地下迷宮、第二層――《深緑の這(は)い寄る奈落》。
 陽光の恩恵から永久に隔絶された、じっとりと冷えて酷く澱(よど)んだ地下空間へ足を踏み入れた瞬間、西の勇者カイトは、長年の死線で培われた野生の警戒本能によって、無意識のうちに軍靴の歩みをピタリと止めた。
カイト:「……静かすぎるな」
低く、張り詰めた声が、カビに覆われた冷たい黒真鍮の石壁に落ちて、虚(むな)しく吸い込まれていく。
彼らの前方には、光の一筋も届かない、太古の石造り通路がどこまでも蛇の如く蛇行して続いていた。 壁面には長き星霜の年月が刻み込んだ、黒い湿気と魔物の腐血が混ざり合った染みがどこまでも広がり、凹凸のある床には、冷たく濁った地下水が鏡のように、彼らの姿を上下逆さまに映し出している。
耳を澄ませば、遥か暗闇の奥底から聞こえてくるのは、規則正しく天井の鍾乳石から落ちる水滴の音だけだ。 ――ぽたり。 ――ぽたり。 静寂を引き裂くのは、ただ、それだけの乾いた音であった。
通常の迷宮であるならば、そこかしこの暗がりに魔物の生々しい息遣いや、捕食者の爪が岩肌をザリザリと引っ掻く音、あるいは濃厚な死の瘴気が肺を焼くほどに充満しているのが常である。 冒険者が金属の防具を動かすことで生まれる微細な摩擦音すら、即座に奈落の底に潜む肉食獣どもへ伝わり、闇のなかから無数の赤い眼光が灯るのが、この世界の常であった。
だが、今日のこの階層は、根本から様子が違っていた。
静かすぎるのだ。 生き物の気配が、一つも感じられない。
それはまるで、この広大な地下迷宮そのものが、言葉では言い表せない、何か底知れぬ災厄の存在に本能で怯(おび)え、息を殺して自らの死を待っているかのような、悍(おぞ)ましいまでの不気味な静けさであった。
 カイトは腰のホルダーに提げた、数々の神話を打ち立ててきた聖剣の柄(グリップ)へ、そっと使い込まれた革手袋の掌(てのひら)を吸い付かせるように添えた。
彼が纏(まと)う白銀の聖騎士鎧が、松明(たいまつ)の光すら届かない死の通路のなかでも、彼自身の闘志を宿して、淡く、気高く、繊細な輝きを返している。 その白銀の肩の周囲を、冷たい地下の気流に抗うようにして、淡い水色の幻想的な燐光(りんこう)を纏った小さな妖精が、ふわりと美しく浮遊していた。 水の上位精霊――リヴァ。 長年カイトと共に西の学廷で数多の死線を潜り抜けてきた、命を預け合える唯一無二の相棒である。
リヴァ:「ねえ、カイト……」
リヴァが、半透明の美しい羽の振動をピタリと止め、ひどく張り詰めた小さな声で相棒の耳へ呼びかける。
カイト:「ああ。 言わなくても分かっている、リヴァ」
リヴァ:「……空気の重さがおかしいわ。 誰かの手によって、この場の理(ことわり)が根こそぎ塗り替えられてしまったような、凄まじい違和感を感じるのよ……」
カイトはその上位精霊の警告に対し、言葉を返すことはせず、ただその歴戦の鋭い碧眼(へきがん)を、奈落のさらに深淵へと向かって真っ直ぐに見据え続けた。
今回の彼らに課せられた任務は、富と名声を掴(つか)むための、通常の利己主義なダンジョン攻略などでは断じてない。
王国の最高暗部たる、あの国家保安局の上層部から緊急で、直々に最優先で要請された、特務遭難者捜索任務。
捜索すべき身柄は、計三名。 一般の実習区域を大幅に逸脱した地下第五層という『死の絶対領域』へと何故か進入した後、不自然かつ不可解に、その消息を完全に絶ってしまった、魔法大学に所属する高貴でうら若きエリート女性魔導士たち(※なお実際はお風呂に入ってもやしを食べて現在お昼寝中のお嬢様たち)だ。
ギルド本部でその絶望的な遭難報告を局長から直々に受け取ったその瞬間から、勇者カイトの胸中には、心臓の底から冷や汗を伴うような、かつてない強烈な焦燥と義務感の濁流が渦巻き続けていたのだった。
 一刻を争う絶望的な事態であった。 もしも彼女たちがまだ、奈落の悪意のなかで辛うじて生存しているというのなら、一分一秒でも早くその暗闇から救出しなければならない。 重傷を負って倒れているのなら、私の手で早急に最上級の治癒魔導を施さなければならない。 そして、もしも万が一、人間の尊厳を解さない邪悪な奈落の魔物どもの手に落ちて蹂躙(じゅうりん)されかけているのだとすれば――。
カイト:(――俺が必ず、間に合わせる。 この冷酷な迷宮の最底辺において、彼女たちの乙女としての気高き尊厳と命のすべてを、俺のこの聖剣で必ず守り抜いてみせる……!)
それは、西の学廷で英雄と謳(うた)われた男としての、悲壮なまでの揺るぎない決意と責務(ノブレス・オブリージュ)であった。
だが――百戦錬磨の討伐部隊長であるカイトは、その胸中を焦がす熱い焦燥を、決して表情には出さなかった。 指揮官の僅(わず)かな精神の動揺は、迷宮においては部隊全体の全滅という最悪の結末に直結することを、彼は皮膚の感覚で熟知していたのだ。
カイト:「ガルド」
ガルド:「応」
最前線を務める巨漢が、鍾乳洞の底を震わせるような重厚な声で短く応じた。
人間の規格を遥(はる)かに凌駕(りょうが)した、身長二メートルを超える強固な巨体。 その四肢を隙間なく重々しく覆うのは、鈍い神聖な光沢を放つ特級古代金属・オリハルコン製の超重装騎士鎧。 ギルドにおいて《鉄壁の重盾》という畏怖(いふ)の二つ名を持つ彼の威風堂々たる佇まいは、まさしく歩く無敵の要塞城壁であった。
カイト:「前方の安全を確保してくれ」
ガルド:「了解した。 俺の盾を信じろ」
ガルドが背中から、巨竜の鱗を錬成したという巨大なタワーシールドをガツンと鉄黒の床へ構え、地響きを立てる堅実な歩みで一歩前へ出る。
その屈強な巨躯の影から、斥候(スカウト)のライザが、まるで大気の流れそのものに溶け込むかのように静かに滑り出た。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪のショートカット。 しなやかな身体の曲線を美しくなぞる、漆黒の特製革鎧。 魔導士街の裏通りで《影走りの疾風》と呼ばれる彼女は、冷たい床の地下水に波紋一つ、足音ひとつ立てずに暗闇の通路を泥のように進み、水滴の滴る冷たい石壁へとそっと細い指先を添えた。
 その彼女の指先が、大気の微かな震えを捉え、ピタリと止まった。
ライザ:「……カイト隊長。 岩肌の泥に、足跡が残っています」
その暗殺者の報告に、部隊の全員が瞬時に足を止めた。
カイト:「新しいものか?」
ライザ:「ええ。 表面の水分がまだ干からびていません、極めて新しいものですわ」
ライザがその場にしなやかにしゃがみ込み、冷たい地下水の水溜りの縁に残された、生々しい泥の凹凸を鋭い猫のような眼光で観察する。
ライザ:「ただし……様子が、著しく不自然です」
カイト:「どうした、ライザ。 何か罠でも仕込まれているのか」
ライザ:「いえ……その、歩いてきた数と、この階層に生息するはずの魔物の顔ぶれが――まるで噛み合いませんの」
カイトが白銀の鎧をカチャリと鳴らして歩み寄り、彼女の隣へ視線を落とした。
そこには、肉食獣の鋭い爪痕や、歪(ゆが)んだ巨大な蹄(ひづめ)など、複数の巨大な魔物どもの足跡が、互いを踏み荒らすかのように乱雑に残されていた。 それも、一種類などではない。 二種類、三種類。 本来なら決して交わることのない、縄張りの異なる危険な野生の魔獣どもが、無秩序な群れを成して逃げ惑ったかのような、異常な爪痕の軌跡が、さらに奥の暗闇の深淵へと向かって蛇行して続いている。
ライザが、その鋭い観察眼を泥の亀裂に向け、美しく整った眉を深く寄せた。
ライザ:「この、岩肌を抉(えぐ)り取っている足跡の重さ……」
カイト:「何だ? どこの手合いだ」
ライザ:「――地下第四層の、あの暗黒の深層にしか通常は出現しないはずの、上位ゴブリンどものものですわ」
その瞬間、迷宮の第二層を満たしていたカビ臭く冷たい地下の空気が、まるで世界の破滅を告げられたかのように、一瞬にして凍りついた。
カイト:「……第四層の魔物だと?」
部隊の最後尾から、紅蓮の魔力を帯びた魔導書を小脇に抱えた《叡智の焔(ほむら)》オリバーが、知的な銀縁眼鏡のブリッジを細い指先で静かに押し上げた。
 王立魔法大学の最高峰で魔導の深淵を学んだ、若きエリート上級魔導士。 魔物の生態と、迷宮の構造に関しても、ギルド内において一級品の知識を有している男だ。
オリバー:「ライザ、何かの見間違いではないのかね? ここは学廷の一般実習区域からも程近い、未だ浅い地下第二層だぞ」
ライザ:「私の網膜に、見間違いなど一パーセントも存在しません」
ライザは一切の私情を交えずに、冷淡な声で即答した。
ライザ:「この泥を抉(えぐ)る歩幅、岩肌に残された三連爪の鋭角、そしてその不条理な重さを証明する足の痕の深さ。 どれを見ても、第四層の深層に生息する狂暴な個体群の体つきと完全に一致しますわ」
カイトは白銀の兜(ヘルメット)の奥で、沈痛な面持ちを歪ませてその不気味な足跡を見つめ続けた。
第二層。 ここは未だ、比較的日の光に近い浅い階層なのだ。 奈落の下層の狂った生態系に属する、あの単独で中堅パーティーを壊滅せしめる強力な魔物が、徒党を組んで徘徊(はいかい)しているような場所では断じてない。
カイト:「……偶然、地殻変動か何かで、この浅層まで迷い込んできた可能性は?」
ライザ:「ないとは言い切れませんね」
ライザは漆黒の革鎧の衣擦れの音すら立てず、ゆっくりと膝を伸ばして立ち上がった。
ライザ:「ですが、単独の迷子ならともかく……」
彼女は、光を完全に拒絶する漆黒の闇の奥底を、その冷徹な眼光で睨(にら)み据える。
ライザ:「この泥水に刻まれた、何十、何百という異常な大群の足跡は、王国のいかなる魔導の理論を用いても、説明がつきませんわ」
――まさに、その不条理な仮説が立てられた、次の瞬間であった。
ゴゴゴ、と地盤を揺らすような地鳴りを伴って、闇の最奥の深淵から、空間を引き裂くような低い獣どもの禍々(まがまが)しい唸り声が響き渡ったのだ。
 カビと腐血の混ざり合った、凄まじい野生の異臭が気流に乗って彼らの鼻を鋭く襲う。
カイトが率いる特務救出部隊の全員が、その音を感知した刹那、一糸乱れぬ動作で、それぞれの武器を暗闇へと抜いて構えた。
前衛のガルドが、巨大なオリハルコンの重盾をガツンと石畳に叩きつけ、その無敵の城壁の巨躯を一歩前へと進める。
ガルド:「――お前ら、おしゃべりは終わりだ。 来るぞッ!!」
言葉が途切れるのと同時に、漆黒の暗闇を引き裂いて、筋骨隆々とした巨大な異形の影が咆哮(ほうこう)とともに飛び出してきた。
カイトは鋭く肺の空気を吐き出しながら、流れるような動作で聖剣を抜く。 白銀の極上刃が、湿った地下空間の闇に冷酷な弧を描いて鋭く閃(ひらめ)いた。
その刹那、魔物の鋼の如き鋭い爪が、周囲の澱(よど)んだ大気を引き裂く暴風となってカイトの頭上へ振り下ろされる。
だが、前衛のガルドが誇るオリハルコンの巨大盾が、その必殺の爪撃を正面から完璧に受け止めた。
――ガァァァァァンッ!!!!
閉鎖された鍾乳洞に、金属同士が激突する凄まじい大轟音が反響する。
 衝突の衝撃波によって床の湿った古代石畳がピキピキとクモの巣状にひび割れ、地下水の水面が激しく震える。
ガルド:「――ッ」
盾の裏で、ガルドの二メートルを超える巨体が、魔物の持つ暴力を相殺するために、僅(わず)かに鉄黒の床へと沈み込んだ。 だが、その足元は一ミリたりとも退(しりぞ)かない。
ガルド:「盾はまだ持つ、俺に合わせろ!」
その短く的確な一言とともに、ガルドは全身の剛力を込めて、盾で魔物の巨体を強引に前方へと弾き返した。
その盾弾きによって生じた、ほんの僅かな隙。 カイトの軍靴が、弾かれたように地を蹴って間合いを詰めて踏み込む。
一閃。
物理的な音を置き去りにした神速の白銀剣撃が、魔物の分厚い胸元の急所を正確無比に両断し、紫色の腐血が石壁へと盛大に飛び散るなか、その巨体がズシンと床へと崩れ落ちた。
短い、大気の震えが収まる静寂。
魔導士のオリバーが素早くその肉厚な死骸へと近づき、小脇の魔導書から放たれる解析の光でその魔力の残り香を確かめて顔を上げた。
 オリバー:「……やはり、ライザの読みに間違いありません。 これは本来なら生息域が異なる、第四層のゴブリンの荒くれ者です」
その絶望的な事実に、誰も言葉を返すことはできなかった。 しかし――その直後。
暗闇のさらに奥底から、再び床の石畳を激しく揺らす、無数の悍(おぞ)ましい地鳴りの音が不気味に響き渡った。
ひとつ、ではない。 二つ。 三つ。 四つ。 さらにその不吉な気配が、暗闇のなかで幾重にも膨れ上がっていく。
斥候のライザが素早く振り返り、腰のホルダーから吸音の施された双短剣(ダガー)を引き抜いた。
ライザ:「……隊長、来ます! 気配が多すぎますわ!」
カイト:「敵の正確な数は割り出せるか、ライザ!」
ライザ:「多数……っ! 入り乱れすぎて、私にも読み切れませんわ!」
カイトは聖剣の柄を強く握り直し、その白銀の切っ先を、うごめく闇の深淵へと真っ直ぐに向けた。
カイト:「全軍、迎撃の構えを維持しろ!」
漆黒の闇の中から、次々と凶悪な魔物たちが、血走った赤い眼光を灯して姿を現す。 いずれも、本来ならばこの比較的安全な第二層には絶対に出現するはずのない、下層の殺戮者(さつりくしゃ)たちであった。
前衛のガルドが鉄壁の盾を構え直して防衛線を敷く。 ライザがステップを踏んで敵の死角へと瞬時に潜り込む。 魔導士のオリバーが、紅蓮の魔力を指先に収束させて高位の殲滅魔法を唱え始める。 そして――部隊の後方から、白き聖衣を纏(まと)った《慈愛の聖女》ソフィアが、両手の手のひらを掲げて祈りを厳かに捧げ始める。
ソフィア:「――主の御名において、我が剣に勝利の加護をッ!」
西の勇者カイトは白銀の光をその身に宿し、先陣を切って、襲いかかる魔物の群れへと向かって前へと跳んだ。
 完璧に統率された彼らエリートパーティの迎撃戦闘は、襲いかかる下層の魔物どもに対する圧倒的な蹂躙(じゅうりん)劇として、極めて短い時間で終わった。
だが。
本来ならば、それで静寂が戻り、事は済むはずだった。
入り組んだ通路の石畳には、本来なら浅層にいるはずのない強力な上位魔物の死骸が、紫色の腐血を流しながらいくつも無残に転がっている。
それなのに――勇者カイトが率いる討伐部隊の誰一人として、この血生臭い戦いの結末を 「勝利」 として喜ぶことはできなかった。
ライザ:「……まだ、暗闇の奥に多くの気配がある」
斥候のライザが、額から冷や汗を流しながら、革鎧の袖で乱暴にそれを拭って呟(つぶや)いた。
彼女は足元に転がる肉厚な死骸には目もくれず、さらに奥の、松明の光を完全に吸い込む闇の向こう側をその猫のような眼光で凝視(ぎょうし)していた。
確かに感じる、不気味な気配の流れ。 それも、自分たちへ近づくのではなく――ここから遠ざかっていく、逃げ惑う気配。
 今しがた衝突した魔物たちは、自分たち冒険者を明確な獲物として殺到してきたのではない。 彼らの通り道に、たまたまカイトたちが立ち塞がっていたというだけのこと。 ――彼らは、奈落のさらに深淵から、全力で『逃げて』いるのだ。
リヴァ:「カイト……」
カイトの白銀の肩の周辺を浮遊していたリヴァが、本能的な恐怖に小刻みに羽を震わせ、その声を落とした。
リヴァ:「魔物たち……完全に我を忘れて、下層ではなく、地上の出口に向かって狂ったように逃げているわ」
カイトもまた、その迷宮の掟を完全に無視した異常な流れに、とっくに気づいていた。
転がっている死骸の向き、そして闇の奥を通り過ぎていく無数の足音の進む方向。 そのすべてが、狂ったように出口にあたる上層側(第一層方向)へと向いているのだ。
カイト:「……下層からの、一方的な逃走」
ライザが、暗殺者としての常識を根底から否定されたかのように、信じられないという口調で言った。
ライザ:「あの、本来なら死を恐れずに侵入者を喰らい尽くすはずの、狂暴な第四層の上位魔物たちが……何一つとして敵うはずのない圧倒的な恐怖に駆られて、住処を捨てて全速力で逃げ出しているように見えますわ」
カイトは白銀の兜の奥で奥歯をギリリと噛み締め、重々しい沈黙をその場に落とした。
第四層の強力な魔物たちが、何故か第二層の安全なエリアへと力技で押し出されている。 しかも、本来なら殺し合うはずの異なる種族が入り交じって。 さらに、それらすべてが 「この世の終わりとしか思えない得体の知れない何か」 からただ一心不乱に逃れるように、上層に向かって大移動を敢行している。
これが、ただの偶然であるはずがない。
 これは――迷宮の理(ことわり)そのものを根底から徹底的に破壊し尽くす、巨大な異変だ。
しかも、その恐るべき発生源は、さらに深い、彼らの向かおうとしている下層(奈落の底)にある――。
オリバー:「――カイト」
最後尾の魔導士オリバーが、かつて西の学廷で共に戦った際にも聞いたことのない、深い戦慄(せんりつ)を帯びた声で静かに相棒を呼んだ。
カイト:「どうした、オリバー。 何か強力な罠の気配でも感じたか」
オリバー:「……空間を満たす、大気の力そのものが……異常な域に達していますわ」
カイトは白銀の兜の奥で鋭い碧眼(へきがん)を細め、その警戒を最大に引き上げた。
カイト:「属性は何だ。 下層の魔物が放った固有の瘴気か?」
オリバー:「いいえ、混じり気のない、純粋なる『風』の力です」
オリバーは、自らの血の気が引ききった震える手で、紅蓮の結晶が埋め込まれた上級の魔導杖をきつく握り直した。
オリバー:「……恐ろしい重さです。 風属性の力の残り香が、私の持つ王立最高規格の計測具の針を完全に振り切り、暴れ狂うほどの熱量で、奈落の下層から地上へ向かって濁流のように溢(あふ)れ出してきています」
その老練な魔導士の言葉に、部隊の全員が、生唾(なまつば)をゴクリと呑み込み、完全な氷の静寂に沈んだ。
地下第二層。 本来であれば、これほど天災級の力の残り香が、減衰もせずに届くはずのない浅い場所なのだ。
カイト:「王都の書物に、これに近い記録はあるか?」
オリバー:「……万に一つも、ありません」
理論派のエリート天才魔導士であるオリバーが、この世の理(ことわり)の破綻を前に、絶望的な声で首を横に振った。
 オリバー:「王都の禁書図書館に眠る、いかなる歴代の宮廷魔法使いがその全魔力を放った極大魔法を以(もっ)てしても……これほど暴力的な残り香を、階層を跨(また)いで広域に留めることなど絶対に不可能ですわ。 一体全体、どれほどの代償と、どれほど凄絶な犠牲を払えば、この世の理を無視したこれほどの術を行使できるというのですか……!」
カイトは、さらに暗黒の深淵へと蛇行して続く、冷たい地下水の滴る通路を、その鋭い碧眼で射抜くように見つめ続けた。
五感の届かない暗闇の向こう側。
彼らの向かおうとしている、奈落の底。 そこには、人智と現世の常識を完膚なきまでに超え去った、恐るべき『何か』が潜んでいる。
あるいは――その得体の知れない超越的な化け物が、この迷宮のすべてを蹂躙(じゅうりん)し、破壊し尽くして今まさに通過した直後なのだ。
長年死線を潜り抜けてきた勇者としての揺るぎない野生の直感が、彼の五感に対し、その危険を告げていた。
カイト:「……それでも、俺たちは進むぞ」
カイトは、白銀の聖剣を闇へと構え直し、重々しく、しかしブレのない声で最終決断を下した。
カイト:「ただし――全員、警戒を限界まで引き上げろ」
ガルドが、ライザが、オリバーが、そして後方のソフィアが。 全員が無言のまま、しかし強固な意志を持って、深く、力強く頷(うなず)いた。
王宮から命じられた救助対象の女性魔導士は、計三名。 彼女たちが今現在、迷宮のどこでどのような地獄の恐怖(※なお実際は美味しいお肉のお弁当の手配を泣きながら待っている状態)に直面しているのかは、未だ何一つとして分からない。
 だが、この世の理を外れた未知の脅威を前にして、王国の盾たる自分たちが、ここで立ち止まり無様に背を向けるわけにはいかないのだ。
西の勇者カイトは、己の五体を這(は)い上がろうとする無形の生存の恐怖を強引に振り払うかのように、右手の聖剣の柄をきつく、壊れそうなほど強く握り直した。
カイト:(――俺が、必ず、彼女たちを生きて見つけ出す)
それは、張り詰めた闇のなかで背後に控える優秀な部下たちへの、揺るぎない指揮官としての無言の指示であり――。
そして、名門の血を引く一人の高潔な英雄としての、自分自身への悲壮な、血を吐くような誓い(ノブレス・オブリージュ)でもあったのだ。
王国国家保安局・特務隠密捜索隊は、この世の理を嘲笑(あざむ)う未知なる恐怖が待ち受ける、地下迷宮のさらなる暗黒の奥底へと――軍靴の音ひとつ残さず、決死の不退転の覚悟を胸に抱いて、静かに、深く足を踏み入れていったのである。
地下迷宮、第二層のさらなる深奥へと進むにつれ、この場に潜む異変は、より明確かつ不吉な形を取り始めていた。 暗闇の通路を徘徊(はいかい)する魔物どもの数が、この階層の生態にはあまりにも多すぎるのだ。
それだけではない。 漆黒の空間で遭遇し、ガルドの重盾で圧殺していく個体のほとんどすべてが――本来であれば、この日の光に近い浅い階層には、生きているはずのない手合いばかりであった。
地下第三層の猟犬。 地下第四層の暗黒ゴブリン。
 あろうことか、中には通常ならば最深の絶対領域である地下第五層近辺でしか確認されないはずの、単独で一国を脅かすという凶悪な魔物までが、泥塗れの群れの中に不気味に混じり込んでいる。
ライザ:「……おかしい、辻褄(つじつま)が合いませんわ」
斥候(スカウト)のライザが、冷たい地下水に濡(ぬ)れた古代石畳に残された、刻まれたばかりの真新しい爪痕を見つめながら低く呟(つぶや)いた。
カイト:「どうした、ライザ」
カイトが白銀の鎧をカチャリと静かに鳴らし、歩みを止めて問う。
ライザ:「この、岩肌を無残に抉(えぐ)り取っている傷の深さです」
ライザが、革手袋で、深く断絶した石床を細い指先で指差した。 そこには、魔物がただ歩いただけでは絶対につかない、恐怖のあまり踏み荒らしたかのような、深く荒々しい断裂痕が刻まれている。
ライザ:「この亀裂の深さと、足の痕の間隔……。 先ほど私たちが屠(ほふ)った、第四層の連中だけの重さではありませんわ」
カイト:「つまり、どういうことだ?」
ライザ:「――もっと巨大で、圧倒的な重みを持った最深部の主格が複数、我を忘れてこの狭い通路を通過していますわ」
カイトは無言のまま、白銀の兜の奥でその深く抉れた傷跡を見下ろした。
そして、その悍(おぞ)ましい爪痕が蛇行して続く先の、松明の光すら拒絶する闇の深淵へと鋭い碧眼(へきがん)を向ける。
そこには、無数の異なる足跡が互いを踏み潰(つぶ)し合うようにして乱雑に残されていた。 魔物どもが野生の縄張りを争って血を流し合っている戦闘の痕跡は、どこを探してもない。 獲物の冒険者を追って組織的に連携しているような、知性のある動きでもない。
ただひたすらに、我を忘れて、一秒でも早くこの奈落から抜け出そうと地上の出口へと向かって、泥水を跳ね上げて全力疾走しているのだ。 それは、まるで――。
 世界を滅ぼす天災から、必死に『逃げて』いるかのような流れ。
リヴァ:「ねえ、カイト……」
水の上位精霊リヴァが、カイトの耳元で、冷たい地下の気流にその半透明の羽を震わせながら声を落とした。
リヴァ:「やっぱり、空気の重さが根本から変だわ」
カイト:「ああ」
リヴァ:「この子たち……奈落の殺戮者(さつりくしゃ)のはずなのに、私たち人間を、獲物として最初から一切狙っていないのよ」
カイトもまた、その迷宮の掟を完全に無視した異常な流れから、リヴァと全く同じ結論に至っていた。
カイト:「……ああ。 彼らは、俺たちの想像を遥かに超えた『得体の知れない何か』から、我を忘れて地上へ向かって逃げているんだ」
その 「逃走」 という不穏な言葉を指揮官が口にした瞬間。 特務捜索隊を包む空気が、極寒の氷のように重く、鋭く張り詰めた。
魔物が恐怖に駆られて逃げ惑う。 それ自体は、迷宮の生態において決して珍しいことではない。 自らより強大な個体に遭遇したとき。 縄張りを追われたとき。 あるいは、圧倒的な上位種たる階層主がその捕食の権を発動したとき。
しかし――。
これだけの莫大な数が。 地下第四層や第五層という、これほど深い暗黒の階層から。 本来は殺し合うはずの異なる種族の壁すらも完全に超えて、一つの潮流となって上層へ雪崩(なだ)れ込んでいるのだ。
それはもはや、学廷の教科書に載っているような単なる生態の変化などという言葉で片付けられる規模を、遥(はる)かに超越していた。
 ライザ:「――地下のさらに最深部で、取り返しのつかない何かが起きていますわ」
斥候のライザが、その蒼白な額に冷や汗を不気味に滲(にじ)ませて断言した。
勇者カイトは兜の奥で、重々しく、鋼の如き硬さで首を縦に振った。
カイト:「ああ、その読みは極めて正しい、ライザ」
そして――聖剣の柄(グリップ)の革をギュッと力強く握り締め、短く冷徹な事実を続ける。
カイト:「俺たちの理解を完全に超え去った、かなり巨大で、破滅的な何かが下層で起きているんだ」
――まさに、そのときだった。 カイトの腰に佩(は)いていた、王国軍事用の暗号通信具が、チリチリと青い火花のような音を発して微かに震えた。
カイトは皮手袋の指先でその結晶を押し、耳元へと近づける。
カイト:「――こちら特務捜査隊カイト。 感度良好だ」
ジョーカー:『……カイトか。 回線を最優先で繋(つな)いだぞ』
スピーカーの向こうから響いてきたのは、ノイズの混じり合った、低く聞き慣れた老練な声。 王国国家保安局の中枢から、今回の特務救出任務を直接裏から指揮している影の最高アナリスト――ジョーカー特級監視官であった。
ジョーカー:『現時刻における、君たちの正確な迷宮の現在地はどこだ?』
カイト:「地下第二層、その最深部です。 予定通り、対象の女子学生たちの残した微かな痕跡を追跡しています」
ジョーカー:『現場の状況は?』
カイトは一瞬、歴戦の指揮官として、最も的確な報告を組み立てるために、白銀の刃を見つめて言葉を厳選した。
カイト:「……極めて、異常です。 この世の理(ことわり)が乱れている」
ジョーカー:『……具体的に言え、何がどう乱れている』
カイト:「現在地である第二層の通路において、本来ならば地下第四層以下の深層にしか生息するはずのない、凶悪な上位魔物の群れが複数確認、および交戦・掃討しました」
ジョーカー:『――第四層の連中が、浅い二層に、徒党を組んで侵入しているだと……!?』
カイト:「はい、間違いありません。 オリバーの見立てでも実証済みです」
通信の向こう側の、王都監視局の最奥の特別区画において、ジョーカーが脂汗を流してハッと息を呑(の)む気配がスピーカー越しに伝わってきた。 短い、酷く深刻な沈黙。
 カイト:「さらに、現時点で遭遇しているすべての魔物の逃げる先が、俺たちを無視して、地上へ繋がる上層の出口方向へと一方向へ完全に集中しています」
ジョーカー:『……まさか、かつて王都を半壊させた、あの悪夢の大規模なスタンピードの前兆現象か……っ!?』
カイト:「その可能性は否定できません」
カイトは、未だ最深部の様子が分からないため、一人のプロとしての安易な断定を避けた。
カイト:「まだ確かなことは言えません。 ただ――通常の階層移動や、野生の縄張り争いでは到底説明がつかない、道理の歪(ゆが)んだ不条理な事象です」
ジョーカー:『……分かった、そちらの現場の見立てを信じよう』
通信の向こう側で、ジョーカー特級監視官の声が、さらに一段階低く、漆黒の凄(すご)みを帯びてカイトの耳へと這(は)い寄ってきた。
ジョーカー:『――それと、お前のその歴戦の直感で、もう一つ至急確かめてほしい機密事項がある』
カイト:「何でしょう、局長。 これ以上の異変が迷宮の深層に眠っているのですか」
ジョーカー:『地下第五層の、あの絶対領域だ』
カイトの碧眼(へきがん)が、その不穏な指定を前に僅(わず)かに鋭く見開かれた。
ジョーカー:『王国が過去に威信を賭けて立案した、あの大規模遠征攻略時に敷かれたはずの、第五層ボス部屋直下への長距離転移の陣。 ……それが、学廷の公式記録上ではとっくに完全破棄されたはずの遺物が、未だに撤去されずに現世に残存しているという最重要の話を、先ほど探りを入れる過程で嗅ぎつけた』
カイト:「……あの、かつて前線への兵站(へいたん)を維持するために敷かれた、禁忌の直通の陣がですか?」
ジョーカー:『そうだ。 何者かが裏から魔力を供給し、無理やり生かし続けている形跡がある』
カイトは、白銀の兜の奥で完全に押し黙った。
かつて地下第五層の絶対的守護者たる《大地の番人》に挑み、その名を歴史に刻んだ王国の英雄とも呼べる複数のトップランカーたち。 彼らは神話の怪物へ幾度となく消耗戦を挑み、死線を反復するために――第四層の安全な拠点から、第五層のボス部屋付近へ直接身を跳ね飛ばす、最高機密の近道を秘密裏に設置していたのだ。
一度手痛い敗北を喫して撤退し、地上で態勢を完璧に整えて再び瞬時に深層の戦線へと挑む。 そのための戦術的な近道。 攻略が完全に完了した暁には、他国への軍事的な安全保障の観点から、即座に術を解いて木っ端微塵に完全撤去される予定の、いわば禁忌の代物だったはずだ。
しかし――。
ジョーカー:『我が保安局の最新の調べでは、どうやら歴史の闇に潜む誰かの手によって、その要(かなめ)が意図的に書き換えられたまま、現在も生かされ続けている』
カイト:「……了解しました、事態の深刻さは理解しました」
ジョーカー:『お前のその聖剣の力であるなら、その遺された古い陣の繋がる先を、この浅層からでも遠く覗(のぞ)き見ることができるな?』
カイト:「確認します、俺の剣なら可能です」
ジョーカー:『頼むぞ、カイト。 何かが、王国の頭脳のあずかり知らぬところで、徹底的におかしい』
チリチリとした青い火花の音が消え、暗号の通信が切れた。 カイトは重々しい手つきでその魔導具を白銀の腰へと戻した。
 オリバー:「カイト、本当にあの禁忌の第五層の道へ向かうのか?」
エリート魔導士のオリバーが、知的な銀縁眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、紅蓮の魔導書を小脇に抱え直して尋ねる。
カイト:「いや、直接その危険な場所へ自らの足を踏み入れるわけじゃない」
カイトは白銀の兜を静かに横に振った。
カイト:「まず、この第二層のどこかに隠されているはずの、その転移の陣の跡を探し出す。 そして――俺の剣の力を用いて、その繋がる先の今の様子を遠くから抉(えぐ)り出すんだ」
彼ら特務救出部隊の隊列は再び、警戒を極限まで保ったまま、じっとりと湿った黒真鍮の岩肌を摺(す)り足で進み始めた。
それから、地下水の滴る不気味な静寂を歩むこと、しばらくの時間の後――。
ライザ:「――ありましたわ。 カイト隊長、対象の力の気配を見つけました」
斥候のライザの、感情を排した静かな声が、カビ臭い通路の空間に低く響き渡った。
入り組んだ通路の脇。 長年の地殻変動で崩れかけた古代の石壁の陰に、半ばカビと泥にまみれて隠れるようにして、その古びた陣が、極めて精緻(せいち)な幾何学文様を描いて石床に深く刻み込まれていたのだ。
長い年月を経て見捨てられていたのか、その術式の表面には薄い埃(ほこり)と魔獣の乾いた糞が積もっている。 しかし――この陣が内包する力そのものは、この世の理(ことわり)を無視して、完全に生きて脈打っていた。
微弱ではあるが、極めて純度と密度の高い蒼白い光の粒子が、まるで深海に棲む怪物の心臓のように、ドクン、ドクン、と規則正しく不気味に脈を打つように空間を巡り続けている。
 オリバー:「――間違いありません、記録と完璧に一致していますわ」
魔導士のオリバーが冷たい石畳へと静かにしゃがみ込み、王立魔法大学で培ったその卓越した考古学的知識を用いて、床の文様を詳しく調べる。
オリバー:「三十年前に設置された、旧式の長距離転移の陣ですね」
彼は愛用の魔導杖の先端で、埃(ほこり)の下に隠れた複雑な回路の幾何学線をそっとなぞりながら、確信を持って説明を重ねた。
オリバー:「地下第五層の、あの暗黒の最深部への、直通の近道ですわ」
カイト:「……やはり、ジョーカーの話は正しかったか」
カイトは、不気味な蒼白い燐光(りんこう)を灯して鈍く脈打つ陣を、その碧眼(へきがん)で鋭く見つめ続けた。
その道の彼方に、一体全体どのような恐怖が待ち受けているのか。 現時点では、この場にいる誰も知らない。
だが――この陣が正常に生きているという事実の先には、間違いなく、あの国家を滅ぼしかねない世界の守護者《大地の番人》という名の、圧倒的な『絶望』が存在しているはずであった。
オリバー:「――私の力をこの道に流し込めば、いつでも起動可能です」
オリバーが、漆黒のローブの裾を揺らして静かに立ち上がって言った。
オリバー:「ただし、わざわざ我々の身を実際に転移させ、あの危険な死地へ直接赴く必要性はどこにもありませんわ」
勇者カイトは、その合理的で冷静な提案に、白銀の兜の奥で深く、力強く頷(うなず)いた。
カイト:「ああ。 俺の聖剣の力を用いて、その先の光景だけを直接こちらへ抉(えぐ)り出す。 全員、周囲の魔物の残党に対する備えを頼むぞ」
斥候のライザが、双短剣(ダガー)を構え直して鋭く振り返る。
 ライザ:「……カイト隊長、あの西の学廷で名を挙げた、あなたの固有の力《千里眼》を解き放つのですか?」
カイト:「ああ、そうだ。 この浅層から、五層の様子を強引に覗(のぞ)き見る」
カイトは蒼白く脈打つ陣の幾何学文様の中央へと、軍靴を踏み鳴らして真っ直ぐに歩み寄り、白銀の剣の切っ先を床へと静かに突き立てて目を閉じた。
極限まで自らの力を研ぎ澄まし、すべての感覚を視覚に集中させていく。
自らの肉体を転移させるのではない。 この陣が強固に繋がっている、遙か数千メートル地下の場所。 その向こう側の閉ざされた空間に実在しているはずの、今この瞬間の生々しい光景だけを、限定的にこちら側の網膜へと映し出して観る。
それこそが、西の勇者カイトが有する固有の力――《千里眼》。
だが、それは決して、世界のすべてを無条件で見通せる万能の神の目などでは断じてない。
地層を隔てた距離。 空間を満たす力の濃さ。 古代の迷宮が放つ結界の乱れ。 そして何よりも――繋がる先の空間そのものの様子。 それらの複雑な乱れによって、見え方は著しく左右されるのがこの理(ことわり)であった。
カイト:「……行くぞ、繋がれ」
カイトが、自らの神経を引き絞るように短く低く呟(つぶや)いた。
彼の身体から搾り出された莫大(ばくだい)な力が、白銀の鎧をガタガタと震わせながら、両の目の奥の網膜へと一気に集まっていく。 一瞬、彼の視界のすべてが完全な暗闇へと暗転した。
 ――そして、次の刹那(せつな)。
遙か地下の、決して人間が侵入してはならない別の閉ざされた空間の光景が、カイトの脳裏へと不気味な揺らぎを伴って、強引に映し出され始めたのだ。
――地下第五層、階層主の部屋。
《千里眼》の力によって、繋がる先へ自らの全意識を限界まで伸ばし、その目を開いた、まさにその瞬間。
西の勇者カイトは――自らの肉体が呼吸を完全に忘れてしまうほどの凄絶な戦慄(せんりつ)に、激しく息を呑んだ。
カイトの目が最初に捉えたのは、光による視覚的な空間の姿などでは断じてなかった。
脳髄を直接内側から叩(たた)き割るかのような、圧倒的、かつ暴力的なまでの『力の暴風』であった。
カイト:「――っ……!」
紛れもない、純粋なる風の力。
 だが――王国の宮廷魔導士たちが生涯を捧げて扱うような、通常の風属性の魔法とは、根本から次元の違うものであった。
空気中を濃い力が漂っているなどという、学廷の教科書に載っているような生易しいものではない。 まるで地下第五層という巨大な閉ざされた空間そのものが、一個の巨大な意思を持った『圧縮された風の捕食者』に完全に呑(の)み込まれているかのようだった。
濃密すぎる力の乱れが凄まじい妨げとなって、カイトの意識を狂わせ、視界を白く霞(かす)ませていく。
《千里眼》の映す像が激しく乱れ、一向に安定しない。 捉えた空間の輪郭が、熱によって不気味にグニャリと歪(ゆが)む。 本来なら絶対の強度を誇るはずの、太古の巨竜の鱗を混ぜた大理石の壁が、まるで水面のように奇怪に波打って見えた。 遠近の感覚すら、不条理に狂い果てていたのだ。
リヴァ:「カイト! 見えてるの!? これ以上はあなたの意識が持たないわ!」
現実世界の冷たい第二層の暗闇から、水の上位精霊リヴァの焦燥しきった叫び声が、遠い異界の底から聞こえてくる。
カイト:「……ああ、か、辛うじてだがな……っ」
カイトは白銀の兜の奥で歯の根を激しく食いしばり、自らの精神をさらに深く、鋭く、極限まで視覚に集中させた。
カイト:「だが、そこに残っている力の乱れが異常すぎる。 ノイズが多すぎて、未だ鮮明には見えない」
それでも――西の学廷の最高英雄たる彼の強固な精神力が、押し寄せる濁流を少しずつ強引にねじ伏せて晴らし、脳裏の像を静かに安定させていく。 そして。
カイト:「――…………」
西の勇者カイトは、呼吸を完全に失い、言葉を喪失した。
 その彼の脳裏へと映し出されたのは、地下第五層の、あの広大な階層主の部屋であった。
――いや、正確には、『かつて階層主の部屋だった場所』。
そうとしか言い表しようがない、完膚なきまでに無残に大破した空間であった。 本来なら三十人を超える聖騎士団の包囲網を必要とする、巨大な石造りの大神殿の空間。
その中央には、この地下迷宮の絶対的守護者――あの神話級の怪物《大地の番人》が、山の如き圧倒的な体躯と威容を誇って傲然(ごうぜん)と君臨しているはずだった。
しかし。
そこに居るはずの、あの巨躯は――いない。 影も形も、力の残り香すらそこには居ない。
その代わりに、部屋という閉ざされた空間そのものが、根こそぎ、原子のレベルで完全に『壊れて』いたのだ。
冷たい床面の強固な古代石材が、まるで神の振るう巨大なスプーンで強引に抉(えぐ)り取られたかのように、すり鉢状に大きく陥没している。
 多面体の壁面には、自然界の物理現象では天地が引っくり返っても存在し得ない、巨大な円弧を描いた、一分の狂いもない均一な削り跡が刻まれていた。
遙か高い天井付近には、頑強な石材がまるで細かな砂礫(されき)のように砕け散り、何らかの重力によって一瞬にして吹き飛ばされたかのような、生々しい消失の跡だけが残されている。
だが――何よりも勇者カイトの全神経を戦慄(せんりつ)させたのは、その目が捉えた光景の、常軌を逸した『圧倒的な不自然さ』であった。
これほどの、国家の軍事バランスを容易く崩壊させる規模の破壊が起きたという事実に対して――その場に当然残されているべき、瓦礫(がれき)や魔物の肉片といった『物の総量』が、あまりにも、不気味なほどに少なすぎるのだ。
カイト:「……おかしい、釣り合いが根底から狂っている」
現実世界の地下第二層の通路で、陣に聖剣を突き立てていたカイトが、恐怖に震える青白い唇からその呟(つぶや)きを漏らした。
ライザ:「何が、何がおかしいのですか、カイト隊長」
暗闇を警戒する斥候のライザが、双短剣(ダガー)を構えたまま不審そうに声を投げる。
カイト:「これだけの……一国を焦土に変えかねない甚大な破壊が起きているというのに、あの閉ざされた空間のなかに、破壊に伴う『瓦礫(がれき)』がほとんど一片も存在していないんだ」
通常の大規模な魔導戦闘が起きたのであるならば、激しく砕け散った古代石材の破片や、視界を塞ぐほどの濃厚な粉塵が、床一面に山のように散乱するのが道理である。 壁を破壊すれば、その重みを伴う破片が必ず現場に残るはずだ。
しかし――彼の《千里眼》が映し出すあの第五層の主の部屋には、巨大なスプーンで抉(えぐ)り取られ、刃物で削り落とされたかのような、生々しい消失の『痕跡』ばかりが不気味に並べられているのだ。
 それはまるで。
破壊され、消え失せたはずの数万トンという物の総量そのものが、爆風の力ごと、丸ごとどこか異界の彼方へ持ち去られてしまったかのように――。
オリバー:「……待ってください、カイト隊長、異常な『熱の反応』がありますわ!」
最後尾の上級魔導士オリバーが、小脇の紅蓮の魔導書から共有されてくる遠くの様子を凝視しながら、引きつった切迫した声を上げた。
カイト:「熱、だと? あの番人が放った大地のマグマの名残か?」
オリバー:「いいえ、そんな自然の属性などではありません!」
オリバーはカイトの目を借りて、その歪んだ空間に漂う力の名残を精密に読み取ろうと試みた。 だが――次の瞬間、その王立魔法大学の筆記首席の系譜を継ぐ、知的な天才の表情が、剥(むき)出しの恐怖によってピキピキと歪(ゆが)んだ。
オリバー:「違う……これは、ただの炎属性や熱の魔導じゃありませんわ、隊長……っ!」
彼はカイトの目を介して、すり鉢状に抉れたクレーターの壁面を穴が開くほど凝視する。
オリバー:「一部の古代石材の表面が、極端かつ異常な、道理を無視した多重の温度の変わりようを受けています」
数万度を超える、急激な超高温での熱変化。 ――そして、その直後に、何の間もなく、寸分違わず空間ごと絶対零度に近い超冷却を叩き込まれたかのような、不気味極まりない断層の痕跡。
だが、それは通常の炎属性魔法や氷属性魔法が激突した際の跡とは、根本的な次元から異なっていた。 石材は黒く焼け焦げてなどいない。
物の成り立ちそのものが、完全に『溶けて』いるのだ。 それも、全方位からではなく、ある一方向からの衝撃だけが、精密機械の如く極端に――。
 オリバー:「……一体全体、王国のどこの大量破壊の遺物を使用すれば、このような理を無視した不条理な現象が起きるというのですか……っ!?」
理知派のエリート天才魔導士であるオリバーのその声に、彼のこれまでの人生で初めて、明確な絶望の動揺と畏怖(いふ)が混ざり込んだ。
カイトは、その相棒の悲痛な問いに対して、一言の答えも返すことはしなかった。 いや――返すための言葉を、何一つとして持ち合わせてはいなかった。
彼は、脳裏で明滅を繰り返す千里眼の視線を、必死に、狂ったように動かし続ける。
巨大なスプーンで抉れた冷たい床。 熱で溶け落ちた壁。 重力で消し失せた天井の岩肌。
――そして、次の瞬間。 彼の碧眼が、その空間の最奥の床に刻まれた、もう一つの『絶対にあってはならない痕跡』を捉えたのだ。
カイト:「――待て、そこを見据えろ」
カイトの《千里眼》の視界が、陥没した階層主の部屋のある一点において、強烈な違和感に引っかかった。
クレーター化した床面の一部。 そこに、何かが黒く爆ぜたような、禍々(まがまが)しくも美しい幾何学の真円形の焦げ痕が静かに残されている。
だが――それは単なる爆発の力が遺した焦げ跡などでは断じてなかった。 中心部分の強固な古代石材が、限界を超えて異常なほど極端に、微細な塵(ちり)のレベルまで削り取られているのだ。 さらに恐るべきことに、その破壊の周囲の境界線だけが、まるで神の用いる精密な刃物で寸分の狂いもなく切り取られたかのように、不自然なほど滑らかに研磨されていた。
 斥候のライザが、映し出された像のなかでその猫のような目を細める。
ライザ:「……まるで巨大な隕石でも頭上から垂直に撃ち込まれたかのような、局所的な衝撃痕ですか?」
オリバー:「――いいえ、それは道理から見て絶対に違いますわ」
最後尾のオリバーが即座に、王立魔法大学を首席で卒業した上級魔導士としてのプライドにかけて、そのライザの見立てを否定した。
オリバー:「純粋な質量の激突による衝撃であるなら、力は中心から外へ向かって放射状に、ランダムな亀裂(クラック)として岩肌を破砕するはずです」
彼は魔導杖を暗闇へ構え、カイトの目を介してその異常な力の残り香の流れを頭の中で追った。
オリバー:「これは……物理の衝撃などではない……」
彼の理知的な言葉が、その導き出した絶望の答えに、ワナワナと震えて止まる。
オリバー:「――物の『消滅』に極めて近い」
カイトが現実世界の第二層の通路において、白銀の兜をカチャリと激しく鳴らして振り返った。
カイト:「消滅、だと? オリバー、一体どういう意味だ」
オリバー:「はい……。 物が外部からの暴力的な力によって物理的に砕け散った(破壊された)のではありませんわ、カイト隊長」
オリバーは、自らが二十年間信じてきた魔導の常識が、足元からパラパラと音を立てて崩れ去る絶望を聞きながら、慎重に、怯(おび)えを含んだ言葉を選んだ。
オリバー:「その場所に存在していたはずの物の成り立ちそのものが、この世から完全に『消し去られた』ように見えます。 ……欠片すら残っていない」
鉛の如き、絶望的な沈黙。
カイトは、再びその千里眼が捉える地獄の如き大破した部屋をぐるりと見渡した。
 そこで彼は、一人の指揮官として、さらに致命的な異変に気づく。
防魔大理石の壁面。 そのところどころに、髪の毛ほどの細さの、細長く鋭い無数の線傷が走っているのだ。 一見すると、暴風の余波によって偶発的に削られた傷に見える。
しかし――その一本一本の傷の走る方向が、あまりにも人工的に揃(そろ)いすぎているのだ。
それらの無数の鋭い刃の線は、巨大な多重の竜巻の渦を描くようにして、すべて部屋の中央の『ある一点』へと、吸い込まれるように正確に収束していた。
ライザ:「風……属性……?」
ライザが、その暗殺者としての心の防壁をすり抜けてきた戦慄に、息を呑んでポツリと呟(つぶや)く。
ライザ:「これが……さきほど上の階層まで溢(あふ)れ出してきていた、あの風の力の正体だと言うのですか、オリバー」
オリバー:「――その可能性は極めて高いと言わざるを得ませんね」
オリバーが、自らの知性を呪うような絶望的な推論を口にする。
オリバー:「ですが……こんな常軌を逸した異常な風の術は、王国のいかなる最高機密の魔導書にも、古の禁書の棚にも一切記されてはいませんわ」
彼は、まるで鏡面のように均一に削ぎ落とされたクレーターの壁面を、その眼鏡の奥の瞳で凝視(ぎょうし)した。
オリバー:「圧倒的な風の暴力だけで大理石の壁を削り落としたとしても、通常なら破壊の表面はランダムに、不規則に荒れ狂うはずです」
しかし――ここに残されているのは、異様なまでに洗練された均一さを持つ、静かで精緻(せいち)な削り跡の羅列であったのだ。
 オリバー:「まるで、これは……」
上級魔導士オリバーが、自らの卓越した知性を完膚なきまでにへし折られ、剥(むき)出しの恐怖に言葉を完全に失った。
カイト:「何だ、オリバー。 何が見えている」
カイトが兜の奥から、短く冷徹な声で相棒の自白を促す。
オリバー:「まるで……神が虚空から振るう、目に見えない天災規模の巨大な鋏(はさみ)で、空間そのものをリズミカルに切り刻んで均一に削り取ったような、そんな不条理な削り跡ですわ……」
そこで老魔導士は、一人の学徒として、己の導き出した推論のあまりの荒唐無稽(こうとうむけい)さに恥じるように強く口を閉ざした。
しかし、カイトは彼の狂ったようなセリフを笑うことなど断じてしなかった。
笑える状況では、天地が引っくり返ってもなかったのだ。 現世の最高峰の知性が説明のつかない動かしがたい事実が、現に今、彼の脳裏へ映し出されているのだから。
――そして。
そのすり鉢状に抉(えぐ)れたクレーターのド真ん中。
本来の迷宮の理(ことわり)であるならば、そこに悠然たる絶対的な捕食者として存在しているはずの、あの巨大な体躯。
 地下第五層の絶対的守護者――《大地の番人》。
古代の岩石が幾重にも多層の装甲を成した神話の身体を持つ、五層の主。 これまで数え切れないほどの白銀等級の上位冒険者たちの心を、その圧倒的な質量で叩き折り、退けてきた無敵の魔物。
だが――。
いない。
ただの巨大な肉片(死骸)もない。 砕け散ったはずの装甲岩石の破片(瓦礫)もない。 力の源であるはずの巨大な魔石もない。 大地を汚すはずの黒い血肉の一滴すら、そこには落ちてなどいない。
何一つとして、残されてはいなかった。
リヴァ:「……カイト、大地の番人はどうなっているの?」
上位精霊リヴァが、カイトの白銀の肩のあたりで、すがるようなか細い声で尋ねる。
カイトは、言葉を返すことができなかった。
 彼は血走った碧眼(へきがん)をさらに限界まで見開き、《千里眼》の視野を限界まで広げる。 広大なすり鉢状の床の隅。 鏡面のように溶けた壁際。 抉り取られた天井の岩肌。 隣接する暗黒の通路の奥底。
どこを探しても、神話の化け物の影など存在しない。
カイト:「……存在、しない」
ようやく、カイトの乾ききった喉の奥から、かすれた悲痛な声が漏れ出た。
リヴァ:「何ですって……? 討伐されて消えた(そのうち湧いて出る)という意味?」
カイト:「違う。 大地の番人が……あの魔物がこの世に『存在していた』という痕跡そのものが、空間からあまりにも薄すぎるんだ」
それは、王国のこれまでの歴史に刻まれた、いかなる大規模遠征による正当な討伐の記録とも、明らかに一線を画した異質な出来事であった。
どれほど神話級の強大な魔物を打ち倒したとしても、道理の上では、そこには必ず何かが残留する。 巨大な肉塊の死骸。 四散した物の破片。 露出した魔石。 空間を汚す濃厚な血液。 あるいは大気にこびりつく濃厚な死の残り香。
世界の均衡を揺るがす何かが、そこに必ず残るのがこの世の理だ。
しかし――今この《千里眼》が捉える地獄の部屋には。
大地の番人というあの巨大な体躯だけが、何らかの精密な力によって、綺麗に、美しくこの世から抜け落ちているのだ。
 まるで、初めからこの世の歴史に、そんな怪物は一片も実在していなかったかのように。
ソフィア:「……そんな、あまりにも不条理な、神の御名に反する奇跡が……っ」
後方で白き聖衣をまとっていた《慈愛の聖女》ソフィアが、その圧倒的な虚無の重みに膝をワナワナと震わせ、胸の前で繊細な指先を交差させて神聖な十字を切りながら、小さく悲痛に呟(つぶや)いた。
その美しい声には――神への敬虔な祈りというよりは、この世の理そのものが崩壊しかけていることを悟った、一人の人間としての、深海のように深い絶望の震えが混ざり合っていた。
カイトは、頭を焼き切らんばかりの力の密度に耐えながら、自らの《千里眼》の視線を、さらに大破した階層主の部屋の最奥へと動かした。
――そして。 その空間の陰影のなかに、国の防衛そのものを完全に揺るがす、決定的な『もう一つの絶望』を見つけたのだ。
カイト:「――地上への帰還用、転移の陣……っ」
かつて王国の最高峰攻略部隊が、不測の事態における地上への即時脱出用に設置していたはずの、あの堅牢(けんろう)なる最重要の陣。
その、幾何学文様が刻まれていたはずの中央の床面が、完膚なきまでに、根こそぎ破壊されていた。
かつての賢者たちが精緻(せいち)に設計した回路の幾何学の線が、途中から刃物で引き裂かれたように無慈悲に分断され、大気の中へと蒼白い火花を虚(むな)しく漏らし続けている。 それは、単に理性を失った魔物に足で踏み荒らされたなどという浅い痕跡では断じてない。 術の構造そのものが、意図的に、力技で破砕されているのだ。
 しかも――その不条理な破壊の向きは、一定の方向を向いてはいない。 複数の方角から、それぞれが巨大で無秩序な暴力を瞬間的に受けたかのように、陣を構成していた術が引き裂かれて大破していた。
カイト:「……遭難者を救出するための、唯一の帰還手段まで、完全に深層の底で潰されている」
カイトの声が、世界の終末の地獄の底のように低く、冷たく凍りついた。
歴史の闇に隠れた誰かが、この最深部で戦を執行した。 その見込みは極めて高い。
しかし――。
もしも正当な戦いがここで繰り広げられたのだとするならば、何故あの《大地の番人》の山の如き死骸が、肉片一つ現場に残っていない?
これほどの、国家の軍事力を総動員したかのような術が炸裂したのだとするならば、何故そこに挑んだはずのトップランカーたちの装備の残骸や、砕け散った伝説の武器の欠片(かけら)すら、一つも残されていない?
そして何よりも――。
何故、これほどまでに異常かつ暴力的な、王国の保有する力を越えるほどの天災規模の『風の残り香』だけが、空間にこびりついて渦巻き続けている?
西の勇者カイトは、もう一度、千里眼を通してこの理を完全に蹂躙(じゅうりん)した惨劇の大神殿の部屋を、くまなく見渡した。
鏡面のように溶けた壁。 巨大なスプーンで抉られたクレーターの床。 異常なまでの超高温と絶対零度の熱の変わりよう。 瓦礫すら残らず物が消え去った跡。 一分の狂いもなく均一に削ぎ落とされた風の跡。
そして――内側から引き裂かれて完全に大破した、脱出用の緊急の陣。
 それらすべての、通常の道理では絶対に両立するはずのない矛盾する証拠のすべてが、ただ一つの、恐るべき結論へと向かって収束していた。
――ここで、何かが起きた。
しかも、それは――。
現世の人間の魔法使いや、王国の歴史に名を連ねる白銀等級の英雄と呼ばれる冒険者たちの力では、天地が引っくり返っても到底説明のつかない、神の領域の規模で、だ。
カイト:「……これは」
カイトは、自らの魂に言い聞かせるように、凍りついた地下第二層の通路で静かに呟(つぶや)いた。
カイト:「……通常の『討伐』などでは、断じてない」
彼の視覚を通して光景を共有していたオリバーも、ライザも、そのあまりの不条理の重さに、一言の反論すら返すことができなかった。
カイト:「何者かが、あの神話の怪物と凄絶な死闘を繰り広げた末に、辛うじて打ち倒したなどという、そんなまっとうな戦の歴史ではないんだ」
カイトは、千里眼の視界のなかに広がる、完全に破壊された階層主の部屋の、美しいほどに静かな『絶対的な虚無』を見つめ続ける。
カイト:「……この世を構築する理から、あの巨大な番人を、一瞬にして丸ごと『消した』んだ。 あの怪物は一瞬にして丸ごと消し去られたんだ」
その 「消した」 という不吉な結論が指揮官の口から零(こぼ)れ落ちた、まさにその瞬間。
 カイトの脳裏に映し出されていた《千里眼》の視界が、バチバチと激しく揺らぎ、乱れの火花を散らした。
地下第五層の空間に異常な濃さで残留する、あの純粋なる風の力の名残が――まるでこの世の理を嘲笑(あざむ)う巨大な意思を持った捕食者の如く、不気味に、禍々(まがまが)しく渦巻いて逆流してきたのだ。
オリバー:「カイト、危険ですわ! これ以上は意識が持ちません、今すぐ繋がりを切ってください!」
最後尾のエリート魔導士オリバーが、眼鏡の奥の瞳を見開いて悲痛に叫ぶ。
カイト:「……っ、分かっている、オリバー……!」
だが、西の学廷の最高英雄たるカイトは、激しい頭痛に耐えながら、最後にもう一つだけ確かめるべく、執念の眼光でその虚無のクレーターを凝視(ぎょうし)した。
すり鉢状に抉(えぐ)れた部屋の中央。 本来ならば、そこに山の如き体躯を誇る《大地の番人》が、絶対的守護者として直立不動に立っていたはずの場所。
そこに僅(わず)かに残されていたのは――。
かつてその場に、何か巨大で恐ろしい体躯を持った神話の怪物が確かに実在していたという事実を示す、風前の灯火の如き、微かな、あまりにも微かな力の残り香だけであった。
そして、それすらも――ルイズの放った圧倒的な風の力の奔流に無慈悲に飲み込まれて、今まさにこの世から完全に消え去ろうとしていたのだ。
 カイト:「――っ、ガハッ……!」
カイトは、喉から血を吐くような呼吸とともに、強引に《千里眼》の繋がりを断ち切った。
世界が反転し、彼の碧眼(へきがん)の視界が、元のカビ臭くじめじめとした、薄暗い地下第二層の通路へと一瞬にして戻る。
それから、どれほどの時が経過しただろうか。
カイトが率いる特務捜査隊の誰もが――一言も虚空へと発することができず、ただ凍りついたように押し黙っていた。
彼らの四肢を縛り付けるのは、お国の上層部すらも経験したことのない、圧倒的な未知への戦慄。
静まり返った暗黒の通路で、最初に、震える唇を開いたのは理論派のオリバーであった。
オリバー:「……あの、人類の到達し得る最高峰であるはずの、禁忌の第十位階の大魔法を以(もっ)てしても……っ」
知的な銀縁眼鏡の奥の瞳が、これまでの人生で培った全魔導の理論が揺らぐのを前に、小刻みに恐怖で震えている。
オリバー:「いや、違うわ……」
老魔導士は、自らの優秀な頭が導き出した推論を、あまりの不条理さに、自らの手で唇を覆い、怯えながら全否定した。
 オリバー:「――仮に、あの空間で風の第十位階魔法という過剰な火力が放たれたのだとしても! 発生したはずの数万トンの瓦礫(がれき)や熱、衝撃波のすべてを彼方へ消し去るなんていう、あのような理を完膚なきまでに無視した怪奇現象を……一体全体、どこの神の理屈で説明できるというのですか……っ!!」
西の勇者カイトは、その相棒の悲痛な絶叫に対して、一言の答えも返すことはしなかった。
分からない。
人間の知恵では、王国の最高峰の魔導を以てしても、一つも理解できない。
――だからこそ。 彼らの心臓の最奥底から這い上がってくるその恐怖は、底なしに恐ろしかったのだ。
自分たち王国のエリートたちが、天地が引っくり返っても全く知り得ない、超越的な神話級の『絶対的な何か(※なお実際は普段着ぶかぶかTシャツ姿でノーパンのドケチ女子学生)』が。
あの、絶対領域であるはずの地下第五層において。
あの世界を滅ぼしかねない世界の守護者、《大地の番人》を一瞬にして、『パンツ』と引き換えに空間ごと綺麗さっぱり『消し去った』のだから。
冷ややかな地下の湿気と、魔物どもの腐血の異臭に包まれた地下迷宮、第二層。
 鈍い銀色に光る陣から聖剣の切っ先を抜き、遙か深層の視覚を絶って現実の暗闇へと自らの全意識を引き戻したカイトは、まるで大理石で彫られた不気味な石像のように、深く俯(うつむ)いたままその場から微動だにしなかった。
誰も、その彼に気安く声を掛けることなどできなかった。
周囲に控える歴戦の仲間たちも、長年の死線で培われた一級冒険者としての野生の勘で即座に理解していた。 カイトが、今しがた千里眼の視界の向こう側において、この世の理を完全に超越した『恐るべき何か』を目に焼き付けたのだ、と。
――そして、それが決して、自分たちに希望を抱かせるような温かい類のものなどでは天地が引っくり返ってもないということも、彼らの四肢を縛る肌寒い沈黙が雄弁に物語っていた。
リヴァ:「……カイト」
凍りついたような張り詰めた静寂を破ったのは、カイトの白銀の肩の周辺を浮遊していた、水の上位精霊リヴァであった。
リヴァ:「第五層の、あの絶対領域で、一体何が起きていたの?」
カイトは、まるで首に鉛の塊でも鋳込まれたかのように重々しい動作で、ゆっくりと白銀の兜の顔を上げた。
その彼の鋭かったはずの碧眼(へきがん)から、いつもの穏やかで気高い光は完全に消え失せており、そこには底知れぬ疲労と、人の知恵を脅かす未知への畏怖(いふ)の色だけが、濃く、沈殿していた。
カイト:「……地下第五層の守護者《大地の番人》が、そこにいないんだ」
ライザ:「倒されて消えた、そのうちまた湧いて出るという意味ですか、カイト隊長」
斥候のライザが、双短剣(ダガー)を構え直して鋭く尋ねる。
 カイト:「いや、分からない。 あれが生きているのか死んでいるのか、それすら測りようがないんだ」
カイトは、世界の破滅を悟ったかのように重く首を横に振った。
カイト:「だが、あの神話級の怪物の死骸がどこにもない。 飛び散るはずの血の一滴、装甲であったはずの岩石の一欠片(ひとかけら)すら、その場には何一つ残されてはいないんだ」
ライザ:「……破片すら、ないのですか?」
カイト:「ああ。 不気味なほどに、綺麗さっぱりと消えている」
カイトは、未だ自らの脳裏に生々しく焼き付いたままの異常な光景を、一つずつ噛み砕くようにして言葉に変えた。
カイト:「第五層のあの広大な部屋は、この世の理を完全に無視した規模で、徹底的に破壊されていた。 壁面には、精密機械の如く不自然に均一な削り跡。 床には、物の成り立ちそのものが空間から消し去られたかのような、巨大ですり鉢状の陥没。 ……さらに、一部の石材の表面には、数万度を超える急激な熱と、その直後の凍りつくような冷えを同時かつ局所的に叩き込まれたかのような、異常な変わりようも確認した」
ライザ:「……そんな不条理が」
カイト:「そして――」
そこで一度、カイトは胸を焦がす熱い焦燥を抑え込むように、重苦しく言葉を切った。
カイト:「――大気に漂う、純粋な風の力の残り香が、王国の持つどんな力をも越えるほどのあり得ない濃さで、今なお空間に残留して禍々しく渦巻いているんだ」
最後尾の上級魔導士オリバーが、自らの知性を呪うような苦渋に満ちた顔で白眉を寄せた。
オリバー:「……それほどまでの重さですか?」
カイト:「ああ、私の持つ固有の力《千里眼》の視界が、その乱れだけで激しく歪み、繋がりが乱れるほどにな」
オリバーは、今度こそ完全に押し黙った。 魔法の深淵と王立魔法大学の最高峰を知る者として、その事実が意味する絶対的な絶望を、彼はこの場の誰よりも正しく理解していたからだ。
通常、人が魔法を使うことでこの世に残る力の名残には、必ず限りというものがある。 強力な魔法であればあるほど、当然その痕跡も比例して大きくなる。 だが、カイトがその目で見たという第五層の風の残り香は、人の術理という常識の枠組みを完全に逸脱していた。
オリバー:「……これほどの、国家の軍事の均衡を容易く粉砕する神話級の大魔法を……何のためらいもなく、無造作に、綺麗に行使できる怪物が王都の地下にいた、と……?」
カイトは、その相棒の悲痛な問いに対して、一言の答えも返すことはしなかった。
代わりに――自らの白銀の兜の奥から、もう一つの動かしがたい事実を優秀な部下たちへと告げる。
 カイト:「――地上への緊急脱出用として敷かれていた、あの最重要の転移の陣も、完膚なきまでに引き裂かれて破壊されているんだ」
今度こそ、地下第二層の暗闇のなかにいる誰一人として、一言も虚空へと返すことができなかった。
世界の守護者たる大地の番人がそこにいない。 巨躯の死骸もない。 あの太古の竜の鱗を混ぜた頑強な部屋が、原型をとどめぬほどすり鉢状に粉砕され、大気には人の限界を突き抜けた異常な風の粒子が満ちている。
そして――退路の生命線であるはずの、脱出用の陣までが、何者かの手によって意図的かつ乱暴に破壊されているのだ。
それはもはや、単なるギルドの攻略失敗や、若き志願者たちの不憫(ふびん)な遭難などという世俗の次元を意味するものでは断じてなかった。
地下迷宮の最深部、その人智の及ばぬ絶対領域に――人類の存亡に関わる、極めて『異常で、理不尽な存在』が入り込んだ可能性を、彼らの本能に対し、これ以上ないほど強烈に示唆していたのである。
ソフィア:「……カイト、隊長……っ」
後方の聖女ソフィアが、その不気味な虚無の重みに耐えかねるように、自らの震える両手を白き聖衣の胸の前で固く、祈るように組み締めた。
ソフィア:「もしかして……わたくしたちが命を賭けて救助に向かっている、その三人の女性魔導士の皆さまは……すでに、その化け物の手によって衣服ごと――」
カイト:「――ソフィア、そこまでだ」
カイトは、自らの鋭い碧眼(へきがん)を哀しげに一度だけ伏せた。
その悲痛な問いに対しては、今の彼にはすぐには答えを弾き出すことができなかったのだ。 他ならぬカイト自身も、狂おしいほどにその真実を知りたかったのである。
 名門の血を引く彼女たちが、未だ奈落の底で健気に生き長らえているのか。 一体どこの不条理な場所に閉じ込められているのか。 一体、現世のいかなる理不尽な怪奇現象に巻き込まれて絶叫しているのか(※なお実際はお買い物ツアーを終え、タダ飯のお弁当を完食して満足げにお昼寝中)を。
カイトは歴戦の指揮官として即座に次なる決断を下し、もう一度だけ、自らの意識を極限まで研ぎ澄ませた。
カイト:「……作戦を変える。 これより、地下第四層の全域にわたり、人の気配を探る」
カイトは聖剣の切っ先を深く床の陣へと突き立て、再び目を閉じ、固有の力《千里眼》を呼び起こした。
今度の探索対象は、あの破壊された第五層ではない。 その一つ上の階層である、地下第四層の全空間。 魔物の気配をすべて弾き、純粋なる『人の生きた気配』のみを探るのだ。
王国の登録冒険者であるならば、迷宮に棲む生き物とは根本的に異なる、魔導の血を引く特有の清廉な生命の輝きを必ず宿している。 カイトの千里眼であれば、それを地層を跨(また)いだある程度の深さまで識別することが可能であった。
彼は自らの全神経を、さらに漆黒の暗闇の奥底へと、濁流の如く伸ばしていく。
地下第四層。
カビに覆われた迷宮の通路。 魔物のひしめく広間。 幾重にも枝分かれした不気味な分岐点。 そのさらに奥の、人類未踏の隔離された領域――。
 ……いない。 命の気配が、一つも感じられない。
カイトは、胸を焦がす熱い焦燥を強引に抑え込み、自らの力を振り絞って、その探る範囲をさらに限界まで広げていった。
それでも――。
どれほど感覚を研ぎ澄ましても、お嬢様たちの宿しているはずの微かな気配すら、一つも網に引っかかってはこない。
カイト:「……」
もう一度だ、見落としがあるかもしれない。 別の未開の区画。 さらに別の、結界の陰に隠された領域の最奥――。
しかし――弾き出される答えは、絶望的なまでに、何一つ変わらず完全に一致していた。
第四層全域における、人の気配――。
――皆無。
 西の勇者カイトは、目の奥に焼き付いた完全な虚無の残像を振り払うようにして、ゆっくりと目を現実の暗闇へと開いた。
カイト:「……地下第四層のどこを探しても、人の気配は――一切として存在しない」
聖女ソフィアが、その残酷な事実を前に短く、痛ましげに息を呑(の)んだ。
ソフィア:「では……本当に、彼女たちは……」
斥候のライザも、魔導士のオリバーも、押し寄せる絶望を前にそれ以上は何も言葉を紡ぐことができなかった。
カイトは、皮手袋の奥で自らの拳を、血が滲(にじ)むほど強く、痛いほどに白銀の剣の柄へ握りしめた。
カイト:「彼女たち三人が、一般実習の規定を破って地下第五層の絶対領域へ向かったという、あの保安局の話が正しいとするならば……」
彼の喉の奥に、冷たい鉛の塊が詰まったかのように、言葉が重苦しくなる。
カイト:「……あの神話の破壊のただ中で、未だ彼女たちが生きているとは――とても考えにくい」
誰も、その歴戦の指揮官が下した静かな見立てに反論することはできなかった。
それは王国の法の上での死を意味するものではない。 だが、死地へ赴く特務救出部隊にとっては、あまりに十分すぎるほどに残酷で、重い現実であった。
人の気配は完全に消えている。 退路を繋ぐはずだった帰還用の陣は、内側から引き裂かれて大破している。
 そして――その先の暗黒の深淵には、人の術理を超え去った未知の脅威が、今なお静かに潜んでいるのだ。
ガルド:「……俺たちは」
最前線で巨大なタワーシールドを構えていた巨漢のガルドが、兜の奥から、低く、地鳴りのように重々しい声で呟(つぶや)いた。
ガルド:「……俺たちのこの盾を以(もっ)ても、彼女たちを一人も助けられないのか、カイト」
そのひび割れた声には、自らの無力さに対する、血を吐くような凄絶(せいぜつ)な悔しさが滲(にじ)み出ていた。
普段であれば、どれほど強大な魔物を目の前にしても、鉄の如きポーカーフェイスで決して動じることのない、鉄壁の男。 戦場において、背後の味方にただの一引っ掻きの傷すら負わせない――それだけを騎士の誇りとし、生き甲斐として最前線に立ってきた、百戦錬磨のベテランの重騎士。
だが、今の彼は。 自らの自慢の盾が天地が裂けても届かない、理不尽極まりない迷宮の深淵のなかで、守るべき尊い救助対象たちが完膚なきまでに蹂躙(じゅうりん)され、消し去られているという現実に、ただ絶望するしかなかったのだ。
カイトは、白銀の兜の奥から、その沈痛な面持ちで巨漢の相棒の背中を見つめた。
カイト:「……ガルド、まだ完全に命を落としたと決まったわけじゃない」
そう自らに言い聞かせるように言葉を紡いでから、彼はほんの僅(わず)かに、悔恨に濡れた碧眼(へきがん)を斜め下の床へと伏せた。
カイト:「――だが、だ」
次に続く言葉は、個人の感傷を一切排した、非情なる特務部隊の隊長としての、揺るぎない決断であった。
 カイト:「これ以上の不確かなことを前に、俺たちの足を奥へ進めることはできない。 今この時をもって、全軍、進軍を停止しろ」
ライザが、弾かれたようにその黒髪のショートカットを跳ね上げて顔を上げた。
ライザ:「カイト隊長!? しかし、まだ捜索の余地が残されて――」
カイト:「俺たちがこのまま感情に任せて下層へ突入すれば、この特務捜査隊そのものが、何一つ持ち帰れずに全滅する可能性が極めて高い」
カイトは、冷たい地下水の滴る暗い通路の先を、静かに見据え続けた。
カイト:「ここは未だ、比較的安全な地下第二層だ。 そこでさえ、あの狂暴な第四層の上位魔物たちが恐怖に駆られて大量に逆流してきているんだぞ。 ならば、この先の第三層、第四層……そして、あの惨劇の跡地である第五層はどうなっていると思う?」
ライザ:「……それは」
カイト:「下へ降りれば降りるほど、俺たちの知性では処理しきれない、想像を絶する地獄が口を開けて待っている。 今、王国の上層部が俺たちに求めているのは、無謀な英雄的自己犠牲などではない」
カイトは静かに、しかし公爵家の血を引く騎士としての断固たる意志をその白銀の身に宿して言い放った。
カイト:「――この、迷宮の理を根底から大破させている異常事態の正確な一次の話を、一つでも多く無事に地上へ持ち帰ることだ」
誰も、その指揮官の言葉に反論しなかった。 全員が、その静かな判断の持つ軍事的な正しさと、全滅を回避するための合理性を皮膚の感覚で理解していたからだ。
カイトは白銀の腰から通信の魔導具を再び引き抜き、最優先の暗号回線を開いた。
カイト:「――こちら現場のカイト。 ジョーカー監視官、聞こえるか」
ジョーカー:『……チリチリと感度は問題ない、聞こえているぞ』
ノイズの走るスピーカーの向こうから、即座に冷徹な返答が返ってきた。
カイト:「特務捜査隊より、国家の防衛に関わる緊急報告です」
カイトは自らの《千里眼》で見た不条理な事実のすべてを、一つずつ噛み砕き、冷静沈着な報告として伝えた。
地下第二層における、本来あり得ない第四層種の大量出現。 魔物たちの一方向への逃走。 大規模なスタンピードの兆候。 そして、地下第五層へと直通していた、あの遺棄されたはずの旧式の転移陣の存在。
 カイト:「――そして、ここからが最重要の話です」
カイトは一度、喉を鳴らした。
カイト:「……その陣を介して遠く覗(のぞ)き見た結果、地下第五層、階層主の部屋における、この世の理を完膚なきまでに無視した超特大の『大規模な破壊』を確認しました」
通信の向こう側の王都監視局の最奥の特別区画において、最高アナリストであるジョーカーが、背筋に走る戦慄(せんりつ)とともにハッと息を呑(の)む生々しい気配がスピーカー越しに伝わってきた。
カイト:「絶対的守護者たる《大地の番人》の生死は、現場において一切確認できません」
ジョーカー:『……何だと? 我が局の最高の守りを欺いたあの出品は本物だったというのか。 ……一体どこの白銀等級の英雄が、秘密裏にそれを討伐したというのだ?』
カイト:「分かりません。 否定も肯定もいたしません」
カイトは、白銀の兜の奥で苦渋に満ちた声を落として答えた。
カイト:「ですが――人の持つ通常の『討伐』という意味では、この目の前の惨劇に対して天地が引っくり返っても説明がつきませんわ」
ジョーカー:『……理由を聞こう、何がそこまでお前の知性を狂わせている』
カイト:「死骸が、一片も現場に残されていないのです」
一拍の、鉛を流し込んだかのような重苦しい静寂。
カイト:「巨躯を構成していたはずの岩石の破片も、流れるべき血液も、力の源であるはずの魔石の残り香すら、何一つとして確認できませんでした。 あの石造りの大空間そのものが、何らかの異形の力によって『消滅』に近い規模で抉り取られて破壊され、大気には目もくらむほどの異常な濃さの風の力だけが残留して不気味に渦巻いています」
ジョーカー:『……っ』
カイト:「さらに、私たちの唯一の生命線であった、地上への脱出用の陣も、内側から引き裂かれるようにして意図的に完全に大破されています」
長い、果てしなく長い、スピーカーがチリチリと鳴るだけの底なしの沈黙。
勇者カイトは、その通信の向こう側にいる王国の最高頭脳へ向かって、現場を預かる指揮官としての非情なる最終的な判断を冷酷に伝えた。
カイト:「――現時点における我々特務捜査隊の力と知識では、地下の深淵でこの不条理な災いを引き起こした『元凶』を特定、および追跡することは不可能です」
だからこそ。
カイト:「しかし――」
カイトは、白銀の仮面の奥で静かに、痛ましげに目を閉じた。
 もしも。 もしも、だ。
あの、国家の最高の守りを容易く欺(あざむ)き、神話の守護者ごと空間を跡形もなく消し去った恐るべき超越者が、今なお地下第五層の暗黒の深淵に潜んでいるのだとするならば。
その化け物が、何らかの理由で地下から地上へと這(は)い上がってきたら。 王都を守護する堅牢な三重の城壁まで到達してしまったら――。
現在の人類の軍勢と王国の正規騎士団の総力を以てしても、果たしてその進撃を止めることなどできるのだろうか。
分からない。 人の知恵では何一つとして予測すらできないからこそ――現場の指揮官は常に、最悪の道筋を思い描いて動かなければならないのだ。
カイト:「――本件を今この時をもって、王国の『国家最高異常事態』として処理することを、現場最高責任者として進言します」
その、一国を法的に動かしかねない重い言葉に、周囲を警戒していた捜索隊のメンバーたちが、静かに、重々しく生唾(なまつば)を呑(の)み込んだ。
カイト:「ジョーカー局長、今すぐこの地下迷宮を、国家の権限において即時完全に封鎖してください」
カイトは一切の迷いもなく、静かな声で淀みなく続けた。
カイト:「全冒険者の立ち入りおよび階層への進入を、無期限で全面的に禁止。 迷宮の地上出口および周辺の商業地域への、王国正規騎士団による最高警戒網の緊急展開。 さらに――国内最高位に君臨する、あの伝説の宮廷特級魔法使いの方々を、至急この王都へと招集してください」
ジョーカー:『……カイト、お前。 ……王都の中央区画を守護する、あの禁忌の防衛結界の多重駆動を王宮へ進言するつもりかね』
カイト:「はい、その通りです」
カイトは、白銀の仮面の奥から即答した。
 カイト:「現世の常識で構築された一重の守りでは、あの深淵の力に対しては到底足りませんわ」
彼の放ったその悲壮な声には、一ミリの恐怖の震えも、一寸の躊躇(ためら)いも混ざってはいなかった。
カイト:「二重の障壁ですら、あの熱量を前にして防ぎきれずに決壊する見込みが大いにあります。 政府の持てる最高の力をすべて投じ、可能な限り、過去の神話にしか存在しない最高強度の『多重防護結界』を、早急にこの王都の空へと構築してください」
ジョーカー:『……我が局の最高アナリストであるお前が、そこまでの『国家滅亡レベルの軍事の脅威』だと、あの現場の様子から判断するのだな……っ』
カイトは自らの脳裏で、先ほど《千里眼》で見た地下第五層の、あの恐るべき完全な消失の光景を鮮烈に思い出していた。
神の鋏(はさみ)で滑らかに抉(えぐ)り取られた、異形な立方体のような陥没。 影も形も、魔石の破片すら残らず世界から消し去られた大地の番人。 大気をビリビリと引き裂き続ける、異常な濃さの風の残り香。 そして、内側から引き裂かれて完全に大破した退路の緊急の陣。
――そして。 そこに確かに存在していたはずの、俺のこの剣で守るべきだった、三人の健気な命。
その彼女たちの高潔な生きた気配は、この広大な地下迷宮のどこを探しても、ただの一つも実在してはいなかったのだ。
カイト:「……ええ。 現場に残された痕跡を見る限り、俺には、そうとしか最悪の道筋を判断できませんね」
スピーカーの向こう側の暗黒の空間において、ジョーカー特級監視官が、深く、長く、世界中のすべての不条理を噛み砕くかのように重く息を吐き出した。
ジョーカー:『……分かった。 そちらの現場指揮官の見立てを、国家の頭脳として受け入れよう』
チリチリと鳴る通信機の向こうの、男の声の質が、その瞬間を境に劇的に変化した。 それまでの、王都の闇に隠れて情報を探る影の最高監視官としての声などでは断じてない。 国家の非常時における全軍事防衛を司る、王国正規軍の最高総司令官としての、冷酷無比な氷の声であった。
ジョーカー:『――カイト特務捜査隊長。 お前たちは、今この時をもって直ちにその危険な場所から反転し、地上へと完全に撤退しろ』
カイト:「了解。 これより帰還へと移行する」
ジョーカー:『地下第五層における、あの第一級特務捜査遭難救助任務は――王宮の最高安全保障の観点に基づき、今この時をもって公式に強制中止とする』
カイトは、白銀の重装鎧を微かに鳴らしながら、ゆっくりと哀しげにその目を閉じた。
 守るべきだったはずの、うら若き三人の女性魔導士を、何一つとしてできぬままこの奈落の底に見捨てて帰る。 その冷酷すぎる現実を突きつけられ、一人の指揮官としてそれを敗北と認めることが――これほどまでに、己の誇り高き英雄としての魂を血が滲むほどに削り取るものだとは、これまでの人生で思いもしなかった。
だが――。
ここで個人の熱い感傷に流されて深層へと突入し、特務捜査隊そのものが無様に全滅してしまえば、これから王都の城壁へと迫り来るであろうあの未知の脅威の情報を、地上にいるお国の大人たちへ伝える者すら失われるのだ。
カイト:「……完全に了解いたしました。 ジョーカー局長、これより全軍反転します」
カイトは、自らの血を吐くような悔恨を押し殺し、チリチリと青い火花を散らす通信具の結晶を、冷徹に切った。
しばらくの間、地下第二層の暗闇のなかで、誰も次の一歩を踏み出そうとはしなかった。
やがて――西の勇者カイトが、自らの白銀の重装鎧を激しくカチャリと鳴らし、決然と立ち上がる。
カイト:「――全軍、今この時をもって、地上へと完全に撤退する」
ガルドが無言のまま、巨竜の鱗を錬成した大盾をその強固な背中へと背負い直す。 斥候のライザが、悔恨に血の滲(にじ)むその薄い唇を強く噛み締めながら、双短剣(ダガー)の切っ先を向けて背後の闇を鋭く警戒する。 魔導士のオリバーが、理の崩壊に震える手で、魔導杖をきつく握り直した。
そして、後方の《慈愛の聖女》ソフィアは、その白き聖衣の胸の前で強く、壊れそうなほどに両手を組み締め、光を一切拒絶する暗黒の地下の深淵へ向かって、静かに、厳かに最後の聖なる祈りを捧げたのだ。
 ソフィア:「どうか……古の主の御名(みな)において……っ」
その美しい声は、名門の誇りを濡らす絶望の涙に遮られ、か細く、微かに震えていた。
ソフィア:「――どうか、神の絶対なる御加護が、あの奈落に取り残された哀れな三人の女性魔導士の皆さまに、せめて奇跡としてありますように……っ」
隊長のカイトも、最後に一度だけ、自らの軍靴の踵(かかと)を鳴らし、入り組んだダンジョンの奥深く――あの風の残り香が吹き荒れる深淵の方向を振り返った。
暗闇。 何も見えない。 何も聞こえない。
それでも――その理を完全に蹂躙(じゅうりん)した漆黒の先の奈落には。 自分たちの人の知恵をも遥かに超え去った、あの神話の脅威が、確かに暗黒の口を開けて冷酷に笑っている――。 歴戦の勇者として、そんな悍(おぞ)ましいまでの不吉な野生の勘が、彼の全神経をシクシクと痛めつけて離さなかった。
カイト:「……俺が、地上の結界を築いたのち、必ずその元凶を突き止める」
それは――何一つとして救うことのできなかった尊い命への、若き英雄の、血を吐くような悲壮な誓いであった。
特務隠密捜索隊の五人と一匹は、今しがた血を流して切り開いたばかりの湿った迷宮の道を、静かに引き返し始めた。
もはや、誰一人の口からも、言葉が発せられることはなかった。 ただ、彼らの背負う重苦しい軍靴の足音だけが、生き物の気配が絶えて静まり返った地下迷宮の石壁に空虚に反響し、虚(むな)しく響き渡っていく。
やがて――彼らの白銀と漆黒の姿は、第二層の底なしの暗闇のなかへと完全に溶けて消え去った。
 その栄光ある彼らの背中には――自らの盾を以てしても、宮廷の最高魔導を以てしても、あの脅威の前にはどうすることもできなかったという、ひどく苦く、重い無力感と絶望だけが、呪いのように強固に張り付き続けていた。
――そして、まさにこれと同時に。
彼らが命と誇りを賭けて地上へと持ち帰った、この常識を根底からひっくり返す最悪の報告により――。
王都、ひいては王国全土のすべての経済活動を緊急停止させる、歴史上未曾有の『国家最高異常事態宣言』が、王宮の鐘の音とともに、全軍へ向けて大々的に発令されることになるのである。
知らぬは、世界の危機として結界が何重にも張られていくなかで、タダ飯のお肉の余韻に浸ってお腹をほこほこさせている、あの全裸魔女(元凶)ばかりなり。
その頃、国家の中枢が 「原因不明のおパンツ大天災」 によって未曾有のパニックに陥り、防魔結界の構築を慌ただしく急いでいた、まさに同じ同時刻。
王立魔法大学・第三研究棟、エルライト教授の地下隠密研究室の、その最奥。 そこは魔法大学の厳格な学則(システム)においても、ほんの一握りの特級栄誉教授しか立ち入ることすら許されない、超VIP専用秘密居室であった。
そして、その豪奢な部屋の、さらに最深部の境界線を越えた奥底に――。
 かつて過去の不透明な国家予算が、天文学的なマージンとともに非合法に横領されて極秘構築された、豪華絢爛(けんらん)極まりない特製浴場が隠されるように併設されていた。
滑らかな壁面には、淡く上品な翡翠(ひすい)の光を灯す、最上級の防湿魔導石。
総大理石の床には、一滴の湿気すら残さず完璧な排水を執行する、高度な特殊防水魔法陣。
広々とした総大理石の贅沢な浴槽には、常にうら若き乙女の柔肌に最適な湯加減(極上の温度)を永久にキープし続ける、最新の魔導式自動温度管理装置。
さらに不条理なことに、大浴槽のすぐ隣には、王都の美しい夜空をリアルタイムで疑似投影(ホログラム)する、小さな露天風呂仕様の浴槽まで標準設置されている。 心地よいバラのアロマ蒸気を滑らかに逃がすための、高度な魔導換気空調。
お湯に浸(つか)かるだけで、細胞レベルで日々の疲労を急速回復させる微弱な治癒(ヒーリング)魔法。
肩こりや精神的筋肉疲労を優しく緩和する、最新鋭の水流魔力マッサージ循環システム。
そして――。
 どういうわけか、熱した特殊なサウナストーンに高級なアロマ水をかけることで、完璧な 「ととのい」 を提供する、本格的な本場仕様のフィンランド式アロマサウナ設備までが、完璧な機能美で完備されていたのだ。
本来の設計の意図であるならば。
現世を生きる生き神話たるエルライト教授一人が、複雑怪奇な多次元数式の演算から離れ、王都の暗部から隠れて静かに心身の疲れを癒やすための、不可侵で神聖なプライベート空間であるはずの聖域。
しかし――。
ルイズ:「はぁ~~~~~~~~……っ、現世の不条理が、五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡りますわぁ……」
その、公費横領の粋を集めた大浴槽のど真ん中(中央座標)で。
首席魔女・ルイズが、魂の底からすべての銭ゲバ警戒パラメータを解除して脱力し、完全にくつろいで極楽の湯を浮き輪のように満喫していた。
ルイズ:「……やはり、お国にタダで任意同行(お弁当ハック)された後の、他人の予算で入る超VIP温泉は、期待値計算から見ても最高としか言いようがありませんね」
その私のすぐ隣では、シャルロットが、お揃いの湯気に上気した白磁の肩まで優しく琥珀(こはく)色の極上湯に浸かり、優雅に白磁の足を伸ばしている。
シャルロット:「……悔しいですけれど、ヴァーミリオン公爵家の本邸のお風呂と比較しても、言葉もないほどに素晴らしい設備とヒーリング効果ですわね、ここは」
さらに、その浴槽の、最も温度の高いアロマ噴出口の奥底。
 マリアンヌ:「……もう、完全に極楽ですわぁ、お肌がツルツルになりますわ」
ジュリエット:「本当にね。 こんな王宮の王族レベルの魔導設備、私たちの薄暗い極貧の学生寮には、脳内の計算式をどう書き換えて逆立ちしたって、一ミクロンも実在しませんものね」
昨日、奈落の底でルイズの 「お友達共有リンク口座(パンツ自動引き落とし)」 に強制登録され、すっかり社会的尊厳を割り勘した親友として定着した、取り巻きのマリアンヌとジュリエット。
そして――。
カメ吉:「キュィ~~~~~~~……(ここは、多次元の天国に実在する極楽温泉やで……)」
大浴槽の片隅の気流(コーナー)では、ニート魔獣のカメ吉が、自らの頑強な甲羅の重さを忘れたかのように、極上の湯の浮力と完全に一体化していた。
白い高級アロマの湯煙の向こう側。 小さな緑の亀の五体(身体)が、王宮御用達のハーブの香りに優しく包まれながら、だらしなく手足を伸ばしてぷかぷかと湯面に浮いている。
かつて迷宮の深層で猛威を振るったであろう野生の尊厳など一ミクロンもそこには残されておらず、ただの一人の 「働きたくないヒモ」 として、この世の全ての快楽を貪(むさぼ)りつくしてくつろぎ切っていた。
さらに――そのお色気あふれる浴場の隅、洗練された大理石の洗い場(シャワーブース)の方向からは。
トト:「――じゅううぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
という、あまりにもこの神聖な超VIP居室には場違いで世俗的な、スルメが香ばしく焼け焦げる不条理な匂いが漂い始めていた。
ルイズ:「……トト」
私は、琥珀色の湯船にだらしなく顎まで浸かり、目を閉じたままその不快な環境エラー(異臭)の元凶を呼んだ。
 トト:「なんや、ルイズはん。 自分も風呂上がりの一本が欲しくなったんか?」
ルイズ:「いいえ。 ……ここは国家予算が横領されて構築された、国家の至宝たる神聖な最高級浴場ですよ?」
トト:「ログとしてはとっくに知っとるわ、エルライトの公費横領の結晶(アジト)やからな」
ルイズ:「でしたら質問ですが、何故あなたは、あの王宮直属の『最新鋭魔力循環加熱装置(ヒーティングシステム)』の超特級熱源を裏からハッキングして、ただの干からびたイカ(スルメ)を美味しそうに炙(あぶ)っているのですか?」
トト:「決まっとるやろ。 公費で温められた風呂上がりの熱々スルメがな、資産管理的に世界で一番コスパ良く美味いからや」
ルイズ:「――なるほど、経済的パラメータの観点から見ても極めて論理的(合理的)ですね」
トト:「せやろ! 天才の自分なら、このイカの付加価値の高さが数式で分かると思ったわ!」
使い魔のトトが、短い前肢を器用に駆動させ、特級魔導熱源の上でじわりと反り返ったスルメの繊維をひっくり返す。
じゅう、と小さな焦げ付く音が静謐な浴場に響き渡り、香ばしくも強烈なイカの世俗的な臭気(におい)が、エルライト教授が愛用していた高級ハーブアロマの気高き香りを完膚なきまでに駆逐して、浴場全体のインベントリいっぱいに大爆発して広がっていった。
湯面でぷかぷか浮いていたカメ吉が、その野生のドケチ嗅覚のレーダー(鼻先)をぴくりと駆動させた。
カメ吉:「キュィ……(トトの兄貴、ワイもお腹のカロリーパラメータが空き巣状態で空腹やで……)」
トト:「お前のような、お湯に浮いとるだけのただの寄生虫(新入り)も、お国のスルメの分配にあずかるっちゅうんか?」
カメ吉:「キュィィッ!(当然の権利要求やろ! 今回はエルライトの公費(タダ飯)の配当なんやからな、システム的に!)」
トト:「働いとらん居候のくせに、その食欲の燃費パラメータだけは常に一級冒険者の一人前やな、自分」
トトは呆れ果てたジト目を向けながらも、焼き上がった熱々の特製スルメの端っこを少しだけ引きちぎり、大浴槽へと向かって放り投げた。
カメ吉は湯面をペタペタと駆動させ、器用に緑の首をビクンと限界まで伸ばして、空中でその配当(スルメ)をパクッと見事にダイレクトキャッチしてみせた。
カメ吉:「キュィ……(……トトの兄貴、ワイへの配当分の質量、お肉のお弁当と比較してちょっと露骨に小さくないか?)」
トト:「四の五の言わずに黙って胃袋に投入しろ。 公費の味は五臓六腑に美味いやろ」
カメ吉:「キュィィィッ!(美味いわ! システム承認や、もう一枚おかわり(増資)の請求やでーーーっ!!)」
そんな――どこからどう言い訳しても一見して平和であり、極限まで怠惰に堕落しきった湯船の光景を静かに眺めながら。
首席魔女・ルイズは、琥珀(こはく)色の極上湯の中で優雅にその白磁の腕を組んだ。
ルイズ:「それにしても、シャルロットさん。 昨日、王国国家保安局の地下施設でご馳走になったあの特注のお肉のお弁当は、資産管理の観点から見ても実に美味しかったですね」
シャルロットが、お揃いの湯気に上気した顔に苦笑いを浮かべながら、深く首を縦に振った。
 シャルロット:「ええ。 血も涙もない、王国の冷酷な暗部の食堂が配給しているとは到底思えないほど、きちんと丁寧に仕立てられた極上のステーキ肉でしたわ」
ルイズ:「しかも素晴らしいことに、私たちの支払った対価は一クローネもなし、完全なる無料(タダ)で三人前です」
シャルロット:「……ええ、確かにそうでしたわね」
シャルロットは、その美しい琥珀色の瞳をそっと斜め下の湯面へと逸(そ)らし、少しだけ人生の深淵を覗(のぞ)いたような遠い目をした。
――昨日。
国家保安局の本部において繰り広げられた、あの国家転覆レベルの恐るべき隔離尋問。
地下の最高シールドルーム(測定室)を完全に密室にして執行された、風の第十位階魔法と時空魔法による、現世の物理法則を破壊した狂気の術式実証証明。
そして――。
特務捜査官エレナをはじめとする三人の女性エリート局員たちが、ルイズの大魔法を起動させるための『等価交換のコスト(燃料)』として無慈悲に一括強制引き落とし(パージ)された、高級制服と下着、そして乙女としての絶対的な社会的尊厳。
それはどこをどう切り取っても、王国の軍事バランスを容易く揺るがしかねないほどの、歴史的な超特級国家機密(世界のバグ)の開示であったはずなのだ。
――だが。
 そのお国の大騒ぎから一夜が明けた今となっては。
王立魔法大学の今季筆記首席たるルイズの天才的な脳内インベントリにおいて、最も高解像度で鮮明に記録されている確定データというのは――ただ『タダで食べたお肉の品質が極めて美味しかった』という、俗物的な物理事実だけであった。
ルイズ:「何重のセキュリティをハッキングして逆探知されようとも、結果的に無料(タダ)でした」
シャルロット:「……ルイズさん、あなたにとっては、あの国家の有事のタイムラインの中でそこが一番重要かつ最優先のパラメータなんですのね」
シャルロットが、名門令嬢として心底呆(あき)れ果てたため息を湯気の中へと優しくついた。
ルイズ:「いいですか、無料で、最高級のブランド肉が贅沢に三人前ですよ、シャルロットさん」
私のその眼差しは、最先端の魔導数式を証明している時よりも、数倍は真剣そのもののパラメータであった。
ルイズ:「現在の私たちの極貧極まりないエンゲル係数のグラフから逆算して弾き出せば、非常に費用対効果(コスパ)が高い、極めて優秀で利益率の良い多次元イベント(お買い物)でしたわ」
シャルロット:「……うぐっ、社会的尊厳の全損リスクを完全に無視すれば、会計学的な結果論だけ見れば、あなたのその正論を否定することは名門の誇りにかけてもできませんわね……っ」
シャルロット自身、湯船に浸かりながら昨日の出来事の異様さを改めて脳内で反芻(はんすう)してみる。
王国国家保安局という、王都市民から死神と畏怖される巨大な権力機構。
その国家の心臓部の中枢において、特別取調局長を含め、そこに居並ぶお国の偉い大人たちの誰もが、真剣に、血の気が引ききった真っ青な顔でルイズの放つ多次元魔法(と、何の前触れもなくパンツが強制引き落としされる全裸化の恐怖)にガタガタと戦慄(せんりつ)していたのだ。
だが――そのすべての不条理を引き起こした当の本人(元凶)は。
 社会的死を遂げてシーツに包まりながら涙目で泣き崩れる優秀な女性捜査官たちのすぐ真横で、ただ一点の曇りもない無邪気な笑顔のまま、タダでせしめた特注のステーキ肉をペロリと三杯平らげていたのだ。
そして――今日もまた。
他人の保有する最高級の超VIP専用風呂へと我が物顔で当然のように浸かりながら、次なる実験(指輪改造によるパンツの一発削除回避理論の検証と確立によるドケチ金儲け)の効率化について、湯船の中で大真面目に次の数式を考えているのである。
ルイズ:「――それで、ですわ」
私は、琥珀色の極上湯に濡れた白磁の髪を滑らかにかき上げ、正面のシャルロットをポーカーフェイスで見つめた。
ルイズ:「私たちの次なる地下迷宮(ダンジョン)への再攻略作戦(お布施回収)ですが」
シャルロット:「ええ、何かしら」
ルイズ:「いつ、どのようなタイムラインで行きますか?」
シャルロットは濡れた白磁の指先を顎に当て、少しだけ公爵令嬢らしく美しく微笑んで脳内細胞を考え込ませた。
シャルロット:「明日の朝一番、学廷の門扉が開くのと同時刻の出発ではいかがかしら?」
ルイズ:「――システム承認。 何一つとして問題ありませんわ」
一コンマ秒の、光の速度の如き即答であった。
大浴槽の奥底でアロマの湯気に包まれていた、マリアンヌとジュリエットの二人も、お揃いの湯上がりの顔を見合わせて無邪気に笑みを交わす。
マリアンヌ:「わたくしたちも、明日のリベンジ戦に向けて、今日のうちに完璧に戦術準備(お着替え)をしておきますわ」
ジュリエット:「ええ、ルイズさんの共有リンク(自動引き落とし)用の、予備の『弾薬(お下着)』のストック素材を、クローゼットから種類別にきちんとインベントリ整理しておきますね!」
私は、そのお嬢様たちの実に頼もしくも破廉恥な戦闘順応度に対し、資産管理者として深く、満足げに頷(うなず)いてみせた。
 ルイズ:「素晴らしいパラメータです。 では、予定通り作戦行動は明日と確定(ホールド)します」
これで、明朝のスケジュールが完璧に確定した。
次なるダンジョンの未知の階層。 次なる多次元魔導理論の、実戦を交えた実証実験。
異なる素材やデザインを組み合わせた、最新の 「触媒変換衣装ローテーション理論」 の数式検証。 そして、迷宮の底に眠る新たな特級ドロップ素材の力技での獲得。
――そして何よりも、私のプライベート研究室を王都の一等地に建設するために必要不可欠な、次なる『莫大なる研究資金(キャッシュ)』の強引な調達。
私の天才的な脳内ハードディスクの中では、すでに明日の迷宮でむしり取るべき、完璧な黒字収支計画のシミュレーションが超高速で組み上がり始めていた。
――まさに、そのときであった。
特殊な防音加工が幾重にも施された浴場の、あの重厚な大理石の扉の向こう側から、世界の終焉(しゅうえん)を前にしたかのような、地の底の深淵から響く不穏なため息の音波が聞こえてきたのだ。
エルライト:「……はぁ、また、今日も私の聖域(プライベート)が……我が物顔で占拠されているのか……」
この地下隠密研究室、および超VIP専用風呂の本来の正当な所有者である、あのエルライト教授であった。
 生きる神話と謳(うた)われる老魔導士は、脱衣所の鏡の前で力なく両肩を落とし、胃袋を押さえながら幽鬼の如き哀愁の佇まいで立ち尽くしていた。
自らの心と身体の疲れを静かに癒やすために、公費を横領してまで最高スペックで極秘構築した、はずの心安らぐ超VIP大浴場。
――しかし、そこには現在。
エルライト教授の退職金を遥かに越える多次元の熱量(ノイズ)として。
自らの教え子であるはずの、お揃いのぶかぶかTシャツ姿でノーパンの女子学生が四名。
魔力循環装置の上でスルメを美味しそうに炙(あぶ)っている、喋る大福餅の使い魔が一体。
そして――何故かアロマの極上湯の浮力と一体化して、ぷかぷかとクソニート(ヒモ)の如く温泉を満喫している、見覚えのない緑の亀が一匹――。
エルライト:「一体全体どうして、私の神聖なる最高級プライベート風呂が、世俗の公衆タダ湯(健康ランド)みたいに不条理に大破占拠されているんだ……」
エルライト教授は、すでに限界パラメータ(エラー)を迎えている自らの胃袋を細い指先で強く押さえながら、痛ましげに白髪の額(ひたい)に手を当てて天を仰いだ。
 ――しかし。
絶望に震える老魔導士の漆黒の視線が、ふと、自分の散らかった執務机の上に無造作に置かれていた、数枚の羊皮紙の暗号書類(レポート)へと滑らかに移る。
それは他ならぬルイズが、昨日、お肉のお弁当を三杯完食した後に満足げに提出していった、地下施設での最新の術式実証実験に関する『資産報告書』であった。
多次元時空等価魔法における、魔力のエネルギー変換効率に関する、一ミクロンの綻びもない緻密な数理理論式。
同じ系統の触媒(下着)を連続使用した際に発生する、あの呪わしき『クールタイム』の出力減衰ペナルティに関する、冷徹なまでの実測グラフデータ。
そして――あの国家保安局をパニックに陥れた、風の第十位階大魔法と多次元時空魔法のコンマ一秒の誤差もない同時干渉(相殺パージ)に関する、もはや神の領域を弄ぶ悪魔的なまでのデバック検証結果。
そのどれもが、どこをどうサンプリングしても。
現代の王国の魔導の常識を、最低でも百年は強制的に進めてしまうような、一人の魔導士としての常軌を逸した圧倒的に高度な論文(遺物)であったのだ。
 教授は無言のまま、その美しい数式の並ぶ暗号書類を、老練な指先で静かに一枚めくる。
エルライト:「……」
さらに一枚。
そして、もう一枚。
そのあまりに無駄のない、幾何学の結晶の如き美しすぎる関数の方程式を前に、生き神話と謳(うた)われる老魔導士の目が、一人の純粋な研究者として自然と細められていく。
エルライト:「……本当に、このドケチな天才の脳内ハードディスクが生み出すデータだけは……学術的に、天地が引っくり返っても馬鹿にできないんだよな……」
その、お役所の大人たちが頭を抱えるような真面目な机のすぐ真横(浴場)から、再び尋常ならざる賑やかな、お色気とイカの混ざった音波の声が、防音扉の隙間をすり抜けて響き渡ってきた。
ルイズ:「ちょっとカメ吉さん、そこは最新鋭魔力装置から熱湯がダイレクトに流れ込む時空の湯口(ソースコード)ですから、変温動物の亀の皮膚には著しく熱すぎますよ」
カメ吉:「キュィィッ!?(あつっ……ホンマや! あかん、危うくニートのまま、エルライトの公費で『特製・亀の甲羅の出汁(スープ)』が原子レベルで精錬されるとこやったわ!)」
トト:「おい、新入り。 お湯のパラメータがバグっとるからこっち来い、こっちの魔力マッサージブースなら、ちょうどええ燃費の快適な温度やで」
カメ吉:「キュィ……(助かったわ、トトの兄貴……。 やっぱこの全裸魔女の共有リンクに寄生したワイの判断は、資産管理的に大正解やったわぁ、極楽極楽……)」
エルライト:「……」
エルライト教授は、それ以上のツッコミの処理を脳内ハードディスクからパージするように、静かに白眉の目を閉じた。
提出される魔導の研究成果(データ)は、世界の歴史のタイムラインを一瞬で塗り替えてしまうほどに、百パーセント正真正銘の本物。
しかし――その輝かしい栄光と引き換えに。
 毎日のように最高級のプライベート専用風呂は不法に占拠され、神聖な研究室のインベントリはトトのスルメのせいで世俗的にイカ臭くなり、私の常備している高級胃薬の在庫(パラメータ)はマッハの逆流速度で消費されていくのだ。
エルライト:(……まぁ、明日の私の実験の際には、最も過酷な被検体(モルモット)として、一クローネの文句も言わずに最大出力で協力してくれるしな。 ……何より、長年孤独だったこの冷たい地下研究室の空間が、少しだけ賑やかなデータ(笑い声)に満たされるようになったと思えば――これもまた、許容範囲内の環境誤差(バグ)か)
自分でも、その少女たちに対する評価のパラメータが著しく甘いと内心で苦笑しながら、エルライト教授は小さく、愛おしそうに優しいため息を吐き出したのだった。
そんな、愛おしさと胃痛の混ざり合った視線を湯船へ向けていたエルライト教授の漆黒の瞳が、ふと、執務机の端に無造作に置かれていた今朝の王都公式朝刊(新聞)の束へと移った。
何気なくカサリと手を伸ばして手に取る。
慢性的な寝不足の目を擦(こす)りながら、ルーティン作業のようにページをめくる。
――そして。
エルライト:「……ん? これは、座標のアラートか……?」
政治や経済の世俗的なニュースを通り過ぎ、学界の最新動向を専門に報じる、中面の見開きの『魔法学術特轄欄』。
その記事の片隅において――老魔導士の目が、世界の崩壊を悟ったかのようにピタリと凝固して完全静止した。
 そこには、王立魔法大学の上層部すらも目を疑うような、不穏極まりない巨大な明朝体の見出しが堂々と掲載されていたのだ。
――――。
『 現代魔導の異端の若き天才『To・ツー』先生、次世代多次元魔導共同研究の最高外部顧問助手として、謎の有識者・加芽記智(かめ・きち)先生を学廷へ電撃招聘(しょうへい) 』
エルライト教授の、これまでの人生の数式を刻んできた白眉が、ピクリと跳ね上がった。
エルライト:「……加芽、記智(かめ・きち)、だと……? そんな名の特級魔導士のログ、中央ギルドのマスターデータにも実在しないぞ……」
不審に思った教授が、インクの滲(にじ)んだその不鮮明な白黒の紹介写真のドットへと、眼鏡の度数を合わせるように目を近づける。
そこには――光の陰影のイタズラなどではなく、どこからどう拡大して各種構造解析(スキャン)を施しても、ただの『小さな野生の緑の亀』の無防備なビジュアルが傲然(ごうぜん)と掲載されているだけであった。
エルライト:「…………」
老魔導士は、一切の衣擦れの音すら立てず、ゆっくりと、ロボットの動作のように大浴場の磨りガラスの木扉の方へとその首を回した。
そこでは――。
カメ吉:「キュィ~~~~~~~……(アロマの出汁が出る一歩手前の、このぬるま湯のパラメータが一番の資産やでぇ……)」
あの身元不明のクソニート魔獣(カメ吉)が、だらしなく四肢を伸ばして極上の湯面にぷかぷかとアホ面で浮いていた。
 エルライト:「…………」
エルライト教授は、数コンマ秒の間、宇宙の因果律の全損を疑うようなフリーズののち、無言で新聞のインクの文字へと視線を戻した。
大至急、その不穏すぎる記事の本文のソースコード(テキスト)を貪(むさぼ)るように読み解いていく。
そこには――。
『 既存の物理法則の規律(システム)を完全に凌駕する、次世代多次元魔術応用理論の共同研究を正式開始 』
『 空間と物理的距離のパラメータを完全に超越した、未知の魔力強制同期リンク理論(※なお実態はただの女子学生おパンツ遠隔自動引き落としパージ)の実践環境における完全な稼働成功を実証 』
という、お国の頭脳すらも震撼(しんかん)させるであろう、恐るべき時空魔導の真実の文字列が、冷酷に並べ立てられていたのだ。
エルライト:「――空間と距離の壁を完全に超越した、多次元魔力強制リンク理論、だと……っ!?」
エルライト教授の、それまで貧困私生活に戸惑っていた胃弱のおじさんとしての世俗の顔が、その瞬間、一瞬にして世界から消失した。
あとに残されたのは――世界の真理の最深部をただ四六時中追究し続ける、王国内に生きる最高峰の特級魔導士としての、静かで猛禽(もうきん)の如き一人の科学者の顔。
エルライト:「これは……、まさか、ルイズのあのドケチハッキングの数式は……っ!」
朝刊の紙面を握り締める彼の老練な指先に、ギリリと強い、羊皮紙が破れんばかりの強固な魔力の力が込められる。
エルライト:「――ついに、多次元間における魔力エネルギーの双方向共有アクセス(パス)を、学廷のサーバーを介さずに完全確立したというのか……! これが公式論文として実証されれば……王国の、いや、この現世の全魔法学術界のマスターデータに、歴史上類を見ない超弩級(ちょうどきゅう)の激震が走るぞ……ッ!!」
その、エルライト教授の一人の魔導士としての崇高な学術的感動と戦慄(せんりつ)を置き去りにしたかのように。
 洗練された磨りガラスの扉の向こうの浴場(ラボ)から――。
カメ吉:「キュィ~~~~~……(あー、公費で入るアロマの温水は、ワイの寄生マイホームとして最高の資産やわぁ……)」
という、この世の全ての生存競争を放棄した、気の抜けた極上のニートの鳴き声(音波)が再び聞こえてきたのだ。
エルライト教授はもう一度、その不条理な現実(ログ)から、扉の向こう側で繰り広げられているであろうカメ吉のふやけたビジュアルを想像してみた。
あの身元不明の小さな野生の緑の亀が、乙女たちの柔肌のすぐ真横で、だらしないポーカーフェイスの顔をして極上の温泉にぷかぷかとアホ面で浮かんでいる、最悪な絵面を。
教授は、ゆっくりと、己の胃薬の残高を考慮するように新聞の紙面をパタンと力なく閉じた。
エルライト:「……まさかな、あり得ん。 私の慢性的な脳内疲労が臨界点(ピーク)に達して、ついにただの亀を特級魔導士と誤認する、哀れな視覚的幻覚(バグ)を見ているだけだろう」
少し……、いや、常識の枠組みが崩壊するほどに、おじさんは疲れていたのだ。
エルライト:「……まぁ、いい。 深く考えるのはやめよう」
何がどう 「いい」 のか、すでに自らの魔導演算回路(ロジック)が大破している彼自身にもよく分かっていなかった。
ただ――この自分の地下隠密研究室を起点として、王都、ひいては王国全土を巻き込む、とんでもなく破廉恥で凶悪な『絶対的災厄(バグ)』がすでに始まっている。
 そんな、静かで恐ろしい破滅への生存予感(フラグ)だけが、生き神話たる老魔導士の薄い背筋を、冷たくゾクゾクと駆け抜けていたのだった。
――そして、その彼が本気で世界の終わりを危惧していた、当の浴場の中では。
ルイズ:「――それでは、明日の地下迷宮への再突入においては、どの素材やデザインのパンツが、私の時空演算において最も『着火・爆発効率が良いコスト(弾薬)』か、お嬢様たちを触媒にして実戦で色々試しましょうか」
首席魔女・ルイズが、自らのハッキング出品によって引き起こされている世界情勢(カイトたちの国家最高異常事態宣言)など一切気にする様子もなく、何事もなかったかのように、平和に、湯船の中でぶかぶかTシャツの裾を揺らして呟(つぶや)いていた。
世界(勇者カイトたち)が、あの地下第五層に遺されたルイズのパンツ大天災の神話級の惨劇(バグ)に絶望し、王都防衛の多重防護結界を前にしてガタガタと震え上がっている、まさにその不条理な裏側で。
すべての元凶たる彼女たちの、次なるお財布事情のための、のんきで破廉恥極まりない『お下着実験計画(ピクニック)』が、湯煙のなかで今、平和に幕を開けようとしていたのである。
エルライト教授の地下隠密研究室、その一角に無駄にラグジュアリーに設けられた来客用の特製休憩スペース。
超VIP専用風呂で身も心も(一クローネの私費も投じることなくタダで)完璧にリフレッシュしたルイズたちは、高級ホテルに置かれているようなふかふかの特注ソファへと、深くその華奢(きゃしゃ)な身体を預けていた。
私はお揃いの大きめの男物Tシャツを纏(まと)ったノーガードな姿のまま、湯上がりに濡れた銀糸の髪を、教授のクローゼットから調達した清潔なタオルで無造作に拭きながら、先ほどの大浴場での数式(会話)を脳内で高速再演算していた。
 ルイズ:「……さて、シャルロットさん。 明日の地下迷宮への再攻略作戦ですが、どのような属性と着火アプローチから等価交換の効率化を検証しましょうか」
トト:「検証や魔法の実証実験の前に、まずは明日のもやし生活を回避するための、日々の確実な生活費(キャッシュ)稼ぎが最優先やろ」
トトが、どこからくすねてきたのか、執務机の上でまだ少し温かい湯気を立てていた特製スルメ(干しイカ)を小さな前肢で齧(かじ)りながら、至極真っ当なツッコミを上書きしてくる。
カメ吉:「キュィ……(ワイも、裏庭で野生のミミズを掘り起こして食べる極貧ニートご飯だけは、生存権利の観点から見ても絶対に勘弁やで、ホンマに!)」
床の上のカメ吉も、自らの明日の快適な寄生生活(生存権)を賭けて、必死につぶらな瞳を潤ませて鳴いた。
ルイズ:「フフ、ご心配なく。 実は先ほど、エルライト教授の最高級アロマ風呂に浸かりながら、中指の変調指輪のハッキングシステムに、もう一つ試したい素晴らしい『実戦応用理論』を脳内でデバッグ構築したんですよね」
トト:「……自分、まだあの一国を揺るがす悪魔の指輪のシステムの中に、不穏な隠しコマンド(バックドア)を仕込んどったんか」
ルイズ:「ええ、極めて合理的なアップデートですよ。 指輪の演算コアの周波数を微調整(チューニング)することで、等価交換における『出力の小分け調整』をシステム的に可能にしました。 これまでの仕様のように触媒(お嬢様たちの衣服)を一瞬で全損パージさせるのではなく、威力を三分の一に抑える代わりに、お下着のパージコストを『三回に分割して段階的に引き落とす(リボ払い)』という、極めてお財布に優しい画期的な戦闘衣装ローテーション実験ですわ」
トト:「――システムの内訳が、ただの金利のない最悪な消費者金融(リボ払い)の闇金ハッキングに退化しとるやんけ、自分!! ホンマに詐欺師と銭ゲバとしてのマッドな才能だけは現世の最高峰を独走しとるな、不条理やわぁ!」
カメ吉:「キュィィ……(これ、ワイらの甲羅の質量が、お国の上層部にバレる前に三枚におろされて解剖されるタイプの不吉な危険信号が完全に点灯したで……)」
ルイズ:「……」
私は、タオルを動かす手を止め、胡乱(うろん)極まりない目で足元の緑の亀(カメ吉)の横顔を睨(にら)み据えた。
ルイズ:「カメ吉さん。 今、私の構築した美しい収支計画の数式に対して、何か著しく非生産的かつ非国民的なエラー(悪口)を脳内で考えましたか?」
カメ吉:「キュィ?(……な、なんでこいつ、ワイの野生の心の声を一パーセントの狂いもなく完全同期(ハッキング)して読み取れるんや、こわいわぁ!)」
カメ吉は冷や汗を流しながらも、何食わぬ顔で、愛らしく緑の短い首をかしげて可愛いマスコットのポーズ(ブラフ)を演じてみせた。
ルイズ:「……まぁ、いいです。 あなたの脳内リソースの少なさに割く演算リソースは一クローネ分もありませんからね」
私はすぐに、その経済的価値のないヒモ亀に対する興味を失って視線を外した。
――まさに、そのときであった。
休憩スペースの隅の棚に置かれていた、王都のギルド本部からの公式電波(魔力)をリアルタイムで映し出す、魔導式映像投影装置(モニター)の画面が、不意に激しいバチバチとした青いノイズを走らせて明滅を開始したのだ。
――ピィィィィィィィィンッ!!!!
閉鎖された研究室の中に、人間の心臓の防衛ラインを鋭く抉るような、危機を知らせる特級警告の警報音(エラーアラート)が最大音量で鳴り響く。
 それまで画面に映し出されていた、夕暮れ時の平和で和やかな王都の露店街を報じる夕景番組のログが、国家のシステムによって強制的に完全遮断(パージ)されて画面が暗転。 直後、網膜を激しく焼き切らんばかりの、血の海のような真紅の魔導光の文字列が、画面いっぱいにデカデカと点滅して強制表示された。
『 ――緊急臨時速報パラメータ;第一級・王国国家最高異常事態宣言、公式発令 ―― 』
ルイズ:「……?」
私の、タオルで銀糸の髪を優しく拭いていた細い両手の駆動が、システム的にピタリと完全静止した。
すぐ隣のシャルロットも、そのお揃いの大きめの男物Tシャツの裾を抑え、怪訝(けげん)そうに琥珀色の瞳をその不吉な赤い画面へと振り返る。
使い魔のトトは、食べかけの温かい干しイカを Mott 口にくわえたまま、丸い大福餅のつぶらな目をこれ以上ないほど丸くしてモニターを見つめた。
そして――少し離れた漆黒の執務机の上で、先ほどの 「加芽記智先生(ただのニート亀)」 の紹介が載った新聞記事を読んで、一人の研究者として大真面目に歴史的大偉業だとガタガタと戦慄(せんりつ)していたエルライト教授までもが、その国家防衛のアラート音に弾かれたように顔を跳ね上げたのだった。
『――王都の市民の皆様、ただいまギルド本部より入った臨時速報です』
魔導式モニターに映し出された女性キャスターの顔は、プロのアナウンサーとしての矜持(きょうじ)を辛うじて保ちながらも、その肌の奥にある隠しきれない蒼白な恐怖によって、激しく引きつっていた。
『本日夕刻、王国国家保安局および中央軍事司令部は、王都の近郊に存在するあの第一地下迷宮において、人類の知力を遥かに超え去った神話級の異常事態(時空のバグ)が確認されたとして――王都全域に対し、最高警戒レベルにあたる 「特級・国家異常事態」 を公式に宣言いたしました』
シャルロット:「……国家、異常、事態……?」
シャルロットが、信じられない世界の終わりでも見るかのようにその琥珀(こはく)色の瞳を大きく開き、呆然(ぼうぜん)と呟(つぶや)いた。
私はタオルで髪を拭く手を止めて無表情(ポーカーフェイス)のまま、黙ってそのニュースが垂れ流す環境データ(報道ログ)を正確に網膜のハードディスクへ記録していった。
 『現在、当該迷宮の浅い第二層には、本来なら暗黒の深層に生息するはずの凶悪な上位魔物たちが、何者かに対する集団ヒステリー(パニック)を起こして地上へ向かって大量に逃走・流入している事象が確認されており――かつて王都を半壊させた、あの大規模なスタンピード(大暴走)の発生確率が極めて高いと見られています』
『さらに、これに付随して……地下第五層において時空の絶対的守護者として君臨していた、あの特級指定魔獣《大地の番人》の生命パラメータ(消息)が、現世の座標から完全に途絶えていることも判明いたしました』
エルライト:「……ッ、何、だと……!?」
エルライト教授の顔色が、その最悪のニュースを一文字読み解いた瞬間、一瞬にして完全全損(土気色)へと一変した。
新聞を握り締めていた彼の老練な両手が、ワナワナと小刻みに、不気味に震え出し――そして、恐怖のあまりゆっくりと駆動を止めた。
『現地へ突入した王宮直属の特務捜査隊による決死の報告によりますと、第五層の内部では、空間の三次元構造そのものを巨大なスプーンで抉(えぐ)り取るような、現世の多次元物理法則を完全に無視した 「超特大の魔法行使の痕跡」 が各所で確認されており……。 現在、王国最高位に君臨する宮廷特級魔導士たちを総動員した、多重防護結界の構築と、決死の現地追跡調査が超高速で進められております――』
ルイズ:「…………」
私は、不吉な真紅の文字が明滅を繰り返す画面を見つめたまま、不思議そうに白磁の首をコテンと可愛らしく横に傾げてみせた。
ルイズ:「……おかしなバグ(怪奇現象)ですね。 地下第五層、誰かのせいで物理的に壊れちゃったのですか?」
シャルロット:「ええっ!?」
私のそのあまりにも他人事のような一言に、シャルロットがソファの上で弾かれたように勢いよく振り返った。
ルイズ:「いや、待ちなさい、シャルロットさん」
私は、少しだけ自らの脳内インベントリの過去の行動履歴(メモリー)を冷静にスキャンし、検索した。
ルイズ:「……どう考えても、私の仕業(バグ)ではありませんよね? 私は昨日、あの奈落の底において、お買い物の予算を削減するために不要になった伸縮性触媒(おパンツ)を、マージン削減のためにたったの一枚パージして等価交換しただけですし。 ……これは、私の後にどこの馬の骨とも分からない凶悪な他国のスパイが不法侵入して、お国の最高設備を乱暴に破壊したと推測するのが、科学的に最も合理的(自然)ですわ」
トト:「――絶対にお前(自分)の仕業やろがいッッッ!!!」
トトの、もはや大福餅の身体が裂け破れんばかりの凄まじい魂の叫びツッコミが、密閉された地下研究室の空間に爆音で響き渡った。
トト:「そのキャスターのお姉ちゃんがな、白目剥きながら怯(おび)えて言うとる『空間を原子レベルで抉り取るような、現世の物理法則を無視した神話級の魔法行使の痕跡』っちゅうのはな! 天地が引っくり返っても、間違いなく昨日自分が一万二千クローネのマージンをケチるために、お嬢ちゃんたちの目の前で放った、あの最悪の『おパンツ水蒸気爆発』の残り香のことやろが、この全裸バーサーカーーーッ!!」
マリアンヌ:「……で、でも、ルイズさん。 あの神話の階層主(ボス)の部屋そのものが原子レベルで大破してしまったということは、もうあの地下迷宮(ダンジョン)はシステム的に使えないということですよね……?」
マリアンヌが、お揃いのぶかぶかTシャツの襟元を震わせながら不審そうに尋ねた。
ルイズ:「……まぁ、そうね。 王国政府が最高魔導権限において即時完全封鎖を執行したのですから、法的な手続きとしてはそういう不可避の帰結になりますわね」
ジュリエット:「じゃあ、わたくしたちが先ほど湯船のなかで一コンマ秒で決定した、明日の朝一番からの神聖なる実証実験(ピクニック)は一体どうなってしまいますの……?」
シャルロット:「…………」
シャルロットが、一人の乙女として痛ましげに重々しく黙り込んだ。
 執務机のエルライト教授も、あまりの国家滅亡レベルの戦慄(せんりつ)のログを前にして完全に言語機能を喪失し、借りてきた猫のように言葉を失っている。
そんな大人たちのシリアスな沈黙のなかで。
私の肩の上のトトだけが、自らの大福餅の全神経に走る最悪な嫌な予感(アラート)を正確に検知していた。
トト:「ルイズはん……」
ルイズ:「何ですか、トト、私の時空演算の邪魔をしないでください」
トト:「自分……まさか、今脳内のハードディスクで考えてる不穏なデータな」
ルイズ:「ええ。 私たちの、明日からの最も愛おしい神聖なる実証実験場所(金蔓(かねづる))」
私は、人類の終わりを告げられた科学者の如き、一点の曇りもない真顔(ポーカーフェイス)で言い放った。
ルイズ:「――システム的に、丸ごとなくなっちゃったの?」
トト:「――心配の着眼点がどこまでもそこ(銭ゲバ)かいッッッ!!!」
トトが短い前肢を千切れんばかりに激しく振り回し、特別研究室に爆音の叫びを響かせた。
トト:「画面の文字情報を一文字残さずよぉく見ろ、この全裸魔女! 王都全域に最高警戒の第一級・国家異常事態宣言が出とるんやぞ!? ガチの軍事パニックや!」
ルイズ:「ええ、もちろん知っていますよ。 文字データとして100%の解像度で視認しましたからね」
トト:「今さっき! そのすべての元凶がな、昨日自分が一万二千クローネをケチるために放ったおパンツ水蒸気爆発の残り香(バグ)のせいやと知ったばっかりやろが!」
ルイズ:「うん、そうですね。 因果の清算ログとしては理解しました」
トト:「やったらな! もうちょっとこう……普通のうら若き女の子としてな、お国の上層部にお縄(逮捕)になって死刑台へ送られるかもしれないリアルな危機感とか、王都を滅ぼしかけとる世界への凄まじい罪悪感とかのパラメータを脳内に計上せんかい!」
ルイズ:「――大いにありますよ、それなら」
私は、一ミクロンのブレも感情の揺らぎもない静かな声で即座に断言した。
ルイズ:「明日、私のプライベート研究室を建設するための換金(マルチ衣装ローテーション実験)が、システム的に執行できないという絶望的な危機感がね」
トト:「――それ、危機感のベクトルがお国の大人の認識と完全にバグ起こして全損しとるわ、ボケ!!」
シャルロットが、その私たちの不毛なドケチ議論を前に、自らの美貌を白く細い両手で完全に覆い隠し、深く深くソファの上で頭を抱え込んだ。
シャルロット:「ですが……ルイズさんのその銭ゲバな言い分はさておき、確かに、地下第五層はおろか迷宮全域が正規軍と騎士団の結界によって物理的に封鎖されるのであれば――わたくしたちの明日の実証実験は、システム的に完全中止せざるを得ませんわね」
ルイズ:「……」
私は、これまでにないほど深刻な科学者の顔をして、一人深く考え込んだ。
 実験の維持。 最先端魔導の研究。
そこから不法にむしり取る予定だった、各種特級ドロップ素材(私の莫大なる研究費)。
そして、明日からの私たちのサバイバルにおける、最も最低限の合理的なカロリー摂取(日々の食費)。
さらに――教授の胃薬をマッハで消費させながら構築する、次なる研究のための基盤資金のマスターデータ。
私の天才的な脳内家計簿(シミュレーター)が、超高速の演算リソースを全稼働させ、明日からのタイムラインに『壊滅的な大赤字の不景気(破産)』という、無慈悲な未来の数式を次々と弾き出し始めていたのである。
ルイズ:「……これは、極めて深刻な確率論的バグ(死活問題)だわ」
シャルロット:「でしょう? 王都全域が特級警戒のシステムでロックされているのですから」
ルイズ:「私の偉大なる魔導研究(お買い物)のタイムラインが、丸一日完全停止する」
シャルロット:「ええ、そうですわね。 不条理ですけれど」
ルイズ:「それによって、次なる研究費(キャッシュ)の回収プロセスが、コンマ数秒ではなく、丸二十四時間も不当に遅延する」
シャルロット:「……ええ、まぁ、会計学的な計算としては」
ルイズ:「そして何よりも致命的なことに――明日、私の胃袋に投入されるはずだった食費の予算(もやし増量分)が、システム的に大幅削減されるわ」
シャルロット:「――ちょっとルイズさん、あなたそんな極限状態のなかで、明日の一食分のカロリーの予算までそこまで精密に脳内計算(シミュレーション)を叩き出していますの!?」
ルイズ:「当たり前よ、一番の重要パラメータ(生命線)よ」
私は一切の冗談のノイズを交えない、静かな真顔(ポーカーフェイス)で言い放った。
ルイズ:「食費(カロリーの摂取)というのはね、私のこの偉大なる多次元時空魔導研究を健全に継続・運用するための――最も基礎的かつ、最も減衰させてはならない、システムへの初期投資(アセット)なのだから」
シャルロット:「……言っている数理的理屈だけを横で聞いていると、ものすごく高尚で、歴史に名を残すレベルの気高き天才学者に見えるのですけれどね……」
シャルロットが、お揃いのぶかぶかTシャツの襟元を抑えながら、心底呆(あき)れ果てたような何とも言えない微妙な顔をのぞかせる。
私の肩の上で、トトは温かい干しイカの繊維を小さな奥歯で乱暴に噛みちぎりながら、ボソリと呆れた声を上書きした。
 トト:「要約するとな、ルイズはん。 自分はただ単に、明日のお腹がグーグー減るんが経済的に嫌なだけやろ、ボケ」
ルイズ:「――そうよ、百分率でその通りよ」
トト:「――そこは一ミクロンも飾らずに素直に全面承認(マッド)で認めるんかい!!」
トトのツッコミの衝撃が、再び地下隠密研究室の空間を揺るがした。
――まさに、そのときであった。
ソファの上で深く頭を抱えていたシャルロットが、ふと、自らの名門としての過去の記憶ログ(データ)を思い出したかのように、ハッと美しい顔を跳ね上げたのだ。
シャルロット:「……そういえば、ルイズさん。 この第一迷宮が軍事封鎖されたとしても、別の時空座標(迷宮)であれば――」
ルイズ:「?」
シャルロット:「ここから少し物理的距離の離れた別の天然迷宮であるならば、未だ正規軍や保安局の封鎖結界の網も及んでおらず、明日でも普通に、私たちの私物(実験場)として使えるかもしれませんわ!」
私の、一切の感情を排していたはずの透明な琥珀(こはく)色の瞳のレーダーが、スッと、肉食獣の如き鋭さでシャルロットの美しい横顔を完全ロックオン(捕捉)した。
ルイズ:「……別の、地下迷宮、ですか?」
シャルロット:「ええ、そうですわ」
ルイズ:「そのダンジョンの座標は、この王立魔法大学からアクセスしやすいほどに近いの?」
シャルロット:「王都の中央区画の周辺には、長年の地殻変動によって自然発生した未踏の亜種迷宮が、いくつか環境データとして存在していますからね」
ルイズ:「……」
シャルロット:「その、手付かずの天然迷宮のなかの、とある一つが――」
シャルロットは、ぶかぶかTシャツの胸元を抑え、名門公爵家の令嬢らしく、少しだけ誇らしげにその白磁の胸を張ってみせた。
シャルロット:「――わたくしのヴァーミリオン公爵家が所有する、プライベートな豪華別邸の、すぐ目と鼻の先の敷地内(すぐ近く)にありますの」
その一言が放たれた瞬間、私の両目の色(銭ゲバの輝き)が、原子レベルで一瞬にして変わった。
ルイズ:「……ヴァーミリオン家の、別邸」
シャルロット:「え、ええ、そうですけれど」
ルイズ:「その敷地のすぐ近くに、手付かずの迷宮のソースコードがある」
シャルロット:「ええ、文字通り私有地のようなものですわね」
ルイズ:「周囲のギャラリー(役人の目)を一切気にすることなく、心置きなく私の多次元術式(おパンツパージ一括引き落とし)の実験を最大出力で執行できる環境ですね?」
シャルロット:「恐らくは。 王都から離れたのどかな田舎(地方)ですので、不必要な人間の人口密度も極めて少ないですし」
ルイズ:「……一番重要な質問です。 別邸での、滞在中の私の『食事(お肉)』のパラメータは?」
シャルロット:「……え? 食事、ですか? 今それ、ハッキングの最優先タスクとして確認しますの?」
ルイズ:「出るの? 出ないの? そこにあるの?」
シャルロット:「もちろんですわ! ヴァーミリオン家の別邸ですのよ、お抱えの専属の最高級一流シェフが常駐しておりますもの」
ルイズ:「――それは、私に対してシステム的に完全なる『無料(タダ)』で支給(お布施)されるの?」
シャルロット:「何をおっしゃいますの、わたくしの愛するお屋敷(マイホーム)ですのよ? 大切なお友達のあなたから、宿泊代やディナーの料金など、我がヴァーミリオン家の血に流れる矜持(ノブレス・オブリージュ)が天地が裂けても取るわけがありませんわ!」
ルイズ:「――現時刻をもって、明日の遠征先(デスティネーション)を変更して行くわ」
シャルロット:「――決断の方程式が早すぎますわよ、即決ですの!?」
シャルロットがソファの上でその琥珀(こはく)色の瞳を丸くした。
シャルロット:「まだその別邸の天然迷宮の魔力波長(危険度)が、私たちの現在の装備で安全かどうかも、ログを一切確認(スキャン)していませんわよ!?」
ルイズ:「そんな曖昧な事前データなど現地へ行って直接ハッキング確認すればいいわ。 科学(ドケチ)の進歩は、常に果敢な実戦あるのみよ」
シャルロット:「そういう戦闘防衛上の問題では天地が引っくり返ってもありませんけれど……っ」
ルイズ:「最新の魔導研究(換金)ができる」
シャルロット:「……ええ、まぁ」
ルイズ:「一流シェフの最上の食事(タダ飯)が無制限に支給される」
シャルロット:「……はい、お約束しましたわ」
ルイズ:「そして、宿泊拠点からダンジョンの物理的距離が極めて近い」
シャルロット:「……目と鼻の先ですわね」
私は、ぶかぶかTシャツの袖から覗(のぞ)く白く細い指を一本ずつパシッ、パシッと折りながら、淡々と因果の条件を数え上げた。
 ルイズ:「私の脳内ハードディスクが求める、明日の完璧な生存条件は計三つ。 ……お見事ね、シャルロットさん。 あなたの実家のアセットは私の要求仕様を百分率で全部美しく満たしているわ。 ドケチの資産管理者から見て、これ以上ない完璧なパラダイス(桃源郷)ね」
シャルロット:「……本当に、この天才は合理性という名の数式が、ただ服を着て歩いているようですわね……」
シャルロットは、その私の徹底した実利主義(銭ゲバ)のパラメータの前に、心底呆(あき)れ果てた深いため息を優しくついた。
――しかし。 その美しい名門令嬢の口元には、ほんの少しだけ、自らの大切な 「本当のお友達」 を初めて自分の大好きなプライベート別荘へ招待することへの、一人のうら若き乙女としての純粋で嬉しい笑みが、湯上がりの頬に小さく浮かんでいたのだ。
シャルロット:「――では、すべての条件が整いましたわね」
シャルロットはお揃いのぶかぶかTシャツの生足を滑らせ、ソファの上から令嬢らしく優雅に立ち上がってみせた。
シャルロット:「明日の朝一番、私たちはこの不穏な王都の警戒網を離れて、わたくしの愛する広大な別邸へと参りましょう!」
ルイズ:「システム承認。 決定ね、シャルロットさん」
シャルロット:「ええ、ホールドですわ!」
カメ吉:「キュィィィッ!!(ワイのニートの時代が、ついに本格開国(バースト)したでーーーっ!!)」
私の男物Tシャツの裾の陰から、床のカメ吉が、今日一番の濁りのない嬉しそうな鳴き声を響かせた。
カメ吉:(――トトの兄貴、本当を言うとな、ワイは新しい未知の迷宮に潜ってカロリーを消費して労働させられるのは、ヒモのポリシーとして絶対に嫌やねん、ホンマに不条理やわ。 ……しゃあないなと思うとったんや)
カメ吉:(――でもな! その赤髪のお嬢ちゃんの実家が誇る最高級の別荘での、毎日タダで食える一流シェフの豪華な飯は、ニートの胃袋的に楽しみで限界突破や!)
カメ吉:(――そして何よりも! ひょっとしたら、あの公爵家の別邸やで……? エルライトのこのお風呂すら凌駕(りょうが)する、最高級の『美肌の露天温泉』が私有地の中に完備されている可能性……いや、そんなもん100%の確率で絶対にあるわ!)
カメ吉:(――これはもうな、一人の偉大なる特級居候(プロニート)として、ルイズはんの足元に爪を立ててでも、死に物狂いでついて行くしかないで、ホンマに最高のパラダイスやわぁ……っ)
カメ吉:「キュィィ~~~~~~~~~……(冷や汗が全部極楽の温泉に変わるわぁ……♪)」
カメ吉が、短い緑の尻尾をフリフリと小刻みに揺らし、最高にご機嫌な音波の鳴き声を上げた。
トト:「……おい、新入り」
私の肩の上から、トトが冷徹なジト目をその床の亀へと向けた。
トト:「自分、そのつぶらな瞳の奥のデータな、完全に公費の露天温泉とタダ飯の一流フルコース(たかり目的)しか脳内ハードディスクに計上されとらんのが、ワイのCEOレーダーに丸見えやぞ」
カメ吉:「キュィィッ!?(な、何をおっしゃるのですか、トトの兄貴! ワイは、この全裸魔女の最先端の魔導研究と、お国のお弁当ハックの未来を応援したいだけの、極めて純粋で清らかな最高財務責任者(CFO)やで!)」
カメ吉は必死に否定するように緑の短い首をジタバタと横に振るが、そのつぶらな瞳のパラメータは、明日のタダ飯の欲望によって爛々(らんらん)と最高純度で輝き狂っていたのだった。
シャルロットはトトとカメ吉の不毛なマスコット打算の掛け合いを聞いて、ふと、自らの領地(実家)における最も重要なアピールポイント(バグ)を思い出したかのように、白く細い両手をポンと美しく打ち鳴らした。
 シャルロット:「――ああ、そうですわ! 極めて重要で素晴らしいアセットの存在を忘れていましたわ!」
ルイズ:「何ですか、シャルロットさん。 まだ何か私に対する経済的支援(タダ飯)の追加ログでもあるのですか?」
シャルロット:「ええ、せっかくわたくしのヴァーミリオン家の別邸へとわざわざ遠征(ピクニック)にいらっしゃるのですから――」
シャルロットは、その濡れた湯上がりの美貌に極上の聖女の如き微笑みを浮かべてみせた。
シャルロット:「――我が公爵家が誇る、あの国宝級の天然『最高級保養温泉』にも、明日の攻略後は皆さまで心ゆくまでゆっくりと入っていきましょう!」
その甘美な文字列が空間にドロップされた瞬間、私の多次元時空演算(すべての動き)が、物理的な質量を伴ってピタリと完全停止(フリーズ)した。
ルイズ:「……おん、せん……」
シャルロット:「ええ、そうですわ」
ルイズ:「……お国の予算ではなく、あなたの公爵家がホールドしている、最高級の『保養温泉』、ですか?」
シャルロット:「はい、温泉ですわよ」
ルイズ:「その泉質の効能パラメータと、魔導による設備スペックは、具体的にどれほどの市場価値(クオリティ)なのですか?」
シャルロット:「物理的な規模や横領された予算の額ベースで言えば、このエルライト教授の超VIP風呂の変態的な多機能さには流石(さすが)に一歩負けるとは思いますけれど――」
シャルロットはお揃いのぶかぶかTシャツの胸元を優しく整え、名門令嬢のプライドをかけて、少しだけその白磁の胸を誇らしげに張ってみせた。
シャルロット:「――うちの別邸の天然保養温泉も、浸かるだけでうら若き乙女のお肌(素肌)がツルツルのピカピカに若返る、文句なしに最高のラグジュアリースペースですわよ!」
ルイズ:「…………」
私の琥珀(こはく)色の瞳のグラフィックが、その瞬間――市場のオークションで人類未踏の『特級黄金クローネ金貨の山』を目の前にダイレクトドロップされたときのように、キラキラと、いや、ギラギラと邪悪に輝き狂った。
ルイズ:「――コンマゼロ秒でシステム承認。 天地が引っくり返っても、絶対の絶対の絶対に、明日その実家(温泉)へ行くわ」
トト:「――心配のパラメータを察して、食い気味に120パーセントの出力で被せてきたな、自分!!」
トトが床の上で、呆れ果てた干しイカの繊維を振り回して叫んだ。
ルイズ:「明日は、次世代時空魔法のローテーション衣装研究」
シャルロット:「はい、決定です」
ルイズ:「軍の封鎖の及んでいない、新たに見つかった天然迷宮のハッキング」
シャルロット:「ええ、問題ありませんわ」
ルイズ:「お肌がツルツルになる、実家自慢の最高のラグジュアリー保養温泉」
シャルロット:「もちろんですわ、特急で湯加減を整えさせますわ」
ルイズ:「そして、お抱えの一流シェフがタダでお布施してくれる、美味しいお肉のフルコース食事」
シャルロット:「たっぷりと胃袋の限界まで用意させますわ、お友達のよしみですもの」
ルイズ:「……システムの因果律の整合性として、これ以上ないほど完璧な『最強の黒字ロードマップ(未来予想図)』だわ」
私は、中指の銀指輪の演算コアを愛おしそうに撫でさすりながら、これまでの人生で一番、脳内家計簿(シミュレーター)が満ち足りたかのように、深く、深く顎を引いて満足げに頷(うなず)いてみせた。
ルイズ:「私たちの明日の遠征先(ピクニック)の全予定、一クローネの損失リスクもなく、完璧かつ美しく決まったわね、シャルロットさん」
トト:「――作戦の予定調和が決まるのが早すぎるやろ……、自分。 画面を見ろ、国家の、人類の一大事の最高エラーアラートやぞ……」
使い魔のトトが、この世のすべての道徳心と因果の規律を諦めたかのような遠い目をして、呆(あき)れ果てた声でボソッと呟(つぶや)く。
その不毛なドケチ議論の横で。
 カメ吉:「キュィィ~~~~~~~~~……♪(公費の次はお嬢ちゃんの実家のプライベート保養温泉、アセットの運用効率が良すぎるわぁ……)」
新入りのカメ吉が、その小さな瞳のなかに恍惚(こうこつ)の絶対的パラメータを灯して、最高にご機嫌に鳴いた。
カメ吉:(――トトの兄貴の言う通り、明日のあの手付かずの新しい天然迷宮とやらはな、ワイの野生の第六感でも相変わらず最悪な全裸パージの嫌な予感しか検知せえへん言うとるんやわ……)
カメ吉:(――でもな、それとこれとは資産管理の別問題や。 保養温泉やぞ、あのお嬢ちゃんの実家が誇る最高級の露天風呂や。 こっちの生存環境は文句なしに最高としか言いようがないな、うん)
カメ吉:(――現世で一ミクロンも汗を流して働かなくたって、名門公爵家の最高級の温泉にタダで毎日入れて、一流シェフが作った豪華な飯を好きなだけ貪(むさぼ)れる人生。 ……これこそが、資本主義における真の勝ち組のマスターデータやで、ホンマに)
カメ吉:(――これこそが……、かつて太古の神話の時代において、あの世界を恐怖のどん底に叩き落としたという伝説の『深淵甲皇カメジルド』が、幾星霜の年月をかけて長年求め続けていた――真の絶対的理想郷(アヴァロン)そのものやないか……っ!)
この多次元の閉鎖空間にいる、誰一人として、未だ知る由もなかった。
その足元でだらしなく短い手足をジタバタと悶絶させている、ただの怠惰で卑しい小さな緑の亀が――かつて現世の歴史のマスターデータを完膚なきまでに震撼(しんかん)させた、天災級の神話の超越存在そのものであることなど。
そして――。
他ならぬ王都の最高アナリストたち(ジョーカーたち)も、誰一人として、天地が引っくり返っても気付いてはいなかった。
今、まさにこのルイズたちがスルメを貪(むさぼ)っているのんきな瞬間にも。
王都の中央区画では、国家保安局が第一地下迷宮のすべての境界線(ゲート)を軍事的に完全封鎖し。
王国騎士団の最高精鋭たちが、夜を徹して緊急の防衛召集に応じ。
 最高位に君臨する宮廷特級魔導士たちが、自らの殉職すらも覚悟した、決死の姿勢で、あの原子破壊された地下第五層への『多重防護防魔結界』の構築に向けて大慌てでプロトコルの準備を整え。
王都最大の大神殿の最奥では、未知なる神話級の絶対的災厄から可哀想な人類の命を守るための、悲痛で涙に濡れた祈りが、聖歌とともに夜通し神聖に捧げ続けられていることを。
世界は、今まさに、その実体の見えない未知なるハッキング脅威(バグ)のプレッシャーに、ガタガタと震え上がっていたのだ。
地下第五層で、一体全体どのような不条理な怪奇現象が起きたのか。
一体いかなる異次元の化け物が、あの強大無比なる世界の守護者《大地の番人》を、空間の座標ごと綺麗さっぱり消滅(パージ)させたのか。
そして――その世界を滅ぼしかねない恐るべき神話の超越者は、現時刻において、一体どこの暗黒街の地下アジトに牙を研いで潜んでいるのか。
王国の歴史、ひいては人類の魔導史に永遠に不名誉な傷として刻まれるかもしれない、未曾有(みぞう)の特級国家危機のタイムライン。
――だが。 その一方で。
 ルイズ:「……フフ、そうと決まれば話が早いわね。 明日は、名門の保養温泉と、お抱えシェフが作る豪華なタダ飯(生存リソース)の回収ね」
首席魔女・ルイズは、タオルで髪を拭き終えた白磁の顔に、最高に幸せそうな、今日一番の濁りのない営業スマイルを浮かべて満足げにポツリと呟いた。
カメ吉:「キュィィ~~~~~~~~~~~♪(お国のお弁当の次は、公爵家の最高級ディナーの増資やでぇ~~~♪)」
加芽記智先生こと深淵甲皇カメジルドも、明日からの働きたくない極上の居候(ニート)生活を脳内で夢見て、ご機嫌に短い緑の尻尾をフリフリと揺らして鳴いた。
トト:「……ほんま、この地下研究室の因果の座標だけな、世界の時間軸から切り離されたみたいに、狂ったように平和やなぁ、不条理やわぁ……」
トトが、食べかけの温かい干しイカの繊維を奥歯で噛みちぎりながら、哀愁に満ちたつぶらな赤い瞳を、エルライト教授の地下の冷たい天井(夜空)に向けてポツリと呟いた。
こうして――。
世界の頭脳が底知れぬ未知の恐怖と、防魔結界による絶望にブルブルと震え上がっている、まさにその完璧なすれ違いの裏側で。
地下第五層のすべてを、ただの昼食代(タダ飯)のために灰燼(かいじん)に帰した絶対の元凶たる《聖裸の魔女》一行の次なる遠征目的地は――。
お国の上層部の封鎖結界の及んでいない、新たな手付かずの天然迷宮(おパンツ実証実験場)と。
そして――うら若き乙女たちの柔肌をツルツルのピカピカに若返らせる、最高級公爵家別邸の、あの極上の天然保養温泉(お布施ルート)へと、極めて、極めて平和的にシステム決定(ホールド)したのである。
 ―――(第08章『異常なダンジョン』・本章完全完結)―――

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