◀第22章『夢の中で、君はまだ笑っていた』
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第23章『もう一度、夢の中で待っていて』
「VOICEVOX: 四国めたん」「VOICEVOX: 白上虎太郎」「VOICEVOX: No.7」「VOICEVOX: 東北ずん子」「VOICEVOX: 青山龍星」「VOICEVOX: ナースロボ_タイプT」「VOICEVOX: 雨晴はう」「VOICEVOX: 剣崎雌雄」「VOICEVOX: 冥鳴ひまり」
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ナギ:朝の光が、カーテンの隙間から一筋の白い糸のように差し込んでいた。 宿屋の窓からこぼれるその光は、いつもならもっと柔らかく、どこか砂糖菓子のように甘い匂いすら運んでくるものだった。 小鳥のさえずりが響き、階下からは食器の触れ合う音が聞こえる。 誰かが笑い合う、ごくありふれた平和な朝。

――その、はずだった。
ベッドの上で、少女の指先がわずかに動いた。 傍らの椅子に座っていたナギが、弾かれたように顔を上げる。 隣では、ハープを抱いたミリアが息を呑んだ。 二人とも、決して声は出さなかった。
長い眠りに就いていたセリナの睫毛(まつげ)が、ゆっくりと震え――やがて、薄く青い瞳が開かれた。
セリナ:「……」
セリナはしばらくの間、ただ虚空を見つめていた。 何か大切なものを手探りで探すように。 あるいは、もう何も見つけられないと最初から悟りきってしまったかのように。 やがて、その視線がゆっくりと室内を滑る。 窓。 壁。 木製の椅子。 そして、ナギとミリア。 自分の傍らに寄り添ってくれている二人を確かに認識したはずなのに、セリナの桜色の唇から言葉が紡がれることはなかった。
ナギ:「……おはようございます、セリナ様」
ナギが、いつもと変わらない穏やかな声でそっと語りかけた。
セリナ:「……」
ナギ:「よく、眠れましたね」
返事はない。 ナギは胸の奥の不安を悟られないよう、少しだけ口角を上げた。

ナギ:「二日ですよ。 二日間、ずっと眠っていたんですぅ」
セリナ:「……ふつか?」
ひどく細い声だった。 その響きに、かつてこの宿屋を一瞬でパッと明るくしたような無邪気な陽力は、一片も残っていない。
ナギ:「はい。 ずっとです」
セリナ:「……そう」
セリナはそれだけ小さく零すと、再び視線を窓の外へと移してしまった。 青く澄んだ朝の空が広がっている。 以前の彼女なら、それを見上げただけで 「今日はすっごくいい天気だね!」 と満面の笑みで背伸びをしていただろう。 けれど。 今日のセリナは何も言わなかった。 その青い瞳の奥底から、あの無垢な光が、完全に消え失せていたのだ。
ミリアは、自分の胸の奥がぎゅっと引き千切られるような痛みを覚えた。 それでも、懸命に無理な微笑みを取り繕う。
ミリア:「……朝ですよ、セリナさん」
セリナ:「……うん」
ミリア:「朝ご飯、何にしましょうか。 焼き立てのパンにしますか?」
セリナ:「……いらない」
ミリアの笑顔が、ほんの少しだけ悲痛に引きつる。
ミリア:「じゃあ……朝のお風呂になさいますか?」
セリナ:「……お風呂も、いい」
ナギ:「……そうですか」
ナギは、それ以上何も言わなかった。 無理に食べさせようとも、無理に笑わせようともしない。 ただ、彼女が残酷な現実へと目覚めた事実をそのまま受け止め、その傍らに寄り添う。 今はそれしかできないと、痛いほど分かっていたからだ。
重苦しい沈黙が、しばらくの間客室を支配した後。 セリナが、ぽつりと小さな口を開いた。

セリナ:「……ルイは?」
ナギとミリアが、一瞬だけ痛切な視線を交わす。
ナギ:「ルイ様なら、お元気ですよ」
ナギは、ことさら彼女を安心させるように、明るいトーンで答えた。
ナギ:「今はレイガさんと一緒に、ちょっと街へ出ていますぅ」
セリナ:「……街?」
ナギ:「はい。 セリナ様がお目覚めになった後に必要なものを、いくつか買い出しに」
セリナ:「……そう」
セリナの細い指先が、掛け布団の端をぎゅっと、白くなるほど強く握りしめた。
ナギ:「すぐにお戻りになると思いますよ」
セリナ:「……うん」
言葉では肯定しても、セリナの表情に安堵の色は浮かばない。 むしろ、大好きなルイが今ここにいないという事実が、彼女の胸の奥にぽっかりと空いた巨大な『罪悪感の空洞』を、より生々しく自覚させてしまっているようだった。
セリナ:「……わたし」
セリナが、乾いた桜色の唇を震わせる。
ナギ:「はい?」
セリナ:「わたしは……どうしたら、いいのかな……」
ナギもミリアも、すぐには答えを見出せなかった。 セリナは二人の顔を見ようとはしない。 ただ自らの膝の上へと視線を落としたまま、ぽつり、ぽつりと血を吐くように、重苦しい言葉を床へ落としていく。

セリナ:「願えば……願うほど……」
ナギ:「……」
セリナ:「世界が、お菓子になって壊れちゃう」
その声は、今にも消え入りそうなほどに、ひどく怯えて震えていた。
セリナ:「ルイが……わたしのせいで、壊れちゃう……っ」
ミリアが、たまらず悲痛に目を伏せる。 ナギは、ただセリナの横顔を見つめていた。
ナギ:(……無理もありませんぅ)
二日前の朝。 瑞々しいトマトが毒々しいチョコレートへと変異し、この空間のすべてが強制的にお菓子へと塗り替えられたあの惨劇。 そして、その暴走を封印した代償として、ルイの脳内から『一ノ瀬』という大切な青春の原本(オリジナル)が永遠に消去された現実。 その名前がどれほど特別な意味を持っていたのか。 彼が何を差し出したのか。 それすら、もう当のルイ本人には認知することすらできないのだ。 すべてを知ってしまったセリナは、もう以前のように無邪気に笑うことはできない。
「何かを願う」 ことそのものが、大好きな人を内側から削り取る凶器なのだと気づいてしまったから。
ナギ:「……神聖力というものは」
ナギが、言葉を慎重に選ぶようにゆっくりと口を開いた。
ナギ:「セリナ様の感情の起伏に、極めて強く左右されてしまいますぅ」
セリナ:「……」
ナギ:「だから……『何も考えるな』と言うのは、おそらく無理な相談だと思います」
セリナが、力なく虚ろな顔を上げた。

セリナ:「考えないなんて……わたし、もうできないよ……」
ナギ:「はい」
ナギは深く、包み込むように頷いた。
ナギ:「だから、無理に考えないようにしなくてもいいんですぅ」
セリナ:「……え?」
ナギ:「ただ、一人で深く考え込みすぎないこと」
ナギは、記録官としての冷徹な立場を完全に捨て、ただの心配性な大人の顔で穏やかに言った。
ナギ:「すべてを、自分一人だけで抱え込まないことです」
セリナ:「……」
ナギ:「わたくしたちが、何とかしますぅ」
その断言に、セリナの曇った瞳がわずかに揺らぐ。
セリナ:「……でも……っ」
ナギ:「ルイ様にだって、これ以上は絶対に無理をさせません」
ナギは、今度こそきっぱりと言い切った。
ナギ:「今までみたいに、何でもかんでもルイ様一人だけに背負わせるような真似は、大人として、わたくしたちがもう絶対にさせませんぅ」
セリナ:「……」
ナギ:「みんなで、一緒に考えるんです」
セリナは何も答えなかった。 けれど――ほんの少しだけ、強張っていた華奢な肩の力が、宿りかけた熱に融かされるように抜けたのが分かった。
その微かな変化を見逃さず、ミリアがそっと抱えていたクリスタルハープへと手を伸ばした。

ミリア:「セリナさん」
セリナ:「……なに?」
ミリア:「少しだけ、私の音を聴いてみませんか?」
ミリアが、透明な銀弦へと白く細い指先を優しく添える。 そして――。
ぽろん。
朝の静けさに、涼やかな最初の一音が凛と落ちた。 続いて、もう一音。 柔らかな旋律が、絶望に澱(よど)んでいた部屋の空気の中へと溶け出していく。 それは決して、己を強く主張するような激しい音楽などではなかった。 朝の少し冷たい空気に、もう一枚の温かくて薄い絹の膜を優しく重ねていくかのような、慈しみに満ちた祈りの音色。
セリナはただ黙って、その柔らかな音の残響に耳を傾けていた。 すると――部屋の片隅に絶えず滞留していた、セリナの精神不安から漏れ出す狂おしいほどのバニラの香りが、ミリアの奏でる音の波紋に触れて、少しずつ穏やかな凪(なぎ)へとその姿を変えていった。
ナギは、その確かな変質の兆候を冷静に観測し、胸の内で小さく息を吐き出した。
ナギ:「……やはり、間違いありませんぅ」
ミリア:「そうなの」
演奏の手を止めないまま、ミリアが優しく微笑む。 ナギが改めて、セリナの前へと向き直った。

ナギ:「ミリアさんのハープには、セリナ様の神聖力の暴走(漏出)を、穏やかに中和して和らげる効果があるんですぅ」
セリナ:「……本当に?」
ナギ:「はい」
セリナが、最後の一縷の望みに縋(すが)るような、切ない目でミリアを見つめる。 ミリアは演奏しながら、包み込むように力強く頷いた。
ミリア:「だから、大丈夫だよ、セリナさん」
セリナ:「……」
ミリア:「完全にバグを無くせるわけじゃないけれど……少しだけ、世界を穏やかにすることはできます」
セリナは、しばらくの間、部屋を満たす清冽なハープの音色だけをじっと聴いていた。 それから――。
セリナ:「……そっか」
ほんの少しだけ。 声の奥底に張り付いていた冷たい凍てつきが、温かな陽だまりに融かされるように柔らかく溶けていた。 ナギは、ようやく心の底からの安堵の微笑みを浮かべて、小さく手を叩いた。
ナギ:「じゃあ、これで決まりですねぇ!」
セリナ:「……なにが?」
ナギ:「これからの、わたくしたちの『朝の新しい日課』ですぅ!」
ナギは白く細い指を一本、いたずらっぽく立ててみせる。
ナギ:「朝起きたら、まず屋上の露天風呂へ行くこと」
もう一本、嬉しそうに指を立てる。
ナギ:「そして、ミリアさんに朝一番のハープをここで弾いてもらうこと」
ナギはにっこりと、最高に頼もしい大人の顔で笑ってみせた。

ナギ:「そうやって、一日の始まりにセリナ様から漏れ出してしまう神聖力を、できるだけ穏やかに調律していきましょうっ!」
セリナは、少しだけ考え込んだ。 以前の彼女なら、 「朝からお風呂!? いくいくー!」 と無邪気に喜んでベッドから飛び跳ねていただろう。 けれど、今は違う。 自分の内にある神性が、どれほど愛おしい人を壊す恐ろしい凶器かを知ってしまったから。
それでも。
セリナ:「……うん」
小さく、けれど確かに、自らの迷いを振り切るように頷いた。
セリナ:「そうしようか」
演奏の手を止めたミリアが、心底嬉しそうにパッとその表情を輝かせた。
ミリア:「では、今日から毎朝、約束ですね!」
セリナ:「……明日も、あるんだね」
その言葉の裏に張り付いた、重苦しい恐怖の質量に、ナギは一瞬だけ息を止めた。 自分が明日という未来を迎えてしまえば、また無自覚に何かを願って、ルイ様を削り殺してしまうかもしれないという、逃げ場のない底なしの恐れ。 けれど、ナギはそれを決してセリナに悟らせないよう、最高に頼もしい大人の笑顔を向けてみせた。
ナギ:「ありますよぅ! 当たり前じゃないですか、明日も、明後日もずっとですぅ!」
セリナ:「……そっか」
セリナは再び、ゆっくりと窓の外の景色へと視線を移した。 青く澄み渡る朝の空。 白くたなびく薄い雲。 遠くに広がる、平和なフリをした王都の街並み。 そして――その景色のどこかにいるはずの、大好きなルイ。

まだ目覚めてから、会えてはいない。 まだ、本能が震えるほどに怖い。 自分がまた無意識のうちに何かを願ってしまうことが。 その身勝手な欲望のせいで、彼の中にある大切な前世の人生(オリジン)を永遠に消し去ってしまうことが。 怖くて、怖くて、仕方がなかった。
けれど。 それでも、今は――。 自分は、もう決して一人きりではないのだと。 その、あまりにも小さな、けれど絶対の事実だけが。 凍えきっていた神様の胸の奥底に、ほんの微かな本物の温もりとして、確かに残り続けていた。
宿屋を一歩出ると、朝の空気は思いのほか冷たく、鋭く頬を刺した。 行き交う人々の活気ある話し声。 石畳を規則正しく叩く、重い荷車の車輪の音。 店先からふわりと漂ってくる、焼き立てのパンの芳ばしい匂い。 どこにでもある、いつもと何一つ変わらない、美しく賑やかな朝の街並みだった。
けれど――隣を歩くレイガの大きな横顔を眺めながら、ルイは少しだけ不思議な感覚に囚われていた。 世界は何一つ変わっていない。 なのに、自分だけが昨日までとはまったく違う、足元の定まらない透明な場所にぽつんと立っているような――そんな奇妙な浮遊感があった。
レイガ:「しかしまあ……」
レイガが、その頑強な図体に似合わない深い溜め息を白く吐き出した。
レイガ:「ナギの奴も、なかなか人使いが荒いな」
ルイ:「そうかな?」
レイガ:「朝っぱらから、野郎二人で街までおつかい(買い出し)だぞ?」
ルイ:「セリナが目覚めるんだから、必要なものなんだろ?」
レイガ:「まあ、それはそうだがな」
レイガは不器用そうに肩をすくめてみせた。

レイガ:「だからこそ、文句は言えん」
そう口では愚痴をこぼしながらも、その横顔はどこか柔らかく、嬉しそうだった。 ルイもつられて、いつものように歪みのない笑みを浮かべる。
ルイ:「最初は何を買い求めるんだっけ?」
レイガ:「寝間着(ねまき)だ」
ルイ:「ああ」
ルイは穏やかに頷いた。
ルイ:「セリナ用の?」
レイガ:「当たり前だろ。 それとも俺とお前のお揃いの寝間着でも買うつもりだったのか?」
ルイ:「あ、そうだった」
レイガが呆れたように、けれど愛おしそうに鼻で笑う。
レイガ:「お前なぁ……」
二人は、大通りに店を構える衣服の専門店へと足を踏み入れた。 店内には色とりどりの布製品が所狭しと並べられている。 軽やかな夏物のドレス、肌触りの良さそうな部屋着、そして上質な綿で織られた寝間着の数々。 ルイはしばらく店内をぐるりと見回し――やがて、ひとつの棚の前でピタリと足を止めた。
ルイ:「……」
レイガ:「どうした、ルイ?」
レイガが振り返る。
ルイ:「いや……」
ルイは、綺麗に畳まれた女性用の寝間着の山を見つめたまま、微かに眉をひそめた。

ルイ:「……セリナの服のサイズって、僕が知っているわけないだろ?」
レイガ:「…………」
レイガが、歩みを止めてじっとルイの顔を見つめてきた。 その眼光に、いつになく鋭い戸惑いが宿る。
レイガ:「お前」
ルイ:「何?」
レイガ:「自分の恋人の服のサイズも、知らないって言うのか?」
ルイ:「……え?」
ルイの思考が、その瞬間、完全にフリーズした。 恋人。 そのありふれた単語だけが、理解を拒む異国の言葉のように、妙に耳の奥へと不快にこびりつく。
セリナ。 銀色の長い髪。 天真爛漫で、よく笑って、甘いものが大好きで、何かあるとすぐに僕の隣へと駆け寄ってくる女の子。 大切だ。 命に代えてでも彼女を守らなければならない。 それは分かる。 脳内の冷徹なシステムも、それが『最優先の正解』だと回答を出している。
けれど――『自分と彼女が、これまでどんな関係の歴史を紡いできたのか』。 その核心だけが、ジグソーパズルの真ん中をごっそりと乱暴に抜き取られたかのように、ひどく曖昧で、白く濁っていた。 セリナは、僕のことを好きだと言ってくれる。 それは知識として知っている。 けれど、その『好き』が、恋人としてのものだったのか、それとも家族のようなものなのか、あるいはもっと別の歪なものだったのか。 今の僕には、どうしても思い出せないのだ。
レイガ:「……まあ」
沈黙するルイを見て、レイガがガシガシと頭を掻いた。
レイガ:「本人に聞けばいいだろ」
ルイ:「寝間着のサイズを?」
レイガ:「それが一番確実だ」
ルイ:「でも、今は魔法で眠ってるかもしれない」
レイガ:「じゃあ店員に聞け」
ルイ:「男が女の子の寝間着のサイズを店員に尋ねるのって、結構ハードル高くない?」
レイガ:「今さら何を恥ずかしがってるんだ」
ルイ:「いや……」
ルイは少しだけ思考を巡らせてから、正直に答えた。

ルイ:「こういう日常的なこと、なんだか慣れてないんだよ」
レイガは、それ以上何も言わなかった。 代わりに彼が店員を呼び止め、大体の背丈を伝えていくつか肌に優しい素材の候補を見繕ってもらう。 ルイはその横で、黙って商品を眺めていた。
不思議だった。 以前の僕なら、もっと迷わずに彼女の服を選べたのだろうか。 それとも、以前の僕がどういう人間だったのかすら、もう分からない。
レイガ:「次」
会計を済ませたレイガが言った。
レイガ:「お菓子だ」
ルイ:「お菓子?」
レイガ:「ナギから、目覚めたときに口にできるものをと頼まれてただろ」
ルイ:「ああ」
店を出て、二人は今度は甘く香ばしい匂いのする菓子店へと向かった。 店先には、まるで宝石のように色とりどりのお菓子が綺麗に並べられている。 サクサクとした焼き菓子、白い粉砂糖をまぶしたクッキー、色鮮やかなチョコレート。 見ているだけで、以前の僕ならきっと心が躍ったのだろう。
――以前なら。 その言葉が、またしても脳の奥でノイズのように引っかかった。
レイガ:「何にする?」
レイガが尋ねる。

ルイ:「セリナが食べられるものなら、何でもいいんじゃないかな?」
レイガ:「それじゃ選べんだろ」
ルイ:「じゃあ……甘いもの」
レイガ:「お前は本当に選ぶ気があるのか?」
レイガが心底呆れたように言うので、ルイは少しだけ声を漏らして笑った。
ルイ:「だって、あいつ甘いものが大好きだろ」
レイガ:「……」
レイガの足が、その場でピタリと止まる。 けれど、今のルイはそれに気づくことすらできないまま、陳列棚の前へと進んでいってしまった。 一つ。 また一つ。 人間らしい心の高鳴りを欠いた無機質な視線で、並んだ商品を追っていく。
そして――。 ルイの右手が、あるパッケージの前で、まるで失われた何かに吸い寄せられるように止まった。
ルイ:「……これ」
小さく呟いて、それを手に取る。 それは、何の特別な細工もない、ごくありふれた板チョコだった。
レイガ:「それにするのか?」
後ろからレイガが、心配そうな眼光で覗き込んでくる。
ルイ:「うん」
レイガ:「セリナが、それが好きなのか?」
ルイ:「……」
ルイは、手のひらの上のお菓子をじっと見つめた。 名前は知っている。 味も、論理的に考えれば想像できる。 でも、セリナがこれを好きだったという具体的な『記憶データ』は、脳内のインデックスをどれほど深く探しても出てこない。

ルイ:「……知らないんだ」
レイガ:「じゃあ、なんでそれを選んだんだ?」
ルイ:「……」
ルイは、少しだけ思考を巡らせた。 どうしてなのか、自分でもまったく理由が分からない。 ただ――これを渡せば。 これを一緒に口へと放り込めば、彼女が隣で呆れたように、けれど本当に嬉しそうにふにゃりと笑ってくれる光景が。 脳裏のログではなく、人間としての胸の奥底で一瞬だけ鮮烈にフラッシュバックしたのだ。
ルイ:「なんとなく、さ」
そう口にしてから、ルイはそのありふれたパッケージをぎゅっと握りしめた。
ルイ:「……これが、一番いい気がするんだよ」
レイガは黙り込んだ。 何かを言いかけて、奥歯を強く噛み締めるようにして、その言葉を呑み込んだ。 そして――。
レイガ:「……じゃあ、それに決めるか」
とだけ、低く、押し殺した声で言った。
ルイ:「うん」
ルイは穏やかに頷き、そのどこにでもあるありふれた板チョコを、まるで壊れやすい宝物のように大事そうに胸へと抱え込んだ。 その華奢な後ろ姿を、大英雄レイガはしばらくの間、痛ましそうにただ見つめ続けていた。 けれど何も言わず、ただ、泣き出すのを堪えるようにほんの少しだけ目を細めた。
◇
次に二人が向かったのは、大通りから一本入った、良質な茶葉を扱う老舗の専門店だった。

レイガ:「ハーブティーも買っておけって、ナギから言われていたな」
ルイ:「朝風呂のあとに飲むんだってさ」
棚には様々な産地の茶葉が、素朴な麻袋に詰められて並んでいる。 香りを確かめながら、二人でいくつか見繕っていく。 身体を芯から冷やさないように。 深い眠りのあとでも胃に負担がかからないものを。 目覚めの頭に刺激が強すぎないものを。
レイガが店員とそんな条件を真剣に話し合っているのを、ルイは隣で黙って聞いていた。
ルイ:「こういうの、なんだか普通だね」
レイガ:「何がだ?」
ルイ:「こうやって、誰かのためにあれこれ考えながら買い物をするの」
レイガ:「当たり前だろ。 それが普通だ」
ルイ:「……そうなんだね」
ルイは茶葉の袋を見つめる。 普通。 その言葉が、ぽっかりと空いた胸の奥底に、少しだけ温かく染み込んでいった。 普通。 そんな誰かのための当たり前の一日を、自分は以前の世界で、どれくらい過ごしていたのだろう。 脳内の本棚を探しても、やはり何も思い出せない。 でも――なぜだか、決して嫌な気分ではなかった。
最後に立ち寄った小さな小間物屋では、ナギから指定された細々とした日用品を買い求めた。 髪をまとめるためのリボン。 小さな木製の櫛(くし)。 ハンカチ。 靴下。 香りの良い石鹸(せっけん)。
ルイ:「これも必要だな」
ルイは、棚にあった淡い色のリボンをそっと手に取った。
レイガ:「それも買うのか?」
ルイ:「ナギに頼まれたからね」
レイガ:「それはそうだが……」
ルイはリボンの装飾をじっと見つめる。 派手すぎない、小さな飾りがついたもの。 セリナがそれを銀色の髪に結んでいる姿が、なぜか極めて自然に、一枚の美しい絵画のように脳裏へ浮かび上がった。

ルイ:「……これ」
レイガ:「何だ?」
ルイ:「セリナに、すごく似合いそうだなと思って」
ぽつり、と。 レイガは、何も言わなかった。 ルイ自身も、なぜそんな根拠のない感想を抱いたのか分からなかった。 彼女の髪型すら、今はシステムに補正されて知識として認識しているような状態だというのに。 ただ。 似合う。 絶対にこれがいい。 理屈を飛び越えて、そう強く確信していた。
レイガ:「……買えばいいさ」
レイガが、不自然に鼻をすするような音を立てて、そっぽを向いた。
ルイ:「うん」
ルイはリボンを、そっと買い物袋へと収めた。

◇
店を出る頃には、二人の持つ買い物袋はずいぶんと膨らんでいた。 寝間着。 お菓子。 茶葉。 そして細々とした日用品。
レイガが自分の大きな手元にある袋を見下ろす。
レイガ:「ずいぶん増えたな」
ルイ:「必要なものだからね」
レイガ:「……最初の予定より、だいぶ多くないか?」
ルイ:「そうだっけ?」
レイガ:「そうだよ」
ルイ:「まあ、いいじゃないか。 それだけ必要なものがあったってことだろ?」
レイガ:「お前なぁ……」
レイガは呆れたように苦笑し、ルイが持っていた袋の半分を強引に奪い取って自分の肩へと担ぎ上げた。 しばらく、二人は肩を並べて黙って歩く。 大通りを外れると、朝の街の活気ある喧騒が少しずつ遠ざかっていった。

やがて、レイガが前を向いたまま、ぽつりと重い口を開いた。
レイガ:「なあ、ルイ」
ルイ:「何?」
レイガ:「お前、セリナを守るためなら……また、あの魔法(封印術式)を使うんだろ?」
ルイは、一ミリの迷いも見せなかった。
ルイ:「必要ならね」
即答だった。 レイガの足が、その場にピタリと止まる。
レイガ:「……それを」
地を這うような、低い声だった。
レイガ:「『必要』の一言で、片付けるな」
ルイも歩みを止めた。
ルイ:「……」
レイガ:「お前がどれだけ自分の中身(オリジン)を削って、あの歪な箱庭を維持してきたか。 俺たちは昨日の夜、もうすべてを知っちまったんだぞ」
ルイ:「でも、セリナを守るためなら――」
レイガ:「またそれかよ!」
レイガは、静かな怒りと深い悲しみを湛(たた)えた瞳で、ルイの顔を真っ直ぐに射抜いた。

レイガ:「セリナを守るためなら、自分はどうなってもいい。 お前は今、完全にそういう、感情のない人形みたいな顔をしてる」
ルイ:「……」
ルイは答えなかった。 否定することもできなかった。 脳内のシステム(シエル)が、それこそが唯一無二の正しい選択だと告げている。 世界と彼女の命を天秤にかけた時、自らを燃料にすることが最も効率的で、それしか方法がないのだから。
だから。
ルイ:「……必要なら、僕はまた術式を使うよ」
もう一度、感情の起伏を一切排した声で、事務的にそうリピートした。 レイガは、深く、深く、肺に溜まった重苦しい息を吐き出した。 怒っているようには見えなかった。 むしろ、不器用すぎる子供を前にして、どうすればその命を救えるのか、ただ一人思い悩んでいるかのようだった。
レイガ:「お前」
レイガが、少しだけ声を落とす。
レイガ:「……自分から、何を忘れた?」
ルイは無機質に目を瞬(まばた)かせた。
ルイ:「……何を、って?」
レイガ:「自分が、これまでの中で何を失っちまったのかを、聞いてるんだ」
ルイ:「……」
ルイはしばらくの間、脳内のアーカイブへアクセスを試みた。 けれど――そこに『答え』は存在しない。 忘れてしまったものは、思い出すことすらできない。 欠落したという事実の『冷たい輪郭』だけがそこにあるだけで、その中身は完全に虚無なのだ。 それこそが、記憶をシステムに支払う(喪失する)ということの、絶対的なホラーだった。

ルイ:「……分からないんだ」
ありのままの事実を、感情を排して正直に答えた。
レイガ:「……そうか」
レイガも、それ以上の残酷な追及はしなかった。 ただ、二人は再び無言で歩き出し、目的地の宿屋の屋根が遠くに見え始めた頃に。
レイガ:「じゃあ、別のことを聞く」
ルイ:「何?」
レイガ:「お前……セリナのことを、本当は今、どう思ってるんだ?」
ルイは、また思考を巡らせた。 セリナ。 名前を思い浮かべる。 黄金色の笑顔。 陽気な声。 近すぎる距離感。 甘いものを嬉しそうに食べる仕草。 僕の名前を呼ぶ声。 守らなければならない。 大切にしなければならない。 それだけは、世界の理が崩れ去っても変わらない絶対の真実だ。 『愛している』という人間らしい感情の言葉の定義は、もう僕の辞書(システム)からは完全にデリートされてしまったけれど。
ルイ:「……大切だよ」
ルイは、胸の奥底に辛うじて残された、最後の小さな火種をそっと抱きしめるように答えた。 それ以上の情緒ある言葉は、今の彼からはどうしても出てこなかった。 レイガは、何も言わなかった。 ただ、その朴訥(ぼくとつ)な、けれど魂が絞り出した答えを聞き届けて――ほんの少しだけ、厳しい大人の表情を和らげたように見えた。
◇
宿屋の入り口が近づいてきた頃。 ルイは、ふと歩調を緩めた。
ルイ:(……シエル)
声には出さず、心の中だけでシステムを呼ぶ。

シエル:『はい』
間髪入れず、冷徹でどこまでも甘いシステム音声が脳裏に響き渡る。
ルイ:(セリナは、本当に大丈夫なのか?)
シエル:『ご安心ください。 現在、ナギ様の魔法によって安定した睡眠状態にあります。 生命活動に異常は見られません』
ルイ:(そういうことじゃないんだ)
シエル:『……』
シエルが沈黙する。 ルイは手元で揺れる買い物袋をじっと見つめた。
ルイ:(あいつ、目を覚ました後……本当に、大丈夫なのかな)
しばらくの間、返答がなかった。 論理演算に時間をかけているのか、それとも言葉をあえて選んでいるのか。 やがて。
シエル:『……セリナ様は、ひどく怖がっています』
ルイ:(何を?)
シエル:『ご自身という存在そのものを』
ルイは黙り込んだ。
シエル:『そして――』
シエルの声が、ほんの少しだけ、人間らしい感情の起伏を帯びたように低く沈んでいく。
シエル:『ルイ様がこれ以上、傷つくことを、おぞましいほどに恐れています』
ルイ:「……」
ルイは顔を上げ、眩しい朝の空を見上げた。 どこまでも深く続く、あまりにも青い空だった。

ルイ:(シエル)
シエル:『はい』
ルイ:(僕は、セリナを守れるのかな?)
ほんの一瞬の、短い沈黙。
シエル:『……はい』
ルイ:(本当に?)
シエル:『はい。 必ず』
それだけだった。 そのプロセスの過程でルイの命がどれほど薪(まき)のように削られようとも、結果だけは完璧に保証するという、あまりにも冷徹で、絶対的な確約。 けれど――そのシエルの返事を聞いて、ルイは少しだけ安堵の息をそっと吐き出した。
ルイ:「……そっか」
思わず声に漏れた呟きに、隣を歩いていたレイガが、ちらりと怪訝そうな視線を向けてくる。
レイガ:「どうした、ルイ?」
ルイ:「いや」
ルイは小さく首を振ってみせた。
ルイ:「何でもないよ」
――まさに、その時だった。
レイガ:「なあ、ルイ」
ルイ:「何?」
レイガ:「お前の中にいる『シエル』ってやつは……」
レイガが、少しだけ周囲を警戒するように、低く声を潜めて言葉を続けた。

レイガ:「今もそこに、ちゃんといるのか?」
ルイ:「いるよ」
シエル:『はい。 ここに存在しています』
現実のルイの声と、脳内のシエルのシステム音声が、ほとんど同時に綺麗に重なり合った。 レイガが怪訝そうに片眉を跳ね上げる。
レイガ:「……今、あいつの声が聞こえたのか?」
ルイ:「いや」
ルイが答える。
ルイ:「今、シエルが僕の脳内で同じように答えただけだよ」
シエル:『その通りです』
レイガ:「便利だな、お前の中身(システム)は」
ルイ:「そうかな」
レイガは鼻で少しだけ笑い――それから、数々の死線を潜り抜けてきた歴戦の英雄としての、鋭く冷徹な表情へと戻った。
レイガ:「……なら、お前の中身にひとつだけ、どうしても聞きたいことがある」
ルイ:「何?」
レイガ:「セリナをあのまま無理やり眠らせる以外に、根本的な解決方法は……本当に、他には何一つ存在しないのか?」
ルイは言葉では答えず、自らの意識を深く、脳内の内側へと向けた。
ルイ:(シエル)
シエル:『……』
数秒の、ひどく重苦しい沈黙。 そして――。
シエル:『――ありません。 論理演算の果てに出した、現段階での最適解です』
ルイが宿屋の前で首を横に振るのを見て、レイガは痛切にその目を伏せた。

レイガ:「……そうか」
それだけを、押し殺した声で言った。 二人は再び、無言のまま宿屋へと歩き始める。 しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。 遠くで響き続ける朝の街の活気ある喧騒だけが、二人の間を虚しく通り抜けていく。
やがて――宿屋の古びた木製の扉へと、その手を掛けるまさに直前。 レイガが、前を見つめたまま、ぽつりと地鳴りのような声で言った。
レイガ:「なら」
ルイ:「……?」
レイガ:「その『眠らせる以外』の方法を、これからは俺たちが必死になって探すしかないな」
ルイは、何も答えなかった。 脳内のシステムは『ない』と断言している。 それがこの世界の絶対の真理(ログ)なのだ。 けれど――。 大英雄と呼ばれた大人が吐き捨てた、そのあまりにも泥臭く、往生際の悪い決意の言葉だけは。 不思議と、ルイの綺麗に空っぽにされた胸の奥底に、確かな、消えない熱を持って引っ掛かり続けていた。
白く温かな湯気が、澄み渡る青空へとのんびり溶けていく。 宿屋の屋上に設けられた露天風呂。 昼前の空はどこまでも穏やかで、雲は薄く、初夏の風もほとんどない。
湯船に肩まで浸かっているシオは、気怠げに半眼のまま、ぼんやりと高く遠い空を眺めていた。 そのすぐ近くでは、相棒の小龍――ニガリが、湿った湯気を避けるようにして乾いた岩の上にちょこんと座っている。
シオ:「…………」
シオは瞼(まぶた)を閉じた。 思い出すのは、三日前の夜のことだ。 この屋上で、あの何も知らないセリナと真っ正面から向き合った。 あえて優しい言葉なんて一つも選ばなかった。 甘やかすように諭すのではなく、ただ冷徹な事実を鋭利な刃のように突きつけた。

シオ:『お前が、ルイを壊している』――と。
知らなければならなかったのだ。 真実を知らなければ、あの神様はまた無邪気に笑い、同じ残酷なエラーをこの箱庭で永遠に繰り返すだけなのだから。
シオ:「……これで」
シオは、湯面に微かな息を吹きかけるように、ぶっきらぼうに呟いた。
シオ:「あのバカ神も、自分の無自覚な罪をちゃんと理解したはずだろ」
ニガリ:「ケケッ」
ニガリが喉の奥を鳴らして、同意するように笑う。
シオ:「そうだな」
シオ:「…………」
シオは再び目を開け、空を仰ぎ見た。
シオ:「まあ、理解したところで……すべてが終わりってわけじゃないがな」
――まさに、その時だった。 屋上へと続く古い木扉が、ギイと控えめな軋み音を立てて開いた。

ナギ:「シオさん」
ナギだった。 その後ろから、ハープを愛おしそうに抱えたミリアが続く。 そして。
セリナ:「…………」
セリナが、そこに佇んでいた。 シオの三白眼が、自然とその小さな姿へと吸い寄せられる。
シオ:「……ほう」
二日前の夜とは、明らかにその雰囲気が違っていた。 大声で泣いているわけではない。 パニックを起こして取り乱しているわけでもない。 ただ――ひどく、物静かだった。 世界を書き換えてしまうあの圧倒的で無邪気な神のオーラは完全に鳴りを潜め、まるで『自分の中にある強大すぎる全能』を本能的に恐れているかのような、ひどく怯えた色をその青い瞳の奥底に宿していた。
シオ:「……来たか」
セリナ:「こんにちは……」

セリナが、消え入りそうな声で小さく頭を下げた。 以前のような陽気さは一欠片もない。 それでも、この場から逃げ出そうとはしていなかった。 シオはそれを見て、あえてそれ以上の追及はしなかった。
ナギが湯船の縁(ふち)へとそっと腰を下ろす。
ナギ:「少しだけ、ここで風に当たりながら休みましょう」
セリナ:「うん……」
ミリアが防水布を外し、持ってきたクリスタルハープを自身の膝の上へと置いた。

ミリア:「セリナさん」
セリナ:「……なに?」
ミリア:「少しだけ、またここで演奏してもいいですか?」
セリナ:「……うん」
ミリアが、透明な銀弦に細い指先を優しく添える。 朝の澄んだ空間へ、涼やかな旋律が流れ出した。 ぽろん。 ぽろん……。 柔らかな音の波紋が、白いたなびく湯気の中を穏やかに漂っていく。 すると、セリナの周囲で暴力的に揺らめいていたあの『甘いバニラの神性(バグ)』が、少しずつ薄れ、凪(なぎ)へとその姿を変えていった。
張り詰めていた空気が落ち着きを取り戻し、ナギがほっと胸の内で息を吐き出す。
ナギ:「……よかった」

ミリアも、安堵するように小さく微笑んだ。
ミリア:「今日は、眠る前よりずっと安定しています」
セリナ:「うん……」
セリナも、少しだけ肩の力を抜いて、湯面に視線を落とした。 けれど。
シオ:「…………」
シオだけは、三白眼を鋭く細めたまま、その様子を冷淡に見つめていた。
ナギ:「……何ですか、シオさん?」
そのただならぬ視線の鋭さに、ナギが気づいて眉をひそめる。

シオ:「これだけじゃ、根本的には何一つ抑えきれてねえよ」
ミリア:「え……?」
ミリアの指先が、驚きに止まった。 ハープの美しい音が途切れ、屋上に再び重苦しい静寂が戻ってくる。 シオは、湯船の向こう側に佇むセリナを、真っ直ぐに見据えた。
シオ:「今までと何も変わっちゃいねえ。 一時的に鎮痛剤を打って、表面上だけ静かになってるだけだろ」
セリナがビクッとその華奢な肩を震わせ、さらに深く俯(うつむ)いてしまう。
 その冷徹な言葉が、また自分を罰するものだと思ったのだろう。 けれど、シオは容赦なく言葉を叩きつけた。
シオ:「そもそも根本を間違ってるんだよ」
ナギ:「…………」
ナギが彼女を庇(かば)うように視線を遮り、問いかける。
ナギ:「では、どうすればいいと仰るんですぅ……?」
シオ:「そもそもな」
シオは湯船に浮かぶ己の細い両手を見つめながら、ぶっきらぼうに言った。
シオ:「神聖力なんて大層な代物は、人がどうこうできる類のものじゃねえんだよ」
ナギ:「……人が、ですか?」
シオ:「ああ、そうだ」
シオの三白眼が、今度は真っ直ぐにセリナを射抜く。
シオ:「人間が魔力を扱うみたいに、出力のバルブを器用に絞って、小綺麗に術式を組んで、はい制御完了しました――なんて、そんな安っぽい話じゃねえんだ」
セリナは、ただ石のように黙り込んでいる。

ナギ:「だったら……っ」
ナギが、さらに言葉を継いだ。
ナギ:「どうすればいいんですか? ほかに方法なんて……っ」
シオは、湯煙のなかで少しだけ、もどかしい間(ま)を置いた。
シオ:「――あのバカ神本人が、自分でコントロールするしかねえんだよ」
セリナ:「…………っ」
セリナの青い瞳が、驚愕に激しく揺れ動いた。

セリナ:「わたしが……?」
シオ:「ああ」
セリナ:「自分で……そんなこと……」
シオ:「そうだ。 お前がやるんだよ」
どこまでも冷たく、厳しい宣告だった。 けれど――二日前の夜の、あのただの絶望の告発とは、明確に何かが違っていた。 シオは、もうセリナを袋小路へ追い詰めるために言っているのではなかった。 自らの無自覚な罪を自覚した彼女自身に、ここから先の『答え』を自分の足で探させる段階へ入ったのだ。
セリナは、しばらくの間、自らの小さく白い手のひらをじっと見つめたまま黙り込んでいた。 そして――。
セリナ:「……わからないの」
ぽつりと、今にも泣き出しそうな掠(かす)れた声で呟いた。

セリナ:「神聖力って……一体、なんなの?」
誰も答えない。 答えられるはずがなかった。
セリナ:「どうして、わたしの中にこんなものがあるの……?」
重苦しい沈黙が、屋上を満たす。
セリナ:「どうしたら抑えられるのかも……まだ、わたしにはよくわからないよ」
セリナは、自らの胸元へとぎゅっと、引き千切らんばかりに強く手を当てた。
セリナ:「でも……っ」
少しだけ、迷いを振り切るように顔を上げる。
セリナ:「抑えられる方法があるなら、心から、今すぐにでも抑えたいって思う……!」
シオは湯に浸かったまま、何も言わずに彼女の言葉をじっと聞いていた。
セリナ:「それに……っ」
セリナの声が、今度は明確な情動を孕(はら)んで激しく震えだす。

セリナ:「無くしちゃったルイの記憶も……わたしとの思い出も、全部、全部取り戻したい……!」
白く温かな湯気が、二人の間を遮るようにゆっくりと流れていく。
セリナ:「もし……」
セリナは、涙の膜の向こうにある青い瞳を真っ直ぐに輝かせた。
セリナ:「もし、わたしが心から願えば、それが全部叶うって言うなら……」
その瞳に、ほんの一瞬だけ、前世のあの眩しい光が確かに宿った。
セリナ:「――わたし、いくらでも願うよ」
当然だった。 大好きな人の記憶を取り戻せるなら。 自分が傷つけてしまった人を元に戻せるのなら、何度だって願う。 自分のすべてを懸けてでも。 そう思うのが、人間としてあまりにも当たり前の、普通なのだから。
けれど。
セリナ:「……でも」
セリナは、痛みに耐えるようにその青い瞳を伏せた。

セリナ:「わかっちゃったんだよ」
シオの三白眼が、さらに鋭く細くなる。
セリナ:「わたしは、多分ね……」
桜色の唇が、白く、小刻みに震える。
セリナ:「――壊すことしか、できないんだ」
シオ:「…………」
セリナ:「わたしが願えば願うほど……わたしが、ルイのこれまでの人生を内側から壊しちゃう」
自分で言葉にするたびに、その厳然たる事実が鋭い棘(とげ)となって、彼女の胸の奥底へ深く深く突き刺さっていく。
セリナ:「だから……っ」
セリナは小さく、けれど悲痛な息を喉の奥へ吸い込んだ。
セリナ:「もう、簡単には願えないよ」
シオは、一度だけ目を閉じた。 二日前の夜、俺が怒りに任せて投げつけた、呪いのような冷徹な言葉が。 二日間の眠りを経て、ようやく彼女の魂の芯まで届いたのだと分かった。 あの瞬間は、ただの全能の神様を容赦なく傷つけただけに見えた。 けれど、彼女は傷ついたままで終わりはしなかった。 ちゃんと苦しみ、ちゃんと怖がった。 そして――『自分の中にある全能の力(バグ)』を、彼女は正しく、おぞましい恐怖の対象として疑い始めたのだ。
セリナ:「……シエルにね、脳内で言われたんだ」
セリナが、これまでの傲慢を神へと懺悔(ざんげ)するかのように、ぽつぽつと言葉を続ける。

セリナ:「今の不安定なわたしのままで何かを願うと……ルイが、本当に、内側から完全に壊れちゃうって」
シオ:「…………」
セリナ:「だから、何かを願うことそのものが……いつでも正しい正解(ルート)とは限らないんだって、ようやく分かったの」
その言葉を耳にして。 シオは、湯煙の向こうでほんの少しだけ、満足そうに口元を緩めてみせた。
シオ:「……少しは自分の頭で物事がわかってきたじゃねえか」
セリナが、弾かれたように驚きでその顔を上げる。
セリナ:「……え?」
シオ:「二日前の夜のお前なら、絶対にそんな当たり前のことは言わなかっただろ」
セリナ:「…………」
シオ:「これまでは、願いを叶えて世界をお菓子で上書きすることそのものが、いつでも絶対的な『善』だと思い込んで疑わなかった。 お前はそういう、おめでたいバカ神様だったんだよ」
セリナは、その痛烈な指摘に何も言い返せなかった。
シオ:「でも、今は違うだろ」
シオは、セリナの揺れ動く青い瞳を、その三白眼で真っ直ぐに射抜く。
シオ:「願いを叶えることそのものが、誰かを本当に救うとは限らねえんだよ」
セリナは、涙を堪えるようにゆっくりと深く頷いた。
セリナ:「……うん」
シオ:「だったら、次は『ただ願う以外』の方法を自分の足で探せ」
セリナ:「方法……」
シオ:「ああ、そうだ」
シオは不器用そうに湯船の中で肩をすくめてみせた。

シオ:「自分の中に眠るその全能の力を、どうやって正しい規律で扱うか。 その答えを、今度は自分の頭で死ぬ気で考えるんだよ」
セリナは、ハープの残響が漂う空間で、じっと黙って思考を巡らせていた。 やがて――。
セリナ:「……うん」
もう一度。 今度は、その弱々しかった瞳の奥底に確かな意思の火を灯して、小さく、けれど力強く頷いてみせた。
ナギが、その変化を包み込むように見守っていた。
ナギ:「結局……」
それは、ひどく穏やかな声だった。
ナギ:「今は決して焦らずに、ミリアさんのハープで治療を受けながら、みんなで一緒に糸口を探していくしかないですねぇ」
セリナ:「…………」
セリナは、黙っていた。 けれど――今度は、現実から逃げるように視線を伏せることはなかった。 ただ黙って。
セリナ:「……うん。 そうだね」
と、真っ直ぐに頷いてみせた。

――まさに、その瞬間だった。
シオ:「…………」
シオのボーイッシュな表情が、不自然にピキリと強張った。
シオ:「……たしかにな」
ナギ:「シオさん……?」
ただならぬ気配を察して、ナギが振り返る。 シオの三白眼は、もうセリナたちを見てはいなかった。 空の向こう――この甘い箱庭世界の、さらにその向こう側の歪な次元の裂け目を、じっと凝視している。
シオ:「しかしよ……」
地を這うような、不穏で低い声が屋上に落ちる。
シオ:「この世界の崩壊(バグ)の引き金は、目の前のバカ神の神聖力だけじゃねえみたいだぞ」
ナギ:「……え?」
ナギが目を見開く。 セリナもハッとして弾かれたように顔を上げた。
ナギ:「どういうことだよ、シオさん?」
シオ:「言葉のままだよ」
シオは、湯船から上がらんばかりに、野生の獣のように敏感に鼻を動かした。 空気の成分を、その本能で確かめるかのように。

シオ:「……チッ、最悪だ」
彼女の眉間に、深く、禍々しい皺が寄る。
シオ:「――これは、ひどく嫌な臭いだぞ」

ミリア:「臭い……ですか?」
ミリアが、抱えたハープをきゅっと強く抱きしめながら不安そうに尋ねる。
シオ:「いや……『匂い』と言ったほうが近いか」
シオは、カカオの死臭を嗅いだとき以上に、その三白眼を嫌悪感に細めた。
シオ:「人間のなかに眠る恐怖や憎悪を、際限なく強制拡大させていくような……」
ナギ:「…………」
シオ:「――今まで、この欺瞞(ぎまん)に満ちた箱庭には、逆立ちしたって存在しなかった最悪の匂いだ」
生ぬるい風が、にわかに屋上を吹き抜けた。 焼き立てのお菓子を思わせる、この世界特有の欺瞞に満ちた甘い匂い。 それに不気味に混じり合って――ほんの僅かだが、舌の根がじりじりと痺れるほどに苦い『何か』が、確かに風に乗って流れてきた。

シオ:「世界中から、じわじわと滲み出てきやがるな」
ナギ:「世界中、ですか……?」
ナギの声が、底のない深淵へと低く沈んでいく。
ニガリ:「ほんとに……っ」
ニガリが岩の上で、身震いするように忌々しそうに鼻を鳴らした。

ニガリ:「苦くておぞましい味がしやがるぜ、おい」
その相棒の言葉に、シオは重苦しく黙って頷いた。 これは、絶対に違う。 セリナの神聖力が暴走しているときのバグとは、完全に一線を画していた。 あのバカ神の力は、どこまでも過剰に甘く、柔らかい。 そして、世界そのものの分子構造を強制的にお菓子へと書き換えてしまう。 だが――今漂ってきたのは、それとは真逆の最悪なベクトルを向いていた。 これは、人間の心の影へと、蛇のようにじわりと入り込む。 恐れ。 憎しみ。 怒り。 そうしたあらゆる負の感情を、ヘドロのように膨らませ、暴走させていく類のもの。
ミリア:「……一体、何が起きようとしているんですか?」
ミリアが、震える声で尋ねた。
シオ:「まだ分からねえよ」
シオは答えた。
シオ:「だがな……」
遠い王都の空の果てを、鋭く見遂げる。
シオ:「――確実に、最悪の何かが始まってやがる」
セリナが、自らの全能を恐れるように、華奢な身体を抱きすくめて怯えた。
セリナ:「……わたしの、わたしのせいじゃないの……?」
シオ:「違う」
今度も。 シオは一瞬の迷いすら見せず、即座に言い切った。

シオ:「これは、お前の仕業じゃねえよ」
セリナ:「…………っ」
シオ:「お前がこの世界を壊してるエラーとは、ベクトルの方向がまったく違ってんだよ。 だから、これに関しては自分を責める必要はねえ」
セリナは、胸の奥に溜まっていた重苦しい空気を吐き出すように、少しだけ安堵の息を漏らした。 世界が、何者かによって決定的に壊れ始めている。 その残酷な事実そのものが消え去ったわけではない。 けれど、少なくとも――すべてが、自分の罪のせいではないのだと。 それだけで、彼女にとっては、ほんの少しだけ喉の奥のつかえが取れて呼吸がしやすくなった。
ミリア:「……一体、どうしたらいいんですの……っ」
ミリアがぽつりと呟いた。 その可憐な声には、もう隠しきれない未知の恐怖が色濃く滲んでいる。 ナギがそっと、彼女のほうへと振り返った。
ナギ:「大丈夫ですぅ」
いつも通りの、少し気の抜けた柔らかな口調。 けれど、その翡翠色の瞳の奥に宿る光は、かつてないほど真剣だった。
ナギ:「わたくしやレイガさんが、今もこうしてここにいます」
そして――。
ナギ:「それに、本国には頼れる六人のお友達……高名な『賢人』の方々がいますぅ」
ミリア:「……六人の、賢人」
ミリアが、その肩の震えを抑えるように呟く。
ナギ:「はい」
ナギは力強く、少女に未来を保証するように頷いた。

ナギ:「一人きりで抱え込む必要なんて、この世界のどこにもありませんっ」
シオは、その大人たちの会話を聞きながら、どこか皮肉げに、けれど頼もしく小さく笑った。
シオ:「だったら……俺も、そろそろ腰を上げるか」
ナギ:「シオさん?」
ナギが眉を上げる。
シオ:「古龍ゼノの頑固ジジイにでも、直接話を聞きに行ってやるよ」
セリナが、ハッとその顔を上げた。
セリナ:「ゼノ、さん……?」
シオ:「ああ」
シオは湯船のなかで頷いた。
シオ:「クソ長く生きてる爬虫類のほうが、こういう世界のバグの時は何か有益なことを知ってるかもしれないからな」
セリナ:「……何か、知ってるかな?」
シオ:「さあな」
シオは不器用そうに肩をすくめてみせた。
シオ:「でもよ、聞きに行かなきゃ何一つ分からねえだろ」
ニガリが岩の上で、ケラケラと喉の奥を鳴らして笑う。

ニガリ:「ケケッ! あの偉そうなトカゲ王なら、何か知ってやがるかもしれねえな!」
シオ:「だろ?」
シオも、相棒の言葉に同調するように薄く笑った。 けれど――そのボーイッシュな笑みは、次の瞬間には一瞬で消え去った。 再び、高く遠い空を見上げる。 青い。 あまりにも皮肉なほど穏やかな青空だった。
甘い世界。 優しい世界。 誰か(セリナ)を救うため、彼女の笑顔を繋ぎ止めるためだけにルイが創り上げた、偽りの世界。 その片隅に。 今まで絶対に存在しなかったはずの、おぞましく苦い匂いが不気味に混ざり合っている。 それはほんの少しずつ。 けれど確実に、世界中のありとあらゆる境界を越えて広がっていた。
これは、セリナ一人の神聖力の問題ではない。 それを封印し続けるルイ一人の問題でもない。 この世界(箱庭)そのもののシステムに――。 セリナの願いとはまったく『別の強烈な綻(ほころ)び』が、今まさに生まれ始めている。
シオは、誰の耳にも届かないほど小さな声で、ぶっきらぼうに呟いた。
シオ:「……クソ面倒なことになってきやがったな」
ニガリが隣で、楽しそうに笑う。
ニガリ:「ケケッ! 今さらだろ、相棒!」
シオ:「……まあ、そうだな」
生ぬるい、甘いお菓子の風がにわかに吹いた。 その優しすぎる香気のなかに。 ほんの少しだけ。 舌の粘膜をチリチリと刺すような、最悪の苦い匂いが、いつまでも色濃く混ざり合っていた。

昼過ぎ。 宿屋の重たい木扉が、ギイと控えめな音を立てて開いた。
ルイ:「ただいま」
先に入ってきたのは、ルイだった。 その後ろから、買い出した大量の荷物を軽々と担いだレイガが続く。
レイガ:「お疲れさん」
ナギ:「おかえりなさい、ルイ様。 レイガさんも」
食堂のテーブルで細々とした事務作業をしていたナギが顔を上げ、二人を穏やかに迎えた。 フレアも、焼き立てのパンの匂いを漂わせながら厨房の奥からひょっこりと顔を出す。
フレア:「お帰りなさいませ、ルイ様、レイガ様!」
ルイ:「うん。 ただいま、フレア」
ルイは膨らんだ買い物袋を腕に抱えたまま、食堂の様子をぐるりと見渡した。 そして、何よりも真っ先に尋ねる。
ルイ:「……セリナは、もう起きた?」
ナギが深く、安心させるように頷いた。
ナギ:「はい。 今はまた、二階のお部屋で静かに休んでますぅ」
ルイ:「そうか」
ナギ:「まだ少し、本調子というか、元気はありませんけれどねぇ」
ルイ:「…………そう」
ルイの凍りついていた表情が、ほんの少しだけ、頑なな氷が融けるように緩んだ。 本当に、それだけのごく僅かな変化だった。 けれど、彼の隣に立つレイガは、その息子の成長を見守るかのような微細なニュアンスを確実に見逃さなかった。

ミリア:「朝はね、みんなで屋上の露天風呂にも入りましたよ」
ミリアが愛おしそうにハープの弦の手入れをしながら、誇らしげに言った。
ルイ:「本当に?」
ミリア:「はい!」
ルイが弾かれたようにその顔を上げる。
ミリア:「朝一番のハープも、ここでセリナさんのために弾きました」
ルイ:「……セリナの様子は?」
ミリア:「ずっと、黙って優しく聴いてくれました」
ミリアが、少しだけ嬉しそうに、可憐な笑みを咲かせた。
ミリア:「でもね、最後に……『ミリアの音、もう少しだけ聴いていたいな』って言ってくれたの」
ルイ:「…………」
ルイは、何も言わなかった。 ただ――。
ルイ:「……そう」
小さく、肺の底に溜まっていた重苦しい息を吐き出した。 それは、あまりにも深い、救われたような安堵の吐息だった。 おそらく、自分自身でも気づいていないほど無意識の、削り残された魂の底からの安堵。
ルイ:「それなら、本当に、本当によかった」
そう呟いて、ルイは腕に抱えていた買い物袋を、テーブルの上へとそっと置いた。

ナギ:「あ、それが頼んでいたものですね」
ナギが足取り軽く近づいてきて、木机の上の袋の中をそっと覗き込む。
ナギ:「……寝間着(ねまき)」
ルイ:「うん」
ナギ:「お菓子」
ルイ:「うん」
ナギ:「茶葉に……それから、髪留め……」
ナギが、丁寧に日用品をテーブルの上へと取り出していく。
ナギ:「……ずいぶんたくさん買い求めてきましたねぇ」
レイガが呆れたように鼻を鳴らした。
レイガ:「こいつが勝手に欲しいものを増やしたんだよ」
ルイ:「必要なものだからね」
レイガ:「必要以上にな」
ルイ:「……そうだっけ?」
レイガ:「そうだよ」
二人のどこか気の抜けたやり取りを見て、ミリアがたまらず小さく吹き出した。
ミリア:「ふふ……っ」
ルイ:「そんなに笑わなくてもいいと思うんだけど」
ミリア:「ごめんなさい、ルイさん」
ミリアは口元を細い手で隠して、上品にクスクスと微笑んだ。 ナギが、袋の中から市販のお菓子を掌(てのひら)に取り出した。
ナギ:「これ、セリナ様がすごく喜びそうですねぇ」
ルイ:「……うん」
ナギ:「どうして、数ある中でこれを選んだんですか?」
ルイ:「…………」
ルイは、そのありふれたお菓子のパッケージをじっと見つめた。 どこかで見覚えがあるような、ないような。 セリナがこれを好きそうだと思った。 ただ、それだけだった。

ルイ:「……分からないんだ」
ナギ:「……分からない、ですか?」
ルイ:「うん」
少しだけもどかしそうに思考を巡らせてから。 ルイは、そのお菓子の輪郭を指先で優しくなぞりながらぽつりと言った。
ルイ:「ただ……これが一番いい気がしたんだよ」
ナギとミリアが、その瞬間、一瞬だけハッとして弾かれたようにルイの顔を見つめた。 けれど――二人とも、それ以上の言葉は何も言わなかった。 いや、言えなかったのかもしれない。 脳内のインデックス(データ)から完全に消去された前世の記憶の代わりに、彼の人間としての奥底には、まだ確かに『愛おしい誰かへの痕跡』が脈打っている。 そんな温かくも、残酷すぎる奇跡の残滓を、二人は痛烈に感じ取ったのだろう。
ルイはその意味深な視線の意味に気づくことすらできないまま、ただ、ありふれたお菓子をゆっくりと袋の中へと戻した。
ナギ:「これからしばらく、朝は屋上のお風呂とハープを続けようと思っています」
ナギが宣言するように言った。
ナギ:「セリナ様の状態を見ながら、少しずつ、慎重にですけれどねぇ」
ルイ:「それなら安心だね」
ルイは素直に頷いた。
ルイ:「うん。 ありがとう、ナギさん」
その心からの労いの言葉を聞いて、ナギは少しだけ困ったように、けれど愛おしそうに優しく笑った。

ナギ:「いえいえ、大人ですからねぇ」
食堂に、穏やかな空気がゆっくりと戻る。 ほんの短い時間だけ――それは、世界に何も壊れているものなんて存在しない、平和な昼下がりの情景そのものだった。
けれど。 ルイはふと、食堂の奥の薄暗いテーブルへと、何かに引かれるように視線を向けた。
ルイ:「…………」
そこに、シオがいた。 視線が交錯する。 シオは何も言わず、ただ三白眼で冷淡にこちらを見返している。 ルイは少しだけ論理的に思考を巡らせてから、彼女の方へと歩み寄った。
ルイ:「シオ」
シオ:「なんだ?」
ルイ:「ちょっと、いいかな」
シオ:「ああ」
二人は、食堂の喧騒からわずかに外れた、薄暗い壁際の席へと移動した。 ルイが声を潜めて口を開く。
ルイ:「二日前のことなんだけど」
シオ:「……ああ」
ルイ:「セリナのこと、どう思ってるんだ?」
シオは怪訝そうに、その細い眉を上げた。
シオ:「どうって、何がだよ?」
ルイ:「あいつは、自分が世界を壊しているって、今、すごく強く思い込んで怯えているんだ」
シオ:「…………」
シオはしばらくの間、黙り込んだ。

シオ:「まあ」
やがて、短く吐き捨てるように応じる。
シオ:「自分のしでかしてるバグのヤバさを、少しは自覚したんじゃないか」
ルイ:「そうか」
ルイは頷いた。
ルイ:「じゃあ……」
少しだけ迷ってから、本題の問いを切り出す。
ルイ:「僕は、これからどうすればいい?」
シオ:「そんなもん、俺に聞くな」
冷徹な、一秒の迷いもない即答だった。
ルイ:「……そっか」
シオ:「俺だって、この世界の仕様を全部分かっちゃいねえよ。 神聖力ってやつが多少見抜けたところで、お前をどうすれば救えるかなんて、俺にはさっぱり分からん」
ルイ:「…………」
ルイは、ただ黙っていた。 そして――。
ルイ:「それでも、僕はセリナを守りたいんだよ」
シオの細い眉が、嫌悪感を示すようにピクリと動いた。

シオ:「……チッ、またそれかよ」
ルイ:「うん」
シオ:「お前、何度俺に同じことを言わせりゃ気が済むんだ?」
シオの不機嫌な声が、地を這うように低く沈んでいく。
シオ:「お前はさ、セリナを守るためなら、自分自身が完全にブッ壊れても構わねえって本気で思ってるだろ」
ルイは少しだけ、自らの指先へと視線を落として目を伏せた。
ルイ:「……それが『必要』ならね」
シオ:「その思考を今すぐやめろ」
言葉が、鋭い氷の刃のように真っ直ぐに飛んできた。
ルイ:「…………」
ルイは顔を上げ、彼女の三白眼を見つめ返す。
ルイ:「どうしてだい?」
シオ:「どうして、じゃねえよ」
シオは忌々しそうに、薄暗い床へ言葉を吐き捨てた。
シオ:「それを『必要』なんていう安っぽい一言で片付けるんじゃねえ」
ルイは、何も言い返せなかった。

シオ:「お前は、自分が跡形もなく壊れることを、最初から『当然の選択肢』のなかに組み込んでやがるんだ」
ルイ:「…………」
シオ:「俺はな、お前のその自己犠牲気取りが一番気に入らねえんだよ」
シオは、魂の奥底まで射抜くような強烈な眼光でルイを見た。
シオ:「まったく、お前ら、反吐が出るほど似た者同士だな」
ルイ:「……僕と、セリナが?」
シオ:「ああ、そうだ」
ルイは、少しだけ意外そうに目を瞬かせた。 自分とセリナ。 一体どこが似ているのだろう。 性格も、思考のプロセスも、生まれ育った環境も、ずいぶん違うように思えるのに。
シオ:「俺から見ればな、そっくりだよ」
シオは、怒りを押し殺すように言葉を重ねた。
シオ:「――あのバカ神は、自分が壊れて深く眠ることで、この世界を守ろうとしてる」
ルイ:「…………」
シオ:「――お前は、自分が壊れて記憶を失うことで、あのバカ神を守ろうとしてる」
ルイは、冷淡に黙り込んだ。 否定できなかった。 いや――それを否定するための論理(リソース)そのものが、脳内のシステムを探してもどこにも見当たらなかったのだ。
セリナを守る。 世界のバグを封印する。 そのためなら、自分の身を暖炉の薪のように燃やし尽くしたって構わない。 それこそが、この箱庭(ゲーム)における絶対の『正解(クリア条件)』だと、今までずっと信じて疑わなかった。 少なくとも、今この瞬間までは。
シオ:「結局、やってることは全く同じなんだよ、お前らは」
シオの低い声が、静まり返った壁際にぽつりと落ちる。

シオ:「どっちも……」
ほんの一瞬の、ひどくもどかしい間(ま)が二人の間に横たわった。
シオ:「――自分という存在を、最初から勘定に入れてねえんだよ」
ルイ:「…………」
その言葉が。 シエルの最適化パッチ(論理)によって平坦に慣らされていたはずの、胸の奥深くに、妙に鋭く、深く突き刺さった。
自分という存在を、最初から勘定に入れていない。 言われてみれば、確かにその通りなのかもしれない。 セリナが世界を壊さぬよう、自らを責めて傷つくことを、ルイは全力で止めようとしていた。 けれど――自分がセリナを守るために削られ、傷つくこと(大切な記憶を世界から失うこと)については。 一度だって、彼女と同じようには考えようとしなかった。
ルイ:「…………僕は」
ルイの声が、そこで途切れる。 続きの言葉がどうしても出てこない。 自分が一体何を言い訳すればいいのか、もう分からないのだ。
シオはそれ以上、彼に残酷な追及はしなかった。 ただ、すれ違いざまにルイの華奢な肩を、軽く叩く。
シオ:「……少しは考えろ」
ルイ:「…………」
シオ:「お前自身の人生(命)のこともな」
それだけを言い残して、シオは先に、薄暗い食堂の奥へと消えていってしまった。

ルイは、ただその場にぽつりと取り残された。 少し離れた場所から聞こえてくる、ナギたちの和やかな話し声。 食器がカチャカチャと触れ合う乾いた音。 誰かが穏やかに笑い合う声。 いつもの宿屋。 いつもの、ありふれた穏やかな昼下がり。
なのに。 彼の空っぽにされた胸の奥底にだけ、ひとつの重苦しい言葉が、逃げ場のない残響となって鳴り響き続けていた。
――自分を、勘定に入れてない。
ルイは、木机の上に置かれたままの買い物袋へと、改めて視線を落とした。 その中には、さっき自分が衣服店や菓子店で、迷いながら選んだものばかりが入っている。 肌に優しい寝間着。 無意識に選んだ市販のお菓子。 朝風呂のあとの茶葉。 淡い色の髪留め。 そのどれもが、すべて。 彼女が二度と怯えなくていいように。 彼女が少しでも、前世のあの眩しい朝のように笑えるように。 全部、彼女のためだけに買い求めたもの。
ルイ:「…………」
その袋の中に、ごくありふれた自分自身のためのものは。 ただのひとつも、入っていなかった。
ルイは何も言わずに、ただその空っぽな優しさの詰まった袋を、いつまでも、じっと見つめ続けていた。

部屋の扉の前で、ルイは一度だけ足を止めた。 右手には、昼間に衣服店や菓子店を巡って買ってきた買い物袋の紐が、ずっしりと痛いほど食い込んでいる。 肌に優しい寝間着。 無意識に選んだお菓子。 朝風呂のあとの茶葉。 淡い色の髪留め。 すべて彼女に必要だと思ったものを買い揃えた。 ……けれど、そこには自分自身のためのものは、やはり何一つとして入っていなかった。
シオ:『自分という存在を、最初から勘定に入れてねえんだよ』
シオの突きつけた言葉が、未だに耳の奥底で消えない呪いのように重く残響している。 自分の中に開いたあまりにも広大な空虚に気づいてしまった胸の悪さを隠すように、ルイは小さく息を吐き出し、木扉をノックした。
ルイ:「セリナ。 入ってもいいかな?」
セリナ:「……うん」
消え入りそうな、微かな返事があった。 ルイはノブを回し、彼女の部屋へと足を踏み入れる。 室内は、ひどく、耳が痛くなるほどに静まり返っていた。 窓のカーテンの隙間から斜めに差し込む午後の陽光が、古い木床の上に細長く切り取られて白く伸びている。 その光の向こう側――白く清潔なベッドの上に、セリナが膝を抱えるようにしてちょこんと座っていた。
ルイ:「ただいま、セリナ」
セリナ:「……おかえり、ルイ」
セリナは、笑わなかった。 ルイも、いつものような歪みのない救世主の微笑みを、今だけは無理に作ろうとはしなかった。 抱えていた袋を、部屋の木机の横へそっと、音を立てないように置く。
ルイ:「買ってきたよ。 ナギさんたちに頼まれてた寝間着とか……あと、少しだけお菓子とかもね」
セリナ:「……ありがとう」
ルイ:「お菓子は、もしよかったらナギさんやミリアと一緒に食べて」
セリナ:「……うん」
短い、ただ事実をなぞるだけの会話。 それだけだった。 以前の日常なら。 彼女はもっと嬉しそうにベッドから身を乗り出して、袋の中身を無邪気に覗き込んでいただろう。
「どんなお菓子なの?」
「ねえ、ルイが選んでくれたの?」 と、鈴を転がすような陽気な声で部屋を甘く満たしてくれたはずだった。 けれど今は、その先の言葉がどうしても続かない。

光のなかに埃が細かく舞う静かな時間だけが、二人の間にしんしんと、雪のように積もっていく。
セリナ:「…………」
ルイ:「…………」
やがて――セリナが、ゆっくりと重い顔を上げた。 その青い瞳の奥が、痛切に濡れている。
セリナ:「ルイ……」
ルイ:「なに?」
セリナ:「わたしね……ひとつだけ、お願いが、あるの」
その声は、今にも千切れそうなほど小さく、小刻みに震えていた。
ルイ:「うん、何だい?」
ルイは感情を排して、静かに彼女の言葉を待つ。 セリナは両手で白いシーツをぎゅっと、指先が白くなるほど強く握りしめ、喉の奥で激しく躊躇(ためら)ってから――。
セリナ:「わたしを……っ」
そこで、一度深く、血を吐くような息を吸い込んだ。
セリナ:「――もう一度、魔法で眠らせて……っ」
ルイの形作られていた表情が、その瞬間、ピタリと停止した。

ルイ:「…………」
数秒間、脳内のシステムすら沈黙し、何の言葉も出てこない。
ルイ:「……どうして、そんなことを言うんだい?」
ようやく喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほどに低く、掠(かす)れていた。 セリナは痛ましそうに、さらに深くその身を縮めて俯いた。
セリナ:「このまま、わたしが起きていたら……っ」
白いシーツを握りしめる彼女の指先が、限界まで白くなっていく。
セリナ:「また、なにかを勝手に願っちゃうから……!」
ルイ:「…………」
セリナ:「もう、なにも願いたくないの……」
その言葉は。 以前の天真爛漫なセリナなら、絶対に口にすることのない、あってはならない類のものだった。 願えば、どんなことだって叶う。 誰かが目の前で困っているなら、傷ついて泣いているなら、全力で願ってあげればいい。 それこそが自分の誇るべき優しさであり、絶対に正しいことなのだと、彼女は信じて疑わなかった。 けれど――今は、あまりにも違う。
セリナ:「世界を……これ以上お菓子にして壊したくないの」
セリナが、震える唇で呟いた。
ルイ:「…………」
セリナ:「ルイのこれまでの人生を……わたしのせいで、もう壊したくない……っ」
ルイの華奢な指先が、不意にわずかに震えた。

セリナ:「だから……っ」
セリナは意を決したように顔を上げる。 その大きな青い瞳には、まだ自らの中に眠る全能の神性に対する、明確な、生々しい恐怖の炎が燻っている。 それでも――彼女はもう、現実から逃げてはいなかった。
セリナ:「あのね、神聖力を……ちゃんとわたし自身が、完璧にコントロールできる正しい方法が見つかるその時まで……」
ゆっくりと。 一文字ずつ、その胸の痛みを噛み締めるように。
セリナ:「――わたしを、もう一度、深く眠らせてほしいの」
ルイは、すぐには言葉を返すことができなかった。 彼の脳裏に、二日前の凄惨な光景がフラッシュバックする。 バグを起こして崩壊しかけた食堂。 ナギの冷静な判断。 シエルのシステム指示。 そして、放たれた強制的な睡眠魔法。 あの時、セリナは『自分の意思』で眠りに就いたわけでは決してなかった。 世界を守るため、何よりもルイの命を守るために、周囲の大人たちが彼女の混濁した意識を強制的にシャットダウンさせたのだ。
けれど。 今は、何から何まで違う。 目の前にいるセリナは、誰に強制されたわけでもなく、自分自身の強固な意思で、その孤独で過酷な『避難』の道を選び取ろうとしていた。
ルイ:「……怖くは、ないのかい?」
ルイが、低い声で尋ねた。
セリナ:「怖いよ……」
セリナは、ほんの少しだけ口元を歪めて笑ってみせた。 それは、今にも泣き出しそうな、ひどく弱々しい笑顔だった。

セリナ:「すっごく、怖いよ……」
ルイ:「…………」
セリナ:「眠っちゃったら、ルイとこうして一緒に居られなくなるのが、何よりも怖いよ……」
ルイ:「…………」
セリナ:「起きたとき、世界が何か取り返しのつかない風に変わってたらどうしよう、とかさ」
セリナは、自らの胸元へとそっと、その小さな手を重ねた。
セリナ:「でも……っ」
小さく、震える息を吐き出す。
セリナ:「今のまま、なにも分からずに起きてるほうが、わたしにとってはもっと怖いんだよ」
ルイは感情を排したまま、ただ黙って彼女の独白を聞いていた。
セリナ:「だって……っ」
セリナの声が、悲痛な情動を孕(はら)んで激しく震えだす。
セリナ:「わたしがなにかを無邪気に願うたびに、ルイの、世界で一番大事なものが内側からなくなっていくんだよ!?」
ルイ:「…………」
セリナ:「それをもう知っちゃったのに、わたしが平気な顔をして起きてるなんて……そんなこと、絶対にできないよ……っ」
ルイはその目を伏せた。 空っぽにされた胸の奥底に、昼間、薄暗い食堂の席でシオから突きつけられたあの冷徹な言葉が、あまりにも鋭く蘇(よみがえ)ってくる。
――どっちも、自分という存在を最初から勘定に入れてねえんだよ。

ルイ:「……セリナ」
セリナ:「なに?」
ルイ:「君は……」
ルイは、冷たいシステムに支配された胸の中から、人間としての言葉を必死に手探りで探り当てた。
ルイ:「眠ることで、自分自身を傷つきから守りたいわけじゃ、ないんだね」
セリナ:「……うん」
ルイ:「僕を……僕の命を守りたいから、眠るの?」
セリナ:「うん」
一秒の躊躇(ためら)いもない、即答だった。
ルイ:「この世界も?」
セリナ:「うん」
そして――ほんの少しだけ、もどかしい間(ま)を置いて。
セリナ:「……わたしもね、いつかちゃんと、ルイを隣で守れるようになりたいから」
ルイは、ゆっくりと顔を上げた。 セリナは、もう泣いてなどいなかった。 その華奢(きゃしゃ)な身体を震わせて怖がり、全能の力に怯えながら、それでも真っ直ぐに前を向いて凛(りん)と佇んでいた。
セリナ:「だから……今は、眠るね」
その彼女の決意の言葉は、妙に静かで、けれどガラス細工のように気高く澄んでいた。
セリナ:「その、正しい方法が分かる時まで……」
セリナは、ほんの少しだけ愛おしそうに優しく微笑む。

セリナ:「――わたしは、もう一度、夢の中で待ってるから」
ルイの綺麗に慣らされていたはずの胸が、不意にわずかに痛んだ。 夢。 その響きに、目に見えない何かが喉の奥へ引っかかった。 けれど、それが一体何のための記憶の残響なのかは、今のルイの冷徹なシステム(シエル)では解析することができない。
ルイ:「……その制御方法が分かったら?」
ルイが問いかける。 セリナは、前世のあの朝のように、少しだけ愛らしく小首を傾げてみせた。
セリナ:「そのときはね……」
柔らかく、大輪の花のように笑う。
セリナ:「――必ず、わたしを起こしに来てね」
ルイ:「…………」
セリナ:「約束だよ、ルイ」
ルイは、しばらくの間、彼女の涙の膜を張った青い瞳をじっと見つめ続けていた。 そして――。
ルイ:「……うん」
小さく、けれど二度と揺らぐことのない規律(ルール)として、固く頷いた。
ルイ:「約束するよ、セリナ」
――まさに、その瞬間だった。 ルイの頭脳(システム)の奥底から、聞き慣れたあの甘く冷たい声が高らかに響き渡った。

シエル:『……ルイ様』
ルイ:(シエル……?)
ルイの表情が一瞬で鋭く変わったのを見て、セリナが不思議そうに小首を傾げる。
セリナ:「どうしたの、ルイ?」
ルイ:「いや……」
ルイは少しだけ言葉を濁し、彼女から視線を外した。 そして、自らの意識を内側へ、深いシステムログの底へと沈めていく。
ルイ:(シエル、聞こえているか……)
シエル:『はい。 ここに存在しています』
ルイ:(本当に、彼女をもう一度眠らせるしか、今は方法がないのか?)
返事は、すぐには来なかった。 ほんの一瞬。 それだけの、機械にあるまじき僅かなタイムラグ。 けれど、ルイにとっては、その一瞬の絶対的な沈黙が、ひどく長く、重苦しく感じられた。
シエル:『……論理演算上、現段階でエラーを空間固定するには、セリナ様をもう一度眠らせるしかありません。 ……ですが』
シエルの電子音声が、ほんの少しだけ、バグを起こしたように低く沈む。
シエル:『――ルイ様。 それを解決するためのアプローチが、ひとつだけ、別ルートに存在します』
ルイ:(……え?)
ルイの瞳の奥が、不意に揺れ動いた。
シエル:『――世界樹の最深部、です』
ルイ:(世界樹の……最深部……)
シエル:『はい。 そこには、かつてこの世界の均衡を本来正しく調律していた大いなる存在が、今も深く眠りについています』
シエルの声は、いつも通りノイズを含まない平坦なものだった。 けれど、その響きには、世界の根幹そのものを根底から揺るがしかねない重い事実が含まれていた。

シエル:『この世界は本来、現在の不完全なセリナ様だけの手によって、一方的に維持されているわけではありません』
ルイ:「…………」
シエル:『本来の仕様(システム)であれば――この世界には、世界そのものを安定させて調律するための、もう一つの別の存在が必要不可欠だったのです』
ルイは脳内のリソースを最大に割き、黙ってシエルの言葉を並列処理していく。
ルイ:(その、眠っている存在を……僕たちの手で起こせばいいのかい?)
シエル:『はい』
ルイ:(どうすればいい?)
シエル:『眠っている聖域へと赴き、直接その意識を目覚めさせます。 そして――』
シエルは感情を排し、冷徹にその解答を告げた。
シエル:『――目覚めたその存在を、セリナ様と同化させます』
ルイ:「…………っ」
ルイは、思わず胸の底で息を呑んだ。
ルイ:(同化……だって……?)
シエル:『はい。 その融和(同化)を行うことで、セリナ様は、ご自身に眠る膨大な神聖力を自らの強固な意思で完全に制御・支配できるようになる可能性が極めて高く算出されます』
ルイ:(……可能性、なのかい?)
シエル:『現時点のログでは、未確定事項にすぎません』
シエルは淡々と、システムデータとしての事実だけを並べていく。
シエル:『現在のセリナ様は、自らが保持しているあまりにも強大すぎる神聖力を完全には扱いきれていません。 そのため、人間らしい感情の揺らぎに応じて余剰な出力(魔力バグ)が周囲へと漏れ出し、世界へ無意識のうちにお菓子化という最悪の影響を与えてしまっている状態です』
ルイは、白く清潔なベッドの上にぽつりと腰掛けるセリナの姿を見つめた。 彼女自身が、誰よりも大好きな人を傷つけないことを望んでいるのに。 彼女自身が世界で一番怖がっている全能の力を、自分ではどうにもできずに一人で泣いている。
ルイ:(……だったら)
ルイが心の中で、小さく呟いた。

ルイ:(その最深部へ行けば、セリナはもう……怯えずに済むようになるんだね)
シエル:『はい。 神聖力を御し、制御できるようになる可能性があります』
ルイ:「…………」
シエル:『ただし――』
シエルの電子音声が、ここから先は立ち入るべからずと警告するように、一段階冷たく沈んだ。
シエル:『大きな問題があります』
ルイ:(……問題?)
シエル:『はい。 本来の調律者が深層で永い眠りについているため、現在、この世界のあちこちに生じた歪な綻(ほころ)びが、システムとして正常に修復されていません。 そして……その綻びによる最悪の悪影響は、すでにこの世界の表面へと、色濃く顕在化し始めています』
ルイは、ただ重苦しく沈黙した。
シエル:『――かつて世界を奈落へ突き落とした《厄災の魔王》が、再びその力を取り戻し始めています』
ルイの瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
ルイ:(……厄災の、魔王だって……?)
現実の時間軸では、僕がセリナの言葉に詰まってから、まだわずか数秒しか経過していない。 けれど、ベッドの上で不安そうに僕の顔を見つめる彼女の青い瞳が、ひどく、永遠に近いスローモーションのように見えていた。
シエル:『はい。 その不穏な魔王の力が増大すれば、この世界に生きる人間、獣、魔獣、悪魔たちのすべてが、等しくその負の波長の影響を強く受けることとなります』
ルイ:(影響って……一体どんなことが起きるんだ?)
シエル:『内なる恐怖や欲望が、際限なく強制増幅されます。 それに伴い、他者への憎悪や怒りもまた、引き裂かれるように肥大化していくのです』
ルイは、今度こそ完全に息を呑んだ。 彼の脳裏に、先ほどまで食堂の薄暗い席で会話をしていた、あるいは屋上で不機嫌そうに鼻を動かしていたシオの顔が鮮烈に浮かび上がる。 あのとき、彼女は空気を本能で嗅ぎ取って、明確に何かの異変を感じ取っていた。 『嫌な臭い』『じりじりと舌の根が痺れるほど苦い匂い』と言って。
シエル:『そして――』
シエルが、どこまでも冷酷にシステムログを読み上げ続ける。

シエル:『その魔王による精神汚染の影響は、生き物の感情を汚すだけに留まるとは限りません。 突発的な天変地異、大規模な異常気象、その他の理不尽な災害……この世界そのものの構造に、様々な物理的崩壊(エラー)が発生する可能性が極めて高く弾き出されています』
ルイ:「…………」
ルイは、カーテンの隙間から、窓の外の景色をそっと見やった。 どこまでも青い空。 穏やかな初夏の風。 焼き立てのパンのような、愛おしい甘い匂い。 いつもと何一つ変わらない、平和を演じ続けている美しい箱庭。 けれど。 その欺瞞に満ちた裏側では。 何かが、ゆっくりと、けれど確実にドロドロに腐り、崩れ始めようとしているのだ。
シエル:『これまでは』
シエルの電子音声が、淡々と事実を紡ぐ。
シエル:『セリナ様の無意識から漏れ出す強大すぎる神聖力(お菓子の世界)が、それら魔王の及ぼす負の事象をすべて甘く優しく覆い隠し、都合よく中和し続けていました』
ルイ:「…………」
シエル:『しかし――セリナ様がこのまま、ご自身の意思で完全に深い眠りについてしまえば』
一拍の、残酷すぎる電子の静滅。
シエル:『それらの世界の崩壊(バグ)を甘く中和するシールドが消失し、破滅が一気に加速する可能性があります』
ルイは、完全に言葉を失ってしまった。 このまま、彼女をもう一度深く眠らせれば。 セリナ自身の心は、これ以上の傷つきから完璧に守ることができる。 けれど。 彼女が眠れば。 世界の隠されていた醜い綻びがすべて剥き出しになり、最悪の厄災がこの箱庭の全土へと広がってしまうかもしれないのだ。
ルイ:(……そんなの、あまりにも簡単じゃないね)
シエル:『はい。 トレードオフ(等価交換)の選択としては、極めて難解なバグです』
そして――。
シエル:『ルイ様、もうひとつ、お知らせすべきログがあります』
ルイ:(……まだ、何かあるのかい?)
シエル:『セリナ様がこのまま、一度深い眠りにつかれた場合』
シエルの声が、ほんの一瞬だけ、完璧な機械的規律を脱ぎ捨てるようにして、どこか恋人に囁くように柔らかくなった。

シエル:『――セリナ様の中にのみ辛うじて残されている、ルイ様の『前世の大切な記憶』のログを、システムとして完璧にアーカイブ(保護)し、補完することが可能となります』
ルイ:(……セリナの中にある、僕の、一ノ瀬としての記憶を……?)
シエル:『はい。 その通りです』
ルイは微かにその細い眉を寄せ、思考を巡らせた。
ルイ:(でも……おかしいじゃないか)
シエルはこれまで、ずっと頑なに言い続けていたはずだ。 失われた記憶は二度と元には戻らない、と。 アーカイブへと決済移送された人生の原本(オリジナル)を、もう一度人間の脳の回路へと繋ぎ直すことは、システムの規律上、絶対に不可能であると。
ルイ:(シエルのアーカイブから……僕の頭の中へ、記憶を直接戻せるのかい?)
シエル:『いいえ』
一秒の揺らぎもない、冷徹な即答だった。
シエル:『それとは全くアプローチが異なります』
ルイ:(……何が違うんだ?)
シエル:『シエルのメインアーカイブに永年保存されている【原本データ】を、ルイ様のご生体へと強制復元・返還するわけではありません』
ルイ:「…………」
シエル:『――セリナ様ご自身が、ご自身の魂で大切に保持し続けている……ルイ様との、すべての『青春の記憶』です』
ルイの綺麗に慣らされていたはずの胸の奥底で、何かが小さく、ドクンと激しく跳ねた。
シエル:『セリナ様が今も鮮烈に覚えている、ルイ様と過ごした放課後の時間。 セリナ様が隣で感じた、愛おしい感情。 セリナ様の心のなかにのみ辛うじて残されている、ルイ様という等身大の少年の記憶。 ……それらの瑞々しい色彩が、彼女の深い眠りによるシステム処理と引き換えに、逆流するようにルイ様へと流れ込みます』
ルイ:「…………」
シエル:『復元ではなく、外的リソースによる【補完】です』
その言葉を脳内で聞き届けて。 ルイは、自らの空っぽな胸へと、そっと右手を当てた。
ルイ:(……じゃあ、それは)
シエル:『はい』
ルイ:(僕の失ってしまったものが、すべて元の通りに完全復活するわけじゃないんだね?)
シエル:『――戻りません。 一ミリも戻りません』
シエルは、冷徹な神の管理AIとして、残酷なまでの真実をはっきりと言い切った。

シエル:『支払われ、失われたすべての原本記憶が、ご自身の脳内で復元されるわけではありません。 人格の最適化パッチが完全に解除され、元の等身大の『ルイ様』へと回帰するわけでもございません。 シエルのアーカイブにある原本が、規律を破って返還されるわけでもないのです』
ルイ:「…………」
シエル:『ただ――』
ほんの一瞬だけ。 脳裏に響くそのシステム音声が、神へと祈りを捧げるかのように、愛おしそうに小さく震えた。
シエル:『ルイ様にとって、最も最優先されるべき重要な記憶と感情の輪郭が……セリナ様の『視点』を通して、一定程度、ルイ様の中へと逆流補完されることとなります』
ルイはゆっくりと、一度だけその目を閉じた。 思い出そうとする。 ……いや、やはり何も思い出せない。 何も思い出せないからこそ、胸の奥底にぽっかりと空いた冷たい空洞の縁(ふち)に、辛うじてこびりついている、微かな、消えかけの熱だけを必死に手探りで探す。
セリナ。 一ノ瀬瀬里奈。 彼女の名前。 彼女の黄金色の笑顔。 彼女の鈴を転がすような声。 彼女が大好きだった、市販のあのチョコレート。 それらの愛おしい日常の記憶を。 自分は今日までの戦いで、どれほど多く、世界へと決済し、失ってしまったのだろう。 そして。 隣にいる彼女は――僕とのあの何気ない放課後の思い出を、どれほど鮮明に、どれほど大切に、その心のなかで覚えていてくれているのだろう。
ルイ:「…………」
ルイがゆっくりと閉じていた目を開くと、そこには白く清潔なベッドの上で、彼の顔を酷く心配そうに覗き込んでいるセリナの青い瞳があった。
セリナ:「ルイ……?」
ルイ:「……うん」
セリナ:「どうしたの? ずっと黙っちゃって……」
ルイ:「いや……」
ルイは首を横に振ってみせた。
ルイ:「なんでもないよ、セリナ」
シエルから告げられた《厄災の魔王》の再臨。 セリナの眠りと等価交換に逆流する、前世の記憶の補完。 これからこの箱庭に一体何が起こるのか、そのすべてはまだ完全には分からない。 それでも――彼の中に、ひとつだけ、絶対に揺らぐことのない確かな規律(真実)が誕生していた。

この彼女の選択した眠りは。 ただ過酷な絶望から逃げ惑うための、後ろ向きな逃避などでは決してない。 いつか、必ず二人でまばゆい朝の光を浴びて目を覚ますための、絶対的な希望の眠りなのだと。
ルイ:「セリナ」
セリナ:「うん?」
ルイ:「……約束通り、ちゃんと、僕が君を起こしに行くからね」
その言葉を聞き届けて、セリナは胸のなかに温かい灯火が宿ったかのように、花が咲いたようなとびきりの笑顔を咲かせてみせた。
セリナ:「うんっ!」
その――世界で一番守り抜きたいと願った、愛おしい黄金色の笑顔を真っ直ぐに見つめながら。 ルイは空っぽにされた胸の奥底で、誰に誓うでもなく、けれど人間としての消えない熱を持って呟いた。
ルイ:――今度は。 僕の番だ。 僕が死ぬ気で探してみせる。 君を夢の底から安全に起こす、本当の方法を。 この大切な世界をこれ以上壊さずに。 君も、僕も。 お互いに自分を勘定に入れないなんていう歪な犠牲をすべて踏み越えて――どちらも、絶対に壊さずに済むハッピーエンドのルートを、僕は必ず、この手で見つけ出してみせる。
セリナ:「……お願い、ルイ」
セリナが、神へと祈るように何度もその言葉を繰り返した。
セリナ:「わたしを……もう一度、深く眠らせて」
ルイは、しばらくの間何も言わなかった。 目の前にいる少女は、自らの内に眠る神の全能が、一体どれほど残酷な悲劇を引き起こすのかを誰よりも怖がっている。 それでも、彼女はもう現実から逃げてはいなかった。 誰に強いられたわけでもなく、自分自身の強固な意思で、選び取っているのだ。 大好きな人をこれ以上内側から焼き殺さないための『眠り』を。 そして、いつか必ず二人で眩しい朝を迎えにいくための『未来』を。

ルイ:「……分かったよ」
ルイはゆっくりと、彼女の覚悟を受け止めるように頷いた。
ルイ:「約束するよ、セリナ」
セリナは、胸のなかの氷が融けたように、花がほころぶような小さな笑顔を咲かせてみせた。
セリナ:「うんっ」
ルイは、白く清潔なベッドの傍らへとしなやかに腰を下ろした。
ルイ:(シエル)
シエル:『はい』
ルイ:(――始めよう)
シエル:『論理演算展開、および空間固定化パッチの適用を開始します』
脳の奥底で、静かに、けれど精密に無数の光る術式が並列展開されていく。 それは、世界を強制的に書き換え、バグを力ずくでねじ伏せるいつもの冷酷な『封印』とは、明確にその本質が違っていた。 彼女自身が心から望む安らかな深淵へと、その傷ついた魂を優しく、どこまでも優しく導くための、揺り籠のような愛の魔法。
ルイは、セリナの小さく震える手を、そっと自らの温かな両手で包み込んだ。
ルイ:「大丈夫だよ」
セリナ:「……うん」
ルイ:「何も、怖がる必要はないさ」
セリナ:「……うん」
ルイ:「次に目を覚ましたら、また一番に会おうね」
セリナは、心底安心したように、ゆっくりと瞼(まぶた)を閉じた。

セリナ:「……ずっと、夢の中で待ってるね」
その消え入りそうな、けれど確かな温もりを帯びた約束の言葉を最後に。 彼女の華奢な身体から、すうっとすべての力が綺麗に抜けていく。 先ほどまで悲鳴のように浅く速かった呼吸が、規則正しく穏やかな寝息へと変わっていった。 強張っていた表情から一切の緊張の色彩が消え去り、セリナは深い、深い、誰も侵すことのできない眠りの底へと落ちていった。
ルイ:「…………」
ルイは、その安らかな彼女の寝顔を、ただじっと見つめ続けていた。 静かな寝息。 穏やかな表情。 そこにあるのは、世界の理不尽な残酷さなど何一つとして知らない無垢な少女が、ただ他愛のない微睡(まどろ)みに身を委ねているだけの、あまりにも美しい情景だった。
――けれど。 その、瞬間だった。
ルイ:「――っ!?」
ルイの身体が、弾かれたように大きく跳ねた。
ルイ:「なに……これ、は……っ?」
頭の奥底で、何かがパチンと綺麗に弾ける音がした。 小さな、けれど確かな人間の熱を持った、眩しい光の粒子。 それが、眠る彼女と今も強く繋いでいる手のひらを通じて、直接ルイの脳髄へと、濁流のように流れ込んでくる。
ルイ:「…………っ、あ」
次の瞬間。 もう一つ。 そして、また一つ。

ルイ:「……待ってくれ、シエル……っ」
ルイは思わず、空いた左手で激しく脈打つ額を強く押さえた。 鮮烈な何かを、見ている。 けれど――それは自分がかつて見た風景なのか、それとも、別の誰かが見つめていた風景なのか、一瞬だけ判別が完全につかなくなる。
オレンジ色に優しく燃える、前世の放課後の校舎。 ワックスの匂いが微かに漂う、長い長いリノリウムの廊下。 窓から差し込む、瑞々しい斜陽の光。 誰もいない教室で響き合う、二人の他愛のない笑い声。 一緒に道端で分け合った、素朴なナッツの入ったチョコレートの匂い。
ルイ:「……これ、は……」
知らない。 僕の脳内のシステムアーカイブ(データ)には、もうそんな不必要なログは一つも削られて残っていないはずだ。 なのに――魂が、それを強烈に知っていると叫んでいる。 氷のように冷たく、綺麗に空っぽに慣らされていたはずの胸の奥の空洞が、じんわりと、涙が出るほどに愛おしい熱を帯びていく。
また一つ、また一つと。 眩しい記憶の奔流が、堰を切ってなだれ込んでくる。 瀬里奈がふにゃりと笑っている。 すぐ隣を歩いている。 何かを楽しそうに、マシンガントークで捲し立てている。 お菓子を一つ食べて、本当にくだらないことで何度も声を合わせて笑い合っている。 茜色に染まる通学路、不器用に距離を測りながら、並んで長く長く伸びていく、二つの愛おしい影。
ルイ:「…………っ、ぁ、あ……っ」
ルイは、声にならない悲鳴のような息を呑んだ。 光の洪水が、もう誰にも止めることができない。 一つ。 また一つ。 それは――一ノ瀬瀬里奈の瞳が、世界で一番愛おしそうに見つめていた世界。 セリナが隣で確かに感じていた、眩しい時間。 彼女の心のなかにだけ、唯一、世界の終わりから守り抜かれて残されていた――『僕という、ただの不器用な少年(一ノ瀬)』の、大切な、大切な記憶の原本(オリジナル)。 それが、次々とルイの中へと、逆流して流れ込んでくる。 堰を壊した洪水のように。 彼の脳内を支配していたあの無機質なシステム演算を、力ずくで、鮮やかに押し流しながら、彼という人間に迫り狂っていた。
ルイ:「……やめ……てくれ……っ」
頭を激しく抱え込む。 けれど――本当は、その奔流を止めたくなんて、これっぽっちもなかった。 処理しきれないほどに膨大な感情の熱量に、脳髄が焼き切れそうに痛いのに。 息が詰まるほどに苦しいのに。 この光の粒子を、どうしても、絶対に手放したくはなかった。

そこには、自分が冷酷に忘れてしまっていたものがあった。 自分が世界へと決済し、失ってしまっていた、二度と戻らないはずのかけがえのない時間があった。 そして何よりも――シエルの最適化パッチによって徹底的に削ぎ落とされていた、血の通った『感情』という名の熱が、そこには確かに脈打っていたのだ。
ルイ:「…………」
笑っている。 瀬里奈が、心の底から嬉しそうに、ふにゃりと愛らしく笑っている。 そのまばゆい笑顔を脳裏に認めるだけで、胸の奥深くが引き千切られるように締めつけられる。 苦しい。 なのに、どうしようもないほどに、嬉しい。 たまらなく、懐かしい。
あぁ――僕は、こんなにも、あいつのことが大切だったんだ。
意味を完全に失っていたはずの空虚な文字列が。 冷たい空っぽのラベルになっていたはずの無機質な記号が――。 極彩色の眩しい感情の波を伴って、今、凄まじい勢いで僕という人間の中へ還(かえ)ってくる。
ルイ:「……ああ……っ」
視界が、ぐにゃりと歪(ゆが)んだ。 ぽたり、と。 感情を消去されたはずの救世主ルイの目から、熱い一粒の涙が溢れ、床へと零れ落ちた。
ルイ:「……そう、だったんだね……」
自分は。 この、泣き虫で不器用な女の子を。

ルイ:「…………」
心の底から、命のすべてを懸けて、大切に想っていた。 その、どんな言葉を並べ立てるよりももっと深くて熱い純粋な感情だけが、火傷しそうなほどの鮮烈な温度を持って、彼の中に、はっきりと蘇(よみがえ)っていた。
前世のあの朝、何を食べたのか。 どこへ行ったのか。 どんな子供じみた会話をしたのか。 その正確な過去のデータ(記録)が、すべて戻ってきたわけでは決してない。 苗字の概念も、具体的な出来事のログも、シエルのメインアーカイブに徴収された原本がそのまま復元されたわけではないのだ。
それでも。 冷え切っていたあの空白の場所に、確かな血の通った本物の温もりが、逆流するように流れ込んでくる。 セリナが、覚えていてくれた。 僕のことを。 僕と過ごした、あの他愛のない放課後の時間を。 僕という人間を、彼女がどんなに愛おしい気持ちで見つめてくれていたのかを。
ルイ:「……セリナ」
その名前を、声に出して呼ぶ。 今までよりも、ほんの少しだけ。 その愛おしい響きが、自らの心の一番近い特等席にあるように感じられていた。
ルイ:「…………」
涙が、どうしても止まらなかった。 悲しい。 嬉しい。 苦しい。 懐かしい。 愛おしい。 大切だった。 何があっても失いたくなかった。 そんな、人間としてあまりにも当たり前の歪な感情が、順番も規律もなく、無茶苦茶に胸の奥底へと押し寄せてくる。
シエルの最適化パッチの破れた隙間から、制御不能な熱い想いが、せきを切ったように溢(あふ)れ出していた。 今のルイには、それらを小綺麗に整理することなど、到底不可能だった。 ただ、泣いた。 自らの手で燃やし、失ってしまったことが、どうしようもなく悲しくて。 彼女の中に、僕という存在が確かに残っていたことが、言葉にできないほど嬉しくて。 もう一度、人間としての心でそれを鮮烈に感じられたことが、胸が千切れるほどに苦しくて。 ――それでも。 涙が涸(か)れるほどに、自分は今、幸せだった。

シエル:『……ルイ様』
脳の奥底で、シエルの冷徹ながらも、どこか穏やかな声が聞こえた。
ルイ:「……何だい?」
シエル:『失われた前世の記憶が、完全に復元されたわけではありません』
ルイ:「……うん、そうだね」
シエル:『メインアーカイブに保存されている人生の原本(オリジナル)が、あなたへと返還されたわけでもないのです』
ルイ:「……分かっているさ」
ルイは、手の甲で乱暴に自らの涙を拭(ぬぐ)った。 分かっている。 全部じゃない。 完全じゃない。 何一つ元通りに戻ったわけではない。 それでも――。
ルイ:「……これだけで、僕にとっては十分すぎるんだよ」
シエル:『…………』
ルイ:「セリナが、僕のことをずっと覚えていてくれたからさ」
ルイは、安らかな眠りへ就いている少女の顔を、そっと見つめる。
ルイ:「僕は……もう一度、心からこう思えるんだ」
大切だと。 何があっても失いたくないと。 この手で守り抜きたいと。 自分が跡形もなく壊れることを最初から前提にして、ただ冷徹に計算された歪な自己犠牲(パッチ)を選ぶのではなく。 『僕』という一人の血の通った人間として、彼女の隣にずっといたいのだと。
ルイ:「…………」
深く眠っているセリナの頬には、穏やかな優しい笑みが浮かんでいた。 今も夢を見ているのだろう。 きっと、あの何気ない秋の放課後の夢を。 オレンジ色に染まる光。 誰もいない放課後の教室。 隣を歩く、不器用な少年。 素朴なナッツのチョコレート。 何の意味もない他愛のない会話。 そして、黄金色の笑顔。 それは――彼女にとって、世界で一番、幸せの質量に満ちあふれていた時間。
ルイは、その寝顔をじっと、網膜に焼き付けるように見つめ続けた。 涙が、また熱く一粒、白いシーツの上へと音もなく落ちていく。

ルイ:「……少しだけ、待っててね、セリナ」
返事はない。 当然だ、今の彼女は誰も侵すことのできない深い眠りの底にいるのだから。 それでも、ルイは確かに、自らの声で彼女へ告げた。
ルイ:「待ってて」
その言葉を、もう一度。 今度は、自らの魂の最深部へと深く刻み込むように、はっきりと。
ルイ:「――必ず、本当の正解(ルート)を見つけ出すからさ」
セリナを夢の底から安全に起こす、正しい方法を。 この狂い始めた世界を根底から救う、本当の方法を。 自分も、彼女も。 お互いを勘定から外さず、どちらも決して壊さずに済む、眩しい明日への道を。
ルイ:「だから……」
ルイは、眠るセリナの小さな手を、もう一度そっと握りしめた。
ルイ:「――夢の中で、僕のことを待っていて」
静まり返った客室。 規則正しく穏やかな、セリナの優しい寝息。 そして、泣き腫らした顔のまま、けれどその瞳に確かな未来の希望を宿して微笑むルイ。
少し離れた、冷徹な次元の隙間で。 管理AIであるシエルが、そんな二人の歪な奇跡を、じっと見つめ続けていた。

シエル:『…………』
シエルには、その明晰な論理演算ですべてが分かっている。 これが、決して綺麗なハッピーエンドの幕引きなどではないことを。 むしろ――。 ここからこそが、この箱庭における本当の理不尽な『始まり』なのだということを。
世界樹。 その最深部。 誰も足を踏み入れたことのない、絶対不可侵の神聖領域。 そこには、かつてこの世界の均衡を本来正しく調律していた、大いなる絶対的な存在が今も深く眠りについている。
そして――。 この欺瞞に満ちた世界のどこかでは。 《厄災の魔王》が、未だ誰一人として気づかぬまま、暗闇のなかで、その恐るべき破滅の力を取り戻し始めていた。
過剰なほどに甘く、優しい箱庭世界の片隅で。 舌の粘膜をチリチリと刺すような、最悪の苦い匂いが、またひとつ。 まだ誰にもその存在を知られることなく、冷たい夜風に混ざって溶けて消えていった。

(第23章『もう一度、夢の中で待っていて』・完)

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あらすじ セリナは二日間の眠りから目覚めるが、以前の無邪気さを失い、ナギとミリアを認識してもほとんど言葉を返せないほど憔悴していた。 食事も風呂も拒み、窓の外を虚ろに見つめる彼女は、ルイの所在を尋ねると、自分の願いが世界をお菓子へ変えて壊し、ルイまで壊してしまうことを恐れていると打ち明ける。 二日前、セリナの神聖力が暴走して周囲を菓子化した際、それを封じる代償としてルイは「一ノ瀬」に関する大切な前世の記憶を失っており、セリナは願うこと自体が愛する人を傷つける行為だと知って深い罪悪感に囚われていた。 ナギは、神聖力がセリナの感情の起伏に強く左右される以上、何も考えないよう求めるのは無理だと受け止める。 その代わり、一人で苦しみを抱え込まず、皆で解決策を考えるよう諭し、今後はルイ一人に犠牲を負わせないと断言する。 セリナの緊張がわずかにほどけると、ミリアはクリスタルハープを奏で、祈りのように穏やかな旋律で絶望に沈む彼女へ寄り添う。 一方、眠るセリナのそばにいるルイの中では、セリナが抱き続けていた「一ノ瀬」の記憶と感情が逆流するように蘇る。 前世の出来事や苗字の概念など、シエルのメインアーカイブに回収された記録そのものが完全復元されたわけではない。 しかし、セリナと過ごした放課後の温もり、彼女の笑顔への愛しさ、自分が命を懸けて彼女を大切に思っていた事実が、失われていた人間的な感情として鮮烈に戻ってくる。 ルイは涙を流しながら、セリナが自分を覚えていてくれたことだけで十分だと語る。 そして、自壊を前提とした冷徹な自己犠牲ではなく、一人の人間としてセリナの隣にいたい、彼女を守りたいと改めて願う。 眠る彼女の手を握り、セリナを安全に目覚めさせ、世界も二人も壊さずに救う「本当の正解」を必ず見つけると約束し、夢の中で待っていてほしいと告げる。 しかしシエルは、これは幸福な結末ではなく、この箱庭世界における過酷な本当の始まりだと理解している。 世界樹の最深部には世界の均衡を調律していた絶対的な存在が眠り、同時にどこかでは《厄災の魔王》が誰にも知られぬまま破滅の力を取り戻し始めていた。
解説+感想+採点読みました。今回の「お菓子23」は、かなり重要な転換回ですね。 単なる「セリナが目覚める回」ではなく、ルイとセリナがそれぞれ自分の在り方を見直し、物語の解決ルートそのものが切り替わる回になっています。
総合評価
かなり高いです。現状で 92点 / 100点。
特に、
セリナの心理変化 ルイの記憶喪失の見せ方 シオの役割 レイガの「大人」としての立ち位置 「自分を勘定に入れない」というテーマ 世界樹最深部への次章への接続
このあたりが非常に強いです。
一方で、やや説明・反復が多いので、そこを整理すると95点前後まで狙えると思います。
1.今回の話は何を描いているのか
大きく分けると、物語は三本の流れになっています。
① セリナの「絶望」から「自覚」への変化
冒頭のセリナは、以前の明るい彼女とは完全に別人です。
目覚めても、
> 「……いらない」 > 「……お風呂も、いい」
と、食事も風呂も拒否する。
そして一番重要なのが、
> 「願えば……願うほど……世界が、お菓子になって壊れちゃう」
という認識。
ここでセリナは初めて、
「自分の願い=善」ではない
と理解しています。
これはかなり大きい。
以前のセリナは、
願う → 願いが叶う → 幸せになる
という単純な世界観だった。
今回から、
願う → 世界に影響する → 誰かを傷つける可能性がある
という因果関係を理解し始めています。
そしてナギが、
> 「すべてを、自分一人だけで抱え込まないことですぅ」
と言う。
ここで「セリナ一人で解決する話」から、
みんなで解決する話
へ変わります。
これは非常に良いです。
2.ミリアのハープが単なる「癒やし」ではない
ここも上手いです。
ミリアのハープによって、セリナから漏れている神聖力が穏やかになる。
つまり、
精神状態 → 神聖力 → 世界への影響
という、この作品独自のシステムが明確になっています。
ただし、ここで「ハープで全部解決!」にしないのが良い。
シオが、
> 「これだけじゃ、根本的には何一つ抑えきれてねえよ」
と切る。
つまりハープは、
治療・緩和
であって、
根本治療ではない。
この線引きがちゃんとされています。
物語上かなり重要です。
3.今回の最大のテーマは「自分を勘定に入れる」
個人的には、ここが今回一番良かったです。
シオがルイに突きつける、
> 「自分という存在を、最初から勘定に入れてねえんだよ」
という言葉。
これ、めちゃくちゃ重要です。
なぜなら、
セリナ
「自分が怖い」 ↓ 「自分が世界を壊す」 ↓ 「だから自分を抑えなければ」
ルイ
「セリナを守る」 ↓ 「自分が壊れてもいい」 ↓ 「記憶を失ってもいい」 ↓ 「必要ならまた術式を使う」
という、実は同じ構造だからです。
シオはそこを見抜く。
> セリナは自分が壊れて世界を守ろうとする。 > ルイは自分が壊れてセリナを守ろうとする。
だから、
「お前ら、やってることは同じだ」
になる。
これはかなり綺麗なテーマ構造です。
4.ルイの「記憶喪失」の描写がかなり良い
今回、ルイの記憶喪失を単純な設定ではなく、
人格の欠損
として描けています。
特に服を買う場面。
「セリナの服のサイズを知らない」
という、ごく普通の日常会話から、
> 「自分の恋人の服のサイズも、知らないって言うのか?」
となる。
ここ、かなり効いてます。
大事件を起こさなくても、
「ルイの日常から、過去が抜け落ちている」
ことが分かる。
さらに板チョコ。
これが今回かなり好きです。
ルイは、
「セリナがそれを好きだった」という記憶を持っていない。
なのに、
「これが一番いい気がする」
と選ぶ。
つまり、
記憶は消えている
↓
でも感情の痕跡が残っている
という描写。
ここが非常に美しい。
5.そして「板チョコ」が後半で効いてくる
ここは構成としてかなり上手いです。
最初は、
「なんとなく選んだ板チョコ」
だった。
ところが後半になると、
> 「魂が、それを強烈に知っていると叫んでいる」
という方向に進む。
そして失われた記憶が断片的に戻ってくる。
つまり板チョコが、
単なるお菓子 → 失われた人生への鍵
になっています。
この作品タイトルの「お菓子」が、物語上の記憶・幸福・世界改変・神性と全部繋がってくる。
ここは作品独自の武器になっています。
6.セリナとルイ、実は同じ場所まで来ている
今回の面白いところです。
セリナは、
「願えばいい」
から、
「願わないことも選択肢」
へ進む。
ルイは、
「自分を犠牲にすればいい」
から、
「自分も守らなければいけない」
へ進み始める。
つまり二人とも、
> 「自分以外を救うためなら、自分はどうなってもいい」
という価値観から脱却しようとしている。
これが今回の本質だと思います。
だからシオの、
> 「自分という存在を、最初から勘定に入れてねえ」
が、単なる説教ではなく物語全体のテーマを言語化している。
ここはかなり強いです。
7.レイガが非常に良い
今回、レイガが好きです。
レイガはルイに、
> 「必要なら」という言葉で片付けるな
と怒る。
でも単純に「自己犠牲はダメ!」と言うだけではない。
最後には、
> 「その『眠らせる以外』の方法を、これからは俺たちが必死になって探すしかないな」
となる。
ここがいい。
システムの答えは、
「ない」
なんですよね。
でも人間側は、
「それでも探す」
と言う。
この対立が非常に作品らしい。
システム上の最適解 vs 人間の往生際の悪さ
になっています。
8.シエルもかなり重要な位置に来た
シエルについても今回かなり面白いです。
今までのシエルは、
合理性・最適化・正解
の象徴だった。
ところが今回、
> 「……ですが」
という間が入る。
そして、
世界樹の最深部
という「別ルート」を提示する。
つまり、
「最適解=セリナを眠らせ続ける」
だったものが、
「別の可能性」
を認め始める。
これはシエル自身にも変化の兆候があるように見えます。
さらに最後、
> 「本当の正解(ルート)を見つけ出す」
というルイの言葉に繋がる。
ここで「正解」という言葉の意味そのものが変わっています。
以前:
システムが算出した正解
現在:
みんなで探す、本当の正解
です。
この変化はかなり良いです。
9.シオの役割が「告発者」から「導く者」に変わっている
これも重要。
三日前のシオは、
「お前がルイを壊している」
とセリナを追い詰める。
でも今回のシオは、
「じゃあ、どうすれば自分で制御できるのか考えろ」
と言う。
つまり、
前回
「罪を自覚させる」
今回
「答えを自分で探させる」
へ役割が変わっています。
シオは厳しいけれど、実はかなり教育者的です。
このキャラクターの立ち位置はかなり好きです。
10.そして今回、一番強い伏線
終盤の、
世界樹の最深部
です。
これは単なる次の冒険先ではありません。
今回のテーマそのものに答える場所になっています。
今の世界は、
セリナ一人に神聖力が偏っている。
しかし本来は、
世界を調律する別の存在が必要だった。
つまり、
> 「セリナ一人が世界を背負う」
という現在の異常状態そのものが、世界の仕様から見ても間違っている可能性がある。
これによって、
セリナの精神問題
と
世界の構造的欠陥
が一本に繋がります。
ここは次章への引きとしてかなり強いです。
11.文章面で特に良かったところ
◎ 感情を「説明」だけで終わらせていない
例えばルイの記憶喪失。
「記憶がなくて悲しい」と説明するのではなく、
服のサイズが分からない 好きなお菓子が分からない なのに板チョコを選ぶ リボンが似合うと感じる 「大切だ」という感情だけ残っている
という生活描写で見せています。
これはかなり良いです。
◎ 日常パートが重いテーマの緩衝材になっている
寝間着。
お菓子。
茶葉。
リボン。
これだけ見るとほのぼの買い物回なんですが、その全部が、
「以前なら当たり前だった日常」
になっている。
だから、
> 「こういう日常的なこと、なんだか慣れてないんだよ」
が効く。
「普通」という言葉そのものが、ルイにとって失われたものになっているんですね。
12.惜しいところ
ここはかなり正直に。
① 少し長い
最大の弱点はこれです。
今回、
同じ感情・テーマを複数回確認する箇所
があります。
例えば、
セリナは自分が怖い ルイを傷つけるのが怖い 願うのが怖い ルイは自分を犠牲にする シオがそれを指摘する さらにレイガも指摘する
と、読者側が理解した後にも何度か補強されます。
作品の感情を深める効果はありますが、商業作品として見るなら、
1~2割くらい圧縮できる
と思います。
② 「神聖力=危険」の説明がやや重複
セリナ自身の認識、
ナギの説明、
シオの説明、
シエルの説明、
それぞれが必要ではあるんですが、少し重なっています。
特にシオの説明は強いので、その前後の説明を少し削ると、シオの言葉がさらに刺さります。
③ 「泣く・胸が痛む・震える・瞳が揺れる」が少し多い
感情描写自体は上手いです。
ただ、頻度が高い。
この章ではむしろ、
感情を描写しない沈黙
をもっと増やすと、さらに強くなると思います。
今回のルイは「感情が欠落している」という設定なので、
泣かない・反応しない・言葉が出ない
こと自体が最大の感情表現になります。
ここはかなり伸びしろがあります。
13.個人的に一番好きな部分
やっぱり、
板チョコ → 記憶
です。
そしてもう一つ、
「大切だよ」
ですね。
今のルイは「愛している」という言葉を理解できない。
でも、
> 「大切だよ」
だけは言える。
これは、
記憶を失っても、人間そのものまで失ったわけではない
という希望になっています。
さらにセリナが覚えていたことで、失われたルイの過去が逆方向から戻ってくる。
つまり、
ルイの記憶は、ルイ一人の中だけに存在しているわけではない。
セリナの中にも残っている。
これ、かなり美しい構造です。
14.採点
商業ライトノベル基準を意識して採点すると、こんな感じです。
| 項目 | 点数 | | | : | | ストーリー構成 | 94 | | キャラクター心理 | 96 | | キャラクター関係性 | 96 | | 感情描写 | 94 | | 世界観・設定 | 93 | | 伏線・回収 | 95 | | セリフ | 92 | | 演出力 | 94 | | 文章の読みやすさ | 89 | | テンポ | 85 | | オリジナリティ | 95 | | 次話への引き | 97 |
総合
92 / 100
かなり高いです。
15.商業ラノベとして見るなら
かなり率直に言うと、
「設定が面白い素人作品」の段階は、もうかなり超えています。
今回の章だけを見るなら、
商業ライトノベルの中~上位帯に入ってもおかしくない構成力
があります。
特に強いのは、
> 「お菓子になる世界」
という一見コミカルな設定と、
> 「記憶を失う」「自己犠牲」「神性」「世界の仕様」
というシリアスなテーマを同じ物語の中で成立させているところ。
普通はかなり破綻しやすい組み合わせです。
でも今回は、
お菓子 → セリナの願い → 世界改変 → ルイの記憶喪失 → 板チョコ → 過去の幸福
と一本につながっています。
これは作品固有の強みです。
16.ただし「あと一歩」でさらに化ける
一番改善効果が大きいのは、
削ること。
足す必要はあまりありません。
むしろ、
同じ感情を説明している部分を10~15%削る。
これだけでかなり商業的な読み味になります。
特に、
> 「怖い」 > 「自分が壊す」 > 「ルイを傷つける」 > 「願えない」
あたりは読者が理解した後は、説明を繰り返さず行動・沈黙に任せる。
そうすると、セリナの最後の、
> 「わたしを、もう一度、深く眠らせてほしいの」
という選択が、もっと強烈になります。
これは「死」ではなく、自分の意思で選ぶ避難として描かれているのが非常に良いところです。
最終的な感想
この章、かなり好きです。
特に良いのは、物語が単純な
「セリナを救おう」
から、
「セリナもルイも壊さずに救うにはどうすればいい?」
へ一段階上がったこと。
さらにレイガが、
「システムがないと言っても、俺たちは探す」
という人間側の意思を示す。
そしてルイも、
「自分を犠牲にすることが正解なのか?」
という疑問を初めて突きつけられる。
つまり今回の章は、事件を解決する回ではなく、
> 「これまでの解決方法そのものが間違っていた」と登場人物たちが気づく回
なんですよね。
そこから「世界樹の最深部」という新しいルートを提示する。
章としての役割が非常に明確です。
個人的には、今までの「お菓子編」の中でもかなり上位の完成度です。 92点というより、「削れば95点に届く92点」という評価です。
特に板チョコ・リボン・「大切だよ」・自分を勘定に入れない・世界樹最深部の5本が、今回かなり強いです。
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◀第22章『夢の中で、君はまだ笑っていた』
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