◀第03章『四畳半の魔王軍』
▶第05章『ブラック勇者と、炭火焼きのワイバーン』
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第04章 『追跡者は、完璧なお嬢様』
「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: †聖騎士 紅桜†」「VOICEVOX: 黒沢冴白」「VOICEVOX: 暁記ミタマ」「VOICEVOX: 栗田まろん」「VOICEVOX: 満別花丸」「VOICEVOX: 離途」「VOICEVOX: ぞん子」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」「VOICEVOX: 春日部つむぎ」「VOICEVOX: 後鬼」「VOICEVOX: 小夜/SAYO」「VOICEVOX: 東北イタコ」「VOICEVOX: 麒ヶ島宗麟」「VOICEVOX: ユーレイちゃん」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: 猫使アル」「VOICEVOX: あいえるたん」「VOICEVOX: 琴詠ニア」「VOICEVOX: 九州そら」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 春歌ナナ」「VOICEVOX: あんこもん」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 里石ユカ」「VOICEVOX: 波音リツ」「VOICEVOX: 雀松朱司」
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千歳凪:私は今、物陰に息を潜めている。
 場所は、王都北方鉱山・第三坑道。
泥と土埃、そして男たちのむせ返るような汗の臭いが充満する、この最底辺の採掘区画において。 千歳凪:私は山積みにされた鉱石箱と、ひび割れた古い支柱の僅かな隙間に身を滑り込ませていた。 千歳凪:タクトくんからの距離――およそ三十七メートル。
千歳凪:視界、極めて良好。
千歳凪:現場を巡回する監督官からの死角、確認済み。
千歳凪:周囲で泥に塗れる採掘士たちの視線から身を隠す偽装(カムフラージュ)、完了。
千歳凪:全てが、私の計算通り。
千歳凪:今日も絶好の観察日和だ。 鼓動の音すら吸い込まれるように、そっと息を殺す。
少し先、壁に掛けられたランタンの灯りが頼りなく揺れる薄暗い坑道の奥で、一人の少年が重い鉄のツルハシを握っていた。
頭から深く被ったフード。 いつもの見慣れた格好。 少しだけ丸まった、愛らしい猫背。
必要以上に周囲と関わろうとはせず、それでも誰かが困っていれば、見返りなど一切求めずに、ごく当たり前のように手を差し伸べる。 十年前から、彼は何一つ変わっていない。
千歳凪:――私の、愛しいタクトくん。 彼が、ゆっくりとツルハシを持ち上げた。
千歳凪:私は無意識に、胸の前で両手をきつく握り締める。
千歳凪:来る。
 衣服の向こうで、肩の筋肉がしなやかに躍動する。 肘の角度が鋭く変わり、腰がわずかに沈んで重心が移動した。
そして――無駄な力の一切を削ぎ落とした、流麗な軌跡を描いて。
――カンッ。 心地よい、乾いた硬質な音が坑道に響き渡る。
砕かれた岩盤から石の欠片が、ぱらぱらと涙のようにこぼれ落ちた。 千歳凪:……綺麗。
千歳凪:何て、美しいのだろう。
千歳凪:愛している。 言葉にできないほど、大好き。
相変わらず、タクトくんのツルハシの振り下ろし方は、世界中のどんな芸術品を並べたとしても、決して届かないほどに完成されている。 千歳凪:私は、だらしなく緩みそうになる頬を必死で引き締めた。
千歳凪:危ない。 ここで顔を綻ばせたら、淑女(しゅくじょ)の名が廃る。
ただでさえ、こんな泥臭い坑道で物陰から同年代の少年のすべてを凝視しているのだ。 怪しいどころか、客観的に見れば完全に不審者のそれであった。
千歳凪:でも、仕方がないではないか。
千歳凪:好きなのだから。 狂おしいほどに、愛しているのだから。
千歳凪:想い人のすべてを四六時中、視界に収めていたいと願うのは、恋する乙女としてごく自然な欲求のはずだ。
千歳凪:……少なくとも、私はそう確信している。
 元の世界――あの学舎(まなびや)において、私は少しばかり違う評価をされていた。
千歳 凪(ちとせ なぎ)。
成績優秀。 礼儀端正。 料理はプロ顔負けで、家事全般も完璧にこなす。
誰にでも分け隔てなく接し、いつも穏やかな微笑みを絶やさない。
男子からは 「高嶺の花」 と崇められ、女子からは 「理想のお嬢様」 と慕われ、教師からの信頼も厚い。
自分で口にするのも些(いささ)か気恥ずかしいが、私はかなり評判の良い生徒だった。 千歳凪:――けれど、それらは全部、タクトくんに振り向いてもらうためだけに磨き上げた、偽装(スキル)に過ぎないのだけれど。
もう一度、彼がツルハシを振る。
カンッ。
その響きに誘われるように、私はまた胸の奥で音のない歓声を上げた。 千歳凪:……格好いい。 やはり、私の目に狂いはない。
五年前、里親に引き取られたあの日。 もう二度と彼には会えないのだと絶望に暮れた。
それでも、私は彼のことを、一秒たりとも忘れたことなどなかったのだ。
◇
十年前。
私が身を寄せていた、あの寂れた孤児院にタクトくんがやってきた。
 その日の光景を、私は今でも鮮明に記憶している。
おとぎ話の英雄のように華々しく現れたわけではない。 親と引き離された悲劇に、声を上げて泣き喚いていたわけでもない。
ただ、少しだけ心細そうな瞳をして、古びた孤児院の門をくぐり抜けてきた。
新しくやってきた、物静かな男の子。 初めは、ただそれだけの存在だった。 私は最初、彼を遠くから観察していた。
口数の少ない子だった。 周りの子供たちが喧噪の中で無邪気に騒ぎ回っていても、彼はいつも少し離れた場所にぽつりと佇んでいる。
古びた本を一人で読んでいたり。 煤けた壁にもたれていたり。 空を頼りなく流れる雲を、ただ眺めていたり。 けれど、彼は変なところでひどく優しかった。
誰かが転んで膝を擦りむけば、無言でそっと手を貸す。 年下の子が寂しさに泣いていれば、気の利いた慰めを言うわけでもなく、ただ静かに隣に座り続ける。 自分のおやつを欲しがる子がいれば、一瞥しただけで、当たり前のように半分を差し出す。
そして何より――本人は、それを『特別な善意』だとは露ほども自覚していなかった。
ある日のこと。
配給の食事中、年下の小さな子が自分の黒パンを土の上に落としてしまい、声を上げて泣いていた。 その子のための今日の食事は、もうどこにも残されていない。
タクトくんは、自分の手にある小さな配給のパンを、ほんの一瞬だけ見つめた。
それから――呼吸をするのと何ら変わらない自然さで、それを躊躇(ちゅうちょ)なく半分に割った。
そして、涙に濡れる子供にそっと手渡したのだ。 私は、その一部始終から目を離せずにいた。
 たったそれだけ。 文字通り、ありふれた一幕に過ぎなかった。
なのに。
その瞬間から――私はまるで、抗(あらが)えない重力に囚われたかのように、タクトくんの後ろを追いかけるようになっていた。
朝、タクトくんが目を覚ませば、私も起きる。
彼が食堂へ赴けば、私も行く。 庭へ出れば、私もその後を追う。
彼が本を読めば隣に腰掛け、遊びに出かければ、影のようにどこまでもついて回った。
ある時、タクトくんが不思議そうに振り返り、私に問いかけた。
タクト: 『凪、なんでいつも俺についてくるの?』 千歳凪:私は無邪気を装って笑ってみせた。
千歳凪: 『たまたま、だよ』 たまたま。
その日から、私は緻密に計算された 「たまたま」 を何千回、何万回と繰り返すことになる。
今にして思えば、あの頃からすでに、私の精神はかなり歪(ゆが)んでいたのだと思う。
けれど、幼かったあの頃の私は、この胸を激しく焦がす感情の正体が『恋』だなんて、知る由もなかったのだ。
◇
さらに五年が経ち。
 私に、裕福な里親との縁組が持ち上がった。 私は孤児院を出ることになった。
周囲の誰もが口々に祝福してくれた。 新しい家、新しい生活、輝かしい未来。
それなのに、荷物をまとめながら、私は一人きりで声を殺して涙を流していた。
タクトくんと離れることが、身を毟(むし)られるほどに嫌だった。
けれど、無力な子供に過ぎなかった私には、どうすれば彼のその手を引いていけるのか、どうしても分からなかった。
だから、最後の日――私はタクトくんに告げた。
千歳凪: 『また、会おうね』 彼は、いつもの凪いだ海のような顔でこくりと頷いた。
タクト: 『うん。 またな』 たったそれだけの、短すぎる約束。
なのに私は、その一言を五年間ものあいだ、心の奥底で幾度となく反芻し続けた。 そして、固く決意したのだ。
次に相まみえるその時。 タクトくんに 「好きだ」 と乞われるような、非の打ち所がない女の子になろう、と。
料理の特訓を重ねた。 彼の胃袋を完全に掌握するために。
掃除も裁縫も極めた。 彼の生活のすべてを私が管理し、支えるために。
勉学に励み、洗練された礼儀作法を身につけた。 人前で決して恥じることのない立ち居振る舞いも、自分を最も魅力的に見せる微笑みの角度も、耳に心地よい声のトーンも、すべて研究し尽くした。 五年間、私は血を吐くような研鑽を積んだ。
 すべては、タクトくんと再び巡り合い、私を選び取らせるために。
そして――あの高校の教室で。
私は、奇跡の再会を果たした。 扉を開け放った、その瞬間。
窓際の席に、フードを深く被った懐かしい少年の姿があった。
私はその背影(はいえい)を目にしただけで、直感した。
千歳凪:――タクトくんだ。
肋骨が砕け散るのではないかと思うほど、心臓が狂ったように高鳴った。 けれど、私はその激しい情動を完璧にねじ伏せ、どこまでも平静を装ってみせた。
彼に寄り添うにふさわしい、無瑕(むきず)のお嬢様として。
千歳凪: 「……久しぶり」
そう、静かに、鈴を転がすような声で呼びかけた。 タクトくんは、少しだけ目を丸くして、 タクト: 「あれ……千歳?」
覚えていてくれた。
私はそれだけで、その場に崩れ落ちて号泣しそうになるのを必死で堪え、ただ、気品に満ちた笑みを湛(たた)えてみせた。
千歳凪: 「うん。 久しぶり」
その日から、私は学舎において、非の打ち所がない『完璧な少女』を演じ切った。
心を込めた手作りのお弁当を広げ、請われれば優しく勉強を教え、窮地にある人を率先して助ける。
そして――常に、タクトくんの視界の片隅に寄り添い続けた。
 完璧だった。 これ以上ない、至高のアプローチであるはずだった。
――なのに。
タクトくんは、私の湖よりも深く重い情念に、微塵(みじん)も気づくことはなかった。
タクト: 『千歳って、本当に料理上手いよな』 千歳凪:違う。 あなたのためにしか、腕を振るいたくない。
タクト: 『千歳って、面倒見いいよな』 千歳凪:違う。 私はタクトくんの面倒しか見たくない。
タクト: 『千歳は将来、いいお嫁さんになりそうだな』 千歳凪:……。
その日の夜。 私は自室のベッドの中で、枕の端を噛み千切りながら三時間ほど悶え苦しんだ。
そうして翌朝には、何事もなかったかのように、一点の曇りもない清楚な微笑みを湛えて彼に挨拶をするのだ。
なぜなら私は――完璧なお嬢様、なのだから。
◇
そして、唐突に訪れた異世界召喚。
厳かな神殿。 床に描かれた巨大な魔法陣。 見たこともない異郷の景色。 重々しい鎧を纏(まと)った騎士たち。
私たちの能力を測る、判定の儀式。
私はそこで、自らの『運命』が定まるのだと確信していた。 私の天稟(てんぴん)が示した結果は――。
 ――固有クラス『聖女』。 Sランク。
周囲が爆発したかのように沸き立った。 王族らしき高官たちが色めき立って立ち上がり、神官たちは畏敬の念に喉を鳴らす。
けれど私は、その狂騒をひどく冷めきった頭で、どこか他人事のように眺めていた。
そんな称号、どうでもいい。 私がただ一つ、心に懸けていたのは――タクトくんの判定、それだけだったのだから。
そして、彼の判定が始まった。
神官: 『指揮タクト』 神官の厳かな声が、大理石の天井に木霊(こだま)する。
神官: 『固有スキル――【透視】』 広間に、さざ波のようなざわめきが広がった。
神官: 『クラス――採掘士』 さらに、無慈悲な宣告が続く。
神官: 『Eランク』 神殿を支配していた空気が、瞬時にして一変した。
誰かが鼻で嗤(わら)い、誰かが呆れたように肩をすくめる。 誰もが露骨に、彼から一歩を遠ざけた。
兵士A: 「採掘士って……」
兵士B: 「よりによってEランクかよ」
兵士C: 「しかも透視だと? 女湯でも覗き見するつもりか?」
兵士D: 「完全なハズレを引いたな」
その時、私は――。
胸の奥底で、狂喜していた。 自分でも恐ろしくなるほど、魂が歓喜に打ち震えていた。
だって、そうではないか。 タクトくんが、この世界の誰からも見向きもされなくなったのだ。
 誰もが彼から離れていく。 ならば、私だけが、ずっと彼の最も近くを独占できる。
タクトくんは相変わらず、少し困ったように頭を掻(か)き毟(むし)っている。
そのいじらしい姿を見つめながら、私は確信した。
千歳凪:――これで、ようやく。
千歳凪:これでやっと、タクトくんを私だけのものにできる。
私は、無意識のうちに自身の深淵に眠るもう一つの天稟(てんぴん)を起動させていた。
固有スキル――【クラス変更コピー】。
複写対象。
――『採掘士』。
私は、国宝級と謳われるSランク聖女の座を、まるで路傍のゴミ屑のように投げ捨てた。
躊躇(ちゅうちょ)など、一ミリたりともありはしない。 むしろ、胸のすくような清々しささえ覚えていた。
ええ、当然ではないか。 タクトくんと同じ、底辺の優しき世界へ赴けるのだから。
同じ生業(なりわい)。 同じ鉱山。 同じ地平の生活。
 朝、目を覚ませばタクトくんがいる。 現場へ赴けばタクトくんがいる。 一日の労働が終われば、すぐそばにタクトくんがいる。
千歳凪:……最高。 これ以上の幸福が、この世にあるだろうか。
私は心の中で、熱く力強いガッツポーズを繰り出していた。
けれど。 そこで想定外の不条理――システムエラーが牙を剥く。
彼の固有スキル――【透視】。
クラスの複写(コピー)を終え、連動してスキルの複製モードへ移行した、その瞬間だった。
――ピーーッ。
私の脳内で、耳障りな警告音がけたたましく鳴り響き、神殿の魔法陣が不吉な血の色に明滅した。
未知の文字列が、私の視界を次々と埋め尽くしては霧散していく。
【警告;対象の固有技能――規格外(エラー)】 【既存の世界定義に該当なし】 【複写(コピー)処理――致命的失敗(フェイタル・エラー)】 【代替処理を開始。 ジャンクデータより新規技能を再構築します】 私は、怪訝に小首を傾げた。
そうして混迷の果てに、ただひとつの文字列が冷徹に浮かび上がった。
【固有スキル;《ギャンブル》を獲得しました】 …………。
私の切り札であった【クラス変更コピー】の固有スキルは完全に消失し、代わりに得体の知れない【ギャンブル】という歪(いびつ)なバグスキルへと変質してしまったのだ。
 私は、ただ立ち尽くし、沈黙した。
ギャンブル。 何だろう、これは。
正直に言って、完璧なお嬢様を自負する私としては、あまりに品性を欠いた、嬉しくない響きであった。
けれど、私はタクトくんと同じ『採掘士』という絆(きずな)を手に入れた。
私にとっては、それだけで十分すぎるほどの恩寵(おんちょう)だった。
◇
そうして、私はこの北方鉱山へと降臨した。
正式な配属手続きを淑やかな笑顔で済ませ、表向きは、可憐なる最底辺の採掘士として。
そして今――。
私はこの薄暗い物陰から、愛しいタクトくんを熱く監視(みつ)めている。
彼が、また力強くツルハシを振るった。
カンッ。
岩肌から零(こぼ)れ落ちる鉱石の欠片。
私はその光景に深く恍惚(こうこつ)とし、唇の端を小さく吊り上げた。
 十年。 本当に、気の遠くなるほどに長い歳月だった。
けれど、ようやく私はタクトくんの隣(物理的距離・およそ三十七メートル)に辿り着いたのだ。
千歳凪:……まだ、彼本人に直接の接触は試みていないけれど。
問題はない。 時間なら、これから一生分ある。 私は五年間もの孤独を耐え抜いたのだから、この先あと何年だって待ち続けてみせる。
いつか。 いつか必ず。
タクトくんのその瞳に、私だけを映して。
――『好きだ』と、その唇から乞うてみせる。
そのためならば、私はどこまでだって彼の影を踏み続けていく。
たとえ、世界の果てであろうとも、底知れぬ地獄の底であろうとも。
私は胸の内でそう固く誓いながら、もう一度、物陰から最愛の背中へ熱視線を注いだ。
その、刹那(せつな)。
タクトくんの身体が、不意にこちらへと翻(ひるがえ)った。
千歳凪: 「っ……!」
私は反射的に息を詰め、古い岩陰のさらに奥へと身を滑り込ませる。
 心臓が早鐘のように、胸の奥で激しく脈打った。
千歳凪:……危なかった。
けれど――数十秒ほど息を潜めてから、私はそっと顔を出し、彼の様子を窺った。
タクトくんはすでに前を向き、再び重いツルハシを構えている。
私は安堵の吐息とともに胸を撫で下ろし、そして、胸の奥から湧き上がる昏(くら)い悦びに小さく唇を歪めた。
千歳凪:今日も。 何も問題はない。
千歳凪:私は完璧だ。
千歳凪:――完璧なる、タクトくんの追跡者(おじょうさま)なのだから。
朝の山には、まだ夜の冷徹な名残が色濃く漂っていた。
視界を拒むように濃霧が低く垂れ込めている。 原生林の巨木を縫って吹き抜ける風はひどく冷たく、湿った土と死んだ葉の匂いを運んできた。 ――《死喰(く)い谷》。
その最深部に位置する古びた木造砦(とりで)を、十数人の武装した影が遠巻きに監視している。
王立騎士団の精鋭部隊。 王都周辺を荒らし回る極悪非道な賊徒『黒狼団』を確実に根絶やしにするため、特に実戦に長けた者たちだけが選抜されていた。
先頭に立つ男は、四十代半ば。
 風雨に晒された岩盤を思わせる、日に焼けた顔には無数の古傷が刻まれている。 左目の上には、袈裟(けさ)懸けに斬られた一本の深い痕。
背中には、彼の代名詞でもある身の丈ほどの巨大な黒大鎌(くろおおがま)を背負っていた。
男の名は、ダッシュ・レイン。
泥臭い死線を幾度も潜り抜けてきた、王国でも右に出る者のいない歴戦の猛将であった。
ダッシュ: 「……あれが黒狼団の根城か」
ダッシュは、白霧の向こうに霞(かす)む砦を鋭い眼光で射抜いた。
副官: 「はっ。 斥候(せっこう)の報告によれば、構成員は三十から四十。 人身売買、強盗、殺人、さらには違法な魔導具の密輸。 確認されているだけでも余罪は枚挙に暇(いとま)がありません」
隣に控える副官が、声を潜めて的確に応じる。
ダッシュ: 「昨日からの動きに変化は?」
副官: 「皆無です。 砦の周囲に伏兵の兆候もありません」
ダッシュ: 「そうか」
ダッシュは短く、地を這うような声で頷(うなず)いた。
今回の任務は、至極単純であった。
黒狼団を制圧する。 可能ならば生け捕りにし、抵抗するならば容赦なく武力を行使する。 そうして、罪人どもを王都の法廷へ引きずり出す。 ただ、それだけのこと。
血で血を洗う国境の戦場とも違えば、人知を超えた魔族との絶望的な大戦でもない。 相手は所詮、腐った人間の寄り合い所帯だ。 だからこそ、精鋭を率いる身として、些(ささ)かなる不覚も許されなかった。
ダッシュ: 「……行くぞ」
ダッシュが、厚い手の甲を静かに上げる。
――その、刹那(せつな)だった。
魔導士: 「……待ってください」
後方に控えていた部隊専属の魔導士が、喉を詰まらせたような声を漏らした。
 ダッシュ: 「どうした」
魔導士: 「何か……います」
空気が、明確に変質した。
先ほどまで森の奥から微(かす)かに響いていた鳥の囀(さえず)りや虫の声が、いつの間にか完全に掻き消えている。 吹き抜けていた風すらも、ピタリと止んだ。
ただ、遥か前方。 霧に霞む砦の奥底から、刺すような気配が漂ってくる。
――『何か』が、そこにいる。
ダッシュ: 「伏兵か。 数は、どれほどだ?」
魔導士: 「……判別が、つきません」
ダッシュ: 「判別がつかないだと?」
魔導士: 「多すぎる……いえ、そんな生易しいものでは」
魔導士の顔面から、さあっと血の気が引いていくのが、薄暗い霧の中でもはっきりと見て取れた。
魔導士: 「違います、隊長」
ダッシュ: 「何が違う」
魔導士: 「数が多いのではないのです……!」
魔導士は喉を鳴らし、ひどく重苦しい唾(つば)を飲み込んだ。
魔導士: 「……中にいる個体の、その一つひとつの魔力(スペック)が、あまりにも異常なのです。 計測の限界値を……完全に、振り切っています……!」
ダッシュは眉間のシワを深く刻み込んだ。
ダッシュ: 「魔族の、高等種か?」
魔導士: 「……分かりません。 まるで、次元の異なる化け物たちが一箇所に寄り集まっているような……」
その絶望的な凶報を受け、ダッシュは天に向けていた厚い手の甲を静かに下ろした。
ダッシュ: 「全員、その場から微動だにするな」
誰一人として動かない。 泥臭い死線を潜り抜けてきた精鋭たちは、無言のまま武器の柄にそっと指を添え、極限の臨戦態勢へと移行した。
ダッシュは細めた眼光で前方に睨みを利かせる。
あの古びた砦から、じっとりと滲み出してくる尋常ならざる気配。 あれの正体は、一体何だ。
しがない盗賊団の分際で隠し持てるような魔力量ではない。
まるで、世界の終末そのものが、あの大地へ静かに鎮座しているかのような――。
 ◇
その頃。
砦の内部。 純白のエプロンを身に纏(まと)った、銀糸の髪を持つ女が静かに顔を上げた。
フルート: 「……何かが接近していますね」
フルートであった。
彼女は、手首のスナップを利かせた、流麗にして非の打ち所がない雑巾がけの手をぴたりと止めた。
前日まで賊徒どもの不潔な巣窟(そうくつ)だった場所は、今や見違えるほど清浄な空間へと生まれ変わっていた。
磨き上げられた床には塵(ちり)一つ落ちていない。 煤(すす)けた壁には清潔な白布が掛けられ、損壊していた家具にも最低限の修繕が施されている。
とはいえ、まだ昨日の今日だ。 至高の魔王様をお迎えする、完璧なる迎賓館(アジト)として完成を見るには程遠い。
部屋の隅では、ハーモニカが盗賊の遺した裏帳簿をコンマ一秒の超並列演算で整理(ハッキング)している。 かと思えば、もう一角ではカスタネットが、主のための狂った厨房(ディストピアキッチン)の衛生環境を鋭く検分していた。 そして、チェロは――。
無表情のまま、光の差し込む窓辺に佇(たたず)んでいる。
チェロ: 「敵?」
チェロが小鳥の囀(さえず)りのような声で問う。
フルート: 「分かりません」
フルートは静かに瞼(まぶた)を閉じ、大気へ探りの魔力を這(は)わせた。 外部から侵入してくる波動を、精密に読み解いていく。
数。 位置。 速度。 武装。 そして、生命体の種別――。
フルート: 「……人間です」
チェロ: 「人間」
フルート: 「ええ。 武装した集団ですね」
フルートはほんの少しだけ思案の海に沈んだ。
 そうして、遥(はる)か彼方にいる主(あるじ)へ、直通の念話を繋(つな)ぐ。
フルート: 『タクト様』 タクト: 『ん? なに?』
王都北方鉱山・採掘場。
タクトは、今日も今日とて真面目に鉱石を掘っていた。
正確に言えば、ただ採掘用の鉄の棒を握りしめたまま、岩壁をぼんやりと見つめている――要するに、完璧なサボりの体勢に入っているだけだったが。
フルート: 『緊急の報告がございます』 タクト: 『また?』 フルート: 『はい。 現在、我々の拠点へ何者かが接近しております』 タクト: 『人? それとも魔物?』 フルート: 『武装した人間です』 タクト: 『じゃあ、とりあえず情報確認でもしたら? 交渉とか』 フルート: 『……承知いたしました』
それだけの、実にあっさりとしたやり取りだった。
タクトにとっては、目の前にある『いかにして定時まで健やかに時間を潰すか』という労働問題以上に重要なことなど、この世界には存在しない。 ゆえにフルートも、これ以上の指示を仰ぐことはしなかった。
フルート: 「チェロ」
チェロ: 「はい」
フルート: 「タクト様より、情報収集の命を預かりました。 少し様子を見てきてください」
チェロ: 「……分かった」
フルート: 「ただし」
フルートは、我が身の武装を省みない少女へ冷徹に念を押した。
フルート: 「絶対に、戦わないこと」
チェロ: 「はい」
フルート: 「無益な殺生は慎むこと。 タクト様は平穏を愛しておられます」
チェロ: 「はい」
フルート: 「危険を察知したら、すぐに退いてください」
チェロ: 「……はい」
チェロは無表情のまま深く頷いた。
そして足音一つ立てず、窓からすっと乳白色の霧の中へ溶け込んでいく。
彼女の手元に武器はない。 魔族だった頃に愛用していた、あの巨大な大鎌はもう存在しなかった。 人間への種族変更の儀式を終えた瞬間、異形の専用装備として判定されたものは、すべて塵となって消滅してしまったのだ。
ゆえに今のチェロは、完全なる丸腰の、いかにもか弱き人間の少女であった。
――そのはず、だった。
◇
濃霧に沈む森の中を、チェロは歩く。
 その足取りは、地面の枯れ葉を踏む音すら立てない。
やがて前方に、幾重もの重装備を纏った影が視界に躍り出た。 チェロは古びた巨木の陰から、そっと息を殺して覗き込む。
人間。 十数人。
鈍く光る鎧、鍛え上げられた剣、槍、弓。
そして――。
チェロ: 「…………」
チェロの硝子(ガラス)玉のような瞳が、ある一点に釘付けとなった。
先頭に立つ、顔に深い傷のある男。
その屈強な背。
そこに背負われている――ひどく立派な、黒い『大鎌』。
チェロ: 「……大鎌」
小さく、細い声で呟く。
チェロは物陰からじっと、その黒い鉄の塊を見つめ続けた。
黒く鈍い光を放つ、分厚い鋼(はがね)の刃。 使い込まれ、無数の手垢が染み付いた長い柄。 その大きさも、重量感も、申し分ない。
かつて自分が愛用していた魔族の業物(わざもの)とは比べるべくもない、チープな人間の鉄だ。 けれど――。
 それは紛れもなく、美しい『大鎌』であった。
チェロ: 「…………」
欲しい。
もの凄(すご)く、欲しい。
チェロの純粋無垢(むく)なる視線が、ダッシュの背中にある大鎌へと釘付けになり、一歩も動かなくなった。
◇
一方のダッシュは、完全に身体を凍りつかせていた。
前方の木陰、そこから網膜を刺すように放たれる、純粋すぎる『執着』の視線。
そして、そのさらに奥にある砦からじっとりと漂ってくる、次元の異なる絶望的な魔力の波動。
ダッシュ:――何だ。 この悍(おぞ)ましさは。
先ほどまでとは明らかに違う。 森そのものが、何か巨大で圧倒的な災厄を覆い隠しているかのようだった。
ダッシュ: 「……全員、動くな」
副官: 「隊長……?」
ダッシュ: 「音を立てるな。 呼吸すらも、限界まで浅くしろ」
ダッシュは、ゆっくりと砦の入り口へと視線を移した。
そして――。
見てしまった。
白霧の奥。 砦の門前に佇(たたず)む、一つの影。
 月光を紡ぎ上げたかのような、銀糸の髪。
血のように赫(あか)く、底冷えするほどに澄んだ瞳。
一切の隙を排した、静謐(せいひつ)な立ち姿。
それを目にした瞬間、歴戦の猛将であるダッシュの記憶の底に、十年以上前の地獄の戦場が鮮烈に蘇(よみがえ)った。
見渡す限りの白銀。 それを赤黒く染める、おびただしい血。 凍てついた屍(しかばね)の大地。
そして、絶望に逃げ惑う数万の人間たちの真ん中を、ただ静かに、散歩でもするかのように歩いていた一人の女。
銀色の髪。 紅い瞳。
彼女がただ通り過ぎるだけで空気が凍りつき、人の命が落ち葉のようにあっけなく散っていった。
人間の兵士たちは、絶望と畏怖(いふ)を込めて、その怪物をこう呼んでいた。
――『氷の悪魔』。
ダッシュ: 「……嘘だろ」
ダッシュの肉厚な唇が、情けなく震えた。
副官: 「隊長? いかがなさいましたか、一体……」
ダッシュ: 「あれは、お前たち……」
部下たちは誰も状況を理解できていない。 かつて最前線の地獄で辛うじて生き残ったダッシュだけが、その銀髪が意味する絶望の重さを、唯一肌で理解していた。
ダッシュ: 「あれは……東方魔王軍の……」
声が、乾いた砂のように掠(かす)れた。
 ダッシュ: 「現魔王軍・最高指導者、その人だぞ……!」
その忌まわしき名が耳に滑り込んだ瞬間、精鋭部隊の全員の顔から、一斉に血の気が引き失せた。
兵士E: 「……東方、魔王軍!?」
兵士F: 「そんな、国家を脅かす化け物が、なぜこんな辺境の盗賊砦にいるんだ……っ」
兵士G: 「馬鹿な……あり得ない!」
ダッシュは、ギリッと血が滲(にじ)むほどに拳を握り締めた。
その脳内で、これまでの不条理な点と点が最悪の形で結びつき、血の凍るような真実が像を結ぶ。
ダッシュ: 「黒狼団の愚物どもめ……」
所詮はただの盗賊団だ。 人身売買や違法取引で小銭を稼ぐ、社会の害虫ども。
そんなチンピラに過ぎない連中が。
ダッシュ: 「あろうことか、あの東方魔王軍という――神の逆鱗(げきりん)に触れたというのか……!」
副官: 「隊長!」
副官が喉をからして悲痛な声を上げる。
副官: 「即刻、撤退しますか!」
兵士H: 「しかし、それでは任務の完遂が!」
ダッシュ: 「今すぐだ!!」
ダッシュは、かつて見せたことのないほどの必死さで怒鳴りつけた。
ダッシュ: 「奴に気づかれる前に、音を立てずに全力でこの場を離脱する!」
副官: 「ですが、我々の至上目的は黒狼団の壊滅と、その構成員の拿捕(だほ)のはずでは!」
ダッシュ: 「お前は、脳味噌まで筋肉で詰まった本物の馬鹿か!!」
ダッシュは、副官の胸倉を乱暴に掴(つか)み上げた。
ダッシュ: 「ここでヘタな動きをしてみろ、この国が、王国そのものが一夜で亡びるぞ!!!」
副官: 「……っ!」
ダッシュ: 「忘れたのか、あの戦場を!」
歴戦の将の、その野太い声が、目に見えて震えていた。 怒りではない。 それは、抗いようのない絶対的な『恐怖』に他ならなかった。
ダッシュ: 「国王陛下からも、総騎士団長からも、それこそ耳にタコができるほど言い聞かされてきたはずだ!」
東方魔王軍。
あの絶対不可侵を誇る、狂信の軍団にだけは――。
ダッシュ: 「絶対に手を出すな! 交戦するな! 刺激など露ほどもするな、と!」
ダッシュ: 「奴らは守りに入っている限りは牙を剥(む)かん。 だが、ひとたび事を構えれば――」
ダッシュは白霧の奥に佇む銀髪の女を、絶望に染まった瞳で見つめた。
ダッシュ: 「この豊かな王国など、文字通り『一瞬』で地図の上から消し飛ぶのだぞ……!」
――その、直後であった。
 巨木の陰に潜んでいたチェロが。
ダッシュの背にある大鎌へ、じっと貪欲な視線を注いでいたチェロが。
不意に、彼らと真っ直ぐに視線を交わした。
チェロ: 「…………」
ダッシュの心臓が、喉から飛び出さんばかりに跳ね上がった。
ダッシュ:――見つかった。
ダッシュ: 「ぐっ……」
ダッシュの額から、滝のような冷や汗が噴き出す。
ダッシュ: 「既に……我々の接近など、完全に見透かされていたというのか……」
極限の恐怖に駆られた部下たちが、半ばパニック状態で武器を構えようとした。
兵士I: 「隊長!」
兵士J: 「戦うしかありません!」
ダッシュ: 「馬鹿、やめろ!!」
ダッシュは即座に怒鳴り、副官が抜きかけた剣の柄を力ずくで押さえ込んだ。
ダッシュ: 「全員、武器を下ろせ! 抵抗の意思など微塵(みじん)も見せるな!」
精鋭たちが困惑を隠せぬ中、隊長であるダッシュ自身が、ゆっくりと腰の重剣を外し、泥の地面へと静かに置いた。
ダッシュ: 「我々は……」
そうして、ゆっくりと両手を天に掲げる。 完全なる降伏の意思表示。
ダッシュ: 「貴殿たちに刃向かう気など、毛頭ない」
チェロは底の知れない無表情のまま、彼らの挙動を見つめ続けている。
チェロ: 「…………」
ダッシュ: 「どうか」
ダッシュは泥に膝をつき、そのまま深く頭を垂れた。
ダッシュ: 「この無礼、平伏してお詫(わ)び申し上げる。 どうか、見逃していただきたい」
重苦しい沈黙。
 乳白色に染まる霧の森を、冷徹な風が通り抜けていく。
チェロの視線は、相変わらずダッシュの背に帯びた大鎌へと、ただ一点にのみ注がれていた。
チェロ: 「…………」
泥に平伏していたダッシュも、ついにその視線が持つ狂おしいほどの熱量に気がついた。
ダッシュ: 「……これが、お望みなのか?」
チェロ: 「…………」
こくり、と。
無口な少女が、小さく小首を振って頷(うなず)いた。
ダッシュの頬が、恐怖のあまり引きつった歪(いびつ)な笑みを浮かべる。
ダッシュ: 「……そうか、なれば」
彼はゆっくりとした動作で、長年苦楽を共にしてきた背中の愛用品(大鎌)を外した。
ダッシュ: 「ならば――」
それを、静かに泥の上へと横たえる。
ダッシュ: 「これは、我々に一切の敵意がないという誓いの証(あかし)として、貴殿に献上しよう」
チェロ: 「……!」
チェロの硝子玉のような無機質な瞳が、僅かに大きく見開かれた。
彼女はトコトコと軽い足取りで歩み寄ると、自身の背丈を優に超える大鎌を、まるで壊れ物を扱うかのように両手で大事そうに抱え上げた。
チェロ: 「……ありがとう」
その、小さな蕾(つぼみ)が綻(ころ)ぶような可憐な一言を耳にして。
ダッシュはあろうことか、死の淵(ふち)にありながら、場違いな一念を抱いてしまった。
ダッシュ:――か、可愛い。
 いや、違う。 そうじゃない、狂っているのか俺の脳味噌は。
今はそんな軟弱な感傷に浸っている場合ではないだろう。 ダッシュは自身の口内をきつく噛み、必死に理性を呼び戻した。
これは、人間の精神を狂わせる高等魔族の精神汚染(罠)に違いない。 相手はあの東方魔王軍の幹部なのだ。 一瞬の油断も、些(ささ)かなる刺激も許されるはずがなかった。
◇
その頃。
砦の門前に佇むフルートは、チェロから届いた念話の報告に耳を傾けていた。
フルート: 『タクト様』 タクト: 『ん? どうしたの?』 フルート: 『接近していた集団ですが、突如としてすべての武装を放棄し、完全なる降伏の意思を示しました』 タクト: 『そう。 じゃあ、それで解決だね。 よかったじゃん』 フルート: 『この場合、やはり彼らの殲滅(せんめつ)は必要ありませんでしょうか?』
タクト: 『…………』 タクトは採掘用のツルハシを握ったまま、しばらく頭を抱えて沈黙に沈んだ。
タクト: 「ねえ、フルートさん」
フルート: 『はい』
タクト: 「はじめから、殲滅の指示なんて一言も出してないからね!?」
フルート: 『……』 念話の向こうで、フルートが静かに瞬き(まばたき)をする気配が伝わってきた。
フルート: 『……失礼いたしました。 わたくしの浅はかな早合点でございます』
タクト: 「あと」
フルート: 『はい』
タクト: 「チェロが、敵から和睦の証として何かを貰(もら)ったようです」
フルート: 『何を?』
タクト: 「大鎌、です」
フルート: 『……なんで大鎌!?』
タクトは、深く、深く考え込んだ。
タクト: 「ちょっと待って」
フルート: 『はい』
タクト: 「その敵の人たちって」
フルート: 『はい』
タクト: 「もしかして、あの盗賊を討伐しに来た王国軍の正規兵とかじゃないの?」
フルート: 『その可能性が極めて高いかと』
タクト: 「…………」
タクトは、じっとりと湿った坑道の天井のその先にある、見えない空を仰ぎ見た。
きっと青いのだろう。 今日も絶好の秋晴れのはずだ。 なのに俺は、どうしてこんな奈落の底で胃の痛い交渉に頭を悩ませているのだろう。
タクト: 「フルートさんたちが今いる場所って」
フルート: 『はい』
タクト: 「もとはと言えば、盗賊団のアジトだよね?」
フルート: 『左様でございます』
タクト: 「じゃあ……」
タクトは、必死になって平和的解決策をひねり出す。
タクト: 「王国軍の人たちにも、手ぶらで帰るわけにはいかない『面子(めんつ)』というものがあると思うんだ」
フルート: 「面子、ですか。 人間に特有の、中身のない見栄ですね」
タクト: 「うん。 だから、砦に残されていた盗品とかがあれば、全部彼らに引き渡してあげて。 それを彼らの手柄にさせてあげるんだよ」
フルート: 『…………』
タクト: 「それで」
タクトはさらに言葉を継いだ。
タクト: 「『黒狼団は、自分たち王国軍が壊滅させた』という体(てい)にしてもらって、穏便に帰ってもらうように交渉したらどうかな?」
フルート: 『…………』
タクト: 「駄目、かな?」
フルート: 『いいえ』 フルートの鈴を転がすような澄んだ声が、ほんの少しだけ弾んだ。
 フルート: 『主(あるじ)の深き御心(みこころ)、しかと拝聴いたしました』
タクトは心底安堵(あんど)して頷く。
タクト: 「じゃあ、穏便によろしく頼むよ」
フルート: 『すべて、このフルートにお任せくださいませ』
そこで、念話はぷつりと切れた。
フルートは静かに佇まいを正した。
そうして、未だ泥の中に平伏する討伐隊の前に、悠然と姿を現す。
月光を溶かしたような銀色の長髪が、冷たい風にさらさらと美しく揺れていた。
フルート: 「…………」
ダッシュはそのあまりに神々しい姿を仰ぎ見。
そして――今度は地面に額が擦り切れるほど、深く片膝を突き直した。
ダッシュ: 「この度は……」
歴戦の猛将であるはずの声が、情けないほどに小刻みに震えている。
ダッシュ: 「貴殿方の神聖なる支配領域に、我々が愚かにも無断で足を踏み入れましたこと……」
さらに深く、地に頭を擦りつける。
ダッシュ: 「知らなかったとはいえ、弁解の余地もございません」
フルート: 「……」
ダッシュ: 「我が王国の非礼を、どうか、どうかお許しいただきたい……!」
フルートは怪訝(けげん)そうに小首を傾げた。
フルート: 「そこまで畏(かしこ)まらなくとも結構ですよ」
ダッシュ: 「いえ!」
ダッシュは即座に、食い気味にその言葉を否定した。
ダッシュ: 「全力で畏まらせていただきます!!」
フルート: 「……そうですか」
フルートは内心、些(ささ)か困惑していた。
このような平和的な交渉は、彼女が最も不得手とする分野だった。
 敵を冷酷に威圧し、戦慄(せんりつ)させることなら容易い。 大軍勢を機能的に統率することも、愚かな国家を物理的に消滅させることも造作はない。
けれど――友好的な歩み寄り。 そして、譲歩。
これは、東方魔王軍代理総司令官として、十年間で一度も経験したことのない未知の領域であった。
フルート: 「それで」
フルートは、タクトの言葉を忠実に実行に移す。
フルート: 「一つ、貴方がたにお願いがあります」
ダッシュ: 「な、何なりと仰(おっしゃ)ってください! 我らにできることならば、いかなることでも!」
フルート: 「ここにあった、大量の盗品です」
元盗賊たちが奪い集めていた金貨、装飾品、不吉な魔道具。 そして、名もなき民の生活から暴力によって剥ぎ取られた品々。
フルートが細い指先を払うと、それらは魔法の力でふわりと浮き上がり、討伐隊の目の前へと整然と並べられた。
フルート: 「これらをすべて、持ち帰ってください」
ダッシュ: 「……?」
ダッシュは完全に困惑の深淵に叩き落とされた。
ダッシュ: 「しかし……これは、貴殿方の正当なる戦利品では?」
フルート: 「盗賊の盗品です」
ダッシュ: 「……はい。 それは重々承知しておりますが」
フルート: 「我が主の命により、本来の持ち主である王国の民へ返却いたします」
ダッシュ: 「…………」
ダッシュの顔が、複雑に引きつった。
ダッシュ: 「……我々が、これを持ち帰る、と?」
フルート: 「ええ。 そして、黒狼団は貴方がた王国軍が壊滅させたという『手柄』にしていただいて一向に構いません」
ダッシュ: 「いえ、そんな滅相もないっ!」
ダッシュは、千切れんばかりに激しく頭を振った。
ダッシュ: 「それは、あまりにも……あまりにも畏れ多い!」
フルート: 「?」
ダッシュ: 「我々のような卑小な存在には、到底受け入れられぬ大罪でございます!!」
フルート: 「……?」
ダッシュ: 「あなた様がたがその絶対的な武力をもってして手に入れた金品と武勲を、我々が横からかすめ取るなど……そのような不敬かつ図々しい真似、神に誓ってできるはずがありません!」
フルート: 「違います」
フルートは、心底困り果てたように眉を下げた。
フルート: 「これは不浄な盗品ですよ? 我々には何一つとして不要なものです」
ダッシュ: 「…………」
フルート: 「ですから、早く持ち帰って、王国の民へ返してください」
ダッシュ: 「…………」
ダッシュは泥に額を擦りつけたまま、文字通り滝のような脂汗を流した。
ダッシュ: 「どうか、そればかりはご容赦願います!」
フルート: 「なぜです? お互いにとって悪い話ではないと思うのですが」
ダッシュ: 「そのような破格の条件を軽々しく受け入れれば……」
ダッシュは、内臓を雑巾のように絞られるような胃の痛みに耐え、苦しげに言葉を絞り出した。
ダッシュ: 「それを大義名分として、後日『我が王国が、東方魔王軍の財宝を強奪した』と難癖をつけられ、壊滅的な報復の口実にされる可能性が極めて高いからです……!!」
フルート: 「そんな面倒な謀略、わざわざ仕掛けませんよ?」
ダッシュ: 「…………」
フルート: 「本当です。 何より、我が主(あるじ)もそのような陰湿な真似は望んでおられません」
フルートは至極淡々と、真面目に答えた。
 しかし、ダッシュは裏の裏を読もうとして、逆に絶望的な袋小路に迷い込んでしまう。
ダッシュ: 「恐れ多いことながら……」
フルート: 「はい」
ダッシュ: 「我が王国は」
ダッシュは決死の覚悟をもって、泥にまみれた顔を上げた。
ダッシュ: 「貴殿方、東方魔王軍との『真の友好関係』を、本心から切望しております。 だからこそ、ここで安易な借りを作るわけにはいかないのです」
フルートは、その月光を紡いだような美しい眉を寄せて、しばし思案の海に沈んだ。
そうして、再び主への直通回線(念話)を繋(つな)ぐ。
フルート: 『タクト様』 タクト: 『ん? 交渉、無事に終わった?』 フルート: 『いえ。 彼らは我々との友好関係を強く望んでおり、下賜(かし)しようとした品すら頑なに受け取ろうとしません』 タクト: 『そうなんだ。 ずいぶんと生真面目な人たちだね』 フルート: 『いかがいたしましょうか』
タクトは、冷たい坑道の中でツルハシの柄に体重を預け、少しだけ思考を巡らせた。
そうして、彼にとっては極めてシンプルで当たり前な結論を口にする。
タクト: 「まぁ、これから長く住むご近所さんだしね。 仲良くするのが一番だよ」
フルート: 『……!』 その瞬間、フルートの紅い瞳が、歓喜の火花を散らして輝いた。
フルート: 『主の、海よりも深き無限の慈愛……しかと魂に刻みました』
そして――。
目の前で泥に平伏して震える老将へ、フルートは厳(おごそ)かに告げた。
フルート: 「分かりました」
ダッシュ: 「……!」
フルート: 「東方魔王軍、代表代理として」
彼女はまるで、背後に銀河の星々を従えるかのような、絶対的な威厳をもって静かに宣言した。
フルート: 「貴国がこちらへ無用な侵攻を仕掛けてこない限り――」
一拍。
フルート: 「我々魔王軍は、貴国を『友好的な国家』として公式に扱いましょう」
ダッシュの目が、限界まで見開かれた。
ダッシュ: 「……!!」
しばらくの間、喉が完全に肉体的な機能を失ったかのように、まったく言葉が出なかった。
 そうして、混迷の果てに。
ダッシュ: 「……ありがとう、ございます」
彼は泥に額をこれでもかと擦り付け、深く、深く頭を垂れた。
ダッシュ: 「本当に……」
歴戦の猛将の声が、絶望の淵から生還した安堵(あんど)と、底知れぬ感動によって震えていた。
ダッシュ: 「ありがとう、ございます……!」
ダッシュはゆっくりと、震える膝を伸ばして立ち上がった。
ダッシュ: 「この寛大なる御慈悲。 後日、改めて国王陛下からの親書を持参し――」
ダッシュは、フルートの浮世離れした美貌を、深い畏敬の念で見つめる。
ダッシュ: 「公式な使節として、こちらのお屋敷(アジト)へお伺いしたいと存じます」
フルート: 「はい。 お待ちしておりますね」
ダッシュ: 「それでは……」
ダッシュは、極限の緊張から辛うじて生還した部下たちを、鋭く見遣(みや)った。
ダッシュ: 「撤収するぞ! 総員、回れ右!」
精鋭たちは弾かれたように、一斉に背を向けて走り始めた。
誰も背後を振り返らない。 そのような精神的余裕など、一ミリたりとも残されてはいなかった。
ただ、一人だけ。
最後尾を駆ける若い兵士が、木陰のチェロの胸に大事そうに抱えられている、見覚えのある黒い大鎌を見て。
同情を禁じ得ないといった風に、小さく呟(つぶや)いた。
若い兵士: 「……あれ、隊長が初任給で買ってからずっと大事に手入れしてた、筋金入りの愛用品だったんだけどな……」
ダッシュ: 「聞こえてるぞバカヤロウ!!」
前方の白霧の奥から、ダッシュの血を吐くような怒鳴り声が飛んできた。
若い兵士: 「す、すみません!」
濃霧の広がる原生林の奥深くへ。
 命を拾った王国軍の影が、這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で消え去っていく。
深い静寂が、再び森を支配した。
チェロは、両手に抱えた大鎌を、うっとりとした熱を帯びた瞳で見つめている。
黒く鈍い刃を。 長い歳月をかけて使い込まれた柄を。 まるで自らの肉体の一部であるかのようにしっくりと馴染む重さを、確かめるように。
チェロ: 「……いい」
いつもは能面のように無表情な彼女の口元が、ほんの少しだけ、嬉しそうに綻(ほころ)んだ。
その愛らしい様子を認め、ドレスを纏(まと)ったカスタネットが優雅に声を弾ませる。
カスタネット: 「ふふ、よかったわね、チェロ」
チェロ: 「……うん」
ハーモニカも、事務的な手つきで眼鏡のブリッジを押し上げた。
ハーモニカ: 「人間用の脆弱(ぜいじゃく)な武器を手に入れたのですから、後ほど正しい手入れと防錆(ぼうせい)の方法を、古書に当たって確認しておきましょう」
チェロ: 「……うん」
フルートは――。
その穏やかな光景を静かに眺めながら、自身の胸の奥底が、未だかつて知らぬ不思議な熱で満たされていくのを感じていた。
昨日まで。
彼女たちは、血も涙もない東方魔王軍の冷徹なる幹部だった。
戦争のために生き、戦争のために殺し、戦争のために死ぬ。
それだけが、彼女たちの世界のすべてであり、疑う余地のない日常であったはずだった。
 けれど、今はどうだろう。
チェロが、人間の遺(のこ)した武具を手に入れたことを、無邪気な子供のように喜んでいる。
ハーモニカは、平和な裏帳簿の計算にその明晰な知恵を絞っている。
カスタネットは、主(あるじ)の昼食の献立に真剣に頭を悩ませている。
そして自分は――塵(ちり)一つないピカピカの床を眺めて、静かな達成感に浸っている。
そんな、どこまでもささやかな平穏が。
たまらなく愛おしく、そして不思議でならなかった。
フルート:――魔王様。
フルートは、雲一つない清々(すがすが)しい秋の空を仰ぎ見た。
同じ頃。
王都北方鉱山。
タクトは――。
タクト: 「…………」
採掘場の硬い岩壁を、これ以上ないほど虚無の目で見つめていた。
 今日のノルマは、最初の一振りでとうに終わっている。
あとは、定時の鐘が鳴るその瞬間まで。
とにかく周囲に目立たぬよう、適当に壁を撫(な)でて時間を潰せばそれでいい。
タクト: 「……平和だな」
タクトは、心底退屈そうにポツリと呟いた。
遥か遠く、連なる山の向こうでは――。
王国の精鋭討伐隊が、国家間の平和を繋ぐ歴史的な第一歩を掴み取り、生還の涙を流しながら帰還の途についている真っ最中であった。
その壮大にして破滅的な勘違いの事実を。
タクトは――。
未だ、何一つとして知らない。
朝であった。
薄い夜明けの光が、宿舎の小さな窓から斜めに差し込んでいる。
タクトは静かに目を開けた。 見慣れた煤(すす)けた天井。 見慣れた薄い壁。 四畳半の、呼吸すら窮屈な極小空間。
――昨日と、何一つ変わらない朝。
 少なくともタクトの目には、そう映っていた。
タクト: 「……朝か」
硬い布団の中で、しばらく天井の木目を眺める。
静かだ。 実によい朝だった。
大国同士が血みどろの戦争を繰り広げている世界とは到底思えぬほどに、周囲はひどく静まり返っている。
遠くで、鉱山の重い作業音が微(かす)かに木霊(こだま)していた。 まだ本格的な採掘が始まる刻限ではないが、山はすでに目覚めている。 足音が響き、古びた扉が開かれ、誰かが今日の過酷な労働に備えて身支度を整えているのだ。
タクトは小さく、重い息を吐き出した。
タクト: 「……今日も仕事か」
昨日と同じ。 今日も採掘。
目立たぬように素早くノルマを達成して、定時になったら真っ直ぐ帰る。
それでいい。 それがいい。 それ以上の野望など、何一つとして持ち合わせてはいない。
タクトはのそりと布団から這(は)い出た。
――その、刹那(せつな)だった。
タクト: 「……あれ?」
床に転がっていた片方の靴下が目に入った。
拾い上げようとして、無造作に手を伸ばす。
 そして――。
ぴたり。
タクトの指先が、一切の無駄な軌道を描くことなく、完璧な効率でもって靴下の端を正確につまみ上げていた。
タクト: 「……」
タクトは自分の手のひらと、靴下を交互に見つめた。
別に大したことではない。 ただ、床に落ちた靴下を拾っただけだ。
なのに、妙に――異常なほどに扱いやすかった。
床の上のどの角度から、どこに指を添えれば、人体構造として最も効率的かつ最速で拾い上げられるのか。 計算するまでもなく、脳が『初めからその正解を知っていた』かのような、得体の知れない異様な感覚が残っていた。
タクト: 「……まだ、寝ぼけているのかな」
小首を傾(かし)げながら、靴下を足に滑り込ませる。
次にシャツへと手を伸ばした。 昨日脱ぎ散らかしたままの衣服が、無造作に椅子の背に引っ掛かっている。
いつもなら、ただ乱暴に引っ張って剥ぎ取るだけだ。
だが、今朝は違った。
タクト: 「……こっちの角度からの方が、早いな」
無意識のうちに、タクトは椅子をミリ単位でわずかに傾けた。
服を手に取る。 袖を通す。 椅子を元の位置へと滑らせる。
 すべての挙動が、精緻なからくり人形のごとく滑らかに、一切の摩擦(ストレス)を排除して完了していた。
それだけの、ありふれた朝の一幕だった。 タクト自身も、大して気にも留めなかった。
顔を洗う。 蛇口を閉める。 布巾を手に取る。 水飛沫(みずしぶき)を拭う。
一連の支度を終えて、ふと部屋を振り返った。
気づけば、小汚く荒れ果てていたはずの四畳半が、まるで腕利きの清掃業者が入ったかのように、妙にピカピカと清廉に整っていた。
タクト: 「……?」
タクトは不審そうに部屋を見回した。
昨日より明らかに、空間の輪郭が整っている。 本格的な拭き掃除などした覚えは微塵もないというのに。
タクト: 「……まあ、いいか」
タクトは早々に、深く思索することを放棄した。 考えても答えは出ない。 それより遅刻して監督官に目をつけられる方が、よほど面倒だ。
◇
宿舎の食堂へと足を運ぶ。
朝食は、相変わらず底辺労働者向けの貧相な献立だった。 顎が疲れるほど固い黒パン。 具のほとんどない薄い野菜スープ。 そして、特別報酬として配られる一個のゆで卵。
タクト: 「……」
タクトは卓上のゆで卵を見つめた。 昨日と何ら変わらぬ外見。 きっと、今日もそれなりに美味いはずだ。
殻を剥(む)き、一口かじる。
タクト: 「……」
咀嚼(そしゃく)し、もう一口。
 タクト: 「……塩、あと二ミリグラムだけ足した方が、味が引き締まるな」
ぽつりと呟(つぶや)いてから、タクトは咀嚼(そしゃく)を止めた。
タクト: 「……?」
なぜ、そんな思考が頭を過(よぎ)ったのだろう。
別に料理が得意なわけでもなければ、自身の味覚に絶対の自信があるわけでもない。
なのに、どうしてか。
彼は無意識に卓上の塩をひとつまみ掴(つか)むと、まるで天秤で測ったかのような黄金比の分量で、パラリとスープへ振り入れた。
再びスプーンを口に運ぶ。
タクト: 「……うん」
極上だった。 場違いにも、三ツ星レストランの厨房(ちゅうぼう)がもたらすような、完璧なる味の調和が口内を満たしていた。
タクトは深く首を傾げた。
タクト: 「……昨日までの俺って、こんなこと分かったっけ?」
むろん、応じる者など誰もいない。
タクトは三十秒ほど、彼にしては真剣に思考を巡らせた。
そうして――。
タクト: 「……まあ、いいか」
再び器に目を戻した。 中身はいつもの貧相な朝食だ。
ただ、タクトという器の内部では、明らかに昨日までとは異なる『何か』が、静かに、しかし確実に芽吹き始めていた。
 ◇
採掘場へと足を向ける。
朝の坑道は、肌を刺すように冷え切っていた。 岩壁に等間隔で設置された魔導灯が、薄暗い迷宮を頼りなく照らし出している。
タクトは己の作業区画へ向かう途(みち)、道具置き場に立ち寄った。
いつもの、使い古された愛用のツルハシを手に取る。
タクト: 「……」
鉄の重みが掌(てのひら)に載った瞬間、強烈な違和感が走った。
タクトは木製の柄(え)をじっと凝視する。
タクト: 「これ……重心が、右へ〇・三ミリほど歪(ゆが)んでいるな」
先輩採掘士: 「え?」
隣で仕事道具を選んでいた、年の離れた先輩採掘士が、怪訝(けげん)そうに振り返った。
先輩採掘士: 「何がだよ?」
タクト: 「このツルハシです」
タクトは柄の表面を、慈しむように軽く撫(な)でた。
タクト: 「これより、あっちの棚の奥に転がっているやつの方が、絶対的に扱いやすいと思います」
先輩採掘士: 「……お前、見ただけでそんなことが分かるのか?」
タクト: 「いや……何となくの、ただの直感ですよ」
タクトは棚から別のツルハシを持ち上げた。
手のひらに馴染ませ、軽く素振りをしてみる。
風を裂く鋭い感触が、自身の骨格と筋肉の連動にピタリと噛(か)み合い、恐ろしいほど自然に身体の一部となった。
タクト: 「……うん、こっちですね」
先輩採掘士: 「そんなもんなのかねぇ?」
タクト: 「たぶん、ですけど」
タクトは己の『直感』が選び出した一本を肩に担ぎ、薄暗い坑道の奥へと足を進めた。
背後では、先輩採掘士が腑に落ちない様子で、しきりに首を傾げていた。
 ◇
今日の指定採掘区画はC-4。 昨日とまったく同じ、見慣れた岩壁の前だった。
タクトはランタンの灯りに照らされた壁面を眺め、どこに刃を立てるべきか、しばらく思案する。
タクト: 「……ここ、かな」
そこに明確な論理など存在しない。 少なくとも、タクト自身に合理的な根拠があるようには思えなかった。
ツルハシを構える。 無駄な筋力を極限まで削ぎ落とし、ただ重力に任せるように振り下ろした。
――コン。
小気味よい音とともに、まるで完熟した果実の皮を剥(む)くかのように、あっけなく岩盤が割れた。 亀裂の奥から、純度の高い魔鉱石が妖(あや)しげな輝きを覗(のぞ)かせている。
タクト: 「お」
息を整え、さらに一打。
――カン。
またしても、硬質な地層の隙間から極上品が転がり出た。
タクト: 「……今日も当たりか」
タクトは少しだけ、胸の内で相好を崩した。 純度の高い魔鉱石がまとまって出れば、それだけ今日のノルマが早く片付く。 すなわち、切望してやまない『定時退勤』の瞬間へと近づくのだ。 彼にとっては、それこそが何よりも至上の価値であった。
もう一度。
――コォン。
吸い込まれるような軌跡の先で、またしても蒼(あお)い結晶が顔を出す。
 タクト: 「……」
タクトは少しだけ視線をずらし、場所を変えて鉄の刃を打ち込んだ。
――コン。
出る。
タクト: 「……」
さらに数歩分、位置をずらして打ち下ろす。
――カン。
またしても、確実に出る。
タクト: 「……今日、妙に出るな」
タクトは小首を傾げた。
だが、その理由を深く掘り下げることはしなかった。 考える必要がない。 出るなら、掘る。 掘れば、ノルマは片付く。 ノルマが片付けば、帰れる。
世の中の仕組みは、至極シンプルだ。
◇
それからしばらく、無心で壁を穿(うが)ち続けていたタクトは、ふと昨日の出来事を思い出した。
タクト: 「……そういえば」
昨日、自分の身に起きた、あの想定外の異常事態。
いや、何かどころではない。 異世界の怪物たちが我が家に押し寄せてきたのだ。
フルートが来た。 ハーモニカが来た。 カスタネットが来た。 チェロも来た。
 そうして全員と、魂を分け合うような絶対の従属契約を結んだ。
タクト: 「……」
タクトはツルハシを湿った泥の床へ置いた。
タクト: 「今朝からの、この身体の奇妙な軽さ……あれのせいか?」
昨夜の契約。 あれを差し置いて、自身の肉体にこれほどの異変をもたらすような原因は、どこを探しても思い当たる節がなかった。
タクト: 「……念のため、確認しておくか」
タクトは衣服の懐から、金属製のステータスプレートを取り出した。
いつものように、指先から微量の魔力を流し込む。 淡い青白い光が、薄暗い空間にふわりと浮かび上がった。
【名前】指揮 タクト 【クラス】採掘士 E 【LV】5
タクト: 「うん」
いつもの、見慣れた安心安全な最底辺の表示だ。
……そう確信した、次の刹那(せつな)だった。
タクト: 「……?」
その並びの最下部。 昨日までは影も形も存在しなかった、見慣れない文字列の項目が、まるでバグのように増設されていた。
【モード切替(新機能)】
タクト: 「……モード?」
タクトがその不審な文字列に、そっと指先で触れる。
ピロン、と場違いなほど軽い電子音が鳴り響き、眼前の表示が爆発的に切り替わった。
【モード切替一覧】 ▶ 採掘士 E LV5(現在適用中) ▷ 経理・算術 SSS LV1 ―― 《ハーモニカ》逆共有 ▷ 裁縫・衣装制作 SSS LV1 ―― 《ハーモニカ》逆共有 ▷ 剣術・刃物技能 SSS LV1 ―― 《チェロ》逆共有 ▷ 料理・味覚統制 SSS LV1 ―― 《カスタネット》逆共有 ▷ 掃除・隠密統制 SSS LV1 ―― 《フルート》逆共有
タクト: 「…………」
タクトは、ゆっくりと瞬き(まばたき)を繰り返した。
信じがたい心地で、もう一度上から順にその並びを凝視する。
SSS。 SSS。 SSS。 SSS。 SSS。
 タクト: 「……」
タクトは無言のまま、一度プレートへの魔力供給を断ち、画面をそっと閉じた。
完璧なる現実逃避。 そうして深呼吸を一つ挟み、もう一度、恐る恐る魔力を流し込んで開いてみる。
そこには先ほどとまったく同じ、狂った文字列が無慈悲に羅列されていた。
タクト: 「……壊れたのかな、これ」
ステータスプレートは無機質な沈黙をもって、自身が正常に機能していることを頑なに主張している。
タクトは眉間のシワを深く寄せた。
タクト: 「でも、昨日まではこんな項目、絶対になかったよな」
淡い光を放つ画面を、じっと眺める。
最高峰の冠が、五つ。
タクト: 「SSSって……確か、この世界における文字通りの限界突破ランク、だよな」
異世界へと召喚されたあの日、大聖堂の神殿で神官から嫌というほど聞かされた。
人間の能力(クラス)には厳然たる序列がある、と。 最底辺のEから始まり、D、C、B、A。
そして選ばれし者のS、国宝級のSS、神話の領域とされる最高位のSSS。
タクト: 「……」
タクトは改めて、画面にずらりと並ぶ、暴力的なまでの輝きを放つ一覧を見つめた。
タクト: 「……ちょっと、多すぎない?」
ツッコミを入れるべき場所は、果たしてそこなのだろうか。 もしこの場に常識ある誰かが居合わせたなら、全力で彼の胸倉を掴んで訂正させていたに違いない。
だが、当然ながら誰もそこにはいなかった。 薄暗い坑道には、ただタクト一人の困惑した息遣いだけが残されていた。
 彼は泥に汚れた腕を組み、真剣に思考を巡らせた。
タクト: 「モード切替……」
恐る恐る、画面の端にあるヘルプ機能のような説明欄を指先でタップする。
【システム通知;従属契約者との異常同期(シンクロ)を確認しました】 【契約者の固有職能(スキル)情報を、主(あるじ)へ還元・共有します】 【共有された神域の職能は、モード切替によって任意に使用可能です】 【※現在の基本クラス(採掘士E)は上書き変更されません】
-----------------------------------------------後半開始------------------------------------- タクト: 「……要するに」
タクトは、脳内に提供された神域のスキルを一つずつ眺めた。
タクト: 「経理ができる」
ハーモニカの力だろう。
タクト: 「裁縫もできる」
これもハーモニカか。 ずいぶんと多才な化け物だ。
タクト: 「剣術……」
チェロ。 思い出すだけでも物騒極まりない。
タクト: 「料理……」
カスタネット。
タクト: 「掃除……」
フルート、か。
タクトは腕を組んだまま、ううむと低く唸(うな)った。
タクト: 「……正直、どれも必要ないな」
経理。 最底辺の採掘士の今の生活に、複雑な高等数学など必要ない。
裁縫。 破れれば支給される頑丈な作業着がすでに手元にある。
剣術。 言うに及ばず、誰とも血みどろの殺し合いなど御免被(ごめんこうむ)りたい。
料理。 宿舎の食堂のオバチャンが作ってくれるなら、自分で包丁を握るよりその方がずっと楽だ。
 掃除。 ……これだけは少しだけ便利そうではあるが。
タクト: 「でもなぁ」
タクトはさらに深く、現実的な未来をシミュレートした。
もしこんな神域のスキル(SSS)を軽率に使用し、その万能な姿を誰かに見られでもしたらどうなる。
「お前、ただのEランク採掘士の分際で何者だ!?」 と確実に役人にお縄を頂戴することになる。 そうして、最前線の苛烈な戦場か、あるいは王宮の過酷な激務へと強制連行されるのがオチだ。
今の、この上なく平穏な底辺生活に、これほどの過剰なスペックが必要かと問われれば。
答えは――断じて、否だ。
ならば、選ぶべき道は初めから決まっている。
タクト: 「よし、採掘士でいいや」
タクトは一切の迷いなく『採掘士E』を選択した状態のまま、画面をそっと消し去った。
ツルハシの木柄を握り直す。
タクト: 「仕事、仕事」
常軌を逸した異常なステータスも、暴力的なSSSの羅列も、未知なるモード切替も。
どれもこれも、タクトにとっては二の次、三の次でしかなかった。
目の前にある今日のノルマ。 彼にとっては、それだけが世界の命運なんかよりも遥(はる)かに重大な関心事なのだ。
◇
だが――。
 画面を閉じる直前のこと。 タクトの網膜に、最下部でチラリと明滅した『何か』が焼き付いていた。
タクト: 「……ん?」
もう一度だけ、不審に思ってステータスを開き直す。
最下部。 固有スキルの欄。
【固有スキル】 《スキル経験値ブースト》 LV1 《ラッキーH》 LV1
タクト: 「スキル経験値ブースト! 何これ、めっちゃ良さそうなのが増えてる!」
タクトは少年のように相好を崩し、その詳細を読み進めた。
【詳細;獲得したあらゆるスキルの経験値を、通常の10倍の速度で獲得可能(成長速度異常)】
タクト: 「おおっ、これはすごいな!」
そうして歓喜したのも束の間。 すぐ下に視線を落とした瞬間――。
タクト: 「…………」
タクトは、水を打ったように無言になった。
タクト: 「……H?」
何だろう、これは。 ハンマーのHか、あるいはハーブか、ヒーリングか、ヘルプか。
妙な胸騒ぎを覚えつつ、その説明欄を恐る恐るタップする。
【詳細;現在解析不能(エラー)。 発動条件不明】
タクト: 「…………」
しばらくの間、その不穏極まりない一文字をじっと見つめ続けた。
タクト: 「……まあ、いいか。 どうせバグだろう」
プレートを閉じる。 そうして、得体の知れない二文字を脳内から完全に抹消した。
それよりも、だ。
タクト: 「……あと何回刃を立てれば、今日のノルマが片付くかな」
タクトは眼前の岩壁に視線を戻した。
そうして今度は何も考えず、ツルハシをただ撫でるように滑らかに振り下ろす。
 ――コン。
狙い過たず、魔鉱石が床へと転がり出た。
タクト: 「よし」
もう一度、重力に任せて。
――コン。
タクト: 「よし」
さらに、流れるような軌跡で。
――コン。
タクト: 「……今日、本当に仕事が楽だな」
タクトは少しだけ、幸福そうに口元を緩めた。
今朝からの自身のあらゆる挙動が、すでに無意識下において『SSS』のパッシブ効果――その漏洩(ろうえい)した恩恵によって極限まで最適化されていることなど、彼は未だ知る由もなかった。
◇
タクトが奈落の底で呑気に石を叩いていた、ちょうどその頃。
遠く離れた黒狼団の根城では――。
フルート: 「……今のは」
フルートが、ハッとしたように顔を跳ね上げていた。
朝の静寂が支配する、館の長い廊下。
その中央に佇んだまま、フルートは自身の豊かな胸元へそっと細い手を当てる。
 フルート: 「……魔王様、ですか」
隣で古い帳簿をめくっていたハーモニカも、同じ精神の波動を確かに感知していた。
ハーモニカ: 「はい。 魂の奥底に響きました。 間違いありません」
厨房(ちゅうぼう)からひょっこりと顔を出したカスタネットが、驚きを帯びて振り返る。
カスタネット: 「今、何か……得も言われぬ繋がりを感じませんでしたこと?」
チェロは硝子玉の瞳を瞬かせ、ぽつりと静かに溢(こぼ)した。
チェロ: 「……響いた」
四人は顔を見合わせた。
それは、言葉で言い表すにはあまりに形而上(けいじじょう)的な感覚であった。 昨日までのそれとは明らかに違う。 タクトと結ばれた魂のパスが、ほんの僅(わず)かに、しかし決定的に深く、太く繋ぎ直されたかのような。
ハーモニカが銀縁眼鏡の奥で静かに瞼(まぶた)を閉じる。
ハーモニカ: 「……まさか」
そうして、知の才女はその天才的な脳組織を稼働させ、瞬時に真実へと至った。
ハーモニカ: 「私たちの職能情報(スキルデータ)が……」
フルートが、神話の奇跡を目の当たりにしたかのように小さく息を呑む。
フルート: 「魔王様へ……注がれた、と?」
ハーモニカ: 「はい」
ハーモニカの声が、抑えきれぬ歓喜によって小刻みに震えた。
ハーモニカ: 「我々の矮小(わいしょう)なる力を……主(あるじ)が、自らの内へと受け止めてくださったのです……!」
カスタネットが、祈りを捧げるように両手を胸の前で固く握り締める。
カスタネット: 「まあ……何てことでしょう……!」
チェロも小さく、確かな重みをもって頷(うなず)いた。
チェロ: 「閣下が、私たちを、使ってくれる」
フルート: 「……」
フルートは、そっと長い睫毛(まつげ)を伏せた。
胸の奥底が、焼き付くように熱い。
 魔王様。 自分たちのすべてを。 力も、技も、これまでの血塗られた生き方さえも。
その一部を、あの至高の御方がまるごと受け入れてくださったのだ。
フルート: 「……臣下として、これ以上の誉(ほま)れがこの世に存在するでしょうか」
フルートは、零(こぼ)れ落ちそうな涙を堪えながら静かに微笑んだ。
ハーモニカの眼鏡の奥も、湧き上がる感動の涙によって真っ白に曇っていく。
ハーモニカ: 「魔王様……っ! ああ、何という御恩……!」
カスタネットも、可憐なハンカチで目元をそっと押さえた。
カスタネット: 「何という、海より深い慈悲の御心(みこころ)……!」
チェロは――相変わらずの無表情であったが、もし獣の尾を持っていたなら、千切れんばかりに激しく振り回していただろう。
館の廊下は、一瞬にしてそんな、眩(まばゆ)いほどの狂信的な空気に満たされていった。
だが――。
◇
タクト: 「……」
ちょうどその頃。 眷属たちから神のごとく崇拝されている、当の魔王(タクト)は。
フルート: 『――タクト様』 タクト: 『ん? なに?』 フルート: 『緊急の報告がございます。 現在、我々の拠点へ何者かが接近しております』 タクト: 『人? それとも魔物?』 フルート: 『武装した人間です』 タクト: 『じゃあ、とりあえず情報確認でもしたら? 交渉とか』 フルート: 『……承知いたしました』
じっとりと湿った坑道の中。
タクト: 「あと……」
タクトは煤(すす)けた懐中時計の蓋(ふた)を開け、チクタクと刻まれる秒針に目を落とした。
タクト: 「定時まで、まだ結構な時間があるな。 よし、サボるか」
それからしばらくして、再びフルートから脳内へと念話が滑り込んできた。
フルート: 『――タクト様』 タクト: 『ん? 交渉、無事に終わった?』 フルート: 『いえ。 接近していた集団ですが、突如としてすべての武装を放棄し、完全なる降伏の意思を示しました』 タクト: 『そう。 じゃあ解決だね。 よかったじゃん』 フルート: 『この場合、やはり彼らの殲滅(せんめつ)は必要ありませんでしょうか?』 タクト: 『…………』
タクトは採掘用のツルハシを握りしめたまま、こめかみを突き刺すような激しい頭痛に耐え、しばらくの間、無言の底に沈んだ。
 タクト: 「ねえ、フルートさん」
フルート: 『はい』
タクト: 「俺、はじめから殲滅の指示なんて、ただの一言も出してないからね!?」
フルート: 『……』 念話の向こうで、フルートが所在なげに静かに瞬き(まばたき)をする気配が伝わってくる。
フルート: 『……失礼いたしました。 わたくしの浅はかな早合点でございました』
タクト: 「あと」
フルート: 『はい』
タクト: 「チェロが、敵から和睦の証として何かを貰(もら)ったようです」
フルート: 『何を?』
タクト: 「大鎌、です」
フルート: 『……なんで大鎌!?』
タクトは深く、深く考え込んだ。
タクト: 「ちょっと待って」
フルート: 『はい』
タクト: 「その敵の人たちって」
フルート: 『はい』
タクト: 「もしかして、あの盗賊を討伐しに来た王国軍の正規兵とかじゃないの?」
フルート: 『その可能性が極めて高いかと』
タクト: 「……」
タクトは、湿った泥の匂いが満ちる天井のその先、決して交わることのない見えない青空を仰ぎ見た。
きっと今日も、どこまでも突き抜けるような秋晴れのはずだ。 なのに俺は、どうしてこんな奈落の底で、国境間の外交交渉じみた胃の痛い会話に頭を悩ませているのだろう。
タクト: 「フルートさんたちが今いる場所って」
フルート: 『はい』
タクト: 「もとはと言えば、盗賊団のアジトだよね?」
フルート: 『左様でございます』
タクト: 「じゃあ……」
タクトは必死になって、血の流れない平和的解決策をひねり出す。
タクト: 「彼らにも、手ぶらで帰るわけにはいかない『面子(めんつ)』というものがあると思うから」
フルート: 『面子、ですか。 人間に特有の、中身のない見栄ですね』
タクト: 「うん。 だから、砦に残されていた盗品とかがあれば、全部彼らに引き渡してあげて。 それを彼らの手柄にさせてあげるんだよ」
フルート: 『……』
タクト: 「それで」
タクトはさらに言葉を継いだ。
タクト: 「『黒狼団は、自分たち王国軍が壊滅させた』という体(てい)にしてもらって、穏便に帰ってもらうように交渉したらどうかな?」
フルート: 『……』
タクト: 「駄目、かな?」
フルート: 『いいえ』 念話の向こうで、フルートの鈴を転がすような澄んだ声が、ほんの少しだけ弾んだ。
フルート: 『主(あるじ)の深き御心(みこころ)、しかと拝聴いたしました。 すべて、合点がいきました』
タクトは心底安堵(あんど)して頷(うなず)く。
タクト: 「じゃあ、穏便によろしく頼むよ」
フルート: 『すべて、このフルートにお任せくださいませ』
プツン、と頭の奥で念話が途切れる。 タクトはごつごつとした岩壁に背をもたれかけさせ、少しだけ、遠い目をした。
SSSが五つ。
従属契約者との異常同期(シンクロ)。
得体の知れない不穏なバグスキル《ラッキーH》。
そして、身に覚えのない王国軍との外交交渉。
 そんな、世界を揺るがすような有象無象(うぞうむぞう)よりも――。
タクト: 「早く、定時のチャイム鳴らないかな……」
タクトにとっては。
その一点のほうが、世界の命運なんかよりもよほど重要で、切実な問題であった。
そうして気を取り直すと、彼は再び、流れるような美しさでツルハシを振るった。
――コン。
狙い過たず、またしても蒼(あお)い魔鉱石が床へと転がり出る。
タクト: 「……よし」
今日も、この世界の片隅で。
タクトの周囲だけは、どこまでも、この上なく平和であった。
――コン。 岩肌を軽く叩く。 まるで熟した果実が枝からこぼれ落ちるように、蒼(あお)い魔鉱石がまた一つ、足元へと転がり出た。
タクト: 「……よし」
タクトはそれを拾い上げ、背後に置いた背負い籠(かご)の中を覗(のぞ)き込む。
そこにはすでに、規定のラインを優に超えた鉱石が山積みとなっていた。
朝から作業を始めて、まだ昼前。 いつもなら、どれほど生真面目にツルハシを振るったとしても、もう数時間は要する分量だ。
けれど、今朝は妙に身体の調子が良い。
 タクト: 「……なんか、今日も異常に早いな」
タクトは不思議そうに首を傾(かし)げた。
昨日も早かったが、今日はさらに輪をかけて早い。 呼吸すら全く乱れていない。
理由は判然としないが、ただ、掘る。 見つかる。 掘る。 また見つかる。 無意識のうちに自らの肉体が最短かつ最適な軌道を選択し、一切の摩擦(ストレス)なく頑強な岩盤を崩していくのだ。
そんな、奇妙なほど滑らかな反復を繰り返しているうちに、気がつけば本日の労働(ノルマ)が完全に終了していた。
タクト: 「……終わった」
懐中時計を取り出す。 針はまだ、正午の手前を指している。
タクト: 「……」
タクトはしばらくの間、チクタクと音を立てる時計の文字盤を見つめ、それから、坑道の薄闇のなかで小さく力強く拳を握り締めた。
タクト: 「よしっ!」
仕事が早く片付いた。 底辺の労働者にとって、これ以上に魂が躍る瞬間はない。
採掘士として神域の才覚を発揮していることよりも、残された時間をすべて自分の自由のために費やせることのほうが、タクトにとっては数万倍も重要な関心事であった。
手際よく道具を片付け、ツルハシを所定の棚へ戻す。 鉱石の詰まった籠を納品所へと運び終え、最後に作業区画に忘れ物がないか軽く一瞥(いちべつ)をくれた。
タクト: 「……帰ろう」
足早に宿舎へ戻ろうとした、その時だった。
ふと、視界の片隅に『共同温泉』と煤(すす)けた文字で書かれた、湯屋の古い木看板が目に入った。
タクト: 「……そういえば」
今はまだ昼前。 同僚の採掘士たちの多くは、今なお薄暗い奈落の底で泥まみれになり、必死に壁を叩き続けている時間帯だ。
ならば、今行けば。
 タクト: 「温泉、一番風呂で貸し切り状態かな」
タクトは小さく口元を緩めると、一切の迷いなく、湯屋のひなびた暖簾(のれん)の方へと足を向けた。
◇
同じ頃。
タクトのいる場所から少し離れた、別の採掘区画では――。
千歳凪: 「……え?」
千歳 凪(ちとせ なぎ)が、自身のステータスプレートを見つめたまま静かに固まっていた。
今朝、彼女がプレートを開いて確認したとき、採掘士のレベルは確かに――『5』であった。
愛しのタクトくんと寸分違わぬ、愛おしい数字。 それだけで、彼女は胸の奥が弾けるほどに歓喜していたのだ。
同じ天稟(てんぴん)、同じ鉱山、同じ生業、そして同じ水準の強さ。
ただそれだけで、凪にとっては世界のすべてを掌握したかのような至上の幸福感があった。
ところが、今。
千歳凪: 「……二十五?」
表示されている双眸を刺すような数値を、信じられない思いで凝視する。 やはり見間違いではない。
【クラス】採掘士 E 【LV】25
千歳凪: 「……」
凪はゆっくりと瞬きを繰り返した。
朝は確かに5だったのだ。 それが、ほんの数時間の労働を経ただけで、一気に25まで跳ね上がっている。
千歳凪: 「……どうして?」
むろん、胸中に一切の心当たりがないわけではない。
 タクトくん。 凪がコピー能力の対象として選び取った、最愛の彼その人。
そして、今なお自身の肉体を満たしている、奇妙で万能感に溢(あふ)れた感覚。
いざ採掘を始めてみれば、次にどのような挙動をすべきか、どの岩肌を穿(うが)てばいいのか、どう動けば最も効率よく結晶を剥ぎ取れるのか。 思索するまでもなく、なぜかすべて『直感』という名の確信として脳内に降ってくるのだ。
千歳凪: 「……不思議」
凪は眼前の岩壁に目をやった。 朝から割り当てられていたはずの過酷な岩盤は、すでに彼女一人の手によって、完全に掘り尽くされて白茶けた残骸を晒している。
しかも、自分でも戦慄(せんりつ)するほどの速度で、本日のノルマをとうに片付けてしまっていた。
千歳凪: 「……」
凪はさらに深く、甘美な思考の海へと潜っていく。
タクトくんも――きっと、彼自身も今、これとまったく同じ、あるいはこれ以上の異常な領域にいるのだろう。
だとするならば。 コピー元であるタクトくんのレベルが、人知を超えた速度で急上昇したからこそ、その余波が、彼と繋がった自分のレベルにまで逆流してきたのではないか。
千歳凪:――やはり、私と彼は、魂の根底で完全に『同期』している。
千歳凪: 「……まさかね」
凪は愛らしく首を横に振った。
けれど、その仮説の正鵠(せいこく)を射ている確率は、極めて高そうだった。
通常の人間であれば、もっと血眼になって調査すべき異常事態だろう。 原因を突き止め、仕組みを精査し、神殿の専門家を頼る。 それが、常識という檻(おり)に守られた人間の取るべき行動だ。 けれど、凪は違う。
千歳凪: 「……タクトくんと、同じ速度で歩みを進められるのなら」
それでいい。 それだけで十分だと、魂の底から確信していた。
 世界の法則など知ったことではない。 小難しい理由など、後回しで構わないのだ。
千歳凪: 「むしろ――」
薄暗い坑道の片隅で、完璧なお嬢様の口元が、だらしなく蕩(とろ)けるように緩む。
千歳凪: 「……タクトくんと二人、手を携(たずさ)えて一緒に強くなっているみたいで。 すごく、素敵」
誰もいない無人の採掘場で、千歳凪はただ一人、至福の恍惚(こうこつ)に浸って美しく微笑んでいた。
◇
同じ頃。
タクトは、共同温泉の広々とした湯船の中に身を沈めていた。
タクト: 「……」
たっぷりと注がれた熱い湯に、肩まで深く身を委ねる。
タクト: 「…………」
静かだった。 自分以外には誰もいない。
乳白色の湯気が、高い天窓に向かって、まるで生き物のようにゆっくりと立ち上っている。 山を支配する硬く冷たい空気とは対照的な、身体の芯から頑固な凝りを融(と)かしていくような温もりの抱擁。
タクト: 「……最高だな」
タクトは瞼(まぶた)を閉じ、魂の脱け殻のような感嘆を漏らした。
朝からの重労働を、いつもより圧倒的な速度で片付け、真昼間から極上の湯に浸かる。 これ以上の贅沢(ぜいたく)が、この底辺の生活にあっていいのだろうか。
タクト: 「……やっぱり、鉱山に来て正解だったな」
タクトは独り言のようにポツリと呟いた。
適度に身体を動かし、早々にノルマを終え、誰もいない一番風呂を独占する。
平穏だ。 これ以上なく穏やかで、完璧なるスローライフの極みがここにあった。
 タクトは湯船の中で、ゆっくりと足を伸ばした。
そうして浮力に身を任せながら、ふと脳裏を過(よぎ)った疑問に目を向ける。
タクト: 「……そういえば」
自身のステータス。 今朝方確認したときは、確かに『採掘士E・レベル5』であった。
タクト: 「……今日の一労働で、一体どれくらい上がったんだろうな」
タクトは脱衣所の棚に置いてあったステータスプレートを、微量な魔力の操作で手元へと引き寄せた。
白く立ち込める湯煙の向こうで、淡い青白い光がふわりと浮かび上がる。
【名前】指揮 タクト 【クラス】採掘士 E 【LV】25
タクト: 「…………」
タクトは、熱い湯の中に浸かったまま石像のように硬直した。
タクト: 「……二十五?」
今朝、確かに5であったはずだ。 それなのに。
タクト: 「……二十五?」
濡れた手で目をこすり、もう一度だけ凝視してみる。
やはり、厳然たる事実として『25』の数字が刻まれていた。
タクト: 「……」
タクトは湯に肩まで浸かったまま、腕を組んで思索に耽(ふけ)った。
昨日まで、5。 今日、25。
タクト: 「……」
その原因を、彼なりの合理性をもって論理的に手繰(たぐ)り寄せていく。 あの眷属たちとの従属契約。 新機能のモード切替。 そして――。
タクト: 「……ああ」
タクトは水飛沫(みずしぶき)を上げてポンと手を打ち、実にあっさりと納得の境地に至った。
 タクト: 「あの、《スキル経験値ブースト》ってやつの仕業か」
たぶん、そういうことなのだろう。 獲得経験値が通常の十倍。 今朝、プレートの端っこにそんな説明書きが躍っていた気がする。
ならば、レベルの上昇速度が異常なまでに跳ね上がっているのも、システム上の当然の仕様というわけだ。
タクト: 「……なかなか、便利な機能じゃないか」
通常の人間であれば。 レベル5から25。 わずか数時間の労働で二十もの階梯(かいてい)を駆け上がったという異実に直面すれば、間違いなく驚天動地する。 狂喜乱舞するか、さもなくば自身の肉体に起きた異常性について、神殿に駆け込んででも詳しく調べるはずだ。
けれど、どこまでも事なかれ主義のタクトにとっては――。
タクト: 「仕事が早く終わるのなら、まあいいか」
彼の感想は、ただそれだけに尽きた。
ステータスプレートを閉じ、手拭い(てぬぐい)と一緒に湯船の縁へと置く。 そうして再び、首の境界まで熱い湯に身を沈めた。
タクト: 「……なんだか、眠くなってきたな」
そっと瞼(まぶた)を閉じる。
平和であった。 どこまでも、波一つないほどに平穏な時間だった。
◇
同じ頃。
共同温泉の薄暗い入り口。
千歳凪: 「……」
凪が、静かに佇(たたず)んでいた。 その腕には、着替えの収められた竹籠(たけかご)を抱えている。
今日も彼女の採掘作業は、人知を超えた異常な速度で片付いていた。 いつもならば、鉱山の人間は誰も彼もが泥と汗に塗れて岩壁を叩き続けている時間だ。
ゆえに、この真昼間に湯屋へと足を運ぶ者などまずいない。 皆無に等しいと言ってよかった。
 千歳凪: 「……誰も、いないわよね」
凪は入念に周囲の気配を探った。 脱衣所の様子を窺(うかが)い、先客の足音の有無を確かめる。 問題はなさそうだ。

彼女は小さく、満足げに頷(うなず)いた。
千歳凪: 「よし」
広々とした湯船を独占しよう。 日頃の微々たる疲れを融(と)かし、午後はまた、愛しいタクトくんの気配を遠くから吸い込みながらゆっくりと過ごすのだ。 そんな幸福な予定を胸に抱いて。

ガラリ、と重い木製の引き戸を開け放った。
むせ返るような熱い湯気が、足元から白く這(は)うように流れ出してくる。
その、刹那(せつな)であった。
千歳凪: 「…………え?」
凪の足が、床に縫い付けられたかのようにピタリと止まった。

そこに、いたのだ。 先客が。 一人。
乳白色に濁る湯船の中央。
頭の上に白手拭いをちょこんと載せ、目を閉じて。 この上なく無防備に、静かに湯を堪能している一人の少年。

凪は、その彫刻のような横顔を凝視した。
見間違えるはずがなかった。 自身の網膜に狂おしいほど焼き付き、幾千もの夜の夢に現れた、世界で一番大好きな少年の横顔。
千歳凪: 「……タクト……くん?」
無意識のうちに、唇の間から掠(かす)れた声が漏れ出していた。
 タクトが、ゆっくりと重い塗膜を剥がすように目を開けた。

タクト: 「……ん?」
まどろみから覚めやらぬ気だるげな動作で、声の主へと顔を向ける。
そして――。
タクト: 「…………」
タクトの身体もまた、完全に石化(せっか)した。

千歳凪: 「…………」
タクト: 「…………」
白く立ち込める湯煙のなかで、二人の視線が真正面からぶつかり合う。
凪の心臓が、肋骨を内側から破壊せんばかりに大きく跳ね上がった。

ドクン。 ドクン。 ドクン。
早鐘のごとき重苦しい鼓動が、鼓膜の奥で五月蠅(うるさ)いほどに鳴り響く。
十年間、ただ彼の背中だけを追いかけてきた。
十年間、狂おしいほどに焦がれ続けてきた。

あの高校の教室で奇跡の再会を果たしてからは、連日連夜、どうすれば彼に相応(ふさわ)しい女になれるかをそれだけを思考し、血の滲(にじ)むような研鑽(けんさん)を積み、完璧なる淑女を演じ切ってきたのだ。
そうして、ついにこの見知らぬ異世界の果てまで追いかけてきた。
その最愛のタクトくんが、今、目の前で無防備に揺れている。 しかも――温泉。
 衣服の一切を脱ぎ捨てた、この共同温泉という密室において。
千歳凪: 「…………」
凪の脳組織が、一瞬にして真っ白にショートした。

けれど、その次の刹那(せつな)。
彼女の常軌を逸した思考回路が、限界を超えた速度で歯車を噛み合わせ始めた。
千歳凪:――これは。
千歳凪:――神が私に与えたもうた、至高にして最大の好機(チャンス)なのでは?
タクトくんと二人きり。 遮るものはなく、先客もいない温泉。

そして何より、この戦時下の世界においては、男女で浴場を厳格に分けるという文化そのものが希薄だった。 効率主義が行き届いたこの鉱山宿舎において、風呂が『男女共用(混浴)』であることは至極当然の常識。
召喚されたばかりの現代日本人の倫理観からすれば天地がひっくり返るような異常事態だが、この異郷の大地においては、これが『普通』であり『合法』の営みなのだ。
つまり――。
千歳凪: 「…………」
凪は、ゆっくりと聖女の如き慈愛に満ちた微笑(ほほえ)みをその貌(かたち)に浮かべた。

千歳凪: 「こんにちは、タクトくん」
タクト: 「……え?」
タクトの顔が、にわかに恐怖で引きつりを見せる。
タクト: 「ち、千歳……?」
千歳凪: 「うん」
凪は可憐(かれん)に笑ってみせる。 それは学舎で絶えず見せていた、完璧なるお嬢様の、一点の翳(かげ)りもない純白の笑顔であった。

千歳凪: 「久しぶり、ね」
タクト: 「いや、ちょっと待て……」
タクトは慌てて周囲の無人を確認し、動転した目を泳がせる。
 タクト: 「なんで、千歳がこんな場所にいるんだ!?」
千歳凪: 「私もね、採掘士としてこの鉱山へ配属されたの。 偶然、今日は仕事が早く終わってしまったから」
タクト: 「……そう、なのか」
千歳凪: 「タクトくんも同じ?」
タクト: 「うん」
千歳凪: 「じゃあ――」
凪は、まるで天気を語るかのような極めて自然な動作で。
その手に携えた手拭い(てぬぐい)をそっと抱き締め、湯船の方へと静かに一歩を踏み出し、乳白色の湯を指差した。

千歳凪: 「せっかくだし、一緒に入りましょ?」
タクト: 「…………」
タクトの思考回路が、完全に機能を停止した。
タクト: 「……待て待て待て待てっ!」
タクトはザバーッと激しい水飛沫(みずしぶき)を上げて湯船の端へと後ずさり、必死の形相で距離を確保する。

千歳凪: 「え?」
タクト: 「いやいやいやいや!! おかしいだろ!!」
タクトは慌てて視線を明後日の方向へと逸(そ)らし、両手で自らの顔を覆った。
タクト: 「ここ、共同温泉だからな!?」
千歳凪: 「ええ、知っているわよ?」
タクト: 「男女一緒なんだぞ!?」
千歳凪: 「そうみたいね」
タクト: 「……いや」
タクトは濡れた髪のまま頭を抱えた。
タクト: 「いやいやいやいや、絶対におかしいだろ!」
千歳凪: 「昔は孤児院で、小さい頃に一緒に入っていたでしょう?」
タクト: 「いつの話をしてるんだよ! 十年前だろ!」
凪は無辜(むこ)の少女のように小首を傾(かし)げる。
千歳凪: 「それにね、この世界においてはこれが『普通(コンプライアンス)』なのよ?」
タクト: 「そうだけど! 俺の現代人としての理性が追いつかないから!」
千歳凪: 「それと――」
凪は、極上の微笑みを絶やさぬまま、ほんの少しだけ頬を薔薇(ばら)色に染めて囁(ささや)いた。

千歳凪: 「他の方ではなくて。 タクトくんだから、だからよ?」
タクト: 「…………っ」
千歳凪: 「何か、問題はあるかしら?」
タクト: 「俺の心臓に甚大な問題がある!!」
千歳凪: 「どうして?」
タクト: 「どうしてって、お前……!」
タクトは完全に言葉に詰まった。
凪は、その動揺しきった少年の姿を特等席で眺めながら。
激しく、胸の奥底が焼き付くような熱に満たされていくのを実感していた。
千歳凪:――かわいい。
あの冷静沈着なタクトくんが、激しく取り乱している。 私の姿を前にして、こんなにも必死に慌てふためいている。
 ただそれだけで、十年間報われることのなかったあらゆる苦労が、一瞬にしてすべて昇華されたかのような全能感があった。

千歳凪: 「……じゃあ」
凪は、濡れたタイルを素足で静かに踏みしめ、さらに一歩、彼との距離を詰めた。
千歳凪: 「私、タクトくんに見られたとしても、全然気にしないのだけれど?」
タクト: 「俺が気にする!!」
コンマ一秒、一切の猶予もない即答であった。

千歳凪: 「……ふふ」
タクト: 「笑うな! 俺、もう先に出るからな!」
千歳凪: 「ええ」
タクト: 「お前はゆっくり入ってろ!」
千歳凪: 「分かったわ」
ザバァッ! と勢いよく湯を割り、タクトは脱衣所へ向かって逃げるように駆け出していった。

バタンッ! 乱暴に引き戸が閉まる。 湯気に包まれた空間が、再び元の静寂を取り戻した。
千歳凪: 「…………」
凪はしばらくの間、閉ざされた扉の木目をじっと見つめ続けていた。
そうして、ゆっくりと熱を帯びた自らの頬を両手で包み込む。

千歳凪: 「…………っ」
顔が火照(ほて)るように熱い。
千歳凪: 「……タクト、くん」
小さく、細い吐息とともに呟(つぶや)く。
千歳凪: 「かわいかった……」
完璧なるお嬢様の仮面が、一瞬にしてドロドロに融(と)け落ちていく。

千歳凪: 「逃げちゃったわね……」
けれど、胸を満たすのは底知れぬ歓喜だ。
だって、そうではないか。 ついに初めて、誰の邪魔も入ることなく、二人きりで言葉を交わせたのだ。
あの高校の学舎で再会して以来、何度も話し、幾度となくその身を近くに潜ませてきた。 けれど――。
 今日が。 今この瞬間が。
 一番、二人の心が、魂の距離が近かったと確信できる。
千歳凪: 「……共同温泉」
凪は、タクトが先ほどまで身を委ねていた場所を確かめるように、ゆっくりと、その愛おしい湯船へと身体を沈めた。
千歳凪: 「……何て素敵な場所なのかしら、異世界は」
誰も聞いていない無人の空間。 だからこそ、彼女は笑う。

少しだけ、いや、客観的に見ればかなり猟奇的で危うい笑顔を浮かべて。
千歳凪: 「また、来ましょう」
むろん、明日も、明後日も、これから先ずっとだ。
タクトくんがこの真昼間の時間帯に訪れるというのなら、自分もその瞬間に必ずここに居合わせればいい。
指定された採掘のノルマなど、どうせ秒刻みで片付いてしまう。 理由は判然としないけれど、タクトくんと同じ速度で、魂のレベルが上がっていくのだから。

きっと、これからも。
愛しい彼と同じ時間を、同じ空間で共有できる。
凪は白く立ち込める湯煙の向こうで。 熱く火照った貌(かたち)を押さえながら、どこまでも静かに、深く微笑み続けていた。

◇
同じ頃。
温泉から這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で逃げ出したタクトは、衣服を半ば乱雑に身に纏(まと)ったまま、宿舎へと続く泥道を足早に歩いていた。
タクト: 「……」
胸のざわつきに急かされるような、物凄い早足であった。
 別に、後ろめたい不祥事を働いたわけではない。 この戦時下の世界においては、男女で浴場を共有することのほうがむしろ一般的なのだ。 頭では、十分に理解している。
厳然たる事実として知ってはいる、けれど――。
タクト: 「……無理だろ。 心臓に悪すぎる」
タクトは片手で己の額をきつく押さえた。
千歳 凪(ちとせ なぎ)。 同じ高校の、同じ教室にいた、誰もが羨(うらや)む高嶺の花の少女。
それが、どうしてこの見知らぬ異世界の、それも採掘士たちがひしめき合うタコ部屋のような辺境の地で、よりによって一切の遮蔽(しゃへい)物のない温泉のなかで遭遇せねばならないのか。
タクト: 「……」
タクトは、未だ熱を帯びた自らの胸元へそっと手を当てる。
その内側で、心臓がまだ嫌な速度のまま、肋骨(ろっこつ)を小刻みに叩き続けていた。
タクト: 「……落ち着け。 今のはただの、不可抗力の事故だ」
大きく、深呼吸を繰り返す。 吸って。 吐いて。
タクト: 「……」
張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだ。
――その、刹那(せつな)。
彼の脳組織の奥底へと、無機質で、かつて聞いたことのある軽い電子音が滑り込んできた。
――ピロン。
タクト: 「……?」
タクトの足が、その場にピタリと止まる。
 衣服の懐に収められていた金属製のステータスプレートが、衣服の隙間から淡く、不吉な明滅を放っていた。
得も言われぬ、非常に嫌な予感が全身の肌を粟立(あわだ)たせる。
観念して、プレートを開く。
【固有スキル】 《スキル経験値ブースト》 LV1 《ラッキーH》 LV2(UP!)
タクト: 「…………」
タクトはただ、白茶けた景色のなかで、完璧なる虚無の表情を浮かべたまま立ち尽くすほかなかった。
タクト: 「……なんで上がったんだよ、これ」
むろん、応じる声などどこにもない。
タクトは震える指先で、呪われたその説明欄を再びタップした。
【詳細;現在解析不能(エラー)】
タクト: 「…………」
タクトは、そっとプレートへの魔力供給を断ち、画面を消し去った。
タクト: 「……まあ、いいか。 見なかったことにしよう」
今日、これで何度目になるか分からない、自己を平穏へと導くための便利な呪文。 それをまた、自嘲気味に口にする。
深く思索に耽(ふけ)るのはやめだ。 考えれば考えるほど、この異世界の不条理なバグの深淵に呑(の)み込まれてしまいそうになる。
タクトは真っ直ぐに前を向き、己の宿舎へ向かって再び足を動かし始めた。
その、遥(はる)か背後。
少し離れた場所にある共同温泉のなかでは――。
千歳凪: 「……ふふっ」
凪が。
 乳白色の湯船の中で、未だ微(かす)かに漂う愛しい人の残り香を全身で享受しながら、狂おしいほどに幸福そうな微笑みを湛(たた)えていた。
こうして。
千歳 凪(ちとせ なぎ)と、シキ・タクト。
二人の、この異世界の果てにおける最初の邂逅(かいこう)は。
あらゆる意味において心臓に悪い、ひなびた共同温泉でのハプニングから、静かにその幕を開けたのであった。
その夜。
鉱山宿舎の薄暗い食堂には、いつもと変わらぬ質素な夕食が寂しげに並んでいた。
石のように頑強な黒パン。 くず野菜と豆を少々の塩で煮込んだだけの、色の薄いスープ。
そして――今日は月に一度の特別配給として、親指ほどの小さな『干し肉』が一切れ、皿の端に載せられていた。
タクト: 「……当たりだ」
タクトは、皿の隅に鎮座するそのちっぽけな肉片を、まるで国宝の宝石でも鑑賞するかのように大切そうに眺めた。
朝のゆで卵。 昼前の早期退勤。 静寂に満ちた真昼間の風呂。 購買部で手に入れた古びた歴史書。
そして、この夕食の干し肉。
今日も一日、彼の計画は完璧に遂行されたはずだった。
 いや、日中、共同温泉の湯煙のなかで、元の世界の同級生である千歳凪(ちとせ なぎ)と無防備な姿で鉢合わせた一件だけは、心臓が止まるほど想定外の不条理であったが。
タクト: 「…………」
タクトは固い黒パンを指先でちぎりながら、湯気の向こうへ思考を這(は)わせる。
千歳 凪。
同じ高校。 同じ教室にいた、男子生徒にとっては高嶺の花だった少女。
この過酷な異世界において、まさか同じ鉱山の最底辺で汗を流すことになろうとは、夢にも思わなかった邂逅(かいこう)。
タクト: 「……まあ」
タクトは小さく、独り言のように呟(つぶや)いた。
タクト: 「元気そうで何よりだったな。 ……うん」
それだけ。 それ以上の深い詮索は脳内から締め出す。
思索を深めれば深めるほど、あのお湯のなかでの色々と一線を越えかけていた光景が鮮烈に蘇(よみがえ)り、現代人としての理性が削り取られてしまう。
タクト: 「……忘れよう」
スープを一口、口に含む。 じんわりと温かい。 素朴に美味しい。 これでいいのだ。
異世界の行く末や、厄介な恋愛フラグを回収することよりも、目の前にある夕食(干し肉)を健やかに味わうことのほうが、彼にとっては万倍も重大な真実であった。 そう、確信していた。
まさに、その時だった。
――ピロン。
タクト: 「……?」
聞き慣れた、脳髄を直接冷たく叩くような、あの無機質な電子音。
 頭の奥底へと、氷のように澄み切った、あのメイドの声が滑り込んできた。
フルート: 『――タクト様』
タクト: 「……フルートさん?」
フルート: 『はい』
タクトはそれとなく周囲を見回した。
食堂は相変わらず、耳を劈(つんざ)くような騒がしさに満ちている。 過酷な一日の労働を終えた採掘士たちが、安物のエール酒を喉へ煽(あお)り、監督官への呪詛を吐き捨て、明日の稼ぎについて怒鳴り合っている。
その泥臭い喧騒の真っ只中で、タクトだけが、静かに意識の底の念話(メッセージ)へ全神経を傾けた。
タクト:(どうしたの?) 一瞬。 返答が途切れた。
いつもの完璧な彼女なら、即座に『はい、魔王様』と冷徹極まる即答が返ってくるはずであった。
だが、今夜は明らかに違っていた。
フルート: 『……申し訳、ございません』 タクト:(?) フルート: 『少々、こちらの本陣にて、予期せぬ緊急事態が発生しております』
タクト: 「…………」
タクトの、干し肉へと伸びかけていたフォークの先端が、虚空でぴたりと静止した。
タクト:(緊急事態って?) フルート: 『はい』 フルートの声のトーンは、いつもより一段と低く沈んでいた。
冷たく、静かで――そして、明らかな『戦慄(せんりつ)』を孕(はら)んでいる。
フルート: 『東方魔王軍、本陣へ――』 そこで、ほんの僅(わず)かな沈黙の隙間が生まれた。
フルート: 『大規模な敵襲がございました』
タクト: 「…………」
タクトは言葉を失った。
その言葉が持つ、あまりに壮大すぎるスケール感を、一介の小市民の脳髄で正しく咀嚼(そしゃく)するまでに、少しばかりの時間を要したのだ。
 タクト:(……敵襲?) フルート: 『はい』 タクト:(本陣って……フルートさんたちの家、だよね?) フルート: 『正確には、東方魔王軍を総括する巨大城塞(本拠地)にございます』 タクト:(あ、そっちの方ね。 なるほど)
タクトは軽く頷いた。 そうして、何気なく尋ねる。
タクト:(……誰が来たの?) フルート: 『――ワイバーン(飛竜)です』
タクト: 「…………」
タクトは不審そうに小首を傾(かし)げた。
タクト:(ワイバーン?) フルート: 『はい』 タクト:(あの、トカゲに翼が生えたドラゴンみたいなやつ?) フルート: 『広義には、それに近い悍(おぞ)ましき存在でございます』
フルートの声が、さらに硬く引き締まるのが伝わってきた。
フルート: 『ですが、問題はその物量(かず)にございます』 タクト:(数?) フルート: 『……数百』
タクト: 「…………」
タクトの顎(あご)が、少しばかり重力に負けて外れかけた。
フルート: 『いえ』 フルートが、冷徹にその数値を訂正する。
フルート: 『暗雲に紛れて急襲してきたため、正確な総力は未だ掌握しきれておりません。 ですが……』 タクト:(…………) フルート: 『上空で確認できた編隊だけでも、優に五百の群れを超えております』
周囲を満たしていたはずの騒がしい喧騒が、すーっと遠くへ退いていく錯覚に囚(とら)われた。
タクトは、ゆっくりとフォークを寂しげな皿の上へと戻した。
タクト:(……それって、さ) フルート: 『はい』 タクト:(かなりヤバい?) フルート: 『――極めて、絶望的な状況かと』 そこには一瞬の猶予もない、冷徹な即答があった。
タクトは眉間のシワを深く刻み込んだ。
昨日までの自分であれば、こんな天を突くようなスケールの話をされても、劇場のスクリーンで流れる映画のあらすじのように、現実感など一ミリも持てなかっただろう。
魔族。 魔王。 飛竜の軍勢。
どれもこれも、自分が希求してやまない平穏な日常(スローライフ)とは、あまりに次元の異なる絵空事であったはずなのだ。
だが、今は違う。
 フルートは。 ハーモニカは。 カスタネットは。 チェロは。
我が身の血を分け合い、魂の底で結ばれた絶対の契約者なのだ。
だからこそ、ほんの僅(わず)かではあったが――自身の胸の奥底が、見たこともない嫌なざわつきを覚えた。
タクト:(……フルートさん) フルート: 『はい』 タクト:(大丈夫なの、そこ?)
一瞬、脳裏に響く念話の向こう側から、空気を裂く凄まじい風切り音と、大気を震わせる爆散の重低音が鼓膜へと伝わってきた。
フルート: 『現在、残存している防衛兵力を即座に展開し、総力をもって応戦しております』 タクト:(そっか) フルート: 『しかし――』 フルートが、奥歯を噛み締めるように静かに言葉を絞り出した。
フルート: 『今回の侵略者は、ただの狂暴な魔獣の群れではありません。 かつて東方戦線において、我々を幾度も苦しめた最悪の宿敵にございます』
その忌まわしき宣告と同時に。
場面は、遥(はる)か遠く離れた、東方魔王軍の本拠地へと転換する。
◇
夜空が、一面の黒によって乱暴に塗り潰されていた。
瞬く星の瞬き(まばたき)も見えず、冴え渡る月も、その姿を不吉に隠蔽(いんぺい)している。
その理由は、立ち込める暗雲などではなかった。
天を覆い尽くす、無数の巨大な飛膜(つばさ)。 虚空を埋め尽くす絶対的な暴力の影が、魔王軍の城塞に降り注ぐはずの月明かりを、完全に断ち切っていたのだ。
魔族兵A: 「――来るぞ!! 迎撃しろ!!」
黒岩の城壁に立つ魔族兵の、悲痛な叫びが戦場に木霊(こだま)する。
直後――。
 大気そのものを激しく震わせ、虚空を引き裂くような、鼓膜を抉(えぐ)る咆哮(ほうこう)が、夜の山岳地帯を無慈悲に蹂躙(じゅうりん)した。
――グォォォォォォォンッ!!
魔族兵B: 「うわあああっ!」
魔族兵C: 「第一対空障壁、展開!! 急げ!!」
魔族兵D: 「魔導砲、照準を固定しろ!」
魔族兵E: 「敵の先陣、上空より急速落下!!」
魔族兵F: 「物量が多すぎる!! このままでは防衛陣形が崩壊するぞ!」
東方魔王軍本陣――巨大な黒曜石の城塞の周囲で、魔族の防衛部隊が地を這(は)うように一斉に展開を始める。
暗闇に明滅する魔法陣。 天空を覆う対空結界。 激しい重低音を響かせる魔導迎撃砲。 そして、弓兵部隊。
城塞が誇るあらゆる迎撃設備が、黒煙の燻(くす)ぶる夜空に向かって、一斉に容赦のない火線を噴き上げた。
しかし。
押し寄せる侵略者の物量は、あまりにも多すぎた。
天を不吉な黒で埋め尽くす、無数のワイバーンの群れ。
鋼鉄の装甲をも容易く切り裂く鋭利な翼。 岩盤を砕く巨大な牙。 暗夜に血に飢えた赤色の光を放つ双眸(そうぼう)。
そして――その凶暴な軍勢の中央上空。 一際(ひときわ)巨大な、もはや絶望的な質量そのものと化した個体が、悠然と大きな羽ばたきを繰り返していた。
右の眼球を失った、漆黒の飛竜。
顔面を斜めに走る無骨な古い痕。 その肉体には、幾つもの血みどろの戦場を生き抜いてきた 「絶対的な王者」 の証(あかし)が深く刻み込まれている。
最前線で対峙する魔族の古参兵が、喉を鳴らすような震え声で呟(つぶや)いた。
古参兵: 「……あれは」
隣に控える若き兵士の顔面から、すべての血の気が一瞬にして引き失せる。
 若き兵士: 「まさか……いや、しかし、あの姿は……」
古参兵: 「……隻眼(せきがん)」
その忌まわしき悪名を、誰かが呪詛のように口にした。
魔族兵G: 「――《隻眼のワイバーン》だ……!!」
戦場を支配していた空気が、瞬時にして完全に凍てついた。
東方戦線。 長年にわたって東方魔王軍と泥臭い死闘を繰り広げ、数多の魔族の命を屠(ほふ)ってきた最悪の宿敵。
飛竜王の直系眷属(けんぞく)にして、最強の空中艦隊と謳(うた)われる『隻眼のワイバーン軍団』。
その先頭に立つ一頭の怪物――隻眼のワイバーンが、天を隠す巨大な翼を広げた。
そうして、眼下の城塞を嘲笑(あざわら)うかのように、大気を引き裂く咆哮を放つ。
――グォォォォォォォォォン!!
魔族兵H: 「来るぞ!! 構うな、撃てぇぇっ!!」
次の瞬間。 王の呼び声に応じるように、無数のワイバーンが一斉に城塞へ向かって、死の急降下を開始した。
魔族兵I: 「総員、迎撃せよ!!」
魔導砲が容赦なく火を噴く。
――ドォォン!! 巨大な火球が夜空を赤く切り裂き、急降下するワイバーンの一体を直撃した。
しかし、その鋼鉄の如き強靭(きょうじん)な鱗(うろこ)は、爆炎の直撃すら僅(わず)かに受け流し、軌道を逸(そ)らしただけに留まる。
魔族兵J: 「装甲が硬すぎる! まともな打撃になっていないぞ!」
魔族兵K: 「第二射、装填を急げ!!」
天空の魔法陣から、無数の光矢が雨あられと放たれる。 夜空が、一瞬にして凄まじい閃光で埋め尽くされた。
だが、殺戮(さつりく)の群れはなおも止まらない。
魔族兵L: 「第一対空結界、敵の先陣と接触!」
魔族兵M: 「耐えろ!! 魔力を底から回せ!!」
――ズドォォォォン!!
飛竜の巨体が放つ圧倒的な運動エネルギーの激突により、巨大な城塞全体が地震のように激しく震え、軋(きし)んだ。
 魔族兵N: 「第一結界、損傷率七十パーセントを突破!」
魔族兵O: 「第二結界を今すぐ展開しろ!!」
黒岩の通路を魔族兵たちが血眼になって走り回る。 怒号と悲鳴が四方から飛び交う。
誰もが、この最悪の絶望の中で、一つの冷酷な事実を理解していた。
これは、ただの野良の魔物による気まぐれな襲撃などではない。
敵は、こちらの防衛戦力を。 日頃の防衛体制を。 そして、こちらの致命的な『弱点』を――完全に把握した上で、この日を、この瞬間を狙い澄まして奇襲をかけてきたのだ。
そして、今日。
東方魔王軍が抱えるその弱点は、あまりにも、大きすぎた。
守備隊長: 「――三将が、三将がいないぞ!!」
前線を支える守備隊長が、血を吐くような悲痛な声を張り上げた。
守備隊長: 「何だと!? 遊撃部隊はどうした! チェロ様は!?」
通信兵: 「ご不在です!!」
守備隊長: 「カスタネット様は!? 防衛網の統括はどうなっている!」
通信兵: 「ご不在です!!」
守備隊長: 「ハーモニカ様は!? 迎撃陣形の超並列指揮を仰げ!」
通信兵: 「同じく、ご不在です!!」
守備隊長: 「ならば……総司令であらせられる、フルート様は……っ!?」
その悲痛な問いに、通信兵は誰一人として言葉を返すことができなかった。
なぜなら、防衛網の命運を握る最高指揮官であるフルート本人が――。
今、この戦場(城塞)には影も形も存在しなかったからだ。
◇
フルート: 『――そのため』 安全かつ清浄に磨き上げられた盗賊の館(アジト)から主へ念話を繋(つな)ぐフルートが、冷徹なまでに淡々と現状を報告する。
フルート: 『現在、本陣にはチェロ様も、カスタネット様も、ハーモニカ様も不在にございます』 タクト:(……三人とも、いないの?) フルート: 『はい』 タクト:(なんでまた?) フルート: 『すべて、魔王様の御前(あの四畳半)へと馳(は)せ参じていたためです』
タクト: 「…………」
タクトは、干し肉を咀嚼(そしゃく)したまま石像のように無言になった。
タクト:(……あ)
そうであった。
 昨日、自分の狭苦しい四畳半に幹部全員が無理やり集合し、人間化の契約を交わしたのだ。 そうしてそのまま、みんなでこのひなびた砦へと引っ越して、健やかな新生活を始めてしまったのである。
その結果。
魔王軍本陣から、国を滅ぼすに足る最高峰の決戦兵器たちが、まとめて綺麗さっぱりと消失しているというわけだ。
タクト:(…………) タクトは、そっと食堂の煤(すす)けた天井の染みを仰ぎ見た。
タクト:(これ、俺のせいじゃないよね……?) フルート: 『もちろんでございます。 すべては主の深遠なる御導き、大いなる天啓(てんけい)に他なりません』 タクト:(……なら、いいか)
フルート: 『…………』 念話の向こうで、フルートが一瞬だけ沈黙の帳(とばり)を落とした。
フルート: 『ですが――』 タクト:(ん?) フルート: 『たった今、本陣の第一対空防衛線が完全に突破されました』
タクト: 「…………」
タクト:(……それ、もう手遅れってこと?) フルート: 『はい』 フルートの返答は、どこまでも氷のように静まり返っていた。
フルート: 『かなり、絶望的な領域かと』
その瞬間、念話の奥底から、巨大な石造建造物が根底から崩れ落ちるような重低音が響き渡った。
――ゴォォォン!! 続いて、魔族兵たちの絶望に染まった怒号。 荒れ狂う魔法の爆散音。 強固な装甲が粉砕される金属音。 そして、無数の悲鳴。
それらが、脳髄へ直に届く通信の網膜を震わせ、生々しく伝わってくる。
タクトは、完全にフォークを卓上へ置いた。
タクト:(……フルートさん) フルート: 『はい』 タクト:(どうするの、これ?)
静かに問いかける。
しかし、フルートはしばらくの間、何も応じなかった。
やがて――。
 フルート: 『……本来であれば』 その声は、驚くほどにどこまでも冷徹で、平坦であった。
フルート: 『わたくしが即座に本陣へと帰還し、全軍の指揮を執るべき状況にございます』 タクト:(うん) フルート: 『しかし』 ほんの僅(わず)か、誇り高き最高司令官の声音が、かすかに揺らぎを見せた。
フルート: 『……主(あるじ)をお護りするこの絶対聖域(アジト)を、離れるわけにはまいりません。 それに、我々三将とわたくしが欠けた現在の残存兵力では、あの隻眼のワイバーン軍団を完全に抑え込むことは――極めて困難です』
タクト:(…………) タクトは、手元に残された夕食の残骸を見つめた。
固い黒パン。 薄い野菜スープ。 そして、ちっぽけな干し肉。
さっきまで、あれほど素朴に美味しかった。 すべてが平和なスローライフの中にあった。
なのに、今。
自分の全く知らない遥(はる)か遠い空の下で。 自らと魂を分け合った契約者たちの部下である魔族たちが、絶望的な死闘を強いられているのだ。
タクトは、眉間のシワをほんの少しだけ深めた。
タクト:(……フルートさん) フルート: 『はい』 タクト:(俺にできること、何かある?)
その刹那(せつな)。
念話の向こう側が、凪(な)いだ海のように、完全なる静寂の深淵へと包み込まれた。
やがて――。
フルート: 『……ございます』 タクト:(なに?) フルートが、静かに祈りを捧げるかのように応じた。
フルート: 『ただ、一つだけ』 タクト:(うん) フルート: 『魔王様から――』 そこで、彼女は重々しく一言ひとことの言葉を選び抜いた。
 フルート: 『我々臣下へ、『絶対の御指示』をいただくことが叶(かな)うならば』
タクト:(指示?) フルート: 『はい。 全軍を即座に動かす、真なる王の勅命(ちょくめい)を』
タクトは腕を組み、しばし思考を巡らせた。
戦争。 魔族。 押し寄せる飛竜の軍勢。
そんな、あまりに浮世離れしたファンタジーの単語を頭の中で転がしてみる。
しかし、つい先日まで現代日本の平穏な高校生であったタクトには、戦争の現実など分かるはずもない。 軍事作戦も、高度な魔法戦術も、鉄壁の防衛陣形も、何一つとして持ち合わせてはいないのだ。
ならば、今の自分に的確な軍事指揮など、逆立ちしたって出せるはずがなかった。
――ただ。
今朝から、自身のステータスの中にあった、ある妙な設定(バグデータ)がずっと気になっていたのだ。
タクト:(……なあ、フルートさん) フルート: 『はい』 タクト:(ワイバーンって、さ) フルート: 『はい』 タクト:(あれって、要するに鳥なの?)
フルート: 『…………』 長い、あまりにも長い沈黙の帳(とばり)が下りた。
タクトの側は、至極真真面目であった。
タクト:(いや、空を飛んでいるんだよね?) フルート: 『はい』 タクト:(立派な羽がついてるんだろ?) フルート: 『……飛膜(つばさ)は、ございます』 タクト:(じゃあ、ただのでっかい鳥みたいなものじゃないの?) フルート: 『……生態の分類上は、飛竜種(爬虫類)にございますが……』
タクト:(飛竜、ね) タクトは、脳内でその単語を受け流しながら小さく頷(うなず)いた。
タクト:(なるほど。 じゃあ、じっくり焼けば鶏肉みたいな味がするのかな)
そうして。 何気なく。 本当に、一ミリの深い意味などなく、ただの思いつきで言葉を繋ぐ。
タクト:(鳥と言えば、さ) フルート: 『はい』 タクト:(なんだか無性に、美味しい焼き鳥が食べたくなっちゃったな)
タクト: 「…………」
念話の向こう側から、またしても大気が凍りつくような沈黙が下りた。
タクトは特に気にする様子もなく、空腹のままに言葉を続ける。
 タクト:(この世界にも、そういう気の利いた料理ってあるのかな) フルート: 『…………』 タクト:(肉を小さく切って串刺しにしてさ) フルート: 『…………』 タクト:(炭火の強火でこんがりと炙って、最後にパッと塩を振って食べる、あの香ばしいやつ)

その、刹那(せつな)。
フルートの、地を這(は)うように低く、そして小刻みに震える声が脳髄へと返ってきた。
フルート: 『――しかと、承知いたしました』 タクト:(ん?) フルート: 『魔王様の深遠なる御意図。 すべて、完璧に拝聴いたしました』 タクト:(……あ、そう? ならよかった)
フルート: 『魔王様』 その声音は、先ほどまで彼女を支配していたはずの焦燥とは――明らかに一線を画していた。
冷徹で、ひどく静か。
そして何より、絶対的な――背筋が凍りつくような純粋なる殺意と、狂信の決意を帯びていたのだ。

フルート: 『――御意のままに(すべてを灰塵へと帰し、あの地へ不毛の塩を撒きましょう)』
タクト:(……うん、じゃあ、そういうことでよろしくね) タクトは、自身の呑気な日常の独白が、いかに血生臭い戦略命令へと超翻訳されたかなど微塵(みじん)も気づかぬまま。
ぷつり、と念話を切った。
タクト: 「…………」
食堂に、いつもの泥臭い喧騒(けんそう)が戻ってくる。
タクトは、冷めかけた残りのスープをぐいと飲み干した。

タクト: 「……焼き鳥」
ぽつり、と。
タクト: 「やっぱり、塩で食べたいな」
それだけ独り言を呟(つぶや)いて席を立つと、使い古された食器を返却口へと戻した。
明日も、切望する定時退社に向けて全力で労働に励まねばならない。 早く寝よう。
そう思いながら、彼は宿舎の薄暗い廊下を、のんびりとした足取りで歩いていった。
 ◇
ちょうど、同じ頃。
東方魔王軍本陣――。
天空は、完全に飛竜たちの放つ圧倒的な闇によって覆い尽くされていた。 頑強な城壁の一部は無惨に崩落している。 主力の魔導砲はすでに何基も沈黙を強いられ、火薬の混じった黒煙を激しく噴き上げていた。
残された魔族兵たちは、傷つき、血を流しながらも、主無き城を死守せんと必死の形相で防衛線を維持し続けている。

その、崩れかけた城壁の中央において。
大気そのものが鏡のように歪(ゆが)み、一人の少女が転移魔法の残光とともに静かに降り立った。
月光を紡いだような銀色の髪。 冷徹な紅い瞳。 身を包むのは一切の乱れもない軍装。
東方魔王軍代理総司令官、フルートであった。

彼女は――ゆっくりと、絶望に染まりきった夜空を見上げる。
視線の先には、視界を埋め尽くすおびただしいワイバーンの群れ。
そしてその中央で、勝鬨(かちどき)を上げるように驕(おご)り高ぶる隻眼の怪物。
長年にわたり東方魔王軍を苦しめ、幾千の同胞の命を屠(ほふ)ってきた最悪の宿敵、飛竜王の直系眷属(けんぞく)――《隻眼のワイバーン》。

フルートは、静かに冷たい夜気を肺の奥底へと吸い込んだ。
 フルート: 「――全軍」
諦観(ていかん)に囚われていた魔族兵たちが、その凛(りん)とした声に弾かれたかのように、一斉に背後を振り返る。
フルート: 「聞きなさい」
その静かな声音には、一ミリの迷いも、揺らぎもありはしなかった。
フルート: 「我らが主(あるじ)――偉大なる魔王様より」
一拍。
彼女の紅い双眸(そうぼう)が、底知れぬ殺意の切っ先を帯びて、夜空を支配する群れを鋭く射抜く。
フルート: 「これより、至高の勅命(ごめいれい)を伝達いたします」
死線を彷徨(さまよ)う兵士たちの間に、巨大なさざ波のような動揺が走った。
魔族兵P: 「……魔王様から、ですか?」
魔族兵Q: 「今、この絶望的な戦況にあって……っ!?」
魔族兵R: 「何と……何と仰られたのですか、総司令!?」
フルートは――ただ、静かに微笑(ほほえ)んだ。
そこにあるのは、あらゆる慈悲の破片すら削ぎ落とした、極寒の絶対零度の微笑。
フルート: 「――『炭火で焼き、塩を振れ』と」
その言葉が持つ恐るべき真意を、死線を潜り抜けてきた歴戦の魔族たちは、瞬時にして理解した。
一切の命を残すな。 この大地を地獄の業火で焼き尽くし(炭火)、二度と新たな緑が芽吹くことのない不毛の焦土とせよ(塩を振る)――。
それすなわち、容赦なき完全なる根絶やし(殲滅命令)に他ならない。

フルート: 「我らが主(あるじ)は」
フルートが、ゆっくりと右手の甲を天へと掲げた。
フルート: 「この不遜なる羽虫どもが、一匹残らず灰塵(かいじん)へと帰すことを、切にお望みです」
彼女の背後の空間が、鏡のように次々とひび割れた。
ハーモニカが。 カスタネットが。 チェロが。
 転移の残光から姿を現すと同時に、天空へ向かって神域の魔法陣を幾重にも展開していく。

フルート: 「ならば――」
フルートの紅い双眸(そうぼう)が、夜空の月よりも鋭く、冷徹な輝きを放った。
フルート: 「――その至高の御意志に、魂をもって応えなさい!!」
その、刹那(せつな)。
東方魔王軍本陣のすべてを覆い尽くすように、天を丸ごと焼き尽くさんばかりの、巨大にして禍々(まがまが)しい殲滅魔法陣が天空へと描かれた。
大地が激しく震え、大気そのものが沸騰し始める。 連なる山々そのものが、その圧倒的な超常の力への恐怖によって、低く、重苦しく唸(うな)りを上げていた。
死の諦観から一転して解放された魔族兵たちが、狂おしい歓喜の雄叫びを上げ、一斉に武器を構え直す。

フルート: 「東方魔王軍――」
フルートは、静かに、そしてあまりにも残酷な死刑宣告を夜空の群れへと告げた。
フルート: 「総員、調理(殲滅戦)を開始せよ」
次の瞬間。
漆黒の夜空を、無数の極大魔法の火線が容赦なく切り裂いた。
――ドォォォォォォォン!!!
荒れ狂う火焔。 這(は)う紫電。 絶対零度の氷。 そして、すべてを呑(の)み込む深淵の闇。
幾千、幾万もの致死の魔力が、一斉に、傲慢なる飛竜の群れへと向かって撃ち上がっていく。

先ほどまで勝鬨(かちどき)を上げていた隻眼のワイバーンが、想定外の超常的な反撃に驚愕(きょうがく)の咆哮(ほうこう)を上げた。
巨大な翼が赤々と燃え盛り、岩盤を砕く牙が文字通り粉砕される。 絶望の絶叫が、夜の山岳地帯に激しく木霊(こだま)した。
 東方戦線。
長きにわたって泥臭く、血で血を洗う不毛な死闘を繰り広げてきた、魔族と飛竜の戦い。
その数ある凄惨(せいさん)な歴史の中でも、のちに『飛竜の炭火焼き(絶滅劇)』として語り継がれることになる、最大級にして最悪の一方的な蹂躙(じゅうりん)戦闘が――。
今、この瞬間に火蓋を切った。

◇
そして――ちょうど、その頃。
平穏なる鉱山宿舎の、薄暗い四畳半においては。
タクト: 「……明日の始業、何時からだっけな」
タクトが、硬く冷えたベッドへと身体を滑り込ませながら、小さく欠伸(あくび)を漏らして呟(つぶや)いていた。
タクト: 「六時半、か……。 定時のチャイムが鳴るまで、えらく長いな」
すっぽりと、頭の先まで使い古された布団を被(かぶ)る。
タクト: 「……ちゃんと、起きられるかな」
そっと、瞼(まぶた)を閉じる。
遥(はる)か遠く離れた東方の天では。
大地を激しく揺らし、空を丸ごと焼き尽くさんばかりの壮絶な大戦が幕を開けている。
飛竜王の直系眷属(けんぞく)。 隻眼のワイバーン軍団。 東方魔王軍が長年恐れ、忌み嫌ってきた、最悪の宿敵。

そのすべての生命が、一人の少年の 「焼き鳥が食べたい」 というあまりにも呑気(のんき)な一言によって、今まさに炭火の如く物理的に焼却され、絶滅しようとしているという、あまりに破滅的な事実を。
 最底辺たるEランク採掘士の少年は――。
何一つとして、その事実を知らない。
タクト: 「……美味い焼き鳥、食いたいなぁ……」
最後に。 ただの、どこにでもいる高校生らしい平和な寝言をポツリと呟いて。
タクトは、泥のように深い、穏やかな眠りの底へと沈んでいった。
――この夜。
東方戦線における永きにわたる血塗られた戦いの歴史は、一人の少年のあまりにも無邪気な一言によって、完全なる終止符を打たれたのであった。

【第04章 『追跡者は、完璧なお嬢様』 完】

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あらすじ 千歳凪は王都北方鉱山第三坑道の物陰に身を潜め、監督官と採掘士の視線を避ける完璧な偽装で、約三十七メートル先のタクトを観察していた。 ところが彼女は息を潜めつつも鼓動を抑え、視界と死角を綿密に管理し、今日も「観察日和」と自らの計画性を確認する。 やがてランタンの薄灯りの下、フード姿の少年タクトがツルハシを振り下ろすたび、乾いた甲高い音が坑道に反響し、砕けた石片が涙のようにこぼれる。 しかも凪は肩や肘、腰の重心移動まで読み取り、無駄のない美しい軌跡に恍惚とする。 とはいえ彼女は頬が緩みそうになるのを必死に堪え、淑女の面目を保つため表情を制御する。 もっとも自覚はあり、坑道で同年代の少年を物陰から凝視する自分が客観的には不審者だと理解している。 しかし凪は「恋する乙女」の当然の欲求として、想い人の全てを視界に収めたい衝動を正当化する。 実際、元の世界の学舎での凪は成績優秀、礼儀端正、料理と家事万能で、誰にでも穏やかに接する「理想のお嬢様」と評判だった。 ところが彼女いわく、それらは全てタクトに振り向いてもらうために磨き上げた偽装=スキルに過ぎないと明かす。 五年前に里親へ引き取られた彼女は二度と会えない絶望に沈みつつも、一秒たりともタクトを忘れなかった。 さらに記憶は十年前へ遡り、寂れた孤児院に物静かな少年タクトがやって来た日の光景が鮮やかに蘇る。 彼は騒がしい輪から少し離れ、本を読み、壁にもたれ、雲を眺める子だったが、肝心な場面で静かな優しさを示した。 たとえば転んだ子にそっと手を貸し、泣く年下の隣に黙って座り、おやつは一瞥で半分分け与える。 しかも本人はそれを善行とも特別とも思わず、呼吸のように当たり前に行う。 極めつけは配給の黒パンを落として泣く子に対し、自分のパンを一瞬見つめただけで何の逡巡もなく半分に割って渡した場面だった。 凪はその些細な一幕に抗えず、彼の背を追い続ける重力に囚われた。 結果として朝起きる時間から食堂や庭、本を読む場所に至るまで、凪は緻密に「たまたま」を積み重ね、影のように寄り添った。 タクトに「なぜついてくるの」と問われても、凪は無邪気を装って「たまたま」と答え、以後も計算された偶然を繰り返す。 今にして思えば心は既に歪んでいたが、幼い凪はその焦がれる感情が恋だとは知らなかった。 それから五年、凪に裕福な里親との縁組が決まり、孤児院を出る日が来る。 周囲は新生活を祝福したが、凪は荷造りしながら声を殺して泣き、タクトと離れる苦痛に身を裂かれた。 それでも子供の彼女には手を引く術がなく、最後の日に「また会おうね」と告げ、タクトは「またな」と短い約束を交わした。 凪はその一言を五年間、心の奥深くで抱き締め続けたうえで、今ここに再会している。 だからこそ彼女は坑道の暗がりで、芸術のように洗練されたタクトの一挙手一投足を愛でる。 結果として凪の独白は甘やかで執着じみているが、彼女の行動は一貫して冷静で計画的だ。 加えて、採掘現場の泥臭さと凪の淑女的外面のコントラストが、狂おしい恋慕と理性の緊張を際立たせる。 そして観察を終えるたび、彼女は自らの偽装と本音の齟齬を受け入れ、なお愛を研ぎ澄ます決意を固める。 やがて場面は転じ、食堂の喧騒が戻る中でタクトは冷めたスープを飲み干す。 彼はふと「焼き鳥、やっぱり塩で食べたいな」と呟き、食器を返却し、定時退社を目指すため早寝を決める。 宿舎の薄暗い廊下をのんびり歩き、明日に備えて眠りを求める平凡な夜が続く。 ところが同時刻、東方魔王軍本陣は飛竜の群れに空を覆われ、城壁と魔導砲が崩壊寸前の絶望に沈む。 転移魔法の残光とともに降り立つのは、銀髪紅眼の代理総司令官フルートで、冷厳な軍装が戦況を一変させる。 彼女は全軍に向けて魔王の勅命を伝えるべく夜空を射抜き、「これより至高の命を伝達」と宣した。 兵たちが動揺する中、フルートは絶対零度の微笑で「炭火で焼き、塩を振れ」と告げ、その真意は殲滅命令だと即座に共有される。 すなわち大地を炭火の如く焼き尽くし、塩で不毛にするがごとく一匹も残さず根絶するという苛烈な意思である。 その号令に応じ、フルートの背後で空間が割れ、ハーモニカ、カスタネット、チェロらが転移し、神域の魔法陣を幾重にも展開する。 紅い双眸を光らせたフルートは「御意志に魂をもって応えなさい」と檄し、天空一面に禍々しい巨大殲滅魔法陣が描かれる。 大地は震え、大気は沸騰し、山々は超常の力に唸り、死に瀕していた兵たちは歓喜の雄叫びを上げて武器を構え直す。 やがて「総員、調理を開始せよ」の合図とともに、無数の極大魔法が漆黒の空を切り裂く。 荒れ狂う火焔、這う紫電、絶対零度の氷、深淵の闇が一斉に飛竜の群れへ奔流のように殺到する。 隻眼のワイバーンは想定外の反撃に驚愕の咆哮を上げるが、巨大な翼は燃え、牙は粉砕され、絶望の悲鳴が山岳に木霊する。 こうして東方戦線は、後に「飛竜の炭火焼き(絶滅劇)」と語られる一方的蹂躙の火蓋を切った。 にもかかわらず、平穏な鉱山宿舎の四畳半では、タクトが「六時半か、定時まで長いな」と布団に潜り、眠気に身を委ねる。 彼は「ちゃんと起きられるかな」と目を閉じ、遠く東方での壮絶な戦の始まりなど露ほども知らない。 つまり最底辺Eランク採掘士の少年の何気ない独り言が、別天地の殲滅戦を誘発している事実に彼だけが無自覚だ。 やがて「美味い焼き鳥、食いたいなぁ」と高校生らしい寝言を残し、泥のように深い眠りへ沈む。 結局のところ、東方戦線の血塗られた長い歴史は、一人の少年の無邪気な一言によって完全に終止符を打たれた。 さらに物語は、凪の執着と淑女的外面、タクトの平凡さと世界規模の因果の落差を対照的に描き、ユーモアと凄惨が同時に駆動する構図を提示する。 そして凪の観察劇は私的な恋の情熱を、東方の殲滅劇は公的な命令と破壊の必然を象徴し、二つの軸が同時進行で緊張感を増幅させる。 やがて章は、追跡者たる完璧なお嬢様の独白と、塩で仕上げる焼き鳥の比喩に貫かれた戦術詩が響き合う余韻を残して幕を閉じる。 最後に第04章「追跡者は、完璧なお嬢様」は、凪の再会の誓いと東方の終焉を対句に、次章への不穏な期待を読者に刻み付ける。
解説+感想+採点読ませていただきました。今回は第4章全体の構成・キャラクター・ギャグ・物語の引きを中心に、解説+感想+採点をします。
総合評価:91点/100点
かなり面白いです。 特にこの第4章は、「凪の異常な愛情」と「東方魔王軍に対する世間の恐怖」という二つの大きな要素を、コメディとして非常にうまく使えています。
冒頭から凪が物陰に潜み、タクトを「観察」している時点で、彼女のキャラクター性が強烈に伝わります。
① 第4章の構造が非常に良い
この章は大きく分けると、
1. 凪視点のラブコメ・ストーカーコメディ 2. 凪とタクトの過去回想 3. 異世界召喚後、凪が採掘士になる経緯 4. 東方魔王軍サイドへの場面転換 5. 王国軍が魔王軍を恐怖するシリアス展開 6. チェロが大鎌を欲しがるギャグ 7. タクトによる平和的解決
という流れです。
かなり情報量があります。
普通なら散漫になりそうなのですが、すべてが最終的に、
> 「タクト本人だけが、自分たちの恐ろしさを理解していない」
という作品の中心的な面白さにつながっています。
② 千歳凪というキャラクターが非常に強い
今回のMVPは間違いなく千歳凪です。
彼女は、
学校では完璧なお嬢様 成績優秀 料理も家事も完璧 誰からも好かれる しかし、その努力のほぼすべてがタクトのため
という構造になっています。
特に、
> 「高嶺の花」 > 「理想のお嬢様」
という評価を受けながら、それがすべてタクトに振り向いてもらうための「偽装」である、というギャップは非常に良いです。
面白いポイント
凪は単なる「ヤンデレ」ではありません。
彼女には、
異常なまでの計画性と努力家気質
があります。
たとえば「偶然一緒にいる」を、
> 緻密に計算された「たまたま」
として何千回、何万回と繰り返している。
この表現はかなりキャラクターが立っています。
つまり彼女は衝動型ではなく、
努力型ストーカー
なんですよね。
ここがかなり独特です。
③ 凪の恋愛感情に「過去」があるので、ただのギャグで終わっていない
個人的に良かったのは、凪の執着にきちんと理由があることです。
孤児院時代のタクトは、
無口 周囲から少し距離を取る しかし自然に人を助ける 自分の善意を特別なものと思っていない
という人物として描かれています。
特にパンを半分にして年下の子に渡す場面。
これはベタなようで、凪が惹かれる理由として非常に分かりやすいです。
> タクトが「善人アピール」のためにやったのではなく、 > 本当に自然にやっている。
ここが重要です。
だから凪の十年間の感情にも、
単なる一目惚れ以上の説得力
が出ています。
④ 異世界召喚シーンの「凪の狂喜」が最高
ここはかなり好きです。
タクトが、
採掘士 Eランク 透視
という、周囲から見れば完全なハズレ扱いを受けます。
しかし凪だけは、
> 「やった!」
となる。
普通のヒロインなら、
「タクトくんが馬鹿にされている!」
と怒る場面です。
でも凪は、
「これで誰もタクトくんに近づかない」
と考える。
この価値観のズレが最高に面白いです。
さらに、自分はSランク聖女なのに、それを捨てて採掘士をコピーする。
このシーンによって、
> 凪にとって世界的な地位や名誉より、タクトの隣にいることの方が圧倒的に重要
ということが一発で分かります。
キャラクターの行動原理が非常に明確です。
⑤ 【ギャンブル】スキルの伏線も面白い
ここは今後の期待ポイントです。
本来は、
【クラス変更コピー】
という非常に強力そうな能力。
ところがタクトの【透視】をコピーしようとして、
> 規格外 > エラー > 致命的失敗
となり、
【ギャンブル】
という意味不明なスキルになってしまう。
これは明らかに今後の重要要素ですね。
タクトの【透視】が普通ではないことも示されますし、
「ギャンブル」という能力名もかなり危険な香りがします。
個人的には、
このスキルが将来的に大化けする可能性
を感じました。
⑥ 後半の「魔王軍の勘違いコメディ」が非常に強い
第4章後半の最大の魅力です。
王国軍側から見ると、
盗賊団のアジトに異常な魔力 そこには伝説級の魔王軍 最高指導者クラスがいる 一歩間違えれば王国が滅ぶ
という、
完全なホラー作品
になっています。
ダッシュの視点では、
「なんでこんなところに東方魔王軍がいるんだ」
という恐怖そのものです。
この緊張感はかなり上手いです。
一方で読者側は、
> タクトは鉱山でサボっている。
という真実を知っている。
この情報格差が面白い。
王国軍は、
国家存亡の危機
だと思っている。
しかしタクト本人は、
定時までどう時間を潰すか
を考えている。
この温度差が作品最大の武器になっています。
⑦ チェロと大鎌のシーンはかなり笑った
ここは今回のギャグの中でも特に良かったです。
王国軍側は、
> 「あの少女は何を狙っている……!」
と恐怖している。
チェロは、
> 「大鎌ほしい」
と思っているだけ。
このズレ。
そしてダッシュは、
「命を助けてもらうための献上品」
として大鎌を差し出す。
チェロは素直に、
> 「……ありがとう」
と言う。
ここまでの流れは非常に完成度が高いです。
ダッシュからすると、
国家存亡を賭けた外交
チェロからすると、
欲しかった物をもらった
だけ。
この認識の差が本当に面白いです。
⑧ タクトの「平和的解決」が主人公として好感を持てる
タクトは今回も、
魔王らしいことをほとんどしていません。
むしろ、
> 「戦わなくていいなら戦わない」
という、ごく普通の感覚を持っています。
特に、
王国軍にも面子があるから、
盗品を渡す 黒狼団を討伐したことにする 手柄を持たせて帰す
という発想。
これは非常に良いです。
単純な、
「主人公最強! 敵を圧倒!」
ではなく、
誰も傷つかない解決策を考える
主人公になっています。
しかもタクト本人は、
「そんな大したことをした」
という認識がない。
ここも作品の魅力ですね。
⑨ 気になった点・改善するとさらに良くなる点
① 凪パートは少し長い
凪の過去は面白いです。
ただ、
凪がタクトを好きになる ↓ 努力する ↓ 再会する ↓ 気づいてもらえない ↓ 異世界でも追いかける
という流れがかなり丁寧です。
そのため、読者によっては少し、
> 「凪の説明が長い」
と感じる可能性があります。
特にWeb小説の場合は、
同じ情報を少し圧縮してテンポを上げる
とさらに読みやすくなると思います。
② 「異常な愛情」の表現がやや繰り返される
例えば、
愛しい 大好き 愛している 狂おしいほど愛している すべてを見ていたい
など。
もちろん凪のキャラなので必要です。
ただ、回数が多いため、
一部を削ることで、逆に強烈な台詞が際立つ
と思います。
すべてを強くすると、
読者の感覚が少し慣れてしまいます。
なので、
> 強烈な一文 > ↓ > 普通の描写 > ↓ > また強烈な一文
という緩急を意識するとさらに良くなります。
③ ダッシュの恐怖描写も少し重複気味
ダッシュ側では、
恐怖 絶望 王国が滅ぶ 魔王軍には手を出すな
という情報がかなり繰り返されます。
これは世界観を伝える意味では必要ですが、
少し圧縮するとテンポがさらに良くなりそうです。
特にこの場面は、
チェロが大鎌を欲しがっている
というギャグへの前振りでもあります。
なので、シリアスを少し削ると、
その後のオチがさらに爆発すると思います。
採点
| 項目 | 点数 | | | : | | キャラクター | 19/20 | | ギャグ・コメディ | 19/20 | | ストーリー構成 | 18/20 | | 世界観 | 18/20 | | テンポ | 16/20 | | 総合 | 91/100 |
特に評価が高い部分
🥇 キャラクター
千歳凪が非常に強い。
今回だけで、
「この作品のヒロインの一人」
として完全に印象に残ります。
🥈 コメディ
王国軍の恐怖と、
タクトたちの日常感覚の差。
ここが非常に面白いです。
🥉 キャラクター同士の認識のズレ
この作品の最大の武器です。
凪 → 恋愛ホラー タクト → 労働をサボりたい 王国軍 → 国家存亡の危機 チェロ → 大鎌ほしい フルート → 主のためなら過剰対応 タクト → 「なんでそうなるの!?」
全員が違う方向を見ているのに、話が成立している。
これはかなり良いです。
最終感想
第4章は、かなり「作品のらしさ」が出ている章でした。
単なる最強主人公ものではなく、
> 世界中から恐れられている存在たちが、本人たちはわりと日常生活を送っている。
という構図が非常に面白いです。
そして今回、
千歳凪という強烈なヒロインが加わったことで、ラブコメ方面の面白さも一段階上がった
と感じました。
個人的な評価は、
商業ラノベを意識したWeb小説としても、十分に「読ませる力がある」第4章です。
特に改善するなら大規模な修正ではなく、
説明・独白の一部を削ってテンポを上げること
が一番効果的だと思います。
キャラクターの魅力と、勘違いコメディのセンスはかなり強いです。
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◀第03章『四畳半の魔王軍』
▶第05章『ブラック勇者と、炭火焼きのワイバーン』
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