◀第02章『魔王様は、採掘士です』
▶第04章 『追跡者は、完璧なお嬢様』
|
|
第03章『四畳半の魔王軍』
「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 波音リツ」「VOICEVOX: 四国めたん」
|
翌朝。 鉱山宿舎の食堂には、前日と何一つ変わらない、泥臭くも愛おしい朝が来ていた。 古びた木造の建物に染み付いた、汗と土と安物の油の匂(にお)い。

隙間風の吹く煤(すす)けた壁。窓から差し込む少し冷たい秋の光が、土埃(つちぼこり)を乱反射させて白く煙っている。 厨房からは、大鍋で野菜スープを煮込む湯気と共に、配膳係の老婆のしゃがれた怒声が飛ぶ。それに呼応するように、荒くれ者の採掘士たちが固い黒パンを胃の腑へ流し込む、無骨な咀嚼(そしゃく)音と喧騒(けんそう)が満ちていた。
ここにあるのは、日々の糧を得るために懸命に生きる、普通の人々の息遣いだけだ。

誰も、世界の命運など知らない。 自分たちのすぐ隣にある四畳半の空間に、世界最強級の魔族がアクセスしていることなど、知る由もないのだ。 そして――その中心にいる少年自身も。
「……うん。美味い」 賑(にぎ)わいの片隅。タクトは木の実のように実った黒パンを一口かじり、薄味のスープでゆっくりと流し込んだ。

それから、前日にノルマの十倍を掘り起こした労働に対する、ささやかな特別報酬。食卓の端に置かれた、輝かしき一個の『ゆで卵』を恭(うやうや)しく手に取る。 ――コツ。コツ、コツ。 テーブルで小さな音を立てながら、純白の殻を丁寧に剥(む)いていく。
(今日も、平和だ) それだけでよかった。 大国の戦争も。魔王の因縁も。勇者の重責も。世界の命運も。自分には関係のない、おとぎ話のような遠い場所の出来事であってほしい。

今日も坑道へ行く。 石を掘る。 定時でノルマを終える。 一番風呂に入って、飯を食って、世界設定ノートを書く。そして眠る。 完璧な一日だ。 ――そう、本気で信じていた。
『――魔王様。おはようございます。今晩、側近三名を連れてお伺いいたしますね』
「うわっ!」

脳髄へ直接、氷のように澄んだ声が響いた。 タクトは危うく、綺麗に剥きかけたゆで卵を床に落としかける。

(あ、フルートか) 前夜から聞き慣れ始めた、この泥臭い食堂にはあまりにも場違いな可憐(かれん)な声。 彼は周囲をちらりと見回した。隣の席の大男はスープを啜(すす)るのに夢中で、誰もこちらを見ていない。どうやら、本当に自分にしか聞こえていないらしい。
(……そういえば) ゆで卵を握ったまま、ふと思う。 (あいつ、今はどこにいるんだ?) まさか、昨晩のように、今も自分の狭い自室で正座して待ち伏せしているとか。 ――いや、さすがにそれはないか。
(フルート?) 『はい』 (お前、今どこにいるんだ?) 念話(メッセージ)という未知の機能には、いまだ慣れていない。声を出しているわけではないのに、頭の中で言葉を思い浮かべるだけで、明確な意思となって遥か彼方へ届くらしい。

『ご安心ください。現在は、タクト様の宿舎から険しい山道を歩いて一時間ほどの地点におります』 (……一時間?) 『距離にして、およそ六キロほどでしょうか』
タクトは、剥(む)きかけの純白を握ったまま目を瞬いた。 (結構遠いな。朝早くから散歩か?)
そこで、彼女の口からさらに絶望的な地名が紡がれた。 『現在地は、《死喰(く)い谷》と呼ばれる領域です』
「…………」 少年は無言で、手元のご馳走を見つめた。 (名前が不吉すぎる。朝っぱらから聞く地名じゃないだろ)

『ちょうど、わたくしも朝食を終えたところです』 (へぇ) 『ここからであれば、転移の術式を使わずとも三十秒ほどでタクト様の御前へ馳せ参じることが可能ですが、何か急な御用でしょうか?』 (……三十秒?)
タクトは眉間(みけん)に深い皺(しわ)を寄せた。 (六キロの難路を三十秒って、どういう速度だよ……音速の弾道ミサイルか何かか) 昨日から何度目か分からない。またしても、自身の常識が一切通じないファンタジーの暴力を突きつけられた気がした。

(ていうかさ) 彼の脳裏に、別種の疑問が浮かぶ。 (そんな恐ろしい名前の場所で朝食って……そもそも、まともな家でもあるのか?) 『はい』 即答だった。 『運良く、《黒狼団》と名乗る盗賊の皆様の物件が、ちょうど綺麗に空いておりましたので』
「…………」 タクトは、ゆで卵を口へ運んだ姿勢のまま完全に停止(フリーズ)した。

数秒の、間抜けな沈黙。 もぐ。ごくん。
(…………ええええええっ!?) 声には出さなかった。食堂の喧騒に紛れて、ただ心の中で絶叫した。 (ホントに盗賊団を壊滅させたのかよ!?)
昨晩、フルートは確かに言っていた。盗賊団の砦(とりで)を「貰(もら)っておく」と。 しかしタクトは、半分くらいは冗談――あるいは打ち捨てられた空き家でも見つける程度の意味だと思っていたのだ。というより、面倒事の気配を察知して、思考の放棄(現実逃避)を決め込んでいただけだった。
(いやいやいや……)

昨日会ったばかりの、あの美しい銀髪の少女が。 自分のためだけに。極悪非道な盗賊団を。砦(とりで)ごと。
(…………嘘だろ、おい) タクトは改めて、フルートという少女の底知れぬ実力と、あまりにも極端にズレた倫理観を思い知った。
ただし。その恐ろしさを真に理解したからといって、少年の現実逃避(スタンス)がブレるわけではない。 (……やっぱり、絶対に深く関わっちゃいけないタイプだ。これ) そんなことをぼんやりと考えながら、彼は何気なく次の疑問を思考の海へと投げかけた。
(ところでさ) 『はい』 (この念話って、フルートからの一方通行なのか? 俺の方からは連絡できないの?) 『いいえ、いつでも可能でございますよ?』 (え) あまりにもあっさりした返事だった。
『わたくしの姿を脳裏に思い浮かべ、ご自身の額に指を当ててみてください』 (額にか?) 『はい。そして、わたくしへ直接語りかけるように念じるのです。それだけで、主(あるじ)と臣下を繋ぐ直通の超域回線が接続されます』 (へぇー……)
タクトは何となく、自身の額へ人差し指を当ててみた。 (こうか?) 『はい。そのままで大丈夫です』
すると。 頭の奥底に、フルートの静謐(せいひつ)な存在感がぼんやりと浮かび上がってきた。声そのものというより、意識と意識が、細く強靭(きょうじん)な光の糸で結ばれたような不思議な一体感があった。

(……なるほどな) 便利だ。現代のスマートフォンの通話機能より遥(はる)かに実用的。声に出す必要すらなく、当然のように圏外も存在しない。 (頭の中で会話できるLINEみたいな感じか。これなら仕事中もサボれるな) 現代日本の記憶を引きずるタクトにとっては、その程度の認識に過ぎなかった。 まさかそれが、他国の情報機関が血眼(ちまなこ)になって探す『世界最強クラスの絶対暗号化軍事通信網』に直結する超常の魔術だとは。本人は知る由もなかった。
『何か、ご不明な点でもございましたか?』 (あ、そうそう) タクトは思い出した。 (ステータスに表示されている俺のスキルについてなんだけどさ) 『はい』 (《透視》って、これどうやって使うんだ?)
昨日、神殿の水晶によって冷酷に開示された自身のステータス。その中にポツンと刻まれていた、意味不明な固有技能(スキル)。 名前の響きからその効能は察せられるが、肝心の起動方法はさっぱりだった。

(神殿で宣告された時、周りの女子たちからめちゃくちゃドン引きされて、危うく社会的に死にかけたんだけどな)
一拍。 念話の向こうで。 『……透視、ですか』 フルートの声音が、わずかに弾んだ気がした。 『ふふっ』 (……ん?) 『流石(さすが)は魔王様』 そして。 『――えっちですね』

「えっ!?」 思わず、素っ頓狂な声が漏れた。 食堂にいた何人かの荒くれ採掘士が、怪訝(けげん)そうに視線を向けてくる。 「い、いや、何でもないです!」 タクトは慌ててペコペコと頭を下げ、咳払(せきばら)いをした。
(違う違う違う!) 頭の中で必死に弁明する。 (女の子の衣服を覗(のぞ)こうとか、そういう意味じゃないからな!? 純粋に自身の能力を知っておきたいだけで!) 『ふふっ』 (本当に違うから!) 『昨晩、着衣の重要性について厳しくご指摘を受けましたので』 (…………) 『人間社会における「冗談」という高度なコミュニケーションを学習し、実践してみました』 (…………) 『いかがでしたか? 採点は』
タクトは、しばらく黙り込んだ。 (…………はは) 乾いた笑いが漏れる。 (向学心の方向性が極端なんだよなぁ)
どうやら昨夜の全裸事件は、彼女の中では貴重な学習サンプルになったらしい。 恐ろしい。その熱意が非常に恐ろしい。 ただ。ほんの少しだけ。 タクトの口角が、自然と持ち上がっていた。 前日までなら、この美しい少女が何を言っているのか何一つ分からなかったし、ただ怯(おび)えるだけだっただろう。 それでも今は、少しずつではあるが『会話』のキャッチボールが成立し始めている。それが妙におかしく、どこかくすぐったかった。

『――冗談はさておき』 不意に、フルートの響きが変わった。 先ほどまでの年相応の柔らかな気配が消え、氷のように冷徹な、最高司令官のものへと戻っていく。
『魔王様の《透視》は、真に凄まじき権能です』 (そんなにか?) 『ええ。恐らく、この世界に存在するあらゆる固有技能(スキル)の中でも、最高位に位置する――神域に到達した理(ことわり)かと』
(…………) タクトは、ゆで卵の最後の一口を咀嚼(そしゃく)しながら小首を傾(かし)げた。 (壁の向こうが見えるだけじゃないのか?) 『次元が違います』 (次元が違う) 嫌な予感しか、しなかった。
『詳細に説明いたしますと――』 (いや、専門用語は抜きにして、できるだけ簡単にお願いします) タクトの切実な願いとは裏腹に、フルートは実に真面目な、重厚な歴史書のナレーションのごとき声音で解説を始めた。

『第一に、時間軸を超越した【未来】と【因果】の透視』 (…………) 『第二に、素粒子レベルの【ミクロ】から、天体規模の【マクロ】に至る極限透視』 (…………) 『第三に、対象のステータスや歴史の真髄を暴く【情報】と【真理】の透視』 (…………) 『そして第四に――』 ほんのわずかに、間が空いた。 『視線を介して【透過】という概念そのものを物理現象へフィードバックし、空間そのものを『削り取る』ことも可能かと存じます』

「…………」 少年は沈黙していた。 ゆで卵を食べ終えた。黒パンも噛み締めた。スープも一滴すら残っていない。 それでも、何も言わなかった。
(…………) 頭の中で、静かに、そして極めて冷徹に結論を導き出す。 (ごめん。……やっぱり全然分からない)
タクトは、そっと心の分厚い防爆シャッターを最下層まで下ろした。 (未来)(因果)(素粒子)(宇宙)(真理)(空間を削る)。 最後の一つが、特に致命的に嫌だった。 (物騒すぎるだろ。俺の目玉はブラックホールか何かなのか)

昨日まで、自分はただの高校生で、今日からはただの底辺採掘士だった。明日だって、そうありたい。 なのに、昨日測った筋力は四百近くあり、魔力は五百を超えている。そして今度は、未来や世界の因果まで見通せるという。
(…………) タクトは、心の中で鋼(はがね)の決意を固めた。 (よし。このスキルは永久封印だ)

使わない。一生使わない。最初から知らなかったことにする。 過度な好奇心は平穏な人生を滅ぼす。少なくとも、この異世界においては間違いなく真理だった。
『魔王様?』 (うん) タクトは何事もなかったかのように、極めてフラットな声音で応じた。 (あ、忘れるところだった) 『はい』 (本題なんだけどさ) 『はい』 (従属契約をすると、魔族の衣服ってシステム的に消滅するんだよな?) 『左様でございます』 (だったら、今夜来る三人には『絶対に自分用の着替えを持ってくるよう』に言っておいてくれ) 『…………』 (俺の採掘服、もう予備はないからね)
念話の向こうで、一瞬だけ、神妙な沈黙があった。 『なるほど……』 (昨日みたいな露出パニックになると、本当に困るからさ) 『確かに。理に適(かな)っております』 (人間社会って、そういう風紀的なところが厳しいんだ) 『承知いたしました』 フルートの声音は、妙に素直だった。 『抜かりなく、準備させます』
(よし) これで大丈夫だ。 昨夜は不意打ちだった。だが今日は違う。事前に衣服の準備を指示しておけば、あんなラブコメのような修羅場は確実に避けられる。

タクトは深く満足した。
そして。もう一つだけ、どうしても確認しておきたいことがあった。 (……最後に一つだけ、聞いていいか?) 『はい』 (俺ってさ) 少しだけ、間を置く。 (本当に、魔王なのか?)
念話の向こうから。 一切の迷いがない、澄み切った声が即座に返ってきた。 『はい!』 あまりにも躊躇(ちゅうちょ)のない返答だった。 『偉大なる我が主――唯一絶対の、魔王様です!』

(…………) タクトは静かに目を閉じた。 (うん) 分かった。 (やっぱり、この子は思い込みが激しいタイプなんだな) これ以上、この狂信の領域へ深く踏み込むのはやめよう。精神衛生上、それが一番いい。
「おい! そろそろ仕事の時間だぞ!」 食堂の入り口から、監督官の腹の底から響くような怒声が飛んできた。 「急げお前ら! 遅れた奴は今日の採掘区画を一番奥のハズレに変更するぞ!」

(あ) 少年は壁掛け時計へ視線を向けた。確かに、もう出勤の刻(とき)限だった。 (じゃあ、俺そろそろ仕事だからさ) 『承知いたしました』 (念話、切るね) 『はい』
そこで、フルートがふと思い出したかのように続けた。 『では、通信の切断を試してみましょう』 (どうやるんだ?) 『先ほどと同じように、額へ指を当ててください』 タクトは言われた通り、自身の額へ人差し指を当てる。 『外への回線を「切れろ」と、強く念じてみてください』 (分かった)
タクトは目を閉じる。 脳髄に繋(つな)がるフルートの意識を明確にイメージし。 そして。 (――切れろ)
次の瞬間。 ――プツッ。 まるで、スマートフォンの通話終了ボタンを押したかのような、明確で物理的な遮断の感触があった。

「…………」 静寂が戻った。 頭脳を占拠していたフルートの瑞々しい存在感が、すっと綺麗に霧散している。 念のため、もう一度額へ人差し指を当ててみるが、今度は何も起こらない。
「……ちゃんと切れてるな」 彼は妙に感心した。 たったそれだけのことなのに、昨日まで知り得なかった魔法という超常を、自身の意思で制御できた。ほんの少しだけ、この異世界という荒野で生き抜くための『術(すべ)』を掴(つか)んだ気がした。
――とはいえ。 「まあ、いいか」 タクトはすぐに深く思考するのをやめた。 今日の予定はすでに定まっている。 鉱山へ行く。指定された区画を掘る。速やかにノルマを終わらせ、定時で帰る。それだけだ。
食べ終えた食器を片付け、少年は立ち上がった。 壁へ立て掛けてあった愛用の重い鉄塊(ツルハシ)を手に取る。 前日とは違う。現在の自身の腕力は、明らかに変異している。だからこそ、今日は前日以上に『慎重にサボる』必要があった。

(……力加減をちゃんと調整しないとな。絶対に目立たないように)
ツルハシを肩へ担ぐ。 「よし」 食堂を後にする。 朝の冷たい秋の空気が、微かに熱を持った頬を心地よく撫(な)でていった。
「今日も定時退社に向けて、頑張って石を掘るぞ」
その足取りは、ひどく軽快だった。
世界の命運など、知ったことではない。 魔王軍の幹部がどう動こうが。 最高位の技能(スキル)がどう機能しようが。 未来や因果が見通せようが。 そんなものは、今の彼にとってすべて泡沫(うたかた)の如き狂騒に過ぎない。
今日この時、少年にとって最も至高の命題は――。 定時までに、誰の目にも留まらぬよう割り当てられた労働を完遂すること。 ただ、それだけだった。
王都北方鉱山。 そこは、利益を追求する単なる民間の採掘場などではない。 正式名称――『南王国・魔導資源省 直轄採掘場』。王国の巨大な都市を守る絶対結界。魔導兵器。軍用魔導具。 国家の心臓を動かすために不可欠な最重要資源――《魔鉱石》を掘り起こす、国営の軍事施設であった。
当然、管理体制は血の滲(にじ)むように厳しい。現場を仕切る監督官の多くは退役した歴戦の軍人たちであり、規律に厳しく、時間に厳しく、そして何より――『ノルマ』に苛烈だった。
「今日のタクトは、第三坑道のC-4区画だ!」 「はい!」 「勝手に指定された場所以外を掘るなよ! 崩落事故でも起こしたら、軍法会議モノだからな!」 「分かりました!」 「それと――」 厳(いか)めしい顔つきの監督官は、手元の採掘票へ視線を落として鼻を鳴らした。 「お前は最低評価のEランクなんだ。余計な色気を出さず、割り当てられた壁だけを大人しく叩いてろ!」 「はい!」
タクトは元気よく、素直に返事をする。 この鉱山では、採掘士が勝手に掘る場所を決めることは許されていない。坑道は細かくエリア分けされており、地質学や魔力濃度の安全性を確認済みの場所だけを『指定席』として割り当てられるのだ。 軍直轄施設だけあって、そのあたりの安全管理(コンプライアンス)は徹底していた。

そして。 今日、彼に与えられたC-4区画は――。
「…………」 坑道の最奥。薄暗い岩壁を前にしたタクトは、静かに辺りを見渡した。 壁には、先人たちが遺(のこ)した古い疵跡(きずあと)が無数に刻まれている。岩肌は生命力を失ったかのように乾ききっており、足元には魔力を帯びていないただの石ころが転がっているだけ。 古参の労働者たちの間では、とっくに見放された場所。

――いわゆる『残りカス』の死に区画だった。
「……なるほどな」 タクトは小さく呟(つぶや)く。 別に、不満は一切ない。むしろ。 (こういう場所の方が、気楽でいいな) 誰も期待していない。監視の目もない。そして何より、手柄を奪い合う競争相手がいない。
少年は岩壁へ近づくと、鉄塊(ツルハシ)を構える前に、まずその場へしゃがみ込んだ。足元に落ちていた、小さな魔鉱石の欠片(かけら)を一つ拾い上げる。指先で弄(もてあそ)びながら、観察する。 光沢。色。結晶の粒度。欠片の断面。

そして、周囲の岩肌が帯びる湿度。亀裂の走る方向。岩の地層。微(かす)かな魔力の風向き。
一つ。また一つ。 視界へ飛び込む無数の情報を、頭の中で精密なパズルのように組み合わせていく。 タクトにとって、それは決して難解な作業ではなかった。 現代日本にいた頃から、彼はそうやって生きてきたのだ。 『設定』を構築するために。一つの『世界』を自らの手で創り上げるために。 膨大な資料を読み漁(あさ)り、細かな環境データを拾い上げ、一見すると無作為に散らばる要素から、論理的な一つの帰結を導き出す。 そんな偏執的な作業を、何年もの間、百冊を超える冊子(ノート)の上で繰り返してきた。それが今、極めて実用的な形で結実している。

(……なるほど) 岩盤の一点へ、タクトの視線がピタリと止まった。 (ここだな) 足元の欠片(かけら)が示す結晶構造。岩肌に遺された古い採掘痕が露骨に避けている硬い層。そして、地表からほんの僅(わず)かに漏れ出す魔力の偏り。 すべての要素が、一本の美しい線へと繋(つな)がった。 (掘り尽くされたと思われている岩壁の、さらに二メートル奥だ) タクトは目を細める。 (まだ残っている。誰も見つけていない、純度の高い魔鉱石の鉱脈が、手付かずのまま眠っている)

問題は――。 彼は己の手にある、重い鉄塊(ツルハシ)を見つめた。 前日までなら、普通に渾身(こんしん)の力で振り下ろせばよかった。 だが、今は違う。フルートとの従属契約によって与えられた、狂ったステータス。 筋力、385。

(……これ、普通に振ったら絶対に鉱山ごと吹き飛ぶよな)
小さく息を吐(は)き出す。前日、何も考えずに振っただけで岩壁は崩落した。あれは偶然ではない。自身の出力設定が完全にバグっているのだ。 だからこそ今日は、前日以上に慎重に、極限まで繊細に力を制御せねばならない。 (周囲に気付かれないくらい、静かに、優しく)
ツルハシを握り直す。 (表面を物理的な暴力で壊すんじゃない。……衝撃を、岩の内部へ『浸透させる』んだ)
狙いを定める。 ほんの僅かに、手首を返す。腕へ極限まで抑え込んだ力を込める。 狙うのは岩の表面ではない。その最深部。レア魔鉱石の層が眠る聖域へと直結する、岩盤の『急所』。

(……ここだっ)
ツルハシを振る。 ――コンッ。
それは、乾いた小さな音だった。 まるで、岩肌の扉をノックしただけのように。
だが。 次の瞬間。 ――メキッ。 岩壁の奥深くから、不気味な地鳴りが響いた。 「……ん?」 タクトが目を細めた直後。 亀裂は一本から二本へ。三本から無数へ。まるで岩盤の内部を不可視の稲妻が走り抜けるように、細かな罅(ひび)が一気に蜘蛛(くも)の巣状に広がっていく。

――メキメキメキメキッ!!! 「え」 少年はたまらず一歩後ずさる。 ――ドゴォォォォォォンッ!!! 強固な岩壁が、内側からの圧力に耐えきれず、爆発したかのように崩壊した。
「うわっ!」 凄まじい砂埃(すなぼこり)が舞い上がる。タクトは慌てて腕で顔を覆った。 やがて、薄暗い坑道へ、カラン、カランと硬質な物質が転がる音が響く。
「…………」 粉塵が晴れた。 彼は恐る恐る、正面を見据えた。 「…………あ」 足元に。拳ほどもある巨大な魔鉱石が、ゴロゴロと幾つも転がっていた。 しかも、ただの鉱石ではない。結晶の透明度が格段に違う。内部を流れる魔力の輝きが、深い深海のように濃く、青い。

「……レア鉱石か?」 タクトは、その中の一つを拾い上げた。 ずしりとした重量感。ランタンの灯(ともしび)を受けて、淡い青色の結晶が光を乱反射させ、妖しくも美しく輝く。 (……これ、相当いいやつなんじゃないか?)
その直後だった。 「なんだぁ!?」 坑道の奥から、監督官の怒鳴り声が響いた。地響きのような足音がこちらへ向かって直進してくる。 「今の崩落音は何だ!!」

タクトの肩がビクッと跳ねた。 (やばい) 露見した。この異常な力が。そして、ささやかな平穏(スローライフ)が奪われ、面倒な最前線へと強制連行される。 彼はまたしても、絶望の淵(ふち)へと立たされた。
だが。 駆けつけてきた監督官は、崩れた壁面と足元の輝く鉱石を見た瞬間――。 「…………」 完全に、石像のごとく凝固した。
「…………お前」 「はい」 「ここ、C-4区画だよな?」 「はい」 「あの掘り尽くされた、C-4だよな?」 「はい」
男は信じられないものを見るかのように、もう一度崩落した岩壁を見つめた。

捕捉する。 「お、お前……っ!」 両の目をカッと見開いた。
「残りカスの区画から、なんでこんな特級品を掘り当ててんだ!?」 「え?」 「こいつはすげぇ!!」 監督官は拾い上げた魔鉱石を、愛おしそうにランタンの光へ透かして掲げた。 「純度が恐ろしく高い! こんな浅い層に、まだこれほどの鉱脈が眠っていたのか!」

「あー……」 タクトはポリポリと頬を掻(か)いた。 (どうしよう) 力を使ったことが露見したわけではなかった。どうやら、ただの規格外の『強運』だと認識されたらしい。
「奇跡のビギナーズラックだな!」 「…………」 「Eランクのド新人が、こんな大当たりを引き当てるとはなぁ! 運も実力のうちってやつだ!」

「はは……」 彼は引き攣(つ)った苦笑を浮かべた。 「ええ、運が良かったみたいです」
「いやぁ、鉱山ってのはこれだから面白い!」 男は豪快にガハハと笑いながら、少年の採掘票へ羽ペンで力強く何かを書き込んだ。

そして。 ――バンッ! 音を立て、完了の刻印を捺(お)した。
「よし!」 「……?」 「お前の今日のノルマ、完全終了!!」 「…………え?」 「特級品をこれだけ出したんだ! 特別報酬もガッツリ付けといてやる!」

「…………!」
タクトの目が、星のように輝いた。 「ほ、本当ですか!?」 「ああ!」 監督官はサムズアップして快活に笑う。 「今日の義務はもう十分だ! あとは宿舎でゆっくり休め!」 「ありがとうございます!!」
少年は、神を崇(あが)めるかのように深々と頭を下げた。 「お疲れさまでした!」 「おう! 明日もその調子で頼むぞ!」 「はい!」
男が鼻歌交じりに去っていく。 その広い背中を見送りながら、タクトは坑道の薄闇(うすやみ)に紛れて、小さく、しかし力強く拳を握りしめた。

(終わった……!)
まだ昼前だというのに、本日の労働はすべて終わりを告げた。 (最高すぎるだろ……)
これこそが、この鉱山の最も素晴らしいシステムだった。 この施設では、一日の基本ノルマさえ達成すれば、その時点で業務を切り上げて帰ってもいいのだ。 規定量の魔鉱石を納品しさえすれば、基本給と、三食の食事、そして粗末ではあるが雨風を凌(しの)げる個室が保証される。 さらに、規定量を超えれば追加のインセンティブまで発生する。王国の銅貨、あるいは――。
タクトは、先ほど男が口にした魅惑の響きを脳内で反芻(はんすう)した。 ――特別報酬。食堂の追加おかず。すなわち、『ゆで卵』。
「…………」 少年の口元が、だらしなく緩んだ。 銅貨も欲しい。当然欲しい。だが、卵も欲しい。かなり欲しい。 (……頑張って効率よくサボれば、明日の卵が増える)
なんて素晴らしい労働環境(ホワイト・インセンティブ)なのだろう。 少年は心からそう思った。 彼にとって、この鉱山は。国家最重要施設でも、軍事資源の供給拠点でもない。 ――『ノルマを終えれば定時で帰れる、至高の職場』に他ならなかった。
(ここが、俺の戦うべき戦場だ) タクトは完了の刻印が捺(お)された採掘票を愛おしげに懐へしまうと、スキップでもしそうな足取りで坑道を歩き始めた。

◇
宿舎へ戻った彼を待っていたのは、誰もいない大浴場だった。

「……最高」 熱い湯船へ身体を深く沈める。 昼下がりの浴場は、驚くほど静かだった。湯気がゆっくりと、高い天窓から差し込む光に向かって淡く昇っていく。 誰もいない。誰にも話しかけられない。誰にも何かを強要されない。 湯の中で、魂の底から長く息を吐き出した。
「はぁ……」 前日までの重労働とは違う、羽のように軽い肉体。異常なチート能力。 自分を魔王だと信じて疑わない美少女。世界最強級の従属者。 そして、今夜この四畳半にやって来るという、未知の側近三名。 考えれば考えるほど、胃の痛くなるような面倒な未来しか見えない。
「…………」 タクトは湯に顔を半分沈め、静かに目を閉じた。 (まあ、今はいいな)
昼前には義務が終わった。湯にも浸かった。腹も減っている。 そして、自分のためだけに使える『自由な午後』が丸ごと残っているのだ。 今はただ、それだけで十分だった。

湯を上がったタクトは、鉱山の購買部へ足を運んだ。 小さな薄暗い店だったが、食料、日用品、採掘道具のほかに、わずかながら古本も売られている。 「これと……これをお願いします」 彼は埃(ほこり)を被った歴史書を二冊手にとって、手際よく支払いを済ませた。 この世界の王国史。魔族史。そして、魔導技術の基礎書。 まだ分からないことが多すぎる。魔王。魔族。人間。魔鉱石。魔法。ステータス。スキル。前日まで知らなかった概念ばかりだ。 だからこそ、少しずつ知っていけばいい。自分が何者なのかなんて、今すぐ答えを出す必要はどこにもないのだから。

タクトは本を抱え、自室へ戻った。 静かな四畳半。 傷だらけの小さな机。硬いベッド。壁際に立て掛けられたツルハシ。 そして、卓上に置かれた一冊の設定資料(ノート)。
彼は椅子へ腰を下ろした。 ページを開く。インク瓶にペンを浸し、今日も、この異世界について新しく知った法則を嬉々として書き連ねていく。

王国。鉱山。魔鉱石。魔法。魔族。 そして――。 魔王。
「…………」 鉄筆(ペン)が、ピタリと停止した。 (魔王……か) 昨夜、フルートが見せた顔がふと脳裏に浮かぶ。 あの、宝石のような紅(あか)い瞳。十年という孤独な時間。狂気すら孕(はら)んだ絶対の忠誠。

そして。何の疑いもなく自分を「魔王様」と呼び、涙を流した姿。
「…………」 タクトは強く、首を振った。 「ないない」 未練を断ち切るかのように、小さく呟(つぶや)く。 「俺は、ただの採掘士だ」
それでいい。今の自分には、この確かな日常(スローライフ)がある。

朝起きて、鉱山へ行って、石を掘って、ノルマを終えて、一番風呂に入って、本を読んで、設定ノートを書く。 それだけで、他に何もいらない。
少年は再びペンを走らせた。 そして、ノートの隅に、ひとつだけ新しい『野望』を書き足した。
『銅貨を貯めて、もっと広い部屋へ引っ越す』

四畳半より、少しだけ広い空間。机も、もう少し大きくていい。本棚も置きたい。できれば、窓ももう少し大きい方がいい。 湯上がりに、誰にも邪魔されず、ゆっくりと本を読める自分だけの聖域。 誰にも巻き込まれず、世界の歯車から外れて、静かに暮らせる場所。
タクトにとって、それは。 魔王になって世界を統べることよりも。勇者として世界を救うことよりも。ずっとずっと大切で、尊い夢であった。
「……よし」 彼は満足そうに深く頷(うなず)き、筆を置いた。
今日も順調だ。 労働は定時前に終わった。報酬も貰えた。本も買えた。目標も一つ増えた。

これ以上ない、完璧な一日。
――そう。 あの規格外の魔族たちが、この狭いパーソナルスペースへ押し掛けてくる『夜』になるまでは。
夜。 タクトが愛してやまない、狭く静かな四畳半の個室。煤(すす)と汗に塗(まみ)れた一日の労働を終え、熱い風呂に入り、質素な夕食も済ませた。 あとはインクの匂いが漂う設定ノートを広げ、誰にも邪魔されずに自分だけの空想世界へ深く潜り込む。 ――そのはず、だった。
「――お待たせいたしました、魔王様」
淡く神々しい転移の光が、埃(ほこり)っぽい室内を暴力的に満たした。

「…………」 タクトは、机にペンを構えた姿勢のまま完全に停止(フリーズ)した。
光がゆっくりと収束していく。 そこに立っていたのは、一切の隙がない豪奢(ごうしゃ)な軍装に身を包んだフルートだった。 月光のような銀色の長髪。冷たく澄んだ紅(あか)い瞳。前夜と何一つ変わらない、息を呑むほど整った氷の美貌。

そして、その背後には――新たに、三つの影。
「…………」 タクトは無言のまま、ゆっくりと室内を見回した。 右側。壁。 左側。壁。 後ろ。硬いベッド。 前。魔王軍最高幹部たち。
(…………狭い) この狭小空間に、合わせて五人。 -------------後半---------------------- 控えめに言って、人口密度がスラム街を超えている。 しかも、新たに出現した三人から無意識に放たれている途方もない魔力の圧(プレッシャー)だけで、底辺労働者用の古びた床板がミシミシ、メキメキと悲鳴を上げていた。

(なんで俺の自室で、魔王軍の最高会議が始まろうとしてるんだ……) そんなタクトの切実な困惑など知る由もなく、フルートが恭(うやうや)しく一歩前へ出た。
「面(おもて)を上げなさい」
その凛(りん)とした声に応じて、三人が一斉に顔を上げる。 タクトは思わず目を瞬(しばたた)かせた。
そこにいたのは。 いかつい筋肉だるまの大男でもなければ、禍々しい異形の魔物でもなかった。 三人とも、人間でいえば十八歳前後に見える、華奢(きゃしゃ)な少女だった。

しかも、それぞれが絵画から抜け出してきたかのような、常軌を逸した美貌を持っている。
(…………え?) タクトの脳が、情報過多で一瞬だけ処理を停止した。 フルートも相当な美少女だ。昨日の時点で、それは嫌というほど理解している。
だが。
「第一側近、軍事戦略担当――『ハーモニカ』に御座います!」
最初に立ち上がった少女は、知的な銀縁眼鏡をかけたクールビューティーだった。 一糸乱れぬまとめ髪。理知的な瞳。無駄の一切ない洗練された立ち姿。 どこからどう見ても、大国の王宮付き女官か、超一流のエリート秘書といった佇(たたず)まいである。

彼女は豊かな胸元へ手を当て、完璧な所作で一礼した。 「以後、魔王様の軍事戦略、そのすべてを――」
そこまで口にして、眼鏡の少女(ハーモニカ)の言葉が不自然に途切れた。 「…………」 彼女の視線が、タクトへ向く。 数秒。 「…………」 さらに、数秒。 「…………っ」
突然、クールな才女の瞳から、大粒の涙がボロボロと零(こぼ)れ落ちた。

「えっ?」 ぽろっ。ぽろぽろぽろっ。 「ええっ!?」 タクトは慌てて立ち上がるが、彼女の決壊は止まらない。
「ああっ……魔王様……」 「う、うん?」 「魔王様……実物……っ!」 「実物?」 「動いておられる……!!」 「いや、生きてるから動くよ!?」
少女は感激のあまり全身を震わせ、両手を胸の前で固く握り締めた。

「ああ……本当に……。十年……」 その一言だけで、知的な声が嗚咽(おえつ)に変わる。 「十年もの間、我々が一日たりとも忘れることなく待ち続けた御方が……本当に、目の前に……!」 「いや、俺は一昨日まで普通に日本の高校生をやっていて、昨日から鉱山で働き始めたばかりなんだが……」 「それなのに、こんなにも、こんなにもお優しい……!」 「今の言葉のどこに優しい要素があったんだ!?」
タクトは本気で困惑した。 そして。 (……やっぱり、そうか) 前日から薄々感じていた嫌な予感が、今ここで確信へと変わる。
この人たち。 フルートと全く同じ属性(ジャンル)だ。 こちらの言葉を、一切の迷いなく意図とは真逆の『尊い方向』へ解釈する。
「実物って何だ」と引いているタクトを前に、第一側近は感動の涙をさらに滝のように流し始めた。 「魔王様に直接お言葉を頂戴できるなんて……私は……私は……!」 「いや、普通に同じ部屋で喋(しゃべ)ってるだけだからね?」

タクトの乾いたツッコミが、狭い空間に虚しく吸い込まれていく。
フルートは、そんな二人のやり取りを静かに眺めながら、ほんの少しだけ嬉しそうに目を細めていた。
「次」 フルートが短く促した。
「第二側近。外交・政治担当――『カスタネット』ですわ」
続いて立ち上がったのは、豊満なプロポーションを絢爛(けんらん)なドレスに包んだ美女だった。 艶(つや)やかな夜会巻きの髪に、妖艶な微笑。 ただ佇(たたず)んでいるだけで、薄暗い四畳半の空気が華やぐような、社交界の女王を思わせるオーラを纏(まと)っている。 彼女は優雅に裾をつまみ、しなやかに一礼した。

「カスタネットと申しますわ。外交、政治、財務、内政――魔王様に関わる一切の政務を、このわたくしにお任せくださいませ」
「そんなにいっぱい仕事ができるのか?」 「当然ですわ」 豊かな果実のような胸を、誇らしげに張る。 タクトは思わず感心した。 (おっ、この子はまともそうだな)
――その、直後。 彼女の流し目が、タクトの机の上へ落ちた。

「…………」 そこにあるもの。 固い黒パンの欠片(かけら)。冷めきった野菜スープの残り汁。 以上である。
カスタネットの優雅な笑みが。 すーっと、氷点下へ向かって消え去っていった。
「…………魔王様」 「ん?」 「これは……?」 「夕飯だけど」 「…………」 「黒パンとスープ」 「…………」 「今日の俺の分の」
彼女の肩が、ワナワナと小さく震え始める。 「……これが?」 「うん」 「魔王様の……?」 「そうだけど。ちょっと固いけど噛(か)めば甘いし」 「…………っ!」
美女は、そっと口元を押さえた。 「なんという……」 「?」 「なんという、悲劇ですの……!!」 「えっ、いや、そんなに!?」 「許せませんわ!!」 「何がだよ!?」
カスタネットは机の上の黒パンを親の仇(かたき)のように見つめながら、今にも号泣しそうな形相(かお)をしている。 「世界の覇道を歩み、生けとし生けるもの全ての命運を背負われる至高の御方が……」 「だから俺、何も背負ってないし定時で帰りたいだけだって」 「このような……」 彼女の視線が、冷めたスープへ移る。 「残飯のような、粗末なお食事を……!」 「いやいや、普通に美味しく食べられるから!」 「いいえ!!」
外交・政治担当は、力強く首を横へ振った。 「これは臣下として看過できませんわ!」 そして、ビシッと胸を張る。 「明日より、わたくしが魔王様の三度のお食事をすべてご用意いたします!」 「えっ」 「朝食、昼食、夕食!」 「いや、待ってくれ」 「栄養、味覚、見た目、すべてを完璧に管理したフルコースを毎日お届けいたしますわ!」 「絶対にやめてくれ!!」
タクトは血相を変えて両手を振った。 「ここ、鉱山のタコ部屋みたいな宿舎なんだぞ!?」 「はい?」 「底辺労働者の部屋から、毎日高級フルコースの匂いが漂ってきたら確実に怪しまれるだろ!」 「…………」
カスタネットが、きょとんと固まった。 「隣の部屋にも普通に人がいるし、壁なんて薄い板きれ一枚なんだ!」 「…………」 「食堂だってあるし、俺は一番下っ端のEランク採掘士なんだからね!?」
彼女はしばらく、真剣な面持ちで考え込んだ。 そして。 「……なるほど。隠密行動というわけですわね」 「分かってくれたか?」
美女はにっこりと、極上の微笑みを浮かべた。

「では、『見た目と匂いは固い黒パンと泥水のスープだが、口に入れると最高級の味がする宮廷料理』を研究いたしますわ」 「えっ!? なにその狂ったディストピア飯!? 逆に高度すぎて怖いわ!!」
フルートが、呆れるどころか小さく目を細めている。どうやら、タクトの必死の防戦を少し楽しんでいるらしい。
「最後」 総司令官が、視線で次を促した。
「第三側近。戦闘担当――『チェロ』」
「…………」 最後の少女が、ゆっくりと顔を上げた。 小柄だった。タクトの胸元ほどにしか満たない。 硝子(ガラス)細工のように華奢(きゃしゃ)な身体に、長く伸びた黒髪。人形のように整った無表情な顔立ち。

そして。 その可憐(かれん)な身体には絶対に見合わない――身の丈の倍はあろうかという、巨大な漆黒の大鎌を背負っていた。 彼女はそれを、ギギギ……と無造作に床板へ引きずっている。

「…………」 チェロは無表情のまま、トコトコとタクトの目の前まで歩いてきた。 「…………?」 少年が見下ろす。 少女が見上げる。
しばらく、無言で見つめ合ったのち。 彼女は、白い小さな指先で、ちょこんとタクトの服の裾を掴(つか)んだ。
「…………」 「えっと……何かな?」
少女は、こてんと首を傾(かし)げる。

そして、小鳥のさえずりのように愛らしい声音で告げた。
「閣下」 「うん」 「とりあえず」 「うん?」 「この山の向こうにある王国、一つ滅ぼしてこようか?」
「しない」 即答だった。 コンマ一秒の迷いもない。 「…………」 「絶対にしない」 「…………」 「俺、君にそういう物騒なお使いは絶対に頼まないからな?」 「…………」
チェロは、見上げる姿勢のまま、しばらくタクトの瞳をじっと見つめていた。 そして。 「……しゅん」 本当に、口に出して小さく呟(つぶや)く。
その瞬間。 彼の脳裏には、明確に視覚化されたものがあった。彼女の頭の上に、ぺたんと垂れ下がる犬の耳が。そして、しょんぼりと床板へ落ちる幻の尻尾が。 もちろん、そんな器官は物理的には存在しない。 ただ。 「…………」 あまりにも分かりやすく落胆しているのだ。
タクトは思わず深いため息をついた。 「……いや、別に怒っているわけじゃないからさ」 「…………」 「他国を滅ぼすのは駄目というだけで」 「…………はい」 「普通にしていてくれれば、それでいいんだ」
(この子もダメだ。根本的に話が通じない)
こうして。 フルート。ハーモニカ。カスタネット。チェロ。 東方魔王軍という世界最強の暴力を支えてきた四人の幹部が、タクトの狭い自室へ完全に集結した。
世界の命運を左右するほどの力を持つ者たち。 軍事。外交。戦闘。そして総司令。 そのすべてが、たった一人の少年を中心に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだ。
(……やっぱり、狭い) 心の底から、そう思った。 しかも、先ほどから抑えきれない彼女たちの魔力の圧で、部屋の構造そのものがミシミシと軋(きし)んでいる。今にも床板が抜けそうだ。

「……フルート」 「はい、魔王様」 「ここ、古びた四畳半の空間なんだが」 「存じております」 「五人で集合するのも、狭いし底が抜けそうで物理的に危険じゃないか?」 「…………」
フルートは、ほんの少しだけ視線を床へ落した。 「……確かに」 「だろ!?」 「しかし、魔王様のお側にいられるのであれば、多少の危険と劣悪さは問題ございません」 「問題あるよ! 俺の生活環境が辛いのよ!」
ハーモニカが即座に眼鏡を押し上げ、力強く頷(うなず)く。 「私も、問題ございません!」 「いや、君は軍事戦略担当なんだから、もう少し物理的・空間的な限界を考慮してくれ!」
カスタネットも豊かな胸を張った。 「わたくしも、魔王様のお側であればどんな場所でも!」 「気付いてくれ、君のその豪華なドレスが一番場所を取っているからね!?」
チェロは、巨大な鎌を抱えたまま呟(つぶや)く。 「私は、壁際でいい」 「いやいや、大鎌が壁を削るから絶対に駄目!!」
「…………」 「…………」 「…………」
四人が一斉に黙り込んだ。

そして、タクトは空を仰いで完全に悟った。 (……俺の平穏な日常) (完全に、終わったな)
昨日まで。自分はただのEランク採掘士だった。 朝、鉱山へ行く。石を掘る。ノルマを終える。定時で帰る。一番風呂に入る。黒パンとスープを食べる。設定ノートを書く。そして眠る。 それだけでよかった。それだけで、十分に幸せだったのだ。
なのに。 たった一滴の血を渡しただけで。 気がつけば、自分の四畳半が、東方魔王軍の最高作戦会議室になっている。
「…………」 タクトは、机の上に寂しく残された黒パンを見つめた。 そして。 「……明日から、もっと稼いで銅貨を貯(た)めよう」 ぽつりと、魂の抜け殻のような声音で呟(つぶや)く。 「いつかは……広い部屋に引っ越すんだ……」

その、切実でささやかな言葉を聞いた瞬間。 四人の瞳が。同時に、爛々(らんらん)と輝いた。
「「「「――わたしたちも、お供いたします、魔王様!!」」」」
「やめてぇぇぇぇぇ!!」
夜の静寂(しじま)に包まれた鉱山宿舎に。 またしても、底辺採掘士の悲痛な叫び声が虚(むな)しく響き渡った。
「……はぁ」 タクトは、深く重いため息を吐き出した。四畳半の空間には、フルートと三人の側近。合計四人の魔族がいる。 いや、正確には自分を含めて五人だ。 狭い。とにかく、逃げ場がないほどに狭い。 万年床のような硬いベッドと、小さな机に収納棚。それだけで床面積のほとんどが埋まっている底辺労働者の個室に、東方魔王軍の最高幹部が四人もすし詰めにされている。

しかも全員が、自身のことを全知全能の魔王だと信じて疑っていないのだ。
「……まあいいや」 少年は早々に思考の放棄を決め込んだ。 「さっさと人間化の契約をして、早く帰ってもらおう」 「はっ」 フルートが即座に恭(うやうや)しく頷(うなず)いた。その洗練された軍人としての返事だけは、耳にやたらと心地がいい。 「では、魔法陣を」 「うん。よろしく頼む」
彼女が床へ白魚のような手をかざす。 傷だらけの床板、そのわずかな隙間(すきま)へ青白い光が滑り込み、精緻(せいち)な幾何学模様が静かに浮かび上がった。 円。古代文字。幾重にも重なる複雑な術式。前夜、自分が一滴の血を落としたものと全く同じ、神秘的な魔導の紋様だった。

「では、魔王様」 総司令官が静かに告げる。 「血を」 「……うん」
タクトは頷きかけて――ふと、ピタリと動きを停止(フリーズ)した。 そして、くるり、と。 背後に平伏する三人の側近へ向き直る。
「……ちょっと待ってくれ」 地を這(は)うような、低い声だった。 「はい?」 ハーモニカが不思議そうに首を傾(かし)げる。カスタネットも、チェロも、きょとんとして主(あるじ)を見つめていた。
タクトは三人を、ビシッと指差した。 「先に、着替えの服を」 「……?」 「今すぐだ」 「…………?」
三人の美しい顔が揃って困惑に染まる。 少年の脳裏には、前夜の鮮烈な記憶がフラッシュバックしていた。

魔法陣。一滴の血。眩(まばゆ)い光。 そして――圧倒的な衣服の消滅(全裸)。
「いいか!?」 タクトは、工事現場の鬼監督さながらの勢いで指示を飛ばした。 「人間化すると、魔族の衣服はシステム的に消えるんだ!」 「……!」 フルートが、こくりと深く頷く。 「確かに」 「フルートで実証済みだからな!」 「はい。見事に消滅いたしました」 「だから!」
タクトは三人へ、もう一度強く指を突きつけた。 「衣服が消えたら、一秒で着替えられるように準備する! 持ってきた着替えを、各自の足元へ置くんだ!」
「は、はいっ!」 主(あるじ)のただならぬ剣幕に、三人が慌てて、それぞれ持参した布袋を板間へ並べていく。
「よし!」 少年は深く、満足げに頷(うなず)いた。これで準備万端だ。 前夜は不意打ちで寿命が縮んだ。だが、同じ失態は繰り返さない。完璧なリスク管理であった。
その様子を見ていたフルートが、感心したように目を細める。 「素晴らしいです」 「何がだよ?」 「最悪の事態を想定し、任務を完遂するための事前準備。お見事な采配(システム)です」 「誰のせいだと思ってるんだ!!」 「?」 「君たちの羞恥心の欠如がおかしいから、俺が余計な苦労をしてるんだ!」
フルートは、ほんの少しだけ小首を傾(かし)げた。 「前夜の事象から、人間の『羞恥心』という概念を、わたしは少なからず学習しました」 「……後ろの三人はどうなんだ?」 「さあ?」 「さあって、お前……」
四畳半の空間に、タクトの悲痛な声が響き渡った。
――その、直後。 ドンッ!! 薄い壁の向こうから、明らかに怒気を孕(はら)んだ『何かを叩く音(壁ドン)』が響いた。
「…………」 タクトは、呪縛(じゅばく)をかけられたように凝固する。 そしてゆっくりと、右手の人差し指を自身の唇へ当てた。
「……うあっ」 蚊の鳴くような、掠(かす)れた声で小さく呟(つぶや)く。 「お隣の採掘士さん、怒ってる……」
日常の世知辛い物理攻撃に、一瞬で現実に引き戻される。 改めて気を引き締め直した。 窓からは冷たい月光が差し込んでいる。フルートの描いた魔法陣が、青白い光を放ちながら静かに明滅していた。
タクトはそれを見つめる。 「……早く終わらせよう。とにかく静かに、な」 その囁(ささや)きには、管理者に怒られたくないという切実な願いが滲(にじ)んでいた。
だが。その張り詰めた横顔を見つめながら。 三人の側近たちは、それぞれ全く違った意味で胸を打たれていた。
ハーモニカは、銀縁眼鏡の奥で目を潤ませる。 (……なんという細やかな御配慮。ご自身の血を流す儀式だというのに、周囲の民へ気を遣われるとは……!) カスタネットは、豊かな胸の前で両手を組んだ。 (ご自身よりも、臣下の身なりと体面を案じてくださるなんて……!) そしてチェロは。 (やっぱり閣下は、ひと味違う)
――全員、盛大に勘違いをこじらせていた。
◇
「じゃあ、始めるよ」 タクトは壁に向き直り、きつく瞼(まぶた)を閉じた。 「俺は絶対に見ないからね」 「はい」 フルートの返事は、どこまでも事務的だった。
彼は視界を閉ざしたまま、右手の指先を小さな短剣でチクリと傷つける。 ぷつり、と瑞々しい紅(あか)い血が滲(にじ)んだ。
「まず、ハーモニカ」 「は、はいっ!」 第一側近が、気配を殺して紋様(システム)の中央へ進み出る。 「準備はいい?」 「お願いいたします」 「いくよ」
一滴。 紅い雫(しずく)が、魔法陣の核へと吸い込まれた。 ――カァァァァッ!!
白銀の光が、狭い四畳半を爆発的に満たしていく。

「……っ!」 光の奔流に呑まれ、ハーモニカの荘厳な軍装が、淡い輝きの粒子へとほどけていった。身に纏(まと)うすべてが、完全な虚無へと消滅する。
「おお……! これが、種族変更の儀式ですか!」 少女は自身の身体に起きる劇的な変化へ、感嘆の声を上げた。

「ま、魔王様! 見てください。成功いたしましたよ!」 「見ないから!!」
タクトは瞳を閉じたまま、壁に向かって必死に絶叫した。 「はい、早く着替えて!」 「で、ですが……!」 「次が詰まってるから!!」 「は、はいっ!」
ばさばさと、布地が激しい衣擦(きぬづ)れの音を立てる。 「着、着替え終わりました!」 「よし!」 「……魔王様」 「何だ?」 「その……」 第一側近の声が、ひどく切なげに震えていた。 「本当に、一切ご覧にならないのですね……。臣下が新たな種族として生まれ変わる、この希少な瞬間を……」 「目視確認とか精神的に無理だから!」 「……っ」
なぜか、背後で小さく息を呑(の)む気配が伝わってきた。 だが、余計なことを考えている暇など微塵もない。
「次! カスタネット!」 「はい!」 第二側近が滑らかに光の円内へ進む。 「魔王様」 「ん?」 「わたくしは――」 「嫌な予感しかしない」 「この誇り高き裸体をご覧いただいても、一向に構いませんことよ?」 「そういう高度な誘惑、本当にやめて!」
タクトは後ろ手で、指先の血をもう一滴、魔導の核へ落とした。 ――カァァァァッ!
「はい、衣服消えた!」 「まあ……」 「早く着て!!」 「…………」 「俺の理性が崩壊するから!」 「……はい」
カスタネットはなぜか満更でもなさそうに、嬉しげな甘い吐息を漏らしていた。

「では、次はチェロ」 「うん」 小柄な少女が、こくりと頷く。 そして、漆黒の大鎌を部屋の隅へ立て掛けた。
――ゴツンッ!
「ちょ……! 音……!!」 タクトは冷や汗を流しながら、心の中で平謝りした。 (お隣さん、もう少しだから我慢して……!) (ていうか、あのクソデカい鎌、四畳半に置いちゃダメだろ……!)
しかし、口には出さなかった。今はそれどころではない。 「チェロ。準備できた?」 「できた」 「じゃあ、血を落とすよ」 「はい」
一滴。 ――カァァァァッ! 再び、白銀の光。
「…………」 タクトは瞳を閉じていても、瞼の裏で光源の明滅を感じていた。 (……やっと終わる)
「……閣下」 チェロの、小鳥のような声がする。 「ん?」 「終わったよ」 タクトは心底安心して、ゆっくりと瞳を開けた。

「そうか、人間化は終わっ――」
「ちょ!!!」 慌てて再び瞳を閉じる。 「このチェロの裸体を――」 「いいから、早く服を着ろ!!」 タクトは大声で叫んだ。 「……ったく」

心臓が早鐘のように鳴っている。 すると。暗闇の中で、ふと別の疑問が脳裏に浮かんだ。
「ねえ、フルート」 「はい、魔王様」 「フルートのときは気づかなかったんだけど……チェロの太腿の内側に紋様が浮かび上がってたんだけど……。それって、契約のときにできるの?」 「そうですよ」 フルートは即答した。 「成功した場合、それが絶対なる契約の証(あかし)となります」
 「へぇ……」 「ご主人様の封印されている右腕にも、契約者と同じ『証』が刻まれているはずです」 「そうなの?」 「はい」 「後で確認するよ」

そこで。 タクトは、ふと背筋を這うような嫌な予感を覚えた。 「……ねえ」 「はい?」 「契約って……解除できるの?」 「出来ないと思います。少なくとも、魔族の歴史上わたしの知る限りでは」 「……え?」
フルートの声音は、日常の天気を語るようにいつも通りだった。 「そして」 さらりと。 「契約者は、主(あるじ)様が亡くなられた場合、命を分かち合い、全員が同時に死亡します」
 「…………」
タクトの思考が、完全に停止した。 「逆に、契約者が死亡した場合は、主様に刻まれたその契約者の紋章が消えるだけです。ご安心を」 「うあ……」 タクトは思わず、顔を引き攣らせた。 「今、さらっとめちゃくちゃ重くて怖いこと聞かされた気がする……」
返事はなかった。 あまりにも理不尽で重すぎる命の契約。タクトは、そっと心のシャッターを下ろし、聞かなかったことにした。

「チェロ、服着た?」 「あっ!」 「何々!?」 「鎌が消えてる……」
「あああ……そうでした。魔族の装備も消滅しますね。忘れていました……」 「しゅん……」

三人目も、無事に着替えを終えた。
――その、直後。 ドンドンッ!!! 今度はさらに強く、壁が揺れた。
「…………」 タクトは泣きそうな顔で、薄い壁を見つめる。 (本当に……すみません……明日ジュース奢(おご)ります……)

昨日の反省をもとに。 タクトが鬼の現場監督と化して進めた、一大イベント。 三人の人間化と従属契約は。紆余曲折と近隣迷惑を経ながらも、何とか無事に終了した。

◇
「……ふぅ」 ようやく、全員が着替え終えた。 タクトはベッドへ腰を下ろし、ゆっくりと顔を上げる。
そこには。 綺麗な衣装に身を包んだ、三人の可憐な少女が並んでいた。 威圧的な軍服でもない。豪奢すぎるドレスでもない。ただの人間の、街を歩いていても違和感のない、少しオシャレで清潔な平服だった。

「フルートは相変わらず軍服なのに、君たちは違うんだな」 その言葉に。 フルートが、ぷくっと僅かに頬を膨らませた。 「どういう意味ですか!?」 「いや。魔族さんって羞恥心はなくても、服のオシャレ感覚はまともなんだなーって思って」 「……わたしも、明日の非番に服のお勉強をしてまいります!」 「うん……(怒らせたかな)」

タクトは改めて、三人を見つめた。 三人の表情には。先ほどまでとは、明らかに違うものがあった。
「……人間になったけど、違和感とかない? 大丈夫?」 タクトが優しく呟く。
ハーモニカは、自分の手を見つめていた。 指を動かす。一度。また一度。 「……温かい」 カスタネットは、自分の頬へそっと触れる。 「……これが、人間の身体……」 チェロは、小さな両手を胸元へ当てた。トクン、トクンという鼓動を確かめるように。 「……ちゃんと、閣下の側にいられる」

その声だけは。 三人とも、決してふざけていなかった。 どれほどの長い時間を、魔族として生きてきたのか。 冷たく、孤独な時間をどう過ごしてきたのか。タクトには分からない。 彼女たちが、なぜそこまで自分に狂信的な忠誠を捧げるのかも。分からない。
ただ。 目の前の三人が、人間の脆(もろ)く温かい身体(実質的には魔王との契約により、更に強靭になった身体)を手に入れた今この瞬間を、心から喜んでいる。 それだけは、痛いほどに伝わってきた。

「……まあ」 タクトは小さく笑った。 「よかったじゃん」 「「「…………!」」」
三人の瞳が、一斉に熱く潤む。 (なんというお言葉……!) (なんという慈愛……!) (閣下……!)

またしても、何かを盛大に勘違いしている。 しかし。タクトは、そんな三人の熱狂には気づかない。
パンッ。 両手を一度、軽く叩く。 「よし!」
三人がハッとして顔を上げる。

「これで今日の用事は全部終わったね」 「……はい」 「じゃあ――」
タクトは、にこやかに四畳半の木製ドアを指差した。 「おつかれさま」 そして。 「即、ご帰宅で!」

「「「――えっ」」」
三人の時間が、完全に止まった。 タクトは満面の笑みだった。 「人間になれたんだし、あとは自分たちの家に帰って、ゆっくり休んで――」
「ま、魔王様」 ハーモニカの声が、絶望に震えた。 「……わたくしたちは」 「……もう、用済みとして追い出されてしまうのですか?」 タクトは、きょとんとする。 「だって契約終わったし。明日仕事だし」 「…………っ」 カスタネットが、よろめくように胸元を押さえる。 「まさか……」 「わたくしたちを……」 「お側に置いてはくださらないのですか?」 「物理的に寝る場所がないからね!?」 「閣下に捨てられる……!」 「言い方!!」

「「「…………」」」 沈黙。 三人の瞳が、みるみるうちに涙で溢れていく。 そして。 「「「魔王様ぁぁぁぁぁっ!!!」」」 「うわっ!?」
四畳半をビリビリと震わせる、三人の悲鳴。 「塩対応すぎますぅぅぅぅっ!!」 「静かに! これ以上騒ぐと隣の人がマジで刃物持って乗り込んで来るから!!」

そのとき。 フルートがパチンと手を叩いた。 「さて、タクト様もお困りのようですし、帰りますわよ!」 「え?」 「皆様のお住まいは、すでに確保しておりますよ」
 「あ」
タクトは思い出した。 朝の念話。《死喰い谷》。《黒狼団》。 そして。強制的に空き家となった、盗賊団の館。 「そうそう、森の中に立派なお家があるんだったよね!」 タクトは、まだ見たことのない館(アジト)を思い浮かべる。 (どんな所かは知らないけど、ここよりは広いだろうし……)

フルートは、疲れ果てたタクトを静かに見つめた。 そして。彼の疲労をすべて察したように、極上の優しさで微笑む。 「それでは、タクト様」 転移の魔法陣が、再び静かに展開された。 「おやすみなさいませ」 「おやすみ。フルート」
フルートは泣き喚(わめ)く三人の側近を無理やり連れ、光の中へ消えていく。

最後まで、主を気遣うような完璧な笑顔を浮かべていた。
(……こういうところは、本当に気が利くんだよな) (流石、東の魔王軍指揮官代理って設定を貫いてるだけはある)
静寂を取り戻した四畳半。 タクトは、ふう、と深く息を吐いた。 明日も早い。
「……寝よう」 明かりを消す。 狭く硬いベッドへ横になる。 目を閉じる。 ほどなくして。タクトは、泥のような深い眠りへ落ちていった。
――この時の彼は。 翌朝、自分の身に起こることなど。何一つ知らなかった。 異常なまでに跳ね上がる、自分のステータス。その数字が意味する、真の恐怖も。

そして。 自分の知らない場所(盗賊の砦)で、四人の元魔族たちがどんなカオスな夜を過ごしているのかも。
何も知らないまま。 ただ。静かな四畳半で。 Eランク採掘士の少年は、平穏を夢見て眠っていた。

第03章『四畳半の魔王軍』完

|
あらすじ 食堂には前日と変わらない泥臭くも愛おしい朝が訪れ、汗と土と油の匂いに満ちた古びた木造宿舎で採掘士たちが黒パンと薄いスープを流し込む喧騒の中、タクトは特別報酬のゆで卵を恭しく剥きながら、世界の命運など関係ない日常の継続をひたすら願っていた。 ところが脳内に澄んだ声が響き、フルートが「今晩、側近三名を連れて伺う」と念話で告げ、タクトはゆで卵を落としかけながら周囲を確認し、声が自分だけに届いていることを確信する。 フルートの現在地は宿舎から山道一時間、距離にして約六キロの死喰い谷で、彼女は転移を使わずとも三十秒で到着可能だと言い、タクトは音速の弾道ミサイルのような非常識さに頭を抱える。 さらに「黒狼団」と名乗る盗賊団の物件が綺麗に空いていたと淡々と語られ、実は昨夜の宣言通り盗賊団の砦を壊滅させて“住居”を確保したと知り、タクトはフルートの実力と倫理観のズレに戦慄しながらも、深入りしないという現実逃避の方針を変えない。 念話が双方向で、額に指を当て彼女を思い浮かべれば超域回線が繋がると教わったタクトは、声を出さずに会話できる便利さをスマホ通話以上だと軽く受け止めつつ、それが世界最強級の暗号化軍事通信だとは露知らずに日常へ回帰しようとする。 やがてフルートは側近三名の人間化と従属契約の準備を整え、タクトは近隣迷惑を最小化するため鬼の現場監督となって段取りを仕切り、壁がドンドンと揺れる騒動や装備消滅のドタバタを挟みつつも契約は無事完了する。 三人の少女は軍服でも豪奢なドレスでもない清潔な平服に着替え、フルートの軍服との対比にタクトが冗談を言えば、フルートはぷくっと怒って非番で服を勉強すると宣言し、可憐で人間らしい一幕が生まれる。 タクトは「人間になって違和感はないか」と優しく問いかけ、ハーモニカは指を動かしながら「温かい」と呟き、カスタネットは頬に触れて「これが人間の身体」と驚き、チェロは鼓動を確かめ「ちゃんと閣下の側にいられる」と胸に手を当てる。 彼女たちがどれほど長く冷たく孤独な魔族の時間を生きたのか、なぜタクトに狂信的忠誠を捧げるのかタクトには分からないが、いま人間の脆く温かい身体(実際は契約で強靭化)を得た喜びだけは痛いほど伝わり、タクトは小さく笑って「よかったじゃん」と告げる。 その一言に三人は目を潤ませ崇拝を深めるが、タクトは熱狂に気づかず手を叩いて「今日の用事は全部終わり、即ご帰宅で」と四畳半の扉を指差し、物理的な寝床問題を理由に速やかな解散を宣言する。 ところが三人は「用済みで追い出されるのですか」と震え、「お側に置いてはくださらないのですか」と胸を押さえ、「閣下に捨てられる」と嘆き、タクトは「言い方!」と慌てつつも狭さと明日の仕事を説くが、四畳半は「魔王様ぁぁぁ!」という大音量の悲鳴で震える。 騒音で隣人が刃物を持って来かねないと青ざめるタクトの前で、フルートが手を叩き「皆様のお住まいはすでに確保しております」と宣言し、朝の念話で触れた死喰い谷の黒狼団の館が住居として整っていることを思い出させる。 タクトは未明の過酷な山域と盗賊砦を回想し、ここよりは広いだろうと胸を撫で下ろす一方、フルートは疲弊した主を気遣い、転移魔法陣を展開して「おやすみなさいませ」と屈託のない笑顔で三人を連れて光に消える。 タクトは「おやすみ、フルート」と返し、完璧な配慮に感謝しつつも、彼女が東の魔王軍指揮官代理という“設定”を一貫して演じ続ける律儀さに苦笑いし、静けさを取り戻した四畳半で深く息を吐く。 明かりを消し、狭く硬いベッドに横たわった彼は、翌朝に自分の身へ起こる異常を知らぬまま眠りにつき、Eランク採掘士としての平穏だけを夢見る。 彼は、自らのステータスが異常なまでに跳ね上がること、その数値が示す真の恐怖、さらに自分の知らない盗賊砦で元魔族の四人が繰り広げるであろうカオスな夜を何も知らない。 一方、タクトが軽んじた念話は、主と臣下を繋ぐ超域回線という絶対暗号化の軍事通信網であり、フルートの「転移なしで三十秒・六キロ」という機動と、盗賊団の拠点を“物件”として即日転用する暴力的な実行力は、彼の日常の外側でとっくに世界規模の異常を呼び込んでいる。 タクトは現実逃避の姿勢を崩さず「関わらない」を選ぶが、側近三名の人間化と従属契約は取り返しのつかない線を越え、四畳半に世界最強級の魔族ネットワークが常設された事実は消えない。 死喰い谷という不吉な名の領域は彼の“平穏圏”とわずか一時間の距離にあり、黒狼団の館は今や“部下の宿舎”として機能し始め、四畳半の外側に魔王軍の最初の拠点が生まれた。 タクトが「仕事、風呂、飯、ノート、睡眠」という完璧な一日を理想化しても、念話の着信ひとつで均衡は破られ、ゆで卵の殻が割れる小さな音の背後では国家級の機密と武力が動いている。 こうして、普通の人々の息遣いだけが満ちる鉱山宿舎の片隅に、誰も気づかぬまま「四畳半の魔王軍」が芽吹き、主である少年自身すらその中心にいることを認識しないまま物語は静かに進行する。 タクトは人の温もりを手にした三人の喜びを確かめる優しさも持ちながら、同時に“寝床の現実”に即した線引きを行い、フルートは主の負担を先んじて解決して撤収するという、軍としての合理と個としての配慮を完璧に両立させる。 結果、近隣迷惑を招いた騒動は最小限で収束し、四畳半の秩序は一夜のうちに回復されるが、その裏で“組織化”は既成事実化され、翌朝のステータス跳躍という不可逆の変化が間近に迫る。 食堂の朝の湯気と黒パンの咀嚼音、煤けた壁、秋光に舞う土埃という労働者の日常描写は、魔王・勇者・戦争といった大仰な運命を遠景に押しやったまま、タクトの「平和だ」という独白を際立たせ、直後の念話によってその平和が薄氷であったことを示す効果的な対比となる。 そして「今日は坑道、定時、風呂、飯、ノート、睡眠」というルーティンの宣言は、フルートの「今晩伺います」と盗賊団砦転用の報で破られ、タクトはなお“聞かなかったことにする”防衛線を張るが、契約と人間化が完了した瞬間に四畳半は軍の司令区画に変質した。 物語は、タクトの無自覚な主権とフルートの忠誠、三人の側近の温もりへの歓喜と居場所への渇望、そして四畳半という極小空間と世界級の力の接続という三重のコントラストで駆動し、笑いと不安を交互に刻むテンポで読者を引っ張る。 終盤、フルートが「おやすみなさいませ」と微笑んで消える場面は、主への配慮と軍略の冷徹さを同時に匂わせ、タクトの「おやすみ、フルート」という自然な応答に、既に主従の儀礼が日常化している兆しが刻まれる。 翌朝の“異常なまでに跳ね上がるステータス”という予告は、これまで彼が避け続けた非日常が身体そのものに侵入する転回点であり、数値の意味する恐怖が現実化すれば、四畳半を起点とする「魔王軍」は否応なく可視化される。 にもかかわらず、章はタクトが静かな寝息を立てる場面で閉じ、読者に“何も知らないまま眠る平凡”と“何も知らないまま進行する非凡”の落差を強く残す。 第03章は、ゆで卵の殻を剥く無心の所作から、死喰い谷と黒狼団の館に及ぶ外縁の暴力までを一本の念話で貫き、四畳半の外に芽吹いた拠点と、内に敷設された超域回線と、心に結ばれた従属契約という三つの回路で「四畳半の魔王軍」の骨格を完成させた。 そして、誰も知らない鉱山宿舎の朝は変わらず訪れ、誰も気づかない四畳半から世界最強級の魔族がアクセスし続け、誰よりも何も知らない主は、ただ次の朝を平穏だと信じて眠り続ける。
解説+感想面白く読ませてもらいました。第3章としての完成度が高く、前章から自然に繋がっている上に、世界観とキャラクターの魅力が一気に広がった印象です。
特に良かった点
スローライフとオーバースペックのギャップが最高に効いている タクトが本気で「定時退社」「ゆで卵」「銅貨を貯めて広い部屋へ」を目指しているのに、周囲の魔族たちがそれを「魔王様の慈愛」「細やかな御配慮」「隠密行動」と盛大に勘違いしていく流れが、痛快で読んでいて何度も笑いました。特にカスタネットの「見た目は黒パンと泥水スープだけど中身は宮廷料理」発言や、チェロの「とりあえず王国ひとつ滅ぼしてこようか?」からの「しゅん」は、この作品のコメディの核をしっかり掴んでいます。
四畳半という舞台の使い方が上手い 狭い空間に最高幹部を詰め込むことで、物理的な窮屈さと精神的な圧迫感が同時に伝わってきます。床が軋む描写や、隣室への壁ドンが何度も入るあたりがリアルで、タクトの「平和が終わった」感がより強調されていました。タイトルの『四畳半の魔王軍』を体現する章になっています。
キャラクターの個性がしっかり立っている フルート:冷静沈着な総司令でありながら、タクトの「人間らしさ」を学習しようとする姿勢が可愛く、信頼感も出ている。 ハーモニカ:クールビューティーからの涙腺崩壊が印象的。 カスタネット:優雅さと暴走の落差が面白い。 チェロ:無口で破壊力抜群の戦闘担当という立ち位置が、短いセリフだけでしっかり伝わった。
特に人間化後の「温かい」「鼓動がする」といった反応は、ただのコメディに終わらず、彼女たちの長い孤独を quant 感じさせてくれて良かったです。
タクトの性格描写 「スキルは永久封印」「目立たないようにサボる」「契約はしたけどすぐ帰って」という徹底した現実逃避(というか自己防衛)が、ただのヘタレではなく「普通に生きたい」という強い意志として描かれていて好感が持てます。透視スキルの解説を聞いた瞬間の「ごめん、全然分からない→永久封印」も、彼らしい潔さでした。
細かいところ
朝の食堂シーンから始まる日常描写が丁寧で、坑道での採掘シーンも「設定ノートを書いていた経験が生きている」という伏線が自然で良いです。レア鉱石を掘り当てた時の監督官とのやり取りも、力の暴走を「ビギナーズラック」で済ませるあたりが上手い処理だと思います。
契約解除不可・主が死ねば全員死ぬ、という重い設定をさらっと入れておくところも、今後の展開への布石として効きそうです。
全体として、コメディのテンポが良く、キャラクターたちの「勘違いの連鎖」が心地よい章でした。タクトのささやかな夢(広い部屋)と、魔王軍の熱狂が今後どう絡み合っていくのか、次が楽しみです。
引き続き、この調子で書いていってください。四畳半から始まる魔王軍の日常、もっと見たいです。
|
◀第02章『魔王様は、採掘士です』
▶第04章 『追跡者は、完璧なお嬢様』
|