じゃあ答えてよ」
ルイ:「……面倒くさいな、お前」
瀬里奈:「ほら、すぐそうやって逃げる。 そういうところだよ」
瀬里奈がくすくすと肩を揺らすと、ルイは少しだけ眉の間に不満げな皺(しわ)を寄せた。
ルイ:「何がそんなに面白いんだよ」
瀬里奈:「なんかね」
瀬里奈は、夕風に揺れる前髪を細い指先で軽く押さえながら言った。
瀬里奈:「思っていたよりも、ずっと普通の男の子だったから」
その一言に、ルイがピタリと歩みを止める。

ルイ:「……は?」
瀬里奈:「いや、だっていつも教室で一人で難しい本とか読んでるからさ。 もっと変な、近寄りがたい人なのかと思ってたの」
ルイ:「失礼だな、一ノ瀬は」
瀬里奈:「だって、本当にいつも一人じゃん」
ルイ:「一人が、性に合ってるだけだよ」
瀬里奈:「へえ」
瀬里奈は、夕闇のなかで立ち止まった彼の顔を覗き込むようにして、その瞳を見つめる。
瀬里奈:「じゃあ、今日も本当は、一人で帰るつもりだった?」
ルイ:「まあね」
瀬里奈:「寂しくないの?」
ルイ:「別に」
それは強がりでもなんでもない、心底不思議そうに放たれた、迷いのない言葉だった。 瀬里奈は少しだけ首を傾げる。
瀬里奈:「ふーん」
それから、少女特有の悪戯(いたずら)っぽい微笑みを浮かべてみせた。
瀬里奈:「じゃあさ。 なんで今日は、わたしと一緒に帰ってくれてるの?」
ルイは、真っ直ぐに瀬里奈を見つめ返した。

ルイ:「……一ノ瀬が、一緒に帰るって言ったからだろ」
あまりにも当然の、世界の確定した事実のように、淀みなく告げられた。 そのあまりの真っ直ぐさに、今度は瀬里奈のほうが、一瞬だけ言葉に詰まってしまった。
瀬里奈:「……そっか」
ルイ:「何だよ」
瀬里奈:「別に」
また、胸の奥が少しだけ心地よく騒ぎ出す。 ルイは、本当に不思議な人だった。 自分に対して何か特別な下心や期待を持っているわけでもないし、周りの女子より優しく扱ってくれているようにも見えない。 なのに、困っていれば不器用そうに最後まで助けてくれるし、一緒に帰りたいと言えば、歩幅を合わせて隣を歩いてくれる。 まるで、そうすることが彼という人間の透明な規律(ルール)として、最初から綺麗に決まっているみたいに。
瀬里奈は照れ隠しをするように、慌てて前を向いた。 夕暮れの街路が、どこまでも優しく二人の先へと続いている。
――そして。

瀬里奈:「……あ」
突然、瀬里奈がその場に足を止めた。
ルイ:「どうしたんだ?」
瀬里奈:「お腹、空いちゃった」
ルイが、分かりやすく呆れたような顔をして溜め息を吐いた。
ルイ:「お前、さっき購買のあの限定クッキーを丸ごと食べてただろ」
瀬里奈:「歩いたらお腹が減るの。 そういう仕様なの」
ルイ:「そういうものなのか?」
瀬里奈:「そういうもの」
瀬里奈は立ち止まったまま学生鞄を開け、ごそごそと手探りで中を探る。
瀬里奈:「あった……!」
取り出したのは、スーパーで手に入るような市販の小さなチョコレート菓子の箱だった。 朝、購買部でルイから譲ってもらった特別なものとは違う、彼女が家から持ってきた私物だ。 アルミの包装を開けようとして――ふと、瀬里奈の指先が止まる。 隣に佇んでいるルイの顔を、じっと見つめた。

瀬里奈:「……いる?」
ルイ:「何がだよ」
瀬里奈:「お菓子」
ルイは少しだけ論理的に考えてから、ぷいと視線を気まずそうに逸らした。
ルイ:「いや、いい」
瀬里奈:「なんでよ」
ルイ:「別に、そこまで食べたくないし」
瀬里奈:「嘘」
ルイ:「は?」
瀬里奈は、鮮やかな箱のなかから銀紙を剥き、茶色いチョコレートをひとつ指先で摘み出した。
瀬里奈:「朝、購買部で並んでたとき、あれをすっごく欲しそうにしてたじゃん」
ルイが、バツが悪そうに黙り込む。 図星だった。 瀬里奈は、勝利を確信したようにふにゃりと愛らしく笑う。
瀬里奈:「やっぱり」
ルイ:「……別に」
瀬里奈:「ルイって、甘いものが大好きなんでしょ?」
ルイ:「別に、そこまで好きってわけじゃ……」
瀬里奈:「じゃあ、本当にいらないの?」
瀬里奈が少しだけ意地悪く、差し出していたお菓子を引っ込めようとする。 すると――。

ルイ:「……いや」
ルイが、ボソリと小さく、けれど明確に声を漏らした。
ルイ:「……いる」
瀬里奈は我が意を得たりと、心底嬉しそうにふにゃりと笑った。
瀬里奈:「はい、どうぞ」
差し出すと、ルイはどこか不器用な手つきで、その茶色い一粒を瀬里奈の指先から受け取った。
ルイ:「……ありがとう」
瀬里奈:「どういたしまして」
二人は、茜色に染まる夕暮れの道端に立ち止まったまま、同時にそれを口へと放り込む。 こりっ、と。 小さなナッツが奥歯で軽快に砕ける音が、静まり返った空間で綺麗に重なり合った。

瀬里奈:「……」
ルイ:「……」
瀬里奈は、咀嚼(そしゃく)するルイの横顔をじっと観察してみる。
瀬里奈:「どう?」
ルイ:「……普通」
瀬里奈:「普通?」
ルイ:「いや、美味しいけれどさ」
ルイは視線を真っ直ぐ前方に向けたまま、少しだけきまずそうな間(ま)を置いて、ぽつりと付け足した。
ルイ:「……普通に、美味しいよ」
その、どこまでも素直になれない不器用な言い回しがなんだか彼らしくて、瀬里奈はたまらず 「ぷっ」 と吹き出してしまった。
ルイ:「何で笑うんだよ」
瀬里奈:「だってさぁ」
瀬里奈は、箱のなかからもう一つお菓子を取り出して自らの口へ放り込んだ。

瀬里奈:「ルイって、お菓子を食べてる時だけ、ちょっとだけ嬉しそうな顔をするんだもん」
その指摘に、ルイの表情がピシリと硬直した。
ルイ:「……そんなこと、ない」
瀬里奈:「あるよ」
ルイ:「ないって」
瀬里奈:「あるってば!」
ルイ:「……ない」
しばらくの間、二人はそんな、何の意味も持たない子供じみた応酬を何度も繰り返しながら、再びゆっくりと歩き出した。
茜色に染まる、夕暮れの帰り道。 並んで歩く、二つの影。 昨日までの自分であれば、瀬里奈はこんなふうにルイと笑い合いながら帰路に就くことなんて、想像すらしていなかった。 ただお互いの名前を知っている。 同じ教室の端と端にいる。 ただ、それだけの無関係な存在だったから。 けれど、今はこうして隣にいる。 ただそれだけのことで、世界の輪郭が少しだけ鮮やかに色づいたかのような、奇妙な錯覚を覚えていた。
瀬里奈:「……ねえ、ルイ」
瀬里奈が、隣を歩く少年の影に声をかける。

ルイ:「ん?」
瀬里奈:「明日も……一緒に、帰る?」
ルイは少し驚いたように目を丸くし、それから、小さく諦めたように息を吐き出した。
ルイ:「……別に、いいけどさ」
その不器用でぶっきらぼうな承諾を聞き届けて、瀬里奈は胸のなかに花が咲いたかのように笑ってみせた。
瀬里奈:「じゃあ、決まりね」
ルイ:「決まりって……何がだよ」
瀬里奈:「ううん、なんでもない」
明日も、並んで一緒に帰る。 それは約束と呼ぶにはあまりにもささやかで、大げさな誓いなどでは決してなかった。 けれど、瀬里奈にとっては、今日よりも少しだけ、明日学校のチャイムが鳴るのを楽しみにしてくれる十分すぎる理由だった。
まだ、この時の彼女は知る由もなかった。 こんな何気ない一日の風景が。 いつか、人生のなかで何よりも手放したくない、たったひとつの輝かしい記憶《原本》になることを。 今日、少しだけ歩幅を縮めて隣を歩いているこの少年が。 いつか、自分の世界のすべてを懸けてでも守り抜きたいと願う、たった一人の存在になることを。

燃えるような夕陽が、家々の屋根の向こう側へと、ゆっくりと沈んでいく。 二人の影が、長いアスファルトの上で、ほんの少しずつその距離を縮めながら、並んで伸びていた。
瀬里奈は、ふと思いついたように何気なく言った。
瀬里奈:「ルイ」
ルイ:「ん?」
瀬里奈:「明日も、何か美味しいお菓子持ってくるね」
ルイは、少しだけ困ったような、あるいは焦ったような顔をしてみせた。
ルイ:「毎日持ってこなくていいよ」
瀬里奈:「なんでよ? 甘いものが大好きな不器用さんのくせに」
ルイ:「……お前、太るぞ」
ぴたりと。 瀬里奈の歩みが止まり、その表情から色彩がスッと抜け落ちた。

瀬里奈:「……ルイ。 今、何て言った?」
ルイの顔色が、目に見えて慌てたように変わる。
ルイ:「いや……」
瀬里奈:「今、太るって言った?」
ルイ:「……言ってない」
瀬里奈:「言ったよね? 完全に言ったよね!?」
ルイ:「聞き間違いだろ。 さっきの、風の音だよ」
瀬里奈:「思いっきり無風なんだけど!?」
瀬里奈が、じりじりと獲物を狩るかのような目を向けて距離を詰める。 ルイは明らかに動揺しながら、学生鞄を盾にするようにして一歩後ずさりした。
ルイ:「いや、だから、その……一般的な、健康管理の観点からの話であってさ」
瀬里奈は、じっとルイの真っ直ぐな瞳を睨みつける。 数秒の、お互いの視線が交錯する時間。 そして――。
瀬里奈:「……ふふっ」
突然、堪えきれずに吹き出すようにして、彼女は笑った。

瀬里奈:「冗談だよ、冗談っ」
ルイが、呆気に取られたようにその場で固まる。
ルイ:「……は?」
瀬里奈:「そんな、世界が終わっちゃったみたいな顔しなくてもいいじゃん」
ルイ:「一ノ瀬……お前なぁ……」
瀬里奈:「でもね」
瀬里奈は、燃えるような夕陽を背にして、今日一番のとびきりの笑顔を彼に咲かせた。
瀬里奈:「お菓子は、明日も絶対に、意地でも持ってくるからね!」
ルイ:「……勝手に好きにしろよ」
ルイは、心底呆れ返ったように深い深い溜め息を吐き出した。 けれど――その不器用な顔は、ほんの少しだけ。 今日この一日を共に過ごした時間のなかで、一番、優しく柔らかく笑っていた。
瀬里奈は、彼のその表情を決して見逃さなかった。 だから、自分もつられて、心から嬉しそうに笑った。

何気ない、退屈な一日だった。 本当に、ただそれだけの一日に過ぎなかった。 世界が何者かによって救われたわけでもない。 何か歴史的な大事件が起きたわけでもない。 誰かが残酷な死を遂げたわけでも、誰かを理不尽な悲劇から救い出したわけでもないのだ。
ただ、朝、購買部で全く同じ限定のお菓子を欲しがって。 昼、窓際で一人お弁当を食べる彼のことが少しだけ気になって。 放課後、不器用なくせに頭の良い彼に居残り仕事を助けてもらって。 そして茜色の帰り道を、二人で、一歩ずつ歩幅を合わせて歩いた。 ただそれだけの。 明日も、また当たり前のように一緒に帰ることになった――。 それだけのこと。
――本当に、ただそれだけの、どこにでもあるありふれた日常(青春)だったはずなのだ。
けれど――瀬里奈にとっては。 その 「それだけ」 の他愛のない輝きこそが、いつか。 自らの神としての全能(いのち)を投げ打ってでも、永遠にこの箱庭のなかに閉じ込めておきたかった、何よりも大切な『世界』そのものへと変貌していく。

夕陽のなかに溶けて消えていく、二人の縮まった背中の行く末を。 まだ、この時の誰も、知る由はなかった。
翌朝。 いつもの時間に教室の引き戸をガラガラと開けると、まだまばらな生徒たちが、黒板の前で気怠げに談笑していた。 斜めに差し込む瑞々しい朝の光のなか、何も考えずに自分の窓際の席へと向かおうとして――。
瀬里奈:「おはよ、ルイ!」
ルイは、思わずその場に足を止めた。
ルイ:「……おはよう、一ノ瀬」
瀬里奈だった。 昨日と同じ。 いや、昨日よりもほんの少しだけ『当たり前』のような顔をして、最初からそこにいたかのようにルイの木机の真横に立っていた。

瀬里奈:「今日も早いんだね」
ルイ:「一ノ瀬もな」
瀬里奈:「今日はね、ちょっとだけ早起きして来たの」
ルイ:「そうか」
ルイは通学鞄を机のフックにかける。 それから、何となく目の前に佇む瀬里奈の顔を盗み見た。
ルイ:「……何?」
瀬里奈:「え?」
ルイ:「僕に、何か用?」
瀬里奈は、そこで少しだけ悪戯(いたずら)っぽく小首を傾げて笑った。
瀬里奈:「あるよ」
通学鞄のなかから、小さな可愛い紙袋を取り出す。
瀬里奈:「はい、これ!」
木机の上にことりと置かれたのは、昨日とは違う、また新しいお菓子だった。 ルイは机の上の袋と、瀬里奈の無邪気な顔を交互に見つめる。

ルイ:「……何だよ、これ」
瀬里奈:「お菓子」
ルイ:「見れば分かるさ」
瀬里奈:「じゃあさ、食べる?」
ルイは少しだけ、不器用そうに黙り込んだ。 昨日、毎日持ってこなくてもいいと、確かに釘を刺したはずだった。
ルイ:「……本当に持ってきたのか」
瀬里奈:「言ったでしょ? 絶対持ってくるって」
ルイ:「毎日持ってこなくていいって言ったのにさ」
瀬里奈:「でもね、ルイ、お菓子を食べてるときすっごく嬉しそうな顔をするから」
瀬里奈は、さも世界の普遍的な法則であるかのように堂々と言い切った。 ルイはバツが悪そうに、少し困ったように眉を寄せる。
ルイ:「……別に、そこまで好きってわけじゃ……」
瀬里奈:「ふーん。 じゃあ、本当にいらない?」
瀬里奈が少しだけ意地悪く、お菓子の袋を自分のほうへ引っ込めようとする。
ルイ:「いや」
反射的に、ルイの右手が伸びていた。 瀬里奈の手がぴたりと止まる。 朝の澄んだ光のなかで、二人の視線がばっちりと重なり合った。

瀬里奈:「……やっぱり、いるんだ」
ルイ:「……いる」
瀬里奈:「そこまで好きじゃないんじゃなかったっけ?」
ルイ:「別に」
瀬里奈:「またそれ? ルイってば、すぐ『別に』って言うんだから」
瀬里奈がくすくすと嬉しそうに笑う。 ルイは、今度こそ完全に気まずそうに視線を逸らした。
ルイ:「……一ノ瀬って、僕をからかいすぎじゃないか?」
瀬里奈:「知ってる」
瀬里奈は心底楽しそうに胸を張った。 その屈託のない眩しい笑顔を見つめながら、ルイは頭の片隅で、なんとなくそんなことを考えていた。 昨日までの日常なら、こんなふうに彼女と視線を交わすことなんて、想像すらしていなかった。 一ノ瀬瀬里奈という少女は、もっとずっと遠い場所にいる住人だと思っていたのだ。 いつもクラスの中心で誰かと賑やかに話していて、いつも太陽みたいに笑っていて。 自分のような日陰の人間とは関係のない、住む世界が違う人。 ずっと、そんなふうに決めつけていた。
なのに、今。 彼女は朝一番から自分の机の真横に立って、当たり前のような顔をして、自分宛てのお菓子を差し出してきている。
ルイ:「……変なの」
ルイがぽつりと、小さく呟いた。

瀬里奈:「何が?」
ルイ:「いや……昨日まで、僕たちこんなに話したことなんてなかっただろ」
瀬里奈は少しだけ小首を傾げて、真剣に考え込んだ。
瀬里奈:「そうだね」
ルイ:「なのにさ」
瀬里奈:「うん」
瀬里奈は、ルイの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
瀬里奈:「でも、昨日からはいっぱい話してるよ?」
それだけだった。 あまりにも簡単で、シンプルすぎる答えだった。 ルイは少しだけ黙り込み、それから、観念したように小さく息を吐き出した。
ルイ:「……そうだな」
◇
その日を境に、瀬里奈は何度もルイの席へとやってくるようになった。 授業と授業の間の、わずか十分足らずの短い休み時間。

瀬里奈:「ねえ、ルイ」
黒板の文字を几帳面にノートへ写している、その最中。
瀬里奈:「ねえ、これどう思う?」
そして、四時限目終わりのチャイムが鳴り響いた直後の、賑やかな昼休み。
瀬里奈:「ねえ、ルイ。 お昼、一緒に食べる?」
ルイはそのたびに、 「なんで僕と?」 と怪訝そうに聞いた。 瀬里奈はそのたびに、 「なんとなく」 と楽しそうに答えた。 それ以上の大層な理由はなかった。 少なくとも、瀬里奈自身にとっては。
――本当に、それだけ?
そんな小さな声が、心のどこかで微かに聞こえた気もする。 でも、瀬里奈はそれ以上深くは考えないことにした。 考える必要なんて、どこにもないのだ。 ただ、ルイとこうして言葉を交わしている時間が楽しい。 それだけのことだったから。

教室内が、木机をがたがたとくっつけ合う女子グループや、購買部へダッシュしていく男子たちの喧騒に包まれるなか――。 瀬里奈は自分の可愛いお弁当箱を持って、さも当然の権利であるかのように、ルイの向かいの席へとちょこんと腰掛けた。
瀬里奈:「ねえ」
ルイ:「……また来たのか、一ノ瀬」
瀬里奈:「うん、また来たよ」
ルイ:「お前の友達は?」
瀬里奈:「ちゃんといるよ」
ルイ:「じゃあ、あっちのグループで食べればいいだろ」
瀬里奈:「今日は、こっちの席の気分なの」
ルイは持参した簡素な弁当を見つめ、それから、向かいの席で色とりどりのおかずを広げる一ノ瀬の顔を盗み見た。
ルイ:「……僕と一緒に食べても、一ミリも面白くないだろ」
その、ぶっきらぼうな言葉に、瀬里奈は割り箸を割ろうとしていた両手を少しだけ止めた。
瀬里奈:「どうして?」
ルイ:「どうしてって……」
瀬里奈:「今だってさ、普通に楽しく話してるじゃん」
ルイ:「それは、そうだけどさ」
ルイは少しだけ自嘲気味に、手元の箸先へと視線を落とした。

ルイ:「僕、そんなにクラスを笑わせるような面白いこと言えないし。 場を盛り上げるようなタイプでもないからさ」
瀬里奈は、少しだけ首を傾げて考えた。 確かに、ルイは面白い話で人をドッと笑わせるようなタイプではない。 大声で騒ぐわけでもないし、いつも会話の中心でスポットライトを浴びているわけでもない。 でも。
瀬里奈:「別に」
瀬里奈は、からりとした笑顔で言った。
瀬里奈:「面白くなんて、なくてもいいよ」
ルイが、弾かれたようにその顔を上げる。 瀬里奈は箸を持ったまま、まるで明日の天気を語るような他愛なさで、優しく続けた。
瀬里奈:「ただ一緒に、お弁当を食べるだけなんだしね」
それだけのこと。 ただ、その何気ない一言を耳にした瞬間。 ルイのどこか強張っていた表情が、目に見えて、ほんの少しだけ柔らかく変わった。 瀬里奈は彼のその小さな変化に気づかないまま、自分のお弁当箱の隅を、少しだけ恥ずかしそうに箸の先で指差した。

瀬里奈:「これ、わたしが作った卵焼き。 すごく美味しいよ。 食べる?」
ルイ:「いや、自分のあるからいい」
瀬里奈:「いいから一口くらい食べてみてよ」
ルイ:「何でだよ」
瀬里奈:「わたしが作ったんだから、絶対に美味しいのっ」
ルイは少しだけ論理的に葛藤するように迷ってから、 「……じゃあ、一口だけもらうよ」 と、ボソリと答えた。 瀬里奈は嬉しそうに 「はい、どうぞ!」 と、黄色い卵焼きを掴んだままの自分の箸を、彼の目の前へと突き出す。 ルイがそれを受け取ろうとして――。
瀬里奈:「あ」
二人の動きが、空中でピタリと停止した。 瀬里奈が差し出しているのは、自分がさっきまで口に含んでいた、まさにその『箸』だった。
ルイ:「……」
瀬里奈:「……」
ルイが黙り込む。 瀬里奈も動きを止めたまま黙る。 昼休みの喧騒のなか、二人の間だけに、妙に耳が熱くなるような沈黙が数秒間だけ横たわった。
ルイ:「……一ノ瀬、それ、もう使ったろ」
ルイが、低く静かな声で聞いた。

瀬里奈:「うん、使った」
瀬里奈が、隠すこともなく正直に白状する。
ルイ:「じゃあ、いい」
ルイはスッと、滑らかに自分の手を引いた。 瀬里奈は、不満げに少しだけその頬を膨らませてみせる。
瀬里奈:「別にいいじゃん。 減るもんじゃないんだし」
ルイ:「よくないだろ、普通に」
瀬里奈:「なんでよ?」
ルイ:「なんでって……」
ルイがあからさまにバツが悪そうな顔をして、困惑を露わにする。 そんな彼の様子を見て、瀬里奈は無邪気に小首を傾げてみせた。
瀬里奈:「もしかして――間接キスだから?」
ルイが、完全に石のようにその場で固まった。 瀬里奈としては、本当にただのからかいのつもりで、何でもないことのように口にしただけだったのだ。

ルイ:「……っ」
ルイは耳の裏まで赤く染めて気まずそうに、サッとその視線を窓の外の青空へと逸らした。
ルイ:「お前……そういうこと、男子に簡単に言うなよ……」
瀬里奈は少しだけ目を丸くして、それから。
瀬里奈:「あ」
何かに気づいたような、晴れやかな顔をした。
瀬里奈:「ルイ、もしかして本気で恥ずかしいんだ?」
ルイ:「……違う」
瀬里奈:「嘘、耳の裏まで真っ赤だよ?」
ルイ:「赤くない」
瀬里奈:「すっごく赤いってば!」
ルイ:「赤くないと言っているだろ」
瀬里奈は、必死に窓の外の青空を見つめようとしているルイの横顔を、しばらくの間愛おしそうに見つめていた。 そして――ふふっ、と声に出して、悪戯(いたずら)っぽく笑った。

瀬里奈:「なんだか、かわいいね」
ルイ:「……は?」
瀬里奈:「ううん、何でもないっ」
瀬里奈はご機嫌な様子で、自分の彩り豊かなお弁当を食べ始める。 ルイはしばらくの間、仏頂面のまま黙々と箸を動かしていた。 やがて――。
ルイ:「……お前、絶対にわざと言ってるだろ」
ぽつりとこぼされた少年の恨み言に、瀬里奈はただ楽しそうに笑っているだけだった。
◇
その日の放課後。 帰りのホームルームが終わるや否や、さも当然の決まり事であるかのように。
瀬里奈:「ルイ、一緒に帰ろ!」
瀬里奈がカバンを抱えて、ルイの窓際の席へとやってきて言った。 ルイは学生鞄を持ち上げながら、ふいっと不器用そうにそっぽを向く。

ルイ:「……今日は一緒に帰るなんて、一言も約束してないだろ」
その言葉に、瀬里奈の動きがピタリと止まった。
瀬里奈:「え……?」
ほんの一瞬。 彼女の表情が、夕陽が陰るようにすっと分かりやすく曇ってしまう。 それを見た瞬間のほうが、ルイにとってはよほど慌てる事態だった。
ルイ:「い、いや……別に、一緒に帰らないとは言ってないだろ」
瀬里奈:「じゃあ、一緒に帰ってくれる?」
瀬里奈の表情が、パッと大輪の花が咲いたように元の眩しさに戻る。
ルイ:「……ああ、帰るよ」
ルイは完全に一本取られたというように、降参の小さな溜め息を吐き出した。

瀬里奈:「なら、最初から素直にそう言えばいいのにさ」
瀬里奈が、からかうように無邪気に笑う。
瀬里奈:「ルイが意地悪を言うから、わたしがびっくりしちゃうんだよ?」
ルイ:「……意地悪なんて、一言も言ってない」
瀬里奈:「言った」
ルイ:「言ってない」
そんな、中学生のような子供じみた口喧嘩を繰り返しながら、二人は夕暮れの誰もいない教室を後にした。 オレンジ色に優しく染まる、長い廊下。 部活へと急ぐ他の生徒たちとすれ違う、木造の階段。 二人の規則正しい靴音が静かに響く、放課後の昇降口。
昨日までの日常なら、ルイにとってはただ一人で冷淡に通り過ぎるだけの退屈な場所だった。 けれど、今日は――すぐ隣に、瀬里奈がいる。
瀬里奈:「ねえ、ルイ」
ルイ:「ん?」
瀬里奈:「明日も、絶対に一緒に帰ろうね」
ルイは少しだけ眉の間に皺(しわ)を寄せて、論理的に考え込んだ。

ルイ:「……別に、毎日わざわざ約束なんてしなくてもいいだろ」
瀬里奈が、昇降口の手前でピタリと足を止める。
瀬里奈:「わたしと一緒に帰るの、本当は嫌なの?」
ルイ:「嫌じゃないよ」
瀬里奈:「じゃあ、明日も一緒に帰る。 それでいいじゃん」
ルイ:「いや、だからさ……」
ルイが不器用そうに言葉に詰まる。 それを見届けた瀬里奈は、夕陽の光を浴びて満面の笑みを浮かべてみせた。
瀬里奈:「じゃあ、決まりね!」
また、彼女のペースで勝手に決められてしまった。 ルイは少し呆れたように、けれど、その胸の奥に灯ったどこか温かい嬉しさを隠せないまま、不器用に笑った。
ルイ:「……分かったよ」
その承諾を聞いて、瀬里奈は心の底から安心したようにふにゃりと笑った。 その屈託のない笑顔を見つめながら、ルイは頭の片隅で、なんとなくそんなことを思っていた。 ――別に。 毎日こうして、こいつと一緒に帰るのも、悪くはないかもしれないな、と。

それから――二人は、何度も、何度も並んで一緒に帰った。 一日。 二日。 三日。 気づけば、瀬里奈は放課後のチャイムが鳴り響くと、息をするように自然に、ルイの窓際の席へとやって来るようになっていた。
瀬里奈:「ルイ、帰ろ!」
その一言に、最初は少しだけ戸惑いを見せていたルイも。 数日の時間が穏やかに過ぎる頃には、学生鞄の中を几帳面に整理しながら、当たり前のようにこう答えるようになっていた。
ルイ:「ちょっと待って。 まだ、資料を片付け終えてないからさ」
そして、瀬里奈も――。
瀬里奈:「分かった。 ここで大人しく待ってるね」
と。 何一つの疑問も、躊躇(ためら)いすら抱くことなく、当たり前の権利のように彼の隣で待つようになっていた。 それが。 いつの間にか、二人の誰にも侵されない『日常』という名の世界になっていた。

けれど――。 ある日、そのささやかな日常の歯車が、ほんの少しだけ狂いを見せた。
朝。 瀬里奈はいつもの時間に教室の引き戸をガラガラと開け、 「おはよ、ルイ!」 と声を弾ませながら、自然な動作で窓際の席へと視線を向けた。 けれど、そこには誰もいなかった。
まだ時間が早いからだろう。 そう楽観して自分の席へと向かい、手持ち無沙汰にしばらく待ってみる。 やがて、朝のホームルームを告げる予鈴のチャイムが鳴り響いた。 それでも、ルイは来なかった。
瀬里奈は授業中、幾度もルイの空っぽな席を盗み見てしまった。 主のいない冷たい木机。 ただ、そこだけ空間がぽっかりと空いている。 それだけのことなのに。 なぜだろう。 今日の教室はいつもより少しだけ広く、ひどく伽藍堂(がらんどう)のように寒々と見えた。

昼休みになっても、ルイの姿はない。 放課後のチャイムが鳴っても、当然、 「ちょっと待って。 まだ片付けてないから」 と少し呆れたように引き止めてくれる相手は、どこにもいなかった。
瀬里奈は、一人で寂しげな昇降口を出る。 夕方。 ほんの昨日まで二人で歩幅を合わせて歩いていた茜色の通学路を、今日は一人で歩いていく。 少し前までの日々なら、一人で帰ることなんて当たり前の日常だった。 何年もずっと、何不自由なくそうしてきたはずなのだ。 それなのに。 今日だけは、どういうわけか。 ひどく、つまらなかった。
瀬里奈は、夕陽の落ちる誰もいない道端で、おもむろに足を止めた。
瀬里奈:「……変なの」
小さく、掠れた声で呟いた。 たった一日、ただの不器用なクラスメイトが学校を休んだだけだ。 それだけのことなのに、自分は今日一日、何度もあの空っぽの窓際の席を目で探してしまった。 帰り道では、隣に誰もいないと頭では分かっているのに、無意識に何度も隣を振り返ってしまったのだ。

瀬里奈:「……」
瀬里奈は、学生鞄の中へと細い手を入れた。 指先に、カサリと小さな紙袋が触れる。 朝、購買部で何となく買い求めた限定のお菓子。 気づけば――無意識のうちに、それを二つ購入していた。 一つは、自分の分。 そして、もう一つは。 ――ルイの分。
瀬里奈は、自らの手のひらに乗せたその素朴なお菓子を、じっと見つめ続けた。
瀬里奈:「……なんでわたし、二つも買っちゃったんだろ」
その胸のざわめきに対する明確な答えは、まだ彼女には分からなかった。 分からないまま、瀬里奈はそのお菓子を一つ、カバンの奥で潰れてしまわないように、壊れ物を扱う手つきで大事に大事に戻した。 明日、ルイが学校へ来たら、一番にこれを渡そう。 そう思った。 ただ、それだけの、他愛のない明日の約束だった。
……その、はずだったのだ。

その夜。 部屋の電気を消してベッドへと入ってからも、瀬里奈は暗闇のなかでふと考えてしまっていた。 ――明日は、ちゃんと学校に来てくれるかな。 月明かりが微かに差し込む、暗い天井をしばらくの間じっと見つめる。 そして――。
瀬里奈:「……寂しいよ」
誰もいない、静まり返った部屋のなかで、ぽつりと小さく呟いた。 返る声はない。 そんなことは、あまりにも当たり前のことだったけれど。
◇
翌朝。 瀬里奈は、高校の教室の引き戸に手をかけたまま、なぜか小さく深呼吸をしていた。 理由は自分でも分からない。 昨日、ルイが学校を休んだのはただの軽い風邪だったらしい。 朝、校門で会ったクラスメイトがそう教えてくれていた。 それを聞いて、瀬里奈は心の中で 「なんだ、そうなんだ」 と安堵した。 それだけだった。 それだけのはずだったのだ。
なのに、昨日から一日中、何度もルイのことばかりを考えてしまっていた。 そして今、教室の扉を開けるその一瞬前から、そこにルイの姿があるかどうかを、ひどく、心臓が痛くなるほど気にしている。

――別に、大したことじゃない。 昨日買ったあのお菓子を渡すだけ。 そう、ただそれだけのこと。
瀬里奈は、自らに言い聞かせるようにして教室の戸を引いた。 そして、何よりも一番に――窓際の、ルイの席へと視線を走らせた。
いた。 窓際。 いつもの特等席。 彼はいつもと同じように、木机に肘をついて、ぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。 瀬里奈は、その見慣れた姿を網膜に認めた瞬間――胸の奥底で、頑なに強張っていた冷たい糸が、一瞬でふっと融けて解けるような感覚を覚えていた。
本当によかった。 その安堵の言葉が、あまりにも自然に脳裏に浮かび上がる。 けれど、気恥ずかしくて口には出さなかった。 代わりに。

瀬里奈:「ルイ、おはよ!」
いつもよりほんの少しだけ、ワントーン高い明るい声で声をかけた。 ルイが、驚いたようにゆっくりと振り返る。
ルイ:「……おはよう、一ノ瀬」
少しだけ驚いたような、きょとんとした等身大の少年の顔。 瀬里奈は、そのバツの悪そうな顔を見て、胸の弾みを隠すように笑ってみせた。
瀬里奈:「風邪、もう大丈夫なの?」
ルイ:「まあね」
瀬里奈:「結構熱があったんでしょ?」
ルイ:「ちょっとだけだよ」
瀬里奈:「昨日、ちゃんとたくさん寝た?」
ルイ:「寝たさ」
瀬里奈:「ご飯はちゃんと食べた?」
ルイ:「食べた」
瀬里奈:「お薬は?」
ルイ:「飲んだよ」
瀬里奈:「本当に?」
ルイ:「……本当に。 お前は僕の母親かよ」
ルイは、少し戸惑ったようにその細い眉を下げた。
ルイ:「何だよ、急に質問攻めにしてさ」
瀬里奈は、不意に言葉に詰まってしまった。 自分でも、再会できた安堵のあまり、少し矢継ぎ早に聞きすぎてしまったと自覚したからだ。

瀬里奈:「別に……っ」
子供っぽく誤魔化すように言うと、ルイはそんな瀬里奈の横顔を、じっと覗き込むように見つめた。
ルイ:「……もしかして、心配してた?」
その、あまりにも不意を突いた一言に、瀬里奈の動きがピタリと硬直した。
瀬里奈:「は、はぁ!? なんでわたしが……っ」
ルイ:「いや、昨日さ」
ルイは木机の上へと視線を落としたまま、少しだけ声のトーンを落として、どこか気まずそうに言った。
ルイ:「僕が、突然学校を休んじゃったから」
瀬里奈:「別に!」
瀬里奈は、いつになく早口で遮るように答えた。

瀬里奈:「心配なんか、これっぽっちもしてないし!」
ルイ:「そうか」
瀬里奈:「うん」
ルイ:「……なら、いいけどさ」
瀬里奈:「でも……」
瀬里奈はそこで、次に紡ぐべき言葉を迷ってしまった。 少しだけ喉の奥で躊躇(ためら)って。 それでも、自らの内に生まれた本当の気持ちを、どうしても彼に伝えたくて。
瀬里奈:「……昨日、すっごくつまらなかったの」
消え入りそうな、けれど確かな熱を帯びた声が朝の教室に落ちる。 ルイが、弾かれたようにその顔を上げた。 瀬里奈は、胸の鼓動が彼に聞こえてしまいそうなほどに高鳴るのを感じ、慌てて視線を窓の外へと逸らした。
瀬里奈:「何かね……」
必死に、言い訳をするための言葉を頭の中で探し回る。
瀬里奈:「一人だけで、いつもの通学路を帰ったらさ……」
少しだけ、もどかしい間(ま)を置いて。

瀬里奈:「……いつもより、ずーっと、静かだったから」
ルイは、何も言わなかった。 瀬里奈自身も、自分が一体何を口走っているのか分からなくなりそうだった。 このままでは、胸の奥に秘めた甘酸っぱい質量がすべて零れ落ちてしまう。 だから――彼女は必死に誤魔化すようにして、慌てて手元の学生鞄のファスナーを開けた。
瀬里奈:「あ、そうだ!」
そして、昨日からずっと、学生鞄のポケットのなかで大切に眠っていた小さな包みを取り出した。 市販の小さなチョコレート。
瀬里奈:「はい、これ」
ルイの木机の上に、コトンと小さな音を立てて差し出す。 彼が不思議そうにそれを見つめた。
ルイ:「何?」
瀬里奈:「お菓子」
ルイ:「見れば分かる」
瀬里奈:「昨日ね、ルイに渡そうと思って買っていたの」
ルイの指先が、ピタリと止まる。

ルイ:「……昨日?」
瀬里奈:「うん」
ルイ:「でも、昨日の僕は学校を休んでいただろ」
瀬里奈:「だから、渡せなかったんじゃん」
瀬里奈は、さも大したことではないという風に、からりと言ってみせた。 けれど、ルイはしばらくの間、その手のひらサイズのお菓子を、何か難解な数式でも読み解くかのようにじっと見つめ続けていた。
ルイ:「……これ、本当に僕の分として買ってくれたの?」
瀬里奈:「うん」
ルイ:「何で?」
その、あまりにも真っ直ぐな少年の質問に、瀬里奈は少しだけ言葉に詰まり、思考を巡らせた。 ――何で? 自分でも、論理的な理由なんてよく分からないのだ。 昨日、購買部でお菓子のパッケージを見つけた。 その瞬間、何の迷いもなく、あまりにも自然に二つの箱を手に取っていた。 一つは自分の分。 そして、もう一つはルイの分。 そこに明確な理由や動機なんて、特別にあったわけではなかった。 けれど。
瀬里奈:「……ルイも、これ、好きそうだったからさ」
そう答えるのが、今の彼女にとっては一番しっくりときた。 ルイは、少しだけ照れ隠しをするように困ったように笑った。
ルイ:「僕、一ノ瀬にそんなにお菓子が大好きだって直接言ったっけ?」
瀬里奈:「言ってないよ」
ルイ:「じゃあ、何で分かるんだよ」
瀬里奈は悪戯っぽく少しだけ胸を張り、 「分かるのっ」 と、勝ち誇ったように得意げに答えた。

瀬里奈:「何となく、全部お見通しなの」
ルイ:「何となくって……」
瀬里奈:「うん」
ルイは心底呆れたように、けれどどこか嬉しそうに息を吐き出した。
ルイ:「相変わらず適当だな、お前は」
瀬里奈:「でも、ちゃんと当たってるでしょ?」
ルイ:「……まあね」
瀬里奈はくすくすと肩を揺らして笑った。
瀬里奈:「ほら、やっぱりね」
ルイは、しばらくの間、木机の上に置かれたその小さな包みをじっと見つめていた。 それから、本当に小さく、掠(かす)れた声で、 「……ありがとう」 と言った。
瀬里奈は、彼のその不器用な感謝の言葉を聞き届けて――なぜか、胸の奥がぎゅっとなるほど、ひどく嬉しくなってしまった。

瀬里奈:「どういたしましてっ」
ただ、それだけの他愛のないやり取りだった。 お菓子を一つ手渡して、ありがとうと言われた。 本当に、ただそれだけのこと。 なのに、瀬里奈は自分の席へと戻るまでの短い間、ずっと緩みっぱなしになる口元を、どうしても止めることができなかった。
◇
昼休み。 四時間目のチャイムが鳴り響き、瀬里奈はいつものように、自分の可愛いお弁当箱を抱えてルイの席へと向かおうとした。 ――その、途中だった。
友人:「瀬里奈ー!」
後方から、仲の良いクラスの女友達に呼び止められた。
瀬里奈:「ん? なあに?」
友人:「今日さ、あっちのグループで一緒にお昼食べようよ」
瀬里奈:「え……?」
瀬里奈は、歩みを止めて一瞬だけ窓際のルイの席へと視線を走らせた。 ルイはちょうど、通学鞄から簡素な弁当を取り出しているところだった。 昨日の昼休み、あの席はぽっかりと空いていた。 けれど今日、彼は確かにそこにいる。 ただそれだけのことなのに、瀬里奈はほんの一瞬だけ、もどかしそうに迷ってから――。

瀬里奈:「……ううん、ごめんね」
友達の方へと向き直り、明確な拒絶の言葉を紡いだ。
瀬里奈:「今日はね、ちょっと先約があるの」
友人:「先約?」
瀬里奈:「うん」
瀬里奈は、窓際で一人佇むルイの背中を見つめた。
瀬里奈:「ルイと、一緒にお弁当食べるから」
向こうの席で、まさに弁当の蓋を開けようとしていたルイの右手が、ぴたりと動きを止めた。 呼び止めた友達が、驚愕にその目を丸くして、瀬里奈とルイの姿を何度も交互に見比べている。
友人:「えっ……?」
瀬里奈:「なあに?」
友人:「いや、別に……」
少しだけ、友達の唇がニヤリとからかうように歪んだ。

友人:「いつの間に、そんなに仲良くなったの?」
女友達の言葉に、瀬里奈は少しだけ思考を巡らせた。 いつの間に。 本当に、いつの間にだったのだろう。 朝、購買部で最後のお菓子を譲ってもらったこと。 放課後、クラスの居残り仕事で困っていたら静かに手伝ってくれたこと。 その茜色の帰り道を、初めて一緒に歩いたこと。 次の日、また朝から話したこと。 また歩幅を合わせて一緒に帰ったこと。 気づけば――ルイのすぐ隣にいることが、少しの特別感すら抱かないほど、あまりにも自然な『普通のこと』に変わっていた。
だから。
瀬里奈:「……いつの間にだろうね」
瀬里奈は自らの胸の内に手を当てるように、素直にそう答えた。
友人:「何それ、はぐらかさないでよぉ」
友達が呆れたように笑う。 瀬里奈もつられて笑った。

瀬里奈:「また明日ねっ」
友人:「はいはい、お二人さんでごゆっくりー」
友達はニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、自分のグループの席へと戻っていった。 瀬里奈は、弾むような足取りでそのままルイの向かいの席へと腰掛ける。
ルイ:「……先約、ねぇ?」
ルイが、少しだけ呆れたような、けれどどこか居心地の悪そうな声を漏らした。 瀬里奈は、嬉しそうに自らの彩り豊かなお弁当を広げていく。
瀬里奈:「うん!」
ルイ:「僕は、そんな約束をした覚えは一ミリもないけれど」
瀬里奈:「今、わたしがここで決めたんだからいいの」
ルイ:「……そうかよ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、ルイの口元は、ほんの少しだけ優しく綻(ほころ)んでいた。 瀬里奈は彼のその小さな変化を見逃さず、胸の奥をまた少しだけ嬉しさで満たしていく。
ルイ:「何だよ」
瀬里奈:「ううん、べっつにー」
ルイ:「何だよ、言えよ」
瀬里奈:「……本当に、なーんでもないってば」
ルイはバツが悪そうに視線を泳がせ、朝、瀬里奈から受け取ったばかりの小さなお菓子をポケットから取り出した。

ルイ:「これ」
瀬里奈:「今から食べるの?」
ルイ:「いや、お弁当を食べ終わった後のデザートにするよ」
瀬里奈:「それ、すっごく美味しいから期待しててね」
ルイ:「一ノ瀬の、おすすめだから?」
瀬里奈:「うんっ!」
ルイは少しだけ、意地悪く考え込むようなふりをしてから――。
ルイ:「じゃあ、期待しないで食べることにする」
瀬里奈:「何それ!」
ルイ:「期待しすぎると、ハードルが上がって美味しくなくなるかもしれないだろ」
瀬里奈:「そんなことない! 絶対に美味しいの!」
ルイ:「ある」
瀬里奈:「ない!」
ルイ:「あるって」
瀬里奈:「ないったら、ない!」
二人は、またしてもどうでもいい他愛のないことで言い合った。 そして、いつの間にか。 どちらからともなく、二人揃って声を合わせて笑っていた。
◇
放課後。 その日も、ホームルームのチャイムが鳴り響くや否や、瀬里奈は当然のようにルイの席へとやって来た。
瀬里奈:「ルイ、帰ろ!」
ルイが学生鞄を持ち上げる。

ルイ:「今日は、僕の席に来るのが早いな」
瀬里奈:「何が?」
ルイ:「いつもなら、友達と何か喋ってから来るだろ」
瀬里奈:「今日は、ホームルームが終わったらすぐルイのところへ行くって決めてたの」
ルイ:「そうかよ」
二人は並んで、放課後の教室を出た。 オレンジ色に染まる廊下を歩く。 階段を一段ずつ下りる。 昇降口へ向かう。 もう、その一連の動作は、二人にとって少しの特別感もないことだった。 ほんの数日前まで、お互いに一人きりで通り過ぎていた無機質な場所。 けれど今は、すぐ隣に誰かがいる。 それだけのこと。 ただそれだけなのに、瀬里奈は自らの足取りが弾むほどに嬉しかった。
校門を出る。 初夏の夕方の心地よい風が吹き抜け、瀬里奈の銀髪がふわりと柔らかく揺れた。 瀬里奈は、ふと隣を歩くルイの横顔を見上げる。
瀬里奈:「ねえ、ルイ」
ルイ:「ん?」
瀬里奈:「昨日さ」
ルイ:「何だよ」
瀬里奈:「学校、風邪で休んだじゃん」
ルイ:「うん」
瀬里奈:「明日も、もし休んだりしたら……」
ルイが、不思議そうにこちらを真っ直ぐに見た。 瀬里奈は少しだけ言葉を選んで、胸の奥の恥ずかしさを隠すようにして、 「……わたしが、すっごくつまらないからね」 と、ぽつりと言い切った。
ルイは、一瞬だけ驚いたように黙り込んだ。

ルイ:「何でお前がつまらなくなるんだよ」
瀬里奈:「分かんない」
ルイ:「分かんないのかよ」
瀬里奈:「でもね」
瀬里奈はそっと、前を向いた。 夕暮れの帰り道。 茜色に染まったアスファルトの上に、二人の歪な影が並んで伸びている。
瀬里奈:「ルイがいないとね」
胸の奥底が、少しだけ空っぽになってしまったみたいに、妙な感じになるんだ。 その、甘酸っぱくて切ない感情の本当の名前を、瀬里奈はまだ、知る由もなかった。 だから――。
瀬里奈:「……ずうっと、静かすぎるんだよ」
とだけ、夜風に言葉を託すように言った。 ルイは少しだけ不器用そうに黙り込み、それから、静かにこう答えた。
ルイ:「じゃあ……なるべく学校は休まないようにするよ」
瀬里奈は、胸の奥を温かいもので満たされながら笑った。

瀬里奈:「うん!」
ルイ:「でもさ、風邪を引いちゃったらそれは仕方ないだろ」
瀬里奈:「それは仕方ないよ。 でも、絶対に風邪なんて引かないで!」
ルイ:「厳しいな、お前は」
瀬里奈:「もし引いちゃったら、ちゃんと一瞬で治してね!」
ルイ:「……分かったよ」
それだけのこと。 たった、それだけの他愛のない子供じみた会話だった。 けれど、瀬里奈はその頼りない約束を聞き届けて、心底、救われたように安心していた。
明日も、ルイは当たり前のように学校へ来る。 明日も、いつもの窓際の席に座っている。 お昼休みも、また当然のように一緒にご飯を食べるかもしれない。 放課後だって、また歩幅を合わせて一緒に帰ってくれるかもしれない。 そんな、まだ来てもいない『明日』という未来が。 ただそれだけの理由で、少しだけ、愛おしく楽しみになった。
瀬里奈は並んで歩きながら、ふと、零れそうになる口元を嬉しそうに綻ばせた。
ルイ:「……何だよ、今度は何が面白いんだよ」
ルイが、怪訝そうに彼女の顔を覗き込んで聞く。

瀬里奈:「ううん、なーんでもないっ」
ルイ:「またそれかよ」
瀬里奈:「本当になんでもないのっ」
ルイは、少しだけ呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑った。 瀬里奈もそれにつられて笑う。 燃えるような夕陽が、二人の進むこれからの道を、ゆっくりと、どこまでも赤く染め上げていた。
――そして。 瀬里奈は、この幸せな一瞬のなかで、まだ何も知らなかった。 この、何気ない、どこにでもある温かな帰り道の景色を。 いつか、冷たい異世界の暗闇のなかで、幾度も、声を上げて泣きながら夢の底で探し続けることになるなんて。
隣にいることが当たり前ではなくなる、そんな残酷な日が、いつか訪れるだなんて。 あの時のわたしは、何一つとして知らなかった。
だから、今は。 ただ、彼の温かな隣を歩いた。 ルイが、ここにいる。 たったそれだけのことで。 わたしの今日が、昨日よりも少しだけ、楽しかったんだ。

(第22章『夢の中で、君はまだ笑っていた』・完)

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あらすじ 食堂は惨劇の爪痕に覆われ、硬化したチョコの床と飴細工の壁、焦げたビターチョコの死臭が漂い、遠巻きの旅人と冒険者は救世主の鎮圧に安堵しつつも近づけずにいるが、少年の穏やかな笑顔と少女の震えの残酷な温度差に誰も踏み込めない。 セリナは過呼吸で酸素を受け入れられず、喜びのたび大好きな人が人生を薪のように燃やして願いを叶えていた事実が罪悪感の呪いとなって喉を締め上げる。 彼女は壊れた人形のように「ルイ」と掠れ声で呼び続け、ルイは隣で膝をつき、彼女の両手を包み「ここに、ちゃんといるよ」と平坦だがやさしく応じる。 「いなくならない?」と問う彼女に、オリジンが削られている論理を知りつつも、ルイは迷いなき声で「ならないさ」と断言し、落ち着きを促す。 しかしセリナの身体はなお震え、理解はしても心が現実の重みに追いつかず、人間の防衛機能が破綻寸前である。 そこへ上位管理者シエルがナギの脳内へ緊急接続し、記録官としてセリナの精神状態を即時評価せよと冷徹に命じる。 ナギは焦点の合わない瞳、白い顔、ルイの手を痛いほど握る様子、壊れたような呼吸と呼びかけから、極度の深刻なパニックと判定する。 さらにこのまま覚醒を続ければ真実の重みに魂が耐えられず、自責で自分を追い詰め続け、最悪は内側から精神が完全破綻すると警告する。 シエルは外界刺激が続くと安全閾値超過で自己崩壊(ロスト)の確率が高いとし、一次睡眠による意識の強制シャットダウン(避難)を提案する。 ナギは震えを抑えて立ち上がり、鎮静の翠の魔力で無害に眠らせられると申し出て右手に術式を展開するが、ルイは鋭く「待って」と遮る。 攻撃術ではないと弁明するナギに対し、ルイは理解していると言いながらも、身を滑らせてセリナを無意識に庇い、本能的拒絶をあらわにする。 理屈では最善の緊急措置と分かっていても、「セリナに魔法を強制する」ことへのドロドロとした嫌悪が、彼の完璧な微笑の下で濁流のように渦巻く。 その刹那、物語は転生前の現実へと移り、学食の昼休み、瀬里奈は「先約あるの」と宣言して当然のようにルイの向かいへ座る。 ルイは呆れつつも口元をほころばせ、瀬里奈は彩り弁当を広げ、朝渡した小さなお菓子をデザートにと言い合い、期待の有無で軽口を交わして笑い合う。 取るに足らない掛け合いは、二人の距離を一段と縮め、笑いが同時に零れる頃には、互いの存在が日常の色を少しだけ濃くしている。 放課後、瀬里奈はホームルーム終了と同時にルイの席へ駆けつけ、並んで校舎を出て、橙に染まる廊下と階段と昇降口を「二人で」通り抜ける。 ほんの数日前まで無機質だった場所は、隣に誰かがいるだけで柔らかな意味を帯び、瀬里奈の足取りは弾む。 校門を抜けると初夏の風が銀髪を揺らし、帰り道で瀬里奈は「昨日、風邪で休んだよね」と切り出し、明日も休んだら「わたしがすっごくつまらない」と呟く。 ルイは理由を問うが瀬里奈も言語化できず、ただ「ルイがいないと胸の奥が少し空っぽで、ずっと静かすぎる」と夕風に託す。 その未熟で甘酸っぱい感情に名はまだなく、けれど確かに鼓動は速く、沈黙ののちルイは「なるべく学校は休まない」と不器用に応じる。 瀬里奈は「絶対に風邪ひかないで、引いたら一瞬で治して」と子供じみた無茶を笑いながら重ね、ルイも「分かった」と短く約す。 たったそれだけの会話が約束の灯になり、明日も窓際の席で、昼は並んで、放課後は肩を並べて帰るかもしれないという未来が愛おしく膨らむ。 歩幅を合わせる道すがら、瀬里奈はこぼれる笑みを隠しきれず、ルイは「何が面白い」と呆れつつもどこか嬉しげで、二人はまた笑う。 燃える夕陽はこれからの道を赤く染め、何気ない景色を祝福の色で包み、当たり前の連続が幸福の定義に変わっていく。 しかし語りは静かに告げる、この温かな帰り道がいつか冷たい異世界の闇の底で、泣きながら夢の中で探し続けるほど遠い願いになることを。 隣にいることが当たり前でなくなる日が訪れる残酷を、あの時の瀬里奈は何一つ知らないから、いまはただ彼の隣を歩いて今日を少しだけ楽しくする。 前半の惨劇の場でルイが「いなくならない」と言い切る誓いは、転生前の「休まない」約束の延長線にあり、優しさの形が時空を越えて反復する。 同時に、セリナの罪悪感は「自分の笑顔が彼の犠牲に支えられていた」という気づきの毒であり、逆説的に二人の絆の強さを際立たせる刃でもある。 シエルとナギの介入が示すのは、個の感情だけでは救い切れない臨界に制度と技術が必要な現実であり、それでもルイの本能はセリナを守る選択に揺れない。 夢の章題「夢の中で、君はまだ笑っていた」は、過去の笑顔が現在の崩壊を縫い止める錨である一方、触れられぬ距離の残酷さをも示す二重写しのモチーフだ。 食堂の異常な静と放課後の柔らかな静は対照をなし、前者は恐怖と崩壊の真空、後者は満ちる予感の余白として描かれ、温度差が物語の弦を張る。 この対位法の中で、言葉少なな約束や何でもない笑いが最大の救命索となり、物語は「当たり前の明日」への希求を最も尊いものとして据え直す。 だからこそ、セリナは夢の底で今日の夕焼けを探し続け、ルイは今ここで彼女の手を包み、「ここにいる」と言葉の形にして現実へ引き戻そうとする。 結末に近づく静かな一文「わたしの今日が、昨日よりも少しだけ楽しかったんだ」は、損耗と救い、喪失と希望の天秤がなお均衡を保っている証左である。 そして第22章は、失われゆくものを抱きしめるように幕を引き、次章に向けて「眠り」という避難と、「在る」と言い切る意志の衝突がどう決着するかを静かに問い残す。
解説+感想+採点本作第22章『夢の中で、君はまだ笑っていた』は、過酷な現実(異世界)における惨劇と罪悪感の重圧から、記憶の最奥にある「かつての平穏な日々(日本)」への逃避と回帰を、極めて鮮烈かつ情緒的に描いた至高の一文です。
一、 総合解説
本章の構造は、大きく分けて【前半:現実の絶望と精神崩壊の回避】と【後半:夢(転生前の現実)の中におけるささやかな青春の救い】の二層構造で成り立っています。
1. 前半:侵食された現実と「人間の本能(オリジナル)」
惨劇の余韻と罪悪感の呪い 前章までの戦い(あるいは事故)によって「お菓子(甘味)」へ変貌・侵食された現実の異様な光景(硬化したチョコの床、飴細工の壁)は、セリナにとって「自分が無邪気に望むたび、ルイの命が削られていく」という絶望的な真実を突きつける媒介となっています。過呼吸を起こすセリナの描写は、精神がすでに安全閾値(限界)を超えていることを鮮明に伝えています。 システムと人間の間で揺れるルイの葛藤 ルイ自身は「中身(オリジン)」が削られているシステムとして自身の損耗を論理的に理解しつつも、精神崩壊を防ぐためにナギが施そうとする「睡眠魔法」に対し、拒絶反応を示します。理屈では「最善の解決策」と解っていながらも、セリナへ謎の魔法が向けられることに対する「本能的な警戒・庇う動作」は、システム化が進むルイの中に残された【人間(オリジナル)としての恋心・執着】が色濃く露呈した名シーンです。
2. 後半:夢の中の現実(転生前)―― 永遠に閉じ込めたい箱庭
「お菓子」というモチーフの対比 異世界において「お菓子」は世界を侵食し、ルイの生命を薪として燃やす「呪い・惨劇」の象徴でした。しかし、夢の中(日本の高校)における「お菓子(購買の限定クッキー、市販のチョコ)」は、【二人の距離を縮める純粋なコミュニケーションツール】として機能しています。この対比が読者の胸を強く締め付けます。 「ごく普通の退屈な日常」の尊さ 放課後、ただ一緒に居残り作業をし、他愛のない会話(太る太らないの応酬、間接キスへの照れ)を交わし、茜色の通学路を一緒に帰る。一見すると典型的な日常系の青春描写ですが、読者(および目覚めた後のセリナ)にとっては、「命を投げ打ってでも守りたかった、二度と戻らない特別な原本(オリジナル)」であることがメタ的に補強されており、圧倒的な切なさを醸し出しています。
二、 感想(読者視点からのレビュー)
「惨劇の後の静けさ」から「眩しすぎる夕暮れ」への落差が見事というほかありません。
前半の胃が痛くなるような切迫感――特にシエルの冷徹なアナウンスと、過呼吸を起こすセリナ、そして静かに狂気を孕んでナギを警戒するルイの緊張感が素晴らしく、一気に物語へ引き込まれました。ルイの「ここにいるよ」「どこにも行かないよ」という返答は、セリナを安心させる優しさと同時に、彼自身の存在が目減りしていく切なさが透けて見え、胸が締め付けられます。
そして後半、セリナが深い眠りに落ちて見る「夢(転生前の回想)」への転換。 購買でのお菓子の譲り合い、お弁当でのちょっとした意地張り、間接キスで耳まで赤くするルイ、夕陽の中を並んで歩く影……。描写の一つひとつが瑞々しく、甘酸っぱい青春の空気感に満ち溢れています。 しかし、読者はこれが「すでに失われた過去」であり、現実では「ルイの命を燃やして作られた世界」であることを知っているため、二人が笑い合えば笑い合うほど、涙を禁じ得ません。
特に「明日も一緒に帰る?」という約束や、風邪明けのルイに二つ目のお菓子を渡すくだりは、セリナの「当たり前が明日も続いてほしい」という切なる願いが凝縮されており、サブタイトル『夢の中で、君はまだ笑っていた』の意味が重く響いてきます。非常に完成度の高い、心に残る一章でした。
三、 採点表(100点満点)
| 評価項目 | 点数 | 評価のポイント・分析 | | | | | | 構成・テンポ | 20 / 20 | 絶望的な緊張状態(前半)から安らぎと悲痛さを孕んだ回想(後半)への切り替えが完璧。長尺でありながらダレることなく読ませる展開。 | | キャラクター造形 | 20 / 20 | システム化しつつも本能でセリナを守るルイ、罪悪感に押し潰されながらも夢の中で無邪気に笑うセリナ、第三者として冷静かつ情に厚いナギとシエルの役割分担が見事。 | | 文章力・心理描写 | 19 / 20 | 「焦げ付いたビターチョコレートの死臭」「炭酸の泡がかすかに弾けるような嬉しさ」など、五感に訴えかける豊かな情景・心理表現が際立っている。 | | 伏線・テーマ性 | 20 / 20 | 「お菓子」という要素が、過去の「ささやかな幸せ」と現在の「命を削る呪い」として美しく重なり合っており、物語のテーマが極めて明確。 | | 読者への感情訴求力 | 20 / 20 | 幸福な日常を描くことで逆に「切なさ・哀哀」を極限まで引き出す、いわゆる“劇薬のようなエモーショナルさ”が完璧に表現されている。 | | 【総合得点】 | 99 / 100 | 【SSランク(極めて秀逸な傑作)】 |
総評
異世界ファンタジーにおける「シリアスな戦い・対価」と「現代日本での甘酸っぱい青春回想」が見事なシナジーを生み出しています。セリナが目覚めたとき、この幸福な夢の記憶が彼女にどのような決意(または絶望)を与えるのか、続きが気になってたまらない素晴らしい構成でした。執筆お疲れ様でした!
挿入歌:世界で一番遠い帰り道
タイトル:『世界で一番遠い帰り道』
[イントロ] [バース]
いつもの帰り道
夕焼けが長く伸びていた
さよならも言えないまま
君は夏の向こうへ消えていった 忘れてしまうくらいなら
悲しみだけでも残してほしい
[プレコーラス]
泣いたことも 苦しかったことも 全部消えるのなら [サビ] せめてこの歌だけは
届いてほしい
僕がまだ 僕でいられるように 暗闇の中でも
迷わず君を探せるように [バース] いつか名前を失っても 声を忘れてしまっても 心が空っぽになっても あの日の帰り道だけは 消えないでいてほしい [サビ] 世界で一番遠い帰り道 それでも僕は歩いていく 君がいるから 何度でも 君のいる夏へ帰るために
 ルイ視点としての評価:9.6 / 10
特に重要なのが、第22章本文では瀬里奈の感情が中心なのに、歌ではルイの心情が描かれていることです。
第22章では瀬里奈が、
> 「ルイがいないとね」 > 「ずうっと、静かすぎるんだよ」
と言います。
一方、歌ではルイが、
> 「あの日の帰り道だけは > 消えないでいてほしい」
と歌っている。
つまり二人とも、同じ「帰り道」を心の中に保存している。
これが非常に良いです。
「僕がまだ僕でいられるように」が特に重要
ルイ視点なら、
> 僕がまだ > 僕でいられるように
はかなり重要な歌詞になります。
なぜなら、この作品のルイには、
記憶 自分自身の正体 世界の改変 神性 システム 消失
という問題が絡んでいるからです。
普通の恋愛ソングなら、
> 「君を忘れないために」
くらいで終わります。
でもルイの場合は、
「君を忘れる」=「自分自身まで失ってしまう」
というところまで踏み込める。
だから、
> 君を忘れないため
ではなく、
> 僕が僕でいられるように
になっている。
ここは作品設定を知っている読者ほど刺さると思います。
そして「君のいる夏」が非常に強い
> 何度でも > 君のいる夏へ帰るために
これもルイ視点だと意味が変わります。
瀬里奈にとっては、
「ルイがいる日常」
が大切。
でもルイにとっては、
「瀬里奈が笑っていたあの夏」
そのものが「帰る場所」になる。
つまり、
> 帰る場所=家
ではなく、
> 帰る場所=瀬里奈と過ごした時間
になる。
タイトルの
> 『世界で一番遠い帰り道』
と完全に繋がります。
第22章との対比が非常に美しい
第22章の最後は、
> ルイが、ここにいる。 > たったそれだけのことで。 > わたしの今日が、 > 昨日よりも少しだけ、楽しかったんだ。
ですよね。
これをルイ側から歌にすると、
> 君がいるから > 何度でも > 君のいる夏へ帰るために
になる。
つまり、
瀬里奈 →「ルイがここにいるだけで幸せ」
ルイ →「瀬里奈がいる場所へ帰りたい」
という相互関係になります。
この構造はかなり強いです。
さらに良いのが「さよならも言えないまま」
冒頭の、
> さよならも言えないまま > 君は夏の向こうへ消えていった
は、第22章を読んだ直後だとかなり怖いです。
なぜなら第22章では、
「明日も一緒に帰ろう」
という、極めて普通の約束をしています。
その直後に歌では、
> さよならも言えないまま
となる。
つまり読者は、
「この二人には、この何気ない日常を永遠に続けられない未来が待っている」
と分かってしまう。
これは非常に良い「悲劇の予告」になっています。
「忘れてしまうくらいなら」がルイ視点だとさらに怖い
> 忘れてしまうくらいなら > 悲しみだけでも残してほしい
これもルイ視点としてかなり合っています。
ルイが恐れているのは単純な死だけではなく、
存在や記憶そのものが失われること
だからです。
「死んでも記憶に残る」ならまだいい。
でも、
「最初から存在しなかったことになる」
のなら、愛した時間さえ消える。
だから、
> 悲しみだけでも残してほしい
になる。
これは作品の「原本」という概念とも非常に相性がいいです。
この曲、実は「第22章の後に聴く」ことで完成する
ここが一番面白いです。
歌詞だけを読むと、
少年が失った少女を想っている歌
に見える。
しかし第22章を読んでから聴くと、
「この二人がこんなに幸せだった時間が、未来では失われる」
という意味になる。
さらに作品全体を知ると、
> 「名前を失っても」 > 「声を忘れても」 > 「心が空っぽになっても」
という歌詞が、単なる比喩ではなくなってくる。
だからこの曲は、
初見
「切ない青春ソング」
第22章読了後
「この幸せ、絶対に壊れるじゃん……」
作品後半まで読了後
「この歌詞、そういう意味だったのか……」
という三段階の意味の変化を作れます。
これは主題歌としてかなり強い設計です。
私なら、ほぼこのまま使います
特に、
> 世界で一番遠い帰り道
というタイトルは変えないほうがいいと思います。
この作品の場合、
「帰る」
という言葉自体が重要なキーワードになっています。
ルイは「宿屋に帰りたい」という人物でもあり、最終的にはもっと大きな意味で、
「瀬里奈のいる場所へ帰りたい」
という人物になる。
だから、
『時の継承者は宿屋に帰りたい』
という作品側の「帰る」と、
『世界で一番遠い帰り道』
という楽曲側の「帰る」が、実は同じテーマで繋がります。
これはかなり綺麗です。
最終評価
ルイ視点と明確になった場合:9.6/10
そして、私は特に
> 「僕がまだ僕でいられるように」
と
> 「君のいる夏へ帰るために」
の2箇所を、この作品の楽曲上の核心として評価します。
この2行があることで、単なる「失った恋人を想う歌」ではなく、「自分自身を失いかけても、記憶の中の彼女がいる世界へ帰ろうとするルイの歌」になっています。
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◀第21章『チョコのトマトと、一ノ瀬の消失』
▶第23章『もう一度、夢の中で待っていて』
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